[抜書き]『日本人はどこから来たか』


『日本人はどこから来たか』斎藤忠・講談社学術文庫
1996年11月20日 第21刷発行
    目次
    はしがき
    1 人類のはじまりと日本
     1 生命の誕生と人類の進化
      地球の生命と人類と   百万年間の氷河期と日本   化石となって見つかる旧石器時代人   餓えと寒さに耐えた数十万年
     2 旧石器時代の日本
      象も虎もいた、そして人間も……?   くずれかけたがけから旧石器人の腰骨   原始の特徴をそなえた明石人   続いて葛生・牛川・三ケ日・浜北人……
     3 赤土の中から石器
      考古学にとりつかれた一青年   学界の常識を破る発見   土器を知らなかった時代の道具
    2 日本人の祖先
     1 ふきの下の人「コロボックル」
      アイヌ伝説の中の小人たち   天からたくさんの石鏃が降る   石鏃を使ったのはいったいだれか   アメリカ人モースの大森貝塚発掘
     2 はるかなる人々の投影
      先住民族コロボックル説   コロボックル説への有力な疑問   島伝いにきた北域の人々か
     3 蝦夷とアイヌ
      先住民族アイヌ説   「記・紀」に出てくる蝦夷たち   蝦夷はアイヌ人だとする確証はない
     4 祖先は石器時代人
      石器時代人とアイヌ人との関係はうすい   日本人の基礎は石器時代にできた   原始日本人に多くの混血をかさねて
     5 武力侵略は受けなかった
      大和王朝は騎馬民族がつくったという説   入ってきた大きい要素は大陸の文化   主体はどこまでも原始からの日本人
     6 日本語のおいたち
      素姓がなかなかつかめない   日本語が持っている特質   北方語の血も南方語の血もふくむ   二−三世紀に北九州で成長した
    3 石器を使った人々
     1 土器をつくる
      縄文のある土器以前に何段階かの土器   土器は、いつ、どうして作られたか   土器をはじめて持った人々
     2 採集生活の衣食住
      自然のほらあなや岩かげの暮らし   縄文時代のはじめには竪穴住居も   竪穴住居の移り変わり   ムラをつくり、貝塚をつくった人々   なにを着て、なにを飾っていたか
     3 狩りをする人、魚をとる人
      生命をつなぐ狩り、魚とり   狩りの道具と技術   魚とりの道具と技術   魚をつき刺すみごとなもりづかい   貝採集は女子が分担した重要な仕事
     4 縄文文化のおわりころ
      石器・土器をささえに定着への歩み   文様に、形に、土器のみごとな発達   縄文文化の特徴がうすれる   呪物崇拝と女性土偶の変化   成人式としての抜歯の風習   土葬にも一つの秩序が生まれる   稲づくりの文化の時代をむかえる
    4 米をはじめて食べたころの人々
     1 生活がすっかりかわる
      現代日本につながる生活革命   どこの米がどこからきたか   食べ物をつくれるようになった   あぜをつくり田んぼをつくる耕作へ   貧富の差ができ階級が生まれる
     2 階級のある社会に
      支配する者とされる者が生まれる   低地に定着し、ムラができる   地機で布を織り、硬玉やガラスで細工   鉄の利器や銅の鏡が登場   身分の高い者の墓には銅鏡を副葬
     3 銅鐸と銅鉾の秘密
      山腹や丘陵にうめられた銅鐸   二、三世紀日本の独自の作品   ムラのしあわせを守る共同の宝器   北九州の勢力を暗示する銅剣・銅鉾
     4 「魏志」倭人伝
      邪馬台国はどこにあるか   倭(わ)の習俗とその風土   邪馬台国の政治体制   卑弥呼を親魏倭王に任命   卑弥呼の死
    5 ムラから国へ
     1 奴の国王の金印
      田のあぜから金の印判が出た   「漢委奴国」は「漢の委の奴の国」   奴の国王は金印を守るためにかくしたか
     2 邪馬台国と卑弥呼
      「魏志」倭人伝に記録された邪馬台国   歴史上重大な邪馬台国の位置   北九州か大和か、依然としてわからない   これから後、どうして解決するか   いまのところ九州説をとるのが適切か
     3 大和統一国家の成立
      邪馬台国が消えたとたんに大和国家   畿内を中心に出現した高塚の墓と大和国家   大和国家の最初の首長は崇神天王   各地方豪族の強力で統一国家に
    6 古墳をつくったころ
     1 古墳とはなにか
      土の中に秘めた歴史   前方後円墳はどうしてできたか   死者への考え方の変化を語る墓穴
     2 埴輪と副葬品
      「日本書紀」の二つの物語   埴輪は習俗を語り、古人の心を語る   副葬品とその意味
     3 躍進する新生日本の象徴
      大和朝廷の進展を証言   五世紀には全国的に前方後円墳   はつらつとした新生日本を誇示
     4 技術の発達
      活気にみちた四〜六世紀の人々   ガラス工芸や金属工芸の発達   須恵器の誕生と土木技術の発達   石室の壁に幻想的な色彩画
     5 古墳時代の暮らし
      貴族・豪族たちの衣食住   権力を誇示する大量の武器・武具   国民一般は、なおそまつな竪穴生活   古代人を支配してきた祭り   とくに信じられたまじないの力   文字の習得による思想の深まり
    索引


    1 人類のはじまりと日本

     1 生命の誕生と人類の進化

     地球の生命と人類と

     大生物群の上陸という地上最大のドラマの一つは、まず植物によっておこなわれた。 空中に頭をもたげて呼吸することができるようになった、プシロフィトン(しだ類の仲間)が現れたのだ。 このプシロフィトンには根と茎とがあり、茎には小さな葉がある。 プシロフィトンは地上にはいあがった。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.14)


     植物が上陸して生活を始めると、これを追って動物の上陸が起こる。 地上には、やがてしだ類の大森林ができ、それが滅び、次には、いちょうなどの、樹木の時代がきた。 動物では、昆虫(こんちゅう)やげじげじのような多足類(たそくるい)につづいて、爬虫類(はちゅうるい)や鳥類が現れた。脊椎(せきつい)動物たちが地上に定着したのだ。 そして、やがて、わたしたち人類もその仲間の一員である、哺乳(ほにゅう)動物の活躍するときがきた。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.14)


     百万年間の氷河期と日本

     この氷河時代の日本は、現在のような列島の形をしていなかった。 かなり広い範囲にわたって陸続きだった。 北はサガレン(樺太(からふと))・北海道本州が陸続きだったし、南もフィリピンジャワと続いていた。 そして、日本海はちょうど湖のようになっていた。 地球の長い歴史の間にかなりの変動はあったけれど、朝鮮半島とはずっと陸続きだった。 したがって、日本の地域は、地球の歴史からいえば「ついこの間まで」大陸の一部だった
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.16)


     このことは十分にわたしたちの頭に入れておく必要がある。 というのは、地球上の原人(げんじん)−−あとで延べる旧石器時代の人々が生きてきた時期に、日本が孤立した島でなかったということは、大陸にいたほどの人類や動物が日本にもいた、と考えられるからだ。 もちろん、大陸に生えていた植物が、日本にも生えていたに違いない。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.16〜17)


     化石となって見つかる旧石器時代人

     ネアンデルタール人−−オーストラロピテクスやペキン原人などに次いで現れた旧人のうちの著名な人類で、ヨーロッパ・アフリカ・アジアの一部で発見されている。 一九六一年、日本の学者も、東京大学の鈴木尚(すずきひさし)博士や高井冬二博士などが中心となって、西アジア洪積世人類遺跡調査団を組織し、イスラエルの洞窟(どうくつ)をしらべた。 そして、このネアンデルタール人の特色を持った人骨を発見した。 また、石からはぎとった石片(せきへん)を加工した石器も見つけた。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.20)


     2 旧石器時代の日本

     象も虎もいた、そして人間も……?

     植物にしても、寒冷地に育つ朝鮮松から松などが、かなり広く各地に繁茂していたし、メタセクオイヤあけぼの杉)なども低地に茂っていた。 もちろん日本も、この時代は世界各地と同様に、氷期や間氷期の影響をまぬかれるわけにはいかなかったようだ。 しかし日本は、近くを黒潮が流れ、海洋性の気候にめぐまれて、間氷期などにはかなり温暖になったに違いない。つまり、この東の果ての地域は、生物にとって、生き長らえるにはたいへん具合のよい場所だったのだ
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.23)


     しかしここも、氷河期が終わるころには、海面の上昇につれて朝鮮海峡ができ、また、南も北も切り離されて、やがて今の日本列島の形になっていく。大陸からすっかり離れてしまうのだ
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.23)


     狭い地域に閉じこめられた巨大な動物は、だんだんに小さくなっていくといわれる。 青森(あおもり)県や栃木(とちぎ)県の葛生(くずう)、瀬戸内海(せとないかい)や山口(やまぐち)県の秋芳洞(しゅうほうどう)で発見されたあおもり象の化石から考えて、これらあおもり象は、ナウマン象が、孤立した日本列島で小型化したものだろう、といわれている。 そして、時とともに、かつて栄えた旧象たちや、ひょうなど大型の獣は、この孤立した島国の中で絶滅の運命をたどっていった。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.23〜24)


     3 赤土の中から石器

     考古学にとりつかれた一青年

     石器時代(せっきじだい)の遺跡から、縄文式土器(じょうもんしきどき)といっしょに石器が発見される。 そしてその石器は、いうまでもなく沖積世(ちゅうせきせい)(現世(げんせい))に属するものだ。 −−こうした考え方は、明治以来、昭和二二年ごろまで、多くの人々が常識のように抱いていたものだった。 だから、もしもその当時、縄文時代の遺跡からだけでなく、関東ローム層といわれる赤土の中からも発見されるといいだす人があっても、恐らくだれからも信用されなかったことだろう。関東ローム層とは、洪積世(こうせきせい)の終わりごろ、はげしい火山活動があり、その噴火によって堆積(たいせき)した赤土層(せきどそう)といわれている。 そしてこの赤土の層は、沖積世の黒土(腐植土)におおわれている。そんな古い赤土の中から、人類の遺物が出ることなどありえないと、一笑に付されたに違いない。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.30)


     しかしそれは、事実となって現れた。 その最初の発見者は、群馬県桐生(きりゅう)市に住んでいた一青年、相沢忠洋(あいざわただひろ)さんだった。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.30)


     相沢さんは、少年のころから考古学が非常に好きだった。 かれはある偶然から石器を発見し、学界に報告したのだが、その発見は、ただただ相沢さんの異常な熱心さがもたらした成果だというほかない。 かれは大学に進学し、好きな学問をすねるような恵まれた境遇にはなかった。 一九二六(大正十五)年に横浜で生まれ、父親とともに鎌倉(かまくら)に住んで、そこの小学校にあがった。 そのころすでに家庭は裕福ではなくなっていた。 しかし、古い歴史を持つ町、鎌倉で少年時代を過すうちに、相沢さんは古い時代に対して一種のあこがれに似た感情を抱きはじめていた。 たとえば小学生のころ、家の近くで地ならし工事があったとき、相沢さんはそこで発見されたたくさんの遺物を見ることができた。 そして調査にきた人から、それが大昔の人々の使った道具であることを教えられた。 こうして相沢さんは、「夕暮れともなれば、家族だんらん、いろりを囲み、その日の出来事を語り合い、また明日への希望として生活していた大昔の人々」のことをしばしば考えるようになった。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.30〜31)


     その後、東京の浅草で商店の店員になった相沢さんは、夜学に通い、また上野公園にあった当時の東京帝室博物館(とうきょうていしつはくぶつかん)にもときおり足を運んで、石器類の知識を深めた。 太平洋戦争二年目の一九四二(昭和一七)年、相沢さんは群馬県の桐生に移り住んだ。 そして戦争が終わるとともに、赤城(あかぎ)山のふもとの村々を行商しながら歩いた。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.31)


     赤城山のふもとの村々には、古墳もあり、縄文式土器石器も豊富だった。 だからかれは、それまでに独習した考古学の知識を、実地に生かすことができた。 おもしろい遺跡をさぐりあてたときは、商売のほうは忘れて、一日じゅう、夢中で調べることもあった。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.31)


     学界の常識を破る発見

     一九四六(昭和二一)年の晩秋のある日、相沢さんはいつもの行商で群馬県新田(にった)郡笠懸(かさかけ)村の岩宿(いわじゅく)というところの丘陵付近にさしかかった。 そして赤土の崩れた層の表面に落ちていた石のかけらに目をひかれた。 すすきの葉のような形をした、黒曜石(こくようせき)だった。 かれは、細石刃(さいせきじん)の破片に似ているなと思った。 その翌年の冬にも、同じ場所で同じような石を見つけた。どうも人手によって加工された石片のような気がする
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.32)


     こんなことから、相沢さんはとくにこの場所に注意するようになった。 そして一九四九(昭和二四)年の夏、そこの赤土の中に石片があるのをはっきり見つけたのだ。 この時のことを相沢さんは、次のように回想している。
       がけの両断面を詳細に観察しながら、両側の沼に面した三峯(みつみね)山へのぼる細道の断面に目をやったおり、細長い黒曜石の大型のものが、つきささったような状態であるのを見つけて、注意深く掘っていくと、最初はわが目を疑ったくらいりっぱな完形石槍様石器(かんけいせきそうようせっき)であった。 石器についていた赤土を手ではらったときの感動は、終生わすれられないものであった。

    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.32〜33)


     この発見は、それまでの考古学界の常識を完全に破るものだった。
     「この地方の関東ローム層に石器をふくむ文化層のある事実、それは土器がなく石器だけをふくむという事実
     このことを、相沢さんは自分の目で見、自分の手でつかんだのだ。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.33)


     相沢さんの報告は、いまは東北大学にいる芹沢長介(せりざわちょうすけ)教授や、明治大学の杉原荘介(すぎはらそうすけ)教授を動かした。 そして、同じ年の九月、杉原教授らによる岩宿遺跡の発掘がおこなわれれ、関東ローム層の下のほうから楕円状の握(にぎ)り槌(づち)の形をした石器が発見された。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.33〜34)


     土器を知らなかった時代の道具

     こうして、日本にも、洪積世の終わり−−火山活動のはげしかったころに、石器を使った人類が生活していたことがはっきりしてきた。 またその後も各地で、このような赤土や、それに相当する時代の地層から、同じような石器が発見された。 いまでは、岩宿での発見以前には、学者たちから注意されることもなく土の中にねむっていた遺跡が、全国に千ヵ所ちかくあることが知られている。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.34)


     この文化は、縄文式土器が使用されたころより前のものであった。 だから、先土器文化(せんどきぶんか)とか、先縄文文化(せんじょうもんぶんか)とか名づけられた。 まだ土器というものを知らない人類の文化である。 だから、無土器文化(むどきぶんか)ともいわれる。
    (《日本人はどこから来たか 人類のはじまりと日本》P.34〜35)


    2 日本人の祖先

     1 ふきの下の人「コロボックル」

     アイヌ伝説の中の小人たち

       「日本の石器時代人、つまり、土器時代以前に日本に住んでいたのは、コロボックルとよばれる人々である。 それは日本の先住民族(せんじゅうみんぞく)であって、われわれ日本人の祖先とは異なる人種である。

     こういう学説が、明治一五年ごろから明治の終わりにかけて、かなり広くとなえられたことがあった。コロボックル−−すかにも不思議なひびきとイメージを持った呼び名だ。 まるで物語か詩にでも出てくる人々の名のような気さえしてくる。 事実、コロボックルというのはアイヌ語で、北海道のアイヌ人のあいだに伝わっている説話の中の小人(こびと)のことなのだ。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.37)


     この「コロボックル」という語がどういう意味を持つかについては、いろいろな説がある。 たとえば、それはコロコニボックル」の略で、コロコニは「ふき」、ボックは「下」、クルは「人」、だから「ふきの下の人」という意味であるという。 また一説には、それはコロポキコンウングル」が変化したもので、コロは「ふきの葉」、ポキは「下」、コロは「持つ」、ウンは「住む」、グルは「人」、つまり「ふきの葉の下で、その茎を持って住んでいる人」ということだともいう。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.37〜38)


     天からたくさんの石鏃が降る

     八三九年、仁明(にんみょう)天皇の承和(しょうわ)六年のことである。 それは藤原氏(ふじわらし)がようやく勢いを持ちはじめたころであるが、出羽(でわ)の国田川郡(たがわごおり)(山形県)の西浜(にしはま)というところに十日間の大雨がつづいた。 その雨がようやくあがったとき、この西浜の海岸の砂浜に、たくさんの石鏃が散らばっていた。 これを見つけて、村じゅうは大騒ぎになった。 人々は、大雨とともに、これらの石鏃が天から降ったと信じたのだ。 事件はただちに京都に報告され、「天から降った」石鏃は朝廷に献上された。 朝廷では、これはなにか容易ならない事件の前兆にちがいないと判断した。 そして神に祈りをささげた。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.40)


     この石鏃は、いうまでもなく、地中に埋まっていたものが、ものすごい雨にたたかれて出てきたのにちがいない。 現在でも畑地などによくあることだ。 しかし当時の人々には、それは神さまの仕業としか考えられなかった。 人々は、雲の上で神々の戦がおこなわれ、そのとき放ったやじりが地上に落ちてきたのだと思った。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.40)


     こうした伝説は、当時からすでに七百年を経た江戸時代においても、そのまま信じられていた
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.40〜41)


     その江戸時代に、それは天から降ったものではない、大昔のものが雨に洗われて出てきたのだと、まず気づいたのは、すぐれた学者、新井白石(あらいはくせき)(一六五七−一七二五)である。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.41)


     石鏃を使ったのはいったいだれか

     「古代中国の東北部に、粛慎(しゅくしん)という部族がいた。 この粛慎族が、奥羽地方(おううちほう)の日本海側を侵した」という事件が「日本書紀(にほんしょき)」に記録されている。白石はこの古い記録に気づき、西浜海岸の砂浜にあらわれたたくさんの石鏃は、その粛慎が襲来してきたときに射たものだろう、と判断した。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.41)


     しかし、別の説をとなえる学者もあった。 「いや、アイヌ人の祖先の蝦夷(えぞ)が使ったのだろう。」 「それはおかしい。北海道にいる蝦夷が、東北地方にやじりを落とすわけがない。」 「それなら、北海道の蝦夷に射られたがんたちが、やじりをつけたまま飛んできて、出羽の海岸に落としたのにちがいない。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.41)


     アメリカ人モースの大森貝塚発掘

     明治時代になって十年、日本の考古学に一つの画期的な事件が起こった。 一八七七年、日本の貝類についての研究のため来朝したアメリカ人モース(一八三八−一九二五)が、東京の大森貝塚(おおもりかいづか)を発見したのである。 それまでに、日本の各地から、石鏃や石斧などの石器、あるいは縄文(じょうもん)のある土器が発見されていた。 ところが、そういう道具を使ったと思われる原始人たちの暮らしがあったことを、はっきり裏付ける貝塚−−原始人の集団的なごみ捨て場が発見されたわけだ。 また、この大森貝塚では、貝がらにまじって人骨も出てきた。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.42)


     発見者のモースは、この貝塚を残した人々は食人種で、いまの日本人の祖先ではあるまい、と考えた。 「かれらは日本の先住民族だろう。 アイヌ人には食人の風習がない。 だからこれは、アイヌ人の前に日本に住んでいた、おそらくエスキモー系統の人々が残したものだろう。」と。 また、モースより一年早く来日したイギリス人の地質学者ジョン=ミルン(一八五〇−一九一三)は、その先住民族というのは、アイヌ人の前に日本にいたコロボックルかもしれないと考えた。 そして、これらの考えは、ほとんど学界の常識のようになった。文明開化期の明治日本では、外国人の言説は、そのことの真偽を確かめる前に、すでに、正しいとする傾向が強かった。 明治ばかりでなく、この傾向はいまなおわたしたちの中に尾を引いている
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.42〜43)


     2 はるかなる人々の投影

     コロボックル説への有力な疑問

     しかしやがて、このコロボックル説に対して強い疑問が持たれるようになった。坪井博士の教えを受けた鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)博士(一八七〇−一九五三)は、北千島のアイヌ人を調査して、つい最近まで、アイヌ人たちが石器や土器をつくり、それを使っていた事実を確かめた。 それだけでなく、坪井説の有力な根拠の一つであったコロボックル伝説が、北千島のアイヌ人たちには伝わっていないことをも明らかにした。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.45)


     また、坪井説への疑問の石は、別の立場からも投ぜられた。 投じた人は、解剖学小金井良精(こがねいよしきよ)博士(一八五八−一九四四)である。 小金井博士は、石器時代人・アイヌ人・日本人の、それぞれの骨格を比較研究して、次のような結論に達した。
     「石器時代人の骨と日本人の骨とのあいだには、著しい相違がある。 では、石器時代人とアイヌ人とはどうか。 そこには、相違点もあるけれども、共通点も多い。 つまり解剖学的に見て、日本の石器時代人はアイヌ人の祖先であろう。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.45)


     これにつづいて、後に、考古学者となり、京都大学の総長になった浜田耕作(はまだこうさく)博士(一八八一−一九三六)は、明治三十年代なかば、当時まだ二十二歳の東大生だったが、学界の大御所坪井正五郎博士のコロボックル説に対して、堂々の反論を発表した。 それは日本石器時代人につきて余(よ)が疑いという表題であった。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.45〜46)


     3 蝦夷とアイヌ

     「記・紀」に出てくる蝦夷たち

     景行(けいこう)天皇の御代とされている時期は、四世紀、つまり6の章で述べる古墳時代の前期にあたり、統一国家が成立して、しだいに地方に勢力を伸ばしていたころである。大和朝廷(やまとちょうてい)は、勢力の拡大のために、熊襲(くまそ)の名で代表される九州の勢力をおさえる一方、蝦夷の地、東北地方をもその支配下におさめる努力をつづけていた。「古事記」によれば、景行天皇は竹内宿禰(たけのうちのすくね)を、北陸・東方諸国の地形や民情視察に派遣しているが、竹内宿禰はその視察報告で、「東夷(とうい)(東方の未開な国々)の中に日高見国(ひたかみのくに)という国(北上川上流の地域を中心とする岩手県地方)があり、その国の者は、男女とも頭髪をまげたりしないで、自然のままにし、入れ墨をしており、たいへん勇ましくたけだけしい。 これを蝦夷という。」と記している。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.49)


     5 武力侵略は受けなかった

     主体はどこまでも原始からの日本人

     さて騎馬民族征服説では、三世紀の終わりか四世紀の初めにかけてのころ、南朝鮮から北九州に多くの人が来たという。 しかし、もしそうだとすると、その証拠が多数残っていなければならない。 ところが当時の北九州にはそれを示す南朝鮮の文化はあまり見いだせない。 また江上氏は、朝鮮に発達した古墳の壁画や古代山城址(こだいさんじょうし)が北九州に多いという点もあげている。 しかし、これらは実際には、いずれも六、七世紀のころのもので、壁画のほうは高句麗(こうくり)の古墳の影響によって発達したものであり、山城(さんじょう)は百済(くだら)の技術者などの指導でつくられたものであった。 そして、当時の古墳文化は主として畿内を中心として発達し、北九州にも影響を及ぼしたもので、北九州の古墳文化が著しく畿内に進出したとみられるような証拠はない。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.61〜62)


     このように、江上氏の騎馬民族による日本征服説には、いろいろの点で無理なところがある。 日本の古代文化、ことに四世紀から七世紀にかけての文化は、6章で述べるように、百済からの阿直岐(あちき)とか王仁(わに)とかの来朝による中国の学問の伝来や、六世紀前半には仏教が入ってくるなどによって、日本民族の精神生活が深まり、また、帰化人(きかじん)がもたらした養蚕・織物・裁縫などの技術による社会生活の充実にともなって、著しく進歩発達した。 このことは認めなければならない。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.62)


     6 日本語のおいたち

     日本語が持っている特質

     文法のうえからは、
     主語が述語(じゅつご)に先立つ(雪が−降る)。客語(きゃくご)。補語(ほご)も、述語に先立つ(雪が−東北地方に−たくさん−降った)。修飾語はかならず被修飾語の前に置く(美しい−雪、美しく−つもった)。名詞に冠詞がない。 したがって名詞に、ヨーロッパ語にあるような性がない。 複数とか単数を表す名詞や動詞の変化がなく、「われわれ」とか「わたし−たち」というふうに、名詞をかさねたり、たち・ら・ども、というような語をつけて複数を表す方法がある。 英語では、たとえば「雪でつくったもの−そのものは雪だるまである」というような関係代名詞があるが、日本語にはそれがない(雪でつくった−だるま)。動詞に助動詞・接尾辞が結びつく(雪が降る−だろう−のだ−ぞ……)。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.66〜67)


     また、発音のうえからは、
     母音(ぼいん)(あ・い・う・え・お)と子音(しいん)との簡単な組み合わせで、さまざまな音節(おんせつ)が生まれる。子音が語頭(ごとう)および語中(ごちゅう)に二つつづくことはない同音語(橋と箸(はし)、雲と蜘蛛(くも))なども多い。純粋な日本語では、ら・り・る・れ・ろや、濁音が語頭に立つのをきらう。 もしあれば外来語がもとになっている。 単語は、たいてい二音節以上(ゆき−雪・あられ−霰(あられ))でできていて、一音節(す−酢(す)・と−戸)のものは少ない。 ヨーロッパ語では、アクセントが強弱で表されるが、日本語のアクセントは発音の高低で表す。
    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.67)


     北方語の血も南方語の血もふくむ

     南方諸民族は、日本の神話をとおして見ても、日本人となんらかの関係をもっているらしい。 とすると、ことばもまた断ちがたく結び合っているにちがいない。 しかし、どこにも古い記録はない。 とはいえ、言語学者たちのたゆまない研究によって、日本語の位置がある程度はっきりしてきている。 ここでは、一つ一つの単語・文法・発音などの比較はやめて、その結果だけを述べよう。
       アイヌ語−−文の組み立てはよく似ている。 けれども単語どうしには類似点がほとんどない。 だから日本語とは系統がちがう。
       朝鮮語−−蒙古語満州語トルコ語などをふくめて、アルタイ語系を構成している。 アルタイ語系の特色は、日本の古語が持っていたといわれる母音調和(ぼいんちょうわ)があり、また、構造が日本語と似ている。 母音調和とは、あ・お・うの三つの母音は仲よしであって、一つの単語の中で、ぐあいよく同居することをいう。 アルタイ語はこうした特色を持ち、朝鮮語は、このアルタイ語の特色をそのまま持っているばかりでなく、日本語と造語法(ぞうごほう)(ガラガラとかゴロゴロといった擬態語(ぎたいご)など)がそっくりである。 ところが、アルタイ語系が一般に、日本語とは単語において違いがあり、朝鮮語に非常によく似た単語があるが、日本語が、母音で終わるのに対して、朝鮮語は子音で終わるという違いがある。 だから、日本語はアルタイ語系に属するようではあるが、厳密にいうと、よく似たところのある朝鮮語さえも、はっきり兄弟だといいきれない
       チベットビルマの人々は南方蒙古族といわれ、南方語族に属し、そしてチベット語もビルマ語も、日本語と語順が似ている。 けれども、単語が日本語とはまるで違う。
       南方の諸島のことは、とくにポリネシア語(インドネシア系)などは、文法構造では、日本語とまったく違っているが、あ・い・う・え・おの母音ですべて終わることと、人体関係の単語には日本の古語と一致するものが案外に多いということが注目されている。

    (《日本人はどこから来たか 日本人の祖先》P.69〜70)


    3 石器を使った人々

     4 縄文文化のおわりころ

     石器・土器をささえに定着への歩み

     琵琶湖(びわこ)の南端、瀬田(せた)町の近くに石山貝塚(いしやまかいづか)がある。 かなり古い時期に営まれた貝塚である。 ここは湖のそばなのに、海でしかとれない魚や貝が発見されている。 日本海側の若狭湾(わかさわん)あたりから運ばれたのか、それとも瀬戸内海方面からか、わからない。 それにしても、遠距離の海岸地域から送りこまれたことは事実である。 これら海産物は、ただでくるわけはないから、なにか石山貝塚をつくった人々の採集物と、海からの採集物とが互いに交換されていたのだろう。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.103)


     石器をつくる重要な材料の黒曜石(こくようせき)が手近にない地域では、ぜひとも、どこかあるところから手に入れねばならなかったし、海辺で漁をする人たちは、漁具をつくるためのしかの角や骨が必要だった。 山の人々にはまずがなかった。 塩分のついている海藻(かいそう)や魚介類(ぎょかいるい)を受取ることは、どんなにかありがたかっただろう。 しかし、それだけでは必要な塩分は不足だったにちがいない。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.103〜104)


     縄文時代が進み、ほうぼうに集落が定着するころには、海辺では、山の人々に供給する塩がつくられ、これも山のものとの交換に一役を買っていただろう。 そして、山での獲物、たとえば毛皮とか獣肉とか骨角などを海辺に供給する。 そういう交換経済が成り立っていたと思われる。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.104)


     木でつくった道具も発達したが、狩りに使った弓には、赤や黒のうるしを塗ったものもある。 しかし、このように縄文時代の人々をささえた諸道具の中で代表的なものは、やはり石器と土器とである。 ことに、石器は、その材料とする石材は、各自の集落の周辺のどこにでもあって、たやすく手に入れられるものではない。 遠隔の土地にあり、これを手に入れるために、海上を利用しまたは山の峰づたいに、あるいは谷間から谷間へとわたり、苦労して手にしたものであったであろう。黒曜石もそれである。 現在、北海道では、十勝石といわれているくらい十勝地方に多く産出しているが、このほかには、関東地方では、長野県の和田峠蓼科地方の山や箱根の山中の渓谷から発見されている。 また九州では、大分県の国東(くにさき)半島にある姫島も著名である。 このような産出地を知り、それぞれ、地の利の便なところで得たものであろうが、この場合、この産出地の近くの集落などは、この原料を多数採取所有しており、遠くから訪れた人々と交易したものと思われる。 また原石の材料にめぐまれたところでは、そこで石器をつくりこれを交易の資源にしたであろう。 近年、調査によって明らかにされたものに、熊本県菊池郡西合志(にしごうし)町の二子山の遺跡がある。 この山には母岩が露呈しており、石器の半製品なども数多く発見されている。 やはりここが石器の供給所でもあったようだ。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.104〜105)


     石器は、旧石器時代から、打ったり、切ったり、削ったり、突き刺したりする道具に使われた。 その材料の石は、黒曜石・火打ち石・頁岩(けつがん)・サヌカイトなどかたい質のものがえらばれた。 打製(だせい)の石斧(せきふ)、磨製(ませい)の石斧皮はぎとか石匙(いしさじ)と呼ばれている石小刀(いしこがたな)・石錐(いしきり)などは、とくに重宝がられた。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.105〜106)


     縄文文化の特徴がうすれる

     つまり、縄文時代晩期になると、もちろん主食になるほどではないが、ある程度の植物の栽培も行われたのではないかと考えられる。 次の弥生時代には稲作が始まるが、すべての農耕が弥生時代に入って急に起こったとするほど、弥生式と縄文式終末との時代の区別が、はっきりつけられるわけではないのだ。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.111)


     着るものは、細いより糸をからみ合わせてつくった布を加工したものだった。 細いより糸をくっつけて縦にならべ、これに他の二本の糸を横糸にしてからみ合わせて織った。 そうした布地や毛皮を縫い合わせるのに使ったと思われる、骨製のなども出土している。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.111)


     うるしを塗った木細工に彫刻をした腕輪くしひすいの耳飾りなどの装身具はますます発達した。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.111)


     東北地方を中心とした東日本の土器の発達はめざましい。(はち)や高坏(たかつき)、(わん)や香炉(こうろ)の形をしたものから、今日の土びんのような口のついたものなどがつくられ、文様もこまかく、なだらかな曲線がのびのびと描かれている。 赤い丹塗(にぬ)の美しい土器もある。 そのほかに藍胎漆器(らんたいしっき)といって、しの竹あしなどを編んで、その内側と外側とにうるしを塗った器具もつくられた。 それは外観が美しいばかりでなく、持ち運びにも軽くて感じがいい。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.111〜112)


     呪物崇拝と女性土偶の変化

     土偶は、その形も変化したが、同時に、呪物としての意味内容も、長い年代を通じて変化したにちがいない。 不幸を忌(い)みさけようとし、幸福を祈る人間の気持ちにかわりはなくても、環境や状況の変化によって、願いごとはかわる。 まじないの土偶もまた、一種の地母神(じぼしん)のようなものとして崇拝され、礼拝されるようになったかもしれない。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.116)


     中期以降の呪的信仰ということを考える上に、もう一つ重要な資料がある。 それは、長野県などの山岳地帯の遺跡出土品の中に(へび)のついている土器がかなり目立つことである。 しかも、明らかに、(まむし)とみなされるものがある。 蛇に対して普通の人は嫌悪の念をいだく。 ことに蝮は人々に危害を加える恐ろしい爬虫類(はちゅうるい)の一つだ。 このようなものを、何故土器の口線部などにとりつけたものであろうか、この土器に人をよせつけないという〔まじない〕的な意味をもったものであろうか、あるいは特別な信仰の用具として、この土器が使用されたものであろうか。 とにかく、なんらかの呪的な意味をもっていたにちがいない。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.)


     石棒といわれている石製品も、やはり精神生活に関係したものである。 石棒は文字通り石の棒であり、最も単純にその形状をあらわした名称であるが、これには一メートルに近い大きいものもあり、両端がふくらんでいる。 また、三十センチぐらいの小さいものがあり、一端のふくらみに樺皮をまきつけた例もある。 関東地方の農村を歩くとよく小さな祠(ほこら)の中に、この石棒が祭られているものもあり、土地では「石神(いしがみ)さま」などと呼んでいることもある。 もっとも、これは、縄文時代の遺物に対する新しい民俗信仰であるが、しかし、石棒自体はやはり実用のものとは思われない。 あるいは儀仗的(ぎじょうてき)なシンボルのようなものもあったであろうし、住居内に安置し、信仰の対象をなしたものもあったとみなされる。 近年、長野県下伊那郡高森町の琉璃寺前(中島)遺跡で、三号住居跡の床面の中央に弓形の石囲いの炉が発見された。 しかし、そこから八十センチほど離れたところに甕(かめ)が埋められ、その中に高さ四十センチぐらいの石棒が立っていた。埋甕(うめがめ)という問題も、考えなければならないが、この中に石棒を立てたということは、どんな意味があったのであろうか。 石棒に呪的な意味があったことを示しているようである。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.116〜117)


     このような石棒も、中期以降に発達している。 中期という時期は、なにか精神的な深みのあった時期ともいえる。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.117)


     土葬にも一つの秩序が生まれる

     わたしたちは、その性格を明らかにするために、十四ヵ所ほど石組みをはずして、その下を掘ってみた。 そうして、人体を埋めるために格好の浅い穴があるのを見つけた。祭りや信仰上の場所なら、石組みだけで十分だ。 わたしはやはりこれは墓だと思った。 そして、穴の中の土を分析してもらった結果、かなり多量の燐分(りんぶん)があることも明らかになった。
    (《日本人はどこから来たか 石器を使った人々》P.120〜121)


    4 米をはじめて食べたころの人々

     1 生活がすっかりかわる

     現代日本につながる生活革命

     人類が、今日のような文明と繁栄に向かって歩み出すきっかけとなったのは、自然にあるものをとって食べる生活から、自分の力で食べ物をつくる段階に入ったことだろう。 そして、日本人の場合、この歩みの第一歩は、米をつくりはじめたことだといえる。 その時期は、前の章で述べた縄文式土器(じょうもんしきどき)の時代の終わりのころから弥生文化(やよいぶんか)の時代の初めにかけて、年代にして、紀元前二百〜三百年ごろのことと考えられている。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.126)


     前の章の終わりにふれておいたような状況で、大陸のほうから進んだ文化を持った人々が群れをなして北九州地方にやってきた。 この人たちは、採集生活を主とした縄文文化の中の日本人にとって、まったく新しい農耕文化をもたらした。自分たちが故郷でつくっていた農作物のいろいろな種子と耕作技術を持ってきたのだ。 わたしたちの祖先は、それを見習い、その中から、おもに稲づくりを選んで農耕をはじめた。 それは、主作物として、麦などをつくるよりも、日本の風土に適していたからだろう。 それに、米はおいしかった連作できるという性質も持っていた。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.126〜127)


     たしかに、3章でもひとこと述べたように、縄文時代のいつのころからか、山ゆり山いもの根を竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の近くに植えたり、豆科や稲科の植物も栽培していたかもしれない。石斧(せきふ)は、そういう畑づくりに役立ったかもしれない。 しかし、湿地帯を利用した大規模な稲づくりが始まったことがはっきりするのは、やはり弥生文化の時代からだ。 つまり弥生時代は、水稲耕作が本格的に発達して、米というものが日本人の主食品となり、一方、石器のほかに金属器(青銅器及び鉄器)が登場したことによって、縄文時代とはっきり区別される。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.127)


     稲づくりの段階に入った原始社会は、その生活様式に大きな変化を起こす。 稲づくりに必要な農具はいうまでもない。 容器も縄文式土器がおとろえて、弥生式土器が盛んになる。布地を織る原始的な織機(しょっき)(地機(じばた))も使われはじめた。 宗教的なが祭られ、家長(かちょう)ができ、日本の「家」制度の原形も生まれた。 支配する者と、される者も生じている。 住まいの多くは平地に進出し、井戸も掘った。 埋葬にはさまざまな棺(かん)が用いられはじめた。 いずれも、稲づくり農耕による人々がはっきりと定着してムラをつくり、富を蓄積しなくては生まれない生活様式だった。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.127〜128)


     どこの米がどこからきたか

     こうした弥生時代の稲の故郷はどこで、また、どうして日本に渡ってきたのだろう。中国の華北から朝鮮をとおってきたとか、揚子江(ようすこう)流域から海路を直接やって来たとか、いろいろな説がある中で、盛永博士は次のようなきわめて科学的な考え方をしている。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.129)


     日本の稲が持っている生態的性質は、熱帯北部の山岳地方の稲に通じ、またその南部に見る夏稲(かとう)に、やや共通している点もある。 したがって、日本型の発祥地は熱帯北部の山岳地帯で、その第一次中心栽培地は安南地方(あんなんちほう)だろう。 その安南地方からさらにうつって揚子江の中・下流の流域平野が温帯における最大の栽培中心地となり、ここから日本に渡ってきたようだ。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.129)


     食べ物をつくれるようになった

     稲を持った人たちが、どこから、どういう経路できたかは、いまのところ決定的なことはわからない。 しかし、日本の長い過去の生活に大変革を起こした稲の種子が、どこからか漂流してきた人によって、偶然この日本にもたらされたとするには、確かにそういうこともないとはいえないけれど、やはり、事が重大すぎる。日本という土地を、なにかの機会か、方法で知っている人があって、そうした人の知識から、相当に多数の人々が日本での永住をめざして、計画的にやってきたのにちがいない。永住のためには、衣食の準備もしただろう。そこにまく稲の種子も、その中にふくまれていたにちがいない。 こんなふうに考えるのが、いちばん適当のようだ。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.131)


     かれらは、いろいろな農工具や日用品を持って日本にきた。 銅器も鉄器もあった。 中国大陸にははるかに進んだ文化があった。 紀元前四〇〇年のころから中国では春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代である。 そのはげしい興亡の中で、呉(ご)や越(えつ)の国は滅びていく。 日本の縄文時代の後・晩期のことだ。 日本に稲の文化を持って渡ってきたのが、これら敗戦の流民だったと考えても、必ずしも無理な結びつけではないだろう。 かれらは、ひとたびは大陸の中原に勢力を競ったほどの民族だから、日本に比べると、やはり高度な文化を身につけていた、ということも考えられる。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.131〜132)


     非常にさいわいなことに、日本の西南地域は稲作によく適した風土であった。 そして、なおさいわいなことに、縄文時代の中ごろにはじまった、沖積世の(ちゅうせきせい)の陸地の上昇運動が、しだいに安定をしてきて、海岸一帯に湿潤な沖積平野をつくっていた。 これは、水稲(すいとう)をつくるのに、ころあいの土地だった。 たいへんな労力を必要とする開墾作業を特別にしなくても、ほとんどそのままの状態で水田がつくれた
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.132)


     一方、狩猟と漁労にしたがっていた日本人にとっては、たとえそこにだれがきても、生活はおびやかされなかった。 移住者たちは、恐らく、たいした抵抗も受けずに、そこに住むことを承認されたのではあるまいか。住まいも、なんとか世話してもらえたかもしれない。 先住の日本人は、あまり争いを知らない平和な中に生きてきていた。 かれらは寛容だった。 その寛容は、まもなく、かれら自身に報いることになった。移住してきた人々から、稲づくりという大きな贈り物を受け、それによって、生活安定への大きな道を開くのである。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.132)


     移住者たちは湿地に種をまいた。 それは芽を出し、青々とのびた。 むろん、収獲までには半年の間がある。 そのあいだ、かれらは先住の人たちから採集食料を分けてもらったりして、餓えをしのいだこともあったかもしれない。 しかしそこには、まもなく収獲の秋がくる。 田の雑草を取ったり、水の加減をしたりしたのであろう。 やがて穂が出る。 美しい稲穂の波が風にゆれる。 わたしたちの祖先は、驚きの目を見はっただろう。 不思議さに打たれ、実りの秋への期待と、寄ると触るとうわさで持ちきっただろう。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.132〜133)


     稲は無事に実った。 移住者たちはその穂を、石庖丁(いしぼうちょう)で摘みとり、日に干して脱穀し、竪(たて)うすに入れて竪きねでついた。 たくさんの米がとれた。 大地にまいた一握りのもみが、今こうしていっぱいの米になったのだ。 移住者たちは、もちろん、それを炊(た)いて土地の人々にごちそうしただろう。 それはおいしかった。 それまで、むしろ好奇と疑惑とを持って注がれていた土地の人々の目は、畏敬に変わったにちがいない。 そして、もみくりかしの実よりも大量に、安全に蓄えることができ、必要に応じてそれを炊き、空腹を満たすことのできる生命の糧(かて)であることを知った。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.133)


     土地の人々はもみ種を分けてもらった。 そして自分たちで稲づくりをはじめた。 驚きと喜びのうちに、自分たちの力で、自分たちの食料をつくり出すという、まったく新しい生活は、たちまちひろがっていき、やがて人々の多くが、狩猟と漁労を中心とした採集生活に別れをつげることになった。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.133)


     あぜをつくり田んぼをつくる耕作へ

     稲は水稲(すいとう)が主であったと考えられる。 すでに述べたように、最初はおそらく、沢地や湿潤な土地を見つけて、耕やすということもほとんどなく、簡単につくられただろう。大地は肥えていて、肥料もいらなかった
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.133)


     水田耕作は必要に応じて水を引きこんだり、はかしたりすることがうまくいかなければならない。 この基本条件は今も昔もかわりない。 人々はあぜをつくり、水の出口・入り口をつくった。 当時は場所によっては、あぜづくりはなかなかの工事だったろう。 わたしたちはこの時代の終わりごろのあぜを静岡県の登呂遺跡(とろいせき)によって見ることができる。 そのあぜから当時の水田の区画もわかった。 あぜは、崩れてしまわないように、両側に杉材などのくいを打ちこんで固めてある。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.134)


     収獲−−稲の刈り取りには石庖丁を使った。 稲を摘みとったのだ。 早生(そうせい)のものと晩生(ばんせい)のものとがまじっていて、早く実った穂から摘んでいくというような便利さもあったかもしれないし、根もとから刈り取るほどよく切れるかまはまだなかったためかもしれない。 そうすると、この方法はいちばん合理的でもあり、能率的でもあった。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.134〜135)


     あぜというものは、水田経営の上の重要な施設であったのである。 すなわち、水田の区画の上はもとより、水の入り口、出口を設け、水をつねに流動させる上にも必要があった。 登呂遺跡に見られるように、あぜの両側に杉材を張って羽目板のようになして丈夫にしたこともうなずかれる。 また、日本の神話の中にあぜを破壊するということが大きい罪悪の一つとして取り扱われていることも、古代の農村生活の一端を反映させたものであろう。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.135)


     米は今のように煮(に)るのではなく蒸して食べたこしきとよぶ土器で、底にある小さな穴を、常緑樹のいぶきなど、杉の葉形の木の小枝でふさぎ、米を入れて、水を張った別の土器にのせ、かまどでたく。 小枝でふさいだ穴のすきまから吹き上げる蒸気で、米は蒸される。まんじゅうをふかすのと、同じつくりだ
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.136)


     貧富の差ができ階級が生まれる

     確かに、この時代にも、病気や不運はあっただろう。 けれども、全体としては、生産経済の段階に入り、稲作の発展にともなって、人々の能力差があらわれた結果、縄文時代の社会には見られなかった貧富の差が生じた。 社会の中に階級が生まれたのだ。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.137)


     2 階級のある社会に

     支配する者とされる者が生まれる

     「倭人(わじん)の国(日本)には大人(たいじん)というものと下戸(げこ)というものがある。 下戸が大人に路上で会うと、下戸は道ばたの草むらにはいる。 下戸が大人にことばを伝えたり、説明したりするときには、ひざまずいて、地面に両手をつく。
     当時の日本の姿を伝えた中国の史書「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)(後出)にこんなことが書いてある。 稲作が発達するにつれて、よい土地を広く持ち、たくさんの米を収獲する少数の大人(富者)ができ、そしてその力に支配される多くの下戸(下層の人)が生まれたのだ。 米という大事な食料の生産によって、一定の土地に住みついた人々のムラはいよいよ大きくなり、安定した食料のおかげで、人口は著しく増えていった。 労働力が増え、仕事の種類が増え、社会は複雑になった。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.137〜138)


     低地に定着し、ムラができる

     稲作農地が開拓されて広くなると、人々の住居地も、山地から、そうした農地の近くへと移りはじめる。 そこにムラができた農作業をするにも、水の見回りひとつするにも、そのほうが便利だった。 静岡県の登呂遺跡(とろいせき)はその例である。 そうして、このような低い土地に住むためには、どうしても住居に新しいくふうが必要になった。低地に竪穴を掘れば水がわく。 だから穴居生活(けっきょせいかつ)はできない。 人々は、そこの小高い平地に床を張った家をつくった。 家の周りには土手を築いてめぐらし、水田のあぜをつくったときのように、杉材を切り出してきて、くいにしてその土手を固めた。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.140〜141)


     地機で布を織り、硬玉やガラスで細工

     「魏志」倭人伝の記事はまた、当時の日本人の服装について、こんなことを記している。
     「倭(わ)の国は気候温暖で、みんなはだしで暮らしている。 男は髪をみずらに結い、頭を布地で巻いている。 着物は縫わない布のままで、体に巻きつけ、その端を結び合わせる。 女子は髪をたばねて頭の上に折りまげ、のせている。 その着物は一枚の布のまん中に穴をあけ、そこから頭を出して着る。
     これがどこまで正しい報告であるか、確かめようはない。 「男は布を体全体か、腰から下に巻いている。 女は、貫頭衣(かんとうい)という現代のムームーのようなものを着ていた。」 こういうことであろう。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.142〜143)


     しかし、当時の紡錘車(ぼうすいしゃ)(糸をつむぐ道具)も発見されているし、前に述べた、地機(じばた)とよぶ、もっとも原始的な織機も、登呂遺跡から出土している。 また、これらの道具で織った布切れもわれわれの手に入った。 それは、麻類こうぞなどの繊維で織った、かなり織り目のこまかいもので、方三・三センチメートルの中に、縦糸四十−五十本、横糸三十本の密度のものもある。 「魏志」倭人伝に「蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)し」とあるから絹織物もあったかもしれないが、まだ、発見はされていない。 一九五四(昭和二九)年、山口県下関綾羅木(あやらぎ)では、国の所有になったほど、りっぱな弥生式土器が発見されたが、これには、一片の布が付着していた。 わたしはそれを、はすの研究で有名な大賀一郎(おおがいちろう)博士に調べてもらった。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.143)


     博士はその布切れが、からむしの茎の皮の繊維でできていて、縦糸十本に横糸二十本ぐらいの織物であることを明らかにしてくださった。 だから人々は、そのころまでに、そうした布を織り、着物にしていたと考えられる。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.143)


     鉄の利器や銅の鏡が登場

     さて、もしわたしたちが、お互いに、相手の顔を見て想像する以外に、自分がどんな顔をしているかわからないとしたら、どうだろう。 水にうつる自分の顔を見ることで、ある程度満足するかもしれない。 しかし、突然、自分の顔がうつる鏡をみせられたらどんなにびっくりするだろう。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.147)


     その鏡が中国から日本に入ったのもこの弥生時代だった。 ひれは銅をみがいてつくった鏡で、とくに、前漢(ぜんかん)(世紀前二〇二−後八)のころにつくられたものだった。表はつやつやと光って物をうつし、裏にはさまざまな文様があった。 弥生時代の人々でこれを見たものは、その用途よりも、まず神秘と驚異と畏怖の感に打たれた
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.147)


     身分の高い者の墓には銅鏡を副葬

     こうして、顔をうつすためにつくられた銅鏡は、日本にきて、貴い宝器となった。 富んだ人、身分の高い人たちは争ってこれを求め、できるだけたくさん手に入れようとした。 この宝器は、だから当時の人の力の象徴となった。 当時の北九州の墓には、甕棺(かめかん)がかなり広く分布している。 これは、おおきなかめに遺体を入れ、これと同じおおきさのかめか、やや小さいかめを、その口の部分で合わせてあたのようにし、土の中に斜めに埋めたものだ。 そうしたあるかめには、銅鏡(どうきょう)がたくさん副葬されている。 昭和三三年に、福岡県飯塚市立石から偶然甕棺群が発見された。 土地に居た児島隆人氏等が早速調査したが、これらの甕棺の中には一面または六面の前漢鏡が副葬されていた。 これらの鏡は、美しく黒光りするもので、経約十五センチぐらいあり、内行花文鏡あるいは重囲文鏡といわれるものだ。 しかも、文字が鮮やかに残されている。 その一つの内行花文鏡に見られる鏡文について、九州大学の岡崎敬氏は次のように読み下した。
      日に喜びあり、月に富あり、楽しみて事なく、常に意を得。 美人会して笙瑟(しょうひつ)す。 賈市(こし)程程にして万物平らかなり。 老、丁に復し、死、生に復す。 酔いては知らず。 旦星に醒む。
     少し難解の文であるが、熟読してみると、その意味もわかる。 人生の楽しみ、喜び、願い、理想をよく謳歌しよく表現している。 恐らく、中国の前漢の人は、この鏡を所持し、このような理想を念願したものであろう。 わたしたちは、この鏡が副葬されている墓があると、これはきっと、当時の身分の高い人が埋葬されたものだろうと推測する。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.147〜148)


     この時代の墓そのものについていえば、北九州では、ドルメンと呼ばれる形式の墓が発見されている。 大きな石を、遺体を納めた場所の上にのせたものである。 この大きな石は、三ヵ所か四ヵ所に支石(しせき)(ささえの石)をおき、その上にのせられる。 ドルメンとは、テーブルの形をした石という意味の古い英語だ。 わたしたちは、支石があるところから、これを支石墓(しせきぼ)ともいっている。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.149)


     この時代の北九州の墓には、板石を箱形に組んだ石棺(せっかん)もある。 いずれにしても、北九州に大陸的な甕棺(かめかん)・支石墓(しせきぼ)・箱式石棺(はこしきせっかん)が多く見られるのは、大陸との交通が他の地域よりも、それだけひんぱんだったからにちがいない。 ところが近年各地で別な形式の墓が明らかにされた。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.150)


     方形周溝土壙墓(ほうけいしゅうこどこうぼ)といわれるものである。 この方形周溝土壙墓というものは、近年の考古学界の大きい課題になっている。 実は、昭和三九年三月までは、土壙墓という名はあったが、方形周溝土壙墓という学術的用語はなく、またこの種のものの示例はなかった。 ところが、昭和三九年三月以降に、大場磐雄博士が中心となって、東京都八王子市の宇津木の遺跡の発掘が行われたとき、土壙墓のまわりを方形に掘りとりかこんでいる新しい弥生時代の墓制の一例を明らかにした。 博士は、これを、この年の十月に開かれた日本考古学協会の大会で発表し、方形周溝土壙墓という名称をあたえた。 ところが、この後、同じ形式のものが、各地で続々と発見された。 そして、弥生時代の後期ばかりでなく、中期にさかのぼるものの例も知られた。 また、古墳時代にも存することが明らかにされた。 そして、しだいに、その形式も整理され、立地や形態にも各種のもののあることもしられた。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.150)


     この学問の世界にはおもしろい現象がある。 それは、一つの発見が動機となり、その後相つづいて同じ発見があることである。 遺構も遺物も、その当時から存したものであり、決して新しく発生したものではない。 しかも、一つの発見が動機となるまで、全く気付かれていなかったのだ。 不思議といえば、不思議でもある。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.151)


     4 「魏志」倭人伝

     倭(わ)の習俗とその風土

     其の風俗淫せず。 男子は皆●(かい糸介)を露わし、木緜(めん)を以って頭に招(か)く。 其の衣は横幅。 但々結束して相連ね、略ヽ縫うこと無し。 婦人は髪を被り●(かい)を屈し、衣を作ること単被の如し。 其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きて之を衣(き)る。 禾稲、紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・●糸兼緜を出だす。 其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。 兵には矛(ほこ)・楯(たて)・木弓を用う。 木弓は下を短く上を長くし、竹箭或は鉄鏃、或は骨鏃なり。 有無する所は、●イ・・耳・朱崖と同じ。
    (●:かい “糸介”で一字)
    (●:けん? 糸ヘンに兼、“糸兼”)
    (●:人偏に“・”、“イ・”)
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.166)


     倭(わ)の位置は、中国東南海岸の東にあたる。 その風俗は礼儀正しい。 男は髪をみずらに結い、頭を布地でまいている。 着物は縫わない布のままで、体にまきつけ、その端を結び合わせる。 女子は髪をたばねて頭の上に折りまげ、のせている。 その着物は、一枚の布のまん中に穴をあれ、そこから頭を出して着る。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.166)


     麻類を植え、くわをつくり、を飼って糸をつむぎ、麻布(きぬ)、そのほかを織る。 牛・馬・とら・ひょう・羊・鵲などはいない。 武器は、矛・楯(たて)・木の弓。 弓は、つかのところから下の方が短く、上が長い。 矢は竹で、鉄か骨のやじりをつけている。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.168)


     倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。 皆徒跣(とせん)。 屋室有り。 父母兄弟、臥息処を異にす。 朱丹を以て其の身体を塗ること、中国の粉を用うるが如し。 食飲には●豆(へんとう)を用いて手食す。 其の死には有りて無く、土を封じて(ちょう)を作る。 始め死するや喪を停めること十余日。時に当っては肉を食せず。 喪主は哭泣(こうきゅう)し、他人は就いて歌舞飲酒す。 已に葬れば、家を挙げ水中に詣って澡浴す。 以て練沐の如し。 其の行来、海を渡って中国に詣るには、恆に一人をして頭を梳(くしけず)らず、●蝨虫畿きしつ去らず、衣服は垢汚し、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如し。 之を名づけて持衰(じさい)と為す。 若(も)し、行く者吉善なれば、共に其の生口・財物を顧み、若し疾病有り、暴害に遭えば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す。 其の持衰謹まずと謂うなり。
    (●蝨:きしつ 虫へんに畿“虫畿”)
    (●:竹冠(たけかんむりに、“邊”)
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.166〜167)


     倭は気候温暖だ。 一年じゅう生野菜を食べる。 みんなはだしで暮らしている。 部屋があって、父母兄弟は別々のところに寝起きする。 朱や赤の顔料を体に塗る。 中国で粉おしろいをぬるのとおなじだ。 食事は高坏(たかつき)に盛って、手づかみでする。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.169)


     死んだ人を葬るときにはに入れるが、それをおおう外箱はなく、そのまま土の中に埋めて(つか)をつくる。 死者の家は十数日喪に服し、その時には肉類を食べないようにする。 喪主は大声で泣き、葬儀に集まった人々は酒を飲んで歌いおどる。 葬式がすむと、家族全員が水に入って、体をきよめる。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.169)


     使節が中国に渡る場合など、いつも、中の一人を選んで、髪もくしけずらず、しらみもとらず、着物も汚れっぱなしで、肉食を断たせ、婦人も近づけないで、喪に服した人と同様に扱う。 もし無事到着できれば、かれに召し使いや財物をあたえ、もし病人が出たり、事故が起こったりしたら、かれを殺してしまおうとする。謹慎しなかったから、というわけだ。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.169)


     真珠青玉を出だす。 其の山に有り。 其の木に“木再”・杼・予樟・“木柔”・櫪・投・橿・鳥号・楓香有り。 其の竹には篠・●・桃支あり。薑・橘・椒・襄荷有れども、以て滋味と為すを知らず。●●(びこう)・黒雉(こくち)あり。
    (●竹冠に幹)
    (●●(びこう)獣偏に彌と獣偏に侯)
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.167)


     真珠(しんじゅ)や青玉(せいぎょく)を産出する。 山には顔料になる赤土がある。 樹木には、やまくすとちくすのきぼけくぬぎかしやまぐわおかつらがあり、竹にはしのだけやだけかずらだけがある。 しようがたちばなさんしょうみょうがもあるが、味わうことを知らない。 さる・黒きじがいる。
    “木再”:やまくす、杼:とち、予樟:くすのき、“木柔”:ぼけ、櫪:くぬぎ、投:杉、橿:かし、鳥号:やまぐわ、楓香:おかつら
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.169〜170)


     其の俗挙事行来するに、云為する所有れば、輒(すなわ)ち骨を灼きてし、以て吉凶を占う。 先ず卜する所を告ぐ。 其の辞は令亀の法の如し。火圻(たく)を視て兆を占う。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.167)


     なにか特別なことをしたり、旅をしたりする場合には、骨を焼き、そのさけめで吉凶をうらなう。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.170)


     其の会同・坐起には、父子男女別無し。 人性酒を嗜(たしな)。 大人の敬する所を見れば、但々手を搏(う)ち以て跪拝(きはい)に当つ。 其の人の寿考、或いは百年、或いは八・九十年。 其の俗、国の大人は皆四・五婦下戸も或いは二・三婦。 婦人淫せず、●“女戸”忌(とき)せず。盗竊(とうせつ)せず。諍訟少し。 其の法を犯すや、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸を滅し宗族に及ぼす。 尊卑各々差序有り。 相臣服するに足る。租賦を収む。邸閣有り。 国々に有り。 有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.167)


     集まったり、いっしょにすわったりする時には、父子男女の差別をしない。 みんな酒ずきだ。 身分の高い人を見て尊敬の意をあらわすには、ただかしわ手を打つ。長命で、百歳ないし八、九十歳まで生きる。身分のある人は四、五人、下層の者も二、三人の妻を持っている。 婦人は操を大事にし、焼きもちをやいたり、夫をきらったりしない。 人々は盗みをしないので、訴訟ごとも少ない。 法を犯したら、軽い罪ではその妻子をとりあげ、重罪だと一家だけでなく、親族まで滅ぼしてしまう。身分に上下の差があり、臣は主人によく服従する。 民衆は租税の物品をおさめ、その物品を収納する倉庫がある。 国々にが立ち、物々交換をし、政府は高官にそれを監督させている。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.170)


     邪馬台国の政治体制

     女王国より以北には、特に一大率を置きて諸国を検察せしむ。 諸国之を畏憚(いたん)す。 常に伊都国に治す。 国中に於いて刺吏(しし)の如き有り。 王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に到り、及び都の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。下戸大人と道路に相違えば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入り、辞を伝え事を説くには、或いは(うずくま)或いは(ひざま)づき両手は地に拠りて、之が恭敬を為す。 対応の声を(あい)と曰う。 比するに然諾の如し。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.170〜171)


     女王国から北の国々には一大率(だいそつ)とよぶ役人をおいて検察させている。 国々はこれをおそれている。 一大率は伊都国(いとこく)で政務をとり、国々に監督官を派遣して、政治の様子を報告させている。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.171)


     女王が魏(ぎ)の都洛陽(らくよう)や帯方郡におくる使節も、また外国からくる使節も、この国の港で、女王の役人から、間違いのないようにと、文書や贈り物の点検をうける。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.171)


     下々の者が身分の高い人に路上で会うと、小さくなって道ばたの草むらにはいる。 下々の者が身分の高い人にことばを伝えたり、説明したりする時は、ひざまずき地面に両手をついてつつしみうやまう。 返事には「あい」という。 「そうです」という意味だろう。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.172)


     其の国、本亦男子を以て王と為す。 住(とど)まること七・八十年。 倭国乱れて、相攻伐すること年を歴(へ)る。 乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。 名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。 年已に長大にして、夫壻無く、男弟有り。 佐(たす)けて国を治む。 王と為りしより以来、見る有る者少なし。婢千人を以て自ら侍らしむ。 唯々男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入せしむ。 宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設く。 常に人有り。 兵を持して守衛す。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.171)


     女王国は、もと男王が治めていて七、八十年もつづいたが、やがて(一八〇年前後?)日本じゅうの国々が攻めあう戦乱におちいったので、合議して女子を王にいただいた。 それが卑弥呼(ひみこ)だ。 卑弥呼は不思議な神につかえ、呪術(じゅじゅつ)で民衆をひきつける力を持っている。 もう、かなり年をとっている。 夫がなく、弟が、かの女を助けて国を治めている。 王位についてからは、女王に接見した者はほとんどなく、侍女千人がつかえている。 中にただひとり男子がいて、食事の給仕や取り次ぎのために、女王の居所に出入りしている。 女王の宮殿や、高殿・とりでは厳重で、いつも武装兵が守っている。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.172)


     女王国の東、海を渡る千余里。 復(また)国有り。 皆倭種なり。 又侏儒国有り。 其の南に在り。 人の長(たけ)三・四尺。 女王を去ること四千余里なり。 又裸国黒歯国有り。 復(また)其の東南に在り。船行一年にして到る可し。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは船連(つら)なり、周旋五千余里可りなり。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.171)


     女王国の東方千里の海を渡ると、また国があるが、すべて倭人だ。 その南には、小人の国がある。 身長が三、四尺(一メートル前後)、女王国から四千里あまり離れている。 また、裸の人々の国、歯を黒くそめた人々の国もある。 東南にあるこれらの国へいくには、船で一年ほどかかる。 倭は島国で、その周囲は五千里あまりである。
    (《日本人はどこから来たか 米をはじめて食べたころの人々》P.172)


    5 ムラから国へ

     1 奴の国王の金印

     田のあぜから金の印判が出た

     志賀島は、江戸時代、福岡藩(黒田氏)の領地だった。 いまから百八十年ほど前、天明(てんめい)のころに甚兵衛(じんべえ)という農夫がいた。 甚兵衛は、島の西南端の海岸近くに自分の田を持っていた。 一七八四(天明四)年二月二十八日、かれは田んぼに引いた水の流れぐあいがわるいので、みぞをなおすために、そのふちを切りおとす作業をしていた。 ところが、しまいには、二人がかりでなければ動かないような、大きな石が現われた。 かれは家から金てこを持ってきて、ようやくこの石をとりのぞいた。 そのとき、約三センチメートルばかりの、四角な光るものが目に入った。 それを水で洗ってみると、金色で、印判のような文字があった。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.178)


     「漢委奴国」は「漢の委の奴の国」

     また、ほんとうの発見者は、甚兵衛の作男二人だという説もある。 しかしそれは、説もあるぐらいに考えておいてよかろう。 志賀島には、文化年間に、ほとんど、全部を消失したという大火があったと伝えられている。 その火事の名が甚兵衛火事で、福岡藩の記録「文化六年に失火あり、百十戸が延焼」したとあるのと一致する。 大枚のぼうびをもらい、うらやましがられたにちがいない甚兵衛は、あるいは失火の責任をとって、島をはなれたのかもしれない。 消息不明である。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.180)


     2 邪馬台国と卑弥呼

     「魏志」倭人伝に記録された邪馬台国

     一世紀のころ、日本には、たくさんの国ができた。 といっても、いまの国とは様子は違う。 国境もはっきりしないことが多かったろうし、ほとんどが、恐らく五、六十人から百人ぐらいの人からなるムラがいくつか集まった程度の規模にすぎなかっただろう。 しかしそれは、かつての、狩猟・漁労による採集経済でなりたっていた、階級のない原始共同社会とは、まったく異なった性格の社会だった。 4章で述べてきたように、稲づくりの発展その他の生産力の支配を通して、富んだ人ができ、支配階級が生まれ、それまでの原始共同体がくずれた。 つまり、宝器を祭る首長たちの支配する政治的社会ができたのだ
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.183〜184)


    「漢書」(前漢(ぜんかん)−前二〇六〜後七年)−の歴史書は、日本のことをはじめて歴史に書いた文献だが、それには「楽浪(らくろう)(朝鮮)の海中に倭人(わじん)あり。 分かれて百余国をなす」とある。 これは、右のような日本の先進地域、北九州地方の情勢をえがいたものと思われる。 そして、この多数の国々は、そのうちの強いものが弱いものを吸収統合して、しだいにその数を減らし、二世紀から三世紀にかけて、広く大きないくつかの国に成長していった。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.184)


     歴史上重大な邪馬台国の位置

     日本の最初の統一国家は、四世紀に大和を中心として成立した。 それは、卑弥呼が死んでから、およそ百年の後である。 もしも、邪馬台国が大和であるなら、日本の国家は卑弥呼がおさめた地盤をそのまま受けついで発展したもの、ということになる。 そうではなくて、邪馬台国が九州であるとすれば、日本の勢力の中心が、舞台をまったくかえたことになる。 つまり、卑弥呼が死んでからまもなく、なにか大きな変化が起こり、中心勢力が大和地域に移ったことになるのだ。 たいへん重要なことといわねばならない。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.186)


     3 大和統一国家の成立

     畿内を中心に出現した高塚の墓と大和国家

     紀元前六六七年、日向(ひゅうが)の国高千穂宮(たかちほのみや)にあった神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこ)は、ここを船出した、大和入りの征旅に歳月をかさね、各地で敵対する首長たちを平らげて、最後に強敵、長髄彦(ながすねひこ)を討ち、大和の橿原(かしはら)に宮をつくって即位する。 西暦紀元前六六〇年正月であった。第一代の神武(じんむ)天皇である。−−これが、「古事記(こじき)」「日本書紀(にほんしょき)」に記された、大和朝廷成立の記録である。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.195〜196)


     わたしは、神武天皇即位に到る長い伝承には歴史的事実に反する記述や、ことに年代において明らかなつくりごとがあるとはいえ、中には、日本人の祖先が子孫に語りついだ事がらがあり、なんらかの形の実際の姿がまったくなかったとはいえないと思っている。 そしてもし、伝承の中にこのような事実も含まれているとすると、この伝承の物語のどこに隠れているかを、考古学によって明らかにすることができないかと、絶えず考えている。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.196)


     神武天皇の大和平定の時期は、それがいつごろだということはわからない。 しかし、古い時代にさかのぼりすぎていることは明らかだ。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.196)


     このことを念頭において、さてもういちど二、三世紀のころを復習すると、当時は、考古学のうえでは弥生(やよい)時代といわれる時期の後半にあたる。 そしてこのころは、各地にムラがたくさんあり、各ムラにはムラ長(おさ)がおり、これらのムラのいくつかを支配した首長あるいは豪族とみなされるものもいた。 人々が、かれらの首長を厚く葬るという思想を持っていたことは、その墓と考えられるものに、宝器であった鏡などをたくさん副葬したことに現れている。 しかし、この場合に注目されるのは、そうした身分の高い人の墓を、特別に大きく盛り上げることをしていない、ということであった。 最近、弥生時代の墓で、回りに堀をめぐらした形式のものや山丘の上頂部などを加工したりする例も各地にかなり見いだされているが、やはり塚を高く盛り上げるということはしていない。 盛り土があるものもなくはないが、とくに計画的に塚を大きく高く築いたのではない
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.196〜197)


     ところが、四世紀のころになると、副葬品だけでなく、墓そのものを計画的に大きくつくりあげることによって死者を厚く葬る、つまり厚葬思想(こうそうしそう)が形のうえにも現れてくる。 この傾向は、畿内(きない)および畿内を中心にした地域に著しい。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.197)


     この事実は、大和を舞台にして大きな勢力が形づくられ、まもなく統一国家が発達することと、なんらかの関係があるものとみなされよう。
    (《日本人はどこから来たか ムラから国へ》P.197)


    6 古墳をつくったころ

     1 古墳とはなにか

     前方後円墳はどうしてできたか

     人々は、はるかな昔から、死んだ人を埋めるとき、自分たちの住むムラから外れたところを選んだにちがいない。 こうして、塚をつくるようになった時代にもその習慣はかわらなかった。 つまり、死者の霊を自分たちの居住地と区別する丘陵にしずめ、この身分の高い人が丘陵にあってそのムラを見守るとともに、ムラの人々も朝夕これを仰ぎ望むことができるようにしたのではなかったろうか。 また、丘陵の突端につくれば、丘陵を少し加工し、わずかな盛り土をするだけで、労力以上に堂々とした墓になった。 このような理由が考えられる。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.206〜207)


     2 埴輪と副葬品

     「日本書紀」の二つの物語

     垂仁(すいにん)天皇の時のことである。 天皇の御弟倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなった際、生前の命(みこと)のそば近く仕えていたものたちを集めて、生きながら命(みこと)の陵(みささぎ)のまわりに埋めた。 ところがかれらはすぐ絶命せず、数日間にわたって泣き叫んだ。 天皇はその声をきいて悲しみ嘆き、これまで行われてきた殉死の習慣をやめることにした。 その後、皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなったとき天皇は詔(みことのり)して、殉死にかわるよい方法はないか、ときいた。野見宿禰(のみのすくね)が、出雲(いずも)の国から土器をつくる人々百人をよんで、粘土で人や馬やいろいろな物の形をつくらせ、それを天皇に献上した。 天皇はたいへん喜んで、これらを日葉酢媛命の墓のそばに立てた。 この焼き物は、埴輪(はにわ)と呼ばれ、その後は、かならず墓に立てられるようになった。−−
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.211〜212)


     この「日本書紀」の話によると、埴輪は、人物や馬や器物がいちばん最初につくられたことになる。 しかし実際には、それより古くから、円筒埴輪がつくられていた。 この物語は、恐らく、野見宿禰を祖先とする埴輪づくりの人々が、自分たちの祖先を誇示するためにつくったものだろう
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.212)


     3 躍進する新生日本の象徴

     大和朝廷の進展を証言

     四世紀もその後半は、大和朝廷が国内をほぼ全域にわたって統一したあとだ。 中央の政治力とともに、その文化が以上のような地方に浸透していたわけである。 文化を浸透させるものは、人の行き来だ。 船ばかりでなく、中央と地方とを連絡する道路もある程度発達していただろうし、中央の貴族・豪族と地方豪族との交渉もあったにちがいない。 また、中央から統治のために派遣された貴族のうちには、地方にとどまって、勢力を伸ばした者もいただろう。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.219)


     ただ、西日本東日本とを比較すると、文化進展の様子がかなり違う。 大陸の農耕文化がいち早くはいり、弥生(やよい)時代に日本でいちばん早く開けたと思われる北九州を中心にして、大和統一政権が成立してからも、つねに大陸とのつながりを直接持った古墳時代の西日本の先進性にひきかえ、東日本の文化は、古墳の状態もその変化にずっとおくれが見られる。 それは、大陸と直接に交流がなく、畿内を通じてしか文化が取り入れられないという状況だったからだ。 たとえば、古墳の内部にしても、東日本のほうには、自然の丸太材をくりぬいて棺とし、まわりを粘土でかためたり、下に小石や木炭を敷くという形式が、かなりあとまで残り、これにひきかえ、西日本ではりっぱな竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)が多い
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.219)


     五世紀には全国的に前方後円墳

     天皇(大王(おおきみ))を中心として諸豪族の協力による統一国家が成立したのは四世紀の前半からその中ごろにかけての時期だった。 そしてこの統一をしてからあとの半世紀間、大和朝廷は国家の基礎をかためるために、当然のことではあるが、並々ならない苦難を経験しなければならなかった。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.222)


     中国六朝(りくちょう)(三〜六世紀)の宋(そう)の正史(せいし)「宋書(そうじょ)」によると、順帝(じゅんてい)の昇明(しょうめい)ニ(四八七)年、倭王武(わおうぶ)(雄略天皇(ゆうりゃくてんのう))は、遣宋使(けんそうし)に持たせた文書の中でこう述べている。
     「わが国は、中国からたいへん遠く離れたところにあります。 昔からわたしの祖先は、みずから甲冑(かっちゅう)をまとい、山を越え川を渡り、日夜休むひまもなく、戦いにあけくれてきました。 そうして、東は毛人(もうじん)(蝦夷(えぞ))の地五十五国を征服し、西はもろもろの(えびす)たちの国六十六国を平らげてきました。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.222)


     雄略天皇に先立つ天皇たちが、国内平定の先頭に立って苦心してきた実情を物語っているわけだ。 また、崇神(すじん)天皇がその皇族を北陸・東海・西海(さいかい)・丹波(たんば)に派遣した、いわゆる四道将軍(しどうしょうぐん)や、景行(けいこう)天皇がその皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)をつかわして、東に蝦夷を討伐させ、西に熊襲(くまそ)を攻めほろぼさせた「古事記(こじき)」の話は、いずれも大和朝廷初期の、国家経営の苦心を伝えている者であろう。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.222〜223)


     こうした苦心の結果にむかえた五世紀の状況は、古墳にはどのようにあらわれていめだろう。 四世紀、機内に突然出現した多くの大前方後円墳は、やがて九州では鹿児島まで、東は仙台平野に達した。 それは、蝦夷の地とよばれた北日本の一部をのぞいて本州のほぼ全域が大和朝廷の勢力下に服属したことを示している。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.223)


     しかもこの時期の前方後円墳は、畿内ばかりでなく、地方につくられたものも、実に壮大な規模を持っていた。 古墳文化の最盛期である。 そしてその代表的なものが応神(おうじん)天皇陵であり、仁徳(にんとく)天皇陵だ。 仁徳天皇陵は大阪府の堺市にある。 つくられた時期は五世紀の前半だろうといわれている。 主軸の長さが、四百七十五メートル、まるで、ちょっとした山か丘のようだ。 土木工学の高橋逸夫(たかはしいつお)博士は、この壮大な前方後円墳をつくるために費やされたと思われる労働量を、次のように計算している。
     土の量が百四十万五千八百六十六立方メートルである。 いま、運搬距離を二百五十メートルとし、一日一人一立方メートルずつ運ぶとすると、全土量を運ぶには百四十万六千人を必要とする。 一日千人を動員しても、全部を運ぶには四ヵ年かかるわけだ。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.223)


     しかも、こうした土木工事は、仁徳天皇陵だけにとどまったのではない。 主軸百メートルを越える前方後円墳は、畿内および各地方にいくつもあるのだ。 そしてすでに、大和統一国家の実力は、それ以前に、朝鮮半島に勢力を伸ばすだけの動員力をを備えていた。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.223)


     4 技術の発達

     活気にみちた四〜六世紀の人々

     人々はまた、畑づくりもしなければならなかったし、養蚕のためには桑も栽培しただろう。 女の人たちは織物にも精出さねばならなかった。 それだけではない。 貴族や豪族のために動員されて、その家屋敷をつくり、その守りにもつなかければならんかったし、あの巨大な古墳づくりにも、出ていかなければならなかった。 自分たちの暮らしを立てるだけでなく、自分たちを支配する人たちのために、あらゆる生産に従わなければならなかった。 兵として動員されるのも、かれらよりほかに人はいなかった
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.227〜228)


     ガラス工芸や金属工芸の発達

     金をかぶせるには、銅や鉄に金の薄板を密着させる金着(きんぎ)せの技法があるが、そのほかに、次のようなめっき法を行った。銅をよくみがいて熱し、これをあんずなどの果実からつくった酸性の液にひたしてよくこすり、水銀をその面に塗りつける。 するとそこに化学変化が起こって、アマルガム(合金)ができる。 これをまた水の中に入れ、ふたたび酸性の液体につけて乾かし、金の薄板に包んで熱すると、それは銅に固着して水銀はなくなり、金めっきが完了する
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.229)


     須恵器の誕生と土木技術の発達

     直弧文(ちょっこもん)という一種の図文がある。 日本だけに見られる文様だ。 対角線を利用しながら弧線を巧みに配在し、簡明なようでもあり複雑なようでもあり、一種妖(あや)しい美しさを見せている。 かつて蜘蛛(くも)の巣に似ているので蜘蛛文という名将も提出されたことがあったが、蜘蛛の巣にくらべると、もっと複雑な線の配合もある。 いったい、この文様をだれが考えたものであろう。 わたしは、この文様は、スイジ貝の突起や筋条などからヒントを得て図案化したのでないかと考えているが、それにしても、このような図案を生みだしたことに、当時の人のすぐれたアイデアがあったのである。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.231)


     5 古墳時代の暮らし

     貴族・豪族たちの衣食住

     かれらのふだんの衣服も、かなりととのったもので、こうぞなどの繊維をより、織ってつくったさらし布だった。 養蚕によるもかれらの衣料になった。 男子の衣服は上衣(じょうい)と下衣(かい)にわかれ、上衣はシャツのようなもので、現代の着物とは反対に、左前に合わせてひもで結んだ。 下衣は太いズボンのようなものだった。 これはすそをひもで結んだ。 女子のも、上衣は男子の衣類とほぼ同じだったが、下衣はスカートのようで、ひだをつけたものもあった。 足首までかくれるような長いのもあれば、ひぞぐらいまでの長さのものもあった。 ふだん着としては、もっと簡単なものも用いただろう。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.236)


     権力を誇示する大量の武器・武具

     貴族・豪族たちは、武器武具をたくさん持っていた。 武器には鉄の大刀(たち)ややじりがあり、武具には甲冑(かっちゅう)があった。 刀は柄頭(つかがしら)の先にまるい環をつけて、その中にはほうおうなどを配した環頭大刀(たんとうだち)とか、柄頭(つかがしら)の先が太く丸形になっている頭椎(かぶつち)の大刀とか、いろいろな形があったが、これらはとくに六世紀以降に多い六世紀という時代は、朝鮮との交渉も多く、大陸的な諸文化もおおいにとり入れた継体朝(けいたいちょう)から、聖徳太子(しょうとくたいし)が摂政となる推古朝(すいこちょう)に至るまでの時期だ。 そこには、皇室をささえる中央豪族の平群(へぐり)・物部(もののべ)・蘇我(そが)などの各氏のはげしい興亡があった。 また、南朝鮮に対する大きな軍事行動を経て、日本がその支配力を失い、同時に国防意識をかきたてられた百年間でもあった。 武器・武具への関心が深まり、尊重されたのも当然だろう。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.238〜239)


     古代人を支配してきた祭り

     当時、神を祭る人は、社会的に重要な地位を占めていた。 米を中心に、すべての農作物の豊凶を支配する神、人間の禍福を支配する神−−この目に見えない力を持ったものと、その力に支配される人間との仲立ちをするものとして、大きな権威を背負っていたのだ。 天皇も、そういった権威だったし、国造(くにのみやっこ)となった地方豪族もまた、その地域の祭司権を与えられていた。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.243)


     とくに信じられたまじないの力

     四世紀という古墳文化の初期には、とくにまじないの力が信じられ、そして祭りが行われ、それが大きく生活を支配していた。 前にもふれたように、南方のスイジ貝など巻き貝の貝がらには、まじないの力が秘められていると人々は信じた。 それは、古墳の石室内の東北隅に、一つだけ置かれていることでもわかる。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.244)


     楯(たて)の表面につける金具の巴形銅器(ともえがたどうき)などにも、スイジ貝をまねてつくったものがある。 これもふせぐというまじないの力を信じてのことであった。 さくにも述べた直弧文(ちょっこもん)という奇抜な文様もスイジ貝をもとにデザインしたもののようだ。 当時の特色ある品物で、碧玉(へきぎょく)でつくった埴輪の形をした一種の宝器、車輪石(しゃりんせき)や鍬形石(くわがたいし)といわれる石器も、かさがいごほうらスイジ貝に似せてつくったものであることは、一目見てすぐわかる。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.244〜245)


     そのほか、みずらなどとよばれる男の髪にさしたくしも、体の一部に触れるものというところからか、まじないの力を持っていると信じられていた。 遺体を墓に納める時、くしを胸の上や足のまわりにばらまいたのも、そのためらしい。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.245)


     自然の中にひそむ、人間の力ではどうしようもない神秘な力を信じた古代の人たちは、こうして、災いをふせいだりまねいたりするものとして、呪物の力を深く信じた。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.245)


     文字の習得による思想の深まり

     さて、五世紀の中ごろから六世紀にかけて、古代日本人は、もっとも重要な精神的変化のきっかけをつかむ。 それは文字の習得だった。 口伝えだけにたよった生活から、文字のある生活に入ったのだ。 文字をとおして未知の事がらや思想を知り、自分の思想を表現することを知った。 それがどんなに当時の文化を強く押し進めることになったかは、改めていうまでもあるまい。
    (《日本人はどこから来たか 古墳をつくったころ》P.245〜246)