[抜書き]『闘将伝 小説立見尚文』


『闘将伝 小説立見尚文』
中村彰彦・文春文庫。
2011年11月5日 第2刷
    目次
    第一章 鳥羽街道
    第二章 開城相つぐ
    第三章 雷神隊がゆく
    第四章 戊辰朝日山
    第五章 鶴ヶ城の別れ
    第六章 月の山
    第七章 朝敵たちの明治
    第八章 西郷隆盛の首
    第九章 樊家台(はんかだい)の新戦術
    第十章 名を残す黒溝台
    あとがき
    関連地図
    解説 山内昌之


    第一章 鳥羽街道

     旧幕府兵の軍装は、両袖の外側から背にかけて一本の太い白線をつけた濃紺木綿五つボタンの詰襟服(つめえりふく)と同色白線入りのズボン足袋わらじ姿であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.8)


     左肩から右腰へ流した革ひもの先には弾薬盒(ごう)を、右肩から左腰へ流したそれには大刀を吊(つ)り、丸めた赤毛布背嚢(はいのう)を背負って「丸に堅一文字」の徽章(きしょう)を金色に浮かび上がらせたお椀形(わんがた)の黒塗り帽を着用。 左肩には、着剣可能な元ごめライフル式のシャスポー銃をあずけている。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.8)


     石見浜田藩の兵は京都見廻組同様まちまちの装いだが、桑名兵は旗手に白地に黒の六曜紋の大旗を持たせた以外は、旧幕府兵にきわめてちかい軍装であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.8)


     わずかに異なるのは、詰襟服の色が濃紺ではなくであること、かむっているのが陣笠であること、銃が先ごめライフル式のミニエー銃であること、指揮官は黒い筒袖羽織とズボン状の細袴を着用し、大小を差して指揮杖を手にしていることなどである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.9)


     急速にあたりが暗くなり、すべての地物が色彩を失いはじめた中で互いに黒光りする砲口をむけ合っていた大砲は、彼我ともに、
     「四ポンド山砲
     といわれる野砲であった。
     この大砲が日本にもたらされたのは、慶応二年フランス皇帝ナポレオン三世が幕府に寄贈した十二門をもって嚆矢(こうし)とする。 以後、幕府が諸藩に製造をうながしたため、およその藩はこの四ポンド山砲を所有するようになっていた。
     車輪つきの台車に乗せた青銅製旋条つきの砲身は、口径八十六・五ミリ、最大射程二千六百メートル。
     「ボンベン
     といわれる信管つきの榴弾(りゅうだん)や、榴散弾霰弾(あられだま)を発射することができる。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.14)


     ただし、装弾から発射までの手順はかなり面倒であった。
     まず六尺の大型槊杖(かるか)を持った砲兵が砲口からこれを差しこみ、砲身内を清掃する。 次にその槊杖で薬袋を砲口から押しこみ、つづけて(しい)の実形の砲弾を入れる。 この時には、砲弾の裾(すそ)に二段に突き出た鉛の鋲(びょう)を砲身内部の溝に精確に合わせてから、槊杖で押しこむ必要がある。
     そのあとようやく照準を合わせ、火門に火を点じて発射となるのだが、この一連の操作に必要な砲兵は十名以上、所要時間は約五分
    :「木朔」)
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.14)


     その間にようやく装弾をおえた旧幕府砲二門は、相ついで初弾を発射していた。 しかし中(あた)らない。 逆に、すでに照準の合っている薩摩砲の餌食(えじき)となり、次の玉ごめもおわらぬうちに次々と爆砕されてしまった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.16)


     緒戦のこのあまりの情なさに怒ったのは、赤池集落南側に引いていた京都見廻組佐々木只三郎である。 前方から雪崩(なだれ)を打って潰走(かいそう)してくる兵たちの流れを遡(さかのぼ)るようにして隊士たちを前進させたかれは、抜刀して破鐘(われがね)のような声を張りあげた。
     「かくなる上は、われらの白兵突撃によって雌雄を決する。 つづけ
     「おう!
     羽織を捨てて小袖白だすきの上体をあらわにした四百人は、白刃を薄(すすき)の穂のように林立させて薄暮の中を吶喊(とっかん)に移った。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.16)


     新居良治郎は、陣笠の下にぶ厚い唇を見せて宣言した。
     「この新居良治郎の男の約束だ。 明日おれは桑名藩士隊の先頭を駆けて一歩も引かん。 おれが戻って来なんだら、薩賊と刺し違えたと親父殿に伝えてくれ
     「−−そうか、男の約束というならもう何もいわぬ
     立見と呼ばれた男は、顎(あご)ひもを解いて陣笠をはずした。 その下からあらわれた整った風貌(ふうぼう)が、遠いかがり火からの火箭(かせん)を浴びて小暗く輝く。
     はやりの総髪大たぶさに結い上げた髷(まげ)の下に、面長な顔立ちがつづいていた。 黒目勝ちの双眸(そうぼう)、やや小鼻の張った鼻筋、意志的な厚い唇はどこを取っても男臭いが、その最大の特徴は眉毛(まゆげ)にあった。 太筆で横一直線に描いたような濃い眉が、瞳(ひとみ)に迫っている。
     −−立見鑑三郎、二十四歳。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.20)


     背丈五尺七寸(約一七四センチメートル)と長大な体躯(たいく)を有し、若いのに落着きはらっている家禄(かろく)百八十石のこの男は、桑名松平家家中にあっても文武両道に秀でた逸材として将来を嘱望されている人物であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.20)


     元治(げんじ)元年(一八六四)四月、桑名藩主松平越中守定敬(えっちゅうのかみさだあき)が京都所司代に指名された時、当時二十歳の立見鑑三郎は近習役から公用局員に大抜擢(ばってき)されてともに上京した。
     「公用人
     とはその藩の外交官のこと。 そのころの京には全国諸藩から公用人が集まってきて接触し合い、互いの藩論が公武合体を是とするのか尊王攘夷(そんのうじょうい)をよしとするのか、腹の探り合いをくりかえしていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.20)


     この有利さにもかかわらず旧幕府勢が戦局を打開できなかったのは、ひとえに薩軍との戦意の相違にあった。
     特に伝習歩兵大隊は、フランス軍事顧問団から指導を受けたとはいえその期間があまりに短く、兵が練れていない。
     しかもその兵はすべて幕府の募に応じた者たちで、前身は農民町人浪人やくざなどてんでばらばらであった。 詰襟服を脱ぐと刺青(いれずみ)があらわれる者もすくなくなかったから威勢だけはよかったが、初めて銃弾が雨とそそぐ中に身を置くやたじたじとなってしまった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.22〜23)


     まして大地に折り敷き、敵の火勢の弱まるのを待って逆襲に転ずる芸当などできるわけもない。 順次潰走し、また下鳥羽の胸壁陣地まで引いてしまった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.23)


     「内府公の御進発は明朝となったのか
     と鑑三郎たちが首をかしげていた深更四つ半刻(一一時)すぎ、とんでもない飛報が大坂城中を駆けめぐりはじめた。
     前将軍慶喜すでに半刻(一時間)ほど前、桑名藩主松平定敬会津藩主松平容保老中の姫路藩主酒井雅楽頭忠惇(うたのかみただとし)、おなじく備中松山藩主板倉伊賀守勝静(かつきよ)、外国奉行山口駿河守直毅目付榎本対馬守道章ら腹心の者たちのみを引き具して大坂城を脱出したという。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.30〜31)


     「何だと、内府公はわが公までおつれしていずこをめざしたというのだ
     色めき立った鑑三郎たちは、手分けして四方へ聞きこみに走った。 その結果ほぼ判明したのは、慶喜たちは後門から城を出て天満の八軒家から小舟に乗り、天保山沖に碇泊(ていはく)中の旧幕府海軍旗艦開陽丸をめざしたらしい、ということであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.31)


     開陽丸に移乗したのなら、めざすは江戸城であろう。 だが慶喜が、出馬宣言をしたその日のうちになぜ金城鉄壁の大坂城とともに一万五千の将兵を見捨てたのか、さっぱり分らない。
     「兄上、わが公も桑名の封土を通り越して江戸へゆかれるとなると、われらはともかく国許の者たちはどうなるのでしょう
    (《闘将伝 小説立見尚文 第一章 鳥羽街道》P.31)


    第二章 開城相つぐ

     一月四日に嘉彰(よしあき)親王を征夷大将軍とした朝廷は、五日には四海平定のため、山陰、東海道、東山道、北陸道、中国、四国・九州の各鎮撫総督を定めていた。
     うち東海道鎮撫総督に任じられたのは、堂上公家から維新政府参与に選ばれていた橋本実梁(さねやな)、副総督はおなじく参与助役の柳原前光(さきみつ)。 このふたりに薩摩の海江田(かえだ)武次と長州の木梨精一郎とが参議として付属し、十八日、三千余の官兵を率いていよいよ大津を出発したのである。
     「桑名征伐
     というのが東海道鎮撫総督軍の掲げた当面の目標であったから、定敬の留守を預る桑名藩国許の重役たちは震撼(しんかん)した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.39)


     しかし一藩のこの危急存亡の秋(とき)にあたり、藩論が抗戦派と恭順派に分裂して収拾しかねる様相を呈するのを横目に見ながら懸命に桑名松平家存続の道を模索し、維新政府にひそかに働きかけていた桑名藩士がいた。
     酒井孫八郎。 齢(よわい)はまだ二十四歳ながら上席家老、政事総宰職として定敬から幕政を任されている傑物である。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.39〜40)


     その結果考え出したのは、第一に義父定敬の後を追って江戸へゆくといっている前藩主松平猷(みち)の長男万之助出立を見合わせるように申し入れること、第二に定敬の長兄である尾張藩前藩主徳川慶勝に嘆願書を差し出すことであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.40)


     万之助はこの時まだ十二歳、猷の逝去時にはわずか三歳の幼児であったため、定敬が猷の養子に入り、形式的に万之助の養父になったといういわれがある。 その定敬の血筋を最後の頼みの綱とした嘆願書は、以下のような文面からなっていた。
     《今般大坂表の始末柄、在所表へ相聞こえ、深く恐れ入りたてまつり候につき、上下一同謹慎まかりあり候。 そもそも尊王の大義はかねて厚く相心得まかりあり候ところ、図らずも今日の形勢に至り候段、恐懼戦慄(きょうくせんりつ)悲嘆のほかこれなく御座候。 なにとぞ平生の心事御了解なし下され、大納言さま(慶勝)御手筋をもって恐れながら朝廷へおとりなし、寛大の御沙汰(さた)ひたすら嘆願たてまつり候。
     一月 日                   誠恐誠惶謹言》

    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.40〜41)


     酒井孫八郎がこの嘆願書の提出に先んじて国許にいる藩士の数を調べさせたところ、婦女子は除いて七百七十七人しかいなかった。 しかもその多くは老人と十六、七歳以下の少年たちであったから、これではとても抗戦できぬ、と考えたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.41)


     しかし、この嘆願書が何の効果もあわさないうちに、東海道鎮撫総督軍大津を出発との飛報がもたらされた。
     「して、その参謀はたれか
     間諜(かんちょう)として使っていた伊賀者に問うと、その答えは長州の木梨精一郎と薩摩の海江田武次というものであった。
     「おお、薩摩のある海江田か
     やわらかくほほえんだ孫八郎は、その時にはもう単身海江田と交渉することを決意していた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.41)


     海江田武次桜田門外の変に参加した有村次左衛門の実兄であり、文久二年(一八六二)八月に起こった生麦事件に際し、イギリス人リチャードソンを斬った示現流の遣い手としても知られる。 その後薩英戦争にも活躍したかれは、慶応と改元されたころから京都詰めとなり、薩摩藩周旋方として諸藩と交流していた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.41〜42)


     東海道を西上した孫八郎が、すでに桑名まで約十四里の土山宿まで進出している東海道鎮撫総督軍の本営に出むいたのは一月十九日のこと。 そこでは海江田との間に、このような問答が交わされた。
     海江田「まず、おはんたちの桑名藩の言い分を聞こうじゃなか
     酒井「あるじ越中守は大坂より逃亡いたし、その行方も知れませぬ。 しかし国許には弊藩を相続いたすべき万之助君(ぎみ)がおり、この万之助には全藩挙げて恭順しようと考えておられる。 願わくば寛典に処して下さりませぬか
     海江田「そうな。 大体のこつは分ったどん、まこつ恭順の意を見すっとなら、桑名城と武器弾薬とを一切合財、朝廷に献上しっせえ、藩主の一族と藩士どんたちは寺院に謹慎させやい。 じゃっどん、念のため訊(き)いちょっどん、こいをやっとに不届き者(もん)たちがないか起こすっことはなかやろな
     酒井「もとより弊藩の士民は少なくござりませぬゆえ、異心を抱く者がおるかおらぬかはにわかにはお答えいたしかねます
     海江田「そいなら、おはんははよ藩に帰っせえ、四日市においたちが入った時、万之助はんを連れっせえ迎えに来やんせ。 そこでほんのこつ恭順の意を見せやい
     海江田は孫八郎に、万之助を人質として差し出すよう求めたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.42)


     ともに肩衣半袴(かたぎぬはんこ)の正装に脇差姿、大刀を身の右側に置いて陣前に敷かれた(むしろ)の上に正座したふたりに対し、歩み出て桑名藩の処置を伝えたのは副総督柳原前光であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.43)


     朽葉(くちば)色綾織直垂(ひたたれ)に烏帽子(えぼし)鉢巻、白綾に金糸で菊紋を縫い取った陣羽織に虎毛尻鞘(こもうしりざや)の太刀を佩(は)くという大時代な姿の柳原は、京訛(なま)りの抑揚で語った。
     「松平越中守儀、先般朝廷に対したてまつり、大逆無道の所業いまさら申すまでもこれなく、右につき追討おおせつけられ出張のところ、だんだん嘆願之趣黙示がたく、これにより紙面のとおりおおせつけられ候条、つつしんでお請け申し上ぐるべき事
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.43)


    そこで懐中から紙包みを取り出したかれは、そこに書かれた文面を読み上げた。
    《一、本城掃除し、朝廷へ差し上げたてまつるべく候事。
     一、帯刀の者、残らず寺院へ引き退(の)き、恭順まかりあるべく候事。    》

     孫八郎と万之助が深々と上体を折ってこの朝命を拝承すると、黒ずくめの官兵ふたりがつかつかと万之助に歩み寄り、その大小を奪った。 つづけて万之助を立たせ、その肩衣半袴を脱がせたので、そのおとなしい顔だちには驚愕(きょうがく)の表情が貼(は)りついた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.43)


     そして二十八日午後には城下に三発の砲声が鳴り響き、それを合図に東海道鎮撫総督橋本実梁桑名城を正式に受け取った。
     その受け取りの印として、城内に五十一ある櫓(やぐら)のひとつが焼き落とされたと聞いた時、思わず立見鑑三郎は、
     「何と姑息(こそく)なことを
     とつぶやいて失笑していた。
     「櫓を焼いたのには、どういう意味があるのですか
     小首をかしげる鎌五郎に、鑑三郎は白い歯を見せていった。
     「決まっておろう。薩長の愚か者どもは、桑名城の開城を京には武力によって落城させたと報じたいばかりに、櫓を焼くとい阿呆(あほう)な芝居をしてみせたのだ。 しかしこうなったからには、もう一戦を願うならばわれらは官賊より先に江戸をめざすべきだろうな
     いつか鑑三郎たちは「官軍」を名のる薩長勢を「官を称する賊」とみなし、「官賊」と呼ぶようになっていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.45〜46)


     ここでも立見鑑三郎らの抗戦派と恭順派とが対立して議論がくりかえされたが、その間に定敬慶喜の命を奉じ、深川の霊厳寺へうつって謹慎生活を始めた。 浄土宗関東十八檀林(だんりん)のひとつにかぞえられる道本山霊厳寺には、寛政の改革をおこなった名老中として知られる桑名藩祖松平定信の墓所がある。
     定敬のこの不意の霊厳寺入りには、鑑三郎たち抗戦派としては失望を禁じ得なかった。 だが慶喜は、別の観点から不満を感じたようであった。 かれはひとを介して
     「肥後殿(容保)も会津へ帰国したのであるから、越中殿も自領に帰って謹慎せよ
     と伝えてきたのである。
     しかし国許は定敬に無断で開城してしまったのだから、帰国はすなわち官軍への投降を意味する。
     それをいさぎよしとしない定敬は、
     「ならば、越後柏崎へゆこうではないか
     と言い出した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.47)


     越後柏崎は、桑名藩にとっては格別の意味を持つ土地柄であった。 この地には、まだ松平定信が奥州白河藩主であった時代から「柏崎陣屋」が置かれ、それが桑名藩に引きつがれているのである。
     桑名本領の石高が五万石なのに対し、米どころの越後にあるこの陣屋は表むき六万石、実質七万石以上の石高を誇っている。 ここには家族や仲間(ちゅうげん)までふくめれば約二百人の桑名人が赴任しているから、定敬が柏崎行きを考えついたのも意外なことではなかった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.47〜48)


     問題は、どのようにして柏崎へゆくかであった。
     定敬は長く江戸詰めの家老であった吉村権左衛門を霊厳寺に呼び、横浜に走って新潟ゆきの外国船がいつ出るか調べてくるように命じた。
     すると吉村は、三月九日にロシア船のコリヤ号が新潟へむかって出港すると復命した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.48)


     「ただしこのコリヤ号という汽船は、目下のところ横浜の武器商人でヘンリーエドワルドと申すスネル兄弟の雇うところとなっておりましてな。 プロシャ人のスネル兄弟はことのほか会津びいきでござりまして、この船には兄弟から武器弾薬類を大量に買いつけた会津藩家老梶原平馬殿、長岡藩家老河井継之助(つぎのすけ)殿も江戸残留の藩士とともども同乗いたしますが、それでよろしければお乗せする、とのことにござりました
     美男で知られる二十七歳の会津藩筆頭家老梶原平馬は、京都に長かったこともあって定敬とは旧知の仲である。 河井継之助の仕える長岡藩老公牧野備前守忠恭(ただゆき)も、文久三年(一八六三)六月まで短期間ながら京都所司代をつとめた譜代大名だから、知らぬ間柄ではない。
     「当方はそれでかまわぬ、とそのスネル兄弟とやらに申し伝えよ
     と定敬は答えた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.48)


     ことはすんなりと運んだが、ここでまた新たな問題が起こった。
     梶原平馬スネル兄弟から小銃八百挺と付属の諸具弾薬を買いつけたほかに、旧幕府に申し入れて品川台場の大砲弾薬ミニエー銃ガベール銃その他を借り受けていた。河井継之助に至っては、最新式の大砲数門ミニエー銃数百挺、毎分百八十発連射可能なガットリング機関砲二門を購入したばかりか、二万両分の銭と江戸の倉屋敷の米までコリヤ号に運びこむという。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.48〜49)


     さらに会津藩士百名、長岡藩士百五十名が乗りこむ手はずだから、定敬に同行する桑名藩士は百名に押さえてほしい、というのである。
     この条件を呑(の)むと、約二百の藩士を江戸に残さざるを得ない計算になる。 だが官軍が着々と江戸へ進撃しつつある以上、考えなおす余地はなかった。
     藩士たちの間には、国許へ帰って家族たちと恭順しようと思いなおした者、柏崎行きを非とし、なお江戸に踏みとどまって一戦したいと願う者もあったので、自然定敬の供をする者は百余人に絞られた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.49)


     三月九日定敬江戸家老吉村権左衛門をふくむこの百余人を従えて品川沖を出航していったが、この時立見鑑三郎は実家の兄弟とともに江戸残留組に名をつらねていた。 かれらとともに居残った藩士の数は、約百五十であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.49)


     しかしこれ以前に、朝敵と名ざされた慶喜の冤(えん)を雪(すす)ぐべくひそかに会盟した幕臣たちがあった。二月二十三日浅草本願寺に集結し、
     「彰義隊
     を名のったその人数は百余人。
     慶喜を守衛するとの名目で上野の山に入ったかれらは、日に日に勢力を増しつつある。 やがては千人を越えようかというその勢いに魅せられ、約七十人の桑名藩士はこれに合流することを決意した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.49〜50)


     慶喜謹慎後の江戸の市中見廻りを受けもっているこの聯隊は、もぬけの殻となった和田倉門内の会津藩上屋敷を本営としていた。 黙って国許に引き揚げるのを無念に思い、表むき脱藩という形をとりながらその実、松平容保(かたもり)の許しを得、これに参加している会津藩士も七人いるという。
     「ならばわれらも、会津の方々にならって七聯隊に加わろうではないか
     松浦秀八がいうと、桑名藩士たちはことごとくこれに賛同であった。 そのため、以後鑑三郎たちも市中見廻りを名目として官軍来襲に備えることにした。
     しかしここでまた、寛永寺大慈院慶喜から横槍(よこやり)が入った
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.53〜54)


     彰義隊の勢力も日ましにふくれ上がる一方であったし、第七聯隊も優良装備だから、この両隊が官軍を迎え討つようなことがあれば、自分が使嗾(しそう)したものとみなされて斬(ざん)に処されるかも知れない。 それを恐れた慶喜は、
     「わが恭順を妨ぐる者あらば、それはわが首に刃を擬するにひとしい所業であるぞ
     と伝えてきたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.54)


     しかし案に相違して、十三・十四の両日幕臣勝海舟と大総督参謀西郷吉之助とが田町の薩摩藩邸で会談した結果、江戸攻めは中止、その無血開城は四月十一日と定められたという。
     それと聞こえてきても、かれらは江戸城の無血開城などあり得ぬことと信じていた。 それが慶喜のことばが伝わるに及び、ようやく真実と知れたのである。
     「上さまがかくも情弱では、われらがなおも江戸にとどまりつづけたとしても、とても徳川の御世を回復する見込みは立ちませぬな
     吐き捨てるようにいう鎌五郎に対し、鑑三郎も松浦秀八も黙ってうなずくことしか知らなかった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.54〜55)


     四月十一日払暁、車軸を流さんばかりの雨の中をこの松本めざして集まってきたのは、松浦秀八、立見鑑三郎ら桑名藩士八十余伝習歩兵第一大隊の七百第七聯隊(れんたい)の三百五十であった。 伝習歩兵第一大隊には、初め第七聯隊に参加していた秋月登之助五人の会津藩士も混じっている。
     元の名を江上太郎といい、会津藩郡(こおり)奉行のせがれである三十歳の秋月は、紺ラシャ五つボタンの詰襟服(つめえりふく)に緋(ひ)色のズボンというフランス騎兵の軍服をつけ、胸には笛をつるしていた。
     「これはどなかたと思えば、江上さんではありませんか。 紀州でお別れして以来ですが、何とも華やかな軍装ですな
     これも詰襟服姿の鑑三郎が陣笠(じんがさ)を取って挨拶すると、かれよりさらに背丈のある秋月は、何かに驚いて目を瞠(みは)っているような巨眼を細め、
     「いや、拙者は表むき脱藩したことになっているので秋月登之助と名を改めましてな。 第一大隊の隊長に祭り上げられてしまったので、こんな笛まで持たされているのですよ
     と照れたように笑いながらつづけた。
     「あの五本桜を見るごとくもう江戸の桜は今日の雨でおわりでしょうが、わが会津の桜の見ごろはひと月先です。 いずれ楽しい花見ができるよう、力戦これ努めましょうぞ
     会津の桜の見ごろはひと月先−−
     そのことばを聞いた時初めて、鑑三郎の胸には江戸を北へ去るという実感が湧き上がってきた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.58〜59)


     見わたすばかりたいらかな畑ばかりの桑島村には、そこだけこんもりとしている松林がある。 その周辺には、和装小具足姿の兵たちがうごめいていた。
     「よし、今度こそ血祭にあげてやれ
     誰からともなく言い出して麦畑の中を腰を屈めて疾走に移った時、背後から秋月の笛の音が伝わり、すでに両翼に散開していた第一大隊が乾いた連射音を響かせはじめた。同隊装備のシャスポール銃は千二百メートルの射程距離を誇るから、有効射程距離七百メートルのミニエー銃よりはるか後方から開戦できる
     そこへラッパが鳴りわたり、砲兵隊の砲二門も相ついで発射されたからたまらない。 旧式の先ごめ滑腔(かっこう)ゲベール銃と和銃(火縄銃)しか持たず、洋式軍装も初めて見た松林布陣の烏山兵百六十六人は、一発も応射することなく宇都宮方向へと雪崩(なだれ)を打った。
     そのあまりの無力さは、のちに俗謡に歌われたほどである。

     ~\いくさするなら烏山藩頼め 敵も殺さず怪我(けが)もせず

     追撃に移った伝習歩兵第一大隊は、いつか白地に「東照大権現」と墨書した大旗を朝風にひるがえしている。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.64〜65)


     さらに悪いことに、宇都宮兵が出陣していた梁瀬村は田川東岸の川べりに位置していた。 真うしろの梁瀬橋をわたればすぐ三の丸南東にひらく下河原門だから、兵たちは橋を焼き落とすゆとりもなくこの門から城内に逃げ帰った。
     これを追尾したのは、桑名藩士と新選組の二百。 村に火つけして進むうち、
     「走れ、もっと走れ
     と連呼する立見鑑三郎に煽(あお)られるように、いつしか桑名藩士八十余は新選組の前方を駆けていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.67)


     梁瀬橋を苦もなくわたりきったかれらは、そこで散開して付近の寺々に火を放った。 これは、敵のひそむ物陰を消すための常識的な戦術である
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.67)


     おりから南風の烈しい日であったため、火は城南から城北へと田川の西岸ぞいに一気に燃えひろがる。 一帯には、黒煙がつむじ風のように音をたてて渦巻きはじめた。
     「この煙に乗じて城内に乗りこめ
     とミニエー銃を打ち振って指令したのも、鑑三郎であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.67)


     営所とした寺に入ると鑑三郎は、
     「亡くなった方がどのように戦っておられたか、目にした者は申し立てて下され
     といって庫裡(くり)に休息した藩士たちの間をまわり、死者たちの奮戦ぶりを紙に書き留めておくことにした。 将来、徳川家の天下回復なって桑名藩が復活すれば、その遺族たちが褒美や新規採り立てにあずかるのに役立つかも知れない。
     「そういえば不破弾三は、足をやられる前に敵ひとりを存分に斬り伏せておった
     「小林権六郎も、敵ひとりをみごとに切り捨てましたぞ
     「それは立派な働きでした
     正座して相槌(あいづち)を打ちながらもすらすらと氏名いくさぶりを書きつけてゆく鑑三郎の姿に、いつか桑名藩士たちは一斉に視線をむけていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.72)


     ふたたび軍議した結果、
     「いったん会津西街道を経て会津にゆき、補給の道を立ててからふたたび今市、日光方面に進出しよう
     という意見が大勢を占めた。
     しかしこれは、桑名藩士の立場からすれば認めがたい決定であった。 会津へゆけば会津藩と合力(ごうりき)して戦うことになるのは自明だが、桑名藩主松平定敬のいるところは越後柏崎なのである。
     「どうすべきか
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.75〜76)


     いつの間にか桑名藩士隊の隊長格になっていた松浦秀八町田老之丞立見鑑三郎が相談した結果、
     「われらのみはここで本軍と別れ、わが公の御跡(みあと)をお慕いしよう
     という結論になった。
     大鳥圭介秋月登之助、足に負傷してしまった土方歳三らも桑名藩士たちの気持はよく分ったから、反対はしない。
     「お互いの武運を祈り合おう
     といってくれたので、桑名藩士隊は本軍に先行して会津西街道を若松へ十九里十八町の五十里(いかり)までゆき、そこから帝釈山地を越えて越後をめざすことになった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.76)


     「秋月さま、ともに会津の花を愛(め)でることができなくなったこと、申し訳ありません
     別れ際に鑑三郎が陣笠を取って挨拶すると、緋のズボン姿の秋月は、
     「いや、おぬしたちはいずれ会津へくるだろうよ
     と自信をもって答えた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.76)


     「だってそうではないか。 いずれわが藩が官賊どもを蹴散(けち)らせば、若松城下が江戸になるのだからな
     聞けば総勢国許に引いた会津兵にはなお意気軒昂(いきけんこう)たるものがあり、こんな歌まで歌われているという。

     ~\お江戸見たくば会津へござれ 今に会津が江戸になる

     「その時はきっとうかがいましょう
     鑑三郎は、笑って答えた。
     「そうなればわれわれも、若松城下へ参勤いたすことになりましょうからな
     この時かれは、やがて自分たちが若松城下で戦うことになろうとはまだ夢にも思わなかった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第二章 開城相つぐ》P.77)


    第三章 雷神隊がゆく

     「五十里(いかり)
     とは、若松城下から会津西街道(下野街道)をここまでくれば江戸へあと五十里、という意味である。
     このあたりは下野国の北部であって、会津藩の本領ではない。 だがこのような村の名前からも知れるように、会津松平家の成立とともにそのお預り領とされ、会津藩からは、
     「南山御蔵入り領
     と呼ばれて(こおり)奉行が派遣されている一帯であった。
     東西四十間(七二メートル)、南北二町(二一八メートル)の細長い土地にわずか三十戸の家が貼(は)りついているだけの五十里村は、四方を高山にかこまれているため谷底のような雰囲気を湛(たた)えていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.78)


     宇都宮の戦いで死者七人、負傷者三人を出し、その負傷者三人を若松へ送ったため総勢八十人を割ってしまった桑名藩士隊が、日光口守備に赴く会津兵たちと擦れ違いながらこの村に入ったのは(うるう)四月四日早朝のことであった
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.78〜79)


     しかし山深い五十里村から日本海沿いの柏崎への旅は、これまで誰も経験したことのない苦しいものになった。
     五十里村北方の中三依(なかみより)で会津西街道と別れ、持丸山(標高一三六六メートル)と芝草山(一三四二メートル)の鞍部(あんぶ)によって、帝釈山地を北へ越えた一行は、はるか西方になお雪を冠する三国山地、行く手に乱山重畳たる越後山脈を仰ぎながら丸山岳(一八二〇メートル)の東麓を東から北へ迂回(うかい)、奥会津只見の叶津(かのうづ)から八十里越(ごえ)を喘(あえ)ぎ登って越後側に下り、五十嵐川を川舟で下って三条へ出た。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.80〜81)


     そこから先を急ぐため佐渡を望む寺泊(てらどまり)へ西進し、この時代一番の早船である押し送り船に乗って柏崎へ入ったのは同月九日のことであった
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.81)


     越後平野に最初に姿をあらわした旧幕脱走兵は、歩兵指図頭取役古屋佐久左衛門のひきいる衝鋒隊五百であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.92)


     会津を経て四月一日に旧幕府天領新潟港に進出したかれらは、十一日突如南下して彦根藩の支藩である与板藩二万石を急襲。 軍資金八千両を強奪して高田藩十五万石の城下をかすめ、信州飯山城下へあばれこんだ。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.92〜93)


     だがここで一敗地にまみれ、ふたたび越後の旧幕府天領川浦陣屋へもどってきたところを高田兵に迎撃され、その北方小千谷方面に走ったのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.93)


     こうして高田藩官軍につくことを旗幟(きし)鮮明にしたので、北陸道鎮撫(ちんぶ)総督兼会津征討総督高倉永●(ながきち)は、閏四月十九日、薩摩兵七百四十、長州兵五百七十、加賀兵千五百、長府兵二百、富山兵四百四十その他を従えて高田城下へ入り、高田兵三百八十をもその麾下(きか)におさめた。参謀は、薩摩の黒田了介と長州の山県(やまがた)狂介であった。
    (永●:ながきち、●は“示古”)
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.93)


     対して会津側の兵力は、越後における会津藩領水原(すいばら)の陣屋に朱雀四番士中隊以下一千、おなじく小千谷方面遊撃隊五百、水原南方の五泉(ごせん)に結義隊二百余、海道筋の出雲崎付近水戸脱走兵五百。 この水戸脱走兵五百は元「諸生党」と称し、尊王攘夷(そんのうじょうい)を旗印とする「天狗党(てんぐとう)」と血の抗争をつづけていた佐幕派水戸藩士の集団である。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.93)


     高田在陣官軍が北陸道を海ぞいに北上進撃してくれば、それと最初にぶつかる会津側勢力は柏崎の桑名兵になる。 それを見越して会津兵四十、衝鋒隊二百、水戸脱走兵六十が来援したので、柏崎における(かい)・(そう)。(すい)・(ばく)同盟軍の兵力は計五百五十、砲三門となった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.93)


     これを受けて立見鑑三郎たちは、ふたたび軍議した結果、守りにくい柏崎からその一里西寄りの地鯨波(くじらなみ)へ進出することにした。
     鯨波は、時々沖合に鯨が潮を吹くのが見える、というところからこう呼ばれる戸数約五十戸の寒村である。 柏崎から進んでゆくと右手には広大な砂浜と海、左手にはお椀(わん)を伏せたような小山がいくつかあって、その柏崎寄りを●川(いさざがわ)という川が南北にゆったりと流れている。
    (●:いさざ“魚少”)
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.93〜94)


     二十六日深夜、雨を冒して小河内山に登り鉢崎の方角を遠望すると、前夜までは決して見ることのできなかった盛んなかがり火が、漆黒の闇の中に提灯(ちょうちん)行列 のようにつらなっていた。 その先端が鯨波へ半里、立場(たてば)のある青海川(おおみがわ)の宿まで延びていることから、
     (官賊どもは夜明けとともに開戦する気だな
     と判じられたのである。
     かれは、一番隊士三名を物見に指名し、知恵を授けた。
     「雨の中を御苦労だが、鯨波の西はずれにひそみ、官賊どもの動きを見守れ。 あやつらが進んできたら、手近の家に火つけして走りもどってくるだけでよい
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.95)


     官軍の左翼に展開してかれらと対峙(たいじ)していたのは、加賀兵であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.98)


     藩論が最後まで尊王と佐幕に割れて右顧左眄(うこさべん)していた加賀藩は、官軍の強圧的な出兵命令に屈してしぶしぶ兵を出しただけだから、当然兵たちの戦意は薄い。 ミニエー銃の操作も不慣れであったため、一発撃った瞬間、銃の台尻の反動を胸に受け、気絶する者も出る始末だった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.98)


     かれらが必死で撃ちまくっていたのも、恐怖心に駆られるあまり狙いなどは二の次撃ちつづけている間だけは何とかなるような気がする、という弱兵特有の心理のなせるところだったのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.98〜99)


     この鯨波の戦いの官軍側死傷者は、戦死十五(長州一〇、加賀五)、負傷六十九に上った。 対して桑名藩士隊は二番隊長松浦秀八が歩行困難になってしまったが、そのほかは死者一、不明二、負傷五−−数字上も、同盟軍側の圧勝であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.101)


     ただひとりの戦死者の名は、二番隊士駒木根元一。 かれは鑑三郎らにつづいて抜刀斬りこみに移った時、敵の逆襲に遭って手負い、同僚の小寺清雅に介錯(かいしゃく)させて死を選んだのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.101〜102)


     斬りこみをかけたまま行方不明となってしまった一番隊士余語代吉と二番隊士小出冬次郎以外の負傷兵を本陣に運び入れた同盟軍は、敵が引いてゆくのを見て追撃に移ろうとなおも勇み立っていた。
     しかしこの時、柏崎から馬を飛ばしてきた会津藩士がいた。 合印に紫の鉢巻をしているかれは、黒の筒袖羽織姿、手に四色の小吹貫の采をつかんで出迎えた服部半蔵に告げた。
     「無念ながら弊藩は、本日早朝のいくさで小出島(こいでじま)陣屋と小千谷陣屋を同時に抜かれてしまい申した。 小出島、小千谷方面の官賊も柏崎をうかがう気配ゆえ、皆さまお引き下され
     越後国魚沼郡の会津藩領二万七千石を統(す)べる小出島陣屋は、この日払暁、やはり雨の中を関東との境の三国峠を越えて進んできた官軍によって壊滅していた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.102)


     おなじく十一万三千石を管掌する小千谷陣屋には、かねてから会津藩越後口総督一瀬要人(いちのせかなめ)が兵五百五十以上をひきいて進出していた。 しかし、一瀬は、何を思った信濃川下流の長岡藩領妙見村へ移動してしまい、その間に高田からきた山道軍に小千谷陣屋を無血占領されてしまったのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.102)


     鳥羽伏見の戦い以来、薩長勢負傷して捕われた者たちを(なぶ)り殺しにして旧幕府勢に眉をひそめさせていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.104)


     会津兵のひとりは、柱に縛りつけられて足もとに薪(まき)を山と積まれ、転(ころ)ぶのを拒否した二百数十年前の切支丹のように生きながら火刑に処された。 大坂城から逃げ遅れた旧幕府兵の中には、地雷火の上にむりやり座らされて爆殺された者もいる。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.105)


     薩長勢手を打ってはやしながらそれを見物していたというし、薩摩兵は戦場に残された戦死者や負傷兵を見つけると、脇差でその脇腹を切り裂き、血の滴る胆(きも)を抜き取って腰の袋に納めたり、時にはその場で頬張(ほおば)ったりするという。
     「度肝を抜かれる』というのは物のたとえかと思っておったが、薩賊は本当に胆を抜きやがる
     「胆が太い』とか『肝っ玉が小さい』ということばも、あやつらにとっては抜いた胆の大小を計るためにあるのじゃろう。 まことにもって浅ましいやつらよ
     という会話は、柏崎でもよく交されていた。 だから鑑三郎は、
     (いくさの最中に行方を絶ったあのふたりがもし捕われてしまったのなら、酷(むご)い目に遭っているに違いない。むしろ、いさぎよく討死したのであってほしい
     と願わずにはいられなかったのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第三章 雷神隊がゆく》P.105)


    第四章 戊辰朝日山

     越後口出陣の会津藩諸隊は、小出島(こいでじま)・小千谷の両陣屋を同時に失ったあと、譜代長岡藩七万四千石を何とか味方につけようと考えはじめていた。
     小千谷に集結した北陸道官軍が北上を開始すれば、最初に封土を侵されるのは長岡藩である。 会津藩からすれば、小千谷陣屋は長岡藩に領地を接しているから、小千谷回復には長岡藩の協力が不可欠でもあった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.110)


    その家老河井継之助(つぎのすけ)がスネル兄弟からミニエー銃数百挺、ガットリング機関砲二門を買いつけて帰国したことは、コリヤ号に同乗した梶原平馬の実見したところであったから、会津藩は長岡藩が今に立ち上がるものと信じていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.110)


     三月十六日に高田在陣官軍が、
     「王師に志を寄せるならば、高田城下に兵を集合させよ
     と命じた時にも、長岡藩は、これに応じなかった。
     つづけて、ならば三万両を献納せよ、と通達された時にも返事さえしていない。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.110)


     この長岡藩に期待し、五月初旬に桑名藩領の加茂から長躯長岡をめざしたのは、佐川官兵衛ひきいる会津藩朱雀四番士中隊であった。
     元別選組隊長佐川官兵衛は伏見の戦いにつねに会津兵の先頭を駆け、銃弾に額を削られ刀を折られてもなお引こうとしなかったことから、
     「鬼官兵衛
     略してオニカンと呼ばれるようになった会津藩きっての猛将である。
     しかしこのオニカンが直(じか)談判しても、長岡藩の藩政を一手に掌握している河井継之助は〔うん〕といわなかった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.111)


     ところがまだ二十四歳の岩村は、長岡藩が高田城下への召しにも応ぜず三万両の献納通告をも無視したことから、すでに長岡藩は会津に通じていると思いこんでいた。
     「聞く必要はない
     〔にべ〕もなくいって立ち上がったので、継之助は、
     「しばらく
     とその袴(はかま)の裾(すそ)をつかんだ。
     しかし岩村は、それを振り切って庫裏(くり)に姿を消してしまう。 本堂とそのまわりに充満していた官軍たちも、一斉にかれをののしった。
     「河井、早く帰って準備をしろ
     「いずれ、陣頭で会おうではないか
     小千谷談判はここに決裂し、長岡藩は奥羽越列藩同盟の一翼をになって官軍と対決することになる
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.112〜113)


     「歴史上のもしも(ヒストリカル・イフ)」を記すのは無用なことだが、もしこの時岩村精一郎に継之助の論理に耳を傾けるだけの度量が備わっていたならば、戊辰(ぼしん)の戦雲は奥羽全域にまでひろがることはなかったのではあるまいか
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.113)


     のち、明治政府の顕官に昇った者の間にも、そう考えた者がいないではなかった。 一例は、品川弥二郎
     「あの時越後口におった黒田清隆(了介)や山県有朋(狂介)が河井に会わず、岩村のような小僧を出したのが誤りだ
     後年、品川がそう批判すると、山県はいつも顔を真っ赤にして怒ったという。 陽明学者吉田松陰に師事した品川には、継之助が単身官軍本営にあらわれた気持がよく理解できたのかも知れない。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.113〜114)


     しかし継之助いったん〔へそ〕を曲げると
     「おれはな、講釈などするために学問したのではない。 講釈なら講釈師に頼むがよい
     と主君への御前講義すら断ってしまったことのある剛情な男である。
     「かくなる上は、公論を百年の後に俟(ま)って玉砕してくれよう
     と深く憤り、四日のうちに佐川官兵衛以下の会津諸将と同盟を約した。
     これを聞いて古屋佐久左衛門指揮の衝鋒隊(しょうほうたい)、立見鑑三郎松浦秀八町田老之丞にひきいられた桑名藩の三隊および軍事奉行山脇十左衛門も、急ぎ長岡に集結を果たした。 時に、五月九日のことである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.114)


     (かえで)と赤松のめだつ朝日山の山頂は、数百坪のひろさであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.133)


     信濃川寄りには赤土を掘って半円形に塹壕(ざんごう)が掘り抜かれ、その背後には桑名砲と長岡砲がならんでいる。 万一、山頂へ通じる山道から敵がこの広場へ躍りこんできても、塹壕に入って地上には陣笠と銃口だけ見せている桑名三隊の一斉射撃によって、頭を覗(のぞ)かせた瞬間に仕留められてしまうであろう。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.133)


     この塹壕を完成させたあとも、鑑三郎は朝日山のたたずまいを調べるのに余念がなかった。 裾野(すその)から巻貝の殻に刻まれた筋のように雑木林を割ってうねり登る山道には切り通しが多く、それだけに物見の兵を埋伏し得る死角が多いこと、中腹までは、路肩が少し張り出したところにも猫の額ほどの水田がひらかれていることなども、すでに頭に入っている。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.133〜134)


     奇妙に感じたのは、平地ばかりかこのような小さな水田のほとりにも、かならず四、五本の木がおよそ一間置きにならんで立っていることであった。 しかもこれらの木はすべて枝を落とされ、葱(ねぎ)坊主のような情ない姿をしている。
     桑名や江戸、京都でも見たことのない風景だから、あれは何かと訊ねると、長岡兵は、
     「あれはハサギと申す
     と答えた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.134)


     ハサギ稲架木の字をあてる。 稲刈がおわるとこの稲架木の横腹に竿(さお)をくくりつけ、その竿にどんどん稲束を架けてゆくのだという。
     この越後独特の習慣には感心したが、鑑三郎は一隊の長だけに、
     (稲刈りの季節になれば、これら稲架木の陰に隠れて戦うこともできよう、それまでこの戊辰のいくさを引きのばせれば、官賊どもは奥羽の冬の寒さを知らぬからわれらの勝ちが見えるのだが
     と考えていた。 やがて始まるであろう朝日山の攻防戦には、そのような持久戦にもちこめるかどうかがかかっているのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.134)


     長岡の方角から砲声が流れてき、黒煙が天を焦がしはじめた時から、官軍の別働隊が長岡突入に成功したであろうことは鑑三郎にも分っている。
     (ならば西岸の敵が長岡の別働隊に合流せぬよう、攻めつけておかねばならぬ
     と即座に考え、鑑三郎はあえて官軍の右翼を席捲(せっけん)せんばかりの勢いをあらわにしたのである。
     これは後世の軍事学において、
     「陽攻
     と呼ばれる高等戦術であって、戊辰の戦いに用いられたのは、この時をもって嚆矢(こうし)とする
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.144)


     不意に左右の高地から沸き起こった連射音に、桑名藩軍艦山本半平数弾を浴びて即死した致人隊軍事目付鈴木右衛門七(えもしち)は、つづけて撃ち出された四ポンド山砲椎の実形砲弾を腹にまともに受け、その五体は手足ばらばらになって四散した
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.151)


     高所至近距離から発射される四ポンド山砲の威力には、あまりにもすさまじいものがある。 つづけて雷神隊細谷又之丞が、砲弾に額を砕かれて即死致人隊大村市郎治頬骨(ほおぼね)を微塵(みじん)にされ、おなじく岡松寿三郎頭部をかすられて昏倒(こんとう)した
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.151)


     それでも雷神、致人の各隊士は、木陰に散って応射しようとした。
     だがミニエー銃は先ごめだから、一発撃ったあと槊杖(かるか)を使って銃口から装弾するには、どうしても立ち上がりたくなる。 一方、官軍側に行きわたりつつあるスナイドル銃、七連発のスペンサー銃は元ごめだから、伏せ撃ちの姿勢を崩さずとも手元で簡単に玉ごめできる
    (槊:木朔)
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.151〜152)


     翌二十九日の日没まで休養した桑名三隊は、とりあえず陣ヶ峯西麓を北上して間道上の根小屋に出た。会津上ノ山の兵が来援しつつあると聞き、これと合流して頽勢を整えようとしたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.153)


     敵影を見る前に撃たれるようでは、この方面への進出を計るのは危険が多すぎた。
     「それ見たことか
     と馬場が高笑いしているような気がしたが、意地になっては命がいくつあっても足りぬ、と鑑三郎は新居良治郎の叫びを反芻(はんすう)しながら自分にいい聞かせている。 兄老之丞に相談すると、
     「無理攻めはすまいぞ
     との答えを得、両隊は自重策を採ることにして根小屋に引き返した。 馬場は、何をしていやがる、というように鼻先で笑ったが、
     「気にするな
     と老之丞は鑑三郎に目で告げ、その夜のうちに神風隊の二十をつれて北野へ北上していった。 会津、上ノ山の兵も来着していたため、藁葺(わらぶき)屋根の農家しかない根小屋に全軍は宿泊しきれない
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.154)


     こうして越後口の戦いは、以後約一カ月にわたって膠着(こうちゃく)。 これに余裕を得た同盟軍の兵たちは、
     「佐幕派強い者番付
     を作って、その筆頭に桑名藩の名を挙げた。

     第一に桑名、二に佐川、次の者は衝鋒隊

     衝鋒隊の兵たちとしては、自分たちが三番手なのが面白くない。

     一に衝鋒、二に桑名、三に佐川の朱雀隊

     と詠じたが、いずれにせよ桑名藩雷神致人神風三隊の死を怖れぬ勇敢さ、なかんずく鑑三郎の水際立ったいくさぶりは、ようやく奥羽越列藩同盟中最強を謳(うた)われるに至ったのであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第四章 戊辰朝日山》P.158〜159)


    第五章 鶴ヶ城の別れ

     上野東叡山にこもった彰義隊に投ずるべく、立見鑑三郎たちと江戸中屋敷で別れた桑名藩士約七十名について飛報が入ったのは、この束の間の凪(な)ぎのような日々の間のことであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.160)


     五月五日早朝に始まった官軍の一斉攻撃によって、最後まで山中に踏みとどまっていた彰義隊一千は半日にして壊滅(かいめつ)。 うち約六百人が、討死の運命をたどった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.160)


     桑名藩士隊からは、用人高野一郎左衛門、御用所祐筆椙田(すぎた)茂左衛門ら五人が死亡。 多数の負傷者が出たが、高野に至っては砲弾に腹を抉(えぐ)られる凄惨な死に方だったという。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.160)


     すでに同盟軍側が押さえた見附から長岡へは三里の道のりだが、その見附の南方から長岡城の東北部にかけては、
     「八丁沖
     と呼ばれる方一里の大沼沢がひろがっている。 徒歩不可能とされ、官兵も見張りを立てることを怠っているこの八丁沖を長岡兵のみにより夜陰に乗じて縦断潜行し、一気に長岡城に突入する、というのである。
     「すでに夜襲の心得書も作ってみたで
     と継之助が一同の前にすべらせた書面には、次のような文章がならんでいた。
     《   心得書
      一、味方印、白木綿振旗の事。
      ・・・・・・
      一、合言葉、誰と問へば川と答ふる事。
      ・・・・・・
      一、いずれにて伏兵等に逢ひ候とも、かねて覚悟の義、決して驚くべからざる事。
      一、御城下へ打ち入り焼き立て候節、声々に、長岡の人数二千人城下へ死にに来た、殺せ殺せと叫ぶべき事。
      ・・・・・・
         辰の七月                    》

     継之助の決死の覚悟がよく読み取れる文面であった。 特に、
     「長岡の人数二千人城下へ死にに来た、殺せ殺せと叫ぶべき事
     とあるのに気づいた時、鑑三郎は胸を打たれて思わず継之助をまじまじと見つめていた。
     (わが桑名城もすでに開城してしまったが、それはわれらがあずかり知らぬ間になされたこと。 しかし河井殿は目の前でみすみす城を抜かれてしまっただけに、この二カ月間われらにはうかがい知れぬ恥辱に堪えておられたのだな
     この策が成らなければ継之助は自栽するつもりだな、と直感した鑑三郎は、われ知らず口をひらいていた。
     「これはまことに壮図と申すもの、御武運のほど祈り上げております
     佐川官兵衛以下も継之助の眉宇(びう)に漲(みなぎ)る決意に気圧(けお)されたように賛意を表したので、いよいよこの長岡城奪回策は実行に移されることになった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.163〜164)


     あくる二十六日、官軍の新手一千が新潟北方の松が埼に上陸すると、これにうろたえたのか新発田(しばた)十万石が同盟軍側から官軍側に寝返り、米沢藩の守る新潟港へむかって進撃しはじめた、との急報が入った。 そのため桑名の三隊は、動くに動けなくなってしまったのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.166)


     長岡兵は、城内火薬庫に火を放って栃尾、見附方面に後退。藩境に官軍迫ると聞いて米沢兵も勝手に戦線を離脱しようとしたので、越後口の同盟軍はようやく敗色濃厚となった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.166)


     官軍が見附まで進出を果たした以上、同盟軍はその進路に当たる三条から、その東の加茂村松に至る東西の線上に展開してかれらの北上を阻止せねばならない
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.167)


     急ぎ木ノ芽峠から三条へ引いた鑑三郎たちは、いち早くこの地へ入っていた佐川官兵衛中村七郎右衛門以下の諸将と軍議した結果、やはりこの線を死守することになり、分担地域を定めた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.167)


    三条は会津兵が守備し、その東方の加茂は神風隊と省内兵、衝鋒隊が守る。 雷神、致人の両隊は、加茂と村松藩領の境、南北に還流する加茂川西岸の要衝黒水を扼(やく)する。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.167)


     この約定(やくじょう)に従い、八月二日に桑名三隊はそれぞれの持場に散っていった。
     「しかし、これはちと守りきれませぬな
     鑑三郎は、別れる前に兄の老之丞に囁(ささや)いた。
     「それは何ゆえか
     と端整な顔をむけてくる兄に、鑑三郎はいった。
     「これでは東西にあまりに長く戦線が伸びすぎて、堅守できますまい。 守りを寸断された上に松が埼の敵まで来襲いたせば、各隊は袋の鼠になりかねませぬ。 守りきれるところまでは守るとしても、いざとなれば越後は捨て、佐川さまたちとともに会津へ引くのが上策でしょう。 この点、とくとおふくみおき下され
     「なるほど
     と短く答えて、老之丞は加茂へ先行していった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.168)


     その後の戦いは、ほぼ鑑三郎の予測したとおりになった。
     見附から三条へ北上してきた官軍は、雲霞のごとき大軍であった。
     会津兵とともにその木戸で抗戦すべき三根山兵は、この日降伏して帰国。村松兵水戸脱走兵も逃げ散ってしまったので、神風隊が加茂から走ってこれに代わった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.168)


     村松城の西方半里の地点までゆくと、すでに官軍によって焼き落とされた城の方角からは、村松兵がおっとり刀で飛び出してくる。
     「案ずるな
     鑑三郎は、兵たちを振り返って告げた。
     「わずか三万石の村松藩に、われらと戦うだけの兵力はない。 われらに城へ迫られては、せっかく官賊どもへ寝返ったというのにまた変心を強いられるやも知れぬと考えて、こちらの動きをうかがっているだけの話だ
     その説明に、雷神隊の隊士たちはどっと笑った。
     たしかに、この鑑三郎の読み筋は中(あた)っていた。 村松城下へ入って北西に道を転じると、次第に村松兵たちは城の方角へ引いていった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.172〜173)


     同盟軍の計画は、村松城下からさらに一面の田畑の中を北西へ三里進んで阿賀野川河畔の石間村へ出る。 そこから阿賀野川ぞいに走る若松街道(越後街道)へ入って、越後における会津藩領津川にむかう、というものだった。
     途中で庄内兵たちは自藩へ帰っていったが、桑名兵たちは全員無事若松に入った。 実に八月十日のことであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.173)


     奥羽一の名城として知られる鶴ヶ城を中心に縄張りされた若松の町は、黒瓦の武家屋敷の櫛比(しっぴ)する郭内(かくない)と、それとは諸門と外堀とによって画された郭外とに截然(せつぜん)と分かたれている。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.173)


     その郭外北側、桂林寺町の寺々に身を休めた立見鑑三郎以下二百数十名の桑名藩士たちは、翌十一日、うちつれて郭内本(ほん)五ノ丁北側の興徳寺を訪れた。 境内地六千坪のひろさと鎌倉以来の伝統を誇るこの名刹(めいさつ)の本堂を、主君松平定敬(さだあき)が本営としていると聞いたからである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.173)


     しかし鑑三郎たちは、すぐには東山の温泉郷にはゆけなかった。 鉄砲を手入れして興徳寺に預け、会津藩から弾薬その他を頒(わ)けてもらっておく必要があったし、越後口以外の戦況を頭に入れておく必要もある。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.175)


     すると鑑三郎が案じていたように東方の白河口もすでに破れ、事態は日一日と深刻さを増していることが判明した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.175)


     北陸道鎮撫総督軍と並行し、東海(太平洋)側から北上した奥羽鎮撫総督軍は、五月初旬に白河を抜くと、同月二十四日には棚倉藩、七月十三日には磐城平(いわきたいら)を攻略。 十六日には三春藩五万石の内応によって同地に進出し、二十九日には三春兵の嚮導(きょうどう)によって会津の隣藩二本松霞ヶ城をおとしいれていたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.175)


     以後、奥羽鎮撫総督軍は表立った動きを見せていないとのことだが、かれらがいったん力を溜めて若松突入の機会をうかがっているのは火を見るよりもあきらかであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.175)


     最後まで継之助と行をともにしていたというその長岡兵は、教えてくれた。
     ・・・・・・継之助は、河井家の若い従僕松蔵の世話を受けながら駕籠に乗せられ、栃尾から会津をめざした。 越後と会津領との国境(くにざかい)の難所八十里越(ごえ)にさしかかった時、かれは、
     「おれは会津にはゆかぬ、ここへ置いていけ
     と頑是(がんぜ)ない子供のように駄々(だだ)をこね、一句詠んだ。

     八十里こしぬけ武士の越す峠

     長岡兵たちに種々説得されてまた亡命の旅をつづけ、八月五日に会津領只見(ただみ)まできた時、松蔵が日々に弱りはじめた主人を見、意を決したようにいった。
     「だ、だんなさま。 手前はだんなさまのお供をしてお屋敷を出ます時、奥方さまからおからだに万一のことがあってもきっとお見届けして、せめて御遺髪だけは持ち帰るように、といわれております。 お許しのないのにおからだに手をつけるわけにはまいりませぬから、どうか今のうちに御髪(おぐし)を少々頂戴させて下さいませ
     継之助がことば少なにうなずいたところを見ると、かれはすでに死を覚悟していたのであったろう。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.177〜178)


     河井継之助くると知り、旧幕府奥医松本領順が会津から単身只見村へやってきたのは、その翌日のことであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.178)


     良順が診察したところ、継之助の左膝下の銃創はきわめて重く、膿毒症(のうどくしょう)をも発していて切断手術を必要とするものであった。 しかし、草深い只見村ではそれもできない。
     持参の牛肉の〔たたき〕を差し出し、しばしさり気なく継之助と歓談した良順は、
     「名医が幾人もおるから、会津へゆきたまえ。 会津の壮士たちもそこもとを待っている
     とやさしく促した。
     喜んで〔たたき〕を味わい、良順と別れてのち、
     「いや、ひさしぶりで豪傑の顔を見た
     と感想を漏らした継之助は、ともかくゆけるところまでゆこう、と左右に伝えた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第五章 鶴ヶ城の別れ》P.178〜179)


    第六章 月の山

     「城下に流れ出した風聞によると、福島三万石はどうやら米沢藩の勧めを受け入れ、態度を降伏に決したようでござる
     官軍は、降伏を申し出た藩には恭順の証(あか)しとし、官軍先鋒と化して同盟軍を攻撃するよう命じるのがつねである。 身の危険を感じた鑑三郎たちは、この日のうちに庄内兵四小隊とともに、三里二十町北の桑折(こおり)宿に転陣することにした。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第六章 月の山》P.218)


     しかし鎌五郎の復讐のためにもう一戦を望んだ鑑三郎の思いをよそに、奥羽地方全域に及んだ戊辰の戦いは今や終息の時を迎えていた。庄内藩十六日のうちに鶴ヶ岡城内で重臣会議を開催、降伏帰順の方針を定めていたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第六章 月の山》P.248)


     寒河江を抜いてさらに北上した官軍は、二十三日新庄の南西三里の清水まで進出したが、庄内藩の降使はこの地で米沢藩を介し嘆願書を提出二十七日のうちに鶴ヶ岡城をあけわたし、すべての武器弾薬を差し出すことを約した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第六章 月の山》P.248)


     清川在陣の鑑三郎たちが、この降使派遣を知らされたのも同日中のことであった。
     一同絶句してしまい、その直後には、
     「それでは、これまでの戦いに死んだ同志たちは犬死だったということになってしまうではないか
     「蝦夷地(えぞち)へゆかれたわが公のお許しもなく、われらのみで降伏と決めてしまってよいのか
     という声が澎湃(ほうはい)と湧き上がった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第六章 月の山》P.248〜249)


     だが改めて確認すれば、庄内入りしている旧幕新徴組の百五十、旧幕兵二百、旗本ないし佐幕派浪士二百、会津・長岡兵若干降伏を承諾したという。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第六章 月の山》P.249)


     態度決定までに二日の猶予を乞うたその二日目の二十五日には、丸一カ月に及ぶ籠城(ろうじょう)戦をつづけていた会津藩も、二十二日に矢弾尽き果てて開城したという知らせがきた。
     (ああ、それではもう、秋月登之助殿や佐川官兵衛殿も生きてはいないのかも知れぬ
     あの会津藩ですら降伏したのなら庄内藩が白旗を揚げたのもやむを得まい、と感じた鑑三郎は、服部半蔵山脇十左衛門松浦秀八町田老之丞らと会議した結果、ついに降伏することにした。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第六章 月の山》P.249)


     こみ上げてくるものを圧(お)さえながら鑑三郎が帳面を繰ってみると、宇都宮以来の戦いに死んだ桑名藩士の数は百人以上に上っていた。 将来、徳川家の天下回復なって桑名藩が復活すれば、その遺族たちが褒美や新規採り立てにあずかるのに役立つかも知れない−−そう思って書き留めた帳面も無駄になってしまったわけだが、鑑三郎はこの帳面を破り捨てようとは思わなかった
    (《闘将伝 小説立見尚文 第六章 月の山》P.249)


    第七章 朝敵たちの明治

     桑名三隊は明治新政府軍を「官賊」とみなして戊辰のいくさを戦ったとはいえ、それは薩長両藩を「官」を名のる賊と考えたためであり、朝廷を蔑(なみ)する思想に発したものではなかった。 むしろかれらは、公武合体−−朝廷と徳川家とをともに尊崇(そんすう)する立場を貫くためにこそ、奥羽各地を転戦しつづけたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.271)


     そうであってみれば、徳川家も駿河府中七十万石を与えられて新時代に存続することを許された今日、兵部省(ひょうぶしょう)が御親兵−−天皇直属の軍隊を創設しようとしていると聞けば、これに加わって「戊辰の賊徒」、「朝敵」の汚名を晴らしたいと考えるのはきわめて自然な発想であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.271)


     同年十一月、桑名県安濃津(あのつ)、度会(わたらい)の二県に別れ、桑名は安濃津県に属した。 同時に旧藩知事たちは東京移住を命じられ、各県には官選知事が赴任。 旧藩主と士族たちとの地縁関係は、ここにおわりを告げた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.277)


     尚文は安濃津県十一等出仕の文官として聴訴課詰となり、裁判事務にたずさわっていたが、安濃津、度会両県が合県し、県名が三重県と改められて旧四日市陣屋に県庁が置かれると、単身赴任してその大属(だいさかん)となった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.277)


     「」をサカンと読むのは、上に長官(かみ)(県令)、次官(すけ)(権令(ごんれい))、判官(じょう)(大書記官)がおり、それを「佐(たす)ける官」すなわち「佐官」だからである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.277)


     この大属の仕事は、尚文には性に合わなかった。 何よりも官軍出身者賊徒、朝敵とみなされる者たちとの間には超えがたい溝があった
     たとえば安濃津県参事から三重県権令となったのは、旧尾張藩士丹羽賢(まさる)という青年で、かれは尚文より一歳年下であった。 二条城の無血接収や尾張藩藩校の改革に功があったという程度のことで、官軍出身者ならこのような顕職に駆け上がれるのだった。
     さらに将来の出世を考えれば、丹羽はいずれどこかの県の県令となり、中央の官庁へ招かれる可能性もある。 対して尚文は、今日流にいえば地元採用のノン・キャリアだから権令に昇ることすらあり得ないだろう。
     (おれが雷神隊をひきいて戦いつづけたのは、こんな生活を得るためではなかったはずだ
     と思うと、かれは次第に四日市の暮らしが厭(いや)になった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.277〜278)


     そういえば明治二年以来津藩へ永預けとなっていた旧主松平定敬も、この一月六日に恩赦され、本郷弓町に屋敷を構えた定教のもとに帰ったはずであった。 松平家の家令には松浦秀八が就任したから、定敬はすでに会津から寒河江(さがえ)へ転戦した尚文たちの顛末(てんまつ)を聞き知っているであろう。
     (ここはひとつ東京へ出て、もう一度身を立てる途(みち)を探してみようか。 定教さまが華族となられた今なら、その推薦状をいただければ司法省出仕の途もひらけるかも知れない
     なお軍人として国家に尽くし、それによって賊徒の汚名を返上したい、という思いに変わりはなかった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.278〜279)


     次第に上京の思い黙(もだ)しがたくなった尚文は、ついに明治五年十一月三重県に辞表を提出。 十二月中に再上京を果たし、日本橋脇数寄屋町の旅籠(はたご)山本屋市郎兵衛方に止宿した。 願いどおりに司法省十等出仕を拝命したのは、あけて明治六年四月二十四日のことであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.279)


     当時の十等出仕とは、その省の長官の判断によって採用される十五等から八等までの「判任官」に属する。 その上に、太政官の奏推によって任命される七等から四等までの「奏任官」、勅令によって叙任される三等から一等までの「勅任官」がいるから、尚文が司法省内に得た地位は「下の上」程度のものでしかない。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.279〜280)


     五月一日には、実父町田伝大夫あてに書いた。

     私儀、今明年へ懸け、是非共一、二等は進みたく、本省は豪傑のみと存じのほか、同僚中にてはさまで恐るべき者もこれなく、随分勉強に因(よ)れば、あえて奏任も難しからずと存じ奉(たてまつ)り候。……
     私輩、多年習俗の見をもって一時朝敵の汚名を蒙(こうむ)れども、その真情は天下の知るところ、その真情を今日に移し、誓ってわれ分相応の令名を天下に挙げんことを期すべし。

    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.280)


     〔おゑゐ〕の生まれたのは、九年九月高知の官舎において。 尚文三十二歳の時のことだが、この公私ともに慌しい三年間に起こったことどものうち、もっとも思いがけなかったのは佐川官兵衛との再会であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.291)


     尚文が七年四月、赴任してまだ一年にもならない新治裁判所から東京へ呼びもどされた原因は、いわゆる「広沢参議暗殺事件」の裁判が紛糾に紛糾を重ねたことにあった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.291)


     四年一月九日暁闇(ぎょうあん)の時刻、長州出身の参議広沢直臣(さねおみ)は、麹町(こうじまち)富士見町の妾宅で妾の福井〔かね〕と同衾(どうきん)、熟睡中刺客に襲われ、全身十五ヵ所を滅多突きされて即死した。 真犯人不明のまま月日が流れるのに焦った政府は、詔勅まで発して犯人逮捕を厳命。 その結果四月になって福井〔かね〕が東京府の邏卒(ポリス)に逮捕されて、東京府第一大区屯所に留置された。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.291〜292)


     〔かね〕は犯人については何も知らないという主張を変えなかったものの、広沢家の家令起田(おこしだ)正一と密通していたことを認めたため、今度は起田が拘留された。 かれは海老責めの拷問に屈し、犯行を自供した。
     しかし、その裁判は難航した。 起田は司法省裁判所に送致されて改めて訊問(じんもん)された時、
     「拷問に耐えかねて、嘘(うそ)の自供をしました
     と前言をひるがえしたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.292)


     太政官制に従って銀の広筋入り、掛緒(かけお)の鍔(つば)つき帽をかむり、無位の士族であることを示す白の肩総(かたふさ)を付した黒色金ボタンの上着に銀筋入りズボンを着用したかれは、風呂敷包みを抱えて警視庁玄関へ駆けこむのをつねとした。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.292)


     その日も足迅(あしど)に警視庁玄関へむかったところ、交叉形(こうさがた)の徽章(きしょう)をつけ金線を巻いた鍔つき帽に、袖口に金筋四本入り紺ラシャの制服、おなじく金筋入りのズボンにサーベルを吊った恰幅(かっぷく)のいい男が、その玄関口をふさぐようにして突っ立っていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.292〜293)


     尚文がその顔を見ようともせず、
     「失敬
     と帽をとってそのかたわらを通りすぎようとした時、聞き覚えのある声がきた。
     「おいおい、立見さんではないか。 おれを忘れたのかね
     それが白河街道強清水(こわしみず)で別れて以来六年ぶりの、佐川官兵衛との再会の光景であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.293)


     旧会津藩二十八万石は、減藩処分となったあと下北斗南(となみ)の不毛の地に三万石で再興を許された。 生き残った藩士たちとともに官兵衛も斗南に移ったが、開拓は失敗つづき。 かれは若松へもどり、出家を考えはじめた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.293)


     しかし、
     「鬼官兵衛
     略してオニカン、と異名をとった旧会津藩屈指の勇将の名は、官軍出身者の間にもあまねく知れわたっていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.293)


     かれは桑名三隊も若松を去ったあと、慶応四年八月二十九日に会津の精鋭一千をひきいて鶴ヶ城を出撃。
     「長命寺の戦い
     と呼ばれる籠城(ろうじようご)最大規模のいくさを指揮したあとは城へ帰らず、九月五日には日光口から若松に迫った官軍一千を兵四百によって一蹴するなどして官兵たちの心胆を寒むからしめたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.293)


     六年十月、参議兼近衛都督陸軍大将西郷隆盛征韓論に敗れて鹿児島へ帰ると、六百有余の鹿児島県士族も軍隊役所の職を捨ててそのあとを追った。
     対して川路利良大警視は、邏卒あらため巡査の欠員を補い、あわせて各地に蠢動(しゅんどう)しつつある不平士族を封じこめるべく、全国規模の巡査大募集をおこなった。 その時かれが最初に目をつけたのが、今なお賊徒、朝敵と世間から白眼視されて職につけずにいる旧会津藩士たちであり、かれらに慕われつづけている佐川官兵衛であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.294)


     佐川は初め、警視庁奉職を拒んだ。 だが、
     「佐川さまが行って下さるならば、われらもゆきたい
     と言い出した旧会津藩士の数は、三百にも達した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.294)


     七年二月、情にほだされその三百人をひきいて上京したかれは、九等官大警部として東京警視庁本庁第一局に勤務するようになったのだった。  「第一桑名、二に佐川」  と戊辰(ぼしん)戦争の佐幕派強い者番付に謳(うた)われた桑名藩雷神隊の隊長会津藩家老とか、期せずしてほぼ同時期に新政府に出仕していたのは奇縁であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.294)


     警視庁内にあっても会津人は今も賊徒として白眼視され、六区九十六小区の各文庁分署に配属された会津人はかならずひとりずつ。 それを官軍出身者が囲み、監視しながら警察活動をおこなっているという。
     しかしこれらのつらい話とは別に、このころ官兵衛から聞いたことばのうちでもっとも印象に残ったのは、
     「朝敵回り持ち
     という表現であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.285)


     この七年二月には、西郷を追うように下野した佐賀出身の参議江藤新平佐賀の乱を起こして失敗。 四月に梟首(きょうしゅ)されるという大事件が起こっていた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.285)


     これを鎮圧すべく熊本鎮台から出動した軍隊には、戊辰以来の官兵衛の盟友である元会津藩家老山川浩陸軍少佐として参加。 乱後、中佐に昇進する凄(すさま)じい戦いぶりを見せたという。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.285)


     官兵衛は、いった。
     「戊辰のいくさに賊徒、朝敵といわれたわが藩の勇士が、今は官軍としてかつて西軍に属した者どもを討ちたいらげたのだ。 西郷もいずれ乱を起こしかねぬから、この朝敵回り持ちの時代は今しばらくつづくであろう。 あるいはおれも官軍の一翼を担い、巡査隊をひきいて出撃することになるやも知れぬ。 立見さんも司法省におれば、いずれ新たな朝敵どもを裁く立場になるのではないか
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.285〜286)


     広沢参議暗殺事件が迷宮入りの様相を呈しはじめた九年二月に高知裁判所に赴任してからも、尚文は「朝敵回り持ち」ということばを忘れられなかった。
     同年十月二十四日には熊本で神風連の乱、同月二十七日には福岡で秋月の乱、翌二十八日には山口で萩の乱が発生。 物情は一気に騒然となり、いよいよこのことばが真実味を帯びてきたからである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.286)


     あけて十年二月十二日、鹿児島に私学校との名目で独自の軍隊を育成していた西郷隆盛は、ともに下野したふたりの薩摩人−−陸軍少将桐野利秋、同篠原国幹(くにもと)との連名によって、
     《今般政府へ尋問の筋これあり
     という一文をふくむ率兵上京届を鹿児島県令大山綱良あてに提出。 十五日、七大隊編成の薩摩軍約一万三千をひきい、熊本鎮台めざして進撃を開始した。
     対して明治天皇が、征討総督に任じた有栖川宮熾仁(たるひと)親王征討の詔(みことのり)を与えたのは十九日。 熊本鎮台に殺到した薩軍が、攻城の砲火をひらいたのは二十一日午後一時十五分のことであった。
     官兵衛が予言したとおり、ついに西南の役が勃発(ぼっぱつ)したのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第七章 朝敵たちの明治》P.286)


    第八章 西郷隆盛の首

     この時代に陸軍育成の主導権を握っていたのは、戊辰(ぼしん)越後口戦争における立見尚文の好敵手山県狂介あらため有朋(ありとも)であった。 明治三年八月兵部少輔、四年七月大輔と昇進したかれは、六年六月陸軍卿となり、以来名実ともに陸軍の第一人者に成り上がっている。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.287)


     六年一月には徴兵令が出され、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本に鎮台が置かれてこれを統轄する軍管区が設定された。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.287)


     「立見判事補に、明日付で帰京を命ずる。 司法省からの辞令は、私が預かってきた
     テーブル越しにわたされたそれには、たしかに、
     帰京申付候事
     と書かれていた。 だがこれだけでは、簡潔すぎて何のために帰京しなければならないのかさっぱり分らない。
     尚文が太い眉(まゆ)を寄せて河野の特徴ある顔を見つめると、河野は察したようにことばをついだ。
     「これはまだここだけの話だが、今回の君の帰京は司法省の用むきによるのではない。 君は戊辰戦争においては桑名藩雷神隊を指揮し、つねに寡兵をもって官軍に対抗して一歩も引かなかった猛者(もさ)だというではないか。 お上(かみ)には、その用兵の腕に御用があるのだ
     「とおっしゃいますと、私にふたたび干戈(かんか)を動かせと、−−
     朝敵回り持ち、ということばをまた思い出して訊(たず)ねると、
     「そうだ
     と河野は顎鬚を撫でながらいった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.289)


     「君も知っとるように、熊本鎮台は薩軍に攻めつけられてなおも苦しい籠城戦をつづけておる。 鎮台兵や警視隊を九州に投入するだけではとても薩軍討伐に足りぬから、大久保内務卿山県陸軍卿は各地の士族階級に兵を募り、もって新兵団を編成しようとしておられる。 君には戊辰の戦歴を見こみ、旧桑名藩士たちをまとめて朝敵征伐に立ち上がってもらいたいのだ
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.289〜290)


     大久保や山県と親しいと聞く、元老院議官がみずから出張してきた理由もこれで分った。 尚文としては本来の念願であった軍人への転身をはかり、かつ戊辰の賊徒の汚名を晴らす絶好の機会がめぐってきたのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.290)


     元会津藩家老佐川官兵衛警視隊の幹部として出陣したことは、すでに風の便りに聞いている。  (これでおれが旧桑名藩士たちをひきいて出撃すれば、今度のいくさは会桑と並び称された両藩対薩摩の戦い、まるで戊辰のいくさの再現ではないか。 ただ決定的に違うのは今度はおれたちが官軍、あやつらが賊軍というこの一点だ
     運命の巡り合わせの不思議さに、尚文は元老院議官が目の前にいることも忘れて高らかに笑った。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.290〜291)


     「前譴(ぜんけん)を償い報効を表わさんとする旧桑名藩士は、旧臣立見尚文に従ってすべからく義勇奉公すべし
     やがて松平定敬からこのような主旨の一文を下賜してもらった尚文は、五月二十一日司法省から三重県出張を許されて募兵活動に乗り出した。
     性格温厚で人望のある兄町田武須計のゆきとどいた根まわしもあり、三重県下から募に応じた者は四百五十人、うち士族四百十二人。 桑名からの応募者は三百四人と、全体の三分の二にまで達した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.292〜293)


     なお旧会津藩領を有する福島県下からのそれは、千百三十六人。 うち若松を中心とする第十一区からは百五十九人の応募があった。
     旧会津藩士ながら斗南(となみ)へ流れて青森県士族となった者も少なくないので一律にはいえないが、全国からの応募総数は一万三千人である。 佐幕派の双璧(そうへき)であった会桑二藩の故地をもつ福島、三重二県からの応募者が優に全体の一割以上を占めたわけで、この数字からも戊辰戦争の賊徒、朝敵と名指された者たちの怨(うら)みの深さが察せられる。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.293)


     「おれは、お前と一緒に鎌五郎の仇を討つんだ
     というのが武須計の言い分だったが、石山のせりふはなかなかうがったものであった。
     「旧桑名藩子弟を集めて敵に当たらしむれば、三重県士族のうちにわだかまる政府への不平不満は矛先を変えて薩軍にむけられることになる。 だからわれらは政府に利用されるわけだが、おれはあえて利用されて、戊辰の年に二度まで尻に穴をあけられた宿怨(しゅくえん)を晴らしてやるんだ
     政府の「毒をもって毒を制する」発想法は、尚文にも分っていた。 分っていてもあえて利用されてやるという思いは、口に出さずともかつて朝敵といわれた者たちには共通する感情であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.293〜294)


     「その軍装は、佐官の正装ですか
     尚文の何気ない問いに、
     「いや、これは略装だ
     と中佐が答えた時、かれは間髪を入れずにいった。
     「私も佐官を希望する
     「いや、しかしな
     慌てた浅井中佐は、尚文が陸軍の制度をよくしらないのではないかと思ってつけ加えた。
     「一貫して陸軍軍人として勤務しておる者たちとの兼ね合いもあるから、初めから佐官というわけにはいかん。尉官でどうか
     「いや、佐官でなければ御免こうむる
     尚文としては、ただの官軍出身者というだけでさほどの軍功もなく佐官になっている者も多いのに、その連中を各地に敗走させた自分がその下風に立てるか、という気持がある。自分が尉官にとどまれば桑名から募に応じてくれた者たちがそれより低く見られてしまう、とも思っているから、妥協する気は一切なかった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.295)


     旧鶴丸城本丸は、明治六年に焼けてしまったから高い石垣と堀とを残すのみであった。 しかしそれとは大手の通りをへだてて建つ県庁、その隣りの米倉はすでに官軍の占拠するところとなっているから、私学校の北側にせり出した岩崎谷南方の高地と、東北側にひらいた岩崎谷入口には特に強大な堡塁(ほうるい)が築かれた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.309)


     薩軍はこれらの守線に散った二百九十四名に桐野利秋以下の薩将約十名、大小荷駄、弾薬製造掛十数名、軍夫百余名を加えて都合四百数十の兵力であった。 だが激を飛ばしても援軍は集まらず、軍夫には逃亡する者も相ついで次第に絶体絶命の状況となった。 保有する武器も四ポンド半砲六門、臼砲六門、ただし砲弾少量。 銃をもつ者も百五十名にすぎず、あとは抜刀して戦うしか方法がない
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.309)


     山県は諸旅団の兵を城山のありとあらゆる方角に配備して要衝の地にはことごとく塁壁を築かせ塹壕(ざんごう)を掘らせ、その入り組んだ山あいの小道や谷口にはびっしりと逆茂木(さかもぎ)を植えこませたばかりか、竹柵(たけさく)を五重、六重に張りめぐらせた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.309)


     二十日払暁、立見少佐は早くも石黒重熙(しげひろ)少尉試補以下四十一名によって一部隊を編成し、いわゆる、
     「虚撃
     をおこなわせて敵の反応を見ることにした。
     虚撃とは文字どおり、行くぞと見せて敵を驚かすことによって防備の兵力を探り、かつ真の総攻撃期日を秘匿する手段のことをいう。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.313)


     藍色の紬(つむぎ)の単衣(ひとえ)に黒い兵児帯(へこおび)を締め、その帯の左前に和泉守兼定一尺七寸、ふところに七連発のピストルを収めて脚に小紋の脚絆(きゃはん)をつけていた西郷は、痛みをこらえて東方を拝し、
     「晋どん、晋どん
     と別府晋平を差し招いた。 別府晋介は戊辰のいくさに際しては白河口官軍に属し、佐川官兵衛が十六橋を破壊するのに先んじて猪苗代湖銚子ノ口の落とし口を泳ぎわたった男である。
     「晋どん、やってくいやい、この辺でよかろ
     西郷はかれに、おのれの介錯(かいしゃく)を命じたのである。
     「はっ、先生、では御免ったもし
     みずからも足を負傷し、輿(こし)に乗せられて運ばれてきた別府は、涙をこらえて大刀を一閃(いっせん)した。 西郷隆盛は享年五十一。 その首は、うしろから走ってきた薩軍の少年兵が拾い上げた。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第八章 西郷隆盛の首》P.318)


    第九章 樊家台(はんかだい)の新戦術

     内務卿大久保利通が暗殺されてからわずか五日しか経たない五月二十日には同鎮台第八聯隊歩兵第二大隊長に転じ、十二年二月四日には同鎮台の幕僚参謀となった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.331)


     陸軍に転じて実質まだ一年半に満たない者が、鎮台の幕僚参謀に抜擢(ばってき)された前例はない。 これもやはり明治十年九月二十四日の西南の役最終戦、城山総攻撃における新撰旅団攻撃兵指揮官としての手腕が、陸軍省上層部で高く評価されていたためであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.331)


     尚文は自分でも気がつかないうちに、みずからの才質によって上昇気運をつかみ取っていたのである。 これまでかれを支えていたものは、
     (戊辰の賊徒といわれた汚名を、何とかして雪(そそ)いでやる
     という一途(いちず)な思いにほかならなかった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.331〜332)


     しかし、かれとは対照的に戊辰の年以来の心労により、惜しまれつつ若くして世を去った旧桑名藩士もいた。 元家老の酒井孫八郎
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.332)


     慶応四年(一八六八)一月二十一日、四日市の東海道鎮撫総督軍本部へ桑名藩の世継ぎの君松平万之助−−のちの定教(さだのり)をともなっておもむき、桑名藩国許の恭順を伝えた時、かれはまだ二十四歳の若さであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.332)


     同年十二月、函館へ渡海した孫八郎は、前藩主松平定敬(さだあき)を説得。東京へ出頭させることにも成功した。 桑名藩が十一万石から六万石へと削封されながらも明治の新体制の中に存続することを許されたのは、一にも二にもかれのこの東奔西走によるものであった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.332)


     この大功にょって桑名藩−−のちの桑名県の大参事に選任された孫八郎は、明治五年、桑名県が三重県に合県されて消滅すると、東京へ出て宮内省出仕となった。 明治六年、旧主松平定敬の妹高姫を娶(めと)ったが、戊辰の年に全精力を使いつくした感のあったかれは、この十二年四月十五日、わずか三十五歳にして病没したのである。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.332)


     立見支隊がわずかに死者十、負傷五十を出しただけだったのに対し、清軍側は死者百十、捕虜十六、ほかに小銃百七挺、馬四匹その他を鹵獲(ろかく)されるという惨敗を喫した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.356〜357)


     さらに雪中の討伐行をつづけた立見支隊が鳳凰城へ帰ったのは二十四日のことであったが、立見少将を待っていたのは、
     「樊家台の新戦術
     に対する驚嘆と絶賛であった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.357)


     「閣下、前方左右の高地から優秀な敵に挑戦された場合、すみやかに転陣を図るのが常識的な戦術とされているやに聞き及びます。 失礼ながら、閣下はなぜ全滅の危険を冒してまでして、中央吶喊の新戦術をこころみられたのですか
     「これは、源義経の鵯越(ひよどりご)えの逆落としの応用と聞きましたが本当ですか
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.357)


     従軍記者たちにとりかこまれた時、
     「おれは全滅の危険など冒しておらんし、一(いち)か八(ばち)かの賭(か)けに出たのでもない
     と、立見少将は濃い眉をぴくりと動かして答えた。
     「いいか、諸君。 わが日本兵たちの背丈を平均百六十センチとすると、平原会戦の場合なら敵は百六十センチの的を撃てばよいわけだ。 しかし、樊家台の左右の高地に布陣した清兵たちが中央吶喊に移って谷底に駆け下りた今田大隊を射撃しようとしたとしても、的は百六十センチではあり得なかった。 あまりの高みにおる清兵たちはわが兵たちの軍帽を狙(ねら)って瞰射(かんしゃ)するしかないのだから、的はわずかに直径二十センチ程度の丸にすぎなくなっていたのだ。 練度の低い清兵たちにこの小さな的はとても射抜けまいと思われたからこそ、今田大隊には左右高地の敵は無視し、面(おもて)も振らずに樊家台の本隊へ突撃せよ、と命じたのだよ
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.)


     この新戦術は師団本部が、
     「今後の先例となる戦法である
     と高く評価。山県軍司令官も、独断で開戦した立見少将を叱責(しっせき)することなくおわった。
     そればかりか、野津中将に至っては、
     「立見少将は東洋一の用兵家だ
     と語り、アメリカの新聞『ニューヨーク・ヘラルド』は、かれを、
     「日本随一の戦術家
     と呼んで樊家台の戦いを報道した。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.358)


     これらの反応の中では、野津中将のことばが立見少将にはもっとも嬉(うれ)しかった。 樊家台の中央吶喊は、かれにとっては、中央隊が陽攻を仕掛ける間に左右両翼が突入するという白河口戊辰戦争の官軍の戦法に改良を加えたものにほかならなかった。
    (《闘将伝 小説立見尚文 第九章 樊家台の新戦術》P.358)