[抜書き]『日本流』


『日本流』
松岡正剛・ちくま学芸文庫
二〇〇九年十一月十日 第一刷発行
    目次
    序 章 日本が思う
      歌を忘れたカナリヤ
      1 幼な心   2 廃園   3 洋風小唄   4 蝉の声  
    第一章 日本を語る
      多様で一途な国
      1 三人の目   2 花火とランドセル   3 GLAYとTUBE   4 三・四・五・七   5 万葉仮名   6 乱世   7 芸者の冒険   8 紺と紅と   9 真名と仮名  
    第二章 日本も動く
      職人とネットワーカー
      1 案配   2 ツメとツクリ   3 目当て   4 東の金・西の銀   5 コードとモード   6 中世ノマド   7 公界と今様   8 知財と同朋衆  
    第三章 日本で装う
      仕組と趣向がはずむ
      1 悉皆屋   2 納戸色・縹色   3 キモノ・マインド   4 二つのJ   5 軸組と造作   6 超部分   7 当と分  
    第四章 日本へ移す
      見立てとアナロジー
      1 近江八景   2 歌枕   3 東洋のワイキキ   4 庭の千草   5 意味と弾性   6 擬似同型   7 寄物陳思   8 三つの庭   9 くひちがひ   10 俗に入る  
    第五章 日本に祭る
      おもかげの国・うつろいの国
      1 懐徳堂   2 夢の代   3 ハシとキワ   4 俤   5 事足りぬ美   6 仮の死   7 モドキとフリ   8 依代と物実   9 負の部分   10 うつろひ   11 祭りの日  
    第六章 日本と遊ぶ
      わび・さび・あはせ
      1 逸民   2 PとP’   3 松茸の崩落   4 出遊   5 スサビ伝説   6 浦の苫屋   7 間に合わせ   8 花下遊楽  
    第七章 日本は歌う
      間と型から流れてくる
      1 擬木   2 HIDEN   3 梅の遅速   4 不立文字   5 せぬ隙   6 家と門   7 現場記録   8 揃・尽・並   9 新遊芸   10 コロッケ・パン   11 傷つきやすい国   12 教会の電球  
    図版出典・所蔵先一覧
    あとがき
    文庫本あとがき
    解説(田中優子)
    人名索引


    序 章 日本が思う

     歌を忘れたカナリヤ

     4 蝉の声

     しかし、歌を忘れたカナリヤをあきらめて、これを雄々しい〔鷹〕とか〔鷲〕にしようというのはもっとおかしな話です。 鳩ばかりでも困る。 むしろ、カナリヤならばカナリヤであること自身を知ったうえで、かつカナリヤとしての多様な歌を唄い出すべきであるような気がするのです。 本書はそこをめぐるつもりです。
    (《日本流 序章 日本が思う》P.022)


     もうひとつ言っておきたいことがあります。
     こうしたことは、三木露風北原白秋西条八十野口雨情の時代心情にもあったということです。
     この時代は、ようするに白樺派大正デモクラシー竹久夢二で始まり、関東大震災大杉栄虐殺の大正十二年(一九二三)をへて、ラジオカフェ早慶戦円本(えんぽん)に象徴される昭和初期には未曾有(みぞう)の大衆文化の爆発を迎えるものの、昭和五年(一九三〇)に世界恐慌の波をうけて大きく変質し、小林多喜二が虐殺される昭和八年(一九三三)までにはすっかりその姿を消してしまった「ある社会・ある文化」というものを象徴しています。そのなかで童謡が生まれ、軍歌の波及とともにいったん消えていった
    (《日本流 序章 日本が思う》P.023〜024)


    第一章 日本を語る

     多様で一途な国

     5 万葉仮名

     もともと日本固有の文字をもっていなかった日本人(倭人)は、大陸半島からはいってきた漢字をもとに万葉仮名を“発明”しました。 それによってなんとか漢字だけで日本語(倭語)を表示しようとしたのです。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.047)


     この万葉仮名こそは、今日のわれわれがよくよく知っておくべきものです。それまでの日本はまったくの文字をもたない「無文字社会」であって、オラル・コミュニケーション図形文様だけに頼っていたのです。 それ以前に上代文字神代文字(ウエツフミ)というものがあったという一部の説もありますが、これはあてになりません
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.067)


     そういう無文字社会に紀元前後あたりから漢字が入ってきて、そのときから〔日本文字開発〕の冒険が始まるのです。 そこで、日本文字をつくろうとしてみると、それまで奥にひそんでいた日本語(倭語)の本来の姿というものが浮かび上がってきた。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.047)


     やがて万葉仮名から片仮名や平仮名がしだいに派生してくると、どのように日本語を表記するかという議論がまきおこり、そのうちに紀貫之の「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」(『土佐日記』)という屈折した方法が出てきます。 これを国文学では「仮託の方法」といい、そのようにしてだんだんできあがった日本語システムの変則的な成り立ちかたを、国語学では「日本語の重層的成立」というふうにいいます。表立った日本語は捩(よじ)れながらできあがってきたというべきなのです。



     こうした一連の動向の突端にあるのが万葉仮名の工夫です。 その創意工夫は想像するにあまりある。 試しに次の一文を見てください。 どう読みますか。

     夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微尓夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁

     これが万葉仮名というもので、これでちゃんとリズミックな歌になっている。 いまではこんな漢字の羅列はとうてい読めません。 では、「夜久毛多都/伊豆毛夜幣賀岐/都麻碁微尓/夜幣賀岐都久流/曾能夜幣賀岐袁}と区切ったらどうか。
     これはスサノオが詠(よ)んだとされる歌で、出雲地方の八重垣姫にまつわる伝承がうたわれています。 けれども万葉仮名ではわれわれはまったく手が出ない。 現代語で書きあらわすと、こうなります。

     八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.048)


     しかし、当時の万葉人このように見えていなかったのです。 「やくも」は「夜久毛」か「ヤクモ」というであって、「八雲」という文字では見えていなかったのです。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.048)


     むしろGLAYふうに綴ってみた感じに近いかもしれません。 たとえば、「夜久毛 tatsu 伊豆毛 YAEGAKI 都麻 gomi 尓 YAEGAKI 都久流 sono YAEGAKI 袁」といったふうな感じだったと思われます。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.049)


     おまけにこのころは日本語のボーカリゼーションも一定ではなくて、漢音(かんおん)と呉音(ごおん)が争って交じっていたものだから、読みかたも勝手なものでした。 かつてサザン・オールスターズ桑田圭祐(くわたけいすけ)が「海岸に」を「きゃいぎゃんに」と唄って顰蹙(ひんしゅく)を買ったのとそう変わりはなかったわけです。 漢音と呉音というのは、たとえば、「白衣」をハクイと読めば漢音、ビャクエとよめば呉音です。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.049)


     こういうふうに、日本人はボーカリゼーションにも多様だったのです。 かくて同音異義であって、〔一字多音の国〕ニッポンというものが生まれていくことになります。 「」という字などは、生一本・生蕎麦の、一生のショウ、生活のセイ、生きるのイキ、生ビールのナマ、生まれるのウムなどと、なんともバラエティに富むことになったわけです
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.049)


     このような日々の言葉づかいの変遷に加えて、日本には長きにわたる翻訳の歴史というものがあります。
     とくに蘭学をへた明治維新以降の翻訳語は、その後の日本の「知」を決定づけたほどの影響を発揮した。 そのため「自然(ネイチャー)」とか「自由(フリーダム)」という訳語をめぐっての議論がいまなお絶えません。
     たとえば「美学」(aesthetics)という翻訳語の例でいえば、最初の西周(にしあまね)では「善美学」や「佳趣論」で、鴎外は「審美学」などともなっていたのですが、中江兆民の「維氏美学」あたりから主導権が「美学」に移っていった。 それでも定着前はまだ「美妙学」などというシャレも生きていたのです。
     いったい誰が翻訳語をひとつに定着させたのでしょうか。 学界・業界では便利な必要ということでしょうが、ときによけいなお節介だとも思われます
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.051)


     6 乱世

     さて、私が何でも日本が好きなのかというと、そんなことはありません。 「つまらない日本」というものもいっぱいあります。
     ごくラフなことで例をあげれば、町の中の市民公園の大半が画一的でつまらない。銭湯がだんだん少なくなってきたこと、シンポジウムにフラワーアレンジメントを卓上に置きすぎること、銀行がろくにサービスをしていないことも気にいりません。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.051)


     はたしてグローバリズムの掛け声にのって、何が何でもグローバル・スタンダードやアメリカン・スタンダードを導入し、がむしゃらに国際基準をめざすという姿勢がよかったのかどうか、私にはかなり疑問です。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.053)


     そんなことばかりしていては日本もますます自信をなくすばかりだから、そこで一転、「日本をほめよう」の広告とか「日本の教科書を書き変える」運動とか、「新保守思想の登場」とかの、いわば“ニッポンがんばれ”コールもしきりに上がってきました。
     むろんそういう民族感情が盛り上がったっていいばあいもあるのですが、ところがそれらをときたま覗いてみると、なんだその程度の話なのかというほどに、がっかりするような内容です。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.053〜054)


     たとえば日の丸・君が代の制定も復古主義だけが前面に出ていて、どうにも内容がありません。 私はずっと以前から国旗や国歌をはっきりさせたいのであれば、むしろ新たに試作して、みんなで決めればいいと思っていて、そういうこともときどき書いていました。 明治大正ならば小山作之助のような人が、戦前ならば早坂文雄のような、二十年前くらいなら黛敏郎武満徹のような人が国歌か民衆歌を試作してみてほしかった。 詞は公募でいいでしょう。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.054)


     国旗のデザインだって、以前、亀倉雄策さんや杉浦康平さんがそういうことを言っていたけれど、コンペをやってみたってよかったのです。 だいたい国旗や国歌に頼らなければ維持できないような、そんなナショナル・アイデンティティなんてたいしたものじゃないのです。
     けれども事態はいっこうに忽然(こつぜん)とは腑(ふ)に落ちない。
     蝉はじりじりないている。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.054)


     これではひょっとして私のほうが歴史を勘違いして捉えているとしか言いようがありません。
     すでに柳田国男にしてからが、明治の後半期に村から紙窓がなくなってガラス窓になりゆく光景を見て、もはや昔の日本を研究することは続けても、懐かしむことは断念しようと思ったほどでした。 しかしそれでも、私は日本が好きだし、懐かしい。 これはどうしたものなのか。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.054〜055)


     7 芸者の冒険

     懸念は大事でしょう。 楽観は禁物です。
     しかし気になるのは、懸念が放置されているうちに、最近の日本人の多くに「悔しさ」のようなものが薄く平らに広がっていることで、これは放っておいてはよろしくない。 こういう時期はプチ・ナシュナリズムのようなろくなことしかおこらない。 おそらくは低俗な日本人論や、居丈高な日本主義や、その逆の「日本なんかにかまっているな」議論などが勃興(ぼっこう)してくる時期になりかねない。 そんな連中には「日本が懐かしい」とは言ってほしくない。
     それは何もおこらないことよりも、もっと困ることで、もっと厄介なのですこういうときは三木露風『正午』を読むべきです。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.055)


     8 紺と紅と

     それでは、どのように日本や日本文化の一途と多様を語ればいいか。 私はせめても「一対の語り口」を蘇らせるべきではないかということを勧めたい。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.063)


     一対というのは、「紺と金」とか「神と仏」とか「雅(みや)びと鄙(ひな)び」というような、そういう対照的な一対で、かつ相互に関係しあう一対のイメージのことです。 すでに三浦梅園が発見していた方法でした。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.063)


     たとえば染色です。 染色では新たに「紺と紅」という対比が生まれ、これがおおいに流行するのです。林屋辰三郎さんに『紅と紺と』という名著がありますから、詳しいことはそれを読んでください。日本女性史にもなっている
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.063)


     一対の対比感覚は別の対比感覚を生むのです。 いったん別のジャンルへの転移がおこると、また次がある。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.063)


     その象徴が俵屋宗達緒形光琳のような才能で、『舞楽図屏風』『燕子花(かきつばた)図屏風』はまさに古来の「紺と金」の対比を蘇らせたものでした。 しかし、そこにはもはやもともとの仏教の感覚はない。 まったく新しい意匠と色彩のアンサンブルとなっているのです。 それでいいのです。 というよりも、いまそれがおこっていないのです。
     これを「本歌(ほんか)」に対するに、その派生と転移、さらにはそれらの「見立て」、その見立てに対する再度の「付合(つけあい)」や「見立て付(つけ)」というふうにみなすことができます。連歌連句がめっぽう得意としたことでした。そして、その移行のたびに一対の感覚が次々に飛び火する。 これが日本流というものなのです。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.064)


     9 真名と仮名

     古代では、漢字のことは「真名(まな)」とよんでいました。 中国の文字、本来の文字という意味で「真名」とよんでいたのです。
     このような見方があったから、万葉にはじまった日本の文学は「仮名」となります。〔ほんもの〕の「真」に対する、〔かりそめ〕の「仮」の設定です。 ここには中国と日本という、その当時の国際感覚がはたらいていて、あくまで中国的なるものが「真」(唐様)であり、日本的なる物は「仮」(和様)でした。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.067)


     このことは文字の呼び名にあらわれているだけではなく、朝廷の正式儀式をおこなう朝堂院(かわら)を葺(ふ)いて(せん)を敷き、あくまで朱塗りの柱で中国風に造ったのに対して、同じ宮廷のなかの生活をする場にあたる清涼殿などの建物のほうは、檜皮葺(ひわだぶ)きで白木(しらき)の柱、窓には蔀戸(しとみど)をつけて高床(たかゆか)にするという、あくまで和風に徹した建築様式にもあらわれます。  そういうデュアルな一対の様式性というものは、当時の人々にはおそらくちゃんと意識されていたものでした。 それが「平仮名と片仮名」という一対のつかいかたにもあらわれるのです。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.067)


     いろいろ調べてみると、片仮名は、起請文(きしょうもん)・告文(こうもん)・願文(がんもん)・白状記などの、いわば神に何かを誓ったときの文章に使用されています。 これに対して私的なことがらはたいていが平仮名で綴られていたのです。
    (《日本流 第一章 日本を語る》P.067)


    第二章 日本も動く

     職人とネットワーカー

     2 ツメとツクリ

     これは〔ツメ〕という感覚の問題です。 日本ではツメるということが仕事や才能をクリティカルにしていることが多いのです。 能や邦楽でも「間(ま)」が重視されますが、この「」はあけているのではなくツメている。ツメてツメて、それでもそこに残っているものが「間」というものです。
     その「間」にもオモテウラがある。 「トン」という拍子はオモテの一拍ですが、その直前に「・トン」という「・」のウラの一拍がある。 そのわずかな瞬間に息をツメているのです。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.076〜077)


     3 目当て

     ついでながら、こんなことを書いてもいいのかどうか迷いますが、湯川自然観のもっと興味深い面は、これは最晩年の湯川さんが私に喋(しゃべ)ってくれたことなのですが、「ぼくはね、谷崎のように自然を見なきゃあかんと思うているんですよ」という言葉にあらわれています。 あまりに唐突な話題になったので私が意味をとらえかねて「谷崎って、あの谷崎潤一郎の…」と言ったところ、湯川さんは重ねてこう言ったものです。 「谷崎は女の足の指のようなものを偏愛するでしょう。 自然かて、ああいうものなんですよ。 科学者は自然にうずくまって足の指を見なければいかんのです」。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.083〜084)


     4 東の金・西の銀

     こうしてできあがっていく日本は、当然ながらひとつの国としてのアイデンティティなどもっていなかったと見たほうがいいでしょう。 民族観もない。 というよりも、むしろ別々のものがまじりあって混然と進んでいった。 大別すれば東国と西国ではおおいに異なっていたのです。 東の社会と西の社会は別々で、東の経済感覚と西の経済感覚もちがっていた。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.085)


     さて、この「オトトイ=東国」と「オトツイ=西国」の社会文化のちがいは、もっといろいろなちがいとなっていきます。 たとえば、こんなふうです。
      東の畑作優位社会−−西の水田優位社会
      東のイロリ−−西のカマド
      東のウマ中心社会−−西のウシ中心社会
      東のハカマ−−西のフンドシ
      東の−−西の風呂

     たいそう多種多彩な東国と西国の領域の区分けとぴったりつながるのです。 そして、このちがいはその地方で何を年貢として収めたかとか、金銀どちらで決済したかといった経済社会のちがいにまでつながって、大別すれば、
      東の−−西の
      東の貫高制−−西の石高制
      東のの経済−−西のの経済

    というふうに分かれます。 東が金の経済システムで、西が銀の経済システムになっているのです。 これは、そもそも東国に金山が多く(甲州・佐渡)、西国に銀山が多かった(石見・生野)という自然環境の特質にもとづいています。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.086〜087)


     5 コードとモード

     日本の各地には「塩の道」とよばれている川筋や道筋がたくさんあります。
     私が若いころに敬慕していた民俗学者の宮本常一さんが詳細にしらべたところによると、ひとつの地域、たとえば山が深い長野県という場所を例にすると、ここには諏訪と松本という直線距離にしたらごく近い二つの町(村)ですら、太平洋から届く塩、日本海から届く塩という違いをもっていた。
     松本には日本海側から糸魚川や北国街道を通った塩が主にとどき、諏訪には太平洋側の利根川から倉賀野を経た塩の道による塩が主にとどいていました
    。 こうしたことが、のちに信濃の上杉謙信甲斐の武田信玄とのあいだで塩を送ったという、川中島の“美談”になりかわる。 あの話は塩の道のちがいだったわけです。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.088〜089)


     というわけで、ここではまずもって「日本はひとつじゃない」ということをはっきりと確認しておきます。JAPANではなくてJAPANSです。 最近は、縄文学者の佐原真さんや歴史学者の網野善彦さんは、日本を考えるにあたっては最低でも四つの国を分けたほうがいいと言っています。 すなわち、アイヌ(蝦夷)、東国、西国、琉球(南西諸島)です。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.089)


     こうして奈良の〔国づくり〕ができあがり、続いて平安時代に入っていくのですが、ここでは時間差は「ミヤビ」(雅び)と「ヒナビ」(鄙び)としてあらわれます。 ミヤビというのは「宮(みや)びる」「宮処(みやこ)びる」という意味からつくられた言葉で、都っぽいということ、つまりはシティ感覚です。 このシティ感覚が届かないところがヒナビです
     ミヤビヒナビの一対の感覚はその後の日本文化では何度も浮上し、何度も対比され、そして何度も組み合わされます。 ヨーロッパの歴史でいえばゴシックという言葉が「ゴート人っぽい」という意味から派生したのですが、そのゴシックがその後も何度も再生したことに似ています。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.092)


     ただし日本では、ミヤビとヒナビの関係はどんどん縮小されていく。 そこを見るべきです。まるで箱詰めになるかのように縮まっていく
     その最も代表的なしわざが、千利休の「市中(しちゅう)の山居(さんきょ)」という発想でした。 京都という都の只中(ただなか)にありながら、そこに山中の風情のような空間と時間を出現させた。 それが「草庵」というものであり、どんどん小さくなっていった「台目(だいめ)」というものであり、「侘び茶」というものでした。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.092)


     6 中世ノマド

     ネットワーカーとはネットワークを動く人々のことで、今日ならさしずめインターネットのユーザーたちでしょう。 かれらはウェブの時空をクリックしながら自在に動き、ここぞというサイトから好き勝手に情報をカット&ペーストし、ダウンロードする。
     これは何をしているのかというと、世界に張りめぐらされたクライアント・サーバー型のネットワークに埋めこまれた情報を、好きに編集している。 かれらは情報を編集するネットワーカーなのです。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.095)


     似たようなことが日本史上にもおこります。 なかで最もドラマチックな動きをみせ、それ以前とそれ以降の日本を大きく変えてしまったのは、中世のネットワーカーたちでした。 この人々のことを、漂泊者とか遊行民とか「道の人」とかいいます。 最近のハヤリの言葉でいえば〔ノマド〕(遊牧者)です。一所不在の人々であり、無住の人々である。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.095)


     しかし、そこにも中世社会に特有のサーバーがあり、サイトがあったとみるべきです。 そしてそこを見ることは、日本のいくつかの秘密の箱をあけることにもなります。大拙が見落とした鎌倉仏教の背景にも、そのネットワーカーと関係をもつサーバーやサイトや、つまりはシステムがありました。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.095)


     7 公界と今様

     この人々にはもうひとつ重要な共通性があります。 それは、大半が〔和歌を詠んだ〕ということです。
     和歌を詠むということは、たんに歌人だったということだけではなく、実際上であれ想像上であれ、歌枕(うたまくら)」を求めて歩いているということを意味します。 歌枕とは、当時の日本にはりめぐらされていた“名所を結ぶネットスポット”のようなもので、その歌枕をクリックすれば、そこからどっと和歌のデータベースが開いてくるというようなものです(歌枕については第四章「日本へ移す」を参照)。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.097)


     では、そうやって変わっていっものが何かというと、それが中世に編集された新日本のイメージマップというもので、これをこそ、われわれはしばしば「花鳥風月」とよぶ日本流です。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.098)


     花鳥風月とは、和歌というプロトコルを使って、自由に日本情報を取捨選択し、これをさらに表現するための編集OSともいえるのです。  この花鳥風月のイメージマップを埋めこんだ編集OSをあやつって、もう一度でも、もう二度でも花鳥風月の心をたどることが、のちの世阿弥に「時分(じぶん)の花」を咲かせ、利休に「侘び茶」をめざめさせ、芭蕉に「百代の過客」としての旅をさせることになるのです。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.098)


     中世ネットワーカーとしては、第二には職人芸能者の群れが注目されます。 これは遍歴の民の実態を握る人々で、かつ、日本社会の本質像を提供してくれる人々です。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.098)


     ここでは、この主題を語るに最も適切な方法で、すなわち網野善彦さんの本を薦めることで、私の粗雑な解説に代えたいと思います。 なにしろ網野さんはこの分野のあらゆる研究成果を網羅点検し、それを徹底して立体的に組み上げただけではなく、これこそが新たな日本史の教科書の出発点だとおもえる著述を何冊も書かれている。 私はその本意と誠意と勇気にいつも感動しています。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.098)


     だから、日本を知るには網野さんの本は全部読んだほうがいいこれが私のこの二十年の確信です。 それでもひとつだけあげろといわれれば、『日本社会の歴史』全三冊(岩波新書)か、もう少しわかりやすい『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)という語りおろしを推薦します。 ただし、これから紹介するのは中世ネットワーカーに焦点があたっている『日本論の視座』(小学館)という本です。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.099)


     その網野さんの膨大な史料にもとづいた視点を短く概括するのは困難ですが、次の三点には耳をかたむけるべきでしょう。 詳しくは本の中に入ってみてください。

       1・遍歴民には遍歴民たちの日常生活と経済生活がある。 それを定住民の歴史の目だけで見てはいけない。 すなわち、遍歴民をいちがいに“賤民”とみなすべきではなく、この人々に特有の権利や自由や生活を見るべきなのである。
       その点、『平家物語』『一遍上人絵伝』などはそうした“内側の目”をもっていた。 これまではあまりにも“外側の目”で歴史を語りすぎてきた。
       2・中世の職人芸能者には、鋳物師・木地屋・轆轤(ろくろ)師・機織(はたおり)・縫物師・帯売・摺師(すりし)・傀儡(くぐつ)師・白拍子・辻子君(つじぎみ)・持者(じしゃ)・巫女(みこ)・桂女(かつらめ)・比丘尼(びくに)など、実に多様な人々が含まれる。 そこには物売りと遊女の区別がつきにくいとか、制作者と販売者の区別が明確につかないということもある。
       しかし、もっと重要なことは、この人々は関渡津泊(かんとしんぱく)を自由に通行することができ、自由に販売権を行使することのできる「無縁(むえん)」「(らく)」「公界(くがい)」などとよばれたセンターさえもっていたということである。
       3・このネットワーカーには神人(じにん)・寄人(よりうど)・供御人(くごにん)なども含まれる。 かれらは皇族・寺社と直属の関係をもって生産にあたり、販売にあたっていた。
       かれらはしばしば「異形(いぎょう)」の者と見られたが、そのように畏怖をもって見られたことこそが、中世社会を彩る風流バサラの動向を促し、悪党などの跳梁(ちょうりょう)を触発し、親鸞悪人正機説を思いつかせ、一遍に賦算(ふさん)をおもいつかせた何らかの作用になっていた。

     あまりにも圧縮しすぎた論点にしてしまいましたが、ここからはもうひとつの日本」というものの原像が見えてくるはずです。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.99〜100)


     8 知財と同朋衆

     貴族や武将たちはこうした阿弥をとりたてます。 善阿弥のばあいは将軍足利義政にとりたてられて、将軍家に出入りする。 そして「同朋衆(どうぼうしゅう)」という役目をもらいます。
     同朋衆とは“目利き”のディレクターということで、将軍家はこのようなディレクターを集めて、いわゆる「唐物(からもの)荘厳」ということを徹底化します。 「唐物数寄」ともいわれたもので、中国の文物を輸入して、その選別と評価を同胞衆にさせ、これを座敷や書院や会所(かいしょ)に飾ってたのしんだのです。
     このやりかたは他の武将や貴族にも波及して、しだいに阿弥を重視するようになっていく。 かれらは“知財”の発見者でした。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.103〜104)


     あらためてふりかえってみると、ネットワーカーの出現は何も中世にかぎったことではありません。 日本の神々の伝承には、最初から遍歴的であり、彷徨していた神がたくさん動きまわっていました
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.108)


     あえておおざっぱにいえば、日本の神の多くは〔彷徨神〕だった。 〔うろついていた〕。 いや、神の多くが“異人としての性格”をもった者が多かったと言ったほうがいいかもしれません。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.108)


     これは日本だけではなく、だいたいどんな民族の始原的な神にもかかわる属性で、異人として怖れられた者たちがのちに神として畏怖されていったということは、とくにめずらしくはありません。 ただ、そのような神のイメージが中間部をとびこえて遍歴の民たちとしばしばダイレクトに結びついているところに、私はちょっとした日本の多様性の秘密を感じるのです。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.108)


     実は、この点に関してはもっとはっきり言ってしまいたいこともある。 けれどもやはり言いにくいことなので、ちょっとぼかしたままで書いておくことにします。
    (《日本流 第二章 日本も動く》P.108)


    第三章 日本で装う

     仕組と趣向がはずむ

     1 悉皆屋

     こうなると、たとえば「」「」「綸子」などという字は、もう死語になる。 これを「ひとえ」「おくみ」「りんず」と読めて、八掛(はっかけ)・桟留(さんとめ)・直綴(じきとつ)・紗綾形(さやがた)が何のことなのか、おおまかな見当のつく女性がはたして一パーセントもいるかどうか、はなはだ心もとなくなってきます。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.116)


     2 納戸色・縹色

     ちなみに文中にもある「お納戸」はさきほど紹介した舟橋聖一の主人公の悉皆屋康吉が命がけで染め出そうとしていた若納戸を含む納戸色のことで、黒みをおびた深い藍染の色。 それより少しばかり赤みが強いのは縹色(はなだいろ)といって、いずれも私が好きな染め色です。 「やたら縞」というのは筋の間隔が不規則な縞模様のこと、縞筋は江戸中期以降の日本の粋の見本のような図柄です。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.117〜118)


     5 軸組と造作

     それはどういうことかというと、着物を“できあがった着物”として見るのではなくたとえばとして、たとえばとして、たとえばとして、さらにはテキスタルデザインファイバーアートとして、見なおしてみるという視点です。 これなら着物の根本から問いなおして、自由に着物を遊ぶことが可能です。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.130)


     として見るというのは、そこにムスビ(結び)のおもしろさを発見しようということです。そうすれば、帯や帯締(おびじめ)や紐などの結びかたが髷(まげ)の結いかたにも袋物の結びかたにも、もっというなら水引(みずひき)や標縄(しめなわ)にもおよぶことになる。 実際にも江戸時代の着物の意匠にはムスビだけをモティーフにして大胆なデザインをあしらったものがけっこうあったものでした。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.130〜131)


     また、文様として着物を見れば、これは装飾古墳の内側の意匠屏風(びょうぶ)や(ふすま)や扇子の文様、文箱(ふばこ)や牛車(ぎっしゃ)の装飾というふうに連鎖的に広がって、そのなかに着物も入るということになり、むしろ着物を文様群のひとつとしてみなせる余地も出てきます。 私もときどきお世話になっている切畑健さんという衣裳史の研究者は、まさにそのようにして辻が花を“時代の着物群”として扱ったのでした。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.131)


     着物を〔支えるもの〕の側から見る。 そういうことです。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.131)


     たとえば歌舞伎というものは「仕組」と「趣向」でできています。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.131)


     そこで言いたいことは、日本の仕組や仕事には、「分(ぶん)」とともに「当(とう)」があるということです。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.140)


     いや「当」があるというよりも、「当」を求めて「分」が動いているところがある。 まさに「当分」です。
    (《日本流 第三章 日本で装う》P.140)


    第四章 日本へ移す

     見立てとアナロジー

     1 近江八景

     誰がそんなことをさせたのかは忘れてしまったのですが、おそらくは郷土歴史家で、わが家ではキョート・ハカセとよんでいた田中緑紅(りょっこう)さんだと思います。 私はそうとう小さいころに琵琶湖にまつわる近江八景の名称をおぼえさせられたことがありました。
     おぼえると得意になって、「比良(ひら)の暮雪、矢橋の帰帆、堅田(かただ)の落雁、三井寺の晩鐘、粟津の晴嵐、唐崎の夜の雨、瀬田の夕暮、石山寺の秋の月」と呪文のように唱えていた。 こういうものをおぼえるのは悪くありません。 数え唄など、もっともっとつくったらいいと思います。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.146)


     京都では「丸竹夷二押小路・姉三六角蛸錦・四綾仏高松万五条」(まるたけえびすにおしこうじ・あねさんろっかくたこにしき・しあやぶったかまつまんごじょう)というふうに四四五調で、丸太町から五条までの通りの名前をおぼえるのですが、なんだかそういう幼いころのインプリンティング(刷りこみ)にこそ文化遺伝子ミームがはたらく脈絡があるのかなと思えます。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.146)


     そうしておぼえた近江八景が、もともとは中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)の故事にもとづいているというのを知ったのは、ずっとのちのことでした。  瀟湘八景は「平沙落雁・遠浦帰帆・山市晴嵐・江天暮雪・洞庭秋月・瀟湘夜雨・煙寺晩鐘・漁村夕照」という八景をさしています。 北宋の宋迪(そうてき)が八幅の名所仕立てに描いて有名になってからの流行で、その後も水墨山水の代表的な画題となりました。牧谿(もっけい)・王洪馬遠らがそれぞれ名作を描いている。
     室町以降の日本でもけっこう流行し、雪村相阿弥狩野永徳狩野山楽などに受け継がれます。 明治以降では横山大観の八景画や、青龍社で大暴れしたのちに水墨山水に傾倒していった横山操の瀟湘八景画が印象に残ります。 近江八景はこの瀟湘八景をそっくりそのまま琵琶湖に移して真似ようとしたものです。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.146〜147)


     いったい名所の発生というものはなかなかオツなもので、誰が言い出したかはっきりしないのに、いつのまにか人の口の端にのぼり、それがだんだん公衆のイメージマップ重要スポットになっていきます。
     しかもいったんそうなると名所としての地位は断然ゆるがなくなって、そこへ次々にイメージが付与され、〔物語〕がついてくる。 そのうち名所比較や名所勝負がおこり、スーパー名所ともいうべきが他をおしのけて勝ちのこると、日本三景とか近江八景という揃(そろ)い踏みになったりもします。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.147)


     2 歌枕

     歌枕というのは名所にちなむ歌語から自立していったものです。 歌語は〔縁語〕ともいわれるだけあって、言葉の連想上のさまざまな「縁(えん)」をもっています。
     どんな言葉を使ったかというだけで、さまざまな連想機能や仮想作用や、ときには記憶や体験にもとづく関係連鎖を発揮するのです。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.149)


     6 擬似同型

     では、どうして長嶋茂雄の似顔絵は長嶋に見えるのか。 おそらく、われわれには「似顔絵を通した長嶋茂雄」という〔擬似同型モデル〕とでもいうべきものがどこかでできあがっているのだということです。 それは長嶋本人よりも「ナガシマ」という見立て人物像をこそ交換しているからでしょう。コロッケ美川憲一の真似をするときも同じことで、われわれはいつのまにかコロッケを通して美川憲一を見ることになっている。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.169)


     そこで考えられることは、われわれはさまざまなものに関する「らしさ」を知覚の前提にして生きているのだし、「らしさ」をもとにコミュニケーションをしているのだということです。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.170)


     これを裏返していうと、われわれにはそもそも「何かを何かにざっと見立てる傾向」があるかもしれないということになります(ゲシュタルト心理学の一部でこのような議論がされていたことがありました)。 今日の認知科学では、これを「略図的原型」などともいいます。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.170)


     7 寄物陳思

     では、いったい見立てなどという手法は日本にとってそんなに固有なものなのでしょうか。 また、どのくらい前からこの言葉はつかわれていたのか。
     いちばん古いものは『古事記』の神代(じんだい)の巻に出てくる見立てです。 イザナギイザナミの二神が天の御柱(みはしら)を選定したときのことを、「アメノミハシラを見立て、ヤヒロドノ(八尋殿)を見立てたまひき」と書いてあります。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.171)


     この文意はあまりはっきりとした内容がわからないのですが、おそらくはどこかの場所の特定の樹木を神木(しんぼく)と見て、それを囲む領域に仮設の館のようなものをつくり、そこを素朴な神殿とみなしたという意味でしょう。 ちなみに、このように一本の樹木を神のシンボルとみなすという見方は、日本のみならず世界中に見られるもので、民族学ではトーテムポールとか、ミルシア・エリアーデにならって世界木とよんでいる。 日本ではこれを「依代(よりしろ)」といいますが、そのことは次章にとりあげます。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.171)


     のちに本居宣長『古事記伝』でこの箇所をとりあげて、見立てというのは「ただに目にして見るのみを云ふにはあらずとして、それは「知をおこなふ」というものだと書いています。 「知をおこなふ」というのは見立てが単なる模倣ではないという言外の意味をこめたところです。 まさに日本流、なかなかの卓見です。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.172)


     しかし、私はべつの作用もここにおこっていると思っています。 それは実は立てる」ということこそが、「そこを注意して見る」ということを促したのではないかと考えているからです。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.172)


     このことについては、「(つえ)を立てる神話伝説群」ともいうべきものが世界中にあって、杖という一本の棒にまつわる民俗風習が各地に残っているのです。赤坂憲雄さんの『異人論』ほかの著作にも言及されています。 私もそのことについて『フラジャイル』(筑摩書房)のなかでとりあげてみましたので、読んでいただくともうすこし私の意図がわかるかもしれません。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.173)


     8 三つの庭

     まずなんといっても「」が見立ての宝庫です。
     もともと日本には三つの庭がありました。これを「神庭(こうにわ)」「斎庭(いつきのにわ)」「市庭(いちば)というふうに見ておきます。」
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.176)


     神庭(こうにわ)は神が降りてくる庭で、そこに結界が生じ、そこで祭祀(さいし)がおこなわれます。 たいていは常緑の一本の木(依代)が立っている。 そうすると、そこに神が降りてくる。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.176)


     次の斎庭(いつきのにわ)は、そこで浄めたり、籠(こ)もったり、神聖な裁きを待つところです。 「斎(いつ)く」とか「斎(い)む」というのはいささか難しい古代語で、基本的には清浄にして神との交流を求めることなのですが、そこから転じて大事を守るとか、大事に仕えるとか、そのために穢(けが)れを遠ざける、あるいは禁忌(タブー)をたてるという意味にもなって、さらに転じていわゆる“お白州”のような場所をも示します。 この斎庭のモデルは能舞台にも生きています。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.176〜177)


     市庭(いちば)は、これこそが日本のマーケットの原型で、そこでこそ売買や取引がされた。 いま「市場(しじょう)」といわれているものにわかなりません。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.177)


     貫之「漢詩の六義」に対して「和歌の六種」を配分したことは、見立ての議論にとっても、日本文化の出発点のひとつとしても重要なので、ごくかんたんに説明しておきますが、これはまず貫之が『古今集』の序文を真名序(まなじょ)と仮名序(かなじょ)に書き分けたのです。 第一章にも示したように、真名(まな)は漢字のことをさしているわけですから、真名序は漢文による序文です。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.179)


     そこで貫之は、真名序には漢風の作詩術上の六義である「賦・比・興・風・雅・頌」という六つの方法を紹介し、これに対して一方の仮名序に、その和風版ヴァージョンである「そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただこと歌・いわい歌」の六体をあげたのです。 中国の六義に対して和風の六体を対応させたこと自体が借用なのですが、このうち「なずらえ歌」「たとえ歌」がそのまま見立ての歌であることはすぐわかります。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.179)


     10 俗に入る

     江戸の十八世紀は元禄十四年から始まります。 ついで家宣家継吉宗とつづいて徳川家重の時代から年号が宝暦に変わる。 そして、宝暦・明和・安永・天明とつづく。
     この時期をしばしば宝暦天明文化とか、略して宝天(ほうてん)文化とよんでいます。 仮に江戸三百年を、慶長文化寛永寛文文化元禄享保文化というふうに大くくりに見ていくと、その次が宝暦天明文化として特長づけられるのですが、この宝天時代、別名を田沼時代といわれる時期こそは私が最も江戸らしさを感じるところです。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.187)


     これでひとつの特長がはっきりすると思いますが、宝天文化とは、ようするに江戸の見立てが爆発的に開化した時代なのです
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.188)


     なかでも山東京伝は「見立て王」ともいうべき人物で、一般には黄表紙の作家として有名を馳せてはいるものの、実は近江八景などすらすら描く北尾政演(まさのぶ)という名の浮世絵師でもあって、『江戸風俗図巻』を編集する考証学者でもあったのですし、数寄屋橋連に属する身軽折輔(みがるのおりすけ)という狂歌師であるかとおもえば、「めりやす」(萩江節の一種)の作詞家であり、また奇抜な手拭いデザイナーであって、広告文案集『ひろふ神』名コピーライターもつとめ、それでいてちゃっかりと煙管屋(きせるや)の主人でもあったのです。
    (《日本流 第四章 日本へ移す》P.188)


    第五章 日本に祭る

     おもかげの国・うつろいの国

     1 懐徳堂

     山片蟠桃は大阪を代表する経世家で、かなり異色な行動的哲人です。 仙台藩の財政を一軒の大店(おおだな)の経済だけでまかなってみせたかとおもえば、日本神話の不備を突いたりもした。 経営哲学者としても政策論者としても重要な位置にいるし、三枝博音(さいぐさひろと)の先駆的な日本思想研究のなかではとびきりの唯物論者ともされています。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.195)


     経世家というのは経世済民(けいせいさいみん)にとりくんだ人のことで、社会と経済と政策をつなげる理論家や実践者のことをさしています。 この「経世済民」という四字熟語から二文字をくり抜いてつくられた言葉が、今日の「経済」です。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.195)


     ほんとうは経世済民は文字通りにはポリティカル・エコノミーなのに、そこから経済だけをとりだしてエコノミーにあてたところが、江戸の経世済民学と明治以降のエコノミッククスとのちがいです。 蟠桃は、この経世済民の思想を懐徳堂(かいとくどう)に学びました。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.195)


     懐徳堂は、そのころ関西に出現したたくさんの郷学(きょうがく)(地方学校)のなかでもとびぬけた私塾です。三宅石庵の創設以来、日本的仏教の問題点を分析した富永仲基(なかもと)や、懐徳堂の先生として多くの塾生を育てた中井竹山をはじめ、かなり多くの人材を輩出したところですが、実は大阪の学生たちはこのこともほとんど知らなかった。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.195)


     3 ハシとキワ

     さて、そういう蟠桃にあやかって受賞したオギュスタン・ベルクさんとは、どういう人なのか。
     もともとは地球環境学や文化風土学の専門家で、しかも和辻哲郎の研究者や北海道の研究者です。日本人は「おもむき」というものをもっとたいせつにしたほうがいい、というようなそういう指摘をする人です。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.201〜202)


     著書のひとつ『空間の日本文化』では、われわれがだいたいは気づいていながらも、うまく表現できていない日本の特性をいろいろ組立てようともしています。 たとえば、「日本文化は、AとBの〔あいだ〕の、抽象的もしくは中間物である第三項に当るものを多用する」とか、「間(ま)」はおそらく「からっぽ」と「くいちがい」のあいだを結合しているものなのではないかとか。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.202)


     こういう発想の海外の研究者からの指摘は、しばしばわれわれが気づかないハシ(端)を突いてくれることがあります。 第二章でも言っておいたように、私は日本の特質を語るにはハシを見るとよいと思っている
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.202)


     ハシといっても、キワといっても、あるいはキレといってもいいのですが、ハシというのは、われわれがふだん使う日常会話にもしょっちゅうあらわれています。 「極端」「半端」「途端に」「はしょる」(端折る)などが、その〔ハシ好き〕なところです。 紙や藁(わら)のハシをそろえ、着物をたたむときもハシを見る。 大工の棟梁も熟練すればするほどにハシを見る。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.202)


     ベルクさんの指摘したことでいえば、日本語に擬声語擬態語が多いことが日本的なのではなく、日本の擬態語の「きらきら」が強くなると「ぎらぎら」になるようなところがフランス語にない特色なのだといった指摘には、そうか、なるほどと唸らせます。 唸るだけではなく、ここにはこのあと私が話したい問題も含まれている。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.203)


     たしかにわれわれは「カタカタ」と「ガタガタ」を使い分け、「ふらふら」と「ぶらぶら」と「ぷらぷら」を区別していると、気がつかないうちに「ぴんぴん」と「びんびん」を、「カンカン」と「ガンガン」をちゃんと別につかっているのです。 「ぴっしり」というばあいと「びっしり」とでは、そこにはっきりした感覚的な状態のちがいがある。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.203)


     どこの国語でも擬声語や擬態語はあるのですが、しかし英語の例でいえば、“ZIG−ZAG”があるからといって、それが“TIG−TAG”や“PIG−PAG”にはならないのです。 “DING−DONG”が“TING−TONG”をつくらない。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.203)


     5 事足りぬ美

     その中川さんがこんなことを言った。 「松岡さん、花というのは祭られるものなんですよ。 でも祭りかたが悪いと死んでしまうんでね」。
     私はおもわず尋ねました。 「じゃあ、どうするんですか」。 しばらく手元をじっと見つめたあと、中川さんはこう答えました、「最初から死んでもらっておくか、人々の記憶の中でいつでも再生するように活けるんですね」。
     これはすごい言葉でした。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.214)


     いったい文化を見るには、〔基層文化〕と〔表層文化〕によって見方のちがいをもったほうがいいと思います。
     基層文化というのは伝承性がかなり高いもので、その地域や民族にとって気がつかないほど底辺の習俗になっているものです。 一方の表層文化は時代性が強いもので、たとえば正倉院の宝物に象徴される天平文化はシルクロードを通った文物が時代の表層を突破して強烈に焼きついたものですが、それは海外の文化が時の支配層などによって積極的に表層文化としてとりいれられ、定着したと考えられる。時計がはっきりしている文化です。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.215〜216)


     私はこの基層と表層の文化のちがいを生物学の用語を借りて、「ジェノタイプの文化」と「フェノタイプの文化」というふうにも見ています。 ジェノタイプは遺伝型、フェノタイプは表現型のことです。
     日本の祭りを見るばあいにも、フェノタイプの表層文化の目でみると、青森のねぶた祭、岩手黒石寺の蘇民祭(そみんさい)(裸まつり)、長崎のおくんちや沖縄のイザイホーのように、時代的定着の時期がだいたいわかるものと、ジェノタイプの基層文化としての縄文弥生かられんめんと続いていそうなものとがあります。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.216)


     ただ基層文化でみても表層文化でみても、日本の祭りにはアジア各地、とくに東アジアの祭りと通底しているところがある。 まずそのことを理解しておくべきです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.216)


     6 仮の死

     日本の文化は中国からいろいろの影響をうけましたが、科挙(かきょ)や纏足(てんそく)や天命改易思想をとりいれなかったように、あるいは雅楽が中国音階のすべてをとりいれずに呂旋音階律旋音階だけに単純化してしまったように、実のところ漢人の習俗・民俗からはあまりストレートな影響をうけていません
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.216〜217)


     たとえば漢族では祖先崇拝はあくまで個人の系譜を重視します。 そこが日本とはちがいます。 しかし中国の少数民族のほうは個人の霊は一代かぎりであって、あとは共同体の祖霊として合祀(ごうし)される。 これは日本に似ています。 中国と日本が照葉樹林帯でつなかっているだけではなく、また寿司ロード豆腐ロードがつながっているだけでなくて、古代の日本が南方の中国文化とつながっていたらしいことが、こんなことからもわかります。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.217)


     柏手(かしわで)を打つとか、巫女(みこ)がを鳴らすとか、四方に礼拝するという習俗は、あたかも日本の神社の専売特許のようですが、これはほとんど道教タオイズム)にあります(ち)の輪(わ)くぐりのようなカヤを使った習俗も、満月に関する風習や月待ち行事なども、だいたい道教です。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.217)


     ということは、こういうものがやってきたのは古い時代だとしても、最初は民間の表層文化として入ってきて、それが神社の確立とともに定着し、それをあらためて日本の民衆が習俗にしていった、というふうにあとさきを説明できるわけです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.217)


     では、日本の基層文化にあるもので、アジアにもあるけれどやはり日本に特有しているものは何かというと、なんといっても〔祖霊信仰〕です。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.217)


     7 モドキとフリ

     まず何かのフリがある。 これは「降り」です。 その降ってきたものを感じて人間が何かのフリをする。 これは「振り」である。 この「振り」は降ってきた何かと関係がある。 そこでその何かの特徴を形容する。 これがモドキです。そしてこのモドキから芸能が派生する。こういう順序になるわけです
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.224)


     8 依代と物実

     祭りではしばしば依代(よりしろ)というものが重視されます。
     どこの村祭りでも出現するどんど焼き梵天(ぼんてん)や左義長(さぎちょう)のような棒状のもの、祇園祭の(ほこ)や山車(だし)の柱のようなもの、諏訪の大祭の御柱(おんばしら)のようなもの、こういうものはみんな依代です
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.224)


     そもそも結界に立っている樹木や、そこに立てる木が依代です。 神社ではこういう木をサカキとよんで「」と綴りますが、もともとは「境木(さかき)」で、神聖な境目の目印のために立てた。 古代歌謡にはこのような依代や境木を立てるための「村立ての歌」がいろいろ残っています。 例の「見立て」の「立て」の話です。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.224〜225)


     依代は字義通りには「代わり依る」あるいは「(しろ)に依る」ということですから、なんらかのシロ)とよばれる代物(しろもの)があって、ここに何かの力が降りてくる、あるいは依ってくるという意味をあらわしています。つまり、「降り」がある。依代は最初のフリを受けるアンテナだったわけです
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.225)


     このような「代」とは、ごくふつうにいえばエージェントということです。 何かの代理をしているもの、代わりをしているものです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.225)


     しかし、〔代わり〕というのは、〔代わる〕ということでもありますから、そのシロが目的をはたせば役目は終わる。 それが村祭りの梵天が燃やされたり、焼かれたりすることにつながる次第です。役目が終われば焼かれてしまう。日本の祭りのあとが哀しいのは、こういうことにも関係があります。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.225)


     さて、この依代には依代が役割をはたしているあいだに、ということは何かが降ってきてくれるあいだにということですが、外からやってきて〔憑く〕(着く)ものがあります。 これを民族学では「物実(ものざね)」といいます。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.225)


     物実はどういうところに見られるかというと、正月などで飾る餅花がありますが、あれが物実の例です。 あの餅花の枝のほうが依代で、餅や紅白の玉のほうが物実です。 ついで、このように何かが憑くのをもっと積極的に待ち受けて用意しようとすると、そこに「依座(よりまし)」(憑座(ひょうざ))というものが出てきます。 待ち受け装置のようなものがあらわれる。 依代がアンテナなら、さしずめ依座は受像機とかCRTといったところでしょう。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.226)


     奥能登には旧暦十一月五日と正月五日にするアエノコトというとても風変わりな行事があって、そこでは主人が田の神を家の中に招じ入れて歓待します。 けれども田の神の姿はまったく見えない。 ただ主人が肩衣(かたぎぬ)に威儀をただして、そこを田の神がうごいていくようにゆっくりゆっくりと誘導するフリをし、さらに御馳走を振舞います。 そのとき田の神には座布団米俵をのせた依座が出現しているのです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.226)


     座布団というのは、ときどき木魚や招き猫がのっているのでただならない奴だと思っていた人もいると思いますが、まさにただならない奴なのです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.226)


     9 負の部分

     このキヨメハライをするときの時間や行為は、それが一瞬であれ、長時間であれ、「籠もり」の状態、すなわち擬死にあたります。 われわれも神社で神主さんのお祓いをうけるときに頭をさげますが、ごくかんたんにいえば、あのことです。 頭をさげているあいだ、それはとても短いものですが、そのあいだはわれわれはちょっとだけ擬死をしているのです。 いわば、「からだ」を〔カラ〕にしているわけです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.229)


     10 うつろひ

     そもそも「ウツ」という言葉がありました。  ウツとはカラッポとか中空的とかガランドウということです。英語でいえば void です。 そこがぽっかり空いている状態、それがウツというものです。 「」「」「」などという字をあてる。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.231〜232)


     このウツから「ウツロ」(虚ろ)とか「ウツワ」(器)という言葉がつくられました。 ここではウツワのイメージを思い浮かべておくことにします。
     ウツ(空)がウツワ(器)をつくることはわかりやすいと思います。 器物の中はぽっかり空いているからです。ところが、このウツから「ウツロヒ」という動的な言葉が派生したのです
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.232)


     まず、「ウツシ」という言葉があります。 現代語でウツルと考えてもらってもかまいません。 このウツシないしはウツルには、「移る」という意味もあるのですが、それとともに「写る」「映る」という意味もある。 何かが転じてそこに投影されるというイメージです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.233〜234)


     ところがさらに意外なことがあるのです。ウツという言葉は「ウツツ」という言葉にもつながっていたのです
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.234)


     ウツツは「」という文字をあてます。 現実という意味です。 よく「夢うつつ」というふうにつかう。 夢と現実とがつながって混沌(こんとん)としているということです。 つまりウツツはきわめてリアルなこと、夢に対抗している状態をさしている言葉です。
     それなのに、この現実的なウツツ(現)というものは、ウツ(空)という空虚な何もないところから派生してきたのです。空のウツから現実のウツツが出てきた。 同じ語根をもった言葉が、ほぼ反対の意味になっている。これは奇妙なことだといわざるをえません。 しかし、何か理由があるはずです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.234)


     古代の文芸や考古学の成果を見てみるとわかりますが、そもそもウツの状態をあらわしているのは「サナキ」とよばれるものです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.235)


     そして、このサナキは「」でもあるのです。
    (《日本流 第五章 日本に祭る》P.235)


    第六章 日本と遊ぶ

     わび・さび・あはせ

     2 PとP’

     こういう「きわどい人を選ぶ」あるいは「端っこにいきそうな人と遊ぶ」という遊び心は、どこの国のどんな時代にもありますが、そういうことがとりわけおもしろいのは、交友の記録がたくさん残っているという意味も含めて、なんといっても明治の時代です。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.252)


     人を選んでも極上、人から選ばれても極上ということでは、おそらく狩野亨吉(かのうこうきち)が群を抜いています。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.252)


     4 出遊

     まず、日本はあまりにも遊的領域が広すぎます。古代このかた、いろいろなものが遊びとよばれすぎていたのです。天皇の遊幸から庶民の遊芸まで、みんな遊びの中に入る。 「あそばします」という丁寧語も当初は天皇が野遊びをすることでした。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.263)


     また第二章でふれたように、ネットワーカーの行動も「遊行(ゆぎょう)」というし、庶民のレジャーは「物見遊山(ものみゆざん)」ですし、春をひさぐ女たちの廓(くるわ)も「遊郭」という。 葬礼で泣く役割も遊部(あそびべ)とよんでいたのです。 あまりに遊的領域が広すぎるのです。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.263)


     そこで白川静さんに「遊学論」というものを連載してもらって、本気で遊びを考えるようになったのですが、そこでわかったことを一言でいえば、そもそも「遊」とは未知の場所へ出遊(しゅつゆう)することだった。犠牲を惜しまず、未知未踏の地へ出掛けることが遊なのだということでした。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.263)


     5 スサビ伝説

     スサビを「荒び」すなわち「荒(すさ)ぶ」とみなせぱ、これは何かが荒れてくること、落ち着きがなくなってくること、変な感じがそこに出てくること、そういう普通ではない状態のことを意味します。アマテラスの弟であるスサノオの〔スサ〕も、きっとスサビと関係のある語根で、そのためスサノオは(すさ)ぶ神とか(あら)ぶる神をあらわしていた。 この荒ぶるスサビを形象化したものが、いわゆる「荒事(あらごと)」です。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.267)


     6 浦の苫屋

     見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮

     ここには花(桜)も咲いていないし、紅葉もありません。 ただのうらさびれた浜辺の光景です。 それなのに定家は、この浦の苫屋の何もない光景に花と紅葉の両方のうつろいのさまを見て、それを詠んでいる。
     これはたんに「見えないもの」を詠嘆したという歌ではありません。 いわば〔マイナスに見えてくる〕ということなのです。 また、実際の景色の奥に心の中の「負の景色」を動的にはたらかせることができる描法を発見したということで、しばしば有心体(うしんたい)とよばれた描法です。 もっと端的にいえば、定家はこのような「寂びた心を言葉にする遊びの方法」を発見した、そう見たほうがあたっています。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.273)


     7 間に合わせ

     かくて新たに登場してきたのが「ワビ」というものでした。
     ワビは文字通りの「侘び」です。 すなわち「侘びる」ことである。 まさに貧相や粗相(そそう)をお詫びすることなのです。 なぜ詫びるかというと、そこに頂点を用意できなかったから詫びている。 その姿が「侘び」なのです。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.276)


     8 花下遊楽

     こうした風潮がいわゆる「文房四宝」(紙・筆・硯・墨)を充実させて、文箱(ふばこ)にも蒔絵(まきえ)がつき、その文箱を置いておく敷台や角盆にも贅が凝らされることになります。 これが「しつらい」というもの、すなわち「室礼」を派生していくわけです。
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.287)


     いつから日本人はその遊び場をつくろうとはしなくなったのでしょう。 そのかわりに各地にテーマパークを持ってきたのでしょう。 それはそれで威勢のいいことですが、そこからは粗相を侘びながら遊びが生れてくるということは、まずありません
    (《日本流 第六章 日本と遊ぶ》P.290)


    第七章 日本は歌う

     間と型から流れてくる

     1 擬木

     また、ある時代の文化や文物が懐かしいといっても、その方法の魂を継承して新たな器に盛るようにしておかないかぎりは、その文化は死んでしまったも同然です。 文化考古学の対象にしかなりません。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.292)


     すでに神輿山車にビニールをかぶせ、歌舞伎が証明やマイクロフォンをつかい、茶の湯が椅子による立礼式(りゅうれいしき)をとりいれた以上、伝統芸能だってどんなふうにも変わりうるともいえるのですが、それはそこで、いったい何が失われるといけなくて何が維持されればいいのかというと、そこの見極めはたいそう難しい
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.293)


     私は次のような場面でいつも考えこんでしまうことがあります。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.293)


     たとえばスーパーやコンビニで刺身を買うと、そこには緑の葉(はらん)をかたどった合成樹脂のギザギサの葉が必ずあしらわれています。 弁当をとったり駅弁を買うと、プラスチックの容器にはわざわざ竹の模様木目模様がプリントされている。 一般家庭の味噌汁椀もとっくにプラスチックになっていて、それでもそこにはちゃんと塗り物らしい色目模様がついている。公園にはわざわざ年輪や樹皮をかたどった擬木(ぎぼく)があります。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.293〜294)


     これらはどう見ても、あまりにもチャチな継承ではあるのですが、しかしよくよく日本文化史をふりかえってみると、どんな文物(ぶんぶつ)も、実のところはいつも素材を変え、大きさを変え、時と所を変えてリメークされてきたともいえるのです。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.294)


     たとえば御幣(ごへい)はもともとは木の皮だったのにそれが紙になっていったのですし、かつてはどこの地方でも本物の餅をつかって餅花をさしていたのが、そのうちこれは人工物になっていった。 そのほか、菱餅が木製になり、畳の縁がビニールになり、スダレスノコが合成樹脂になっている。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.294)


     今日、すでに門松松飾りさえ、都会では大半が印刷物に代わっています。 では、そんな印刷物の松飾りなどとんでもないのだから「やめちまえでいいのか、どうか。 そんな印刷物でも出回っていれば、松飾りというものが伝わっていく、そう考えたほうがいいのか、どうか。これは「もどき」や「らしさ」というものとは何か、その範囲はどこまでなのかという問題にもつながります。 なかなかの難問です
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.294〜295)


     むしろ、安易に「伝統と現代の統合」をとりあげるほうがつまらないばあいもすくなくないのです。勝手な改変はかえって伝統を悪くするという意見も絶えません。 こういう意見を唱える人々は、伝統は昔ながらの伝統に徹して、作法を変えないほうがいいという立場をとっている。 これは世阿弥のいう意味での本来の「稽古(けいこ)」です。 稽古とは「古を稽(かんが)える」あるいは「古を稽(たど)る」という意味でした。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.295)


     けれどもまた、静岡で“平成の売茶翁”を名のる葉桐清一郎さんがそうなのですが、携帯用の煎茶セットを創案して、一人でどこにでも出掛けてみんなにお茶をふるまっているということもあります。 そのセットにはポットが仕込んであるのです。 それがなんとも小粋な風情にもなっている。 そういうこともあるのです。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.295)


     3 梅の遅速

     蕪村に「二もとの梅に遅速(ちそく)を愛す哉」という句がありますが、見る気になりさえすれば、そこへ入りさえすれば、ゆっくりした梅の咲きぐあいにもそのような遅速が見えてくるものなのです。 また、同じく蕪村の梅の句でいえば、「梅をちこち南(みんなみ)すべく北すべく」というように、一本の梅の「」に介入して、そこに天地にのびる南北軸を想定することだって可能です。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.302)


     4 不立文字

     四世清元延寿太夫といえば近代清元(きよもと)の不世出の大名人で、河竹黙阿弥がその美声を気に入って二番狂言に清元をさかんにつかったり、粂野採菊の詞と二世梅吉の曲による『角田川』では洋楽の高低二重唱を聞かせたという、そんな伝説的人物です。
     その延寿太夫は向島(むこうじま)に生れて、近代史に名高い横浜の富貴楼(ふうきろう)にあずけられ、そこで十一歳のときに、当時評判のお葉(よう)が語る清元を聞いた。 中能島検校とのコラボレーションはそれはみごとな掛合(かけあい)浄瑠璃だったといいます。 富貴楼は遊女〔お倉〕が横浜関内に開いた料亭で、当時の政治経済文化の〔裏のセンター〕です。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.305)


     11 傷つきやすい国

     日本にはいつ地震がくるかわからないし、いつ台風や大雪がくるかわからない。日本史の大半は旱魃と飢饉の歴史です。しかもいったんきたらそれは全国ニュースです。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.332)


     中世でも近世でも全国ニュースだった。 それは江戸の瓦版がよく示しています。 それくらい小さな国なのです。 しかも資源にはかなり限界がある。 季節も変化する。 これが不安定でなくて、何でしょう。 こういう国では一事が万事です。もともと日本は危険な情報や動向を感じやすい国土の上に成り立っているのです。フラジャイル・カントリー傷つきやすい国)、これが日本の真の姿です。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.332)


     これは宿命としての、あるいは宿世(すくせ)としての不安定というもので、だからこそたえず安定のために何度も立ち向かうわけですが、阪神大震災がそうであったように、それでも一挙に災害はやってくる。 しかもそれは繰り返しやってくるのです
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.333)


     そうすると、そこには二つの工夫が生まれます。
     ひとつは万やむをえず諦めるという観念を維持しようという立場です。 これは有為転変を見つめる無常観というものになります。
    有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」り立場です。
     もうひとつは講や座や組や連(れん)などといった、小さなネットワークで経済や文化を組立てるという工夫です。 小さめのモジュールを〔超部分〕とし、その組み合わせで切り抜けていく。これは巨大コンクリート建築ではなくて、木組のもつ世界観です。
     いずれも不安定を宿命として見ているところは同じです。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.333)


    しかし、こうした宿世(すくせ)としての不安定を打破したい一団もいた。 これを考えたのが明治維新の群像たちです。 電信・電話・鉄道・トンネル・橋梁・ビルディング・工場群がこうして日本に導入されました。 これが「近代化」というものです。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.333)


     なぜ、かれらが大改革に乗り出したかというと、もともとのきっかけはペリー以来の不平等条約によって「国が外から縛られる」ということがあることを知ったからです。 すでに山片蟠桃らが心配していたことでした。 だからこれを撤廃しようとした。 そして列強と同じことをしようとした。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.333〜334)


     ここまでは当然かもしれません。 けれども、それだけでは足りなかった。 不安定な経済工業力を軍事力で補う必要もあると考えた。 そこで日清日露戦争をおこして力を示す。 さらに日韓併合を企てる。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.334)


     ところが、列強は容易にはそれを許しません。 三国干渉もする。 そこで抵抗をする。 忍従もする。このあたりからおかしくなってきたのです。唐木順三明治修養派とよんだのは、この時期以前に漢籍に親しみ江戸俗曲を味わった連中のことです
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.334)


     加えて社会というものを官僚的なメカニズムで統制しようとしすぎました。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.334)


     明治政府は富国強兵と貿易に乗り出したから、列国とのバランスをとりつづけなければならなくなり、そのくせプライドだけは高いので我慢ができなくなると、いろいろ理屈をつけて海外コントロールをしようとしてしまいました。また、それを教育勅語尋常小学校唱歌天皇行幸で統一をはかったのにはいかにもムリがありました
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.334)


     こうして異様な昭和史へと突入するわけですが、その結果が、とどのつまりはアジアと欧米を相手にしての戦争と完敗ですから、もはやどんな主張も通らなくなってしまったわけでした。 それだけではなく、国土のすべてが他国に占領された
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.334〜335)


     そこで今度こそは民主主義を根底にした社会を築くことにしたわけです。 これは社会の仕組の根底を、それまで日本が体験していなかったイデアとルールで律するというわけですから、たいへんです。坂口安吾それなら堕落を選ぶべきだと言いましたし、石河淳は江戸文化に逃げた。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.335)


     しかし、大半の日本人はおおいに働くことになりました。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.335)


     さすがに経済力と生活力をつけないかぎりはどうにもままならない親分のアメリカに軍事をあずけ、数年前までは一億総玉砕だったのが、今度は一億総経済です。 安保の傘にも入ることになります。 こうして一見、動揺をつづける国際状況を気にしないで経済復興に集中するようになったのですが、気がつくとアメリカの意図のもと、国際舞台の片隅を動く従者の役柄になっていました
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.335)


     それでも敗戦を“災害”だとみなせたのでしょうか。経済復興のためには、そうとうの知恵をしぼります。 たとえば、かつての江戸商人の知恵もいかし、農村漁村の風習もいかし、これで高度成長に応える日本独自の仕組を作動させました。 いわゆる、“日本的経営”でした。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.335)


     が、これが批判されることになると、すぐに終身雇用制をはずしたり、時短を受け入れたり、コンプライアンスに拘泥したり、ようするに今日でいうグローバル・スタンダードに態勢を切り替えた。 それでもそこで、もうすこしゆっくり熟慮していればよかったのですが、よせばいいのに「経済大国」を標榜し、ついではさらには「生活大国」と言い出した。 なぜ〔大国〕でありたいのでしょうか
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.336)


     この歌いかたはいけません。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.336)


     歌を忘れたカナリヤが忘れた歌を思い出したのではなくて、ちがった歌を唄いはじめていたのです。こうして、なんだか何もかもがおかしくなってきた
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.336)


     いまはまだ、日本全体がこの延長線の上にあります。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.336)


     地震台風がいつくるかわからないだけでなく、いつ不景気がくるかわからないし、いつ原子力発電機能や産廃機能がおかしくなるかもしれません。だいいちアメリカが変になればすぐ変になる
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.336)


     けれども、このような状態であれ、そこに本来の脆い不安定が認識されているのなら、まだまだいろいろな可能性はあるでしょう。 それなりのサイズをもった文化的結晶も生れうる。
    (《日本流 第七章 日本は歌う》P.336)


    解説(田中優子)

     本書に通っている隠れたテーマは、その、「質」である。 日本らしさが重要ならば、ただそれだけのことなのだが、実は問題は質なのだと、本書は隅々で言っている。 たとえば、松岡正剛は、「公園が本当につまらない」と書く。 そのとおりだ。 これは行政の失策である。 私は八重山諸島で御嶽(ウタキ)をずいぶん巡ったが、その多くの敷地の隅に、滑り台やブランコがあって不思議に思った。 わけを尋ねると、公園の体裁を整えれば補助金が出たからだという。 空き地に遊具を作ると「公園」になり、そういう公園を作ると日本が良くなると、いったい誰が考えついたのであろうか。
    (《日本流 解説》P.360)