[抜書き]『地の果ての獄(上)』


『地の果ての獄(上)』
山田風太郎・ちくま文庫
山田風太郎明治小説集五
二〇〇二年三月五日 第二刷発行
    目次
    石狩・明治十九年秋
    樺戸集治監
    囚徒行伝
    苦役の曠野で
    五寸釘の仁義
    煉獄脱管届
    邏卒報告書
    凍姦刑
    西郷を襲った男
    雪飛脚
    関連年表


    石狩・明治十九年秋

     「ところで、それならあなたは、横浜からこの船に囚人たちが乗り込んだのを御存知でしょう?
     と、原は訊(き)いた。
     四郎助はうなずいた。
     知ってるどころではない。 横浜から乗せられた二十人近い赤い獄衣の一団が、そのまま船倉の一つに閉じ込められるのまで見ていた。
    (《地の果ての獄(上)》P.12〜13)


     どう見ても、石川島監獄にぶち込まれるような人柄には見えない。
     「三年ほど前、福島事件というものがありましたろう。 あれに巻き込まれましてね
     福島事件というのは、福島県令三島通庸(みちつね)の弾圧に抵抗して暴動を起こした福島自由党河野広中らが、捕縛され、東京に護送され、石川島監獄に送り込まれた事件だ。 その三島県令が鹿児島県人だということもあって、事件は四郎助も知っているが。−−
     「あんた。……自由党でごわすか?
     「いや、そうじゃないが、当時私は東京で本屋をひらいておりましてね。 少々オッチョコチョイのところがありまして、その福島事件でつかまった六人の自由党幹部を、派手な錦絵にして売り出したのがひっかかって、石川島へ放り込まれたというわけです
     原胤昭は白い歯を見せて笑った。
    (《地の果ての獄(上)》P.14)


     「有馬さん、この汽車は何という名か知ってますか
     四郎助の隣りに坐るやいなや、原の第一声がこれであった。
     「汽車に名があるのでごわすか
     「義経号というんだそうです。 義経が奥州衣川(ころもがわ)で死なないで、蝦夷まで逃げたという伝説がありますな。 それでこの名をつけたものでしょうが、ほかにも、静(しずか)号、弁慶号ってえのがあるそうで、文明開化の汽車に、これはまた愉快な名をつけたものですな
     ラッパのような煙突のある機関車には四十五センチもある真鍮(しんちゅう)の鐘がとりつけてあって、汽車はカーンカーンとそれを鳴らしながら走っていた。 そのスピードはというと−−このころ小樽から札幌までの三十四キロを走るのに、途中の各駅の停車時間もふくめてだが、二時間半かかったという。
    (《地の果ての獄(上)》P.29)


     四郎助は、神戸で汽車を見ている。東京−横浜につづいて、大阪−神戸、そして、四年ばかり前、日本で三番目についたのがこの小樽から札幌を経て幌内(ほろない)に至る鉄道だという知識はあらかじめ得て来たが、汽車にそんな名がつけられているという話までは知らなかった。
    (《地の果ての獄(上)》P.29)


     「とくに、あの騒ぎをひき起こした張本人と見える二人は捨ておきがたい、と思いもすが
     「いかにも、あれだけの土性骨を持ったやつは、昔の侍の中にも、ちょっとなかったでしょうな
     故意か、かんちがいか、原教誨師は四郎助の見解の筋をそらした。
    (《地の果ての獄(上)》P.31)


     「一人は、五寸釘の寅吉といって−−ああ、小柄だが、金剛力士みたいに精悍(せいかん)なやつのほうです−−強盗にはいって、五寸釘を打った板を踏みぬいたが、それを足にくっつけたまま、追跡隊から二里半も逃走したというやつだそうで
     先刻小樽警察署に同行したときに得た知識か、あるいはその前に、例の船倉にみずからはいったときに聞いた事実だろう。
    (《地の果ての獄(上)》P.31)


     「もう一人のヒョロリとしたほうは、旧幕時代、伝馬町のおんな牢で生まれたから牢屋小僧という異名を持っておる。 足鎖を切ったのはあの男で、どうやらヤスリをのみこんで船に乗って、糞の中からとり出して、三日三晩かかって鎖を切ったものらしい
     「ほう?
     「そもそもあの男は、手をかえ品をかえ、いままで何度破牢したか数え切れない牢ぬけの名人だというが、むろん明治政府になってからの話でしょう、伝馬町の牢は、そうやすやすと破牢なんかさせやしなかったが。−−
     「あんた
     四郎助は、最大の疑問事を口にした。
     「あんた……もと、与力をしていなされたと?
    (《地の果ての獄(上)》P.31)


     「私が朱筆で圏点(けんてん)を打った個所だけでもよく心にとめて下さい
     四郎助が受けとった文書には、表に、
     「北海道視察復命書
     太政官大書記官 金子堅太郎(けんたろう)。
     明治十八年十月十日
     と、あった。
     彼はひらい。 朱線をひいた見出しが眼に飛び込んだ。
     「集治監ノ囚人ヲ道路開鑿(かいさく)ノ事業ニ使役スルコト
     つづいて、圏点を打った文章には、こうあった。
     「……彼等ハモトヨリ暴戻(ぼうれい)ノ悪徒ナレバ、ソノ荷役ニ耐エズ斃死(へいし)スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ残シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ、マタ今日ノゴトク重罪犯人多クシテ、イタズラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテコレヲ必要ノ工事ニ服セシメ、モシコレニ耐エズ斃(たお)レ死シテソノ人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニオイテ、万止ムヲ得ザル政略ナリ。……
     「−−明治政府ですなあ!
     幸田が、嘆声を発した。 むろん、向うの書類を読んでのことである。
     そして彼は、四郎助にそれをさし出した。 四郎助も代りに自分の見た文書を渡した。
    (《地の果ての獄(上)》P.37〜38)


     第二の書類の表には、
     「山県内務卿訓示
     明治十九年八月四日
     第三十九号
     と、あった。
     そして、圏点を打った文章は、
     「……ソモソモ監獄ノ目的ハ懲戒ニアリ。 懲戒駆役耐エガタキノ労苦ヲ与エ、罪囚ヲシテ囚獄ノ恐ルベキヲ知リ、再ビ罪ヲ犯スノ悪念ヲ断(た)タシムルモノ、コレ監獄本分ノ主義ナリトス。……自今司獄官タルモノ、ヨロシク懲戒主義ニモトヅキ、監獄ノ効果ヲ空(むな)シクセシムルナキヲ努メムベシ。……
     「一将功を成さんとして、万骨を枯らす、ですか
     と、幸田がつぶやいた。
     「ごまめの歯ぎしり、というか、蟷螂(とうろう)の斧(おの)、というか、それにもあたらんだろうが、これを見て、いまの政府の禄をはむのがいよいよイヤになった
    (《地の果ての獄(上)》P.38〜39)


     「有馬さん、あなたはどうですか
     「相当なもんじゃ、と思いもすが。……」
     顔をあげて、重い口調で、しかし正直に四郎助はいった。
     「じゃが、根本においては、べつに間違うとる、とも考えもさんが。……」
     「そうですか
     と、原は不快な顔も見せずにいった。こういう考え方をする者がいまの世の中の大半だ、ということを知りつくしている人間の表情であったろうが、なぜか四郎助は、逆にちょっと不安になった。
    (《地の果ての獄(上)》P.39)


     彼はその書類を返しながら、いまの自分のえたいの知れぬ動揺をねじ伏せ、こんな文章に眼をむくのは、やはりこの二人は東京人だな、と、一種の軽蔑を感じた。
    (《地の果ての獄(上)》P.39)


     「これであなたが北海道へ来られたわけはわかりましたが、これからどうなさいます?
     と、幸田が訊(き)いた。 原は答えた。
     「まず一応、札幌にいって、出来たら岩村長官に陳情して了解を求めておいたほうが好都合だろう、と思っておりますが
     「ああ、この春、初代北海道庁長官になった岩村通俊(みちとし)ですな
     幸田は呼び捨てにして、しばらく宙を見ていたが、
     「監獄教誨のことなど陳情して、かえって薮蛇になりはしませんか。 あれは、山県、金子と同類の−−それにまさるともおとらぬ鬼官僚ですぞ
     と、いった。
     「出身地の土佐でも、岩村鬼兄弟と呼んでいるそうで−−その長兄です
    (《地の果ての獄(上)》P.39〜40)


     「こう北の果てに追い出されて、一人で日本を見ていますと、生意気をいうようですが、かえって東京の渦の中にいるより、人間の運命というものが、一種俯瞰的によくみられるような気がします。 しかも、過現未にわたってです
     「いや、あなたは、東京にいた−−少年時代から、世の中をそんな眼で見ていましたよ
    (《地の果ての獄(上)》P.40)


     「そうでしたかしらん?  とにかく、まあ聞いて下さい。 こんど北海道にはじめて道庁というものが置かれて、その初代長官となった岩村通俊、これはもともとが北海道に縁のない人間じゃない。 明治初年、開拓判官として来道しておりますが、当時札幌は、前任の判官島義勇(しまよしたけ)が鍬(くわ)を下ろして地割りした豪壮きわまる大設計のもとに町並みが作られつつあったとはいえ、何といってもあのころのことです、そのほとんど茅(かや)ぶき屋根だった。 だから、ちょっとした小火(ぼや)が起ると大火となる怖れがある。 そこで岩村は、せめて柾(まさ)ぶき屋根にせよと命じた。 命じたが、なかなかこれが行われない。 そこで岩村は業(ごう)を煮やして、みずから出動して、それまで出来ていた札幌の町をいっきょに焼き払った。 爾来、札幌の市民は、岩村の命(めい)のままに従ったという。 これを、いまに岩村判官の御用火事と伝えます。……それほど思い切ったことをやる男です
     「ほう
     「その剛腹(ごうふく)さが買われて、彼はやがて、当時難治県の一つといわれた佐賀県の県令となった。−−
    (《地の果ての獄(上)》P.40〜41)


     「そうそう思い出した
     と、原胤昭は膝をたたいた。
     「維新の北越戦争のとき、長岡藩に河井継之助(かわいつぐのすけ)という傑物があった。 これが官軍に談判に来て、会津を説得するからしばらく待ってくれと、理をつくして切願したのに対し、相手になったのが土佐の若い参謀で、これが頭から高飛車にはねつけたために、ついに北越会津ぐるみ、死物狂いの抗戦をひき起こすことになった。−−その土佐の参謀が、たしか岩村軍監とか聞いたおぼえがありますが、その人物ですか
     「いや、それは、通俊とは五つちがいの弟高俊(たかとし)のほうです。 もっとも通俊のほうも、やはり官軍の軍監をやっていましたが
     ただちに幸田は訂正した。
    (《地の果ての獄(上)》P.41)


     「岩村は、三兄弟でしたね。 その間にもう一人、他家に養子に出されたから姓はちがうが、林有造という人物がいて、下にゆくほど気性が烈しいという。−−この林有造はヒョンなことで兄や弟と異なって、板垣の下で土佐自由党の大立者となりました。 ただし道こそちがえ、やはり兄や弟同様、一種の出世主義者じゃないか、と僕は見ていますが−−それはともかく、同じ官僚の道を選んだ通俊、高俊の兄弟同士の出世争いこそ物凄じい
     いまの長官一族の話には相違ないが、それに詳しいのに、四郎助はいささか呆れた。 幸田の眼には、自分の話に酔ったような光さえ浮かんでいる。 同伴していた女など、どこへやら忘れはてたようだ。
    (《地の果ての獄(上)》P.41〜42)


     「運命の面白さ、大きくいえば歴史の面白さというのは、例の佐賀の乱における岩村兄弟を思うときひとしおなるものがありましてね、さて、いまいったように岩村通俊佐賀県令になったが、時至って明治七年、佐賀に不穏の動きが起ると、彼は弟の高俊にとって代えられたのですな。 高俊のほうが、佐賀の県令に命じられたのです。これは高俊が、いまの佐賀を鎮圧するのは兄貴じゃだめだ、おれに限ると当時の大久保内務卿に強引に売り込んだという説もあるし、反薩長の江藤新平島義勇を抹殺したい大久保が、むしろ佐賀党を暴発させるために、より荒っぽい高俊を選んだという説もある。双方ともに事実でしょう
     「ふうむ。……
    (《地の果ての獄(上)》P.42)


     「果せるかな、高俊は、佐賀党に火をつけた。−−運命の奇といえるのは、故郷の風雲急なりと見て帰る佐賀の豪傑島義勇と、鎮圧に赴く新県令岩村高俊が、横浜から同じ船に乗っていたことです。 呉越同舟、とはこのことで、そういう事実が現実にあったのだから面白い
    (《地の果ての獄(上)》P.42)


     幸田はつづける。
     「その船中で、高俊は、聞こえよがしに、佐賀人は口だけ達者な臆病者だと悪口して、義勇を憤怒させ、ついに彼をして江藤とともに叛旗をひるがえさせる風の神となった。第二の河井継之助です。 その結果、戦い敗れて島は、江藤とともに斬首されたのですが、その処刑に高俊は検視として立ち合っている。 この島義勇は、さっきもいったように札幌という町の原型を築いた人で、あの碁盤の目のような大道路は大したものだ。 僕は、あれは西洋の都市の真似かと思っていたのですが、そうじゃなくて、発想のもとは京都らしい。 島義勇は、さいはての大地に大京都を建設するつもりだったのですな。 一種の日本的創造者といっていい。−−そのあとを通俊がついだわけで、高俊はいわば兄貴の大先輩を打倒したようなものです
    (《地の果ての獄(上)》P.43)


     「……それで、高俊のほうは、あとどうなりました?
     「それが、それほどの猛烈漢にもかかわらず、意外に出世していない。 むしろその猛烈ぶりがたたったというべきか、今は、やはり難治県として知られた石川県の県令をやっているそうです。 もっとも、それが順当な出世なのかも知れない。 僕なんぞには、そんな高級官僚の階段の具合はよくわからない
    (《地の果ての獄(上)》P.43〜44)


     「兄は、そのとき佐賀県令をやめさせられて。−−
     「とうてい、そのままへこたれているような男じゃない。 二年後勃発(ぼっぱつ)した萩の乱では、山口裁判長となって、叛乱軍二千余人を一週間の取調べで断獄するというあらわざをやってのけています。 その功をもって、西南役中には鹿児島県令に任ぜられ、次がこんどの北海道庁長官です。 抜きつ抜かれつの、兄弟出世争いですな
    (《地の果ての獄(上)》P.44)


     「その出世の道に立ちふさがる者は、何ぴとであっても打ち倒さずにはおかない兄弟で、さればこそ〔いごっそう〕の土佐でも、岩村の鬼兄弟と呼んでいるそうで
    (《地の果ての獄(上)》P.44)


     「ともあれその通俊が、かつて御用火事で焼き払った札幌に、こんどは北海道の王者として帰って来て君臨しているわけで、しかも、いまあなたに見せられたような山県内務卿の凄じい秘命を受けておる。 こういう人物を相手にして……十字屋さん、あなたの仕事には、これは相当の覚悟が必要ですよ
     「いや、私ははじめからこれは気の長い仕事だと考えている
     原胤昭はべつにひるんだ表情でもなく、しずかに答えた。
    (《地の果ての獄(上)》P.44)


     それより。−−
     と、彼はまじまじと幸田を見やってつぶやいた。
     「あなたは、いよいよ電信技師にしておくには惜しい
     「はははは、何になればいいと思いますか
     「何になればいいか、それは私にも見当がつかないが、とにかく北海道で、そんなアイヌの着物を着て、鰊(にしん)くさい芸者と遊ばせておくのはもったいない
     「実はね、十字屋さん、僕は遠からず官命に違反して、この北海道から突貫して東京に帰ろうと計画しているんですよ
     幸田は、依然酔ったような顔色でいった。
     「そして、小説家というやつになってみようか、と考えているのです
     「小説家?
     「ええ、人間の運命をかく小説家に
     −−ときに、幸田露伴、数え年二十歳。

    (《地の果ての獄(上)》P.45)


     札幌から五里ばかり進んで、江別(えべつ)という部落で下車した。 石狩川のほとりであった。
     煙を残して、汽車はなお東へ消えていった。
     その終着駅はさらに八里ばかり奥へはいった幌内という土地で、そこに大炭鉱があり、かつもう一つの空知集治監という監獄があることを四郎助は知っている。日本で三番目の鉄道は、その炭鉱から小樽まで石炭を運び出すためにつくられたのだ。 そして、空知集治監は、囚人をその炭鉱で使うために設けられたものであった
    (《地の果ての獄(上)》P.48)


     樺戸集治監

     益満休之助。−−  −−この名前を御存知の読者は多いだろうが、しかしこの人物が世上に有名になったのは、昭和期にはいって、直木三十五「南国太平記」以来のことではないかと思われる。 それはちょうど益満の片腕となって働いた下総の郷士相楽(さがら)総三が、長谷川伸「相良総三とその同志」や映画「赤毛」によって、はじめて一般に知らされたのと同様である。 維新後、薩摩のいわゆる御用盗事件について知っている世人はむしろ少なくなかったろうが、それでもそのリーダーの名まで承知していた人は少なかったようだ。
    (《地の果ての獄(上)》P.58)


     そのころ四郎助は、もう有馬姓に変っていた。 維新後、士族の名を継(つ)げるのは長男だけで、次男以下は、平民とされることになったので、男子のない士族の家に養子にゆく例が多かった。 ただ戸籍の上からの便法なので、四郎助も有馬平八という人の養子になったが、依然として益満家で暮していたし、自分もむろん益満一族のつもりでいた。
    (《地の果ての獄(上)》P.61)


     彼は、東京の靖国神社に詣でて、そこに祭られている勤王の烈士の名簿を見せてもらったところ、上野のいくさで戦死した益満休之助の名は、たしかに記されていた、と、いった。
    (《地の果ての獄(上)》P.61)


     これだけ広大な獄舎区域に、靄(もや)のように妙な匂いが満ちている。 四郎助は、各監房の中に、それぞれ三つの大桶が置かれているのを見た。
     「一つは、一つは痰唾用、一つは糞小便用じゃ
     と騎西が平然という。
     石狩丸の船倉における囚人の待遇は特別のものでなく、ここが一つの巨大な囚人船であることを四郎助は知った。
     「最初の年にはな、五百人ほど送られて来て、一年のうちに百二十何人が病死したという。 これでもだいぶ衛生的になったんじゃ
     むろん四郎助は、いたるところの作業場で働いている囚人たちを見た。
     作業場は、鍛冶工場煉瓦工場木挽(こびき)小屋竹細工場藁細工場精米所醤油味噌製造所養豚場などがあり、柿色の筒袖、股引という獄衣の囚人たちが働いていた。 看守の監視つきだが、その笑い声、怒号は、まるで野犬収容所みたいに傍若無人であった。
    (《地の果ての獄(上)》P.72〜73)


     「ありゃ、アイヌの人ですか。 何か、妙な名を名乗ったようだが
     「いや、ヒトリとは独(どく)、キューアンとは休みの庵と書くらしい。 独休庵(ひとりきゅうあん)、という日本人にちがいないが。……
     「そういえば、ドクトル・ヘボンの弟子とか何とかいいましたな。 ヘボン先生なら私は知っている。 幕末から横浜居留地に住み、脱疽(だっそ)にかかった役者の沢村田之助を手術したりしたアメリカの大医です。 しかし、その弟子だとは、いつごろの話か?
    (《地の果ての獄(上)》P.86〜87)


     囚徒行伝

     「十日間もいて、はじめて来たこの町の中をゆっくり歩きまわったこともないが……これは、どこかで見た事があるような感じがする
     と、変なことをいい出した。 すぐに彼はまた笑い出した。
     「思い出した。 そりゃ日本の町じゃない。 何かの本の写真で見たアメリカ西部の町の風景でした
     「アメリカ西部?
     いわれても、四郎助には、見当もつかない。
     −−この月形の村は、五年前の明治十四年樺戸集治監が設置されたのちに出来たものだ。監獄がまず生まれて、その後にそれをとり巻いて集落が発生したのである
    (《地の果ての獄(上)》P.92)


     初代典獄の、内務省御用掛権少警視(ごんのしょうけいし)書記官、月形潔(きよし)がはじめて来たときは、ただ大河石狩川とその流域にひろがる昼なお暗い大樹林ばかりの土地であった。 月形という地名は、むろん月形潔から来ており、自分が支配者となった土地に自分の名をつけるとは、いかにも明治らしい野放図さといおうか。
    (《地の果ての獄(上)》P.92)


     それを切りひらいてともかくも作った集治監には、いま一千六百人近い囚人が収容されている。 それに典獄看守長看守獄丁(ごくてい)、雑役夫及びその家族が附随している。 囚人は監禁されているにしろ、とにかくそれだけの人数が生活しているのだ。 そのためにさまざまな商人がやって来、さらにその店や家や倉庫を作るために土方が来る。 で、このころですでにこの集落の人口は、戸籍の上だけでも囚人を除いて千二百人ばかりあったといわれる。 当時の日本では、これは村というより町といったほうがいい。
    (《地の果ての獄(上)》P.92)


     その町の景観だが−−いま原胤昭は、アメリカ西部の町に似ている、といった。 むろんあいまいな写真からの印象で、だいいちこの町を作った人々がそんなものを真似するわけもなく、建築はむろん日本風で、しかも掘立小屋といった態のものが多いが、しかも寒冷の土地に材木だけは豊富だとなると、天然自然に丸太式のものとなり、かつ道幅だけは広く、ふつうの日本人の眼からすると、たしかにどこか異国風に見えないこともなかったかも知れない。
    (《地の果ての獄(上)》P.92)


     インデアンとの戦いで、カスター将軍が戦死したのが、日本でいえば明治十年、有名な保安官ワイアット・アープが、いわゆるO・K牧場の決闘をやったのが明治十四年。西部の無法者ビリー・ザ・キッドが射殺されたのも同じく明治十四年「駅馬車」に登場するリンゴ・キッドが死んだのが明治十五年の話なのであった。
    (《地の果ての獄(上)》P.93)


     「河骨って知ってますかな
     「いえ。−−
     「植物の名です。 沼地に生え、夏にただ一輪の黄色い花を咲かす。 アイヌ語でカパドといい、樺戸郡や樺戸集治監の樺戸はそこから来たのですな。 よほど河骨の生える沼沢(しょうたく)の多い土地だったらしい
    (《地の果ての獄(上)》P.96)


     獄舎は、七、八十人を一組にした雑居房が幾つかならんでいるのだが、廊下沿いの格子以外は、三面、厚い板壁になっている。 そこには上下二段に分けたが作られて、各自の夜具や衣服、食事道具が乱雑にならべられている。
    (《地の果ての獄(上)》P.106)


     夜具といっても、北海道はすでに冬にはいっているといってもいいのに、一人当り薄い藁蒲団(わらぶとん)一枚、糸の見える毛布二枚。 食事道具は椀二個だけだ。 これがすべて汚穢(おわい)をきわめている。 例の排泄用の大桶が同居していることは前に述べた。
    (《地の果ての獄(上)》P.107)


     食事は、半分以上割麦をいれた飯に、朝が大根かカブの味噌汁だけ、昼が漬物だけ、夕食がこれまた大根か芋かゴボウの煮付けだけ。
     −−塩イワシなどが出るのは、十日に一度くらいなものだ。 これでも視察に来た金子大書記官は、監獄費がかかり過ぎるという報告を提出したほどなのである。
    (《地の果ての獄(上)》P.107)


     この夕食を餓鬼のごとく食ったあとは、廊下の吊り洋燈(ランプ)の遠明かりに、それぞれのグループで、漫談したり、放歌したり−−というと平穏らしいが、その実、後年大逆事件にひっかかって死刑となった奥宮健之が、この当時自由党員としていわゆる名古屋事件でつかまって、明治二十二年にこの樺戸へ送られて来たのだが、その獄中記に、
     「夜間監房を閉鎖さるるや、各々空缶を打ち鳴らし、或は歌い、或は躍(おど)り、其(そ)の喧騒殆(ほとん)ど狂人の所為(しょい)に外ならず、誰一人安眠するものなし
     と書いたようなありさまであった。
    (《地の果ての獄(上)》P.107)


     この粗悪だが、それだけにいっそうギリギリの生命のもとともいうべき食事を賭けて、サイコロ遊びをやっている連中もある。 こういうことが許される、というより、それは放棄のあかしであったのだ
    (《地の果ての獄(上)》P.107)


     それはまだしも、眼を覆わずにいられないのは鶏姦の横行であった。
     「……独リ黴毒(ばいどく)ハ多ク見ルトコロニシテ、コレマッタク鶏姦ノ結果伝搬ヲ逞(たくまし)クセルモノニシテ、肛門扁平腫、胼胝(たこ)腫ノ多キハソノ好例トス
     と、当時の報告書にある通りだ。
     むろん犠牲者は若くて比較的女性的な男だが、それだって巷間の男色者とちがい、髯ぼうぼうの垢だらけというありさまにまちがいないのだから、その光景は異次元的だ。
    (《地の果ての獄(上)》P.107〜108)


     苦役の曠野で

     「きさまも知っとるように、道作りや農耕に囚人を外に出す。 外に出せば逃亡のおそれがあるから、比較的従順な連中をあてることにしておるが、逆に考えれば従順な連中のほうが苦しい労働を強(し)いられることになる。 狂暴なやつはあぶないからこの苦役をまぬがれ、甚だしきは集治監内の作業までまぬがれておる。 この矛盾を解決するのが連鎖じゃ、と思いついて典獄閣下に具申した結果がこれだ
     「すると、二人ずつ結びつけるのでごわすか。 大丈夫でごわしょうか
     「その二人ずつの選定に工夫を凝(こ)らせば、逃亡をふせぐことが出来る。 たとえば、刑期の長いやつと短いやつ、おたがいに嫌い合っておるやつ、という風に。−−
     騎西看守長は、あきらかに悪意に眼をかがやかせた。
    (《地の果ての獄(上)》P.129)


     囚人にただで飯を食わせるのにも舌打ちしかねまじき明治政府は、ここに集治監をひらくと、もうその翌日から囚人を追い出し、一人一日あたりに実に二十五坪という開墾のノルマを科している。 まだ一帯は昼なお暗い原始林と丈余の熊笹に覆われた土地へ、(のこぎり)と(くわ)と(かま)だけの労働であった。 しかも、(あぶ)の大群、まむしの跳梁(ちょうりょう)、それどころか、そのものの出没する中へ、である。
    (《地の果ての獄(上)》P.131)


     とにかくそうして開いた農地に、いろいろの野菜、はては稲まで植えてみたが、大豆小豆(あずき)、唐黍(とうきび)、馬鈴薯(ばれいしょ)、胡瓜(きゅうり)、人参(にんじん)、キャベツ(ねぎ)など、すべて成功せず、ただ、〔えんどう〕茄子(なす)と〔ごぼう〕だけが何とか収獲があった稲はまったくだめであった。
    (《地の果ての獄(上)》P.131)


     囚人たちは、江別と結ぶ汽船が発着する監獄波止場からちょっと離れた渡船場に着いた。 ここには二本の大きな柱が立てられ、そこから、より合わせた二条の針金(はりがね)が石狩川の上を越え、対岸の同様な二本の柱とつらねられている。 河を渡る船は、その針金にとりつけられた滑車に従って動くしかけになっていた。
     そのしかけが面白くて、ここにはいつも子供たちが集っている。
     「おういっ
     その子供たちに向って、連鎖の一人が、編笠の中から呼んだ。
     「来い、ここへ来い。 いいものをやる
     囚人に馴れている子供たちが寄って来ると、彼は小さな藁(わら)細工の馬を与えて訊いた。
     「どうじゃ、天皇陛下は御無事か。 お変りはないか。−−
     顔見合わせて話し合っていた子供たちが、何やら答えると、
     「そうか、天子さまはご安泰か
     うなずいた笠の中の声は涙声であった。
     見ていて、四郎助は感動した。
     「ありゃ何者でごわすな
     「あれ? きゃつ第四雑居房、赤蜘蛛の市松というやつじゃな。 あれは強姦致死の無期のやつじゃが
     と、騎西看守長が、その赤い獄衣の背番号を見ていった。
     「ほほう? それが、なお陛下の御安否を何より気にかけておるらしゅうごわすが、感心なものでござりますな
     「なに、あれは大赦(たいしゃ)を待っておるんじゃ
     騎西は苦(にが)り切っていった。
     「え、すると。−−
     「天皇陛下がお亡くなりになりゃ、大赦がある。 きゃつらには、それ以外にこの樺戸から解き放たれる見込みはないからの。 それで何はともあれそのことを訊いたんじゃよ
    (《地の果ての獄(上)》P.133〜134)


     材木を筏(いかだ)としてその運河で曳(ひ)き、これを道にならべて横たえ、その上に石狩川から浚(さら)って来た砂利や土を重ねてゆくのだ。 いつの日か地中の材木が腐れば道が陥没することは目に見えているのだが、そうでもしなければ、底なし沼へ砂利を投げ込んでゆくのと同様で、際限がないのである。
     それでも、いま見る通り道は出来ているが、前途はいつ完成するのか見当もつかない曠野のなかであった。
     筏を曳いているむれ。
     材木をかついでいるむれ。
     砂利をモッコで運んでいるむれ。
     杭(くい)を打っているむれ。−−
     総勢、その日だけでも三百人以上は出ていたろうか。 これが分隊に分けられ、いたるところ騎兵銃を持った看守が監視していて、ちょっとでもズルをきめこんでいる連中があると、すぐ怒号しながら駈けていってその鞭をふるう。
     石狩の野に、ドンヨリとひくく垂れ下がった初冬の雲の下に、それは邏卒(らそつ)と亡者のうごめく、いわゆる地獄絵巻なるものが現実の世界に存在することを、改めて思い知らせる凄愴(せいそう)な壮観であった。
     その光景は、いまでも「囚徒峯延道路開鑿(かいさく)之図」として、月形に残る当時の樺戸集治監の庁舎をあてた資料館に伝えられている。
    (《地の果ての獄(上)》P.135〜136)


     現代では、これは樺戸道路と呼ばれ、地の果てから地の果てへ、車で走っても気の遠くなるほどの一直線の大道路となっているが、別名なお囚人道路ともいわれている。 その原図は、この明治十九年春からくりひろげられたこの絵にほかならない。 そして、それはまた、数年後、札幌から旭川を経て網走にいたる北海道中央道路を、囚人の屍(しかばね)を積んで建設する大苦役のはじまりでもあったのだ。
     四郎助の頭には、
     「……彼等ハモトヨリ暴戻(ぼうれい)ノ悪徒ナレバ、ソノ苦役ニ耐エズ斃死(へいし)スルモ……囚徒ヲシテコレヲ必要ノ工事ニ服セシメ……」云々。
     という太政官大書記金子堅太郎「北海道視察復命書」の文章が浮かんだ。
    (《地の果ての獄(上)》P.136〜137)


     「それじゃ、有馬君。−−おい、横川君、それをこの人に渡して、火に当り給え
     と、高野看守長はいい、
     「これが加波山(かばさん)事件の河野広躰(ひろみ)君と横川省三君、これが静岡事件鈴木音高(おとたか)君
     と、三人の囚人を紹介した。
     加波山事件とは、福島自由党の残党が栃木県令三島通庸を襲撃暗殺しようとして発覚し、そのアジトとした加波山で警官隊と決戦した事件だ。静岡事件とは、岳南自由党が箱根離宮(りきゅう)に天皇が行幸されるというので、それを機にお供の大官らを襲撃しようとしてこれまた発覚は、捕縛された事件だ。
    (《地の果ての獄(上)》P.147〜148)


     −−のちに奥宮健之なども樺戸に送られた例もあるように、いちがいにはいえないが、空知が政治犯、樺戸が凶悪犯という具合に大別されていたのである。
    (《地の果ての獄(上)》P.148)


     午後の作業が始まったと見て、四郎助も一礼してそこを立ち去ろうとした。
     「待ち給え
     と、高野看守長が呼びとめた。
     「君は薩摩だな
     「は、左様でごわす
     「おれは、官軍にやられた越後長岡藩の出だよ
     「そいじゃ、あの河井継之助という人の−−
     「うん、河井さんは家老で、あのいくさで亡くなったが、おれの祖父(じい)さまも、七十七歳という年で官軍に斬り込んで戦死した。 おやじも、長岡で敗けたあと、会津までいって戦った
     「では、父上も会津落城と運命を共にされたのでごわすか
     「いや、重傷は受けたが生き残って、いまじゃ故郷(くに)で小学校の校長をしとる。 いや、えらい元気者でな
     高野は、カラカラと笑った。
    (《地の果ての獄(上)》P.149〜150)


     五寸釘の仁義

     あれこれ考えると、おれは息も苦しくなるようで、それで千番に一番の脱走をやってのけたんだ。
     さて、それから夕闇にまぎれておれは走りつづけ、夜にはいって、とある村で鍛冶屋を見つけると、そこに押しいっておやじをおどし、手錠をこわさせ、ついでに古布子(ふるぬのこ)と三尺帯を出させると赤い着物をぬぎ捨てて、着換えをやった。 そこを出ると、近くの神社でね、社殿普請(ふしん)の奉納金の札を月光ですかして、その近郷の物持ちの名を調べて、そのまっさきに五十円と書いてあった大百姓の家へまた押し込んだ。 ここで七十円だか奪いとると、そのまま伊勢松坂へ一散走りです。
    (《地の果ての獄(上)》P.172)


     煉獄脱管届

     「ああ、あれか、あいつは綱木和三郎といって、桑名の男だ
     と、騎西はいった。
     「役人を傷つけた罪で送られて来たんじゃが、その刑期も満了して、来年の春には釈放されるはずだ
     「あ、左様でごわすか
     四郎助はほっとした。
     「その役人を傷つけたという件じゃが、これは変っとる。 きゃつ、『日本政府脱管届』というものを出して、そのあげくの果てにそんな事件をひき起したんじゃよ
     「脱管届?
     「管を脱する。 管とは−−おれもひとに訊いたことがある。 ええと何であったかな−−そうそう、たしかツカサドルとかいう意味で、管内とか管轄(かんかつ)とかいう言葉があるな。 つまり日本政府の支配から脱する。 換言すれば、日本国民であることを拒否する、という届けを出したのじゃ。……待て待て
     と、いって、騎西は隣室にはいっていったが、やがて一通の古ぼけた書類を手にして戻って来た。
    (《地の果ての獄(上)》P.216〜217)


     「おれもあんまり可笑(おか)しな話だから、その届けのことは記憶に残っておった、 これがせその写しじゃ
     眼をパチクリさせていた四郎助は、黄ばんだその書類に眼を落した。
     「日本政府脱管届
      原籍 三重県桑名郡桑名町大字矢田
         士族 綱木和三郎(二十六歳)
     謹んで申しあげ候。私義従来より日本政府の管下にありて、法律の保護を受け、法律の権利を得、法律の義務を尽しいたれども、現時に至り大いに覚悟するところありて、日本政府の管下にあるを拒絶いたしたく、以後法律の保護、権利を失うとも、法律の義務は果さざるべく候。 爾今(じこん)脱管の事お認め下されたく候也(なり)。以上。
      明治八年三月十日
      日本政府太政大臣殿

    (《地の果ての獄(上)》P.217〜218)


     あまり笑わない騎西銅十郎が、珍しく笑っていた。
     「何でも、もう警察に守ってもらわんでいい、火事になっても消防に来てくれなくったっていい、その代り税金は払わん、その他一切の国民としての義務は果さん、と、いい出したらしいんじゃね
     「そげな事(こつ)が通りもすか
     「通らん。 そこで徴税の役人と争って、何人かの役人を半死半生の目に会わせるという罪をおかしたのじゃ
     してみると、この届け書は、綱木和三郎にとって、いたずら冗談ではなかったのだ
    (《地の果ての獄(上)》P.218)


     「あの綱木は、元桑名藩の武士だったそうな
     「ほう
     「それからな、こっちはもっと驚いていいが、あの赤川も元は尾張藩の侍の出じゃという。−−
     「へへえ!
     四郎助はめんくらった。
     「元侍も薩藩でなけりゃ二足三文の運命におちいったことはいずこも同じじゃが、せめて武士の魂を失っておらんけりゃ何とか正業で過せたものを。 心がけ次第で、縛る者と縛られる者に分れることになる。−−
     看守長たる自分と思いくらべたらしい。
     「ま、いまじゃ侍もシャケの頭もあるものか。 ごらんの通りのありさまじゃ!
    (《地の果ての獄(上)》P.222)


     休庵は唐突にいった。
     「お前さん、スキーという名前を聞いたことがあるかい
     「そりゃ、何でごわす?
     「西洋の雪上歩行具だ。 いや、この竹はその物真似だがね。……日本人というのは、いやになるほど小利口なくせに、ふしぎに発明という能力が欠落した人種でねよその国が教えてくれなきゃ、何百年たっても駕籠(かご)は駕籠どまり、行燈(あんどん)は行燈どまりってえ国さ。 冬になりゃ国じゅう雪国になるくせに、何千年も雪中を歩くのに、せいぜい〔かんじき〕で済まして来たんだが
    (《地の果ての獄(上)》P.224)


     「こいつのまんなかに足を結びつけて、杖(つえ)をついて走る。 坂道はむろん滑って下りるんだが、平地だって、〔かんじき〕なんかよりよっぽど速く歩けるそうだ。 それくらいはおぼえてるんだが、さてうまくゆくかね。 ほんものは竹なんかじゃなかった。 木で作ったやつに蝋(ろう)が塗ってあったが、ま、日本にゃせっかく竹ってえものが沢山あるんだから、それを使って見ることにした
     休庵先生は歩き出している。 しかたなく四郎助もならんで歩く。
     「雪につっかからないために、こんな具合にさきを曲げる。 お前さん、竹の曲げ方を知っとるかね。 おれもはじめて見たが、割った内側を炭火であぶり、熱い油がにじみ出たところで曲げて、水の中へつける。 すると、曲がったまま、もとに戻らなくなる。−−ただ、その炭火の具合にコツがあってね。 なかなか難しいが面白くもあったよ
    (《地の果ての獄(上)》P.225)


     「ええ、旦那、旦那は御一新当時、尾張の殿様と桑名の殿様が御兄弟だったってえことを知ってますかい?
     と、赤川はいった。 四郎助は正直に眼をまろくした。
     「それは初耳じゃ
     「旦那はお若(わけ)えからね
     明瞭に赤川は、四郎助を馬鹿にした顔でいった。 そもそもこの囚人は、ふだんから若い看守をなめているところがあった。
     「ついでに言やあ、例の有名な会津の松平容保(かたもり)公、これがまんなかになる御兄弟で、三人とも美濃高須の松平家から出た御養子で、それぞれ尾張、会津、桑名の殿様になったんでさあ
     「では、会津と桑名も藩主が兄弟じゃったのか
     「いくら旦那でも、幕末に会津と桑名が幕府のいちばん頼りにした助(すけ)ッ人(と)だったことはご存知ですね。 そのおかげで、瓦解のあとは、双方ともいやひでえ目に逢わされたが、尾張藩はまっさきに官軍に降参して、何とか無事に切りぬけた−−と、お前さんなんか思ってるんでしょう
    (《地の果ての獄(上)》P.235)


     旦那が、いつのまにかお前さんになってしまった。 しかし、尾張藩についての知識はその通りだ。 と、四郎助はうなずかないわけにはゆかなかった。
     「ところが、実際はそんなもんじゃねえ。 大変な騒ぎがあった。 あたりめえだ。 なにしろ尾張藩は御三家の筆頭で、しかもいまいったように、殿様の弟の会津と桑名は、それぞれ京都守護職、京都所司代ってえお役についてるんだから。……もっとも、御多分にもれず、幕末近くなりゃ尾張藩の中にも、幕府にいつまでもヘイコラ、ヘイコラ頭を下げていられるかってえ連中が出て来た。 身分は軽輩が多く、これを金鉄党と呼んだ。−−
     尾張藩の話を聞くつもりではなかったが、まあ黙って耳をかたむけることにした。
     「むろん大半は佐幕党で、その中の上級の連中が、ふとどきな金鉄党をとろかそうってんで、〔ふいご〕党と名乗った。−−
     「そりゃ、ほんとうか
    (《地の果ての獄(上)》P.236)


     「ええ、さっきいった通り、綱木は桑名藩の人間です。 幕末に桑名の殿様は京都所司代ってやつだったから、守護職の会津といっしょになって、徹底的に勤皇の浪人とやらを絞めあげた。 桑名じゃ、その役に何とか奉行の何とかいう人をあててね−−ええと、よその藩のことだから、名も忘れちまったが−−綱木のおやじは、その下で与力をやってたという。 綱木はおれと同い年だから、そのころやっぱり廿歳前(はたちめえ)だったはずだが、これも京都へいって、一通りの手伝いはしたらしい
     「……」
     「この綱木のおやじってえのが、そのときもう年は五十近かったが、いやはや凄えおじさんでね。 そのころ京都で暗殺専門の浪人五人組がいた。 そのうちの三人を、奉行の命令で、自分も大怪我をしながらとっつかまえたんだそうだ。 倅(せがれ)の綱木はむろんそばにいたが、それとはべつに、国元の桑名から、綱木の姉にあたる娘が、怪我の看護にやって来たんだが、これが災難のもとになりやした
     「……」
     「怪我はたしか、ふとももを斬られた傷だったそうだが、これもだいたいふさがったころに−−その娘さんがさらわれた。 さらったのは、まだ残ってた二人の浪人で、こいつが何とかいう寺に立て籠(こも)って、人質とひきかえに、つかまっている三人の仲間を釈放しろ、さもなくば、人質を殺す、という使いを送って来た。……こりゃ、うめえ手だね
    (《地の果ての獄(上)》P.243)


     「まあ、お前の好きようにやれ、というつもりだったらしい。 ところが殿さまのほうは、どうしても恭順は出来ねえってんで、とうとう戦争をやるってえ家来だけ連れて会津までいったんだが、その恭順派に札をいれたはずの綱木は、いってえまあどうしたんだか、それにくっついていっちまったんです
     「……」
     「そして会津はおろか、馬鹿なことに函館までいって戦争して、とどのつまりはやっぱり降参ってえことになった。 まう何とか命だけは助けてもらって、乞食みてえになって桑名へ帰った。 すると桑名じゃあ、例の奉行が生きていて、県の大参事ってえやつになっていた。……ええ、旦那、おれと運命が似てるっていったのぁ、こういうところなんで
    (《地の果ての獄(上)》P.246)


     四郎助は瞳(ひとみ)をひろげずにはいられなかった。
     「その何とか奉行は、幕末に京都で志士を厳重に取締った男なんだがね、こいつが無事であったばかりか、そんな地位についたのァ……へ、へ、人間、同じ立場になると、だれでも同じようなことをなるもんで、おれのおやじとそっくり、自分の妾の妹を、御一新のとき桑名へ乗り込んで来た官軍の隊長に献上したおかげだという。 献上してききめのあるほどきれいな娘じゃああったらしい
     「ふうむ
     「それでも、帰って来た綱木を何とか県庁の下役人に世話してくれた。 ところが、人間、似た立場だと似たことをやると、いまいったが、そこが綱木でさあ、まるでゆうずうがきかねえ。 この樺戸で冬死んでカチカチになった囚人の屍骸(しげえ)をなんどか見たことがあるが、生きてるうちからそんな風なのがあの男でね。上役が袖の下をとってるのを見て、小役人のくせにこれに文句をつけたから、たちまち〔くび〕になってしまった。 それがその後、何か建築請負みてえな商売をはじめたらしいんだが、こんどは役人に袖の下を使わねえもんだから、これも失敗
     「……」
     「とにかく何をやってもうまくゆかねえ。 あたりめえよ、ああなんでも汚がっちゃ、だれだって相手にしねえよ。 てめえはまっとうなことばかりしてるつもりなのに、だんだん不幸になるって、不平いったってしょうがねえやね。 あげくの果てに思いつめて、カンシャクを起して、ええと、日本脱管とか何とか、とにかくもう日本人をやめてえってえ願い書をお上に出したんだってねえ。 それで役人と喧嘩して、とうとうここへ送られて来るような始末になった。日本政府脱管を願った男が、日本政府の監獄に鎖でつながれちまったんだから、こりゃポンチ絵だ。ケケケケケ
    (《地の果ての獄(上)》P.246〜247)


     何か忙しいことがあったと見えて、騎西看守長は納屋をのぞきにもやって来なかった。 もっとも、囚人が血を吐いたり、怪我をしたりすることはしょっちゅうで、騎西にとっては、馬の一頭がどうしたくらいの報告と同様であったかも知れない。
     それどころか、その日、病人を何とか集治監に連れ帰ったあと、四郎助が、当分綱木は赤川と離して静養させてやったらどうか、と伺いをたてると、きびしい眼を四郎助にそそいで、
     「−−若しこれに耐えず斃死(へいし)してその人員を減少するは。……
     と、呪文のごとく唱えただけであった。 衆人が死ねばそれだけ監獄費が節約できるという、例の金子(かねこ)大書記官復命書の一節だ。
    (《地の果ての獄(上)》P.249)


    邏卒報告書

     「では三日間だけ貸してくれ。 その間におれは写本して、あと本物は返すから
     と、頼んだ。 おふくろも口添えした。
     「じゃあ、三日だけ貸してやるか
     と、宇之助は、まるではじめから自分の所有物であるかのようにしぶしぶ承諾した。
     やっと手にはいった本は、地の文は飜訳してあるものの、アラビア数字だらけの横書きで、重蔵にとっては呪文同然であった。 彼は三日三晩、不眠不休でそれを筆写した。 筆写しながら彼は、若い日の勝海舟が一年がかりで日蘭辞書「ヅーフハルマ」五十八巻を二部写本し、一部を売って借りた損料にあてたという話を思い出した。
    (《地の果ての獄(上)》P.267)


     維新後、東京は官軍の藩兵をもって治安に当らせ、のちにこれは府兵と名は変えられたが、実態は同様であった。 それで三年ばかりを過したが、この明治四年に至って、ようやく西洋のポリス制度にならい、邏卒なるものを置くことにしたのである。
     三千人の所用人員のうち、二千人は薩摩人をもってあてる。 あと千人は一般から募集する、というのであった。 月給は六円
    (《地の果ての獄(上)》P.271)


     そのころ、土方をやっていても重蔵は月に八円くらいの収入があった。 それでも両親を栄養失調で死なせたくらいの暮しである。 弟妹はそれぞれ奉公口を見つけて出ていったが、新しく子供がもう二人生まれていた。六円では、何としても苦しい
    (《地の果ての獄(上)》P.271)


     しかし重蔵は、その募集にひかれた。邏卒とは昔の岡っ引に毛の生えたようなものではないかとも考えたが、それでも土方よりはましであった。 また収入も、土方よりは確実性があった。
     おずおずと女房のお節に相談すると、
     「それはあなたがお望みなら。……
     と、彼女は素直に賛成した。 そして、足りない分は私が内職に精を出すから、といった。
    (《地の果ての獄(上)》P.272)


     そう決心はついたが、「−−また試験か!」と、彼は辟易(へきえき)しないわけにはゆかなかった。 あとでわかったところによると六倍の志願者があったということであったが、とにかく詔勅や日本史略の読み書き、それから「いま身投げがあったら、邏卒としてどう処置するか」などいう問題も出たのである。
    (《地の果ての獄(上)》P.272)


     その男は路ばたに立って、その畑を眺めていた。 雨が傘にあたるので、近づいてゆく重蔵の靴の音が聞えなかったらしい。
     「何しとるか
     と、重蔵は呼びかけた。邏卒の三人に二人は薩摩人なので、一種の邏卒用語として彼もそんな言葉遣いになっている
    (《地の果ての獄(上)》P.274)


     「お前は、軍艦に乗って函館へいって、戦死したものとばかり思っておったよ。……
     戊辰(ぼしん)の戦乱時、別れたきりであったのだ。 むろん幕監に乗って五稜郭へいって官軍と戦い、降伏し、生きのびて帰って来た者も多いが、あれから五年、宇之助がふっつり姿を見せないところから、てっきり彼は死んだものと考えていた。その後も何かのはずみに思い出すことがあり、若くして幕府のために殉じた「畏友」に、哀惜の念とともにみずからを恥じる思いを禁じ得なかったのだ。
     「宇之助、お前のおふくろさんも、あの騒ぎのとき鴻巣(こうのす)在へ非難して、そこで亡くなったそうだ。 あとは、家もこの始末だ。……
     「わかってる、わかってる
    (《地の果ての獄(上)》P.274〜275)


     この明治七年のころ、長距離の馬車郵送というと、東京と高崎の間しかなかった。 −−妙な話に聞えるが、当時日本の最大の輸出産業はというとまず生糸で、そのまた最大の産地は上州だったからだ。 そこで上州の中心地たる高崎と東京の間には、生産品はもとより、商人、相場師のみならず、現金、郵便の為替金などの往来が忙しかった。 そこでこの区間だけに特別の馬車が仕立てられたのだ。
    (《地の果ての獄(上)》P.296)


    西郷を襲った男

     年は越えて、明治二十年になった。
     雪のふる日が次第に多くなった。 数日、二、三センチずつふることもあり、一夜に十センチくらいつもることもあった。 石狩川はもう流氷ではなく、まったく凍結し、それに雪がつもって、徐々に厚味を加えていった。
     正月早々、囚人たちは「氷橋(こおりばし)」作りに駆り出された。
     籠渡(かごわた)しは何といっても能率が悪い。河が氷結すれば、歩いて渡れるからこのほうが便利だ。 ただ、歩いて渡れるとはいうものの、恐ろしいでこぼこで、それにときどき割れたりするところがあって、完全に安心というわけにはゆかない。 そこで、渡船場からこの氷橋というものが作られる。
     それは、この土地で手芝(てしば)と呼ぶ柳の枝を集め、幅二間、厚さ一尺くらいに敷きつめて河を横断させる。 するとこれに氷片がくっつき、手芝を〔しん〕にした鞏固(きょうこ)な氷の土手となり、人馬共に往来出来るようになるのであった。
    (《地の果ての獄(上)》P.362)


     ただ、みてくれの豪傑ではない。 この男には、実績のうらづけがあった。 それがつまり、堺事件だ。
     「いやなに、おれだってそれほど詳しく知ってるわけじゃあねえが、ただこの月形にながく住んでると、集治監の連中についても、何かと耳にはいることがあるんでね
     と、休庵はいう。
     「その堺事件だが、むろんおれもあとになって聞いた話だよ
     と、話し出した。
     「たしか明治元年二月半ばのことだ。鳥羽伏見のいくさに勝って、官軍はトコトンヤレナと江戸へ進軍中だったが、その背後の泉州(せんしゅう)堺で大事件が出来(しゅったい)した。 堺の港にフランスの軍艦がやって来て測量をはじめ、そのうち一部の水兵が上陸して来てあたりをぶらつき、女をからかったり神社仏閣にいたずらをはじめた。 堺の警備にあたっていた土佐藩兵が急行してもみ合いになり、そのうちフランス兵どもは短艇に乗って、沖の軍艦へ逃げて帰ろうとした。 それをめがけて土佐藩兵が射撃し、十一人のフランス兵が射殺されたという事件よ
     「……
     「さあ、大変なことになった。 いくら幕府に勝ったって、うしろで馬関戦争の二の舞いがはじまっちゃたまらねえ。 フランス側に平謝りに謝った末、莫大な謝罪金のほかに、とにかく撃った土佐兵を二十人切腹させるからかんべんしてくれろ、ということになった
     「……
     「はじめ向う側は、殺されたフランス兵の倍の二十二人処刑しろといったらしいんだが、談判の結果二十人に値切ったらしいんだがね。 そのとき土佐藩兵は二小隊から成っていて、それぞれの隊長と小頭(こがしら)合計四人は責任をとらなけりゃならんが、あと十六人必要だってえことになった、ところがね、現場にいた土佐兵は七十人ほどだってえことで、そのぜんぶが鉄砲を持っていたわけじゃなかったろうが、とにかく撃った者が十六や二十人じゃあねえってことはわかってた。 ただし、だれが撃って、だれの弾が命中したか、いくら調べてもわかりっこねえ
     「……
     「そこで土佐軍監府のほうじゃあ、射撃した者は正直に名乗り出ろ、といった。 名乗り出ることはすなわち死ぬことだから、こりゃ冗談じゃねえ、こいつは、はからずも人間の卑怯をためす恐ろしい問いとなった
     「……
     「その結果、おれが撃った、と名乗り出た者が二十五人あった。 そこで、それ以外の四十何人かは、お構いなしとしてすぐ土佐へ送り返された。 まず助かった第一の組だな」  「……」  「さて、四人の隊長小頭以外に必要なのは十六人の命だが、二十五人名乗り出られたから九人余る。 そこで、籤(くじ)をひくことになった。 文字通り、死の籤とはこのことだな。 その結果、十六人がきまったが、これで命びろいした九人の第二の組が生じた
    (《地の果ての獄(上)》P.370〜372)


     「さて、運命の日が来た。 二十人は堺の妙国寺という寺にいった。 そこでフランス側の立会いのもとに、二十人は一人ずつ切腹し出した。 それが十一人まで進んだとき、フランス側の立会いがわけのわからぬことをいい出して、切腹の場から立ちあがった
     「……
     「一人一人、フランス人をにらみつけて、毛唐ども聞け、おれはうぬらのためには死なぬ、皇国のために死ぬのだ、とか、日本男児の切腹をよく見ておけ、とか吼えて腹を切る。 その物凄さに向うが胆をつぶして怖気(おじけ)をふるった、という説もあるが、殺されたフランス兵は十一人だから、そこで一応勘定は合う、と見たらしい、という説もある
     「とにかく毛唐たちは寺を駈け出して軍艦に帰っていったから、こちら側はあとを追いかけて、これからどうするのだと訊くと、もう結構だ、あとの切腹は中止してくれという返答だった。……こうして、また命びろいした第三の組が生まれた。 これも九人ということになるが
     休庵は氷橋のほうを眺めやった。
     「あの橋詰愛兵衛は、その九人の生き残りだってことさ
    (《地の果ての獄(上)》P.372〜373)


     「で、浜田友太郎は?
     「さあ、それだ。 とにかく、第三の生残り組は土佐で尊敬のまとになった。 生き残ったのは望外のことで、かけねなしに死の淵からすくいあげられた連中だから当たり前さ。第二の籤逃れ組も、助かったのは僥倖(ぎょうこう)だから、これはまた志においては決死の上にはちがいない。 問題になったのは、おれは撃たなかったといって最初に許された第一の組だよ。ほんとうに撃たなかったのか、撃ったのに口をぬぐって知らぬ存ぜぬとやったのか。−−一方で、みごとに切腹した連中や名乗り出た連中があるだけに−−そのいかんを問わず、土佐っぽの面よごし、武士の風上にもおけぬ卑怯者だということになった
     それはわかる。 薩摩だって同じだろう。
     「その第一の組に、あの浜田がはいっていたという。−−とくにあいつは、鉄砲鍛冶(かじ)の家に生まれて鉄砲の名手ということになってたそうだから、いっそう蔑(さげす)みの対象になったらしい。 あいつは、とにかくそのとき雷管が発火しなかったんだといったようだが、そんな弁明は黙殺されたってえことだ
    (《地の果ての獄(上)》P.373)


     「あり得ることだな。 あれは土佐人だ。 そして、なるほどあのころの鹿児島県令は、たしかにいまの北海道庁長官、土佐の岩村通俊(みちとし)じゃった!
     と、休庵もつぶやいた。
     −−西南の役のフィナーレ、城山の戦争のあったのは、四郎助が十三−−満十二歳の秋のことであった。
     その二月半ば、ふりしきる雪の中を熊本めがけて勇躍して出撃していった一万数千の薩軍は、官軍と戦うこと半歳を超え、ついに敗れて鹿児島に撤退して来たのが九月一日のことだ。
     彼らは、日向路(ひゅうがじ)で敵の重囲を突破し、長躯して奇蹟的に、阿修羅のごとく帰って来たのである。 西郷以下、その数わずかに三百七十余人。
     しかも、その鹿児島もすでに官軍の占領下にあった。 およそ戦い得る壮丁はことごとく前線へ出たあとの鹿児島へ、新県令岩村通俊以下の官軍が軍艦で乗り込み、鹿児島市民とぶきみな対峙(たいじ)をつづけて来たのである。
     西郷帰る!
     阿鼻叫喚(あびきょうかん)に近い歓声が、市民の間にあがったのは一瞬のことであった。 帰って来た薩軍は所在の占領軍を蹴散らし、城山に立籠ったが、狼狽しつつ踵(きびす)を接して敵の大軍が奔入して来て、これを包囲したのだ。
    (《地の果ての獄(上)》P.382〜383)


     それから城山をめぐる死闘の二十余日は、官軍の包囲の外にあった市民にとっても、名状しがたい心の死闘の日々であった。
     −−西郷先生といっしょに戦う!
     母と、幼い弟二人とともに兵乱の町を彷徨(ほうこう)しながら、地団駄踏んで城山のほうを眺め、こう泣きさけんだ自分の声を、四郎助は昨日のことのように思い出す。
     −−あそこに、矢之助兄さんもいるんじゃ!
     父はすでに病没していた。 異腹の兄の矢藤太も維新の嵐の中に消えていた。 そして、もう二人の兄は私学校生徒として従軍し、そのうち圭治という兄は熊本で戦死していたが、もう一人の兄の矢之助のほうは、西郷先生とともに城山まで帰って来て戦っているということは、もうわかっていたのである。
     母が幼弟二人をかかえた寡婦(かふ)でなかったら−−あるいは四郎助の年がもう二つか三つ年上であったら、彼は城山へ飛んでいったかも知れない。
    (《地の果ての獄(上)》P.383)


     攻防のうちに官軍の包囲は、蟻(あり)一匹も逃さぬ厚みを増してゆき、西郷軍は不可坑的に消耗し、すでに弾丸を失って石まで投げるという状態となり、そして九月二十四日、最後の日が来た。
     その日、午前四時、夜明け前から官軍の総攻撃がはじまった。 午前七時ごろ、凄愴(せいそう)な乱雲の下を、西郷は、幹部の桐野村田別府らとともに洞窟を出て、雨飛する弾丸の中を岩崎谷へ向ったが、途中、ある坂道で西郷も腿(もも)と下腹部に流弾を受けて倒れた。
     「晋(しん)どん、晋どん、もうここらでよかろ
     といって、西郷はどっかとあぐらをかいた。
     「そうじごわんすかい」(左様でありますか)
     別府晋介はうなずき、西郷のうしろにまわり、大刀を抜きはらって、
     「御免なったもんし」(お許し下され)
     と、さけんで、その刀をふり下ろした。
    (《地の果ての獄(上)》P.383〜384)


     「……西郷さんは、まったくふしぎな英雄だな
     凍ってキラキラひかる河を見わたしながら、休庵は独語のようにつぶやいた。 背後には、氷橋をぞろぞろ渡る人々の行列がつづいている。
     「聞くところによると、東京でやった七年忌には、政府大官をはじめ数万人の人が集まったとか、最近じゃ天皇さまが西郷さんの忘れがたみを召し出されたということだが、あんな大きな謀叛(むほん)をやった人間にしては珍しい。 珍しいどころか、そんな待遇を受けた逆賊は一人もねえ、それも、このごろ急に風向きが変ったわけじゃあねえ。 城山で死んだ直後からだ。 空にかかる赤い星を西郷星と呼んで礼拝することがはやったり、西郷丹(たん)という薬が売り出されたり、団十郎がすぐ芝居にしたり。……
    (《地の果ての獄(上)》P.388)


     「いくら西郷さんだって、あれほどのことをやった一生のうちにゃ、あまりタチのよくねえことも、あまり感心出来ねえこともあったろうが……人は、それに眼をふさいどる。 人に眼をふさがせる何かがある
     「お言葉でごわすが、西郷先生にゃ、そげなうしろ暗いことは一点もごわせん!
     「そりゃお前さんは薩摩っぽだからそういうが、そうかねえ? 話に聞くと、江戸で浪人どもに火つけ強盗をやらせて幕府を倒すきっかけを作ったってえことだし、おれが見ても、御一新後の西郷さんは、何だかがらんどうになっちまっていたようだぜ。 西南戦争だって、起つべきときにウスボリヤリしてて、いざ起ったとなっても、本気でやる気があるんだか風まかせなんだか、よくわからねおことがあった
     「西郷先生の偉大さは、凡人にはわかりもさん!
     「もう一つある。 これもだれから聞いたか忘れたが、西郷さんが死ぬ二日ほど前、薩軍から降伏打診の密使が官軍に来たってな。 薩軍諸将謀議の末、西郷先生のお命だけは助けたいと存じて参った、と申したてたそうだが、もはや時機遅れだ、と、一蹴されたという。……
     四郎助は眼をむいた。
     「そげな話は聞いた事(こつ)はごわせん! そりゃ作り話ごわす!
     「おれの感じじゃ、ほんとらしい。 その諸将謀議の席に、大英雄も鎮座してたという。 もっとも一ことも口をきかず黙ってたということだが、とにかくその降参話は知っていたはずだという。 そして、官軍から拒絶されたという報告を受けて、はじめて湯気をたてて怒り出したそうだ。……
     「そ、そげな馬鹿な事(こつ)は、金輪際ありもさん!
     四郎助は、息をはずませた。
     「休庵先生、そげな話をされると、私、失礼ながら打(ぶ)ちもすぞ!
     「−−と、こういう話をすると、鹿児島県人ばかりじゃあねえ、日本人のだれをも不愉快にさせるようなところが西郷さんにはあるということさ
    (《地の果ての獄(上)》P.388〜390)


    雪飛脚

     「有馬君、君はからす組って聞いたことがあるかえ?
     「からす組?
     「いや、君の年じゃ知るめえ。 戊辰(ぼしん)の奥羽戦争でね、ゲリラ戦というやつをやった伊達藩の部隊の名だがね。 これが侍じゃなく、百姓や〔やくざ〕ばかりから出来上っておって、怖ろしく官軍を悩ました。 その隊長は、これだけ武士で細谷(ほそや)十太夫という。−−仙台藩が降伏したあと、その怪傑は北海道へ逃げてアイヌといっしょに暮らしていたが、あの西南の役にノコノコと現われてこんどは官軍に少尉として従軍した。 いわゆる戊辰の復讐組の一人さ。 で、細谷も西郷さんを討ちにいったわけだが、そこで負傷して、また北海道へ来た。 北海道どころか、いちじはカラフトまでいって、そこからカラフト・アイヌを家来にして連れて来た。つまり、この犬〔ぞり〕をくれた御仁よ
    (《地の果ての獄(上)》P.438〜439)