[抜書き]『中世の非人と遊女』


『中世の非人と遊女』
網野善彦・講談社学術文庫
2005年2月10日 第1刷発行
    目次
    序章
     第一節 聖と俗との境で
     第二節 女たちの中世
    第T部 中世の「非人」
     第一章 中世身分制の一考察……中世前期の非人を中心に
      一 研究の現状
      二 非人集団の形成
      三 鎌倉時代の非人
      四 中世後期の問題に関連して
      五 むすび
      付論一 非人に関する一史料
      付論二 非人と塩売
      付論三 清目・河原人の給田
     第二章 古代・中世の悲田院をめぐって
     第三章 中世の「非人」をめぐる二、三の問題
      はじめに
      一 犬神人・河原者・放免
      二 童名と童形
      三 『一遍聖絵』の非人と童形の人々
      むすび
      付論四 勧進法師と甲乙人
     第四章 検非違使の所領
      付論五 横井 清著『中世民衆の生活文化』をめぐって
      付論六 三浦圭一著『中世民衆生活史の研究』について
    第U部 中世の女性と遊女
     第一章 中世の女性
      一 宣教師の見た日本の女性
      二 納戸・土倉の管理者としての女性
      三 旅する女性たち
     第二章 遊女と非人・河原者
      はじめに
      一 清目・犬神人・馬借
      二 女性の社会的地位
      三 遊女と女房
      むすび
     第三章 中世における女性の旅
     終章
      一 文明史的な転換
      二 博打について
      三 「文明化」の影
    あとがき
    初出誌一覧
    解説  山本幸司


    序章

    第一節 聖と俗との境で

     現代のわれわれが、職人の見事な腕前に「神技」を感ずるのと同様、このころの人々はそれ以上に、職能民の駆使する技術、その演ずる芸能、さらには呪術に、人ならぬものの力を見出し、職能民自身、自らの「芸能」の背後に神仏の力を感じとってたに相違ない。 それはまさしく、「聖」と「俗」との結界に働く力であり、自然の底知れぬ力を人間の社会に導き入れる掛け橋であった。 こうした力を身につけた職能民が天皇、神仏などの「聖なるもの」に直属して、その「芸能」の初尾を捧げ、自らを「聖別」された存在とした理由のひとつは、ここに求められる。
    (《中世の非人と遊女 第一節 聖と俗との境で》P.15)


     しかしそれだけではない。 中世前期までの職能民の多くは、遍歴してその生業を営んだ。 それ故、これらの人々の専(もっぱ)ら活動する舞台は、山野河海(さんやかかい)、河原、道路、堺など、だれのものでもない「無所有」の場「境界的」な場であった。 遍歴する人々の蝟集(いしゅう)する市の立ったのも河原・浜・堺などであり、当時の人々にとって、こうした場は神仏の力の働く「聖なる場」だったのである。
    (《中世の非人と遊女 第一節 聖と俗との境で》P.15)


     国家の成立後、制度的には、このような場は王権の支配下に置かれる形をとるのがふつうである。 日本の場合も同様であった。井上鋭夫ワタリタイシの源流と考えた川の民の活動の場となった北越後の瀬波(せなみ)川、荒川(あらかわ)はともに公領であり、川は原則的に国衙(こくが)の支配下に置かれていた。山の民の舞台となった鉱山も同様である。 摂津(せっつ)の採銅所は平安後期以後、天皇の直轄であり、はるか降(くだ)って十六世紀においてすら、毛利氏は石見銀山(いわみぎんざん)を「禁裏御領(きんりごりょう)」としているのである。
    (《中世の非人と遊女 第一節 聖と俗との境で》P.15〜16)


    第T部 中世の「非人」

    第一章 中世身分制の一考察……中世前期の非人を中心に

     二 非人集団の形成

     鎌倉後期、洛中洛外を中心として、蓮台野(れんだいの)、東悲田院(ひでんいん)、獄舎清水坂大籠(だいろう)などに非人が多数おり、これに散在非人散所非人とを加えると、総数二〇二七人に及んだことは、最近公刊された『公衡公記』によって、すでに周知の事実となった。 その居住地やその後の活動状況から見て、葬送刑吏・掃除・土木工事等に従事し、乞食・芸能にも関わりを持ち、病者・囚人をも含むと見られるこうした非人集団が、鎌倉中期以降、奈良を中心とする大和(やまと)をはじめ、畿内およびその周辺の国々、さらに鎌倉等にも存在していたことはよく知られているが、このような多様な職能を持つ人々が非人としてまとまり、一個の職能集団を形成するようになるのは、おおよそ十一世紀、平安後期以降のことと思われる
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.33〜34)


     三 鎌倉時代の非人

     いま大和の非人についてふれたように、犬神人散所法師など、非人が一般的に住宅破却などの検断に当たって動員され、刑吏としての職能−−社会的な穢(けが)れのキヨメ−−も持っていたことはすでに明らかにされているが、室町期の非人に見られるような、坂上板などの細工斃牛斃馬(へいぎゅうへいば)の処理、塩売声聞師等々、その生活を支える諸種の活動については、『天狗草紙(てんぐぞうし)』に見られる「穢多童(えたわらわ)」のほか、いまのところ鎌倉時代の状況は明らかにし難い。 しかしこれらの非人の生業(なりわい)は、当然、その淵源を鎌倉期、さらには平安末期まで遡って考えなくてはなるまい
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.40)


     また室町期に「諸国関々橋賃(しょこくせきぜきはしちん)・船賃以下(ふなちんいげ)悉(ことごとく)不致其沙汰(そのさたをいたさず)」「東国は駒蹄至まて、西国者波路之末、千嶋百嶋まて」煩(わずら)いなく自由に通行したといわれる清水坂の「八十八ケ所末宿中」の特権の起原も、もとより「延喜天暦之御門(えんぎてんりゃくのみかど)」よりというのは事実ではないとしても、鎌倉・平安末期において見ることは決して無理な推論ではない、と私は考える。 京都の非人が使庁によって管掌され、諸国の非人もまた、究極的には天皇の支配権の下に置かれていた事実は、この推測を十分支えるに足るといってよかろう。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.40)


     とはいえ、鎌倉期の非人のこうした諸側面について、われわれが知り難いのは、現在知れている非人の史料の圧倒的部分が西大寺流(さいだいじりゅう)の律僧(りつそう)、叡尊(えいぞん)・忍性(にんしょう)らの活動に関連して伝来しているからにほかならない。 しかしこの事実そのものが物語っているように、宿々を経廻(へめぐ)って殺生(せっしょう)禁断をすすめ、非人たちに授戒(じゅかい)し、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の図絵を安置して供養(くよう)を行い、非人の救済につとめる一方、長吏たちから起請文(きしょうもん)を出させてその狼藉(ろうぜき)をおさえた叡尊忍性の活動が、非人集団のいっそうの組織化、その内部統制の強化に果たした役割は絶大といわなくてはならない。 叡尊畿内を中心に動いたのに対し、忍性鎌倉大仏浜の悲田院をつくるとともに、極楽寺坂を中心に、はじめて非人集団を組織化したのである。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.41)


     嘉元(かげん)二年(一三〇四)の後深草(ごふかくさ)院葬送に当たっての非人施行が、北京律の中心である泉涌(せんにゅう)寺覚一上人(かくいちしょうにん)を介して行われた事実(『後深草院崩御記(ごふかくさいんほうぎょき)』)が物語っているように、これ以後の施行は西大寺流律僧を通じてなされたのではないかと思われる。 さきの天皇の支配権、本寺の統制とはまた別に、非人の宗教的な職能がこの面からも統制され、律僧の勧進(かんじん)による土木工事などへの動員の道がひらかれていた点にも注目しておかなければならない。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.41)


     たしかに非人集団は、平民の共同体から否応(いやおう)なしに、また自らの意志で離脱した人々によって構成されている渡辺が、これを社会外の社会とし、黒田身分外の身分と規定した理由はそこにあり、この規定が非人集団の重要な特徴をとらえていることは認めなくてはならない。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.41〜42)


     しかし「穢(けがれ)」を「清目(きよめ)」ることは、非人自身にとってみれば「重役」そのものであり、彼等はまさしく「聖」なる「芸能」に携わる「職掌人」「重色人」であった。 そして実際、そうした見方は中世前期においては、社会的に認められていたといってよかろう。
     この時期の社会は、革造も傀儡子(くぐつ)も宋人も、鍛冶(かじ)・番匠(ばんじょう)や荘官(しょうかん)などと同じく、給免田(きゅうめんでん)を与えられた「職人」として扱う、開かれた性格を保っていたのであり、非人にもまたその体制内に、それと基本的に同じ位置づけを与えていたのである。 この意味で、鎌倉時代には非人に対する体制的な賤視・差別は決して出現していない、と私は考えている。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.44)


     四 中世後期の問題に関連して

     鎌倉末・南北朝期、非人集団の内部に、職能の文化が進行し、異なる職能を持つ人々の間に対立、矛盾がおこってくる。 横行と非人の闘争、犬神人と河原者(かわらもの)の対立等々がそれを物語っており、室町期に入れば、広い意味での非人・乞食のなかに位置づけられながら、廟聖(びょうひじり)、河原者(エムタ・細工)、声聞師(しょうもんじ)等々の集団への分化が確認できることは、山田の指摘した通りである。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.44)


     それとともに、宿者−北山宿によるこれらのそれぞれの集団に対する支配統制、坂者−清水坂非人=犬神人による長棟非人、西岡宿の塩売に対する統制の強化も目立ち、非人集団内部の矛盾が激化しはじめる。 当然、集団の統制組織も形を整えてくるので、室町期の清水坂の坂者は「惣衆」をなし、「坂公文所(くもんじょ)」といわれる支配機関を持ち、沙汰人(さたにん)・公文などの職にあり、国名を名乗る法師たちが、活発に文書を発給、洛中の寺々に対して三昧輿を免除し、京都の葬送を一手に統制していたものと思われる。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.44〜45)


     これらはすべて、中世前期の非人組織の拡大・分化の過程にほかならない。 内部統制の強化の反面、この座的組織自治的な性格もいよいよ明確になってきたのであるが、一方、穢忌避の観念が社会全体にいっそう浸透するとともに、非人全体、あるいはそのなかの分化した職能集団の一部に対する賤視、差別もますます強まってきたことを、見逃すわけにはいかない。 ここではそうした問題に立入る余裕はないので、このような過程を大和の非人に即して丹念(たんねん)に明らかにした山田洋子の論稿にふれて思いついたことを、二、三のべるにとどめておきたい。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.45)


     いま非人集団自体の統制組織の整備についてふれたが、本寺による非人の統轄体制も、また南北朝・室町期には形を整えてくる。 山田はこの点を追及し、中世前期の非守にかわって、室町期に入ると興福寺公人(くにん)のなかの仕丁(しちょう)で、トカメカサイテ=戸上・膳手といわれた人が非人を直接統轄していた事実を明らかにした。 山田もふれているように、祇園社の犬神人の場合も、公人のなかの「寄方」を通じて催促がなされている点から見て、この形は非人を統轄する寺社について、かなり一般的に見られるのではないかと思われるが、とくに注目すべきは、この仕丁−戸上・膳手が神輿動座の進発や祭礼のさい、赤狩衣(かりぎぬ)を着し、白杖を持って行列の先頭に立ったといわれている点である。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.45〜46)


     大山もふれているように「祇園会を先導する犬神人のなかにはつねに白頭巾(しろずきん)に赤い布袋の六人の棒の衆」がいた。 そして『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』に現われる検非違使(けびいし)の行列のなかにも、赤い衣(ころも)を着した看督長(かどのおさ)と見られる人を見出すことができるのである。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.46)


     赤の衣白頭巾梅の杖樫の棒。 これらが穢気・悪気を払う呪術的意味を持ち、非人の職能と深い関わりのあることは確実であろう。 とくにと河原者の関係については横井もふれているが、中世におけるこうしたさまざまな色の持つ意味については、これまでほとんど研究されていない。 しかし可視的・具体的に身分の区別を表現したに違いない前近代の社会において、色・服装・さらには髪形などに大きな問題がひそんでいることは間違いないところで、山田の論稿はこの面にも光を当てた点で大きな収穫といわなくてはならない。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第一章 中世身分制の一考察》P.46)


    第三章 中世の「非人」をめぐる二、三の問題

     二 童名(どうみょう)と童形(どうぎょう)

     牛飼(うしかい)の童名については、少なくとも中世前期までの牛馬が、のちに「畜生」「四つ足」などとしてさげすまれたような動物ではなく、なお野獣に近く、たやすく人の統御し難い動物と見られていたことと関わりがあろう。 これを統御する牛飼は、それ故に、童形でなくてはならなかったのである。 このように、中世前期までの動物−自然と人間との関係は、中世後期以降とは大きく異なっていたのであり、鵜飼(うかい)や猿曳(さるひき)だけでなく、鷹飼(たかがい)、犬飼(いぬかい)、さらには馬を扱う人々についても、牛飼と同様の問題を考える必要があろう。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第三章 中世の「非人」をめぐる二、三の問題》P.100)


     とすれば、放免が童名を名乗ったのは、やはり処刑をふくむその境界的な職能に深く関わっていると見なくてはなるまい。 中世後期以降、「清目丸」などとよばれて、たしかに賤視の対象になっていく放免が、中世前期までは「非人」ともいわれながら、絵巻物などによって明らかなように、むしろ畏怖すべき存在として、「鋒(ほこ)」などの呪具を持って姿を現わす理由は、まさしくここにあるといってよかろう。 これは犬神人非人河原者にも共通した問題で、中世前期までのこれらの人々が、中世後期から近世にかけてと同様な賤視、差別をうけていたと見ることは、この間の自然と人間との関わり方の大きな転換を無視することによって、そこから生まれるさまざまな問題をすべて切り落す結果になるものと、私は考える。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第三章 中世の「非人」をめぐる二、三の問題》P.100)


    第四章 検非違使の所領

     そして天文二十一年(一五五二)五月十四日、第一の注文のなかに見える久我家領三条町寺木居住分并相拘敷地について、「勢多約諾」と号して地子銭が沙汰されないとする同家雑掌(ざっしょう)の訴えを認めた室町幕府奉行人連署奉書(ぶぎょうにんれんしょほうしょ)(『久我家文書』六〇四号・六〇五号、以下『久我家文書』は文書番号のみ記す)が発せられていること、また同年月日で、「勢多分諸公事物事」について、細川氏綱同勝賢中間(ちゅうげん)・小者(こもの)等が「諸役免除」と称して役銭を難渋することを「太無謂」とした折紙(おりがみ)の奉書(六〇六号)が「勢多分所々百姓中」充に発給されていること、さらに同年七月の十三日、同じ充所で、地子銭役銭を「代官徳分」と号して、折中、収取しようとする多羅尾左近大夫の妨を退け、雑掌(ざっしょう)にこれらのすべてを渡すことを命じた奉行人連署の折紙奉書(六〇七号)が出ている事実と、「覚書案」の第一の文書に「勢多分半分多羅尾押領」とある点とを考え合わせると、この「覚書案」が「多羅尾、為家門雖不申付、押而号代官、押領」といわれた多羅尾左近大夫との相論をはじめとする「勢多分」の違乱に関連して作成されたことも、また明らかである。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.131〜132)


     そして中世前期−−少なくとも鎌倉期まで、遊女・傀儡子は決して賤視されていたわけではなく、むしろ天皇に直属する形で宮廷に出入りしていたのであり、非人もまたこの時期には聖なる存在として畏れられた一面が確実にあったのである。 それは基本的には天皇、神仏に直属する供御人、神人、寄人と同質の存在であった。 この点に着目して非人も「職人」身分と、以前想定したのであるが、さらにそれに付言すれば、中世前期の「職人」身分は、このように天皇、神仏など「聖」なるものに直属することによって、自らも平民と異なる「聖」なる存在としてその職能−「芸能」を営んだ点に、その重要な特質があるといえよう。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.153)


     しかし南北朝の動乱を境に、天皇、神、仏の権威が低落し、権威の構造、そのあり方自体が大きく転換した結果、中世後期以降の供御人、神人、寄人のあり方も大きな変動を蒙った。 そしてそのなかの一部−実利の世界に転生することが難しく、「聖」なるものに依存する度合が強かった人々が賤視の対象となっていくのである。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.153)


     検非違使の地位の低下自体、天皇の権威の低落の結果であることはいうまでもないが、そのなかで自らの立場を保つため、検非違使はかつてその職掌を通じて掌握してきた地や人的集団を私領化し、そこから実質的な得分−実利を確保するほかなかったのであり、戦国期にはそれすら困難になりつつあった。 そして、すでにその職能それ自体が賤視の対象になりつつあった遊女や河原者、非人たちは、その職能伝説のなかにかつての権威の残映を抱きつつ、現実の社会でも低落した権威になお依存して、その営業、職業の保障を得ることになっていった。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.153〜154)


     勢多氏の所領は、こうした落魄(らくはく)した権威と、それに依存しつづける被差別民の姿を、まざまざとわれわれに伝えているといってよかろう。 しかしこれよりさらに低落しつつも、天皇、神、仏の権威は江戸時代を通じて生きつづけ、それらと被差別民−−その差別された立場を固定化されるにいたった人々との関係も、またこの間を通じて保たれつづけたことは事実である。 それは、さきの南北朝動乱の前後の社会を、それを統合する権威の構造の大きな転換のあり方にも深く関わっており、この転換のあり方をさらに追求することによって、この事実の意味を解明する道がひらかれてくるものと、私は考えている。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.154)


     こうした見方に対し、天皇を特殊化し、過大に評価するものという批判もあろうが、このこと−−社会の転換後も天皇の権威がともあれ存続しつづけたことの持つ重い意味を明らかにすることなしに、前近代史の研究者は、現代の天皇の問題に肉迫することはできないのではあるまいか。 実際、天皇、天皇制について、根本的な批判の発言をすること自体に対する権力の圧迫が、次第に強まりつつある現在、この課題に正面から立ち向かい解決することは、われわれにとって、よりいっそう、緊急かつ重要になってきているのではなかろうか。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.154)


     付論五 横井 清著『中世民衆の生活文化』をめぐって

     いまここで取り上げる横井清『中世民衆の生活文化』(東京大学出版会、一九七五年)は、この流れのなかで結実した見事な成果というだけでなく、この潮流のひとつの特色を鋭角的に示した著書として、まず位置づけられる必要があろう。 そのことの端的な現われを、われわれは、永原が「戦後中世史学の一方の旗手」という高い評価を与えた鈴木良一の最近の著書『応仁の乱』(岩波新書、一九七三年)の視角に対する、横井のきびしい批判に見出すことができる(付論7、鈴木良一著『応仁の乱』に見る「人民」「よけいもの」観についての感想)。 この書で鈴木は、徳政一揆(とくせいいっき)として京都に乱入した馬借(ばしゃく)、都市貧民、牢人、賤民、盗賊等々、貴族を恐怖させた足軽について、「かれらが応仁の乱に重要な戦力として加わったとき、ずばりいえば、人民の敵になったのである」といい切った。 これに対して横井は、あるべき理想的人民」、「純粋な農民戦争」を想定し、さきのようなそれ以外の人々の動きを叩こうとするこうした鈴木の視角では、中世後期の「人民」の全体像は到底とらえられない、「ひる強盗」をする「足軽(あしがる)たち」もまた人民にほかならず、そうした人々の「したゝかな腰のつよさ、粗野な気風、一種の激発性……等々のポイントをしっかり押さえ」ないで、なんで中世の包括的な人民像が描けるのか、と反問し、さきのようにいい切る鈴木には、「屠殺を業とする賤民」、乞食、流民等々に対する「史家としての暖かい眼差し」が欠けているのではないか、と迫ったのである。 前述した二つの潮流の差異は、ここにその最もあざやかな断面を見せているといえよう。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.166〜167)


     前掲の論稿で、永原はこの鈴木『中世的世界の形成』を書いた戦時中の石母田とを対照的な位置に置き、いわゆる鈴木・石母田論争の意義を強調している。 しかしここで横井が批判の刃を向けた点に関していえば、じつは石母田も鈴木もなんら違いはない、と私は考えるのである。 この名著で、石母田が悪党の「頽廃」を強調したことは周知のところであるが、それと同じ文脈のなかで、神人について、石母田が「堕落した執達使」(二一三頁)といい、「有力者に対して追蹤怯懦(ついしょうきょうだ)、百姓に対しては猛悪なる人間であり、中世社会に於て最も腐敗せる人種」(二七七頁)と、口をきわめて罵倒したとき、横井の言をかりれば、石母田もまた、中世商工業の、また芸能の担い手としての神人に対する「史家としての暖かい眼差し」を欠いていたといわれるであろう。 しかもこの場合、石母田の神人についてのこうした見解が、清水三男に対する批判を通して展開されている点に注意しなくてはならない。 とすれば、より本質的な問題は、鈴木と石母田の対立にあるのではなく、石母田の清水批判、横井の鈴木批判のなかに、ひいてはさきの二つの潮流の差異と矛盾のなかにあるのではなかろうか鈴木・石母田論争がしばしば大きく取り上げられるにもかかわらず、その結果生み出されたものが意外に貧しいのは、この点をさけているところに理由がある、と私は思う。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.167〜168)


     これにつづけて横井は、当時、活発化しつつあった国衙(こくが)領の研究との関連で、手工業の給免田およびそれを核とする「別名」が、国衙近傍あるいは荘政所の近辺に存在したことにふれたのち、視点を一転して、給免田を保有しない在地手工業の担い手に目を向け、浪人・乞食から越後(えちご)国奥山荘の非人にいたる人々を「浮遊労働力」としてとらえようと試みている。そこに卑賤視差別の問題が伏在することを、横井はすでにここで指摘しているが、同じ年「部落問題研究」で、この観点をさらに広い視野のなかに位置づけつつ、「差別」の問題に正面から立ち向かった。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.170〜171)


     だがそれは、決して尋常一様な切り込み方ではなかった戦後第一期、林屋辰三郎によって基礎づけられた散所論が、原田伴彦の商工業史の分野からの提言とあいまって、そのころすでに中世被差別部落史の基調は堅固に形成されていた。これはいまなお「通説」としての不動の地歩を保っているといってよかろうが、横井はそれと真っ向から取り組んだのである。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.171)


     「散所民といわれれば、たんに隷属民なることを連想するばかりでなく、ついでに、かれらがすべて徹底的な差別=賤視をこうむったものというふうに、ごく安易にうけとってしまう傾向」をいましめる横井は、「中世の隷属民や乞食や非人たちは、はたして現実に強度の卑賤視を蒙っていたのか」という問題をあらためて問い直し、「中世封建社会における諸関係のなかで保護をうけること特権を認許されることとの持つ意味を、『散所』という歴史的環境のなかで明らかにし」てみる必要がある、と強調する。 そして、「部落史研究は、たしかに一つの段階を〔終了〕した」(傍点著者、二二四頁)と、高らかに宣言したのである。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.171〜172)


     中世人の穢れに対する恐れの諸相にふれたのち、横井はまず、神と天皇とを蝕穢思想の発源体としてとらえる。 ついで、この世のみならず、身の内から発する穢れ・不浄を説く浄土思想、癩者の救済に一身を捧げつつも、その病を「前世の宿業」と見る叡尊(えいぞん)、「吐棄(とき)すべき敵手を癩者とみ」たてて「罵言(ばげん)の極致」を発する一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、不信者に対する罰として、癩の恐怖を「わかりやすく」解説する法華経等々、仏教思想に内在する差別性が追及される。 それだけでなく、横井の鉾先(ほこさき)は、盲人、不具者に対する残酷な笑いにみちた狂言、さらに蝕穢思想、癩者に対する差別思想を庶民のなかに浸透させる役割を果たした、漂泊の陰陽師(おんみょうじ)、(ひじり)、説教語りなど、賤民的雑芸者自体にも向けられていく。 こうして、否応(いやおう)なしに自らの血脈の不浄を確認させられ、ときとして見せたたくましさを次第に失い、ついに、これ以上穢れるはずもないとされた身分に固定させられていく穢多」、「河原者」の運命を通して、横井は中世から近世への「発展」の意味を、あらためて問い直す。 そして、戦後の「民衆文化史」と現在の「人民闘争史」を“串刺しにする者”としての「癩者」と「不具」の立場を押し出していくのである。 さきの論点は、もはやここにいたって極点まで追いつめられたといってよかろう。
    (《中世の非人と遊女 第T部 第四章 検非違使の所領》P.179〜180)


    第U部 中世の女性と遊女

    第一章 中世の女性

     三 旅する女性たち

     とはいえ、戦国期に入るころに作られた『七十一番職人歌合(しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ)には、きわめて多くの女性の「職人」−職能民の姿が描かれており、女性のこの分野での活動がなお著しく活発だったことは明らかである。 すでによく知られている事実であるが、それを列挙してみると、山海の幸をひさぐ大原女(おはらめ)、魚売、心天(こころぶと)(ところてん)売、農作物およびその加工品を売る酒作、餅売、麹(こうじ)売、米売、豆売、豆腐売、索麺(そうめん)売、繊維製品を作り売る紺掻(こうかき)、機織(はたおり)、帯売、縫物(ぬいもの)師、組売、摺師(すりし)、白布売、その他の手工業製品にかかわる扇売、白物(しろいもの)売、挽人(ひざれ)売、紅粉解(べにとき)、燈心売、畳紙(たとうがみ)売、薫物(たきもの)売、宗教・工芸民である女盲、立君(たちぎみ)、辻子(ずし)君、牙●(すあい)、白拍子、曲舞々(くせまいまい)、持者、巫(かんなぎ)、比丘尼(びくに)などをそこに見出すことができる。 こうした絵巻物だけではなく、他の文献史料によってみても、魚売、酒売、餅売、塩売、帯売、扇売、紺灰(こうばい)売などの女性の商人・手工業者の活動をこの時期にも確認できるので、なかには天文(てんぶん)十六年(一五四七)、塩座の座頭のひとりとなった五位女や、長享(ちょうきょう)二年(一四八八)洛中帯座座頭職となった亀屋五位女、さらに扇売の本座の「おとな衆」になった「御料人(ごりょうにん)」「女房」などとよばれる女性たちなどもいたのである。 (●:(イ會))
    (《中世の非人と遊女 第U部 第一章 中世の女性》P.207)


    第二章 遊女と非人・河原者

     一 清目(きよめ)・犬神人(いぬじにん)・馬借(ばしゃく)

     寛元(かんげん)二年(一二四四)四月の大和(やまと)国奈良坂非人陳状案に「清水寺一伽藍(がらん)之清目」「本寺最初社家方々之清目、重役之非人等也」「本寺重役清目之非人等」などとあることから知られるように、清目」は「非人」の別称でもあり、また大山喬平が指摘しているように、穢(けが)れを「キヨメ」る広義の非人の職能を表現する語であった。 しかし平安期から鎌倉期にかけて史料に現われる「清目」を、直ちに狭義の「非人」と同一の集団の人と見ることのできない場合がしばしば見出される。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.214〜215)


     例えば丹生谷哲一が注目した『醍醐雑事記(だいごぞうじき)に見える「清目」は、障泥(あおり)、裏無(うらなし)などの革製品を貢納しており、これは南北朝期、祇園(ぎおん)社に所属して、やはり裏無(うらなし)を調進した河原細工丸(かわらさいくまる)につながる人々と見るべきであろう。 そして」といわれ、犬神人とは明確に区別されている点から見て、この集団は僧形(そうぎょう)・覆面の犬神人−非人とは異なる俗体・童形の河原者の集団であったと思われる。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.215)


     しかし北野社の「清目丸」は、室町後期には延徳(えんとく)二年(一四九〇)三月の土一揆閉籠(へいろう)によっておこった北野社の焼亡に当たって、「ヱモツ(穢物)」を「キヨメ」た「カハラノ物」として姿を現わし、そのさい、釘・鎹(かすがい)をとったことが問題となっている。 また、この「清目丸」と直ちにつながるかどうかは明らかでないが、同じころ、西京にはしやうもし」−声聞師(しょうもんじ)とよばれた俗体の「散所(さんじょ)者」がおり、掃除をはじめ、井戸替(いどがえ)や堀を掘るなどの土木工事に従事しているのである。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.216〜217)


     そして、五ヶ所十座といわれた大和の声聞師たちが、「七道者」といわれた、猿楽アルキ白拍子アルキ御子金タヽキアルキ横行猿飼(さるかい)を支配していたことは、よく知られた事実であり、その機能をそれぞれに分化させつつあったこれらの人々に対する社会的な差別、賤視が、この時期、すでに支配的になっていたことも、広く認められているといってよかろう。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.217)


     とすれば、さきにもふれたように、十四世紀がこうした人々の社会的地位を大きく変動させた画期であったことも承認されてよいのではないかと思うが、もうひとつここで注目しておきたいのは、十五世紀に入り、馬借(ばしゃく)が犬神人と並んで住宅破却を行っているという事例が見られる点である。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.217)


     馬借と犬神人とが、ともに住宅破却を行った事例はこれだけではない。 『天台座主記(てんだいざすき)』宝徳(ほうとく)元年(一四四九)十二月一日条によると、寺領についての確執によって、山門公人馬借犬神人等が六条東洞院の万寿寺に発向し、一塔頭を打ち毀(こぼ)ち、乱入、狼藉(ろうぜき)を働いたといわれている。 これはすでに豊田武が注目している史料であるが、これらの事実によって、山門に所属し、年預に統轄された馬借が、犬神人と同じ刑吏としての役割を果たしたことは間違いない。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.218〜219)


     もとよりこれのみによって、直ちに馬借の身分的地位、職能について、犬神人と同じと見るわけにはいかないが、勝俣鎮夫の指摘によって周知のこととなった明応(めいおう)五年(一四九六)の馬借を含む郷民土一揆(つちいっき)が「柿帷衆(かきかたびらしゅう)」といわれた事実を、これとあわせ考えると、場借がこの時期、広い意味の「非人」に連なる立場にあったと推測することも可能になってくる。 そして勝俣の判断のように、郷民もまた、馬借とともに非人の衣裳である「柿帷」を身につけたとすれば、ここに賤視されつつある馬借と行動をともにして一揆する郷民の動きが浮彫になってくることにもなろう。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.219)


     さらに、このような非人に準ぜられる馬借のあり方は、応永(おうえい)元年(一三九四)九月の将軍足利義満(あとかがよしみつ)の日吉(ひえ)神社参詣などと同様の仕事に携っている事実によってみても、明らかといえよう。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.219)


     それでは、馬借はいつごろから、またなぜ賤視されるようになったのであろうか。 この問題を解明するためには、馬借の実態を細かく明らかにしなくてはならないが、すでに『新猿楽記(しんさるがくき)』貪飯愛酒(たんはんあいしゅ)」の女の夫として、牛に車を引かせる車借(しゃしゃく)とともに現われ、『醍醐雑事記(だいごぞうじき)』にも、執行職として牛、車を召される車借と並んで、馬を召されたとして姿を見せる馬借については、悪党人などといわれ、徳政一揆(とくせいいっき)に当たって活発に活動した南北朝末から室町期を中心に、豊田武が史料を博捜した研究を行っているとはいえ、その鎌倉以前の実体は、ほとんどわかっていないといわざるをえない。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.219〜220)


     このような馬借などの地位の転換が起こった理由について、さらに推測を加えてみると、ここに動物−−とくに牛・馬に対する社会の対応の仕方の大きな変化を想定することができると思われる。牛飼童童形(どうぎょう)の意味について、別の機会にふれたように、鎌倉期までの社会は牛・馬に、なお人の力をこえた、たやすく統御し難い力を見出していたと考えられるが、中世後期以降牛・馬を「四つ足」「畜生」と見て、それ自体を穢れた存在として扱うような、江戸時代に少なくとも西日本では支配的であった見方が、次第に社会に浸透し、それが牛馬の皮、さらには牛・馬自体を扱う職能民に対する社会的な差別、賤視を生み出していったのであろう。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.221)


     こうした動物に対する見方の変化は、単に忌避されるだけでなく、畏怖すべき事態であった穢れが、やはり十四世紀を境に、嫌悪・忌避されるようになっていくのと軌を一にした動きといわなくてはならない。非人河原者(かわらもの)、清目(きよめ)に対する賤視も、そこに広く社会に浸透していくのであるが、遊女に対する賤視、さらには女性の社会的地位の低下も、またこの転機と深く結びついていることは確実、と私は考える。 とすると、遊女、白拍子等について考えるためには、社会全体のなかでの女性の地位について、まず考えなくてはなせないので、以下、その点にふれてみることにしたい。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.221〜222)


     二 女性の社会的地位

     もとより、日本の社会における女性の実状に即して、中国風の律令制には数々の変改が加えられており、それがその後の女性の独特なあり方を生み出したことも事実である。 例えば七、八世紀に多くの女帝が現われたこと、その女帝を含む太上(だいじょう)天皇天皇と同じ待遇が与えられたことはきわめて重要であり、また四品(ほん)・五位以上の品・位階を持つ人に公認された家政機関の設置が、男性のみにこれを認めた唐令と異なり、女性にも認められている点も注目すべきである。関口裕子はこの事実から、女性もまた個人単位の所有に基づく経営を行いえたと見ているが、これは、はるか後年、女院あるいは高位の女性が、女院庁(にょいんちょう)、政所(まんどころ)等の家政機関を持ち、名目的な面はあるとしても、十四世紀まで荘園支配者として多くの荘園群を継承・保持しえたことにまでつながるといってよかろう。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.228)


     さらに考えておかなくてはならないのは、後宮−女性官人のあり方である。宮刑(きゅうけい)が行われず、宦官(かんがん)を用いなかった日本の社会において、後宮はすべて女性によって占められた点に、まず目を向ける必要があるが、各地域の首長たちから天皇に貢上された采女(うねめ)、神に仕える巫女を含む数多くの女性官人後宮十二司に組織されたことは、さまざまな影響を女性に及ぼしたと考えられる。 しかし、後宮、女性官人については、角田文衛須田春子玉井力などによる詳細な研究があるとはいえ、なお十分にその実態が解明されたとはいい難い状況にあるので、いまはそれらの研究によりつつ、思いつく点について、若干ふれるにとどめておきたい。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.228〜229)


     まず、当然のことであるが、これらの女性官人たちが、男性官人たちと同様、文字の読み書きを身につけなくてはならなかったことに注目しておく必要があろう。 日本の社会において、律令国家の支配下に入った地域の郡司(ぐんじ)・郷長(ごうちょう)クラスの人々を底辺とする中央・地方の官人が、識字層として形成されたのであるが、女性の場合は、さきのような制度的な規制下にあって、男性より機会は少なかったとはいえ、国衙(こくが)・郡衙(ぐんが)などになんらかの形で関わる人もありえたに違いない。それはいずれにせよ、各地域から宮廷に入った女性を含む女性官人たちにとって、文字を用いうることが必須の要件とされていたのであり、このことが宮廷の女性をはじめ、女性の識字層の形成に大きな意味を持っていたことは疑いないといってよい。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.229)


     十世紀以降の女流文学が生れる基盤は、まずこのようなところに用意されたのであるが、それだけでなく、奈良時代から平安初期薬子(くすこ)の乱まで、権力者の妻や一族のものが女性官人の頂点にあって後宮を掌握し、政治に深く関与した事実によっても知られるように、作品を多く生み出していることも見のがすことはできない。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.229)


     三 遊女と女房

     ところがこうした特質を持ち、天皇家高位の貴族とつながり、全体として社会的な地位も決して低いとはいい難いこれら遊女傀儡白拍子などの集団が、十三世紀後半から十四世紀を境として、劇的といってもよいほどにその地位を低下させ、ついには社会的な賤視の下に置かれるようになっていくのである。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.237)


     すでに後藤が詳しくのべている通り、十四世紀には京に定住するようになりはじめたと見られる遊女たちは、辻子君(ずしぎみ)とよばれ、その集住地地獄辻子加世辻子と通称された地獄辻子−「ちこくかつし」はすでに建武(けんむ)二年(一三三五)の文書(「真珠庵文書(しんじゅあんもんじょ)」)に現われるので、その形成は十三世紀後半にまで遡りうると思われるが、この呼称自体に、遊女に対する賤視の進行をうかがうことができる
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.237)


     こうした遊女の屋は「傾城局(けいせいのつぼね)」といわれ、立君(たちぎみ)とよばれた街娼までふくめ、遊女はこのころも「上臈(じょうろう)」と通称されていた。 そこにかつての遊女と女房の世界とのつながりをうかがい見ることができるが、それはさきの天皇始祖伝説とともに、もはや過去の栄光のみじめな残骸でしかなかった。 実際、「仲人方」と「出合方」にわけられて、亭主(ていしゅ)」とよばれた男性から公事(くじ)が徴収されていたここにいたって、遊女は女性独自の自律的な職能集団としての特質も失っていたのである
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.237〜238)


     そして、江戸時代に入ると、京、江戸などの大都市において、遊女屋は堀と土居をめぐらした特定の地域−遊郭(ゆうかく)に囲い込まれた「悪所(あくしょ)」となっっていた。 同じころ、各地域の港町をはじめとする都市にも傾城屋傾城町が広く現われる。 例えば、秋田の院内銀山(いんないぎんざん)町には、江戸初期、傾城町が形成されていたが、『梅津政景(うめづまさかげ)日記』によると、慶長(けいちょう)十七年(一六一二)、院内傾城役を請負っていた美濃(みの)之二郎兵衛は、やはり「傾城のてい主」とよばれている。ここでも傾城屋は男性が統轄、経営していたのであり、傾城町には肝煎(きもいり)が置かれ、角館弥介がその役についていたのである。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.238)


     そして、同記、慶長十七年七月廿七日条に、長崎という傾城の売買の記事が見え、八月七日の条には質物に置かれた傾城八屋が現われるように、このころの傾城は、人身売買質入された女性をその供給源としていた。 鎌倉期の遊女とは全く異なり、江戸時代から近代にいたる遊女、娼婦に通ずる傾城の姿を、われわれはここに確認することができる。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.238)


     しかし、このように転落の運命を辿った遊女の、ある意味では対極に当たるとはいえ、同じ時期、宮廷の女房の世界にも大きな変化がおこっていたことを見落とすわけにはいかない。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.238)


     室町時代に入り、天皇の実権がほとんど失われ、伝奏(でんそう)が武家に掌握されてしまった結果、天皇側近の女房がその命を奉じた、女房奉書(にょうぼうほうしょ)が多く用いられるようになる。 狭く限定された世界のなかでの女房の立場は、このように比重を増したことは事実であるが、女房の入内が中絶したこの時期には、典侍(ないしのすけ)、掌侍(ないしのじょう)などの女房は「侍寝」の役割を果たすものが多くなっていった。 それとともに、江戸初期までの幕府による宮中の風紀粛正などにより、女房は宮廷の奥に閉じ込められるようになる。 あえていえば、それはあたかも天皇のみを「」とする「遊郭」と同じ状況であったと見ることができよう。女流文学作品が見られなくなるのも、十五世紀以降の女房のこのような地位の変化に起因していることは間違いないといってよい。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.238〜239)


     最近、著しく活発化した家族史研究によって、次第にその実態が明らかにされつつある親族・家族関係の変化、とくに支配層にはじまる家の形成が社会を広くとらえ、それに伴う家父長権の強化の進行したことが、こうした女性の立場の変化の根底にあったことは確実であろう。 しかし、遊女の地位のさきのような転落は、それだけでは説明し切れないものがあるので、そこに女性の地位の低下とも深く結びついた、女性の「性」そのものを「不浄(ふじょう)」とし「穢(けが)れ」とする社会の見方が、強く作用していたと見なくてはなるまい。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第二章 遊女と非人・河原者》P.239)


    第三章 中世における女性の旅

     このような日本の女性のあり方が、世界的に見てどのように位置づけられるのか、統計などによって厳密に考えてみるのも興味深い問題だと思うが、こうした女性だけの旅が近代に入ってからもさかんだったことは、宮本常一『忘れられた日本人』によって、よく知ることができる。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第三章 中世における女性の旅》P.250)


     その「女の世間」で自らを語る周防大島(すおうおおしま)の老女は、十八歳のとき、女の友達三人ほどで、「鬼の国」といわれた土佐をのぞく「女四国」を旅し、その道中、やはり女性だけの「豊後(ぶんご)の姫島」から来た「女衆」に逢い、二、三日、一緒に歩いている。 この女性たちは善根(ぜんこん)宿」に泊り、「和讃(わさん)や詠歌をあげてもらいものをして」旅をつづけたが、こうした「物参り」だけでなく、吉敷郡(よしきぐん)の煉瓦石の工場へ働きに行き、元気のよい女性は「夏は岩国の新開へ綿つみに、秋は山口の奥方へ稲刈に」行ったといわれている。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第三章 中世における女性の旅》P.250〜251)


     また、家出をする若い女性も多く、伊予(いよ)で下女奉公をし、「文化」を身につけて帰ってくることもあったと、宮本は面白おかしい話を人伝に聞いたこともあり、周防大島の例をすべてに及ぼすことはできないであろうが、西日本の海辺の女性の生活の一端をこの宮本の報告からうかがうことができる。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第三章 中世における女性の旅》P.251)


     これはいうまでもなく平民の女性の事例であるが、芸能民や商人の女性の遍歴はさらに広域的、日常的であったろう。 例えば、伊予の松山の近くの松前は、中世、岩清水八幡宮神人(いわしみずはちまんぐうじにん)の根拠地だったと見られるが、近代になってからも、「松前のおたたさん」といわれ、漂着した公卿(くぎょう)の娘滝姫とその侍女を祖とするという言い伝えを持つ女性の商人は、単に魚売(いおうり)として知られているだけでなく、敗戦前に阪神地域から北海道、樺太、中国大陸にまで出かけたといわれている。 各地の海村の女性には、こうした人々が非常に広く見出しうるものと思われる。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第三章 中世における女性の旅》P.251)


     その状況をかなり具体的に知りうるのは、よく知られている『とはずがたり』の主人公二条の、正応(しょうおう)二年(一二八九)以降の物語、巡礼のための遍歴の旅である。 物語ではあるとはいえ、これは一種の紀行文ともいえるので、そこから中世前期の女性の旅の実状をうかがうことができると思うが、注目すべきは、必ずしも明確ではないとはいえ、二条の旅は女性の一人旅であった可能性が大であり、その微証は随所にうかがうことができる。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第三章 中世における女性の旅》P.255〜256)


     近江の鏡宿(かがみじゅく)で「遊女ども、ちぎりもとめてありくさま」を見た二条は、美濃(みの)の赤坂(あかさか)宿では「やどのあるじ」の「若き遊女のおととい」と琴、琵琶(びわ)などひき、和歌の贈答をしている。 これはこの時期の遊女たちのあり方を知る上でも重要なことで、『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』の説話で鋳物師(いもじ)・山伏(やまぶし)・仲間(ちゅうげん)を宿泊させた遊女がそうであったように、遊女は旅人の宿をしており、自らが「宿主」だったのである。琵琶和歌などの教養を身につけていたことも、これによって知ることができるが、逆にこうした遊女の宿に泊っている点から、二条が一人旅であったのをうかがうことができる。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第三章 中世における女性の旅》P.256)


     このことはすでに多くの人が注目しているが、主が俗人である「宿」に泊ることは、女性にとって危険であったといってよかろう。 実際、宿主寄宿人との関係はきわめて緊密であり、寄宿した人がたまたま「盗人」の嫌疑をかけられたため、宿主が処罰され、地頭(じとう)の下人にされてしまったことは、鎌倉時代、寛元(かんげん)元年(一二四三)の太良荘で確認しうる事実で、これは時代を降(くだ)っても同様であった。
    (《中世の非人と遊女 第U部 第三章 中世における女性の旅》P.258)


     律令国家が、平民の成年男子に、調庸(ちょうよう)、軍役などの公的な課役を義務づけ、女性がそこから外されたことが、逆に、女性の商業や金融などの世界での活動を促したひとつの要因ではなかったかと思われるが、さらに時代を降り、十世紀以後になると、女性の職能民の遍歴、交易の旅は多様にかつ活発になってくる
    (《中世の非人と遊女 第U部 第三章 中世における女性の旅》P.259〜260)


    終章

     一 文明史的な転換

     さまざまな批判・異論が多いことは重々承知しているが、私はいまも、六十年間の動乱を含む十三世紀後半から十四世紀を境として、「日本」−本州・四国・九州の社会は大きく転換すると考えている十五世紀琉球王国の成立、および、ときに「夷千島王(えぞがちしまおう)」を自称する人の現れた東北北部・北海道における政治勢力の形成、そして「日本国」の四至の意識の本州・四国・九州の社会へのより深い浸透を考慮して、これを「民族的転換」ということもできるが、とくに「日本」の社会に即してみたとき、それと表裏の関係を持つ「文明史的転換」ととらえることも可能である。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.264)


     その実態としては、まず十三世紀後半以降、とくに顕著になる銭貨の社会への浸透、それとともに進展する貨幣・信用経済が社会のあり方を大きく変えたことをあげることができよう。 それは海上・河川の交通の大きな発展を背景とした商人金融業者廻船人(かいせんにん)の広域的で緊密かつ自立的なネットワークの形成を前提としており、そのなかにあって荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)の経営もかなり高度な計数・識字能力・帳簿作成を含む経営の力量なしには維持できなくなってきた。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.264〜265)


     三 「文明化」の影

     博奕に対する禁制は十一世紀から十二世紀、王朝によって頻々と発せられており、十三世紀にかけて博奕は、「偏に是れ盗犯の基」あるいは、「諸悪の源、博奕より起こる」とまでいわれるにいたった。 鎌倉幕府もまたこれに呼応しているが、十三世紀後半にさしかかるころになると、「四一半の徒党博奕に対する幕府の禁制は次第にきびしさを増し、やがてそれは「盗賊・放火の族(やから)」、山賊・海賊、そして悪党に対する抑圧と重なって来る。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.272)


     人の意志の及ばない博奕・双六を「悪」そのものとする見方が、このころからはっきりと前面に出てくるのであり、やはり人の力をこえた「穢(けがれ)」、さらには商業・金融自体をも「悪」と見るとらえ方と結びつき、十四世紀にかけて「悪党」の問題は、この時期固有の重要な社会問題となってきたのである。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.272)


     このような博打・非人を含む「悪党・海賊」のネットワークに対し、鎌倉幕府の「農本主義」的な政治路線、安達泰盛(あだちやすもり)による弘安(こうあん)の徳政(とくせい)に収斂される路線は厳格な抑圧の姿勢をもってのぞんだが、それは十三世紀末、非人・女性に支えられ、都市乃至(ないし)都市的な場に急速に教線を延した一遍時衆に対する大寺社、貴族の側からのきびしい批判、それに伴う「」に対する忌避とも結びつき、「悪」の問題はまさしく政治、宗教の焦点となっていったのである。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.273)


     しかしこの路線の推進者であった泰盛霜月騒動(しもつきそうどう)による没落以後、十四世紀に入ると、むしろ商業・金融に依存し、さきのネットワーク自体を取り込みつつ統制を強化し、自ら交易・貿易を積極的に推進しようとする北条一門得宗御内人(とくそうみうちびと)の政治路線が幕府内部で優位に立つこととなった。 とはいえ、その専制的な流通路に対する統制は、むしろ悪党・海賊との矛盾をさらにいっそう、鋭くする結果となり、その反発を組織した後醍醐(ごだいご)天皇より、鎌倉幕府−北条氏は滅亡する
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.273〜274)


     こうした経緯のなかで政権を掌握した後醍醐は、王権の基盤を商業・流通・金融に置く前代未聞の特異な君主独裁の道を突き進み、北条氏の下で抑えられていた、さきのネットワークを支えていた多様な人々を、一挙、時代の表面に噴出させた。 後醍醐の居所、内裏(だいり)に出入りした商人や「異形(いぎょう)の輩(やから)」、律僧文観(もんかん)の「手の者」のなかに、非人博打などの交わっていたことは確実であり、「内裏ヲカミト名付タル 人ノ妻鞆ノウカレメ」といわれたように、遊女もまたわが物顔に都を横行していた。 それとともに世を風靡した「婆娑羅(ばさら)」は、「農本主義」的な「文明」に抑圧されていた未開のエネルギーが、こうした新たな都市民を突き動かしたところに噴出した風俗といってよかろう。 そして非人、博打、遊女はまさしくそうした都市乃至都市的な場と切り離し難く結びついた存在だったのである
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.274)


     しかし、「新儀(しんぎ)」を乱舞させることわずか三年足らずで、後醍醐は没落、本州・四国・九州の社会は十四世紀の六十年間に及ぶ動乱の渦中に巻き込まれていく。 その動乱の収束ののちに軌道にのった室町幕府には、もはや「農本主義」的な色彩はほとんど見出されない。室町の王権は間違いなく、後醍醐が先取りした商業・金融にその基礎を求める政策によって安定したのである。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.274)


     この時期に独自な国家、琉球王国を設立させた沖縄諸島の社会には、「穢」に関わる差別、賤視は近代にいたるまでなかったのであり、アイヌの社会も、もとより同様であった。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.276)


     また前述のように、神人・供御人制が作動せず、「西日本」よりもむしろ銭貨の浸透、流通が早く、「穢」に対する対処も「西日本」とは異っていたと見られる「東日本」においては、さきのような賤視、差別のあり方が「西日本」と異っていたことは確実である江戸時代の状況から考えると、「渡守(わたしもり)」「野守(のもり)」「山守(やまもり)」「林守(はやしもり)」のような境界領域に関わる人々に対する差別があったのではないかと臆測されるが、牛馬の扱い方を含めて「穢」に関係した賤視、差別は「東日本」では「西日本」に比べてはるかに弱かったのではないかと思われる
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.276)


     さらに「日本国」の支配下に入るのがおくれた東北、とくにその北部、中部九州から南九州にかけての地域も、「東日本」「西日本」と直ちに同一視できないものがあると考えられるが、その解明は今後を俟(ま)つほかない。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.276)


     さらにまた、江戸時代のような「穢多(えた)・非人(ひにん)」の身分が制度化され、差別が固定化するまでの過程も、決して単線的ではなかった。とくに十六世紀、「西日本」の都市、都市的な場を中心に広く教線を伸ばし、巨大な政治的・宗教的勢力となった、一向一揆(いっこういっき)を背景とする浄土真宗の本願寺(ほんがんじ)教団が、織田信長と対決し、大量の流血を伴う死闘の末、徹底的に弾圧され、さらに十七世紀前半、列島の全域に信徒を組織し、やはり都市に基盤を置いて大きな勢力になろうとしたキリスト教が、江戸幕府によって根絶的な弾圧を蒙り、その上に立って、少なくとも建前は「農本主義」に貫かれた近世の幕府・大名の国家が確立していく大きな歴史のうねりが、商工業者、金融業者等の社会的地位の低下、非人・河原者、博打、遊女、そして諸種の宗教民・芸能民に対する差別の強化に、甚大な影響を与えたことは間違いない。 これに立ち入るだけの力を現在の私は持ち合わせていないが、こうした過程をきめ細かく明らかにすることなしに、江戸時代以降、近代にいたる差別の問題を本当に明らかにすることは決してできないであろう。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.276〜277)


     しかしその過程は、前述したように、「日本国」の支配下に置かれた社会のなかでも、ひとしなみに考えることはできないので、幕府による制度化にかかわらず、江戸時代の被差別民の名称が地域によって多様であった事実に、その一端が現れている。 東北日本海岸の「らく」、加賀(かが)・能登(のと)・越中(えっちゅう)の「藤内(とうない)」、薩摩(さつま)の「しく」をはじめ、「茶せん」「鉢ひらき」など、さまざまな名称があったので、それは無高(むたか)の名称が「水呑(みずのみ)」だけでなく、加賀・能登・越中の「頭振(あたまふり)」、越前の「雑家(ぞうけ)」、防長(ぼうちょう)の「門男(もうと)」(亡土)のように多様であったこととその根を同じくしており、近世の社会が諸地域それぞれにきわめて多彩であったことをよく示している。 これらの名称のなかには、その起原がなお不明なものが少なからずあり、まずそれを追究することから仕事をはじめなくてはならない。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.277)


     このように考えてくると、被差別部落の問題に対し、日本全国に画一的な姿勢でのぞむことは、歴史の事実、現実の実態を無視し、結果として国家の立場に立つこととならざるをえない。 しかも本書でのべてきたように、非人・河原者の問題は、遊女・博打、さらには商工業者・金融業者の問題と不可分に結びつき、すぐれて都市の問題ということができるので、それを正確にとらえ、的確に位置づけるためには、列島の社会はもとより、人類社会の全体に及ぶ広い視野を持つ必要がある。
    (《中世の非人と遊女 第U部 終章》P.277〜278)


    解説  山本幸司

     非人に関する研究史は、戦前の喜田貞吉柳田国男らの研究をはじめとして、戦後の林屋辰三郎黒田俊雄横井清三浦圭一大山喬平脇田晴子ら諸氏に至るまで数多く、またさまざまな角度から論じられてきた。 そうした中で著者は一貫して、鍛冶・番匠などの手工業者ばかりでなく、各種の商人や荘官・知識人から遊女や傀儡子・博奕打ち、果ては宋人・唐人までを含む、極めて広範な、言ってみれば職能に従事する人びとすべてを包括する「職人」という概念の中で、非人を捉え直そうと試みてきた。 本書に収められた各論考は、そうした試みの一環である。
    (《中世の非人と遊女 解説》P.285)


     したがって本書における非人論を理解するには、網野氏の歴史研究に共通するキー・ワードともいえる職人という概念について知らなければならない。
    (《中世の非人と遊女 解説》P.286)


     網野氏によれば、職人とは次のような存在である。この言葉にも時代による意味の変遷があるが、十二〜十三世紀以降になると、実態として漁民・狩猟民・商工業者・芸能民・呪術師など、農業以外の生業で生活する人々を広く指す言葉となる。 この時期の職人には、下司(げし)・公文(くもん)・田所(たどころ)など荘園領主の下級の代理人(荘官)層が含まれている点が注目されるし、あるいは職人という言葉で、これらの階層を指す方が古い用法かもしれないという推測も成り立つ。 だが、これらの職務も文書や絵図の作成、帳簿の管理、計数能力など、一般の人間にはない専門的技能を要求される点では、他の職人と共通しており、あるいはそれによって職人に分類されたとも考えられる。
    (《中世の非人と遊女 解説》P.286)


     ところが十四世紀の後半ごろから、荘官層を職人とする用例が減少する一方、「職人」を非農業民を広範に指す言葉としではなく、より限定された手工業者を指して用いる例が増大してくるようになり、それがそのまま後世に引き継がれていく。こうした言葉の変遷を前提とした上で、網野氏は、「職人」概念をもっとも広い意味での職人、つまり専門とする技能(芸能)を持って、その技術の練磨(道)に努力している、非農業民と規定するのである。
    (《中世の非人と遊女 解説》P.286)


     この職人身分の特質は、その専門的な職能を通じて天皇・貴族・武家・寺社に奉仕し、その代わりに平民の負担する年貢・公事(くじ)を一部ないし全部、特権的に免除されている点にある。 だが同様に年貢・公事を負担していないといっても、下人・所従らの隷属民の場合は、隷属するがゆえに負担する資格を持たないのとは対照的に、職人は移動の自由はもちろん、寺社など複数の権力者に奉仕する自由をも有している点で隷属民と異なる。 ただし、この年貢・公事を負担しないという平民との違いが、本来は特権であるにもかかわらず、後に職人が平民から差別される根拠となった可能性も指摘できる。
    (《中世の非人と遊女 解説》P.286〜287)


     職人の年貢・公事免除の特権に関する保証は国家によって与えられているが、通行税を支払うことなく各地を往来して、売買交易する特権もまた山野河海(さんやかかい)・関渡津泊(かんとしんぱく)・道・市などの無主の場に対する天皇の支配権によって保証されていた。 しかも、この天皇による保証が実質的な意味を持っていたのは南北朝時代ごろまでであるにもかかわらず、天皇と職人との結び付きは、職人の職能の起原伝説の形で後世まで存続する。 これは天皇制の存続とも関係する重要な問題であり、こうした現象が特に日本の西国に強く現れるのに対して、東国では同じような職人の由緒が鎌倉幕府の創設者源頼朝に起こるとされている事例が多いことは、日本文化における西国と東国との差異を考える際にも留意すべき特質である。
    (《中世の非人と遊女 解説》P.286)