[抜書き]『日本の歴史 3奈良の都』


『日本の歴史 3奈良の都』
青木和夫・中公文庫
一九九二年一〇月三〇日 29版
    目次
    国家と百姓
    海東の君主国   秘められた決意   八世紀の遺文   『続日本紀』の編纂   古文書一万二千点   数学と歴史学   全人口六百万   大国唐と小国日本   先進地帯と後進地帯   都は人口二十万   役人のピラミッド
    律令公布
    公布の祝典   詐偽と雑戸   律令の出張講義   庶務もはら新令に依れ   実質作業   編集者群像   編集過程   失われた原典   律の系譜   律五百条令千条   律と令との関係   わずかに一、二をおこなう   父の身代り
    平城遷都
    遷都の詔   遷都の理由   皇居造営   都市計画   武官と土木事業   動員準備   強制雇用   逃亡と餓死   朝立つ群鳥   和風と唐風と   都の一日   娘の願い   平城京その後   発掘技術の発達   発掘開始
    あいつぐ女帝
    女帝の世紀   不改の常典   鞆の音   女帝二代   近親結婚   采女と女孺   内命婦と外命婦   不比等の進出   国司の祠   地方官の監督強化   郷里制の成立   増産の指導   蝦夷と隼人   国郡分置   風土記は報告書   記紀撰上
    貴族の生活
    巨大な財産   五位以上は特別待遇   年俸一億   租税も裁判も   蔭位の制度   唐との相違   都の本邸   家令と資人   別宅通い   貴族の結婚   遺産相続法   長官赴任   旅人と憶良
    郡司の館
    多胡の碑   郡司の特色   神護の自薦状   東人の詫証文   猪手の家族   郡司の邸   郡司の配下   財産づくり
    家族と村落
    正倉院の戸籍   一二〇〇年前の東京都民   郷戸と房戸   擬制か実体か   古代家族の再会   古代家族の形成過程   歪拡大説の登場
    村人の日々
    平出の泉   竪穴住宅にて   土師から須恵へ   夜刀の神   整然とした耕地   班田法の実際   別当収量五十束   賃租という小作   農家の一年   あわれな夫たち   防人とその母   内助の功   奴婢の生活
    和同開珎
    発行前後   銭の鋳かた   放出と回収   流通範囲   遠隔地商人   インフレーション   借金証文   贋金づくり   揚州の鈍隠
    長屋王と藤原氏
    不比等死し、元明崩ず   藤原四兄弟   長屋王の生いたち   不吉な予感   むずかしい民政   佐保のサロン   幼い皇子の死   長屋王自経   光明立后   光明立后の理由   長屋王伝説
    聖武に光明
    天皇観さまざま   聖武の生いたち   帝王学教科書   君主の心構え   光明子の人となり   女性関係から見た聖武   藤原政権の成立   行基、小僧から大徳となる   裳瘡発生   奥羽連絡路開通   百官、疫を患う   防疫対策   玄ムと真備   遠の御門   広嗣叛す   われは大忠臣
    大仏開眼
    恭仁の高橋   あいつぐ遷都   無責任の時代   聖武譲位   国分寺創建   民衆と瓦   華厳の教え   天皇の宇宙観   知識の力   技師長たち   八度鋳継ぐ   陸奥の黄金   開眼供養
    大唐留学
    使人拝命   随員・船員   神社参拝   大使辞見   送別の宴   難波津出帆   東支那海横断   大使、病と称す   長安での春   東畔の第一席   唐朝の待遇   国際結婚   遣渤海使   日本国王に勅す   朝衝と河清   銀鋺の酒   遭難報告
    正倉院宝庫
    校倉の量感   国家珍宝帳   妾の珍財   塵芥から真珠   帰らぬ伝珍   原色的感覚   衲の御礼履   守った人たち
    恵美押勝
    皇太子交代   紫微内相就任   みな、わが甥   あいつぐ密告   人民苦辛す   佐伯全成自経   杖下に死す   国富の十分の五   律令制の後退   墾田と公廨稲   仲麻呂の過去   問民苦使   押勝の趣味   女帝を怒らす   都督使の動員令   覇者の末路
    道鏡と女帝
    僧尼になる方法   学力低下   南都六宗   呪と禅   道鏡の修行   女帝との関係   政刑日に峻し   公私彫喪   乾漆像から木像へ   八幡の神託   穢麻呂と狭虫   八世紀の世界

    年表
    索引
    付図


    国家と百姓

     『続日本紀』の編纂

     記紀につぐ『続日本紀(しょくにほんぎ)』は当代の中心となる史料である。 『続日本紀』、通称続紀(しょつぎ)は、『日本書紀』持統天皇の譲位に筆をとめた後をただちに受けて、六九七年八月朔(ついたち)の文武天皇即位に筆をおこし、天皇にして九代、年月にして九十五年、いわゆる奈良時代を完全におおい、平安遷都三年前の七九一年末、すなわち桓武(かんむ)天皇延暦(えんりゃく)十年十二月に筆をおく。 同じ年に勅令をうけた右大臣藤原継縄(ふじわらのつぐただ)らが、以後七年をついやして、光仁(こうにん)朝にまとめられていた旧案をけずり、その後の記事をあらたに追加して、全四十巻の正史としたのである。 完成献上は、前半二十巻が七九七年(延暦十六)、後半二十巻はその前年だった。 すなわち右大臣継縄が七九六年に没したため、さきに完成していた後半がまず継縄の名で献上され、遺業をついだ皇太子学士(皇太子時代の平城天皇の師)菅野真道(すがのまみち)が翌春前半を献上したのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.8〜9)


     続紀前半と後半とでは、叙述の様相もだいぶ異なっている。 第一、くわしさがちがう。 前半二十巻が孝謙(こうけん)女帝の譲位まで六十一年間の記事をおさめるのに、後半は同じ巻数でその半分の歳月を記述する。 たとえば、もともと数少ない遣唐使の帰朝報告のばあいでも、後半には原報告書をあまりけずらずにのこしている例がある。 つぎに質がちがう。 前半はもと三十巻だったのを圧縮したのだが、けずった理由は「語(ご)に米塩(べいえん)多し」であった。 つまり継縄(つぐただ)や真道(まみち)らにとっては、生活上のことなど史書には記すべきでなく、「声教(せいきょう)」や「勧徴(かんちょう)」、すなわち教育や道徳こそ、歴史に徹して論ずべきだったのだろうが、われわれにはそうはゆかないけずられてしまった記事が今日に伝わっていたら、と思うと残念である
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.9〜10)


     大国唐と小国日本

     ところで、一二〇〇年前の政府には、時の全人口がわかっていたのだろうか。もちろんわかっていた。 七世紀末の持統朝以来、全国の戸籍は六年ごとに作製され、氏名・年齢・性別・続柄まで一人一人について記載した太い巻物(まきもの)が、国司から都の中務省(なかつかさしょう)と民部省(みんぶしょう)にあてて二通ずつ送られていたのである。 さらに租税を課するために、各国の全人口を性別・年齢別に統計した計帳(けいちょう)は、毎年八月末までに都へおくられ、九月上旬にはこれにもとづいて民部省主計寮(しゅけいりょう)が予算を編成していた。この計帳を使うと、当時の全国が六十国ばかりだから、全人口は六十回あまりの足し算でわかる戸籍よりも、むしろ計帳の正確さは、今日でも内閣統計局より税務署のほうが一人一人をつかんで離さないのと同じである
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.16)


     ちなみにいえば、租税のかからぬ人々までふくめて全人口を定期的に調査した政府は、そののち明治維新まで、日本には存在しなかった。 九世紀以後も政府は戸籍制度をつづけたが、六年ごとは十二年ごと、やがて数十年に一度となり、一〇世紀にはもうできなかった。 十六世紀の末に全国を再統一した織豊(しょくほう)政権につづく徳川幕府は、一七二一年から、数年間隔の人口調査を再開したが、それも相手は百姓・町人で、自分たち武士の仲間うちは除外していた
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.16)


     先進地帯と後進地帯

     こんどはA図から人気(ひとけ)のない国々を探してみる。 目につくのは陸奥(むつ)・出羽(でわ)・飛騨(ひだ)・日向(ひゅうが)である大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)も、じつは九世紀から一〇世紀にかけて、出挙稲(すいことう)の割当てが六割かたふえたとわかっているから、さかのぼって八世紀には人気のない国々という仲間に加えなくてはならないだろう。 そうすると、飛騨以外のこれらの諸国は、あたかも蝦夷(えぞ)・隼人(はやと)の居住地に一致する蝦夷・隼人が出挙稲の割当てを受けるような農耕民族になったのは比較的おそく、また、ひさしく大和の朝廷に抵抗しつづけたことも、ひろく人の知るところである。 しかし飛騨もまた、律令制では、調(ちょう)・庸(よう)のかわりに飛騨(ひだ)の匠(たくみ)という大工(だいく)を毎年五十人ばかり都へ送ればよいという特殊な課税区域であった。
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.19)


     国民が水稲耕作にたよらねば生活できないからこそ、耕地を保証する班田収受(はんでんしゅうじゅ)制度が必要になる。班田制がおこなわれるかぎり、租・調・庸などを取りたてて国家財政を維持することができる。 律令制の構造を、こう説明するとすれば、A図はそれを地上に投影した姿である。 すなわち南北の空白に近い部分は律令国家の力が及んでいなかった地方なのである
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.19〜20)


     しかし十二世紀にはいると、奥羽地方には富強をほこる藤原三代の政権が独立し、日向(ひゅうが)・薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)地方には江戸時代までつづく島津氏の権力が芽生えてくる。 それはまた、律令国家のひからびた地図を、北と南から捲(ま)きちぢめてゆく歴史でもあった
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.20)


     都は人口二十万

     もっと正確な計算法もある。 やはり当時の文書を使うのである。 七七三年(宝亀(ほうき)四)春、朝廷は奈良の都の老人たちや〔やもめ〕・孤児など不遇な人々二万人ばかりに、六千余石のモミを配給した賑給(しんごう)といって、この時代にときどきおこなった慈善事業である。 そのときの配給命令書には、百歳が二人、九十歳以上が一〇四人、八十歳以上が九九〇人とある。 これを例の戸籍からつくった全国の性別・年齢別人口統計にあてはめてみると、八十歳以上の老人の全人口にたいするわりあいは一対二三七だから、都の総人口は二十五万弱とでてくる。 また〔やもめ〕や孤児など不遇な人々のわりあいのほうで計算すると、結果は約二十万とでる。 やはり都の人口はおおよそのところ、二十万前後とみるべきであるらしい。
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.21)


     すなわち日本古代の〔みやこ〕とは、みや〕のある〔ところという意味である。 農業から工業などが分かれ、漁業や林業も独立して、人々が自分の作りだしたものをたがいに交換しないと生活ができなくなる時代になれば、交換するための場所、つまり市(いち)ができ、やがて市には人が住みつき、町となって、商業もりたつことだろうが、日本古代の都は、そういうふうに自然に生れてきた町ではない。 大化改新のときの難波(なにわ)の長柄(ながら)、天智天皇の近江大津(おうみおおつ)、天武天皇の飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)、持統天皇の藤原(ふじわら)、どこを取りあげても、天皇が〔みや〕を定めたためにできた〔みやこ〕である。 だから〔みや〕が引っ越すと、大半はぱっと荒れてしまう。 もし自然に生れてきた家族のなかでは男女の数が等しいとすれば、奈良の都のなかで、家族らしい家族を形成しているのは男女それぞれ四万ということになるから、のこりの十二万の男は、都が〔みやこ〕でなくなれば消えてしまう運命にある。 それがどのような仕事をもつ人たちであり、どんなふうに暮らしていたかは、いずれ章を改めて説くとしても、ここに一言、奈良の都の性格を規定しておけば、それは〔政治的都市〕である
    (《日本の歴史3奈良の都 国家と百姓》P.21〜22)


    律令公布

     編集過程

     それでは律令を具体的にはどのように編纂したかとなると、こまかなことはほとんどわからない。 たださきにもいったように、下級の編纂者たちは巻別に担当分をきめてはいただろう。道首名は僧尼令の担当者であったという説もある。 担当すれば、のばあいはまず原稿である浄御原令のその巻の「令文を読習」するだったら、唐律、おそらく六五一年(永徽(えいき)二)に施行された律を下敷きにして「律令を撰修」するできるだけ日本の実状にあうように手を加えてゆけばよいわけである。 そのような作業を「刀筆執持(しつじ)して、科条を刪定(さんてい)する」という。 各箇条に矛盾がないか、落ちがないかを、刀と筆とを持って検討するのである。刀は消しゴムの代りだった(こうぞ)などの厚紙のうえに筆で書いた字を消すには、刀子(とうす)(小刀)でけずりとるよりしようがない。 わたくしも正倉院文書を調査したさいに、刀子でけずったあとをずいぶんみた。 ときには切り貼りも辞さない。 清書のときはきれいになるかというと、かならずしもそうもゆかない。 誤字訂正はもちろん、校正もれもあるからだ。 七三八年(天平十)ころ書かれた大宝令の注釈書には、「本によって文字のちがう条文があるけれどもどちらが正しいか」と議論している箇所がある。
    (《日本の歴史3奈良の都 律令公布》P.43)


    平城遷都

     都市計画

     造平城京司(ぞうへいぜいきょうし)、略して造京司が、立案し実現していった都市計画は、おおよそつぎのようであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.67)


     まず皇居内裏(だいり))を中心とする宮城大内裏(だいだいり))の敷地は、東西・南北各一キロほどの正方形にする。 この宮城を中央北端におく都城平城京の東西は約四・二キロ、南北は約四・七キロの長方形とする。唐の首都長安城の東西約九・七キロ、南北約八・二きめという大きさにはとても及ばないが、大和盆地ではこれがせいいっぱいである。 それでも都城の西部は、菅原(すがわら)から郡山(こおりやま)にかけて南下する丘陵地帯にかかってしまうのであった。 じじつ、『律書残篇(りつしょざんぺん)』という書物によると、都城西側の一部分は最後まで欠けていて、町にはならなかったらしいのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.67)


     つぎにこの宮城・都城のほか、重要な施設のある一画はすべて高く厚い築地(ついじ)でかこむ。 築地は羅城(らじょう)という。羅城には適当な間隔で門をあけねばならぬ。 宮城ならばそれは南面中央の朱雀門(すざくもん)をはじめとし、各面三門ずつの合計十二門である。宮城は十二門というのが、以前からのならわしであった。 門の名にも、たとえば建部(たけるべ)氏の建部門的(いくわ)氏の的門というふうにその門をまもる氏(うじ)の名がついていたから、数をかえようものなら、一騒ぎ起こりかねなかった。 都城のほうは宮城とちがって、これほど大きなものを造った経験がない。 南面中央の羅城門(らじょうもん)のほかに、いったいいくつの門をあけたらよいか。 そのばあい長安の各面三門、合計十二門という例が参考になる。 しかし実際にはどう処理したか。都城の門の名にいたっては、羅城門以外に知られていない。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.68)


     京内での地番、〔ところ番地〕のよびかたは、きわめて簡明かつ合理的だった。南北の大路(いわばアヴェニュ)東西の大路(ストリート)とを組み合せての所在を示し、坊のなかのは宮城に近いほうからいわゆる千鳥式坪並(ちどりしきつぼなみ)という命名法で、一から十六までのナンバーをうつ。 アヴェニュの名は朱雀大路を中央に、左右へ一坊大路から四坊大路まで、外京には七坊大路まで、ストリートの名は北から順に北辺大路、一条北大路、一条南大路、二条大路以下九条大路までとする。 そうするとたとえば、これから引っ越してくる薬師寺(やくしじ)の敷地は、右京六条二坊の七坪から十六坪までに用意したといえば、その位置も、また十町の広さであることも一目瞭然となる。 長安では何々坊と各坊に固有名がついていたし、坊の大きさは不揃いであった。藤原京でも林坊(はやしのぼう)などとやはり固有名でよばれていたらしいので、この命名法は平城京が最初ということになろうか。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.70〜71)


     しかし都市でなく、田園ならば、同じような地割は、すでにおこなわれていた。 大化改新の後、おそらく天武・持統朝のころに、大幅な整理が進んだいわゆる条里制(じょうりせい)がそれである。条里制の里(り)は、約六三三メートル平方なので、約五二八メートル平方である平城京の条坊制の坊(ぼう)より大きいが、条・里〔坊〕・坪をナンバーで呼ぶ点は同じだった。 ただしナンバーで呼びはじめたのはやはり平城京のほうがさきだともいう。 条坊制はもとその地にひろがっていた条里制に影響を受けているのであろうが、なぜ坊を里よりも小さくしたのかという点は不明である。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.71)


     武官と土木事業

     さて、造京司のおもな仕事は、橋梁(きょうりょう)をふくむ道路の建設、河川の改修、羅城の築造の三者だったと思われる。 七〇九年(和銅二年)十一月、もし墓を発掘(あば)いてしまったら埋めなおし、酒を注いで幽魂を慰めよ、という勅が造京司にくだされている。 整地もしたのかも知れない。 ただそれは宮城予定地だけであろう。 予定地は山ぎわなので墓地をかこいこむ可能性が強い。 (じじつ宮城予定地にかつて前方後円墳のあったことが近年の発掘で明らかになった。) しかし京内の一般の宅地などは、整地も井戸掘りも、引っ越してくる寺院や貴族・官人・庶民らの仕事である。諸官庁や官営諸寺院の建築も、造京司にとっては管轄ちがいであった
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.71)


     しかし造営省(ぞうぐうしょう)の長官が古来の武門大伴氏であり、造京司の長官の一人も武人の家の育ちだったのみならず、三人の次官のうちには現職の帯剣寮(たいけんりょう)長官、いわば近衛師団長小野馬養(おののうまかい)が任命されているとは、いったいどういうことなのであろう。 それは当時の国営土木事業の労務者が、全国から強制的にかりだされてきた人々だったためである。 八世紀の末に、参議・正三位にまで昇進した佐伯今毛人(さえきのいまえみし)も、大伴氏とならぶ武門佐伯氏の出であるが、東大寺の造営にさいして人使いがうまかったと、聖武天皇にかわいがられたという。人使いがまずいと、これらの役夫のなかから逃亡者が続出する。まずくなくても逃亡者はでる武装した兵士で、絶えず監視していなければ、土木事業はおこなえず国営の土木事業といえば、武官が加わるのが、ごくあたりまえだったのである
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.73)


     動員準備

     続紀によると、聖武天皇が一時平城宮をすてて、山背の木津川のほとりの恭仁宮(くにのみや)にうつったとき、造営のために動員された役夫は畿内の四ヵ国から五千五百人だったという。 また桓武天皇が平城宮から淀川中流の長岡宮(ながおかのみや)にうつった翌年、造営のために雇用した役夫は延(のべ)三十一万四千人だったという。平城宮や平城京のために何人動員されたかは、そのような記事がなくて不明である
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.73〜74)


     では十月から三月までが閑月(かんげつ)、つまり農閑期とされ、役夫一人について、閑月ならば五十日以内、四月から九月までの要月(ようげつ)ならば三十日以内は、連続して働かせてよいことになっている。 そこでもし閑月六ヵ月の間、継続的に工事を進めるとすれば、役夫を少なくとも三交代させねばならない。 一交代に五十日以内しか使えないからである。 この交代する組は(ばん)・(はん)()などという。 じっさい、軍隊でも労務者でも、先・中・後の三班に分けて編成するのが当時の慣例だった。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.75)


     中央政府は九月上旬まだ、書類の検討にいそがしいので、十月から使いはじめる先番の役夫をださせる国としては、どうしても都に近い国々、いわゆる近国(きんごく)を指定せざるをえない通達がとどくのに必要な日数や、とどいてから国司が役夫を選びだして都まで護送してくる日数を、考慮にいれなければならないからである。『令集解(りょうのしゅうげ)』に収められている大宝令の注釈書『古記(こき)』も、「先番は近国に役し、次は中国、次は遠国なり」といっている。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.75)


     強制雇用

     人数や日付の上に、書きなおされないよう太政官の朱印を一面に押した役夫動員通達書が、馬をのりついできた使いによって各国の国司の手もとにとどくと、国司たちはただちに計帳の原簿から必要な人数を選び出す。 それはまず正丁(せいてい)、すなわち二十一歳から六十歳までの健康な男子のなかからである。 また賦役令は、正丁をとるさいも成人男子の多い戸からとれ、成人男子が同数ならば富んだ戸から順にとれと、こまかく指示している。このさい国司は補欠まで用意しておく。逃げたという通達が中央からきたときに、すぐ代りをさしだすためである
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.75〜76)


     国司の指令は郡司、ついで郡司から里長へとどき、ふつう五十戸からなる里のなかを、ときには笞(むち)を手にした里長が巡回して、いきなりその不幸な正丁をよびだす。 正丁は(ほしよね)(乾燥米)のような携行食を都までの旅の日数だけ用意して集合する。 そこへ国司がきて点検する。 それから都まで、兵士たちの護衛つきで歩いてゆく。 都では工事場に分配される。 分配されてからの食糧は官給である。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.76)


     このような役夫は、近ごろまで、働いている間の食糧も自弁であっていっさい無報酬と考えられてきた。しかし断片的な関係資料を細かく検討してみると、奈良時代には、無報酬だったという実例はみつからない。 また制度上でも、養老の役夫令は唐の賦役令を模倣(もほう)して、歳役(さいえき)という無報酬の強制労働を規定したが、大宝の賦役令では、その条文が少しちがっていて歳役のかわりに(よう)(力代(ちからしろ)ともいう)というを納めさせ、この庸で役夫を雇用することにしていたらしい。 庸の年額は、七〇五年(慶雲二)以来、(こうぞ)の布だと二尺四寸幅で一丈三尺(一尺は今日の〇・九七八尺)、米なら三斗(一斗は今日の約四升)である。 これは正丁(せいてい)一人の分で、十七歳から二十歳までの小丁(しょうてい)ならその四分の一、六十一歳から六十五歳までの老丁(ろうてい)や、正丁の不具疾病者ならば、正丁の二分の一であった。 全国から集まった庸布・庸米民部省・大蔵省の倉庫に分納するが、それから毎年の経常費をさし引いたのこりを、役夫たちの食糧および賃銀として支払うのである。これが大宝律令で開始した、いわゆる雇役(こえき)制度であった
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.76〜77)


     大化改新以来浄御原令(きよみはらりょう)時代までは、庸が少額であったかわりに、食糧も賃銀も与えなかった賃銀はとにかく、食糧のほうは何十日分も肩にかついでこられるものではない。 おそらく、古くから国もとでの権力者であり、役夫徴用の責任をもっていた国造(くにのみやっこ)や郡司(ぐんじ)がめんどうをみたのであろう。国造・郡司の財力が弱まったころあいをみて大宝令を施行し国司の権限を強化して、朝廷は中央集権を一歩押しすすめたのであるが、その一環として、庸を増徴しその庸で役夫のめんどういっさいを中央でみる雇役制度を開始したのであった
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.77)


     逃亡と餓死

     工事現場で配給される食糧は、一日に玄米八合ばかりと塩一勺で、役夫十人につき一人の炊事係がこれを炊(た)く。 雨が降って仕事がないと、食糧は半減される。 病気をしても同様である。 医師は朝廷にも各国衙(こくが)にもいるけれども、天皇や貴族のためであって、役夫には関係がない。 労働時間は、連日朝から夕方まで。 もっとも夏の二ヶ月は二時間ほどの昼休みをくれる規定になっている。官人には六日ごとに休日があるのに、役夫には雨が降らないかぎり休みがない
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.77)


     いちばん心重いのは、国もとを遠くはなれていることだった。 後番で遠国の役夫が同じ工事場に配属されたりすると、東国者と西国者とではことばもろくに通じない。 東国者はコモ(薦)をケメコエダ(小枝)をコヤデチチ(父)をシシナニトセヨ(何と為よ)をアドセロコホシ(恋し)をクフシなどと発音する。 そのうえ奇妙なアクセントがつくのである。といって話の通じる同郷者でも、しだいに信用できなくなる。 ひどい環境が続くと、人はたがいに裏切るようになる
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.77〜78)


     逃出すとどうなるか。 つかまったら捕亡(ほもう)の「丁夫雑匠在役亡条(ていふざっしょうざいえきぼうじょう)」という条文が適用され、逃亡一日につき笞(むち)で三十回ずつたたかれたうえ、現場にひきもどされ、もとどおり働かされる規定になっている。つかまらなくても途中の食糧がない。 食糧があっても、路傍で飯をたくと、近所の家のものがでてきて、なぜおれのところで勝手に飯などたくのだ、とどなる。たまに親切そうなものが(こしき)を貸してやるから飯をたいたらいいといってくれても、ゆだんがならない。 他国者が路を汚(よご)した、甑をこわしたなどといって、祓(はらい)い清めのための物品を強要することが、ざらにあったからである
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.78)


     何十日かの労役が無事に終われば、都へのぼったときと同じように隊をつくり引率者が国もとへ連れて帰る。 しかし途中の食糧は、もうだれも用意してくれないのである。 都で働かされていた間、手に入れる要領を知らなかったものは、隊からつぎつぎに落伍し、飢え死にしていった。 雇役は、その帰途がもっとも悲惨であった。 さすがに見かねた朝廷は、十月にいたってまた勅を発し、沿道の国・郡司に役夫らへ米を売ることを命じた。 帰途の役夫も米を買えるはずの一袋の和同開珍だけは持っていたのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.80)


     都の一日

     河内(かわち)国から供の者をつれてでてきた利苅優婆夷(とかりのうばい)もその一人である。 いつも般若心経(はんにゃしんぎょう)を誦(ず)している彼女の用事は、買物でなく、人に逢うためだった。 先夜、閻魔王(えんまおう)の宮門の前で、黄色の衣を着た三人によびとめられ、三日の後に諾楽京(ならのみやこ)の東市でぜひ逢いたい、といわれたをみたのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.89)


     優婆夷は騒がしい市のなかに終日待っていたが、待つ人たちはこなかった。 夕方、もう市の門の閉ざされる時刻が近づいたとき、いやしい身なりの者が東の門からはいってきて、経を三巻、見せびらかしながら、大声で売り歩いていた。 彼女の前を過ぎてから、売れないままに、市の西の門からでてゆこうてする。 信心深い彼女は、供の者をゃって呼びとめ、経を持ってこさせた。 見ると、昔じぶんが写して、供養を終えないうちに盗まれた梵網経(ぼんもうきょう)二巻と般若心経一巻ではないか。 しかしいわれるままに五百文ずつで買いとった。 三巻の経は、虫がくわないように、黄蘗(きわだ)で染めてあったのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.89)


     この利苅優婆夷(とかりのうばい)の話は、平安初期に薬師寺の僧景戒(きょうかい)が著わした『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんあくりょういき)』に収められているが、景戒は経を売りにきた者を、かつて優婆夷から盗んだ当の盗人だといっている。 平城京の市には、たしかに盗品を売る者もいた。正倉院文書の一通には盗難届があり、それを受理した左京職(けいしき)が東市司(しし)へ回送している事実が注意をひく。 左京六条二坊に住むその被害者は、左大舎人(おおとねり)少属(しょうさかん)で大初位(そい)安拝常麻呂(あへのつねまろ)といった。 大初位下は三十階ある位階の下から三番目だから、典型的な下級官人である。 天平七年(七三五)八月二十八日の夜に盗まれた品は左記のごとくであった。
      の朝服 一。
      葛(ふじ)の布半臂(ぬのかたぎぬ) 一。
      帛(きぬ)の褌(はかま) 一。
      糸抜 一。
      帛の被(ふすま) 一。
      (からむし)の帳(とばり) 一。
      調(ちょう)の布の帳 一。
      被(ふすま)の●(はこ) 一。
      ●:クサかんむりに呂
      緑の裳 一。
      青の裳 一。
      ●(酒器) 一。
      ●:一文字で“金斗”
      赤●(うるし)の真弓 一。●:“染”の字の、「九」が「七」
      幌(ほろ) 二。
     朝服(官人の制服)・布半臂(綿入れの半纏(はんてん))などは、常麻呂自身のものであろうが、緑や青の裳(腰巻ふうのスカート)は、その妻のらしい。貴族ならこれらはみな絹でつくる。 常麻呂夫妻の家にもし絹があれば、盗人はもちろん盗んだはずである
    (《日本の歴史3奈良の都 平城遷都》P.89〜90)


    あいつぐ女帝

     女帝の世紀

     ここで問題は、女性が天皇でも不自由はないのか、ということになるが、戦時は別として、いっこうにさしつかえのないことであったといえる。まつりごと〕(政治)という日本語は本来祭祀(さいし)を意味するのである。 祭りの場の中心に、巫女(みこ)のような、必要とあればヒステリー状態になりやすい女性が欠くことのできない存在だった。 とすると、七、八世紀に、女帝があいついで推戴(すいたい)された理由のうちには、第1巻「神話から歴史へ」で説明されているように、かつて女王卑弥呼(ひみこ)が擁立され、「鬼道(きどう)」に仕えていたという事情と、本質的には同じものがあったと考えてよいことになる
    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.102〜103)


     不改の常典

     文武天皇が病死した翌月(七〇七年七月)ただちに即位した元明天皇の宣命(せんみょう)は、例によって、
       「現(あき)つ神(みかみ)と大八洲(おおやしま)しろしめす倭根子天皇(やまとねこすめら)が、詔旨(おおみこと)らまとのりたまう勅命(おおみこと)を、親王(みこ)たち・王(おおきみ)たち・臣(おみ)たち・百官人(もものつかさのひと)たち・天(あめ)の下の公民(おおんたから)、もろもろ聞こしめさえと宣(の)る・・・・・・
    という調子の長々しい荘重な前置きから始まり、即位の理由におよぶ
       「持統天皇が、その御代の十一年八月に、故草壁(くさかべ)皇太子の嫡子、文武天皇に位を譲られたのは、さきの天智天皇が、『天地とともに長く、日月とともに遠き、改むまじき常(つね)の典(のり)』とたてられた法を守られたためである。 しかしその文武天皇も、去年の十一月に病気のために、母である私に位を譲りたいといいだされ、そのときは辞退もうしあげたが、その後もいいつづけられて、ついに今日にいたってしまわれた・・・・・・

    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.103〜104)


     どうも宣命という、古来の日本語による詔勅は、非論理的で訳すのに苦労する。主語が紛失するのは珍しくもないとしても、間接話法かと思うと、直接話法である。 わたくしたちはいちいち主語を挿入し、点や丸や引用符号をつけながら読まなくてはならない。 語法に慣れれば、同じ日本人であるから、カンで主旨は汲みとれるが、それでも、学界でいまだに論議の対象になっている部分が、『続日本紀』の引く六十あまりの宣命のうちに何ヵ所もある。
    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.104)


     ともかく、このときの宣命の主旨は、元明天皇も不改(ふかい)の常典(じょうてん)」を守って即位する、ということであった。天智天皇が定めたというそれが歴史にみえるのは、このときが最初である。 歴代の宣命を『歴朝詔詞解(れきちょうしょうしかい)』という書物で注釈した本居宣長(もとおりのりなが)は、これは近江令(おうみりょう)を指しているのだろうといった。 つまり近江令のなかに、明治時代の皇室典範(こうしつてんぱん)のような、皇位継承についての規定があったのだろうと考えたわけである。
    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.104〜105)


     それにしても、元明天皇のような嫡子でもない女帝が、即位のさいにわざわざ「不改の常典」を持ちだしたことは、なぜであろうか。 宣命のなかではなにも断わってはいないのであるが、それには意味があった。 「不改の常典」によれば、文武天皇の嫡子首(おひと)皇子が即位するのが当然ということになるが、なにぶんにも当年七歳である。 だから首皇子が成年するまでの中継(なかつ)ぎの天皇古い言葉でいえば「仲天皇(なかちすめらみこと)」として、やむをえずじぶんが即位するという意味である。 いわば即位にさいして、首皇子の皇位継承権をあらためて強調したようなものであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.105〜106)


     采女と女孺

     采女になるのは、全国各地の郡司の姉妹や娘であった。 大和朝廷の昔、郡司の祖先の国造(くにのみやっこ)たちが朝廷に服属したときに、人質として取られたのが起源といわれているが、天皇・皇后・皇子たちの身のまわりの世話をしていればいろいろいいことがあるわけで、このころにはもう義務でなく権利になっていた大化改新の詔もすでに、形容(かお)の端正(きらきら)しい者を貢(たてまつ)れと、朝廷側から要求しているほどである。大宝の賦役令(ふやくりょう)では、一般国民から納める庸(よう)で彼女らの衣食をまかなうことにしていたが、庸の●(あしぎぬ)や布(ぬの)などは粗末すぎて、とても彼女らの着物にはならなかったらしい。 七〇五年(慶雲二)には、采女肩巾田(うねめのひれのた)というのを復活して、必要経費にあてることにした。 この田は諸国にあったというから、采女たちの親もとの郡司に貸与して、その収入を仕送りにあてさせたと思われる。 もちろん親兄弟としては、それ以外にもできるだけのことはしただろう。 なにしろ有名な大友皇子をあげるまでもなく、天智・天武天皇の皇子・皇女のうちにも母親が采女であるケースが少なくなかったことは、知れわたっていたからである。 ただ大宝の後宮職員令天皇の配偶者を妃(ひ)二人・夫人(ふじん)三人・嬪(ひん)四人と制限している(皇后については明文がない)。妃は皇女、夫人は貴族の娘というように身分もきまっていたので、采女あがりなら嬪にしかなれないわけであるが、文武天皇のばあいだと夫人が藤原氏一人、嬪が石川氏と紀氏から一人ずつであって、嬪も貴族出だった。 この二人の嬪には子がなかったので七一三年には嬪の資格を剥奪された。藤原氏の運動とみられている
    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.112〜113)


     風土記は報告書

     郷里制の(ごうりせい)の採用にしても国郡の分置にしても、地方行政の徹底は実態調査にもとづかなくてはならない。 今日抄本(しょうほん)として、あるいは一部分が散逸しながらも、どうにか当初の姿をのこしている播磨(はりま)・常陸(ひたち)・出雲(いずも)・豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)五ヵ国の『風土記(ふどき)』は、実は当時の朝廷の調査命令に応じて全国の国衙から提出された分厚な解文(げぶみ)、すなわち報告書なのである『風土記』とは、同様な内容の書物を中国でそう呼んでいたため、後世名づけられたにすぎない。 はじめてその名が史料にみえるのは、九一四年(延喜十四)三善清行(みよしのきよゆき)が書いた「意見封事(いけんほうじ)」の中である。
    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.130)


     さて七一三年(和銅六)五月二日に発せられた調査命令の内容は次のごとくである。
     「郡(ぐん)・郷(ごう)の名は、今後好もしい漢字二文字で表記するようにせよ。 また所管の国内に産する有用な鉱物・動物・植物や、土地の肥えているかいないか、山川原野の名の由来、古老の伝える昔話などは、すべて採取し、書物として進上せよ
    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.130)


     郡・郷名に好字をえらぶのはもちろん、諸資料の収集も容易であった。 管内の郡司たちを動員すればよいのである。 問題はその資料、たとえば古老の物語を、郡の高官や学者にみられてもはずかしくない文章にする点にあった。 国司はみな都に育った貴族である。 公文書の作製には慣れている。 だがたんなる事務報告でなく、文学的な表現が要求されるとなると気が重い。 当然、まもなくその分厚な解文を提出しえた国と、交代の時期が過ぎても書きなやんでいる国とがあることとなった。
    (《日本の歴史3奈良の都 あいつぐ女帝》P.130〜131)


    貴族の生活

     五位以上は特別待遇

     官人にたいする給与は、田令(でんりょう)・禄令(ろくりょう)などに、官人のもつ位階と官職とに応じて規定されていた。 それを表にして見ると、三位と四位の間、五位と六位の間に、線を引くことができる。 つまり、四位、五位の両者には、三位以上の位封(いふう)のかわりに位禄(いろく)が支給されているが、六位以下には位禄もないのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.135)


     位封と位禄のちがいは、位封職封(しきふう)など封戸(ふこ)を授けられた三位以上の封主(ふうしゅ)が、それら封戸のある国の国司から、封戸の納める(そ)・調(ちょう)・(よう)など現物納の租税を、そのまま受け取ることになっているかわりに、四位、五位にたいしては●(あしぎぬ)(調として納める目の粗い絹)・綿(木綿(もめん)でなく調や庸として納める楮(こうぞ)わたや〔まわた〕)・(ぬの)(麻や楮で作った調の布)・庸布(ようふ)(調布と同じ品質だが、庸としてはほぼ四分の一の長さを納める)など租税の現物そのものを大蔵省の蔵から支給することにしたものにすぎない。といっても、大蔵省に召使いなどをやって、きまりきった額のそれらを受けとってくるのと、封戸のある国の国司が、今年はこれだけ取れました、と送りとどけてくれるのとでは、気分がちがう。 気分ばかりではなく額も大幅にちがうし、だいたい封戸ならば租もその半分は封主の手にはいるのに、位禄ではもらえないのである
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.135〜137)


     租税も裁判も

     官人は一般に租税を免除されるが、その程度は上と下とでやはりだいぶちがっていた。賦役令(ふやくりょう)の規定によると、三位以上では、本人はもちろん、祖父から兄弟や孫まで、調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)など課役(かえき)(賦役(ふやく)ともいう)のいっさいが免除になり、四位、五位では免除の範囲が本人とその親子だけとせばまり、六位以下の官人および衛士(えじ)や防人(さきもり)のような兵士の一部、仕丁(してい)や帳内(ちょうない)・資人(しじん)ら官庁・官人の使用人ならば本人だけが課役免除になる。 官人でも初位(そい)という一番下の位のもの、地方の里長や軍団の軍団長から兵士まで、あるいは大学寮の大学生、国学の博士・医師・学生などは、調(ちょう)だけ取られる。 また藤原京・平城京の各坊(ぼう)の長や、東市・西市の価長(かちょう)という物価統制係などが免除されるのは、雑徭だけである。
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.140)


     租(そ)は田の種類によってちがう職田公務のための支給とみられ、不輸租(ふゆそ)とされていたが、位田(いでん)・口分田(くぶんでん)などのように、一生のあいだ個人的に用益しうる田は、租をとられた。 それに租は国有地の使用料のように低額でもあったから、日本の律令制にかんするかぎり、租は租税のうちに数えるほどのこともないとわたくしは思っている
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.140〜141)


     ところで、高位・高官の特権は、以上のような経済の方面だけではない。 裁判にもおよんだ。 三位以上は「律令公布」の章にあげた六議(りくぎ)のなかの議貴(ぎき)に相当し、流罪以下ならば一等級減刑し、死罪でもとくに念をいれて、天皇に連絡しながら審議することになっている。三位以上の祖父母から伯叔父母(おじおば)・甥姪(おいめい)をふくめ子孫までは、四、五位の本人と同じ扱いで、(ぎ)に準ずる(しょう)という特典があり、四、五位の祖父母から子孫までと六、七位の本人とは、請に準ずる(げん)の恩典があった。だいたいのところ、請は減刑嘆願減は機械的な減刑と考えてよい
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.141)


     議(ぎ)・請(しょう)・減(げん)より有名なのは(しょく)という特権であった。銅を納めて罪を贖(あがな)うのである。 銅の重量は笞刑十のかわりに銅一斤を納めるというのからはじまって、死刑にたいする二百斤まで二十の段階があったが、この贖銅(しょくどう)が許されるのも八位以上の父母・妻子と限られている。官人たる本人は、官職や位階を剥奪されることが、罪の贖いであったこうなると、よほど低い官位しかもたぬか、ひどい罪を犯さぬかぎり、実刑を科せられそうにない。もともと中国では、士・大夫は礼によって律すべきで、礼のわからぬ庶民が法網の対象だと考えられていたのであるが、律令制度はそのような考えかたを基礎にして成り立っている。
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.141)


     都の本邸

     藤原京や平城京で、官位の高い官人ほど、広大な宅地を配給されたことや、その宅地に建てられた数多い建物に、和風唐風の二種類が混在していたらしいということなどは、「平城遷都」の章で記した。 瓦葺(かわらぶ)きで柱は赤く、壁は白く塗ったその唐風の建物が、もし寺院建築を模倣したとすれば、窓には障子紙(しょうじがみ)が張ってあったかもしれない
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.144)


     日本霊異記の伝えるところだが、難波の百済寺(くだらでら)で、ある夜遅くまで窓に灯影の明滅する僧房(そうぼう)(僧の個室)があった。 慧義(えぎ)という僧が通りかかって、あやしいぞと、指先をなめ窓の紙に穴をあけてのぞいてみた。 と、油の皿に火がともっているのではなかった。 僧房の主の義覚(ぎかく)が端座して、般若心経(はんにゃしんぎょう)を一心にとなえている。 となえるごとに、光がかれの口のなかからでていたというのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.144)


     窓はともかく、和風の建築でも唐風のでも、天井・襖(ふすま)・畳はまだいっさいないから、冬などずいぶん寒かったであろうは使ったらしく、仏事用の香炉や香を衣服に薫(た)きしめるための薫炉のほか、白石(はくせき)の火舎(かしゃ)とよばれる直径四十センチほどの円型の火鉢が正倉院にのこっている。 五本の脚は銅製で、獅子が立ち上がって白石つまり白大理石製の火舎を支えているというデザインである。唐からの輸入品かという。ただ住宅建築の遺構には暖を取るための炉が切っていない。 貧しい農民の住む竪穴住宅には、炊事にも兼用するにせよ、床に炉が切ってあるのがふつうである。
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.145)


     食事は天皇以下庶民にいたるまで、当時は二回がふつうであったとされている。のは朝廷への出勤が早いから、簡単だったらしい。 平安時代の天皇でさえ、朝餉(あさがれい)には、干飯(かれいい)、つまりあらかじめたいた飯湯漬などにしてかきこんでいたといわれるくらいである。 しかし正式な食事になると、かなり多くのご馳走がでたらしい。 野菜・海草・魚貝類・鳥獣の肉など、料理の材料は、文献にひとそろいみえている。 ただ魚貝類は、都が海から遠いので、ほとんど乾物や塩辛の類でしか食べられなかったらしい。 仏教の殺生禁止が、ときどき詔勅に取りいれられているけれども、そのときかぎりで日常生活には影響しなかった。 貴族などは、禁令がでたと庶民に知らせるだけで、じぶんは平気で肉食していたようである。
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.145〜146)


     別宅通い

     六月一日の休暇に一泊旅行をしようというのであれば、友人の田荘へでも遊びにゆけるのだが、日帰りで貴族たちが遊びに行ったのは春日や佐保のあたりであった。 『万葉集』には、そのあたりを詠(よ)んだ歌が少なくないが、ときには運の悪いこともあった。 巻六の作者不明の歌とその注は、つぎのごとくである。
      梅柳(うめやなぎ)過ぐらく惜しみ佐保の内に遊びしことを宮もとどろに
      右は七二七年(神亀四)正月、皇族・貴族の青年たちが、春日野に集まって、打毬(ぎっちょう)(ポロ)を競っていると、突然春雷がとどろき雨になった。 ところが宮中では、侍従(じじゅう)や内舎人(うどねり)をつとめていた青年たちが一人もいなくなったことが雷雨のために暴露して、大事(おおごと)になってしまった。 勅あって一同は授刀舎人寮(たちはきのとねりのつかさ)に禁固されてしまい、外へでられらくなった。 私もその一人なのだが、うんざりしてこの歌をつくった
     皇族・貴族の子弟が昼間遊びにゆくところは山野だが、夜遊びにゆくのは若い娘の家である。
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.151〜152)


     貴族の結婚

     この時代の貴族も、何人もの妻を持っていたことは、いうまでもない。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の昔から、「大人はみな四、五婦、下戸もあるいは二、三婦」といわれていた国がらである。 中国人は、倭国にはきっと女性が多いのだろうと、うらやましがってさえいた
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.152)


     貴族のばあいは、結婚が政略に役だつので、正妻は親がえらぶ。 たとえば右大臣藤原不比等は、長男に右大臣の娘、次男に皇族の娘、三男には別の右大臣の娘をもらっている。しかし息子は、また思い思いの若い娘のところにも通う。 宮中で探すこともあろうし、路上で拾うこともある
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.152)


     制服に制約されぬ路上でも、貴族の若者たちは長安の流行などをまねたがる
      白銀の目貫(めぬき)の太刀をさげ佩(は)きて、奈良の都を練(ね)るは誰(た)が子ぞ(神楽歌(かぐらうた))
     年ごろの娘を持った親は、これに目をつける
      我家(わいへ)は帷帳(とばりちやう)も垂れたるを、大君(おおきみ)来ませ婿(むこ)にせむ
      御肴(みさかな)に何よけむ 鮑(あわび)・栄螺(さざえ)か石陰子(かせ)よけむ(催馬楽(さいばら))
     私の家は間じきり用の几帳(きちょう)なども用意してあり、家族の者から見えないようにいたしますから、どうぞお寄り下さい、娘の婿になっていただきたいのです、というのが前半の意味だが、その後半は、紳士淑女ならば、口にするのがはばかられる意味である。 当時はいわゆる紳士淑女などはいなかったから、貴顕の士も酒を飲んでは大声にこの歌を合唱した
    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.153〜154)


     長官赴任

     有名な酒を讃(ほ)むる歌十三首も、在任中の作であった。 わたくしの好きな三首を挙げたい。
     (しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべくあるらし
     (さか)しみと物いふよりは酒飲みて酔泣(あひなき)するしまさるたるらし
     あな醜(にくし)(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る

    (《日本の歴史3奈良の都 貴族の生活》P.158)


    郡司の館

     神護の自薦状

     しかし朝廷としては嫡系主義という安易な道から平凡な候補者があいついで送られてくるのは、国司と郡司クラス地方豪族との不和同様に、地方行政上おもしろくない。 そこで七三五年(天平七)には、国擬(こくぎ)(国司が式部省に推薦した者)にそえて、大化改新以来郡司をだした家から四、五人の候補を選んでいっしょに送ってくるようにと命じた。 式部省が選抜試験にのりだしたのである。 また、その四年後には、郡司の定員は多すぎる、国費のむだ使いだといって、へらすことにしたばかりか、成績不良ならいつでも解任する、と全国の郡司を脅かし、さらに七四二年(天平十四)には、郡司候補の推薦には国司の全員が立ちあうこと、情実による推薦があったら処罰する、と国司にいい渡した。どうも国司と郡司のなれあいがあったらしい
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.168〜169)


     郡司の邸

     そもそも一戸に百人いようと、それは戸籍という公文書の上で一戸にまとめられているだけのことであり、大宝令の注釈書『古記』のことばを借りれば、「一戸の内、たとい十家あるも、戸をもって限りとなす。 家の多少は計らざるなり」である。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.177)


     財産づくり

     郡司になるともうかるか、損するか。 いまのところ、もうかるという説が有力である。 それは郡司本人が役得を平気でする人物か否かにもかかっているけれど、多少の役得はできる仕組みになっていた。 また郡司のみならず官人一般の汚職を禁止する律はあったが、他方では重職であればあるほど収入が多いのは当然だという考え方が古くからあった。 郡司についてではなく、中央の高官にたいしてであるが、大化改新の詔にはすでに、  「よくその治を尽すときは、すなはち民これに頼る。 故にその禄(ろく)を重くすることは、民のためにする所以(ゆえん)なり」 といううまいことばがある。 じぶんの収入を増加させるのも民のためなのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.180)


     そこでどうするかといえば、いろいろ方法があった。 まず朝廷が貧民のために借貸(しゃくたい)という無利息の稲の貸出しをするさいに、郡司は国司や郷長と結託して、いちはやく借りてしまうのである。 これをあとで農民に利息を取って貸す出挙(すいこ)とすれば、利息が浮く。 また国司よりも郡司のほうがずっと地方民に身近でもあるから、徭役(ようえき)の徴発などは郡司が郷長とともに担当する。 そこにも私利をはかる余地がじゅうぶんある。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.180)


     郡司自身が公務に多忙であれば、が財産を管理する。あくどいやりかたでその財産をふやしたために、日本霊異記で説教の題材にされてしまったのは、讃岐(さぬき)国美貴(みき)郡大領外従六位上小屋県主宮手(こやのあがたぬしみやで)の妻である。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.181)


     彼女は田中真人広虫女(ひろむしめ)といった。 八人の子供を生み、馬・牛・奴・婢・稲・銭・田・畠など財産が豊かであった。 しかし生来信仰心がなく、つっけんどんで、なにか物や金を寄付するなどということとはおよそ縁のない人だった。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.181)


     自宅で酒を作って売るのはいいが、売るときには水をまぜる。 穀類を貸すさいは小さな枡(ます)を使い、返してもらうときは大きな枡で受ける。 出挙(すいこ)のときも、稲を計る秤(はかり)を使いわける。 利息の取りたてもいたってあこぎで、元本を十倍、百倍にして、あくまで要求する。 多くの人々がそのために家を捨てて逃げだし、他国にさまようしまつであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.181)


     広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日から病床につき、七月二十日には夫と八人の男の子を枕頭に集めて、見た夢のことを話した。
       「閻羅(えんら)(閻魔(えんま))王の宮殿に召しだされて三種の罪をいい渡されました。 『一つは、寺の物をいろいろ使ったのに礼をしなかった罪。 二番目は、酒に多くの水をまぜながら高く売った罪。 三番目が、秤や枡を二種類持ちだし、他に貸し与えるときは七目(ななめ)のほうを使いながら、取りたてるときは十二目のほうを使った罪。 以上の罪でお前をよびだしたのだ。 その報いを受けて来い』と
     そう語り終えると、広虫女は息絶えた。 遺骸(いがい)は七日間、焼かずに置き、坊さんを三十二人招いて七七、四十九日の法会(ほうえ)を営むことにした。 ところがその七日目のゆうがた、棺のふたが自然に開き、遺骸が生き返ったらしいので、一同が棺の中をのぞいてみると、まずその臭さといったらない。 そして腰から下は人間のままだが、上半身は牛で、額に四寸ほどの角が生え、両の手も牛の足、爪は牛のひずめになっている。 供えた飯はきらって草を食べ、食べ終わると反芻(はんすう)する。 体は裸のまま、糞(ふん)にまみれて寝ころんでいる。 このありさまはたちまち近隣に知れわたり、人々は馳(は)せ集まってきて見物しようとし、人垣をつくったほどだった。 夫の大領や子供たちはみな恥ずかしくてたまらず、地に身を投げて仏の加護を求めた。 そして願を立てて、美貴(みき)郡の三木寺(みきでら)に家のなかのさまざまな財物を寄進し、東大寺には牛七十頭、馬三十匹、墾田二十町、稲四千束を寄進したばかりか、物を貸した他人には返済をみな免除した。 国司や他の郡司たちが、遺骸の生き返って以来の不思議なありさまを、報告書にして太政官に提出しようとしたのはそれから五日目だったが、その日に怪物の広虫目は改めて死になおした。 国郡こぞって大騒ぎになり、因果の恐ろしさを思わないものはなかった。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.181〜183)


     死後、閻魔に呼びだされ、生前の罪を数えられたあげく、この世へもう一度生き返らされて始終を語るという筋書きは、霊異記の好んで使うところだし、けちや強欲の罪もよく説教の種になっているが、郡司の妻の商売ぶりや、その財産の内容はかなり具体的で珍しい。 しかし郡司級の地方豪族が農業を営むかたわら、出挙(すいこ)といわれた高利貸で、一般庶民からしぼり取っていた事実は、そのやりくちまではともかくも、他の史料でもいちおう知られている。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.183)


     都を建てた当時の意気はいつか失(う)せ、郡内の人々の間の貧富の差は開き、有力者に依存しなければ生活しえない階層が増加するにつれて、律令国家の支配体制の基礎のゆらぎは、はなはだしくなるのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 郡司の館》P.183)


    家族と村落

     正倉院の戸籍

     正倉院文書(しょうそういんもんじょ)のなかの戸籍(こせき)や計帳(けいちょう)は、八世紀の村落や家族を研究するさいに、もっとも基本となる史料である。 しかし原本(げんぽん)は、他の御物(ぎょぶつ)とともに勅封(ちょくふう)になっているので、手にした人はきわめてすくない。
    (《日本の歴史3奈良の都 家族と村落》P.184)


     当時、九州大学教授だった竹内理三(たけうちりぞう)氏を代表とする戸籍計帳研究会の一同十人に、戸籍・計帳の原本を調査する許可がおりたのは、一九五八年(昭和三十三)のことだった。 かねて正倉院事務所長の和田軍一(わだぐんいち)氏(十三ページ写真)に、「おおやけにみとめられるほどの研究組織ならば、毎年秋の御物曝涼(ばくりょう)のさいに便宜をはかろう」といわれていたので、研究会は文部省の科学研究費の交付を受けてから原本調査を申請していたのであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 家族と村落》P.184)


     茶色がかった横じまの●紙(ひょうし)をひらくと、強いが深いかおりが一瞬流れた。 正倉院の御物には、特製の高価な防虫剤が使われると聞いていた。●紙につづいて、千二百余年前の紙があらわれてくる。 意外に新しい。 こころもち黄ばんだ感じは紙質のためであろうが、張ってしばらくした障子紙に似ている。 あれよりは薄いが、腰ははるかに強そうである。(●(ひょう):“標”の木偏部分が衣偏)
    (《日本の歴史3奈良の都 家族と村落》P.185)


    村人の日々

     夜刀の神

     古老の話である。継体(けいたい)天皇の御世(みよ)に、箭括麻多智(やはずのまたち)という人がいた。 郡家の西の谷の葦原(あしはら)をきりはらって、墾田にしようとすると、夜刀(やと)の神が群れ寄って妨害した。 (土地の者は、蛇のことを谷(やと)の神といい、頭に角が生えているといっている。 この神に襲われて逃げるときに振りかえったりしようものなら、一家一門が死に絶えてしまうそうである。 ともかく郡家付近の野原にはが多い。) 麻多智(またち)は猛然と怒り、甲冑(よろいかぶと)を着、仗(ほこ)を取って、打ち殺し、追いやった。 そして山に入る道の堺の堀に標杖(しるしのつえ)を立てて夜刀の神に宣言した。
     「ここから上は神の地とし、下は人の田とする。 これから私は神の祝(はふり)となって、永久にうやまいまつろう。 願わくは、たたったりうらんだりしたまうな
     かくて麻多智は十町あまりの田を開墾し、子孫もみな神主の仕事をついだ。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.208)


     その後、孝徳天皇の御世にいたり、茨城国造(うまらきのくにのみやつこ)を勤めていた壬生連麻呂(みぶのむらじまろ)は、この地の谷の入口に堤を築き、感慨用地とした。 時に夜刀の神は池辺の(しい)の木に昇り、集まって去らなかった。 そこで麻呂は大音声(だいおんじょう)で叫んだ。
     「この池を築いたのは、民を活(い)かすためだ。 民を活かせとの天皇(おおきみ)のみことに従おうとしないおまえらは、いったいなんという神なのか
     また堤を築く民たちにも命じた。
     「虫だろうが魚だろうが、仕事の妨害になるものは、目につきしだい、はばかり恐れることなく、かたはしから打ち殺せ
     こういい終わったその時、夜刀の神たちは姿を消した。 今その池は、椎井(しいい)の池とよばれている。 池のほとりには椎の木が多いし、また池のなかからは清水が泉となって湧いているので、椎井というのである、と。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.208)


     この『常陸風土記』のなかにでてくる椎井の池は、わたくしたちに平出の泉を想いおこさせる。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.208)


     それにしてもこの話では、天皇の権威を背におう国造(くにのみやつこ)級の地方豪族と、村民のなかの有力者と、一般村民との三階層の自然にたいする意識の差が、きわだっている。壬生麻呂(みぶのまろ)にとっては、蛇は蛇以外のなにものでもなかったが、箭括麻多智(やはずのまたち)にとっては、いわば交渉の相手であり、さらに村民にとっては、蛇はおそろしい神だったのである。 ここに、もし国司として赴任してきた郡の貴族が登場したら、一般の村民との意識のへだたりは、どれほどだったのであろうか。 いま引用した話のなかの( )の部分は、風土記の筆者が加えた注であるが、その筆者には、原撰者として和銅のころの国守石川難波麻呂(いしかわのなにわまろ)、完成者として養老のころの国守藤原宇合(ふじわらのうまかい)とその配下で高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)らが擬せられていることは、すでに述べた。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.208〜209)


     班田法の実際

     条里制は、律令国家の土地制度の基本である班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)にとって、必要な前提だった。 一つには、班田法も耕地割換(わりかえ)制度の一種である以上、地積に規格を必要としたからだが、それよりもっと大切なことは、班田収受のさいの原簿となる田籍(でんせき)に、一人一人の田の所在と面積とを明確に記載しなければならなかったためである。もし条理制がなかったならば、田籍の記載はどれほどめんどうになったことであろうか。 あるいは班田収受も定期的にはおこない得なかったかも知れないとさえ、思えるのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.212)


     さて田令(でんりょう)にみえる班田法の諸規定は、ひろく知られているように、北魏(ほくぎ)から隋(ずい)・唐(とう)にいたる中国の均田法(きんでんほう)を模範としたものだが、律令の定める諸制度のなかでは、もっとも国民の生活に関係が深く、したがって国家の存立にかかわるものであったから、比較すればかなりのちがいが見いだせる。 まず口分田(くぶんでん)として、満六歳以上の良民の男子には二段(約二十一アール)、女子にはその三分の二である一段百二十歩、賤民の奴・婢には良民の男・女のそれぞれ三分の一を班(わかち)給(たま)い、本人が死ねば収公する、という規定が班田法の骨格であるが、これらの斑給基準は日本独自にきめたものである。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.212)


     農家の一年

     固い大地を耕すには、鉄製の〔くわ〕や〔すき〕が使われる。大宝令では、官人の給与の一部に(〔くわ〕とも〔すき〕とも読める)を加えているので、鉄製農具はまだ貴重だったような感じがするが、考古学的には朽ちた〔すき〕頭や〔かま〕の刃の出土例が多く、八世紀には相当普及してしたとみわれる。 〔くわ〕一挺の価格も、八世紀後半の平城京の市では、現量にして米三升ばかりであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.219)


     いま、鍬を〔くわ〕とも〔すき〕とも読めるといい、〔すき〕頭の出土例が多いといったが、考古学者のうちには、くわか〔すきかの区別は、なかなかむずかしいという人もある。 つまりおなじような鉄製の刃先をつけても、刃と柄(え)を直角や鋭角にすれば〔くわ〕になり、正倉院の「子日手辛鋤(ねのひめてからすき)」のように鈍角につければ、〔すき〕になるのではないかという。 もちろん〔すき〕のばあいは、耕土に突きこむので刃先はとがっている必要があり、〔くわ〕は耕土をひきおこすので、むしろ刃先は角ばっていたほうが実用的だというちがいはある。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.219)


     耕起した田には種籾(たねもみ)をまく。 あらかじめ苗代(なわしろ)で育ててから田植えをするという方法も、直播(じかまき)のほかに、古くからおこなわれていた。直播法が一般農民の間で依然としておこなわれているのに、貴族・豪族たちは苗代法という新しい栽培法を開始したなどとは、考えないほうがよい。 直播か苗代かは、主として土地の気候や灌漑(かんがい)の条件によると思われる。 すなわち秋の早い地方では、早稲(わせ)を選ばなくてはならないが、また春も遅いから、苗代でないと苗が育たない。 また灌漑用水の乏しい地帯でも同様である。 幼い苗は苗代の水で保温される必要があるためである。直播大量の種籾(たねもみ)を必要とするけれども、田植えで根が痛められるという心配がなく、一般に生育がいいとされ、むしろ大規模な農園に好適なのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.219〜220)


     稲が育ってくる夏は、稗(ひえ)など雑草を抜かなくてはならない。
      水を多み高田(あげ)に種播(ま)き稗を多み択櫂(えら)ゆる業(なり)そわが独り寝(ぬ)る
     「水の多い上手(かみて)の田に種籾を播いたら稗も多くなってしまった。 稗抜きをひとりでしたように、家へ帰っても私は膝をかかえて寝てるんです
      衣手(ころもで)に水渋(みしぶ)つくまで植ゑし田を引板(ひきた)わが延(は)へ守(まも)れる苦し
     引板は鳴子(なるこ)である。「苦労して植えたうえに、実ってくれば鳴子の番をひとりでしなくてはならない」というのだが、男性の気を引いてるようなこの歌の作者は新羅(しらぎ)人の尼(あま)さんである。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.220)


     秋の収獲には鉄〔がま〕を使う。根刈り穂首刈りの両方があるが、どちらにするかでその後の作業がことなってくる。根刈りならば、藁(わら)が俵(たわら)にも寝床の敷藁にも利用できるけれど、まず脱穀(だっこく)、ついで脱●(籾殻をとる)と、米にするまでには二度手間がかかる。 穂首刈りならば、木臼(きうす)にいれて竪杵(たてぎね)で舂(つ)くと、一度に米がとれる。 しかし保存用には、籾でないと保(も)たないので、たとえば田租(でんそ)としては(もみ)(籾)で収納し、出挙(すいこ)などには穎稲(えいとう)(穂首刈りの稲)をあてた。種子には穎稲のままにしておかないと、早稲(わせ)か晩稲(おくて)かという品種の区別をつけにくかったようである。
    ●:“禾孚”で一字。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.220〜221)


     収獲の後には、春の祭と同じような、神にたいする感謝の祭があった。
      誰(たれ)そこの屋(や)の戸押(とお)そぶる新嘗(にふなみ)にわが背(せ)を遣(や)りて斎(いは)ふひの戸を
     「だれですか、戸をノックするのは。新嘗(にいなめ)の夜祭に夫がでかけたので、家のなかを清めて留守しているというのに」という歌だが、夫の留守をねらう不信心者もいたらしい。 朝廷では、九月に神嘗(かんなめ)の勅使を伊勢に送り、十一月には相嘗(あいなめ)のために、大和や紀伊の大きな神社から神主たちが神祇官幣帛を受取りにくることになっていた。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.221)


     冬は、男たちがたびたび搖役に駈り出されるし、女たちも織物や衣服のつくろい以外に、当時は五斗(現量約二斗)入りだった俵を編んだり、皹(あかぎれ)の手で米を舂(つ)いたりで、けっこう仕事があった。
      稲舂けば皹(かか)る吾が手を今夜(こよひ)もか殿(との)の稚子(わくご)が取りて嘆かむ
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.221)


     振りかえってみると、独りで働いているという歌をいくつも引いてしまったが、もちろん、どれも「私は独りだ、淋しい、苦しい」と相手に歌いかけている、いわば合唱の場を前提にした労働歌なのである
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.221)


     あわれな夫たち

     『万葉集』には、妻が夫を思う歌が、いくつも収められている。 つぎの歌の発想は、「あいつぐ女帝」の章に引いた「信濃路(しなのじ)」の歌に似ているけれども、こんどはもっと泣かせる。 つまり妻が夫にむかって、「あなたも他人(ひと)なみに馬で旅をさせてあげたい。 母の形見ですけど、この鏡と領布(ひれ)で馬を買ってください」というと、夫は、「二頭は買えないのだから、ぼくが馬に乗ったら、おまえは歩かなくてはなるまい。 いいよ、いっしょに歩いていこうよ」と答えるのである。
      つぎねふ 山背道(やましろぢ)を 他夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し 歩(かち)より行けば 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 其思(そこも)ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と わが持てる 真澄鏡(ますみかがみ)に 蜻蛉領布(あきづひれ) 負(お)ひ並(な)め持ちて 馬買へわが背(せ)
        馬買はば妹(いも)歩行(かち)ならむよしゑやし石は履むとも吾(あ)は二人行かむ
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.221〜222)


     妻が夫を思う歌が流行するなどは、戦争中ならいざしらず、いまではもう考えられないことだが、万葉時代にはなぜひろく歌いつがれたのだろう。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.222)


     防人(さきもり)の妻の、
      防人(さきもり)に行くは誰(た)が背(せ)と問(と)ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず
     「あの人どなたのご主人、などと平気でうわさをしている人たちが羨ましい、この私など胸がいっぱいで物も考えられないのに」という歌を思いだすまでもなく、万葉時代の夫たちは、あたかも戦時下にあるかのようにつねに危険にさらされていたためではないか、とわたくしは思う。 旅にしても、好きこのんで行く今どきの旅行とはちがう。 やむをえず旅だつのが一般なのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.222)


     防人とその母

     防人が東海(とうかい)・東山(とうさん)諸国の兵士たちのうちから選抜され、壱岐(いき)・対馬(しつま)など九州北辺の防備に配属されていたことも、よく知られている。職員令(しきいんりょう)によると大宰府の防人司(さきもりのつかさ)が指揮し、軍防令(ぐんぼうりょう)では勤務期間が三年とされていた。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.224)


     東国の人たちを、なぜ遠い北九州の防備に使ったのかということについては、古くから、東人(あずまびと)の勇敢さという面が強調されているけれども、じつは被征服者のなかの支配層からは人質をとり、勇敢な戦闘員は他国へうつすという、大和(やまと)国家以来の朝廷の政策によったのだろうと思う。 東国は五、六世紀の朝廷に征服されたが、常陸以遠の蝦夷は八世紀にも討伐され、降伏者の一部は俘囚(ふしゅう)として西国へ移住させられていた。 東国の人たちが、西国・九州へ送られると、ことばも通ぜず、逃げ帰ることもできなかったのである。 だから防人に徴集される人々の心は重かった。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.224〜225)


     内助の功

     母や妻や娘たちも実質的には租税負担者であった。 田租(でんそ)は口分田の斑給を受けている以上、収穫に応じてではなく、一段(一〇・五アール)につき稲一束五把(現量で米三升)の率でかかってくるし、父や夫や息子の名義でとられる調(ちょう)・(よう)は、ふつう軽くて運びやすい繊維製品類で指定されるから、機(はた)にむかって織りあげたり、粘土や石の紡錘(ぼうすい)を屋根裏から吊るして糸をつむがねばならぬ。 漁村のばあいは、〔あわび〕・貽貝(いがい)・〔さざえ〕など貝類が指定されることがあり、そうなると彼女らも潜(もぐ)る。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.227)


     その分量は、たとえば調を布で納めるとすると、八世紀を通じておこなわれた規定は、七一七年(養老一)制の正丁(二十一歳〜六十歳)一人につき長さ二丈八尺(約八・四メートル)幅二尺四寸(約七十二センチ)という額である。 庸(よう)はこの半分の長さで、調と連続させて織りあげ、調・庸あわせて四丈二尺を一端(たん)とよぶ。 織るのに必要な日数は、人にもよろうが、朝廷では調に二十日、庸に十日と計算していたらしいとの説がある。 他の品目で徴収するばあいも、だいたい等価格の分量を朝廷では決めていた。 家で織るより野良(のら)にでるのが好きな女性は、近所の人から米で布を買ったかもしれない。 朝廷のきめた率では、庸布一丈四尺、すなわち一常(じょう)が、米三斗であった。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.)


     もっとも布で納めるばあいも、織るだけですむのではない。(こうぞ)などの木の皮を剥(は)いで、打ったり曝(さら)したりして糸にすることからはじめなくてはならぬ。所用労働日数は二十日、十日などと簡単に決定されてはたまらないのである。絹(きぬ)や●(あしぎぬ)を織るばあいも、桑つみ、養蚕(ようさん)からはじめることはもちろんである。
    (《日本の歴史3奈良の都 村人の日々》P.228)


    和同開珎

     発行前後

     いま「和同開珎」を開珍(かいちん)とよんできたが、開寶(かいほう)とよむ説もある。 そのデザインは、唐の「開通元寶(かいつうげんぽう)」(六二一年発行開始)の模倣であり、和同開珎に代わった「万年通寶」以後は、すべて「寶(ほう)」の字を使っているのだから、「珎」も「寶」のウかんむりと貝とを省略した字とみるべきだというのである。 江戸時代の学者がいいだした説だが、いまでも「開珎」に〔かいほう〕とかなをふっている教科書が多い。 しかし学界ではすでに周知のことだが、銭貨で「寶」を「珎」などと省略して鋳(い)た例は、他にひとつもない。 また奈良時代の古文書では、珍は「珎」、宝は「寶」ときちんと書きわけている。 さらに珍には宝という意味もある。和同開珍は唐の銭貨を模倣しながら、ことさらに「寶」の字をさけて「珎」の字を選んだと考えざるをえない。 〔かいほう〕となどとよんだのでは、古人のせっかくの留意を踏みにじることになろう。
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.235〜236)


     放出と回収

     七一一年(和銅四)は、朝廷が和同開珍を交換手段にするために乗りだした年である。 五月に穀(もみ)六升(米にすると現量約一升二合)を銭一文と定めたのは、もっとも有力だった交換手段である米にたいする挑戦であったが、同十月には官人にたいする季禄(きろく)の大半を銭に切りかえてしまった。 しかし官人としても現物給与ならば、いちおうそのまま着たり食べたりすることができる。 が銭貨は、現物に交換しえなければ役にたたない。 朝廷でも、まだ銭貨などは見たこともないという国民が大半であるという実情は知っていたから、同時にいわゆる蓄銭叙位法(ちくせんじょいのほう)を制定した。 その前文だけを引用しよう。
      銭が有用なのは、財貨を交換し有無(うむ)を通ずる働きを持つためである。 しかるに今なお百姓は、旧来の習慣にとらわれていて、この理法を知らない。 まれに売買に銭を使う者があっても、銭を蓄えておくという者はいない。 蓄えた銭を朝廷に献納する者には、つぎの基準で位階を与えることにする」
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.241)


     七一二年の冬には、当時宮城や都城を造営するために雇役していた役夫にたいする賃銀も、銭で支払うことにしたようであり、また諸国から都へ送ってくる調庸も、布一常(じょう)(当時の一常は七十二センチ幅のを四メートル弱)につき銭五文のわりで、銭で送るように命じた。 銭の放出と還流の流れは、いよいよ拡大されたわけである。
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.242〜243)


     いっぽう、このころには、調庸の布の長さや幅の規格が、たびたび改正されていた。 もともと布の幅は、使う機(はた)によって左右されるし、長さも地方によってちがいがあった。 長さの単位は(たん)・(たん)・(じょう)といい、その相互の比率はだいたい三対ニ対一だったのであるが、この単位にも全国的な規格をつくらないと、銭との交換が不便だったからである。
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.243)


     流通範囲

     七一二年(和銅五)に命じたいわゆる銭調(せんちょう)が、諸国からはじめて都へ送られてきたのは、七二二年(養老六)であった。 そのとき送ってきた国は、伊賀・伊勢・尾張・近江・越前・丹波・播磨・紀伊など、畿内周辺の八ヵ国である。この範囲は、今日、和同開珍などを多く出土する地域と一致しているので、奈良時代に銭貨の流通した地域はけっきょくこの程度だったと考えられる。 平安時代にはいると、流通範囲はさらにせばまったらしく、延喜式では、京と畿内五ヵ国だけが銭調と指定されている。
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.243)


     借金証文

     インフレーションでいちばん困るのは給料生活者であるが、七一一年(和銅四)以後の季禄(きろく)の改定はわかっていない。 七七三年(宝亀四)、地方へ出張していた下級官人の技術者たちに、季禄を現地で支給するよう命じた公文書では、禄令のとおりになっている。現物給与ならば貨幣価値の下落には関係ないにしても、大宝以来七十年の余も、給与があがっていなければ、やはり生活は苦しくなっていただろう。
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.251〜252)


     乏しい家計をおぎなう方法はアルバイトであった。 奈良時代には写経事業がさかんだったが、じぶんの字にいちおう自信のある下級官人ならば、自薦・他薦の願書をだして写経所に採用を願いでる。 なかには和雄弓(やまとのおゆみ)のように、
      ちかごろ、いささか願いごとがございまして、精進潔斎(しょうじんけっさい)したいと存じておりますので、ぜひご採用賜わりますよう。 もし写経生の一人に加えていただけましたならば、生活の便を得、願いごとも果たせることに相なります……
    などというのもある。生活得便」とは正直なものである。
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.252)


     月借金の利息は、この例でも毎月一割五分と、ずいぶん高いと感じられるが、公の出挙でさえ春から秋までの利息が五割である。 古代の経済には不安定な要素が多かったから、一般に利息は高かった。 払えないと文字通り債務奴隷になる。 口分田二段以外に担保にするものがなにもなかった夫妻が、返せなかったら娘二人の身を入れると約束した借金証文も、正倉院にのこっている
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.253〜254)


     贋金づくり

     だが私鋳銭はいちはやく始まっていた。 七一四年(和銅七)の詔によると、民間では択銭(えりぜに)がおこなわれているという。 ほんものの和同開珍のうちに、もうこわれかけたのがあったらしい。 詔はいう、「官銭と知りながら、受取りを拒否すれば杖(じょう)一百、ただしにせものならば、主客相たいして破り、市の司(つかさ)に送れ」と。
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.254)


     七一六年(霊亀二)、にせものの火もとは北九州にあるらしいと気づいた朝廷は大宰府に命じた。
      百姓で、家に白●(しろめ)を匿(かく)している者がある。 以前に禁止したのに、またひそかに売買しているらしい。 だから鋳銭の悪党がはびこり、連座する者が絶えないのだ。 白●はみな探し出して没収せよ
     白●(しろめ)は銅銭鋳造に必要であった。 国内の関係鉱山は、すべて官営にしていても、新羅からの密輸は防げなかったのであろう。
    (●:“金葛”で一字)
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.255)


     揚州の鈍隠

     従七位上(じゅしちいじょう)という位をもちながら浪人していた昆解宮成(こむけのみやなり)は、頭がよかったから私鋳銭などはしなかった。 かれは白鑞(しろなまり)(ハンダ)に似た金属を朝廷に献上して、こう説明した。
      丹波(たんば)国天田(あまだ)郡の華波(はななみ)山で発見しました。 銅器鋳造のさいにこれを混入しますと、唐の錫(すず)に劣らない成績を示します
     ごらんのとおり、とかれは、見本の鏡まで持参した。 七六六年(天平神護二)の秋のことである。
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.255〜256)


     朝廷で感心しているうちに、かれの位は外従五位下(げじゅごいげ)まで上がった。 しかし、丹波国司に命じて、雑徭の単功(たんこう)(一労働日)数百を使ってようやく掘りだした十余斤が朝廷にとどけられると、専門家たちは首をひねった。
     「鉛みたいですが、鉛ではなし、どうもわかりません
     そこで大蔵省典鋳司(てんちゅうし)から何人かの鋳工(ちゅうこう)をよびつけて、公開実験ということになった。 さすがの宮成も手の施しようがない。 しかしかれは専門家や鋳工たちを相手にがんばった。
     「なにかの手違いですよ。 ごらんのとおり、白鑞そっくりじゃありませんか。 違うというなら、この金属の名をうかがいたいものです
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.256)


     それから十年ちかくの後、七七七年(宝亀八)、入唐准判官(にっとうじゅんはんがん)として唐に行った羽栗翼(はぐりのつばさ)は、揚子江(ようすこう)から大運河へはいってまもない大都会揚州(ようしゅう)(江都(こうと))につくと、さっそく例の金属を持って町工場へ行き、居あわせた鋳工たちに示した。 鋳工たちはこともなげに答えた。
     「鈍隠(どんおん)というんでさ
     鈍隠というのは、わたくしにはわからないし、また、『続日本紀』が、すぐこのあとに続けているつぎの一句も、揚州の鋳工たちの答えのつづきなのか、それとも『続日本紀』の編者が以上の話に一言つけ加えたのか、いまのところ解釈がつかない
     「ちかごろ、私鋳銭を造る者が、ときどきこれを用いることがある
    (《日本の歴史3奈良の都 和同開珎》P.256〜257)


    長屋王と藤原氏

     藤原四兄弟

     四男麻呂(まろ)、二十六歳。麻呂といえば、坊やという程度の愛称なのに、そのまま世間に通用してしまったらしい。 美濃国の次官などを勤めて従五位下になってから、まだまもない。 頭がよくて文才もあったが、音楽と酒に親しんでいた。 かれの伝記の断片には、つぎのような独白がある。
     「上(かみ)に聖主(せいしゅ)あり、下(しも)に賢臣(けんしん)あり。 僕(ぼく)は音楽でも聴(き)きながら、酒を飲んでいればいいんだ
     賢臣とは兄たちを指しているのであろうか。 後年病死したとき、友人はみな心からの涙を流したという。 麻呂は父不比等が、天武天皇夫人となっていた異母妹の五百重(いおえ)と、密通して生んだ子であった。
    (《日本の歴史3奈良の都 長屋王と藤原氏》P.)


     むずかしい民政

     北九州諸国の七〇二年(大宝二)戸籍は、これにくらべると、大宰府での検討がすでに厳しかった。書きなおされた人名がずいぶんある。 不審な点があると、その上に国印を押すのを控えて、調べなおしたらしい。正倉院の原本をみてはじめて、そうした細かなことがわかるのである
    (《日本の歴史3奈良の都 長屋王と藤原氏》P.271)


     七〇二年戸籍にくらべ、七二一年戸籍には、すでに虚偽の申告がはいっているらしいという推定は、おのおのの年齢・性別の統計をとれば証明できる。たとえば男女比だけをくらべてみても、御野(みの)(美濃)では一〇〇対一〇九、北九州では一〇〇対一一二で、女性がやや多いのはごく自然であるが、下総では一〇〇対百三二となる。 女性がいても調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)などはふえないが、口分田(くぶんでん)のふえることはいうまでもない
    (《日本の歴史3奈良の都 長屋王と藤原氏》P.271)


     こうした情況は下総にかぎらず、全国的に発生しつつあった。長屋王を首席とする太政官の公卿会議では、七二二年(養老六)初夏、食糧は官給、農具も貸与、百姓を一人あたり十日間使役して、良田百万町歩を開墾するという計画を立案した。 今日でも水田の作付面積は、明治以来三百万町歩を前後している程度である。 当時は段収一石、消費量が一毎年一石平均とすれば六十万町歩、平安初期につくられた辞書『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』にみえる全国の水田でも七十六万余町歩にすぎない。 しかもこの太政官奏(だじょうかんそう)の前後には、陸奥(むつ)国管内だけにかんする施策がならんでおり、良田百万町歩開墾計画も、陸奥の蝦夷(えぞ)地だけを対象としたと考える余地がある。 当時の朝廷が蝦夷地を、いかに広大かつ肥沃な土地と思いこんでいたかという事実は、ほかにも例証をあげることができる。
    (《日本の歴史3奈良の都 長屋王と藤原氏》P.271〜272)


     しかしいずれにしても、不可能なことはもちろんであった。 現場の国司・郡司らには、最初から結果はみえすいていただろう。 前代であったらまずありえない、ことさらに朝廷の権威をおとすようなこの計画が、公卿会議を通過したところに、その内部に潜在する権謀術数をうかがうことができないであろうか
    (《日本の歴史3奈良の都 長屋王と藤原氏》P.272)


     翌七二三年初夏、有名な三世一身(さんぜいっしん)の法がでた。 これもまた太政官奏である。 「このごろ百姓ようやく多く、田地窄狭(さくきょう)なり」ということばではじまるこの法は、あらたに荒廃した水田を再墾したものは本人の一身の間、その墾田は班田収受の年がきても収公するようなことはしない、といっている。いわば官営の百万町歩開墾計画を、民営の開墾にきりかえた形である
    (《日本の歴史3奈良の都 長屋王と藤原氏》P.272)


     しかしこの法は解釈しだいで、三世なり一身なりの後には、かならず収公するという意味にもなる。 いままで、墾田は収公するという規則は別になかった。 ただ口分田として班給すべき耕地が増加することは、国司・郡司の勤務評定にプラスとなっていた。 そういう事情のもとで、三世一身法がどのように解釈されたか、証明はできないが、じぶんの信念によって国家の利益を追求することと、じぶんの利益とが一致するばあいに、官人はとかく法令をきびしく解釈する。 中国ではこれを酷吏(こくり)といい、歴代の正史に、その目立った者の伝をのせている。
    (《日本の歴史3奈良の都 長屋王と藤原氏》P.272〜273)


     佐保のサロン

     しかしこうした民政上の施策に、長屋王が公卿の首席であった時代の歴史的意義があったわけではなかった。長屋王はむしろ、日本文学史上の人物であった。 大阪市立大学の小島憲之(こじまのりゆき)氏は、『懐風藻(かいふうそう)』の収める一二〇編の漢詩を、(一)近江朝まで、(二)養老以前、(三)天平初年まで、(四)『懐風藻』の成立(七五一年=天平勝宝三)までと四期にわけ、第三期を長屋王時代としている。
    (《日本の歴史3奈良の都 長屋王と藤原氏》P.273〜274)


    聖武に光明

     聖武の生いたち

     ともあれ、せめて聖武天皇の遊猟のしかたでも詳細にわかれば、その性格の一端をうかがうこともできようが、わたくしたちにのこされた資料は、「宸翰雑集(しんかんざっしゅう)」とよばれる一巻の筆跡、何首かの御製、そして性格の形成に関係のある生いたちの歴史と、個人の性格には関係のない、八世紀の天皇としての身のまわりの品々のみである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.290〜291)


     まず筆跡については、敏感な、線の細い文化人という定評がある。「宸翰雑集」は六朝(りくちょう)や隋(ずい)・唐(とう)の詩文集のなかから、仏教に関する百余題をえらんで、天皇みずから筆写下ものであるが、きわめて細い罫線(けいせん)を、それも墨でなく〔へら〕で押した用紙に、一行ほとんど十八字をぴたりと収めている。 当時の公的な写経は一行十七字が標準であるが、光明皇后の習字などには十五字、十六字がざらにある
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.291)


     君主の心構え

     『後漢書』にのっている話をしらないと、『日本書紀』の「大樹将軍」もわからないわけだが、それはともあれ、葬儀は簡素にすべきであるという主旨が、持統天皇以後、歴代の遺詔にみられることは、「長屋王と藤原氏」の章にのべたとおりである。 これは「善言」的な書物による皇子・皇女教育の効果ではないかとわたくしは思う。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.294〜295)


     『古今善言』も今日では散逸してしまったが、その逸文の一つにはつぎのような話がある。
      後漢の霊帝(れいてい)の時、羊続(ようしょく)という人物の評判が高かったので、帝はかれを高官に任じようと、使者を送った。 ところが使者は、羊続に賄賂(わいろ)を要求した。 当時の習慣である。 すると羊続は、黄色の紙でつくった〔どてら〕みたいな着物をとりだし、使者にみせた。 時の人は流行語をつくった。『天下の清貧、羊続が祖(はじめ)
     君主としては、使者のような役人を退け、羊続のように清廉な人物を求めなくてはならぬという教訓であり、これは『帝範』にも抽象的なことばでくりかえし説かれている。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.295)


     『帝範』の内容は十二編にわかれており、その目次は「君体(くんたい)」「建親(けんしん)」「求賢(きゅうけん)」「審官(しんかん)」「納諌(のうかん)」「去讒(きょざん)」「誡盈(かいえい)」「崇倹(すうけん)」「賞罰(しょうばつ)」「務農(むのう)」「閲武(えつぶ)」「崇文(すうぶん)」であるが、皇太子も幼いうちは、『帝範』などを暗誦させられるよりも、「善言」や『古今善言』で、歴史にくるまれた説教を飲みこむほうが、教育的効果があったであろう
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.295)


     女性関係から見た聖武

     ほかにも、天皇の女性との交際は広かった。志貴(しき)親王の娘海上(うなかみ)女王との間に贈答された歌もある。
      赤駒の越ゆる馬柵(うませ)の結びてし妹(いも)が情(こころ)は疑ひもなし(聖武天皇)
      梓弓爪引(あづさゆみつまび)く夜音(よと)の遠音(とほと)にも君が御幸(みゆき)を聞かくし好(よ)しも(海上女王)
     「おまえとは牧場の柵のように結びついているのだからな」と天皇が歌うと、女王は「弓絃を引く音が、夜、遠くから聞えますように、(私のところでなく)どこかへお出ましと、はるかにうかがうだけでも、まあご壮健なこと、と嬉しゅうございます」と答える。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.299〜300)


     行基、小僧から大徳となる

     光明立后と同時に、従来からある宮子夫人のための中宮職(ちゅうぐうしき)とは別に、皇后宮職が設置されたが、翌年夏、皇后宮職の管理下に施薬院(せやくいん)が置かれ、藤原家が相続していた贈太政大臣不比等(ふひと)の莫大(ばくだい)な封戸(ふこ)から、庸(よう)の分をさいて薬草(やくそう)を購入、一般の施療(せりょう)に使うこととなった。 またそのころからか、飢えた者に食糧を施与する非田(ひでん)も置かれた。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.305)


     皇后の手ではじめられたこのような慈善事業のささやかな効果は、まずなによりも天皇とその周囲のものの考えかたを、儒教的なものから仏教的なものへ変える、呼び水の役割を果たしたことにあるようである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.305)


     裳瘡発生

     七三一年(天平三)冬、新田部親王は畿内の大惣管(たいそうかん)、藤原宇合(うまかい)は副惣管多治比県守(あがたもり)は山陽道鎮撫使(ちんぶし)、藤原麻呂(まろ)は山陰道鎮撫使大伴道足(みちたり)は南海道鎮撫使と発令された。 この惣管鎮撫使という聞きなれない官職は、実は以前から時時派遣されて、国司・郡司の行政を査察していた巡察使(じゅんさつし)にあたるのであるが、とくにこのさいは、巡察使のように民衆の訴えを取り上げること以上に、徒党を組み時政を批評する者を捜索・逮捕し、また盗賊や妖言(ようげん)を流す者を取り締まることを命ぜられていた。 畿内のばあいは、そのために独断で兵馬を動員する権限も許されたのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.305〜306)


     惣管と鎮撫使の職務は翌七三二年秋、節度使(せつどし)にうけつがれた。 節度使は東海・東山両道に藤原房前、山陰道に多治比県守、西海道に藤原宇合と発令され、それぞれ諸道に属する国々の兵士を増徴し、兵器・兵糧を整備し、兵船を建造し、そして兵器や牛馬の民間における売買を厳禁するよう命ぜられたのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.306)


     節度使の仕事は、二年でいちおう成果を収めたとみえて、七三四年夏に一同は任を解かれた。 しかし運命はこのような武力による治安維持政策をあたかも冷笑するかのように、翌七三五年、思いがけぬ贈りものを日本に与えた。新羅(しらぎ)をおそれて山陰道などはとくに念をいれて鎮撫使・節度使と重ねて派遣されてきたのに、その新羅から俗に裳瘡(もがさ)と恐れられていた豌豆瘡(天然痘)がまず北九州に侵入してきたのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.306)


     奥羽連絡路開通

     遣新羅使の報告がはいる直前、参議兵部卿藤原麻呂(まろ)は持節大使(じせつたいし)として、陸奥(むつ)に出発していた。 それよりさき、陸奥国按察使(あんさつし)兼鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)としてながらく蝦夷(えぞ)地の経営にあたっていた大野東人(おおのあずまひと)から、陸奥と出羽の連絡路を開くため、中間の山岳地帯に住む蝦夷を討伐したいという申請がきていたためである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.307)


     もともと陸奥と出羽とは、別々に開発が進められていた。 陸奥へは白河関(しらかわのせき)をこえる山道(さんどう)が、勿来関(なこそのせき)をとおる海道(かいどう)で軍を送りこむが、七二〇年(養老四)の討伐後まもなく、大野東人がいまの仙台付近に多賀柵(たがのき)をきずいて本拠とし、その北方に宮城(みやぎ)平野を横断して東から順に牡鹿(おしか)・新田(にった)・色麻(しかま)、あるいは玉造(たまつくり)などの(き)(木柵の保塁)をたてて前進基地としていた。 また出羽へは越後から海路をとって入るが、七三三年(天平五)には、最上(もがみ)川河口付近にあった出羽柵を、一挙に雄物(おもの)川河口付近にまで進め、さらに雄物川をさかのぼり、横手(よこて)盆地南部の雄勝(おかち)付近に住む蝦夷(えぞ)もいちおう帰順させていた。 しかし多賀柵出羽柵との連絡は、雄勝から南東、奥羽山脈にかけての蝦夷地を通過しないかぎり、きわめて不便だったのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.307〜308)


     また道路を開いただけで、柵城をきずいてこなかった理由を、東人はこう説明する。
     「私の最初の計画では、早く賊地に進出して耕作をはじめ、食糧は現地で自給するはずだったのです。 後方から輸送するのはまずいですから、ところが今春は大雪で進軍が遅れ、耕作がまにあいませんでした。 天命でしょうか、 ともかく、柵城をきずくのは簡単ですが、それを守るのは人ですし、人は食糧がなくてはだめですから、耕作開始の機会を失ったら、どうしようもありません。 また兵というものは、確実に利があるとわかっているときにのみ動かし、利がなければすぐ止めるべきものです。 だから引き返してまいりました。 柵城は来年でいいと思います。 ただそれは私がいたします。 大使は多賀柵の鎮守をよろしく願います。 もう新道が開いてあり、地形も調査ずみですから、ことは簡単です
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.310〜311)


     大使藤原麻呂は、二月十九日多賀(たが)入城以来の以上のような経過を報告書に記し、四月十四日付で都へ発送した。 報告書の最後には、つぎのような付記があった。
     「臣、麻呂は、愚昧(ぐまい)でありまして正確な情勢判断ができませぬ。 ただ東人(あずまびと)は、久しく辺境の要地に将として勤め、その謀(はかりごと)の適中したばあいが少なくありません。今回はみずから賊境に入って形勢を察し、深謀遠慮の結果が以上のような意見になったものと存じます。 謹んで書状を録(しる)して、伏して勅裁を仰ぎます。
     ただ、現在は平穏であり、時あたかも農繁期に属しますので、徴発した軍士などは、復員させつつあります

    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.311)


     百官、疫を患う

     持節大使(じせつたいし)藤原麻呂の報告書が都へとどき、天皇が大使の処置を是(ぜ)としてその召還を決定したとき、麻呂の兄の参議、民部卿藤原房前(ふささき)は急逝していた。 五十七歳だった。 逝去の日は七三七年(天平九)夏四月十七日である。 すでに都でも天然痘が発生しつつあった。 あるいは三月下旬に復命した遣新羅使の一行が背負ってきたのだろうか。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.312)


     五月一日は日蝕(にっしょく)だった。陰暦だから日蝕は一日に起る。 宮中では僧六百人を招き、各自一巻ずつ大般若経(だいはんにゃぎょう)を読ませた。 この夏は(ひでり)で田植え時に水もなかった。 五月十九日、聖武天皇は「朕の不徳が旱(ひでり)と疫(えやみ)とを招いた」と詔して、天下に大赦(たいしゃ)し、賑給(しんごう)した。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.312)


     六月一日は廃朝(はいちょう)した。『続日本紀』は、「百官の官人、疫(えやみ)を患(わずら)うを以(もっ)てなり」と記す。 そして、以下八月にかけて四位以上の官人の死を、六月に四人、七月に四人、八月に二人、官位姓名を挙げて報じている。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.312)


     ともあれ、ひどかった七三七年の歳末、『続日本紀』大倭(やまと)大養徳(やまと)改字されたということを伝えたあと、最後を「是の年の春、疫瘡(えきそう)おおいに起こる。 はじめ筑紫(つくし)より来(きた)れり。 夏を経て秋に渉(わた)り、公卿以下、天下の百姓(ひゃくせい)、あい継ぎて没死するもの、あげて計(かぞ)うべからず。近代よりこのかた、いまだこれ有らざるなり」と結んでいる。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.314)


     防疫対策

     なお『類聚符宣抄(るいじゅうふせんしょう)』という、官符(かんぷ)・宣旨(せんじ)などを集めた書物のなかに、この年六月二十六日付の太政官符が一通ある。 太政官は疫病についての心得を、国司を通じて全国の百姓に周知徹底せしめようとし、左記のような内容の文書を東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海の諸道のために六通複写して発送したのである。

     「疫病治療法および禁ずべき食物等の事、七ヵ条

    一、今回の疫病は赤班瘡(せきはんそう)という。 発病時の症状は(おこり)(悪寒(おかん)・高熱をともなう病気一般)に似ている。発熱後三、四日、あるいは五、六日で発疹し、瘡(そう)(吹出物)の出る期間も三、四日つづく。 患者の全身は焼けるように熱く、しきりに冷水を飲みたがるが、けっして飲ませてはならない。 瘡が出終わると熱も引くが、下痢が併発する。 治療しないと出血する。 出血は発病当初からのばあいもある。 併発する症状は四種ある。 咳(せき)・嘔吐・吐血・鼻血である。 これら合併症よりもむしろ下痢に注意すべきであり、心して以下のような治療を加えねばならぬ。

    一、布・綿で腹・腰を巻き、かならず温かくしておく。 冷やしてはいけない。

    一、百姓たちはどうせろくな寝具もないだろうが、患者を地面に寝かせておいてはならない。床に敷物を敷いて寝かせるように。

    一、重湯(おもゆ)や(かゆ)や粟汁(あわじる)は、温かければもちろん、冷えてもよいから与える。鮮魚・冷肉・果物・生野菜はいけない。 とくに生水・氷はかたく慎むように。 下痢を起したら、(にら)や(ねぎ)を煮て大量に食べさせるとよい。血便乳状便が出るようなら、(もちごめ)の粉米粉とまぜて煮、一日に二、三度飲ませる。 下痢が止まらなければ五、六度にふやす。(うるち)の乾燥米を作ってもいいが、そのばあいもかならず細かく砕いてから粥にするように

    一、およそこの病気は、食事を嫌がるものだが、無理しても食事させなくてはいけない。 また海松(みる)を炙(あぶ)ったものや、岩塩でなく粉にした塩をたびたび口に含ませると、口や舌が荒れても、結果がよいようである。

    一、回復後も二十日間は、鮮魚・冷肉・果物・生野菜を摂(と)ってはいけないし、生水水浴房事のたぐいや、風雨のなかを歩いたりすることも、慎むように。 もしこの注意を守らないと、かならず霍乱(かくらん)になって下痢を再発する。 これを勢発(せいはつ)・労発(ろうはつ)などというのだが、そうなったらもう、兪●(足付)(ゆふ)・扁鵲(へんじゃく)のような中国古代の天下の名医を連れてきても、もはや手おくれである。 二十日過ぎればも肉もいい。 ただよく炙ってから食べる。乾鰒(ほしあわび)・堅魚(なまりぶし)・乾肉の類もいいだろう。 しかし鯖(さば)や鯵(あじ)はたとえ干物(ひもの)でも止めておくように。 年魚(あゆ)もいけない(そ)(乳製品)・(みつ)・●豆支(とうふ)などはいい。

    一、およそ疫病を治そうと思ったら、丸薬・散薬などを求めて飲んだりしてはならない。 (えてしてインチキな薬を売る奴がいたためであろう。) もし熱が引かなければ、人参湯(にんじんとう)だけは飲んでもよい。

     この四月以来、京・畿内はことごとく疫病に臥(ふせ)っており、死亡者が続出している。 諸国の百姓も定めて被害甚大であろう。 よって以上のごとく、注意を箇条書にして、諸国に伝達する。
     この官符本文は、到着次第国衙で写し取り、本文は郡司の主帳以上一人を使人としてただちに隣国へ送付し、留滞させてはならぬ。 また国司は所管の国内を巡行して百姓にこの内容を告示せよ。 もし百姓のうちに、重湯や粥にする米のない者がいたならば、国司は正税(しょうぜい)の倉を開いて賑給(しんごう)、その使用量は記録して太政官に報告せよ。

     なお、この官符は太政官の発行した正文であるから、官印を押しておく。 官符到着しだい、実行せよ

    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.314〜317)


     玄ムと真備

     藤原式家(しきけ)の嫡男太宰少弐(だざいしょうに)従五位藤原広嗣(ひろつぐ)には時勢が全然おもしろくなかった。 もともとかれは、かなり倣岸(ごうがん)な人柄であったらしい。 女の子に花束を贈るにも、

      この花の一枝(ひとよ)のうちに百種(ももぐさ)の言(こと)こそ隠(こも)れるおほろかにすな

     「大事にしろよ」という調子である。 もっとも相手の女の子は、

      この花の一枝のうちは百種の言(こと)待ちかねて折らえけらずや

     「おことばがたくさん隠(こも)りすぎて、枝が折れてしまったのですね」と澄ましている。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.317)


     そのかれも、三年前、父の太宰師宇合(うまかい)が天然痘で急逝した直後、従兄(いとこ)の弟麻呂(おとまろ)や永手(ながて)といっしょに従五位下を授けられ、翌年四月大養徳守(やまとのかみ)という名誉ある官に任ぜられたまではよかったが、その歳末には急転直下、大宰府の次官に左遷されてしまったのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.317)


     いくら、父宇合のあとを継げといわれても、親父は式部卿兼任だったから赴任はしなかったそれが、このおれは大養徳守を蝦夷地から帰ってきた大野東人(おおののあずまひと)ごときに取られた上に、いっしょに発令された太宰大弐高橋安麻呂(だざいだいにたかはしのやすまろ)は右大弁を兼ねているから赴任せず、おれだけが、という気持があったはずである。いったいだれのせいでこんなことになったのかと考えたとき、かれの頭に浮んだのは、天皇側近の僧正玄ム(げんぼう)と中宮亮下道(ちゅうぐうのすけしもつみちの)(吉備(きびの))真備(まきび)とであった。 かれらしい表現を借りれば、この二人は「利口で国を覆(くつがえ)」連中である。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.318)


     広嗣叛す

     七四〇年(天平十二)秋八月二十九日、太宰少弐藤原広嗣の上表文が朝廷にとどいた。 それは時の政治(まつりごと)を批判し、天地の災異のよってきたるゆえんは政治が誤っているためであると述べ、玄ム下道真備の処分を要請していた。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.322)


     九月三日、広嗣は大宰府管下の兵を動員したという飛駅(ひやく)(はやうま)が朝廷にはいった。聖武天皇はただちに、参議従四位上大野東人(おおののあずまひと)を大将軍、以下副将軍一人、軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)各四人を任じ、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の兵一万七千に動員令をくだし、また大将軍東人を呼んで節刀(せっとう)とよばれる一振の直刀を授け、軍中でこの刀を朕と思い、独断専行せよと命じた。 このような権限を天皇から与えられた人を持節大使・持節将軍などという。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.322〜323)


     翌四日、朝廷に交代で参勤していた隼人(はやと)のなかから二十四人を天皇の御在所(ございしょ)に招集し、右大臣橘諸兄が勅を宣して位階と位階相当の朝服(ちょうふく)とを授け、従軍を命じた。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.323)


     翌五日、従五位上佐伯常人(さえきのつねひと)・従五位下阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)の両人も勅使として軍に加えた。 大将軍大野東人はもとより、佐伯・阿倍諸氏もみな著名な武門である。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.323)


     十一日、治部卿三原(みはら)伊勢派遣を決定した。 大神宮に幣帛(へいはく)を奉納させるためである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.323)


     十五日、畿内七道諸国に勅し、国別に像高七尺の観世音菩薩像一体を造り、観世音経十巻を写すようにと命じた。戦勝祈願のためである。奈良時代後期になると、軍事上の緊急事態には四天王(してんのう)を造り、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうぎょう)の四天王護国品(ごこくぼん)を誦(よ)ませるようになる。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.323)


     二十一日、すでに関門海峡に臨んで、つぎつぎと到着する諸道の兵を編成していた大将軍大野東人は、長門(ながと)国豊浦(とゆら)郡の郡司に精兵四十人をさずけて海峡を渡らせ、上陸地点を確保させた。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.323)


     翌二十二日、東人勅使佐伯常人(さえきのつねひと)・阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)を隼人二十四人、兵四千人の将として渡海させ、豊前(ぶぜん)国企救(きく)郡の板櫃(いたびつ)の鎮(ちん)(軍団の兵営)を襲わせた。 板櫃鎮の大長(だいちょう)(指揮官)は箭(や)を背負って逃亡したが、小長(しょうちょう)と東隣の京都(みやこ)郡の鎮長とは、遺棄死体のなかに発見された。 なおそのさい、登美(とみ)・板櫃・京都(みやこ)三鎮の兵一七六七人と兵器多数とを捕獲した。板櫃はいまの北九州小倉区の到津(いたつ)にあたり、当時は関門海峡を守る要衝だったため、広嗣は付近の鎮兵を集合させていたらしい。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.323)


     また二十四日に東人のもとに帰還した間諜(うかみ)の報告では、広嗣は企救(きく)郡の西隣、筑前国遠賀(おんが)郡に到着していて、その郡衙を本営とし、烽火(のろし)をあげて国内の兵を徴集しているという。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.324)


     二十五日、備前国の諸都の郡司が、七、八十人ずつ、ときには五百人も兵をひきいて官軍に帰順してきた。逃亡していた板櫃の大長も備前の百姓に殺されたという報告がはいった。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.324)


     二十九日、つぎのような勅が、全九州の官人・百姓にあてて発せられた。
       「逆賊広嗣は若年のころから凶悪であり、長じてますます●詐(よこしま)をはたらくようになった。 亡き父式部卿は、かねて廃嫡(はいちゃく)したいといっていたが、朕がなだめて今日にいたったのである。 しかし都にあって、しきりに親族を誹(そし)るため、遠方に移してその改心を期待していた。 いま聞けば、気違いじみた反抗をはじめ、人民を苦しめているという。 不幸・不忠のきわみ、天地神明は日ならずして広嗣を滅ぼすであろう
       以上のように記した勅符を、先日九州諸国に送ったところ、賊は勅符を国郡に配布する係の者を捕えて、人民に周知せしめなかったと聞く。 このたびはこの勅符を数千枚写して、いたるところに配布したから、そのような妨害ももはやむだである
       百姓はこの勅を見たならば、ただちに帰順せよ。 一度叛乱軍に加わった者でも、改心して広嗣を斬殺すれば、無位無官の者でも五位以上を授けよう。 万一本人が殺されても、その子孫に授けることを約束する。 忠臣・義士、すみやかに出(い)でよ。 朕の派遣した大軍は、いまや大挙九州に進入しようとしているのだ
    ●詐(よこしま):●は、“女女”を縦に、+“干”で一文字。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.324〜325)


     われは大忠臣

     十月九日、広嗣の軍一万余騎は、東進して板櫃(いたびつ)河にいたった。 広嗣は隼人の部隊をひきいて前鋒となり、筏(いかだ)を組んで渡河しはじめた。官軍佐伯・阿倍両部隊は弩(いしゆみ)を発射してこれを防ぎ、広嗣軍一万と常人ら両部隊六千とは、河をはさんで対峙(たいじ)した。 常人らは部下の隼人を呼んで、「敵がたの隼人に『官軍に抵抗すれば、本人が殺されるのはもちろん、罪は妻子親族に及ぶ』といえ」と命じた。 官軍の隼人は河岸に出て、隼人方言で叫んだ。 広嗣がたの隼人は箭(や)を射なくなった。 常人らは常人らで、「広嗣出てこい」と十度叫んだが、広嗣はしばらく姿を見せなかった。 やがて馬にのったまま、悠然と出てきたかれはこういった。
     「勅使到来と承る。 勅使とはだれか
     常人らは答えた。
     「勅使はわれわれだ。衛門督佐伯大夫(えもんのかみさえきのまえつぎみ)と式部少輔阿倍(しきぶのしょうゆうあへ)大夫だ。 わかったか
     広嗣は「わかった」といって馬から降り、二度、ていねいに頭をさげた。
     「私はけっして朝命に反抗しているのではない。 ただ、朝廷を乱す者二人を引きわたしてほしい、と申しあげているだけだ。 この広嗣がもし朝廷に反抗しているのであれば、なにも官軍の世話にならなくても、天つ神・国つ神が罰してくれる
     常人らはどなった。
     「朝命で大宰府の主典(さかん)以上を召喚しているのに、どうして軍兵などひきつれて押し寄せてきたのか
     広嗣は沈黙し、馬に乗って引っこんだ。 すると問答を見物していた広嗣がたの隼人のなかから、三人が河に飛びこんで官軍がたに泳いできた。 官軍がたの隼人がすぐ助けてやったので、無事に岸にあがることができた。 これをみていた隼人二十人、広嗣の部下十余人も帰順した。 隼人の一人は、広嗣が全九州から動員した兵を三軍に分け、自分は鞍手(くらて)方面、弟の綱手(つなで)は豊後方面多胡古麻呂(たこのこまろ)は田河(たがわ)方面から、官軍をかこむ計画をたてており、豊後・田河両方面軍はここにはまだ到着していないことを官軍に告げた。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.325〜326)


     この月の二十六日、聖武天皇は大将軍大野東人らに勅した。
     「朕は思うところあって、今月末、しばらく関東にゆく。 いまはその時機ではないのだが、止(や)むをえない。 将軍らはこれを知って驚かないように
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.326)


     関東というのは、その後の聖武天皇の足どりによると、伊賀・伊勢・美濃・近江などである。 伊勢神宮へ祈願のためかと思うと、途中で十日も一ヵ所に滞在したり、遊猟までしている。気が知れないのであるが、あるいはノイローゼを起こしたのかも知れない。叛意があるという名目で政敵をほうむる事件は今までにもあったが、じっさいに軍隊を動かす叛乱が起きたのは、壬申の乱を除けば、この二世紀ほど絶えてないことだった。しかも叛軍の主将は皇后の甥なのであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.326〜327)


     しかし九州ではそれより三日前の十月二十三日、肥前国松浦(まつら)郡値嘉(ちか)嶋長野(ながの)、すなわち五島列島の一つの島で、広嗣は無位阿倍黒麻呂(あへのくろまろ)という官軍の一兵士に逮捕されていた。 九月下旬から十月上旬までの豊前・筑前両国における膠着(こうちゃく)状態は、板櫃河会議で一挙に解決し、広嗣は弟や直属の部下をつれて逃亡していたのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.327)


     辺鄙な島で広嗣らが逮捕されたことを東人が知ったのは、六日後の二十九日であった。 即日発送された報告書が伊勢国壱志(いちし)郡の河口(かわぐち)村にいた天皇にとどいたのは十一月三日であったから、北九州から伊勢までの七百キロばかりを、飛駅(ひやく)という当時最速の早馬は四日四晩ほどで連絡しているわけである。 なお公式令(くしきりょう)の規定する標準行程一日に馬七十里、人五十里、車三十里(一里は〇・五二キロ)である。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.327)


     逮捕の報をえた天皇は、「逆賊広嗣の罪は明白で疑う余地もない。 ただちに法によって処決してから奏上せよ」と勅した。おそらく、ひごろの〔かん〕高い声は、より〔かん〕高くなったと思われる
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.328)


     勅のとどく前に東人は、現地で広嗣・綱手兄弟を斬っていた。 十一月一日である。 一日おいて三日には、与党二十余人を本営に連れてきて訊問(じんもん)した。 かれらは答えた。
     「広嗣公らは値嘉嶋から船に乗り、東風に送られて航走しました。 四日目に島影がみえました。 一同は、耽羅嶋(たむらのしま)(済州島)だといいました。ところが東風は吹いていますのに船が進まなくなり、一日一夜漂いました。 それから風が西に変わって、船を吹きもどしはじめたのです。 公は船上に立ちあがり、駅鈴(えきれい)を捧げて祈りました、『私は大忠臣だ。 神霊(しんれい)がどうして私を棄てるはずがあろうか。 神よ。 ねがわくはしばし風波を鎮めたまえ』。 祈り終わると駅鈴ょ海に投じました。 しかし風波はますますひどく、とうとう値嘉嶋にまたもどってしまったのです
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.328)


     翌七四一年(天平三年)正月二十三日、広嗣の叛乱に参加した者にたいする処分が決定した。死刑二十六人、没官(もつかん)(官奴婢にする)五人、(る)四十七人、(ず)三十二人、(じょう)百七十七人であった。 流罪のなかには、縁坐(えんざ)として、都にいた広嗣の弟たちも加えられていた。
    (《日本の歴史3奈良の都 聖武に光明》P.328)


    大仏開眼

     国分寺創建

     国分寺創建の発願は、ふつう、封戸寄進があってから一月後の七四一年二月十四日とされているが、発願は実はもっと以前である。すなわち『続日本紀』で同年三月二十四日の条に誤って挿入されているその詔の中心になる部分は、つぎのとおりである。
       「この数年は凶作がつづき、疫病が流行した。わが罪の然らしむるところと、恥ずかしさ恐ろしさにたえず、ひろく国民のために、大きな幸いを求めたいと考えた。 ゆえに前年、各地の神社を修造させ、去歳(きょさい)、諸国に丈六(じょうろく)の釈迦如来尊像各一体を造らせ、大般若経(だいはんにゃぎょう)各一部を写させたのである。 験(げん)あって今年は春から秋まで天候が順調であり、五穀は豊作であった。 かくも霊験あらたかであるとすれば、ますます神仏をあがめねばならぬ。
       金光明最勝王経護国品(こんこうみょうさいしょうおうぎょうごこくぼん)には、『もし、国にこの経を講じ読誦(どくじゅ)し、供養して流布(るふ)に努める国王が出るならば、われら四天王はつねに来(きた)って擁護し、一切の災害は除き、憂愁や疫病もまた癒(いや)し、願うところは叶(かな)えて、心につねな歓喜(かんき)を生ぜしめよう』とある。 よろしく天下諸国は、おのおの七重塔(しちじゅうのとう)一基を敬造し、金光明最勝王経・妙法蓮華経(みょぅほうれんげきょう)各十部を写すべきである。 朕もまた、紫の紙に金泥(こんでい)の金光明最勝王経を写して、塔ごとに一部ずつ納めたいと思う
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.339〜340)


     『続日本紀』が三月二十四日にこの詔を挿入したのが誤りであることは、この続きの部分を引いた諸史料が、みな二月十四日と明記していることからたしかである。 しかしここに引用した部分は、はたして七四一年(天平十三)二月当時のものとみてよいのであろうか、不審な点が多いと指摘したのは、東大の萩野由之(はぎのよしゆき)氏の一九二二年(大正十一)の論文であった。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.340〜341)


     まず、各地の神社を修造させたのは七三七年(天平九)十一月であり、諸国に丈六の釈迦如来像各一体を造らせ、大般若経各一部を写させたのも同じ七三七年三月であることは、『続日本紀』の天平九年条のみならず、正倉院文書のなかの正税帳などでも確かめられる。 したがってここに「前年」といい「去歳」というのは、七三七年を指している
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.341)


     また凶作がつづき、疫病が流行したのも七三七年までの数年間であり、ひさしぶりに豊作になったのは七三八年である
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.341)


     しかも今年は春から秋まで天候が順調だといっている以上、この部分は、七三八年(天平十)の秋か冬に発せられた詔とみなければならない、七四一年の春二月ではおかしいというのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.341)


     以上のような萩野説に反対して、七四一年から七三七年のことを「前年」とか「去歳」とかいってもかまわないではないか、『続日本紀』のみならず『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』にも、この詔は七四一年二月十四日付の太政官符として収められているから、そのまま信用すべきである、と主張する説も、いまだにあるのであるが、そのような反論は、太政官符の形をとった詔勅の書きかたについて、理解が不足しているためだとわたくしは思う
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.341)


     太政官符などでは、それ以前に発せられた関係法令を引用してからこのたびはこうするとつけ加えることが、よくある。 そのさいにはかならず「(いはく)」「(てへり)」、つまり「いはく」「と言へり」という引用符号にあたる文字を前後に加える約束だが、『続日本紀』などの編者は、正確さを義性にして簡潔さを尊び、それらを削ったのである
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.341〜342)


     以上のように考え、また国分寺とは、国ごとに置かれ、国費で造営維持される寺であると定義すれば、その成立は『続日本紀』の各年度の記事を追うと、次のような段階をふんでいることになる。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.342)


     まず凶作と疫病にさいし、七三七年(天平九)三月、国ごとに丈六の釈迦像一体、脇侍(わきじ)二体を造り、大般若経一部を写すことを命じた。 また同年九月、これは広嗣の乱平定を祈ってではあるが、国ごとに七尺の観音像一体を造り、観音経十巻を写すことを命じた。 そしてこの七四一年二月にいたって、七重塔一基を造り最勝王経法華経(ほけきょう)を各十部ずつ写し、また、国分寺を二寺にわかって僧寺を「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、尼寺を「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と命名し、維持経営についての細目を規定することにしたのである。 聖武天皇が金字の最勝王経を一部ずつ国ごとに配布するという件は、ことによると、翌七四二年(天平十四)二月十四日に公約されたのかも知れない。 今日伝わっているその経巻を収める(ちつ)(三四〇ページ写真参照)には、「天平十四年」「二月十四日勅」 という字が織り出されている。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.342)


     だから教育大学の家永三郎(いえながさぶろう)氏のいわれるように、仏像を造ればそれを安置する仏殿も必要になるという意味では、国ごとの仏殿つまり国分寺の創建は、七三七年三月にさかのぼることになる。七四一年二月は、国分二寺の正式な名称や維持経営の細目が、最終的に決定したときである
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.342〜343)


     華厳の教え

     聖武天皇のばあい、金光明最勝王経の説く直接的な政治上の効用を信じていたことは、もちろんとしても、ものの見かた、ものの考えかたという点では、当時の仏教の諸学派のなかで、唐から新しく伝わってきた華厳(けごん)の教義に、早くから惹(ひ)かれていたらしい。 すでに七三四年(天平六)の勅旨一切経(いっさいきょう)の願文(がんもん)には「仰ぎて三宝(さんぽう)に憑(よ)り、帰するに一乗(いちじょう)に依(よ)る」とあるが、この一乗とは、華厳のそれであろうといわれている。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.347)


     ところで華厳の特色は、大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)に説く、事々無礙法界(じじむげほっかい)、重々無尽(じゅうじゅうむじん)という思想にある。 すなわちこの世は、事法界(じほっかい)・理法界(りほっかい)・事理無礙法界(じりむげほっかい)・事々無礙法界の四段階で理解できるが、事法界はいわば物質の世界、理法界は精神の世界であり、物質と精神とが切り離せぬものであることを理解するのが事理無礙法界である(礙は障碍(しょうがい)の意)。 しかし事々(じじ)無礙法界の境地では、物質から精神を抽象するとか、物質と精神の連関を考えるとかいうような、一般的な、抽象的な考えかたはとらぬ。 個々の〔ものごと〕そのもの、他の〔ものごと〕では代えがたい独自性を認めながら、それら一つ一つの全世界的な関連を考えてゆく。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.347)


     たとえば、一人の母と一人の子がいるとすると、そしてその子が死に、母がのこされたとする。 そのばあい、人間である以上死ぬのは当然で、のこされた母もいずれは死ぬ、などというような説教だけでは、この世は明(あき)らめ(諦(あきら)め)きれない。のこされた母は、いかに苦しくともなお生きなくてはならないのである。 そのばあいは人が変わる。 つまり、子の生前と子の死後とでは、同じ母、同じ一人の人間と、〔うわべ〕には見えるかも知れないが、実はもはや別人というべきなのである
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.347〜348)


     存在とはおよそ、かくのごときものである。 けっして個々ばらばらなものではない。因陀羅(いんだら)という神のもつ無限の大きな網の、一つ一つの結び目には、みな水晶の玉がついている。 一つの玉をみると、そこには他の水晶の玉全部が映っている。 その映っている玉の一つをよくみると、これもまた他の玉全部を映している。もし一つの玉に変化があれば、他の無限の玉もいっせいに変化が生ずるのであり、これを重々無尽(じゅうじゅうむじん)というのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.348)


     毘盧舎那(びるしゃな)は、この事々無礙(じじむげ)・重々無尽の法界(ほっかい)、すなわち蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)、いわゆる極楽浄土をあまねく照らす本尊である。 毘盧舎那 Vairocana とは、光明遍照(こうみょうへんじょう)の意である。 釈迦のようにこの世に生れてくる仏ではなく、極楽浄土にまします仏である。 華厳経(けごんきょう)の華蔵世界品(けぞうせかいぼん)は、そう説く。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.348)


     華厳経全六十巻、改訳八十巻の教える哲学は深いだけに難解でもあった。釈迦如来(しゃかにょらい)が悟りを開いてから、二週間目に説きはじめたこの教えがわかったのは、普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)たち菩薩だけで、釈迦の弟子のなかでは智慧(ちえ)第一といわれた舎利弗(しゃりほつ)でも、坐にあっては一言も発せられなかったという。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.348)


     聖武天皇が、高級難解な華厳の教義に惹(ひ)かれたのは無理ないとしても、どのくらい理解できたかは不明である。のち東大寺大仏の開眼(かいげん)にさいして、華厳経の講説に律師隆尊(りっしりゅうそん)を招いたときには、ともかくつぎのような手紙を送っている。
       「四月八日に東大寺で斎会(さいえ)を設け、花厳経(けごんきょう)を講じたいと思いますが、その理ははなはだ深く、主旨とするところを究めるのは困難です。大徳(だいとこ)の博学多識によらなければ、だれがよく華厳の妙門(みょうもん)を開示しえましょうか。 どうか辞退なさらないでいただきたい。摂受敬白(しゅうじゅきょうびゃく)」
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.348〜349)


     天皇の宇宙観

     須弥山を中心に、大海に浮く四つの洲や、日や月までそろえているのが一つの世界であるが、この一世界が千で小千世界(しょうせんせかい)、小千世界が千で中千(ちゅうせん)世界、中千世界が千で大千(だいせん)世界になると説くのが、仏教の宇宙観である。 太陽系・銀河系などという考えかたに、すこし似たところがある。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.350)


     梵網経(ぼんもうきょう)は、この三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)の中心が毘盧舎那(びるしゃな)であって、各小世界に派遣された釈迦たちが微塵(みじん)の衆に接して教えみちびき、うちそろって毘盧舎那仏の周囲につどうとき、甘露(かんろ)の門がひらくとする。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.350〜351)


     聖武天皇が東大寺の本尊に、それまでの日本人にはほとんど親しみのなかった毘盧舎那、略して盧舎那仏を仰ぎ、全国の各国分寺の本尊に釈迦如来を奉じたのは、以上のような宇宙観・世界観にもとづいたためであろう。
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.351)


     知識の力

     ともかく盧舎那の大仏を造りたいという年来の念願が詔としてだされたのは、七四三年(天平十五)冬十月十五日、紫香楽宮においてであった。 その詔の主要な部分はつぎのとおりである。
       「国中の銅を尽くして尊像を鋳(い)、大きな山の木をみな伐って仏殿を構え、ひろく法界(ほっかい)におよぶまで朕の知識(ちしき)(同志)を集めて、ともに利益(りやく)をうけ菩提(ぼだい)を招致したいと思う。
       天下の富をたもつものは朕であり、天下の勢をたもつのも朕である。この富と勢とをもってすれば、事はやりやすいが、心はかえって至らなくなる。 といって、強(し)いて人々を協力させようとすれば、不満の声もあがろうし、罪に落ちる者すら出るであろう。 それでは、み仏の心にも叶(かな)うまい。 それゆえ知識に加わろうといる者は、至誠の心をもって、毎日三度盧舎那仏を心に念じ、みずからが大仏を造りまつるという気持になってほしい。 さらにまた、一枝の草一把(ひとにぎり)土ほどのわずかな物でも、造営のために寄進したいという者があれば、願いのままにみな許そう。
       国司・郡司たちは、今度の事を口実に、百姓ひゃくせいを徴発したり、増税したりしてはならない
    (《日本の歴史3奈良の都 大仏開眼》P.351〜352)


    大唐留学

     使人拝命

     そして人選は、幹部のなかでも録事のような下級幹部ほど、対外交渉の実務に長じた官人が選ばれるのは理の当然としても、判官・副使となると、航海中はそれぞれ一隻の船の最高指揮官になりうる人物でなければならず、大伴一族のような古来の武門か、藤原氏でも宇合(うまかい)のような統率力のある人が任命されねばならない。 長官たる押使(おうし)・大使には、加えて粟田真人(あわたのまひと)のような容止(ようし)、温雅(おんが)」「進止(しんし)、(かたち)ある」動作の優雅さと、「好く経史(古典や歴史)を読み、属文(作詩や作文)を解する」教養の深さとか、日本貴族の名誉にかけても必須の条件だったのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.369)


     神社参拝

     養老度の遣唐使人は、出帆の二ヵ月前の一日を割(さ)いて、「神祇(じんぎ)を蓋山(みかさやま)(御蓋山)の南に祀(まつ)った京大で建築史学の講座を担当しておられる福山敏男(としお)氏は、一般の歴史学者よりもむしろ厳密に文献を操作されるが、この『続日本紀』の記事春日(かすが)神社の参拝ではないとする。当時の遣唐大使は多治比(たじひ)氏であり、藤原氏の祖神を祭る春日神社には、いちおう縁がない。 また春日神社は御蓋山の西であって南ではない。 さらに春日神社の今日のような建築群は、当時まだできていなかったらしいというのである。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.373)


     八世紀の神社は、伊勢・出雲などの古来の大社をのぞき、神殿のないのがふつうであり、神社とは神域である境内や、神体である大木・巨石・山など自然物そのものであった神像も仏像の影響をうけて平安時代以後に作られるようになったのである。春日神社のばあいは、正倉院にある「天平勝宝八歳(七五六)東大寺図」のなかに、大仏殿の東南方、御蓋山の西に松の木で囲まれた一画が「神地」と書かれているだけで建物の絵はえがかれていないが、今日に伝わるいわゆる春日造の建築様式は、やはり奈良時代後期のものであろうという。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.374)


     難波津出帆

        四つの船早還(はやかへ)り来(こ)と白香著(しらかつ)け朕(わ)が裳(も)の裾(すそ)に鎮(いは)ひて待たむ
     天皇も裳の裾に、(こうぞ)を白髪のようにつけて、斎戒(さいかい)して待とうというのであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.379)


     東支那海横断

     ふつう、遣唐使の航路図としては、筑紫の大津(博多湾)から壱岐・対馬・朝鮮南西沿岸と西北に航海し、黄海を横断して山東半島に取りつく「北路(ほくろ)」と、五島列島から一挙に東支那海を渡って揚子江口付近をめざす「南路(なんろ)」と、九州西岸を南下して薩摩から多●(たね)(種子)島・夜久(やく)(屋久)島・奄美(あまみ)大島など島伝いに航海し、それから揚子江口付近をめざす「南島路(なんとうろ)」との三つが、教科書や歴史地図にに記入されている。 しかし「北路」を取ったのは七世紀までで、八、九世紀では遣唐使はみな「南路」を取ろうとしている。「南島路」は「南路」を取りそこねて漂流した船がたどる航路である
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.380〜381)


     もっとも遣唐使が帰路、南の島々に漂流するばあいの多いことは朝廷も予想していたらしい。 七三五年(天平七)、七五四年(天平勝宝六)の両度にわたって、それぞれその前年に「南島路」経由帰還した大使・副使らの報告にもとづき、大宰府に命じて南の島々に、島名・停泊地・水場(みずば)・航程を記した標柱を立てさせている
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.381)


     なぜ南の島々に漂着しやすいかは、地図と天気図をみれば了解できると思う。 八世紀では、夏に日本を発ち、翌年秋か冬に帰ってくるのがふつうであった。 北九州から一路西へ航行すれば、出航する朝の東風がそのうちに多少変わっても、目的地は中国沿岸である。とほうもない広さだから、どこかには着く。 しかし逆に揚子江口付近から出帆する帰路は、目的地が狭い日本のしかも北九州である。 風向きが変わったらまず絶望だった。船の構造は、ヨットのように相当な逆風でも目的の方向に舵をとれる、というふうには、できていなかったらしい
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.381〜382)


     また夏の典型的な気圧配置は南高北低だから、風は南風か東風がおもで、往路はほぼ安全である。 しかし秋から冬にかけては大陸に高気圧が発達し、風向が逆になる。 高気圧から吹きだす西風をえらんで揚子江口付近の港を出帆しても、それがいつ北風に変わるかわからない。北東風になったらそれこそ最後であるが、北西風ならば漂流しているうちに、南の島々にそって北上する黒潮にゆきあたる。 そうなればどうやら「南島路」経由、日本に着くことができる。 勝宝度の副使吉備真備(きびのまきび)も、沖縄を経由して、紀伊国沿岸に着いたというから、黒潮のおかげで生還したわけである。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.382)


     一説に遣唐使は季節風を知らなかったから遭難したのだというが、季節風は大陸間の貿易のような長途の遠洋航海に必要な知識である。東支那海を横断するだけならば季節風などは知らなくても、船、とくに帆の構造がよければ問題はなかったはずだ
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.382)


     東支那海横断の速度記録は、遣唐使関係で知られているかぎり、六五九年(斉明五)、壱岐(いき)・対馬(つしま)をへて済州島から揚子江口南方の舟山(しゅうざん)列島に到着した遣唐使副使津守吉祥(つもりのきさ)の船である。 同乗した伊吉博徳(いきのはかとこ)の日記によると、九月十四日寅時(とらのとき)(午前四時前後)に出帆して十六日夜半に着いている。海上六百キロが六十余時間だった。よほど強い風だったらしく、同時に出帆した大使坂合伊部石布(さかいべのいわしき)の船は南の島に流れて、爾加委(にかい)という島に着き、五人が逃げのびたきりで他は全員島人に殺された。 津守吉祥や伊吉博徳の船は帰路も同じ航路を取り、これは九日八晩かかっている。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.382〜383)


     八世紀では鑑真一行の同乗した勝宝度の副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)の船が、揚子江口南岸から沖縄までに六日五晩で帆走したが、沖縄からは島伝いに風をうかがいながら北上したため、薩摩到着までにさらに一ヵ月かかっている。要するに遣唐使の航海とは、まったくの風まかせなのである
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.383)


     長安での春

     二日の後、大明宮(だいめいきゅう)の宣政殿(せんせいでん)で閲見の式があった。 唐では蕃夷(ばんい)が入貢すると、閲見はまず宣政殿でおこなわれることになっている。 代宗(だいそう)(玄宗の孫)は例によって臨御しなかったが、日本から唐への国信(こくしん)や日本の大臣から唐の大臣への信物(しんもつ)などをみて喜び、群臣に展示したという。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.386)


     信物とは音信(おとずれ)を通ずる物、つまり手土産(てみやげ)で、国信国家から国家への軽い贈物という程度の意味であるが、『延喜式』によると、日本へ来た唐使に託する「大唐皇帝」への信物は、銀五百両、帛(きぬ)二百疋、●(あしぎぬ)類千疋、生糸(きいと)五百疋、綿(わた)類一千屯、栲(たえのぬの)等百三十端、出火水精(しゅっかすいしょう)十個、瑪瑙(めのう)十個、出火鉄十具、海石榴(つばき)油六斗、甘葛(あまずら)汁六斗、漆四斗などとなっている。 遣唐使のもたらす信物についての規定はない。 ただ日本の水精・瑪瑙などの巨大さに、唐人は驚嘆したらしいことが『旧唐書』などからうかがえる。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.386〜387)


     東畔の第一席

     会場係の将軍呉懐宝(ごかいほう)が用意した席次は、東畔(とうはん)(東側)の第一席に新羅(しらぎ)、第二席に大食(サラセン)、西畔の第一席に吐蕃(チベット)、第二席に日本という順だった。 席次をみるや古麻呂は懐宝に抗議した。
     「昔から新羅は日本に朝貢している国である。 しかるに日本より上席にすえるとは、道義にそむくではないか
     懐宝は古麻呂の顔色が変わっているのをみて、新羅の使人に因果をふくめ、席を交代してもらうことにした。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.387)


     以上の話は、無事帰国してからの古麻呂自身の報告である。 一行の責任者である大使藤原清河の当時の態度は、清河がついに帰国しなかったので不明である。 ただ使人一行が玄宗の気にいって、さまざまの好遇を受けた直後であったし、大使はともかく副使のかれは、抗議ができるほどには唐語が話せたのであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.387)


     唐朝の待遇

     遣唐使とともに往復する請益生は問題ないが、留学生がひとたび唐へのこると、帰国にはみずから旅費を調達するか、僧ならば途中布施(ふせ)を受けるかして、渤海(ぼっかい)から新羅と、遠い路を迂回しないかぎり、次回の便を見送った行賀(ぎょうが)のように、在唐三十一年と伝えられる者まであった。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.390)


     使人たちは、唐に上陸後その地の出先官憲に出頭してから帰国するまで、始終宿舎・食糧の給与をうけた。 また旅行も官費であったから、帰国にさいして唐朝から支給される餞別(せんべつ)などは、粟田真人のようにことごとく書物の購入費にあててしまうこともできた。留学生もまた、諸外国からの留学生と同様に、唐朝の方針で衣食を支給されていたが、学問僧勉学の便宜を受けるだけで、九世紀までは配属された寺に生活し、また布施(ふせ)を受けて旅行していたらしい。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.390)


     留学生・学問僧は、次回の遣唐使を待つとすると、いつ帰れるかわからないわけであるから、なかには玄朗(げんろう)や玄法(げんぼう)のように還俗(げんぞく)して、ついに唐人の間にその姿を歿してしまった僧もいた。 かれらは井上靖(いのうえやすし)氏がその作品『天平(てんぴょう)の甍(いらか)』で想定されたように、学問に倦み、望郷のむなしさを恋愛にまぎらわしたのかも知れない。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.390)


     国際結婚

     国際結婚は古くからあった。 七世紀でもその例は知られているが、天平度の遣唐判官秦朝元(はたのちょうげん)は、大宝度の学問僧弁正(べんしょう)の在唐中の子であった。 弁正は秦氏の出である。 少年時代に出家し、博学で聞こえたが、また駄洒落(だじゃれ)と囲碁(いご)の名人でもあった。 在唐中は皇太子時代の玄宗(げんそう)としばしば碁を打った。 後年、朝元が入唐すると、玄宗は「ああ弁正の子か」となつかしんで厚遇してくれたという。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.391)


     弁正とて、帰れない国とわかりながら、故国は恋しかった。『懐風藻』には「唐に在(あ)りて本郷を憶(おもう)」という一首が収められている。
      日辺膽日本(につぺん につぽんをみ)
      雲裏望雲端(うんり うんたんをのぞむ)
      遠遊労遠国(ゑんいう えんごくにいたづき)
      長恨苦長安(ちやうこん ちやうあんにくるしぶ)
     望郷の想いも、日辺・日本とか長恨・長安などとか洒落(しゃれ)なくては、詩にしえない人だった。
    (《日本の歴史3奈良の都 大唐留学》P.391)


















































    継続中