[抜書き]『黒船以前 パックス・トクガワーナの時代』


『黒船以前 パックス・トクガワーナの時代』
中村彰彦/山内昌之・中公文庫
2008年9月25日初版発行
    目次
    はじめに 中村彰彦 第一章 パックス・トクガワーナへの道−−秀吉から家康へ
      世界史のうねりのなかで   フェリーペ二世VS.秀吉・家康   文禄・慶長の役とキリシタンの反乱   東アジア全体の変動期   パックス・トクガワーナの基礎づくり  
    第二章 江戸開府と徳川三代−−家康・秀忠・家光
      家康を柵外に追いやる   秀忠とはいかなる人物か   大奥という官僚システム   家光の時代と官僚たちの世代交代   江戸という都市のかたち   日本の近代が失ったもの  
    第三章 保科正之−−「守成」を担った将軍輔弼役
      武田家の気概を託して   高遠での帝王教育   保科家の士風   家光と忠長   会津藩のシステム   幕政家としての成功   保科正之の現代性  
    第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実−−元禄再考
      幕閣、幕臣の変質   実説 赤穂浪士   五代将軍綱吉のパーソナリティ   ブレーンなき御政道  
    第五章 幕末へのカウントダウン−−三大改革の時代
      吉宗の登場と享保の改革   田沼親子の政治   将軍補佐松平定信の寛政の改革   幕末への導火線となった天保の改革  
    かぐや姫からモンテーニュまで−−歴史を語り合う楽しみ 山内昌之


    はじめに

     さらに第三章として「保科正之−−『守成』を担った将軍輔弼役(ほひつやく)」を章立てできたことは私の大きな喜びである。明治維新から二十一世紀の今日まで、保科正之という日本近世史にそびえたつ存在をきちんと研究する国史学者はまったくあらわれなかった。 その正之の人と業績をこれだけ深く語り合えたことに、私は知的興奮を禁じ得なかったとあえて告白しておきたい。
    (《黒船以前 はじめに》P.11)


    第一章 パックス・トクガワーナへの道−−秀吉から家康へ

     世界史のうねりのなかで

    [中村] 内側だけの眺めというのではなく、開かれた近世史といえばいいでしょうか。 日本と西欧の接触ということでは鉄砲伝来が象徴的ですね。

    [山内] 天文(てんぶん)十二年(一五四三)、ポルトガル人が種子島(たねがしま)に到着して、鉄砲が伝来したことになっています。 これも従来は、ポルトガルの船が漂着したと伝えられていたのですが、最近では、唐人(とうじん)、倭寇(わこう)などの関連で考えられるようになった。五島列島(ごとうれっとう)に本拠地を置いていた王直(おうちょく)の船だ、という考え方が出てきていますね。

    [中村] それから六年後に、ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教を日本に伝えます。

    [山内] ザビエルはそのときに、一説には鹿児島で犯罪を犯したというヤジローもしくはアンジローにマラッカでめぐり会って、一緒にやってきたことになっています。 それまでもエピソードとしてはもちろん知られていたわけだけれども、問題は、こういう逸話が点と点ではなくて、東アジアの海域において中国人の海商との関係、外へ出て行った日本人の商人たちの行動様式の広がりをあらわしているということでしょうね。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.17〜18)


    [山内] 新田(にった)次郎さんが、たしか鉄砲伝来の種子島を舞台にした短編小説を書いているんですね。 それは、要するに種子島に鉄砲が伝来して君命で、鍛冶師(かじし)、鍛冶工が鉄砲の模造をつくろうとして、いいところまでいくんですよ。 仕上げに、撃ち放すと暴発して撃った人が死んでしまう。 なぜかというと、ネジの原理がわからない。 撃鉄(げきてつ)周辺を釘(くぎ)などで留めただけでは火薬が暴発してどうもためだ、これが謎(なぞ)だ、と。 それで、そこの鍛冶師の娘に惚(ほ)れたポルトガル人が、自分が調べてみようと、いったん帰国する。 まもなく帰ってきて、絵に描いた螺旋(らせん)を見せるネジの原理ですね。 その後、娘とのあいだがらがどうなったか……。 これはいま思い出せない(笑)。
     新田さんの小説では、ポルトガル人はリスボンに帰ったような感じに書かれていたように記憶しますが、実際はそうじゃない。 もどったのはマラッカか。 東南アジアの海域に行って−−実際、最近の研究に照らしても、マラッカあたりへもどったに違いない。

    [中村] それには別の説もあります。初め、種子島時尭(ときたか)(種子島領主)から鉄砲を造れといわれた八板金兵衛(やいたきんべえ)という刀鍛冶は、銃尾をネジでふさぐ方法を知らなかった。 そこでポルトガル人に若狭という名の若い娘をくれてやって、その操(みさお)と引き換えに当時の最先端技術のノウハウを得た、というのです。

    [山内] そっちのほうでは、鉄砲伝来にふさわしいロマンにならない(笑)。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.21〜22)


    [中村] そうでしょうか。実際問題として、銃腔にネジできちんと尾栓(びせん)をはめなければ、暴発して撃った当人も大怪我をしてしまう。 鉄砲鍛冶というのは、刀鍛冶の技術があればさほどむずかしいことではありません。 鍛鉄(たんてつ)の技術があれば鉄の板を筒状に丸めることは簡単にできる。 その後、近江(おうみ)の国友(くにとも)村では刀鍛冶たちが室町幕府の命令で突然鉄砲鍛冶になって、やがて秀吉の直轄地帯となります。 ほかの大名に国友鉄砲を売ってはいれない、となるわけです。
     その過程を見てゆきますと、国友村にいた次郎助という刀鍛冶が、折れた脇差(わきざし)で大根をくり抜いた。 折れたギザギザで大根に螺旋が刻まれた。 これだ、というわけで国友村でネジの原理が発見されたという説もあります。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.22)


    [中村] それでも、倭寇は、相当長く続いたようですね。

    [山内] そうですね、だいたい一五七〇年代ぐらいに終息に向かいますが、そのときに大きなメルクマールは二つあったと思います。 一つは王直の処刑ですね。 ああいう国と国の正式な保護、正式な認知の外にある人間は許さない。 もう一つは、明にとっても同じですが、ポルトガルとの協力。 この二つの要素があると私は思います。 ポルトガルがいちばん協力したのは、王直のような人間や倭寇に象徴される私貿易、あるいは海賊的な行為に対して、ポルトガルはみずからの貿易圏の防衛をはかる必要もあったからです。 明のいわゆる海禁政策と利害関係が合致したといえるでしょう。 そこで、明は代償としてマカオをポルトガルに与えて、そこに居住し通商することを承認したわけですね。

    [中村] 日本がだんだん近くなる。

    [山内] 大きな世界史の流れとしていえば、ゴアマラッカ、さらにマカオのルートは、ポルトガルの官船の司令官に基づく大航海動脈とでもいえるでしょうか。 その拠点がインド、東南アジア、そして中国というところにできたわけです。 このあとにマカオ−長崎、あるいはマカオ−平戸(ひらど)というルートになるんですね。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.24〜25)


    [中村] 日本人へのルートをつくったのがザビエルということになりますか。

    [山内] もちろん。 ザビエルの功績というのはいろいろとあると思いますが、日本にキリスト教という世界宗教を伝播させたことが一つ。 二つ目は、マカオまで来ていたポルトガル人、ひいてはそれに象徴されるヨーロッパの交通通商ルートをマカオから平戸、長崎まで延ばしていく役割を果たした。 その結果として、日本では、最盛期には世界の三分の一を産出する、それからの輸出が始まるわけです。 とくにと中国産の生糸の交換、まさに世界史的な物流といったものがつくり出される。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.25)


    [山内] そうなんです。 例えば、スペインやポルトガルではインディシオス化というようですが、新大陸を発見したとき、彼らはまさにインディオの地を植民地化し、布教し、彼らを変えていく。
     ところが、日本という国に行ったとき、世界で最も凶暴な完全武装の集団、職業的な軍人集団が存在したのに仰天する。 世界でいちばん鋭利な日本刀を持って殺人を肯定する集団がいた。 キリスト教をそう簡単に受け入れない。山本音也さんの小説『コロビマス』などに登場するフェレイラやジョセッペ・キアラですね、それぞれ沢野忠庵(さわのちゅうあん)や岡本三右衛門(おかもとさんえもん)と名乗った二人が直面したような、日本の生きとし生けるものすべてに神が宿り、霊が宿るというようなところで、キリシタン信仰が妙なものに変質していく。

    [中村] 隠れキリシタンは、まったく別なものになっていきますよね。 穴あき銭に糸を通して輪をつくり、それを「マルヤ様」と称してマリア像の代わりに拝んだりするところまでいってしまう。

    [山内] ご承知のように、隠れキリシタンは明治になって合法化されて、表に出ることを認められました。せっかく時代が変わったのだからあなた方もちゃんとしたカトリックになってもいいんじゃないですか、と五島や平戸や長崎あたりでいったら、「とんでもない、あんなものに私たち改宗するぐらいだったら、仏教に改宗したほうがましだ」という(笑)。 そのくらい独特のキリスト教信仰が日本で花開いて、変質していったわけですね。 日本というのは、そういう点で、スペイン、ポルトガルにとってはたいへん異質なものとして見えたと思うのですよ。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.31〜32)


    [中村] 時代が飛躍しますけれども、幕末に例をとりますと、戊辰(ぼしん)戦争で凄惨(せいさん)な目にあった人間が、明治になってから忽然(こつぜん)と洗礼を受けるケースがあります。 坂本龍馬(りょうま)を斬った京都見廻組(みまわりぐみ)の今井信郎(のぶお)もクリスチャンになった。 新選組の鈴木勘右衛門(かんえもん)もキリスト教信者になっている。 会津藩出身の新島襄(にいじまじょう)夫人八重(やえ)もそうです。凄惨な目にあうとキリスト教に惹かれていく、何かそういう傾向があるような気がします
     戦国時代でいうと、明日の命も知れないようなところでは、そういうキリスト教の、死ねば天国にゆけるという考え方は一つの救いとして作用したであろうし、宣教師側も非常によく勉強して、日本人に実に口当たりのいい方法でアプローチしてきた。 つまり当時のスペイン人がアステカを暴力的に叩いたのとは違う、文化的な浸透を考えたところに、たいへんな戦略を感じるんですね(笑)。

    [山内] まさにおっしゃるとやりで、キリスト教というのは新大陸であれだけ虐殺をやったり、奴隷を正当化していったように、殺戮(さつりく)行為とキリスト教は矛盾しないんですよ。 正義の戦い、聖戦というわけですから。 今のブッシュ政権のネオコン(新保守派)にも似たような使命感がある(笑)。 フランスのモンテスキュー『法の精神』を書いた啓蒙主義の元祖でさえも、肌が黒いアフリカ人を人間と見なさない、神の創造物であるはずがないというのです。
     それを別の局面に当てはめると、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役でも小西行長(こにしゆきなが)をはじめとして多くのキリシタン大名朝鮮に攻め込んでいて、そこには南蛮人宣教師たちが同行しているんですよ。 キリシタン大名を通して朝鮮をまさにキリスト教化していく、〈文明化〉していくという問題意識があるからです。 朝鮮での殺戮行為が個別的には何の名によっておこなわれたかということを考えてみなければなりませんね。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.33〜34)


    [中村] 戦国時代のことでいいますと、武将たちにファッションとしてのポルトガル的なものが入ってきて、秀吉ベッドで寝ていましたし、細川忠興(ただおき)などは入信もしないのに十字架の旗を立てて戦うのがかっこいいと思っていました(笑)。信長のようにビロードのマントを着た武将もいます。
     それと、西洋音楽ですね。 琴、琵琶(びわ)、鼓、笛ぐらいしか知らないところに非常に新鮮な音楽が入ってきた。 秀吉も、何回ももっと演奏しろとかやってますよね。 いちばんおもしろいのは、大友宗麟(おおともそうりん)ですね、あれもかなり乱暴な男だと思うんですけれど、音楽が好きで、「無鹿(むしか)」という地名を残しています。 この語源はムジーカ(ミュージック)です。

    [山内] なるほど、たしかに、エスタブリッシュメントに接近していくから、西洋化された文明に憧(あこが)れる戦国大名が多くなったというのは当然のことだったと思いますね。 明治になっても華族や資本家のとくに夫人や娘たちが入信した事例が多い。エスタブリッシュメントのファッションなのですよ(笑)。 今でも「○○女子学院」とか「○○女子高」といったミッション系の一部の女学校には、ザビエル以来の「お嬢様ブランド」が残っている(笑)……。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.36〜37)


     フェリーペ二世VS.秀吉・家康

    [中村] 先ほどのポルトガルとスペインが勝手につくってしまった世界分轄協定の円環が東アジアで閉じたという話に付け加えますと、煙草(たばこ)や梅毒もあっという間に世界一周してしまったという事実があります。 喫煙の習慣もこの時代に日本に根付きました。しかも、「キセル」というのはカンボジア語起原の言葉で、キセルに使われる「羅宇(らう)竹」の「ラウ」はラオスの「ラオ」ですね。カンボジア語ラオス語が、日本語の喫煙具関係用語のなかに入っている。 これもヨーロッパ−アジア−日本という文化の伝播ルートがあったことを象徴的に示しています。

    [山内] フランスのアナール派という社会史の学派、これが「細菌による世界の統一」という言葉を使っているんです,(笑)。 細菌による世界の統一というのはうまい言い方で、梅毒というのはシャルル八世による一四九四年ナポリ遠征のときに、イタリアで流行(はや)ったというんです。 そこからバーッと拡がった。 だから、フランス兵が持ち込んだから、イタリアではフランス病という。 フランスからいうと、冗談じゃない、ナポリで染(うつ)されたのだからナポリ病という(笑)。 染つされた国がその直前に伝えた国の名前を病気の名につけている。ドイツではフランス病といったりする。 それで、次はそれがポーランドに行くと、今度はドイツ病といいます。 さらにポーランドからロシアに行って、これをポーランド病という(笑)。
     日本へは二つのルートで来たといわれています。 一つは唐瘡(とうがさ)といって、中国、唐人がもたらした。 もう一つはポルトガル人がもたらしたから、ポルトガル病。 二つの言葉がある。 いずれにしても、一五一二年らしい。 ポルトガル人の種子島漂着よりも三十年早いらしい。 いずれにせよ、初めてイタリア、フランスで猖獗(しょうけつ)をきわめてから、あっという間なんです。 こういう話になると普段社会史をやってもいないのに、無闇に張り切ると思われても困るんですけれど(笑)、アナール派の「細菌による世界の統一」というのはほんとうにうまいこといったな、と感心しますね。フロイスは、日本人が性病に無頓着なのに驚いている。 日本の男女はそれをよくあることと見なし、いささかも恥じることがない、というのです。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.37〜39)


     文禄・慶長の役とキリシタンの反乱

    [山内] そのとおりですよ。 オランダは新教国で、布教に感心がないというけれども、やはり幕府から見ればキリスト教国家ですよ。 出島がつくられる前は、市街地にオランダの商館がありました。 なぜ幕府はそれを出島に移したかというと、商館に行くと十字架もあるし、それから為政者にとってという問題は非常に重要なんですが、西洋の暦がどうしても目につく。 それが何を基準にしているかといえば、キリスト教紀元ですよ。 イエスが生れた年を中心にした暦ということでしょう。 「寛永何年」といった日本の年号を用いない。 だから、やはりこの連中も所詮(しょせん)キリシタンなので危険だと、出島に移していく。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.52)


    [山内] どの面(つら)さげて隠れているのかという考え方からすると、日本人の朝鮮人イメージというのが、当時からかなり差別や悪いほうに固まっていく。

    [中村] これは現代中国の話ですが、「愛国虚言」という表現があるそうです。国を愛するためにはデマを飛ばしてもよい、とする。 このような愛国虚言はやはり朝鮮にもあって、恨みと表裏一体になっているようです。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.59)


    [山内] 秀吉だって、朝鮮の美女を侍らせようとしたけれども、その女性は操を守って、膣(ちつ)のなかに鋭利な刃物を潜ませておいて、秀吉の陽物(ようもつ)が入ったときに千切(ちぎ)ったので、それがもとで秀吉は死んだという、こういう俗説もあります。

    [中村] 女性の性器のなかに歯が生えているといういわゆる「陰牙(いんが)の伝説」は民俗学のほうで有名ですが、戦前に人類学者の金関丈夫(かなせきたけお)さんが熱心に研究したことがあるんです。 その結果、東南アジアから東アジアにかけて、ひろく分布していることがわかった。 今ではアメリカのインディオのあいだにも流布していたことが明らかになっていますが、なぜ「陰牙の伝説」ができたかというと、ある部族の女性が他部族の男に強姦されるのを防ぐため、陰牙を持つ女性がいると宣伝したのではないでしょうか。 その話が崩れて、噛(か)み切られた男の情けなさに焦点が移ってゆく。 それに似た話は、ベトナム戦争を舞台にしたSASプリンス・マルコシリーズというスパイ小説でも書かれたことがありました。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.62〜63)


     東アジア全体の変動期

    [中村] 韓国に残る倭城址(わじょうし)を見てまわったことがありますが、急場に乱造したのかなと思ったら、意外ときちんとできていましてね。 戦国と江戸の初期の中間的な形態を残していておもしろいんですね。 江戸時代になると、堀も横にまわしますよね。 平城(ひらじろ)が多くなるから。 ところが、戦国の山城(やまじろ)にはタテ堀や空堀(からぼり)をもうけるテクニックがたくさん使われている。 倭城にもそういう窪地があるんですね。しかも城郭は必ず北に向けて半円形に縄張りして、南の背面に船着場を造って、万一のときは日本へ逃げられるように工夫されています

    [山内] それはカイロの壮大な英国大使館を思い出させる。 背面にはナイル川があって船着場からいつでも地中海に向けて一目散に逃げ出せるようにしていた(笑)。 それは冗談ですが、武威意識をもって対外的に尊大な自己中心的発想を持った体制、それがいちばんドラスティックに出たのは秀吉の朝鮮侵略であったといえます。 そこで、江戸時代はどうかというと、徳川初期における日本型華夷意識、あるいは武威国家体制といった旧制度に徐々に訣別を告げていく。 そのプロセスが、家光から四代将軍家綱(いえつな)、五代将軍綱吉(つなよし)あたりで進行していったのでしょう。 何よりも綱吉の「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」がそれを象徴していると私は思いますね。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.69〜70)


     パックス・トクガワーナの基礎づくり

    [中村] そうですね。 秀吉があれだけごちゃごちゃにした朝鮮関係にせよ、家康はまがりなりにも朝鮮通信使という文化的な回路に切り替えるんですね。 それと、「元和(げんな)」という年号の象徴性ですね。あまりにも戦国が続きすぎた、いくさの時代は自分たちの意思で終わらせ、平〔和〕の〔元〕になる時代をつくるんだという、その決意ですね。秀吉「天下」と署名するんですけれど、ほんとうに天下をきちんとした、安定した国家にするんだという意識は、家康で初めて出てくる。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.73)


    [山内] 使節は琉球からもやってきましたが、両者のあいだには差もつけられていました。朝鮮の場合には七五三の本膳がつけられたのに、琉球の場合には本膳が一汁三菜だったという具合です(笑)。 中国やオランダについては、国家間における正式外交の文書交換や公式な外交使節の往来を持たない通商の国として区別した。 こういう形でまとめあげていったのが、家康から三代家光に至るまでの徳川の初期政権の外交だったのではないでしょうか。 その選択は正しかったように私は思いますけどね。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.73〜74)


    [中村] 儒教の話にまたひと言つけ加えますと、朝鮮通信使ができてから、日本の儒学者たちは、通信使のほうが中国のほんとうの発音を知っているというので、朝鮮通信使が来ると、ワッと宿舎に押しかけたそうですね。自分たちは少し訛(なま)っているんじゃないか、レ点、一、二点(返り点)で勝手読みしているんじゃないかと常に不安だったからでしょう。 だから、どこかで文化的に中国に近い人からその教養をもらいたいと、そういう人たちが通信使の行く先々にやってくるような文化意識がこのころ育ってきたということでしょうか。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.74)


    [中村] それと、この時代には儒学を人生哲学として深く理解して、それを応用できる人たちがやっと育ってきたと感じます。 四代将軍家綱の時代ですが、朝鮮通信使が来たたる年には、日本は台風で東海道がボロボロになっていて、こんなところをみっともなくて見せられない、今年は彼らを江戸へ招くのをよそうじゃないかと幕閣が議論しているときに、保科正之(ほしなまさゆき)が反論したという話があるんですね。 波頭を超えて、わざわざ日本まで来た使節にありのままの国土を見てもらって何が悪いんだといって、とにかく江戸まで案内するように指示します。 そういう非常に良識的な感覚がこのころ育ってくる。 人を殺す技術に長(た)けていれば領主になれた時代から明らかに変わって、保科正之と同時代の人でいえば、閑谷(しずたに)学校を開設した備前(びぜん)岡山藩の池田光政(みつまさ)とか、学問立国を尊ぶ知的な大名たちも育ってきます。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.74)


    [山内] あと、林羅山がやったことは何かというと、各国の外交文書や翻訳とかも丁寧に写しを取っておき、文書の折り畳み方はどうだったとか、行のあけ方はどうだったか、故事来歴について詳しいらしいですよ。 結局、羅山はよく外交顧問といわれますが、外交にかかわる形式的な技術に関しては詳しかったということです。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.79)


    [山内] そうですね。秀忠のときに出てくるのが酒井忠世土井利勝です。 ところで、保科正之は外交にどういう役割を果したんですか。 何かでてきますか。

    [中村] 先ほどの朝鮮通信使のことが逸話として出てくる程度ですね。保科正之は四代将軍家綱輔弼役(ほひつやく)であって老中ではありませんが、その老中たちもまだ役割分担はありませんでした。

    [山内] そうですね。 オランダに限られていますが、献上品進物品はどこへ行ったかという研究がありまして、時期によっては本多上野介正純がダントツなのです。 彼が失脚してから、その分を合わせ取るような形になったのず、土井利勝なんですよ。酒井雅楽頭(うたのかみ)忠世も出てくる。長谷川兄弟ももちろん出てくるんですけれども、保科正之がちっとも出てこないんですよね。 これがおもしろい。 あと、松平信綱などのレベルも出てきますが、とにかく保科正之だけが出てこないのですよ。
     私の読み方に間違いがなければ、史料的根拠からしても、献上品、進物品を受け取っていない。 実際、天下の執政であり、将軍家の庶弟(しょてい)で叔父にあたる人が贈答品を受けとっていないというのはすごい。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.79〜80)


    [中村] これも章をあらためて論じたいと思いますが、保科正之官位もいらない葵(あおい)の御紋を使えという異母兄家光の注文も辞退してしまった人ですから、もらわなかったのでしょうね(笑)。 彼の下で、会津藩の別領にあたる南山御蔵入(みなみやまおくらいり)五万石を取り仕切った奉行は、地元の有力者からもらった金銭を全部記録していて、辞める前に、そのリストとともに、その贈答品の現物も全部、保科正之に差し出しています。 そういう奉行を育てている人でもありますから。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.80)


    [山内] いずれにしても、私が興味深かったのは、ほんとうに保科正之受け取らなかったということです。 ますます正之は偉い、あらためて見直しました(笑)。

    [中村] 保科正之参内傘(さんだいがさ)という馬印(うまじるし)を朝廷からもらったけれども、あの家系(のちの会津藩松平家)は幕末までそれしかほんとうにもらったことがない朝廷工作もしないし、公家(くげ)と親戚関係を結ぼうともしない潔癖さでした。
    (《黒船以前 第一章 パックス・トクガワーナへの道》P.81)


    第二章 江戸開府と徳川三代−−家康・秀忠・家光

     家康を柵外に追いやる

    [中村] 豊臣秀吉(ひでよし)という人は、日本における関東の意味というものがよくわかっていなかったんじゃないかと思うんです。 小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦い、厳しいライバルとわかっていた徳川家康(いえやす)を、権力の中枢である近畿地方から追放するような意味で、関東へ転封(てんぽう)させた。 当時の関東平野は人口も少ない田舎(いなか)ですが、その豊かさを家康は知っていて、喜んで関東の王者となり、そこから覇権(はけん)への道が開けてゆく。 秀吉ともあろう者が、小田原北条(おだわらほうじょう)氏の征伐にあれだけ手間隙をかけたのに、どうして関東を全部あっさりと家康に渡してしまったのか。 幕府草創期のことを考えると、まずこれが不思議なんですね。やはり、秀吉、信長(のぶなが)というのは中京以西の関西政権であって、関東への認識が足らない。 それが滅びへの第一歩となっていった、という気がしてしようがないんです。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.88)


     秀忠とはいかなる人物か

    [中村] それともう一つ、家康と秀忠に共通するのは、幕藩体制をいかにして確立していくかということももちろんですけれども、自分たちの力で、太平の世を切り開くんだという意思があることですね。 自分たちの権力欲だけを満足させる、覇者(はしゃ)となって満足するだけではなく、戦乱の続いた時代を自分たちの手で終わらせるんだという意思、元和偃武(げんなえんぶ)」という言葉にそれがよくあらわれていると思うんですけれど、彼らにはそういう認識があり、それを自分たちの力で成し遂げるんだという感覚があるから、いわゆるパックス・トクガワーナ(徳川の平和)の方向に歴史が流れ始める。

    [山内] 上田城攻めに手間取って秀忠が関ヶ原に遅参したことですが、秀忠の凡庸たる所以(ゆえん)ということで、歴史家は彼に厳しい。 しかしよく考えてみると、交渉をしたり、いろいろと駆け引きをしたのは、結局、軍監の本多正信(まさのぶ)なんです。

    [中村] そうです。関東総奉行本多佐渡守(さどのかみ)。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.98〜99)


     大奥という官僚システム

    [山内] 大奥というと、やはり春日局(かすがのつぼね)ということになると思うのですが、それでいつも思い出す話があります。 私の同僚だった理系の教授に、春日局を聞き違えたのか「カスバの局」といっている人がおりましてね。

    [中村] ハハハハ。

    [山内] カスバの局、カスバの局っていうんです(笑)。 それは意外と冴(さ)えているんじゃないかと思いました。 ハーレムと大奥。 アルジェリアなどフランス人がつくった新市街から切り離されたカスバの空間は、どことなく大奥の孤立性と似ているかもしれません。

    [中村] それは傑作ですね(笑)。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.106)


     家光の時代と官僚たちの世代交代

    [中村] 光正謀叛遊びをしていました。 遊びとはいえ、家来たちに江戸城に向いて出撃しろなどといっていては潰されますね。

    [山内] それにしても、いとも簡単に最上家福島家加藤家もやられてしまいます。 会津四十万石加藤明成(あきなり)と堀主水(ほりもんど)の意地の突っ張りあいなど愚劣極まりない。 幕府のいいようにやられる。 城にこもって、かなわぬまでもと抵抗することをしない。 これも不思議なことです。

    [中村] 逆に福島家の広島城退去はあまりに城明け渡しの作法にかなっていたので評判になり、そのあと家臣団は再就職に苦労しなかったといいますね。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.113)


    [山内] 福島丹波長尾隼人(ながおはやと)、尾関石見(おぜきいわみ)、可児才蔵(かにさいぞう)、あそこの家臣団はすごい。 しかし皆、脚が悪かったり、目が片方しかなかったり、口が裂けていたり身体が不自由な家老ばかりなんです。

    [中村] 戦国の修羅場(しゅらば)をくぐり抜けているあいだに、負傷したんですね。

    [山内] 家康が一度彼らに謁見(えっけん)を許したことがあるんですよ。 そしたら小姓(こしょう)たちが彼らの姿を見て笑いを我慢していた。 で、退出したあと、ゲラゲラ笑う。 これは有名な話です。 そうすると家康は怒ったというんですね。ほんとうに情けない連中だ。 勇者を外見でしか見られないのか、と。あの者たちがいかに戦国の乱世を戦ってきて、いまの福島に名をなさしめたか、と。偉業を果たした才能を見られないのか、と嘆いた。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.114)


    [中村] 土井は家康の庶子(しょし)だった、というのが正しいようです。官僚というのは表だった動きがないから小説の主人公にはなりにくいのですが、実際にはこういう人たちが政治の局面を動かしていたのだろうと思いますよ。

    [山内] 秀忠、家光とくると、やはり中村さんが世に知らしめた保科正之の話になります。歴史学者がああいう魅力的な人物をきちっと紹介してこなかったのは、幕末の会津藩憎しが投影した薩長中心史観の名残で、恥ずかしいことだ、と私は書いたことがあります。

    [中村] まさに徳川三代という時代、創業から守成へという時代にあって、守成を支えた最大の功労者じゃないかと思います。 創業から守成へと移行するときにはどうしてもトラブルが起きる。 そのときに、家光の庶弟であるという暗黙のカリスマ性と、官僚政治家としての高い能力とが類まれな形で渾然一体となっていた有徳(うとく)の人なのでしょう。 しかも本人はそういう資質や生まれを厭味な形で出さない人間性を持っていましたね。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.116〜117)


     江戸という都市のかたち

    [中村] 日本の城下町は、すごろくの上がりの位置にお城があるかもしれないけれど、そこへは殿様と家来たちしか入れない。 だから真ん中はエアポケットで、一般庶民は同心円上のドーナツの上で生きている。

    [山内] 江戸は、六十〜八十万人の武士が住む武家地が面積でいうと途方もなく広くて六割ほど、残りは、町人地と寺社地が二割ずつです。 四十〜五十万人の町民は狭い地域にひしめいている。 そういう点では百万都市江戸は特殊な町ですね。 世界でも最大規模の大消費都市です。 しかも男女比がかなり偏っており、男性は女性の一・五倍。 若い独身男子や参勤交代のにわか独身も多いのです。遊郭食べ物屋がはやったのも無理がない(笑)。 また、切絵図(きりえず)の指示どおりにはいかなくて、微妙な勾配をつけてあって、気が付いてみたら他の場所に出てしまうとか、防御の観点から実にうまくできている。 ちょうど城に枡形(ますがた)をつくって死角にしたり、わけのわからない方向に敵を通したりする、あんな要領なんですね。

    [中村] 全体としてはタニシの渦巻きみたいに錯綜させて、敵が一直線に突入できないようにしているのですが、ヨーロッパのように馬車が走る大通りをきちんとつくるというような都市の発想に比べると、限界があったように思います。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.124〜125)


    [中村] 徳川三代が完成させた鎖国体制が日本の進歩を遅らせたというのは誰でもいえるんですが、現代のような憲法をつくらなくても、対外侵略をしない、非常に平和的な体制だったということもいえますね。鎖国のフレームをつくったことによって、内部の圧力が上がり、そこから江戸の文化が華開いていく。 明治以降、江戸幕藩体制を否定した国家体制が今も続いているわけですから、どうしても新しい体制をつくった人は、その前の体制を悪くいいますね。 いわゆる江戸学というのも今はずいぶん流行(はや)っていますが、江戸趣味のレベルに止まっている気がします。 江戸幕藩体制は二百六十年以上も日本を支えた珍しいシステムなんだから、もっとその長所を研究する余地があると思うんですよね。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.125〜126)


    [山内] 少し前まで、日本史研究のなかでどこがいちばん真面目だったかというと、近世史研究だといわれていたようですね。 近世史研究というのは、つまり江戸時代史ですね。 そもそも帝国大学国史学科の最初の教授には、薩摩の重野安繹(しげのやすつぐ)が入っており、明治政府の公式史観は全部薩長の意向でつくられています自分たちが倒した江戸政権、徳川体制の否定ということが前提としてあったわけだから、江戸時代のモダニティを評価するはずもない。 明治維新が善なるものとしてそこに対比されたわけで、そこから出発しているしたから、ずいぶん偏頗(へんぱ)なものだったのでしょう。 それでも最近では優秀な近世史研究者に、実におもしろい人たちが出ているようです。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.129)


    [山内] 「鎖国」というのはずいぶん誤解される言葉でして、最近は「海禁」という言葉を使いますね。 つまり海外渡航を禁止する、海外からの来航も−−限定的には受け入れつつ−−禁止する。 だから「海禁政策」という言葉のほうが正解だというのが、最近の日本史研究者たちの意見です。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.127)


    [中村] 信長が毛利(もうり)の水軍と戦うときに、巨大な鉄甲船を造りますでしょう。安宅船(あたけぶね)というんですか、ああいう大艦主義が鎖国とともになくなってゆくのは、惜しいことをしたと思います。
     軍艦の技術と商船の技術はイコールなのに、それを拒否してしまう。 商業主義、重商主義というものを武士階級はバカにしてかかるところがあって、それがその後の技術的停滞に結びついてしまった。

    [山内] 日本の和船には西洋でいう甲板(かんぱん)というものがないんですね。 それから竜骨(りゅうこつ)ですか、キールもない。

    [中村] キールもないし、甲板がないから二階建て、三階建ての巨艦など考えられない。 造船技術の停滞が、結局幕末の、黒船を見てのびっくり仰天につながってしまう。
     日本人は、例えば火縄銃を扱う技術に熱中して、大砲のことを考えなくなってしまうようなところがある。 しかも台尻を肩に当てないで頬付けし−−物理学的にはどういう意味なのかわかりませんけれども−−ドンと撃った衝撃を頬で逃すという……(笑)。 こういうテクニックは発達するので、もう火縄銃でいいわけです。連発銃はいらない、これでいいんだというところで、技術の停滞が始まる。 あれが不思議なんですね。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.131)


     日本の近代が失ったもの

    [中村] 国語日本の歴史は、高校・大学で必修にすべきだと思いますけどね。

    [山内] 当然ですよ。 国際化というのを、英語それも米会話を勉強して海外との関係で仕事をするのが国際化だと思っている。 とんでもないことです。 サイパンやハワイに観光旅行に行っても、ここで何が起きたかということにまったく興味を示さない若者ばかりじゃありませんか。国際化というのは、必要条件として、日本の歴史や文化を問われたときに外国人に答えを示すことができるか、欧米なりイスラームの文化に照らし合わせながら問題を考えることができるか、という主体性の表現ができるかどうかということだと思います。

    [中村] これから儒学というものは再評価の時代に入るのではないでしょうか。 結局、大人が子供たちに教える基本的な価値観というものが、今の日本にはないような気がします。

    [山内] 自分たちを律する根拠がはっきりしなくなっているのが今の時代です。 非常に懐疑的なまま、われわれは二十一世紀を迎えたのですね。 われわれが依拠してゆく原理として、欧米的な教養だけではなくて、むしろわれわれ自身のなかに知恵があるのではないか。 江戸時代におけるある種の骨太な教養のあり方、知識人のあり方から、ずいぶんまだ学ぶ必要があると思います。
    (《黒船以前 第二章 江戸開府と徳川三代》P.135)


    第三章 保科正之−−「守成」を担った将軍輔弼役

     武田家の気概を託して

    [山内] 正之の幼名「幸松(こうまつ)」の「幸」は甲州に通じる。 そこには、武田家の歴史を後世に伝えたいという思いを、正之に託したのではないかと推測することもできますね。

    [中村] 見性院は幸松に武田の姓を与えましたし、信玄の遺品である「紫銅鮒形(しどうふながた)の水入(みずいれ)」をあげてしまう。 それを幸松が木で叩いて、でこぼこにしてもニコニコ笑っていたといいます。秀忠が、産ませっぱなしにして、個人的には認知したけれども、正式には認知しないという逃げをうつものですから、将軍家の子供なのに守り刀ももらえない。 それをかわいそうに思って、見性院は三条小鍛冶(こかじ)の国宝級の短刀をあげています。
     甲州の「甲」に、松平の「松」で〔幸松〕。 徳川体制のなかに血を溶かしこむといっては語弊がありますが、見性院には、武田武士団の気概というものを、この子によって後世に伝えたい思いがありました。 幸松も、その期待をきちんと受け止めて高遠で成長していきます。 養い親になってくれた保科正光(まさみつ)も、保科家を通して、武田家の家風というものを適切に彼に教えてくれたといえます。

    [山内] 武田家と徳川家の関係というのは忘れられがちですけれども、保科松平の有名な家老の田中三郎兵衛正玄(さぶろべえまさはる)をはじめ、徳川家の幕閣に代々老中(ろうじゅう)を出した土屋(つちや)家秋元(あきもと)家など、武田家の縁につながる家臣は多いですね。 見性院が保科正之に与えた影響の他に、保科正光が与えたものも大きい。 信玄がつくった政治的、軍事的な家風、いかにして人々を統治していくかという経国済民(けいこくさいみん)の考え方を自然に幼少期から吸収することができた意味は大きいですね。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.142〜143)


    [中村] 盆地には水が流れ込むように、いろいろな文化が集まってきてそこに留まると仮定することが許されるならば、高遠の渓谷には伊那谷(いなだに)などからいろいろな文化が入ってきて沈殿する。 武田家の精神的な遺産が保科家に引き継がれ、目には見えない形でそれらが正之に非常によく影響を与えたという気がします。

    [山内] 仁科盛信の武勇を今でも高遠の人々は誇りに思っていると聞きますよ。 徹底抗戦して武田の意地を見せた彼の気概は、見性院や正光を通して、正之の血のなかに入り込んでいったのでしょうね。

    [中村] 彼女たちが幸松に期待したことは間違いありませんが、お仕着せがましい期待のしかたじゃないんですね。 また、将軍の子をお育てすることによって、何らかの見返りを期待しているわけではない。見性院は、六百石の石高から三百石を幸松にあげようとする。 ああいうところはすごい女性だなあと思います。武田の家風を継いでくれる男の子を一生懸命に育てようとする、無私の精神を感じるんですね。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.144)


    [中村] のちに保科正之会津藩の藩政を取り仕切り、あるいは幕閣のリーダーとなったとき、非常に民政を重んじます。 良き行政の見返りに税金を取るというのではなくて、与え続けて見返りを求めないという不思議にきれいな政治をする。 それは、不孝な認知されない男の子を、一生懸命、見返りを求めず育ててくれたお静さん見性院信松院たちへ、領民たちに仁愛の政治をおこなうことで恩を返したのではないかと思いたくなります

    [山内] 経国済民というより経世(けいせい)済民といったほうがいいと思いますけれども、ヨーロッパにはノブレス・オブリージュnoblesse oblige)という言葉がありますね。地位の高い者にはそれにともなう義務があり、みずからの犠牲や無私の献身によって、世の中の秩序を守らねばならないという考え方。 保科正之はそのような経世済民をよく知っていた人だと思いますが、その背後にあったのは、今おっしゃったような彼の幼少期の不孝であったといえるでしょう。 ただ、苦労が身になる人と身にならない人がいるというのは、昔も今も同じで……(笑)。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.144〜145)


    [中村] やはり貴種なんですね。 品位があります。 七歳で高遠に来たときに、「すでに高遠保科家には養子がいるというならど、行かない。 お母さん、もう江戸へ帰りましょう」と毅然といったという。 それを聞いた保科正光は、七歳の若君ながらたいしたものであると思い、養い親であっても……。

    [山内] 「殿」をつけますね。

    [中村] ええ、常に「幸松殿」と呼びます。お預りした将軍家の若君を一生懸命お育てするというふうに考える。 さすがに見性院は人を見ていますね。 武田が滅びるときに最後まで踏みとどまり、高遠で仁科五郎盛信に副将として仕えた保科家の血筋というものを非常によく見ていた。 この子を託すに足る武田家ゆかりの武将は保科家だけであるという認識です。 それは正しかったわけで、それは不幸中の幸いでした。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.145〜146)


     高遠での帝王教育

    [中村] 正光の祖父である、「槍弾正(やりだんじょう)」といわれた保科正俊(まさとし)には、松本(まつもと)の小笠原(おがさわら)勢が五千人で攻めてきたとき、四百人の手兵しかいなかった。 その四百人対五千人のいくさで実に見事に勝っています。 鉾持桟道(ほこじさんどう)の戦いといいます。

    [山内] 高遠の人たちが今でも語り継いでいますね。

    [中村] なぜ五千人を四百人で撃破できたのか調べたことがあるのですが、農民たちの力を借りなければ、とてもかなわない。 正俊は農民たち三百人を呼んできて、銃を与えて、一日で火縄銃の撃ち方を教えて、きちんと前線で使っています。 農民たちも一生懸命、先兵として戦って、逃げた者はいなかったそうです。 やはり最初から領民とのあいだに一体感があったからできたことでしょう。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.151)


    [中村] 正光で付け足しておきたいのは、将軍家の子をお預かりし、養い親が「幸松殿」と殿づけをする、そういう関係をきちんと守りながらも、二十歳になるまでは藩政を任せなかったことです。 このけじめが大切です。 お預かりした子だから、どうぞと自分のものを全部譲りたくなる、でもこれでは天下りになりますからね。 そのときに正光がつけてくれたのが従弟(いとこ)の正近(まさちか)でした。 この人物は保科一族のなかでも最も優秀な人物であり、彼が非常によく正之を教えてくれたんだと思います。 もう一人は二番家老の北原采女(うねめ)で、この人は正光の庶子だったようですから、自分も藩主になる権利は何番目かに持っていると居直ってもいいんですけれども、一生懸命、正之を育てるために尽していくわけです。 血縁のない者も含めてみんなで正之を盛り立てていくというところに、鎌倉時代の源氏の血で血を洗う醜さとはまったく逆の、保科一族の美しさ、まとまりの良さを感じますね。
     それと高遠藩保科家というのは、最初のころは二万五千石で、正之の養育料として五千石を加増されてようやく三万石ですね。 一万石だと、家臣の数は六十人から七十人。 三万石だと、最大限に見積もっても二百十人ということになります。 この二百十人という数字は、家老から足軽までを含めてのものです。 私が昔勤めていた会社は社員数が二百七十人でしたけれども、二百人ちょっとという数字は、だいたい顔と名前と性格、それぞれのエピソードなどが覚えられる範囲なんですね。 この家臣団の規模は、若君が初めて接する家臣団としては、ほどの良い数だったような気がします。 高遠の町を歩いてみると、一日散歩するくらいでだいたいわかる感じの広さですね。 領土も九割以上は山林です。 ところどころで休憩しながら、「今年の米はどうだ」とか、直接の会話が成立する規模だと思います。 その後、正之は山形に行って二十万石になりますね。 会津へ行って、二十三万石、実質は二十八万石。 領主としてトレーニングするには高遠藩は非常にいい場所だったですね。 ここで固めたシステムの適用範囲を広くしていけば、大藩の運営もできるという意味で、非常にいい規模の藩に来たんじゃないかという気がします。

    [山内] それはおもしろい。 私の勤務している大学の学部は、全国の大学のなかでもいちばん数が多いと思いますが、教授会に出てくるのは二百十名くらいなんです。おっしゃるように、これくらいが顔と名前、性格が覚えられる限界なんですね。 戦前の帝国陸軍でも中隊というのもやはり二百名くらいで、指揮官が号令して声が届く数なんです。 そういった点では、正之は軍事と民政の両方において適当な規模から出発したといえますね。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.152〜154)


    [中村] その正之もやはり殿様ですから、家臣たちと和気藹々(わきあいあい)と話すこともできずに、自分の部屋に帰ると孤独に沈むこともあったようです。 そのときに、見性院から昔もらった手紙や品物を出して見つめ、昔のことを忘れまいとしていたそうです。自分は見性院が期待したような人間になっているんだろうか、正光に教えられたことをきちんとやっているんだろうか、と確認していたのではないでしょうか。 家臣はそこまでは知りませんから、いったい殿様は何をしているんだろうと訝(いぶか)ったという逸話があります。 正之は孤独で、お嫁さんも子供もすぐに亡くなってしまう。 しかし内省をきちんと積み重ねて、その孤独を克服することによって、自分を大きくしていく。『トニオ・クレーゲル』(トーマス・マン著)の世界のようですけれども、そこに彼の内面のドラマがあったと思うんです。 そうした精神的な危機を乗り越えて、ついには大きな器へと自分を高めていった。 精神的な復元力の強い、立派な人物だったのではないでしょうか。

    [山内] 見性院からの黄金や手紙をじっと見る話で連想したのは、幕末に、彼の子孫である松平容保(かたもり)が、肌身離さず、風呂に入るときにも、竹筒に入れて、孝明(こうめい)天皇の御宸翰(ごしんかん)だけを頼りにしています。 彼は孤立して明治政府からすれば「逆賊」になって、非常に数奇な運命をたどっていきますが、そういう実直さというのは、保科正之とも共通している、良質な武士の棟梁(とうりょう)の一面ですね。

    [中村] その気品が、幕末の会津藩には悲劇を招いてしまいます
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.156〜157)


    [中村] 保科正之の孤独について話をもどすと、あれほどしっかりした母に育てられ薫陶(くんとう)を受けた正之が妻に選んだのは、おまんという、悪妻の典型といってもいい女性でしたね。 あの二人の組み合わせも信じがたいほどですね。お江与あたりと比較したほうが興味深いような女性。 彼の孤独や寂しさというのは堪えがたいものがあったでしょうね。

    [山内] そうでしょうね。 おまんは加賀百万石に嫁ぐ側室おしほの方の産んだ娘松姫を毒殺しようとし、誤って自分の娘媛姫(はるひめ)(米沢藩主夫人)を殺してしまいました。 なぜ正之がおまんの愚かしさに気づかなかったかというと、表御殿奥御殿が別れている世界ですから、奥にいる女性たちのことは盲点に入ってしまったという感じがありますね。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.157〜158)


     保科家の士風

    [山内] 武田信玄の政治というのは民政の成功ですよね。 信玄堤とか、甲州流冶金(やきん)金山の発掘など、多くの業績をあげています。 それらを直接、間接に見聞きして、三万石の統治からスタートしたことが、正之の考え方のなかに、水戸学のような観念的な朱子学一辺倒ではなく、技術や民政に対する実利的な関心を与えたと思うのです。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.160)


    [中村] 土木系の技術に信玄流といういう言い方がありまして、軍法から民政に至るまで、武田家の伝統は江戸時代になると高遠保科家に引き継がれていたようです。 高遠には、川一つをとっても三峰川(みぶがわ)の激流があり、天龍川藤沢川もあって、その氾濫に備えるノウハウがありました。山形入りして、雪解(ゆきげ)の大洪水に見舞われたとき、山形始まって以来の大堤防を築いた実地の指導者は、家老としてついていった保科正近です。 山形の人が驚くほどの太い(くい)をたくさん打ち込んで、非常に長い堰堤(えんてい)をつくりました。 そういう技術も、元はといえば、激流がある盆地で身につけた武田流のものだったといえるでしょう。 ちょっと牽強付会(けんきょうふかい)かもしれませんが、のちに振袖(ふりそで)火事で江戸が焼けたときに両国橋(りょうごくばし)をかけるとか、玉川上水(たまがわじょうすい)をつくって水を引くとか、正之が江戸の都市計画にまで関与した発想のルーツもこのへんにあったのではないでしょうか。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.160〜161)


     家光と忠長

    [中村] 肩書きとしては何もないですね。

    [山内] 副将軍だとか、将軍補佐だとか、そういうことではまったくない。 臣下の一人として、大老や老中と同じ列に並ぶ。 ローマ帝国ではプリムス・インテル・パレス同一資格者中の第一人者という表現がありましたけれども。

    [中村] 老中でもなく、いわば無任所大臣なのですが、きちんと理に適(かな)ったことをいうので、自然に発言力が増していく。 そして最終的には、家光が死の間際に彼の手を握って、次の将軍になる十一歳の家綱(いえつな)を頼む、といい、正之は涙ながらにそれを引き受けた。
     家光が臨終を迎えると、すぐに正之は家綱のいる西の丸に走っていき、その日から徹夜で政務を見る。 このすさまじさ、家光との約束を確実に守り抜く、死んでも守る、という気迫です。 そしてその前後足掛け二十三年間、会津に帰らない。 当時、大名における江戸への長期滞在記録だと思います。 それぐらい幕政に一生を捧げるというのは、やはり家光の信頼に応えようという必死の思いですね。 幕府へのご奉公に一生を捧げることに自分の人生を見出していく。 すごい人物だなあとしみじみ思います。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.167〜168)


    [中村] 正之は、高遠三万石山形二十万石会津二十八万石という規模の藩政を取り仕切ります。 すると二十八万石が一つのモデルパターンとなり、会津で有効だったことは幕政にも有効ではないかと考え、最初に会津藩で殉死(じゅんし)を禁止する。 その効果を見てから、それを幕政にあてはめ、「武家諸法度(はっと)」を直させるということまでたどりつく。 こま飛躍のスマートさが正之らしさなんですね。 あまり飛び上がりすぎると墜落する恐れがありますが、彼は慎重に経験を踏まえて、それを大きな世界にあてはめて、そこで効力を発揮させることができた。 実に素晴らしいセンスだという気がします。

    [山内] それは簡単なことではないんですね。 例えば、水戸学のような、高邁(こうまい)な国家哲学や国家観を施政者が持っていたとしても、それをストレートに経世済民の学、統治の学とするのは難しい。 実際の領地や領民という生きた対象を相手に行政を施さなければなりませんからね。水戸光圀(みつくに)はたしかに天下国家についてスケールの大きい哲学を持っていたかもしれませんけれど、実際の水戸藩における領国支配ではずいぶん失敗をしています。だいたい水戸藩は頭でっかちのところがある(笑)。 幕末の斉昭(なりあき)や天狗党はその最たるものですよ。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.171〜172)


     会津藩のシステム

    [中村] 次には、正之の会津藩主としての側面と幕藩体制のリーダーとしての側面と、二つに分けてお話したほうがいいかと思います。 まず、藩政のほうから話をしますと、正之の中核になった家臣団に注目したいですね。 その中核を担ったのはどんな人たちであったかというと、高遠三万石から山形二十万石へ、そこからまた会津へと移っていった家臣たちは会津藩が戊辰(ぼしん)戦争で消えるまで「高遠以来」と総称され、この表現は徳川家の譜代(ふだい)である「三河以来」とまったく同じように使われていて、そこに高遠武士団の誇りがあった。 しかしそれは、山形とか会津で新規に採用された人たちを差別する感覚としては働いていない。 有能な者は適材適所で能力にあった仕事をさせています。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.173〜174)


    [中村] 高遠と会津に取材に行って、興味深かったのは、小原(おばら)、黒河内(くろこうち)、北原山川などの姓がどちらにもあることでした。 大名が移封(いほう)されて新しい国に移ると、人間も移動してゆき、その痕跡が今もこのような形で残っていることが興味深かった。
     保科正之を支えた家老たちは、最初に保科民部(みんぶ)正近、それから北原采女光義(うねめみつよし)、三番手に田中三郎兵衛正玄という人でした。 正之から数えて九代目、最後の藩主になる松平容保に仕えたのも、皆この人たちの子孫です。 一貫して仕えてゆくんですね。
     天下の三家老”のなかで、最も優れた人物といわれたのは田中三郎兵衛ですが、彼が会津を仕切ってくれるから、保科正之は二十三年間、国元に帰らなくても安心でした。 そのあいだ、藩の屋台骨は、びくともしないわけです。 たいてい御家騒動というのは藩主不在のときに起こるものですが、起こらなかった。 それが会津藩のきわめてユニークなところなんです。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.174)


    [山内] 幕末に松平容保が京都守護職という重職を担わされて、かなり有能な家臣たちを連れて京都に出てきますが、そのあとにも相当な人材が会津に残っている。 人材の厚み、幅というのは顕著な特徴ですね。
     もう一つ大事なことは、他の大藩、例えば伊達(だて)家や前田家の場合は、万石を超える大禄、高禄の家臣がいて、その下に陪臣(ばいしん)という形で家臣がいる。 実際に封建社会や江戸時代においては、家来の忠誠というのは直接の主君にいくわけですよね。 そういった点では、会津には万石以上の家臣というのは一人もいなかったんでしょう。

    [中村] 最高で、四千石ですね。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.174〜175)


    [中村] 高遠から山形、会津へと移ってゆくなかで、初代の城代家老保科民部が力を尽します。 その功労的な意味もあって彼の石高は少しずつ増えていき、最後は四千石になるんですけれども、彼は死ぬ前に「この石高は保科民部の家筋の石高とは思わない。 私一代限りのものである。 ですから私が死んだらお返しします」といって、実際にそうしています。 この潔さはすごいと思いますね。
     田中三郎兵衛正玄も、死んだときには子供がおらず、養子もとっていないんです。 自分の殿様である正之は末期養子を緩めたりしているのに、それに自分たちが便乗して家禄を守ろうという意識がない。保科正之に尽くし続けてくれた田中家がなくなるのはあまりに惜しいというので、結局甥を連れてきて、石高を少し分けて、田中家を存続させることにはなりましたけれども。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.175〜176)


    [中村] 「俺が、俺が」と表にはあまり出さないので、当時の同時代史料で調べても、正之がどういう肩書きだったのかはわかりません。 老中でもない、大老でもない。家綱の面倒を見ること家光に託されたのですから、将軍輔弼役、今の言葉でいえば後見役でしょう。 ただし、この後見役は門閥を排した清潔な人間でした。 こういう誠実な人格がパックス・トクガワーナを安定させるにあたって非常に重要であった。 そこに歴史の意味を感じます。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.180)


    [山内] 会津藩で実験して、それを幕政に適用し、やがて全国に広がっていった政策で、とくに私が重要だと思うのは、「社倉(しゃそう)」の制度です。 今と違って備蓄米などありませんから、実際に凶作の年はたいへんだったんですね。 役所が米倉をつくって、非常時に対して備えをしていくという発想は、危機管理という視点からも高く評価すべきなんじゃないかと思います。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.180)


     幕政家としての成功

    [山内] 江戸のインフラストラクチャーを整備することに関して、正之は大きな功績がありますね。 明暦三年(一六五七)の振袖火事のときには、浅草にある幕府の米倉が焼けそうになって、その米を勝手取り放題にしましたね。 あの非常時の判断はすごい。 正之の政治センスと頭脳の回転の速さですね。

    [中村] そうです。 焼けつつある米倉に突入して火を消したら、残ったお米は持っていっていいという。 その結果、難民が火消しに早変わりしたという、一石二鳥の策(笑)。

    [山内] 人々のある種の欲をうまく突いている(笑)。 下手(へた)すれば略奪になるけれども、そうならないように勝手放題でいいことにして、その結果として消火にもつながるわけですから。  火事で焼けた町を再建するのに、今でいう義捐金(ぎえんきん)を出したりもしていますね。

    [中村] 間口何間につき何両というように、町屋を優先に建て直すところがすごいですね。

    [山内] 上野の広小路など、大きな火除(ひよ)け道をつくります。 しかし単なるインフラ屋土建屋さん的な政治でないのは、最大の再建工事になるはずの江戸城の天守閣を不急のものとして、再建させなかったことですね。

    [中村] あれは素晴らしい決断でした。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.183〜184)


    [中村] どちらを優先するかというときに、江戸城および大名、旗本たちの屋敷ではなくて、町屋の再建と、援助米の放出を優先する。 しかも瞬時に判断して号令をかけます。阪神・淡路大震災のときの政府の及び腰、そしてその後しばらく援助金が行き渡らなかったなどという話を聞きますと、実に情けなく感じますね。

    [山内] 正之は国民年金に相当するものを考えていますね

    [中村] 男女や身分の差を問わず、九十歳以上の老人には玄米一日五合を与えたんですね。足が弱っていたり、自分で来られなかったりしたら、兄弟か子供を出しなさい。 その人に渡す、ということまでいっています。 現代と安易な比較はしてはいけないような気はしますけれど、年金支給が六十歳から六五歳になり、あるいはもっと高齢になるかもしれない。 こうした福祉の後退とはまったく逆のことを、昔一生懸命やっていた殿様がいたということを、歴史に興味のある方は覚えておいていただきたいですね。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.184〜185)


    [中村] 振袖火事は未曾有(みぞう)の大火で十万人以上が死んだといわれていますから、その大根乱のなかですぐに立て直しをはかって、民を食べさせ、なおかつ新しい江戸をつくる。 火事に強い新都市計画まで並行してやっていかなくてはならない。 それを上手にこなしていったところがすごい。 しかし、のちの江戸の原型が正之の時代に造られたということは、意外に知られていないのです。今日の皇居に天守閣はありませんが、天守台はあります。 あの天守台に「正之が反対したので、それ以来再建されていない」という説明板があってもいいんじゃないかと私は思うんですよ。

    [山内] 天守閣を再建しないというのは、財政事情だとか緊急事態であったとかではなくて、ある意味での政治の質と構造のシンボリックな転換を示しています。天守閣とは、戦争において天守閣が崩れたら落城だと理解されるシンボリックな意味を持っていて、戦国から江戸初期にかけての、乱世における武断政治、軍政の象徴だったんですね。 それがまさに、文治政治、民政に移行していくなかで不用になっていくここで時代は変わったんですこれからは軍事じゃなくて、民政でやっていくんだという、正之なりのよく洗練された表現だったのではないでしょうか。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.186〜187)


     保科正之の現代性

    [山内] 重要な問題だと思うのは、なぜ、保科正之のような人物が、中村さんが積極的に発掘し紹介するまで、忘れられ、世に知られていなかったのかということです。
     一つには江戸時代に対する考え方ですよね。 つまり封建時代は悪い時代であって、民衆史観からいうと、武士とその政治はすべて悪であるという見方があった。 もう一つは、明治以降の歴史研究、歴史教育の基礎にあるのは、薩長の側は革命の側に立つ善である。 この善悪二元論のなかで、幕府側の人間は貶(おとし)められてきた。 そのなかでも、最後まで薩長と対決した会津藩が批判されますしたがて藩祖である保科正之が不当に無視される。 こういう帰結があったと思うんです。

    [中村] 正義の軍が賊軍を討ったのが戊辰戦争と、戦前はそう教えていたわけですから、その論理で言えば、会津藩祖保科正之を褒(ほ)めることはできないですね。薩長側としては、憎むべき敵であり、ついには打倒した相手ですから。
    (《黒船以前 第三章 保科正之》P.189)


    第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実−−元禄再考

     実説 赤穂浪士

    [中村] あえて時間順序を無視して、綱吉が死んだ宝永八年(一七〇九)に六代将軍になった家宣(いえのぶ)の初政についていいますと、彼が無罪放免した科人(とがにん)は九千人近くいました。 この科人たちは、「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」違反の罪に問われていた者です。
     この数字から逆照射できるのは、元禄時代とはどこかにお上の目が光っている息苦しい時代だったということでしょう。 例えば、大名屋敷に馬や駕籠(かご)が入ると目付がすぐに訪ねてきて、今誰が何のために来ているのかをチェックする。
     そういう警察国家になっていたところにも、庶民が赤穂浪士事件に対して快哉(かいさい)を叫ぶ要因があったのでしょう。『忠臣蔵』の人気は、抑圧の構造から吹き出してきたものではないか、と思います。

    [山内] 御政道批判か何かをした噂の手元をとにかくたぐっていって、江戸八百八町、ちゃんとその人間の元にたどり着いたというんでしょう。 それで、ひっくくって処罰してしまう。目明(めあ)かし岡っ引きから同心(どうしん)の系列で捜査できた社会だったというから、情報管理や統制というのはきちっと行き届いていたといえるかもしれない。
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.208〜209)


    [山内]ただ、息苦しかったかどうか。 サダム・フセインの下で生きるのと比べてどっちが息苦しいか(笑)。
     江戸時代は、いきなり拷問して、片足や性器の切断やその脅迫までしませんからね。 遠島(えんとう)などの罪でも二の腕にわずかに入れ墨するぐらいでしょう。額や顔の真ん中に大きな焼き鏝(ごて)をあてたり、集団虐殺をするようなことはしない。大量虐殺など江戸ではあり得なかったでしょう
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.209)


    [中村] 先ほどの赤穂家の男色についていいますと、歌舞伎にするとなると、もともと男色の役者が演じている世界だけに、モデルになった人たちも男色家だったと感じる観衆が出てくるのかもしれません。 もっとも綱吉自身がバイ・セクシャルで、男色イコール悪という感覚は日本にはなかったようですが。

    [山内] もう一つ女色の世界ですが、大石伏見撞木町での遊びは、伝説化されていますね。 あの金、どこから出てきたのかな。

    [中村] おそらく、塩田収入でしょう。

    [山内] 塩田収入のなかの内証金というか、そういう類なのでしょうね。 一説では、ここに不破数右衛門(ふわかずえもん)が出てくるというんですね。 不破数右衛門が藩を追われたのは、かりそめの姿であって、公用金などを京都で処理したり、あるいは密かに蓄えておく密事にかかわったんじゃないかという説。
     大石がとにかく塩というものを上手に使ったことは間違いないでしょう。 それがないと、大石の大尽遊びはできません。
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.214〜215)


    [中村] 赤穂浪士の討ち入り事件は今日もしばしば語られますが、仇討ち史という流れで見ますと、宇都宮(うつのみや)藩奥平(おくだいら)の家中に起こった浄瑠璃坂(じょうるりざか)の仇討ちに比べたくなります。 あれも複雑な仇討ちです。 結局、討ったほうは、仇討ちをしたことを罪に問われていない。 ただ、斬り込んだときに火をつけているので、火付けの罪に問われます。 それで大島(おおしま)に流されはしましたが、六年で赦免(しゃめん)になっています。 その背後にあるのは、仇討ちとは、武士の本懐(ほんかい)であるという認識ですね。
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.217)


    [中村] この元禄時代には将軍家およびその周辺で、これだけごった煮のようにいろんな事件があったにもかかわらず、なおも徳川の世はつづいていった。家光の代に土台がしっかり据えられたこともありますが、鎖国をして内政だけ何とかしておけばよいという国策がいいほうに働いたのかもしれませんね。 綱吉にしてからが、外国のことなどわかろうともせず、長崎の出島(でじま)にいるオランダのカピタンが江戸城に来ると、ちょっと踊りを踊ってみろ、歌もうたえとか、長生きする薬を持ってこいとか、バカなことをいっている程度(笑)。

    [山内] いや、だから、綱吉っておもしろいんですよ。 そんな様子を御簾(みす)の向こうから、一族や側室たちも見ていたという話ですね。

    [中村] 鎖国だから国際状況がどうなっているかということにほとんど関係なく、良くも悪くも爛熟(らんじゅく)できたという気がしますね、この時代は。



     五代将軍綱吉のパーソナリティ

    [中村] ちょっと話は飛びますが、幕末の会津藩の家老西郷頼母(さいごうたのも)はほんとうに小さかった。 そのため「西郷の三尺だるま」という渾名があったほどです。 それに較べて、綱吉にはこうした渾名がない。 ですから、大樹寺の見解を鵜呑(うの)みにできないにしても、まあ、そういう話もあるということで(笑)。

    [山内] でも、非常におもしろいですよ。 ただ、私なんかは、イスラーム史を文献でやっている人間ですからね。 今の話は、刊本の史料を見ていても、ほとんど出てこない。 文献史料への信頼がある程度ありますから(笑)。 そういう話さえ聞いたことがないですね。

    [中村] 綱吉が殿中で「四書五経」を講義するときには、大名・旗本から僧や山伏たちにも聴講させているわけです。 だから、かなり人目にさらしているはずなのに「あのチビが」というような川柳狂歌はまったく残っていない。 そういうものは禁止してもしきれないものなんですが。

    [山内] 仮に小人症だったとしたら、それは普通の町人たちの噂(うわさ)にも乗るはずですよ。口さがない江戸っ子が沈黙に禁欲的ということはない(笑)風聞集やらいろんな形で残ると思うな
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.235)


    [中村] わずかな可能性をいいますと、だれかが役についた瞬間にその一族がひっくり返るかもしれない、それぐらい怖い将軍だったので、誰も顔を合わせられなかったのかもしれません(笑)。 しかし、講義は御簾に隠れておこなったものなんでしょうか。

    [山内] 奥(おく)の御座之間(ござのま)は、L字型みたいになっていて、上段にいる将軍の目の前の下段で聴講できるのは限られた人たちでしょう。 ですから、実際には、下級の大名や旗本は曲がったほうの二之間・三之間に控えるから、全員が全員、見えたわけではない。 でも、御目見(おめみえ)以上の人間を前にして必ず講義をやるわけですからね、綱吉の外貌について知らないはずはありません。
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.236)


    [中村] 偏執狂という言葉は、だいたいの方がお使いになっていますけど(笑)。

    [山内] 山室恭子さんは、綱吉が理想的な政治意識を持っていたのに、むしろ側近や臣下たちがついてこれなかったという説。 他方、塚本学さんは、綱吉をそれほど評価はしません。 が、結論は、日本社会の文明化を推進した理想主義者だといっておられる。悪いのは寵臣の専制主義で、だから綱吉はそれほど悪人ではない。 しかし、つきあいたくない人間だ(笑)、というのが塚本先生。
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.238〜239)


     ブレーンなき御政道

    [山内] それから、六代将軍家宣には新井白石(あらいはくせき)が良きにつけ悪しきにつけ付いていましたからね。綱吉のブレーンというのはいったい誰なのかな。

    [中村] いやあ、いないでしょう。

    [山内] ええ、ほとんどいないといってよいでしょう。綱吉は家宣と比べたら、驚くほど教養と才能があったから、自負するところもあったのかもしれない。家宣については、新井白石がほぼ絶望しているんですね。山室恭子さんも絶望しています(笑)。 白石は将軍に何を教えたかったかというと、「四書五経」、オーソドックスな経学のようですよ。 当時の学問の基本ですね。 ところが、家宣は興味を示さない。 彼はむずかしい哲学をあまり読みたくないのですよ。
     今、私、奥さんを殺してしまったアルチュセールというフランスの哲学者の自伝を読んでいます。 ますます哲学なんて複雑なものを読みたくなくなった(笑)。 やっぱり歴史書がよい(笑)。 おもしろいですから。 家宣は今でいうと、どうも講談が好きなんです。 せいぜい『太平記』ぐらいだったらしいですよ。『吾妻鏡』になると難しかった。というからどうにも処置なしです(笑)。

    [中村] その点、たしかに綱吉は異色ですよね。

    [山内] 異色すぎるんです。抽象的な哲学を四六時中読んで飽きない。他人に自分が講義する。 それで、林大学頭(だいがくのかみ)などのプロにも一目置かせる。 白石は、たしかに個人としては綱吉を嫌いだったかもしれないけれど、学問の職人として、こういう知的なタイプの人間として綱豊(つなとよ)、すなわち家宣を育てたかったのかもしれない。『折りたく柴(しば)の記』を読んでいると、しきりにそう感じています。
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.243〜244)


    [中村] 時代相が非常に殺伐としているので、生命というものをもっと大事にするよう教えるために「生類憐みの令」を発布した、というのはわかります。 その「生類憐みの令」に即していいますと、鳥を獲ってはいけないという理由で、鷹匠(たかじょう)を廃止したため神田の鷹匠町小川町と地名も変更されました。 また、鳥を殺さないということは鉄砲を撃ってはいけないのだから鉄砲足軽はいらないと考える。 このような面は、たしかに非軍事的な指向なんです
     かといって、殺人を犯した者は死罪か流罪なのに、蚊(か)を潰しても流罪とか、その種の逸話が非常に多いですよね。 さらに鳥獣を全部箱根に放したり・・・・・・。

    [山内] 八丈島(はちじょうじま)か三宅島(みやけじま)に持って行って、鳥を放す例がありますね。

    [中村] まで放しています(笑)。

    [山内] 水を打つとボウフラが死んじゃうからといって・・・・・・いくらなんでも、それはなかったというんですね、山室先生は(笑)。 だからかなり、綱吉の像というのは俗世間でつくられている面があるのではという気がするんですけれどね。 すごく飛躍した話ですけれど、綱吉も幕末の慶喜(よしのぶ)もつくられたところがあると思います。 慶喜と綱吉、どっちが好きかと問われたら、中村さんはどっちが好きですか。

    [中村] うーん、地獄の選択ですね(笑)。
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.250)


    [中村] 追罰(ついばつ)というんですか、登用して気に入らなければその人だけ失脚させればいいのに、親戚とか、子供や孫にまで追い打ちをかける酷薄さが実に気になるんです。

    [山内] それはある。 私が仰天したのは、最初に触れた山内豊明のケースですが、彼が逼塞(ひっそく)を命じられ、やがて逼塞を解かれます。 ところが、解かれた次の日に今度は誰かに預けられるんですよ。 なぜお預けになるかというと、逼塞が解かれたときの御礼言上(おれいごんじょう)、ありがたく承ったとか何とか挨拶がなかった、態度が悪い、というんですよ(笑)。綱吉という人は、失脚した人間に追い打ちをかけるんですね。

    [中村] そう、実に怖いところがある。 ですから綱吉に仕えていた人たちは、明日はどうなるかわからないと思って、みんな戦々恐々(せんせんきょうきょう)としてたんじゃないでしょうか。 それから私は、彼の講義というのはどの程度のレベルだったのか、知りたいんですが。

    [山内] けっこうレベルは高かったらしいですよ。湯島聖堂をつくり、そこへ出かけていって講義をやっているというんでしょう。

    [中村] 最初のころは、上野忍岡(しのぶがおか)にあった林羅山(らざん)の孫の信篤(のぶあつ)の別邸へしょっちゅう出かけるんですね。 そうすると、林家は寵臣という扱いになる。 しかし、将軍があまり一人の家臣の家に入り浸りになるのはどうかという問題が起こるので、官学でもある昌平坂(しょうへいざか)学問所をつくったわけです。 それにしても、昌平坂学問所ができる前の林家もたいへんだったでしょう。そんなにのべつ幕なしに来られたら、財政が破綻してしまいますから。
    (《黒船以前 第四章 五代将軍綱吉の夢みた理想と現実》P.250〜251)


    第五章 幕末へのカウントダウン−−三大改革の時代

     吉宗の登場と享保の改革

    [山内] でも、田沼(たぬま)時代の末になると、一時、たしかに田安家に継承者がいなくなる。 そのときには、田安家を潰すことさえ考えたんですよね。 それだけでも十万石浮く。 幕府としてはかなり楽になります。 印旛沼(いんばぬま)を干拓したって、見積もりで五十ないし六十万石でしょう。 だから、十万石というのは、あの当時からするといかに大きい負担だったか。 そういう点からすると、人件費が財政赤字を膨(ふくら)らませ、幕府の力が低下してゆく原因になります。 おっしゃったように、たしかに一橋家は、結局、幕府の基盤弱体化をはかり宗家に仇(あだ)をなしたようなものですよ。一橋治済(はるさだ)は、宗家に家斉を送り込み、自分が実質的に大御所(おおごしょ)めいた権勢をふるう。 しかも制度化されていない大御所だから、なお始末におえない。 また、彼は別の息子をさらに田安家にも送り込むでしょう。 そういうことで、御三卿というのは、ある種の権力闘争の隠れ蓑(みの)に使われた。幕末はそのいちばんいい例で、一橋慶喜(よしのぶ)なんて得体の知れない男(笑)が、水戸(みと)から押しつけられてくるということですよ
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.259〜260)


    [中村] 白石は他者に厳しいんです。 もう少し鷹揚(おうよう)さがあってもよかったんじゃないかという気はします(笑)。

    [山内] 現代人も教訓とすべきでしょうかね(笑)。 しかし、あのクラスの学者というのはなかなかいないんですよ。 彼がやはりすごいのは、江戸時代にあって、日本の学問にある種の科学性を取り入れたということですよ。 例えば、『東雅(とうが)』だとか『同文通考(どうぶんつうこう)』とか、言語学に留意した人です。 それから、『読史余論(どくしよろん)』。 いろんなことをいっても歴史学の基本は時代区分ですよ。 彼の九変五変は、九回変わって武家の代(よ)になり、五回変わって今日に至る、というのですが、ああいあ思考法は、歴史学に新しい時代区分の考えを持ち込んだという意味でかなり科学的なもので、内藤湖南(こなん)がそのあたりを非常に評価しています。
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.265〜266)


     それから、隠れた功績として、ご指摘の『西洋紀聞』『采覧異言』など、ずいぶんと外国研究をしています。 イタリア人宣教師のシドッティを、小日向(こひなた)のキリシタン屋敷で尋問し、問答をしている。 あの『西洋紀聞』というのは実に名著ですね。 言葉が満足に通じない二人が、それぞれお互いの力量と人柄を見抜いたというんですよ、これはなかなかの人物だ、と。

    [中村] だんだんお互いにしゃべれるようになったようですね。 あれはすごい。

    [山内] やはり一流の知識人と、決死の覚悟で屋久島(やくしま)にたどり着いたシドッティとのあの出会いは、江戸時代における最高の文化接触あるいは文明間対話でしょうね。 歴史はある意味では偶然性に基づくけれど、その偶然が重なっていくと、つまり歴史の支流やせせらぎというものが重なっていくと、歴史の太い本流が形成されます。 日本の学問や思想傾向などを決定づけていく海外事情に対する関心、それから蘭学のみならず洋学という外来の学問に対する関心、それから「知」に対するとらわれない日本人の好奇心や謙虚さ。 こういった点をすべてあらわしているところがありまして、白石というのは私はなかなかの人物だと思っています。
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.266〜267)


    [山内] 紀州と尾張の確執は、藩祖以来そうですが、だいたい御三家とは何かという定義が曖昧(あいまい)なんです。水戸というのはまったく問題にならない。 なぜ副将軍かというのは、宗家と合わせて紀州と尾張の三家が将軍継承資格があるから副将軍なのであって、江戸常府(じょうふ)なんだと、こういう解釈があり得るわけです。
     だから、御三家というのは、江戸の将軍を出してきた宗家、それから尾張家、紀州家だという解釈さえ成り立つ。 そうだとした場合に、尾張家は十分に相続資格はあるわけだけれど、いちばん滑稽な存在なのです。 水戸は最後に、一応形式的に慶喜を出しますよね。 御三家のうち、紀州は勿論、水戸も将軍を一応出したわけですよ。 ところが、宗家を別とすればナンバーワンを自負していたはずの尾張からは一度も将軍が出なかった(笑)。 このあたりに、歴史のおかしさがあります。

    [中村] 紀州徳川家からはちょっと危険な人間が出るから、遠くに押し込めておけということで、江戸になかなか出られないところへ置いておかれたわけです。 尾張の場合は、徳川家の仮想敵は西から来るから、姫路と大坂で抑えて、それでもだめだったらここで抑えるということで、大きなお城を与えられた。 尾張徳川家では名古屋城が落ちたときのことを想定して、殿様が御土居下(おどいした)へ逃げる。 そこから木曾を通って江戸へ逃れるというルートまで決めて、木曾に代々猟師として住まわされた人たちもいました。 その御土居下に住んでいたのは「御土居下衆」という落城の日にしか出番のない奇妙な人々でしたが、そのなかに忍び駕籠(かご)をずっと持っている家もありました。 この忍び駕籠は、殿様を乗せて逃げるためのもの。 この家は大海(だいかい)というんですが、いつの間にか、尾張徳川家自体が何のために大海家に駕籠があるのか、よくわからなくなっていきました。 その大海家は、明治二年(一八六九)に徳川慶勝(よしかつ)に対して忍び駕籠返還の儀式をおこないましたが、慶勝も知らないわけです。何のために、こんなものを返されるのかわからなくて、大海家の当主から由来を聞いて仰天したという話があります(笑)。
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.273〜275)


    [中村] そうですね。 家康から家光までは、鷹狩をしばしばおこなっていました。 鷹狩には鳥見役というのが必要で、これは隠密になり得る情報収集係ですね。 鳥がどこにいるかはもちろん調べてくるけれども、どこにどんなことを考えている人間がいるのかを探る、これがより重要な役目です。

    [山内] 鳥見役については、『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』の片岡直次郎(なおじろう)がおもしろいですよ。 モデルは実在の人物ですが、小説での描かれかたかが鳥見役の一面性を示していて興味深い。 この直侍(なおざむらい)は、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の『天衣粉上野初花(くもにまごううえののはつはな)』では、大番同心(おおばんどうしん)らしいのですが、実際の役歴はわからない。 しかし、村上元三『天保六道銭(ろくどうせん)』では、公儀御駕籠方となっており、将軍様の御駕籠を担いでいる御家人だということになっている。 ところが、藤澤周平『天保六花撰』では鳥見役なんですよ。 鳥見役だから荒川(あらかわ)や大川(おおかわ)(隅田川)の上流へ行って、川越(かわごえ)あたりまで調べなきゃいけない。 だいたい寒いさなかにそんな遠方に行くほど律儀でないですよ。 誰もそれを見ているわけじゃないから、今日はこれこれこうでございました、非常に不作でございますと適当にごまかしていたら、それが発覚して身を持ち崩してゆくという設定です。 これは小説での話ですが、現実には鳥見役って非常に大事で、戦場になるといわば斥侯(せっこう)でしょう。 どこにも鳥見役がいたわけですね。

    [中村] 綱吉が鷹狩を禁止するまでは、そうでした。 とくに戦国時代には鷹狩イコール武闘訓練でしたから、信長(のぶなが)などは、伊勢(いせ)を攻めるときも、桑名(くわな)まで来たらそこで鷹狩をやる。 次に進んだ所でまたやる。 そうしながら地形を頭に入れて、かつ情報を集めているんですね。 吉宗に関して「鷹狩の復活」と年表に一行だけ出ていると、何でこんなことが書いてあるんだろうと思う人もいるかもしれませんが、実に重要な情報ネットワークを再建しているんだという意味が込められているわけです
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.277〜278)


     田沼親子の政治

    [山内] 田沼は、工藤平助(へいすけ)の『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』に触発されて、勘定奉行松本秀持(ひでもち)と調査隊を蝦夷地に送ります。 その結果、はじいた数字というのは、だいたい今の北海道の生産高に近いらしいんですね。 蝦夷本島の約十分の一を当時の単位でいうと百十六万六千四百町歩、石高に直すと五百八十三万二千石の田畑を開墾できると計算しました。 粗高(あらだか)でそれだけの田畑を開墾できるとすねならば、これは幕府にとってたいへんな財政強化になります。

    [中村] 財政収入が一挙に倍増する計算になります。

    [山内] そうなんです。しかし安全保障が先行せざるをえなかった。 むしろ田沼が蝦夷地の潜在的可能性を見ていたのは、やはり彼の政治家としての鋭いところだと私は思います。この開発主義的発想というのが定信には欠けているんですよ。 彼は、あそこをむしろ、清朝の満州のように封禁(ふうきん)の地にしようとする。ここを最前線として、とにかく江戸の都市計画における火除地(ひよけち)のようにしよう、というぐらいの発想しか定信にはなかった。 重商主義的な経済第一主義、経済決定論の田沼意次か、それとも安全保障論に基づく政治判断を最優先させる政治決定論の松平定信か。 こういう違いは双方に明らかにありますよね。
     いずれにしてもロシアを介してみると、蝦夷地の重要性が見えてくる。 従来だってアイヌを通して曖昧に外国と交易をしていて、それが間接的に日本に入ってきたわけだから、北辺といっても実は開かれており、しかもザルのように開かれていたということになります。 松前口(ぐち)どころか、樺太口とでもいってよい窓口もあったのです。

    [中村] 田沼は重商主義路線を採りますが、やはり商業資本との癒着というワナにはまってしまう。 そうすると、袖の下、いわゆるリベート政治がどうしても始まる。 商人からリベートをもらっている段階ではまだしも、猟官売官にまで及ぶ。 職掌が金で買えるようになってしまったんですね。目付(めつけ)が千両、長崎奉行は三千両などと、賄賂(わいろ)の相場までできてしまったところに、やはり彼の限界があったのかなと思います。それから、一人が出世すると一族郎党が出世していくというような、公私のけじめのなさが生じてきます。 田沼家の場合、父親が老中(ろうじゅう)だと、伜(せがれ)が若年寄になってしまう。
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.290〜292)


     将軍補佐松平定信の寛政の改革

    [中村] 定信は、「余がいつも心に掛けているのは、保科肥後守(ひごのかみ)(正之)のようになりたいということだ」と口癖のようにいっていたんですね。 ですから、囲い籾という考えも、保科時代の会津藩における社倉法(しゃそうほう)をかなり参考にしていたのでしょうが、いかんせん、保科正之の時代からは百五十年以上経ているので、状況が違っていた。
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.302)


     幕末への導火線となった天保の改革

    [中村] 水野忠邦はひどい男だなあ(笑)。 たしかに能吏ではありますね。 書類を捌(さば)いててく方法には長(た)けている。 老中御用部屋で膝まで埋れるような書類を次々に決裁していく。 そういう能力はあるんですけれども、何かが決定的に欠けているんですね。

    [山内] アヘン戦争が起きたときに、水野忠邦が対外危機に対応することになるわけですよね。 彼はアヘン戦争を日本の教訓にしなければならないという点に関しては、明らかに問題意識を持っていた。 だから、高島秋帆(たかしましゅうはん)などに徳丸ヶ原(とくまるがはら)で訓練させたのも、水野忠邦でしょう。 しかも、彼はこういう対外的危機と、同時に家斉の大御所政治による国内的危機を何とか終焉(しゅうえん)させなきゃいけないと考えていたでしょう。 対外的危機が押し寄せたときに、幸いだったのは、国内で大御所(家斉)が死んだことですね。三佞人(さんねいじん)、これはいろんな説があるのだけれど、中野碩翁(せきおう)をはずして考える学者もいるんですよね。

    [中村] えっ、そうなんですか。 何で彼が入らないんでしょう。

    [山内] 御側衆(おそばしゅう)の水野忠篤(ただあつ)、御小納戸頭取美濃部筑前守茂育(みのべちくぜんのかみもちなる)、それから若年寄林肥後守忠英(ひごのかみただふさ)が三佞人だというんですよ。

    [中村] 御小納戸から側用人になった中野播磨守清茂(碩翁)、これは入らないんですか。

    [山内] 入らない。もっと大佞人だからかな(笑)。 今の高級会席料理のコースも田沼時代にあらわれて、中野碩翁らの時代に全盛となったくらいです。八百善(やおぜん)などの料理切手(商品券)が贈答用として珍重されたのもこのころでしょう。

    [中村] 彼は隠居してからですよね、悪いことを始めるのは。 「向島(むこうじま)の御隠居」といわれたんですね。 向島にものすごい別邸を持っていて、桜の木をびっしり植えたりしている。彼を通せば猟官運動ができるというので、その別邸の近くには付け届け用の品を売る店が続々と開店しました。寿司屋とか菓子屋ですね。 それがみな大繁盛して、塗り下駄が一両などと、とんでもない値をつけてバカ儲(もう)けをする者もあらわれました。
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.308〜310)


    [中村] 沖田は色が黒くてヒラメのような顔をしていた、と新選組のスポンサー筋だった佐藤彦五郎(ひこごろう)の伜が証言していますね。

    [山内] 誰かのエッセイで読んだのですが、それをいったら、西麻布(にしあざぶ)の菩提寺、浄土宗専称寺(せんしょうじ)に集まっている女学生やOLたちが、目をむいて怒り出したという。何て失礼なことをあなたはいうの、私の総司様を、という感じだってわけだ。

    [中村] 勝手な幻想に溺(おぼ)れきっている人間は始末におえない(笑)。
     つい幕末の一局面にまで話が及んでしまいましたが、しかし江戸時代をさらに区分すれば、天保からあとはもう幕末だと考えてよいのではないでしょうか。水野忠邦は、家斉の側室お糸(いと)の方に裏で頼まれて、そのお糸の方の産んだ男の子を養子にしている川越藩主松平斉典(なりつね)を富裕な庄内藩転封させようとしました。庄内藩酒井家越後長岡(ながおか)へ、長岡藩牧野家川越に、と三方領知替えを企んだのですが、酒井家が領民たちに反対一揆を起こさせてこの計画を潰してしまいました。 一度出された幕命が撤回されたのはこれが初めてのことで、このように幕権が失墜したことから幕末が始まるわけです
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.320〜321)


     天保生まれの世代が維新前には成人して活躍期を迎えることもあって、天保から幕末維新まではほんのすぐなんですね
     天保十四年(一八四三)閏九月に水野忠邦上知令(あげちれい)も撤回して失脚したときに、西の丸下のその役宅には三千人ぐらいの徒党が押し寄せて、瓦は剥(は)ぐし、門番所まで踏み潰しています。 同じ西の丸下に会津藩の江戸上屋敷があって、そこから馬に乗って槍を揮(ふる)って暴徒鎮圧のために駆けつけてきたのが会津藩の林権助(ごんすけ)です。松平容保(かたもり)が幕末に京都守護職になったとき、この林権助が同行して「おひげの大将」といわれたことを考えると、私は天保はもう幕末なんだという感慨を禁じ得ません
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.321)


    かぐや姫からモンテーニュまで−−歴史を語り合う楽しみ 山内昌之

     私の雑駁な日本史理解に大きな筋と多少なりともまとまった構造を与えてくれたのは、高校や大学のときから読んだ『岩波講座日本歴史』であった。烏兎怱々(うとそうそう)、本書では代わって、最新の『岩波講座日本通史』の近世全五巻から大きな教示を受けることになった。 とりわけ、各巻の「通史」と題する歴史の大きな概観と展望は、中村氏と対談するときにも、きちんとした学問的根拠のよりどころとして立ち返った論文であった。 ついでながらいえば、私が『岩波講座世界歴史』の編集委員となったとき、この「通史」にヒントを受けて「構造と展開」という巻頭の構成を設けることを提案したのである。 こうした意味でも、また本書で私が語った枠組みや解釈についても、「通史」の各論文をお書きになられた先生方から学恩を忝(かたじけ)なくしている。 本文中ではいちいちお名前をあげなかった各位にも深く御礼を申し上げておきたい。 もちろん、日本史の専門家ならざる私の理解に誤りがあれば、それは私の責任にすぎない。
    (《黒船以前 かぐや姫からモンテーニュまで》P.327〜328)


     「意地悪」といえば、今度の対談では史実からはずれないように努力しながら、ギリギリのところで特定の人物に対する思い入れ、あるいは好き嫌いを語ることをためらわなかった。 このあたりが専門家でない二人のマージナルなる所以(ゆえん)であろう。 私は、中村氏と同じように、意地悪な見方をしたくなる人間や事件も少なくない。 さしずめ江戸時代史の代表株といえば、徳川慶喜(よしのぶ)につきるだろう。機会があれば、徳川家茂(いえもち)の早逝を惜しみながら慶喜について思い切り語ってみたいというのが二人のささやかな願いなのである。
    (《黒船以前 第五章 幕末へのカウントダウン》P.330)