[抜書き]『日本数寄』


『日本数寄』
松岡正剛・ちくま学芸文庫
二〇一一年八月三十日 第三刷発行
    目次
    T 日本の意匠
      吉右衛門の梅
      桜と時代
      花鳥の使い
      文様のアジア
      意匠の誕生
      風流過差
      能とコンピュータ
      耳の文字・目の言葉
        1 一字一音  2 同音共鳴  3 音読黙読  4 消息往来  5 擬音擬字  6 打鍵表情
    U 神仏のいる場所
      中心の移動
      説明の庭
      壇の思想
      天をかぶる帽子
      浄土の変相
      末法という表象
    V 数寄と作分
      主客の遊び
      茶数寄茶振舞
        1 調度数寄  2 道行数寄  3 茶禅数寄  4 極真数寄  5 侘茶数寄  6 不足数寄
      利休の面目
      バロック・オベリスク
      編集文化数寄
        1 趣向数寄  2 編集数寄  3 連歌数寄  4 日本数寄  5 端限数寄  6 寂侘数寄
    W 江戸の人工知能
      和算と条理学
      江戸の人工知能
      蔦屋の縁側
      若冲の名物学
      秋成の暗示
      浮世絵の最期
      粋と偶然

      あとがき 隙間数寄
      文庫版あとがき
      解説 自在な日本文化史再編の試み 芳賀徹
      図版・初出一覧


    T 日本の意匠

     吉右衛門の梅

     もともと梅は中国からやってきた。
     蓬莱(ほうらい)の海をこえてきた。
    (《日本数寄 吉右衛門の梅》P.013)


     桜と時代

     そもそも「花」といえば「桜」となったのが、古今集以降なのである。
    (《日本数寄 桜と時代》P.030)


     ともかくも、こうして桜はいまも日本の象徴になっている。
    (《日本数寄 桜と時代》P.035)


     その西行がどのように桜に狂っていったかということは、私なんぞが話すより、それこそ白洲正子姐さんの語りなんぞで案内されるのがいちばんだとおもうのだが、もしそうでないのなら、ぜひとも『西行物語』を読まれることを勧めたい。
     『西行物語』は西行が死んでから半世紀ほどで物語になったものである。
    (《日本数寄 桜と時代》P.038)


     日本の文様には桜が多い。 歴史を追ってだんだんふえてくる。 その桜の文様史をつらつら見ていると、花、花弁、蕾、大木、全山、満開、夜桜、葉桜、落花、折り枝、散り花など、桜の一生がまるで因数分解されるようにデザインの対象になってきたことに気がつく。
    (《日本数寄 桜と時代》P.042)


     花鳥の使い

     花鳥の起原は「花の実をついばむ鳥」というコンセプトにもとづいている。
    (《日本数寄 花鳥の使い》P.049)


     文様のアジア

     古代中世語では「柄」とは同じ血をもったつながりのことであって、もともと「うから」とか「やから」とか「はらから」とかつかった。 つまり、そのものに備わっている属性のすべてを「柄」といったのである。
     だから、山の属性のことは「山柄」、その地方の特色は「国柄」という。 いまでも「お国柄」とか「人柄」という言葉はよくつかわれる。
    (《日本数寄 文様のアジア》P.054)


     さらに、文様の本質にふれる話をつづけると、文様は〔文化〕ものものである。  だいたいが「文化」という言葉が「文」の力をあらわしている。 「文字」というも「文明」というも、いずれも「文」である。 空海は「風気に文(もん)あり」といって、われわれの呼吸のしかたや声にだって、「文」の力がはたらいていることを強調してみせた。 これは日本語でも、たとえばアヤという言葉が「綾」とつづられて様相があざやかなことを示しているように、なにか大事なものが編集されていることを暗示する。
    (《日本数寄 文様のアジア》P.056)


     植物文様にもユーラシアを走る文様は多い。
     なかで最も有名なのはパルメット文様、俗にいう「忍冬唐草(にんどうからくさ)」だ。
    (《日本数寄 文様のアジア》P.061)


     意匠の誕生

     ついで、〔ナガレ〕が意匠や意表の方法として注目される。
    (《日本数寄 意匠の誕生》P.074)


     ナガレにはアワセやキソイの美が隣接する。  ナガレは「流れ」であって、アワセやキソイの感覚と一対になっている。 王朝文化にいちじるしい「墨流し」や「分かち書き」などのデザインが代表的である。
    (《日本数寄 意匠の誕生》P.074)


     日本のデザインは、天平時代ではもっぱら左右対称を大陸譲りの正統な継承としているのだが、やがて平安期に入ると左右競合のおもしろみこそが新たな意匠の感覚をのばしていく。 シンメトリーはアシンメトリーにむかっていく。 かつて林屋辰三郎がおおいに強調したことだった。
    (《日本数寄 意匠の誕生》P.074)


     この感覚を促進していったのは、おそらくは仮名の発明だったろう。  仮名の発明は日本文字の発明でもあるが、当然のことながら、同時に日本のタイポグラフィック・デザインの誕生でもあった。 「安」という文字を不安定な「あ」という柔らかな平仮名にし、「阿」から「ア」という片仮名をスクウェアにもぎとったとき、日本人は左右対称の美術からの果敢な独立をはたしたのだ。
    (《日本数寄 意匠の誕生》P.074)


     いったん左右競合の意匠に気がついてからは、日本ははやかった。 すぐさま、アワセやキソヒに熱中し、さらにはナガレのおもしろさに辿りついた。
    (《日本数寄 意匠の誕生》P.074)


     風流過差

     寺院と風流が関係があるのは、もともと法師原(ほうしばら)とよばれた身分の者たちの芸能が目立ったからだとおもわれる。  法師原は妻帯が許された下法師(しもぼうし)のことで、ここに呪う咒師(のろんじ)や散所(さんじょ)法師が派生してて、さまざまな芸能をおこしていった。 散所は鴎外の『山椒太夫』の山椒の語源にあたる荒っぽい経済文化センターあるいは労働集約所というもので、そのうちの寺院に隷属した各地の散所で、荷物の運搬や領域の掃除や管理をしていた法師たちが、ときに田楽や曲舞(くせまい)などの芸能を見せたのである。 このように新しい芸能を見せることを「(ひらき)」といった。声聞師(しょうもんじ)などもこのような芸能披きに加わった。
    (《日本数寄 風流過差》P.080)


     風流はしばしば「風流過差(ふりゅうかさ)」ともよばれた。
     過差とは過剰ということである。やりすぎること、つくりすぎること、それが過差だった。 too much なのだ。
    (《日本数寄 風流過差》P.082)


     しかし、この過剰の感覚は人々の好奇心を煽るにはうってつけのものだった。 そこで、この過剰な意図のことを「傾く」と綴ってカブクと読ませ、その担い手たちをいつしか「かぶきもの」とよぶようになった。 いわばパンクな連中という意味だ。 このパンクな連中のなかでもとりわけてパンクな者は、とくにバサラ婆娑羅)とよばれた。
    (《日本数寄 風流過差》P.082)


     足利尊氏が入京した一三三六年、有名な『建武式目』が制定されている。 その政道事の冒頭に「近日バサラと号し、もっぱら過差を好む。綾羅錦繍精好銀剣風流服飾、目を驚かざるはなし。 すこぶる物狂いと謂いつべきか」とあって、これらを厳重に取締るべきだと書かれている。
    (《日本数寄 風流過差》P.082〜083)


     この条文でわかるように、バサラとはもっぱら「過差」であって「風流服飾」を意味していた。 さらには「物狂い」のことをいった。
    (《日本数寄 風流過差》P.083)


     バサラは『建武式目』が出る前の時期、すでに諸国の青年貴族、たとえば後醍醐天皇が寵愛した千種(ちぐさ)忠顕や、守護大名、たとえば近江の佐々木道誉(どうよ)などのふるまいにも顕著であって、さかんに世の評判となった。
    (《日本数寄 風流過差》P.083)


     観阿弥風流やバサラの心の奥にひそむ「物狂い」にこそ着目した。 そして、これを截然と「憑きものによる物狂い」と「物おもいによる物狂い」とに分けた。
    (《日本数寄 風流過差》P.084)


     なぜ、観阿弥・世阿弥の父子がそうした芸当を先駆けて成就できたのかということは、歴史的に一言では説明できない。
    (《日本数寄 風流過差》P.084)


     そこに「(おきな)」の芸能の流れを重ねる必要もある。
    (《日本数寄 風流過差》P.084)


     謡曲の前段としての早歌(そうが)の出現も重要だ。
    (《日本数寄 風流過差》P.085)


     しばらく結崎座にいた観阿弥は、やがて競争者の多い大和を離れて京都に動く。 幼名の観世丸から観世座をおこすのはそのころだろう。
     けれどもまだまだ観阿弥が芸能を制したわけではなかった。 近江の山階・下坂・比叡・みまじ・大森・酒人、宇治の守菊・藤松・梅松・幸の諸座、伊勢の和屋(わや)・勝田・青苧(あおそ)の座、摂津の鳥飼座など、けっこう多くの芸能座がその勢力をもっていた。 どこが室町芸能の覇者になるかわからない
    (《日本数寄 風流過差》P.086)


     しかし、猿楽申楽となり、そこからが確立していったということは、かつての風流の時代がおわったことを意味していた。
    (《日本数寄 風流過差》P.087)


     このあと風流は、各地のフリュウ(作り物)として、また、江戸の風流(ふうりゅう)として転換していることになる。フリュウフーリューに変っていったのだ。 それはまた別の歴史というものになる。
    (《日本数寄 風流過差》P.087)


     いま、各地の祭りに登場する花笠や、梵天左義長餅花などの飾りものを見ていて、これが中世の風流過差だったと偲ぶ人はすくない。
    (《日本数寄 風流過差》P.087)


     能とコンピュータ

     いま、私のところに日本の歴史文化のデータベース化日本の祭りのマルチメディア化の設計依頼などが、いろいろ舞いこんできている。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.088)


     しかし、そこに日本文化の特質に応じた編集構造を想定し、そのアーキテクチャにもとづいて日本文化をダイナミックに取り出すようにするとなると、かなり複雑な設計をする必要もある。 また、そのような編集構造はいまのところどこにも用意されていないので、いろいろ工夫をしながら設計しなければならなくなってくる。 おそらくはそういうことがちょっと面倒なことなので、私のところへ製作依頼が多いのだろう。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.088)


     私のところというのは編集工学研究所のことである。 そこへ日本文化の構造をコンピュータ化してほしいという依頼が殺到する。官からも民からもお呼びがかかる。 が、そうなると、ことはそんなに容易ではない。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.088〜089)


     もともと日本の情報文化の歴史は、縄文期の形態文様の〔競い〕の中に発芽し、漢字の導入によって最初のクライマックスを迎えている。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.089)


     まず、このことが日本文化をめぐる編集構造のたいへん変わった原構造を提供する。 なぜなら、日本人は漢字を知るまでは文字をもっていなかったからである。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.089)


     日本人(縄文人・倭人)は石器・縄文時代以来、約一万年にわたって文字をつかわずにコミュニケーションをしていた
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.089)


     このような日本人が(どのような人種の“日本人”かはまだわかっていない)、当時、文字をつかわずにどんなコミュニケーションをしていたかというと、もっぱらオラル・コミニュケーションを中心にしつつも、それに文様などを補助ツールとして加えていた。 その中身や様式がどういうものかは、残念ながら見当はつかない。縄文土器や竪穴式住居の配置のしかたなどから、いくぶんかのコミュニケーション方式を類推するしかない。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.089〜090)


     それでもほぼ断言できるのは、そのころから日本人はたくさんの「物語型の情報」を語りあっていただろうということである。 これについては小林達雄をはじめ、縄文学者たちが土器の文様に“物語の原型のようなものが見えていることを指摘しているので、そのまま認めたい。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.090)


     このような物語は、おそらくは祭祀や原始的な儀式のかたちをとって伝えられた。 つまり情報の記憶と記録は、祭りの順序や服装の色やあるいは模様や歌の様式で保存されたのである。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.090)


     また、おそらくはそのような物語的に情報を伝える専門家もいただろう。 いわゆる「語り部」というもので、そのにフヒトとかフミベ史人史部)などとよばれた。
     しかし、このような語り部は、文字はないのだから、あくまでアタマの中に物語情報をしまっていたわけである。 そのアタマの中をどう覗くか、どう引き出すかが、ひとつのポイントとなる。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.090)


     もうひとつ重要なことは、当時の日本列島では一つの言語が交わされていたわけではないだろうということである。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.090〜091)


     ここで驚くべきことがおこったのだ。
     第一には、日本列島は外来語に席捲されなかったということだ。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.091)


     第二に、そのような外来語は古来の日本語(倭語)と交じり、独自の言語構造に育っていったということである。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.091)


     そして第三に、その言語構造に漢字システムを応用した独自の文字表記システムがあてはまっていったということである。 これがいわゆる〔万葉仮名〕というものだった。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.091)


     この三つの出来事がおこった理由はまだわかってはいない。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.)


     たとえばクシナダヒメ櫛名田であって、かつまた奇稲田でもあるということは、クシナダという情報メッセージは「」にも「」にも、さらには「」にも関与できることになる。 あるいはスサノオは「すさまじい」とか「荒々しい」という意味が加わってくることになる。 日本語は単意言語体ではなくて、漢字の導入によって複雑言語体になったのだ
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.092〜093)


     もうひとつ指摘しておくべきことがある。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.094)


     それは、このような古代日本語をめぐる情報文化システムは、さきほどのべたように、もともと無文字時代の語り部のアタマの中の記憶構造にもとづいていたわけなので、たとえどのような文字表記をしていようとも、多くの者はその語り部たちの原型記憶を共有するヴァーチャル・トポスといったようなものが、その後の日本の情報文化の随所に発揮されていったということだ
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.095)


     つまりは、どんな情報もその情報を当初にもたらした者たちの原初の記憶のトポスを思い浮かべながら再生するようになっていったのだ。 これは日本にだけあてはまることではない。 すでに古代ローマのヴィトルヴィウスの建築術やキケロの雄弁術(レトリック)にも試みられていた。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.095)


     このことを日本的に理解するには、能舞台床の間を例にするとよい。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.095)


     それらの大小のステージはまことにシンプルな構造ではあるのだが、それらのどこに、どんな情報の象徴がおかれるかということによっては、たいていの物語構造をたくみに包みこんでしまう万能の編集エンジンなのである
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.095)


     このようにあらかたの順を追ってみると、次のように言ってみたくもなる
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.096)


     すなわち、日本の情報文化のための編集システムをコンピュータに実装したいのなら、それはグローバル・スタンダードなデスクトップ・メタファーなどではなく、むしろヒモロギ・メタファーイロリ・メタファートコノマ・メタファーなんぞを研究開発するべきだったのではないかということだ。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.097)


     それでは、その基本アーキテクチャはどういうものかというと、私は世阿弥の複式夢幻能のようなものではないかとおもっている。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.097)


     大事なポイントは、第一に、言葉の情報構造を多重に取り出せるしくみが必要だということ、第二に、物語が入れ子型に再生できるような構造を設定しておくこと、第三に、「情報のトポス」と「そこでロールプレーをすること」と「知識を得ること」とが互いに相同関係なるように工夫しておくこと。この三点である。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.103)


     編集工学研究所では、そのような編集知のシステムのプロトタイプとして、さきごろ官公庁や自治体から頼まれて、京都デジタルアーカイブ「MIYAKO」を製作してみた。 電子能楽堂に行くようなつもりで、いつか覗いてみてもらいたい。
    (《日本数寄 能とコンピュータ》P.103)


     耳の文字・目の言葉

     2 同音共鳴

     もともと日本語は、その言葉がどのような漢字で表記されているかの知識がないばあいは、しばしば発話が理解できないという特徴をもっている。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.113)


     そのために別の言葉とおもいちがえることが頻繁におこるのであるが、いまやポップシンガーたちは、その〔聞き違え〕をおおいに活用し、そこに日本語によるヒップホップなリズムを大量にもちこんでいる。 それはかつての今様や隆達(りゅうたつ)小唄の歌い手たちがしていたこととまったく同じ工夫なのである。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.113)


     鈴木孝夫は日本語の特徴として、英語やフランス語にはみられないもうひとつの傾向があることも指摘している。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.113)


     それは「意味が同じような文脈には同音語が多くなる」というものだ。 大半の民俗言語にはこういうことは少ないとされてきた。 これは言語地理学で「同音衝突の原理」とよんでいるもので、多くの言語システムは同音衝突を避けるように発達してきた。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.113)


     ところが日本語は、あえて同音を並べたてることを好む傾向をもってきた。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.113)


     3 音読黙読

     小学校に入ると、「こくご」の教科書を読む授業がはじまる。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.115)


     このときに、すべての小学生たちは先生の声にあわせて、声を出して文字を読む。 先生がゆっくりと唱導し、生徒たちはこれに声をあわせてしたがっていく。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.115)


     それが何度もくりかえされる。 この行為こそは、文字を扱う歴史の最初におこった出来事の再現である。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.115)


     小学生たちは「おかあさんがいます」という文字の放列を黙って読むことはできない。 文字は声を誘うものであり、国語の教科書そもそもが“声が出る装置”なのである。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.115)


     この「聞き耳をたてている光景」こそが、オラリティリテラシーが交差する最初の歴史的光景にあたっていた
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.116)


     おそらく、ある時期に文字を読む専門職が誕生したにちがいない。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.116)


     5 擬音擬字

     たとえば「たらたら」という言葉は「垂らす」という言葉が、「ちらちら」は「散る」が原型なのであるし、「むらむら」は「群がる」を、「ぬくぬく」は「温まる」ほ母型として派生した擬態語である。 もっと端的なのは「うろうろ」のようなオノマトペイアで、これは「有漏(うろ)」という難解な仏教語から転化した。 煩悩の迷うさまをあらわしている有漏心が、いつのまにか「うろうろ」になったのだった。 実は「うろつく」も有漏からの転用である。
    (《日本数寄 耳の文字・目の言葉》P.126)


    U 神仏のいる場所

     中心の移動

     日本をひとつの中心で語ろうとするのはおかしい。
    (《日本数寄 中心の移動》P.135)


     すでに古代より六十余州くらいがあったのだし、その前は「分かれて百余国」だったはずである。 中世でも東国と西国は別の国であったわけで、そこにアイヌ琉球も加わっていた。
    (《日本数寄 中心の移動》P.135)


     仮に国土というものに中心という言葉をつかうのだとしても、その中心は〔多中心〕だというべきである。 日本にはひとつの中心だけがあったわけではなかったのだ。 また、その中心はしばしば動きまわろうとしてきた。都ですら動きまわっている
    (《日本数寄 中心の移動》P.135)


     宗像(むなかた)大社は玄海灘にむかって開いている。
     そのぶん社(やしろ)もひとつでない。
     陸地の玄海町にある辺津宮(へつみや)、海岸近くの大島の中津宮(なかつみや)、そして海に浮かぶ沖ノ島にある沖津宮(おきつみや)(奥津宮)の三宮三神に分れている。 それぞれに宗像三神が祀られている。 『古事記』には「駒形」とある。 その光の胸の形をもつのは、イチキシマヒメタギツヒメタギリヒメの三人の女神だった。
    (《日本数寄 中心の移動》P.135〜136)


     宗像三神の配置は陸から海にむかって、順に「近いところ、中間、遠いところ」という三段階になっている。 「辺・中・奥」という関係だ。 神々の生々の順でいうと、海から陸へということになる。
    (《日本数寄 中心の移動》P.136)


     周知のように、日本においては「中」または「内」である。
    (《日本数寄 中心の移動》P.139)


     いつでも、どんなところでも、「中」が決まりさえすれば、いかようにも「内」と「外」が分離した。 そしていろいろの「ウチ」と「ソト」がふえていった。
    (《日本数寄 中心の移動》P.139)


     たとえば、自分の家のことは「ウチの家」、会社は「ウチの会社」なのである。 女房は「ウチの女房」となり、子供は「ウチの子」になる。 京都では女性たちは自分のことをウチといい、 自分の領域のことを「うっとこ」(ウチのところ)といったものだが、 ウチはいろいろな半径をもって、日本社会に多数中心を形成した。
    (《日本数寄 中心の移動》P.139)


     ところが、ここにおいて、意外にもおもしろい転位がおこる。  あまりに「中」が多数化し、多様化するために、これらの統合的な象徴としての「」が想定されたのだ
    (《日本数寄 中心の移動》P.139)


     とは、山里なら山のむこうであり、海村ならば海のむこうであった。
    (《日本数寄 中心の移動》P.140)


     そして、この山の彼方や海の彼方に「ずらされた奥」こそが、常世(とこよ)やニライカナイや補陀洛(ふだらく)浄土になっていった。 奥宮や沖津宮がつくられたのもこれ以降のことである。 それまでは奥はたんなる他界の世界であった。
    (《日本数寄 中心の移動》P.140)


     ちなみに、こうした「中から」という転位をはなはだ貴族的に、かつ寓意的にあらわしていのるが「内裏(だいり)」という言葉であった。 これは藤原仲麻呂時代の紫微中台(しびちゅうだい)のそのルーツをもっている。 内裏はやがて、“大奥”にさえ変位する。
    (《日本数寄 中心の移動》P.140)


     このような「」と「」の条件がほぼ出揃うと、ここに、新たに認定された外部性としての「」という領域が登場する。
    (《日本数寄 中心の移動》P.140)


     この「辺」は、もともとは〔辺境〕である。
    (《日本数寄 中心の移動》P.140)


     そこには天子はいないし、豪族もいない。 ただ場所があり、人々が暮らしている。 そこは民衆が集まる領域であり、日常感覚が賑やかに成長する領域である。
     しかし、そここそが「辺」なのである。 絶対にどんな中心にもならない辺境なのだ。 そこには民衆がいる辺境なのだ。 宗像三神の辺津宮もそこでこそ民衆のなかにまじっていく。
    (《日本数寄 中心の移動》P.140)


     どこかに一本の棒を立てれば、それが幟(のぼり)であれ枝であれ、ヨリシロ(依代)としての機能をはたし、その周囲に結界をもたらして、そこを擬似神聖としての芸能空間にさせたのである。
    (《日本数寄 中心の移動》P.142)


     幔幕(まんまく)や掛物が張れるならさらに上等だ。 そこには必ず「としての上座が生まれ、その逆方向に「としての観客席が生まれた。 あいだが舞台というものだった。
    (《日本数寄 中心の移動》P.142)


     茶や花などの日本の遊芸にとっての床の間の設定も、こうした「中心を見立てられる機能」にもとづいていた。 そう、考えるべきだろう。
    (《日本数寄 中心の移動》P.142)


     その芸能者が動きまわったのだから、日本に中心がひとつしかないなどということは、ありえなかったのである。
     国民の歴史は何度も書き替えられなければならない。いくつもの中心をもった日本史が、未来にとって必要なのである。
    (《日本数寄 中心の移動》P.142)


     説明の庭

     かくして空海は「説明」と「言葉」に工夫のかぎりを尽くした。
    (《日本数寄 説明の庭》P.148)


     第一には、空海密教における「説明可能性」はシンボリックなメタファーに富んでいるということだ。
    (《日本数寄 説明の庭》P.149)


     第二には、空海は「即身(そくしん)」を勧めた。
    (《日本数寄 説明の庭》P.149)


     第三には、密教の本来に辿りつくためのプログラムを用意した。
    (《日本数寄 説明の庭》P.149)


     私が言いたかったことは、空海密教は「言語宗教」の真骨頂であって、説明する責任を放棄してはいないということ、その一方で、ある未熟な視点にこだわるかぎりは次の階梯の真理は見えないようにプログラムされているということである。
    (《日本数寄 説明の庭》P.150)


     われわれは、いま「日本」を説明できない混沌のなかにいる。
    (《日本数寄 説明の庭》P.151)


     それが許しがたい体たらくというなら、それを突破するために、ひたすらグローバルな解説に走るのもいいだろう。 すぐに空海密教が役立つとはおもわないものの、せめて言葉の説明力に象徴性や比喩性をとりもどし、言葉の説明が次々にパースペクティブをひらいていくような工夫が試みられてもよい。 それはそれで期待したい。空海では足りないというなら、次は道元を、さらには世阿弥の説明に学ぶとよいだろう。 しかし、その説明はもはやグローバリズムをうんと離れたものになるはずだ
    (《日本数寄 説明の庭》P.151)


     けれども、そのような空海や道元や世阿弥でも、あるいは小林秀雄石川淳でも、それで海外からの納得がかえってくるとはかぎらない。 日本を、世界中に理解されやすいグローバル・スタンダードな国にしたいなら、空海や道元の真似などしないほうがいい。 そして、海外の言葉や概念で日本を説明するとよい。
    (《日本数寄 説明の庭》P.151)


     しかし、私はそのような努力をする気がまったくない。 だから、あいかわらず空海や道元の努力を読みつづける。 空海による「説明の庭」に遊ぶ。
    (《日本数寄 説明の庭》P.151)


     壇の思想

     須弥壇はおおむね方形につくられている。
     これは須弥山が円形山ではなく方形山であったことをおもえば、正しい模型になっている。 ただし、須弥山が六角形であったとか八角形であったという儀軌の記述はどこにも見あたらない。 それでも角型なら須弥山的なのである
    (《日本数寄 説明の庭》P.158)


     たとえば、ある一地方の王族が王城を築くとする。 むろん軍事的要塞としての構造を前提とした築城がおこなわれるのだが、実はそれ以上に重要なプランが実施された。 それは、王城にはその王族の信仰する神仏と、その地方の守護神が祀られなければならなかったということで、それと同時に、よその地方の異貌の神々についても配慮されなければならなかったという事情があったということだ。
    (《日本数寄 壇の思想》P.160)


     すなわち王城基壇には、敵味方両方にわたるさまざまな神仏イコンが配置されるプランが必要だった。 これを〔習合編集〕という。
    (《日本数寄 壇の思想》P.160)


     そこで頭が痛いのは、いったいどのように神仏にランクをつけて配置させるかということだ。守護神が中央にくるのは容易だとして、異民族の神仏をどうするか
    (《日本数寄 壇の思想》P.160)


     ここで勘定に入れておかなければならないのは、古代人にとっては異神は排斥の対象ではなく、これを自分の領域にくみこんで荘厳することがかえって守護力になったということだ。 ちょうど山陰や畿内の家々の屋根瓦の先端に鬼瓦などがもうけられるようなもので、あえて異神をもうけることによって異民族の侵入にそなえたのだった。
    (《日本数寄 壇の思想》P.160)


     これは「神仏荘厳における免疫システム」ともいうべきノウハウである。
    (《日本数寄 壇の思想》P.160)


     まずは、武士たちが自分の居城や居館で死ぬより戦場で死ぬことのほうが多くなったということがある。
    (《日本数寄 壇の思想》P.166)


     戦場ばかりに出かけているのでは、居館近くの寺院が提供してくれる浄土へ行ける保証がない。 だいたい貴族社会というものは、互いにだれがどのように往生できたのかということをいつも語りあう社会だった。 それが武家社会になると、往生語りに亀裂が入ってきた。いわゆる往生際が悪くなってきた
    (《日本数寄 壇の思想》P.166)


     そこで、戦場でも極楽浄土に往生できるように、各武将たちは“陣僧”を用意し、戦場へ連れて行くことになる。 この陣僧を買って出たのが、一遍上人らにはじまる時宗の遊行僧たちだった。
    (《日本数寄 壇の思想》P.166)


     こうして武士の社会にも、どこでも往生できる体制が整ったのである。 十五世紀の曹洞宗の記録をみると、各地に点在する曹洞寺院の多くの僧たちが葬儀を請け負っていることがわかる。
    (《日本数寄 壇の思想》P.167)


     が、戦国時代をすぎると社会は急に安定しはじめ、町にはかえって浪人があふれる始末となった。 逆に商人たちの方が力をもってきた。
    (《日本数寄 壇の思想》P.167)


     そうすると往生観にも変化があらわれ、ふたたび自分の家の方へ浄土をひきよせるという傾向が強くなってきた。 各家々に仏間がもうけられた背景には、こういう社会構造の変質もあったのである。 とくに江戸時代の寺壇制度本末制度の徹底化が大きかった。 各寺院は「本山→本寺→中本寺→直末寺→孫本寺」というふうに系列化され、その末端に端末機としての仏間が位置づけられた。
    (《日本数寄 壇の思想》P.167)


     この仏間のありかたがだんだん変化していったのだ。
    (《日本数寄 壇の思想》P.167)


     そして、ついには仏壇となっていったのである。
    (《日本数寄 壇の思想》P.167)


     なぜ仏間仏壇になったのかといえば、われわれの国がずっと木造家屋しかもてなかったこと、したがっていつでも火事の危険にさらされていたことをあげるべきだろう。 大事な仏間を燃やしてはならなかったのだ。 そこで、仏間のポータビリティが考案された。 持ち運び可能な仏間、すなわち仏壇の誕生だった。
    (《日本数寄 壇の思想》P.167)


     天をかぶる帽子

     古代では、何かを頭部にかぶることは神聖な力を増すための重要な行為であった。 それは邪悪な力に対抗するための欠かせぬシンボルだったのだ。 なかでも最も代表的なかぶりものは宝飾をちりばめた王冠だった。 もともと日本語の「かんむり」という言葉も「かむる」や「かぶる」から派生した。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.171)


     しかし、冠(かんむり)だけが「かぶりもの」であったわけではない。  さまざまな飾りをつけた傘や帽子も兜も、またベールやガウンも、そしてちょっとした囲いの中にこもることも、同じように呪力を発揮した。宮本馨太郎(けいたろう)の『かぶりもの・きもの・はきもの』などに詳しい。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.171)


     砂漠では同じ地点にとどまることは、すなわち死を意味した。 右であれ左であれ、まずもって次の一歩を踏み出すしかない。 これが砂漠型の、モーゼ的でマホメット的な、一神教の思考を生んでいく。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.175)


     これにたいして、炎天を避けて森に入った者たちは、そこにとどまることこそが身を守ることだった。とどまれば、やがて自己を見つめることになっていく。 そこではむしろ坐ること、動かないことが生命を保証してくれたのだ。梵我一如を発見したヒンドゥー哲学や仏教が、ほかならぬインドにこそ生まれた背景には、そうした熱暑と森林という関係があった。多神教の誕生だ。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.175)


     その後、天蓋の発展は円形から八葉形へと変化した。 また、平板なものから蓋状に吹返すものへ、さらにはこれらの重合様式へと変化していった。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.179)


     総じて、これらを「仏天蓋(ぶってんがい)」というが、それは堂内の諸尊の頭上を荘厳しているからだった。 重合様式の例としては、宇治平等院鳳凰堂のものなどが代表的であろう。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.179)


     仏天蓋にたいし、礼盤上の導師の頭上における天蓋を「人天蓋(にんてんがい)」という。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.179)


     人天蓋のバラエティはかなり広範囲にわたっていて、阿闍梨(あじゃり)の行道のときや葬送のときに導師の上にかける大傘から、時代劇でおなじみの虚無僧の深編笠などにいたるまで、すべて人天蓋とよんでいる。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.179)


     日常用語もすでに仏教からの援用が多くなっているのだが、これもすっかり忘れてしまった。 たとえば、小僧悪人も、安心我慢も、因果縁起も、智恵意識も、意地慈悲も、娑婆世間玄関も、みんな仏教用語なのである。だからといって、それで仏教がえらいということにはならない。 それほど生活に浸透した仏教用語たちにもう一度、新たな再生の力を与えていないのは、今日の仏教界のほうであるからだ。
    (《日本数寄 天をかぶる帽子》P.180)


     浄土の変相

     聖徳太子にも浄土信仰の萌芽があったとおもわれるが、最近の研究では、太子の周囲の渡来系学者集団が教唆したものだという見方に変わってきた。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.189)


     それでも太子の時代に天寿国」とよばれた浄土観が流行し、弥勒の上生下生の思想が理解されていたことは確実だとおもわれる。 太子が伊予の道後温泉に行ったときの碑文というものがあるが、そこにも「寿国」という文字がある。 ちなみに天寿国繍帳には「世間虚仮(せけんこけ)・唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という有名な文句が入っている。 これはいわば日本最初のニヒリズムの表明だった。太子はまた山背大兄皇子に「諸悪莫作(しょあくまくさ)・衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」ということを教えたというが、これは伝承にすぎない。 のちに一休が愛した言葉であった。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.189)


     興味ぶかいことに、この時期はヨーロッパにおいても終末思想が大流行していた。 キリスト没後千年が一〇三三にあたったからである。東洋の末法とはわずかに二十年ほどずれていただけだった。 ヨーロッパでは「メメント・モリ」(死を想え)の合言葉とともに、いわゆるダンス・マカブル(死の舞踏)が各地を走り抜けた。 そして、スペインの岬の果てのサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼がさかんになった。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.193〜194)


     日本ではそれが、時期的にもほぼ同時期の「蟻の熊野詣」にあたっている。 かつて二本神道史学の最長老の西田長男さんは、「だから松岡さんね、サンチャゴの海と熊野の海はつながっているんですよ補陀洛ポータラカで、スペインと日本とはひとつの観音浄土なんですよ」と言ったものだった。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.194)


     日本の末法思想のなかでは、阿弥陀堂ばかりがブームになったのではなかった。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.194)


     その背景には「迎講(むかえこう)」というサロンが動いてた。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.194)


     それが人々がまるで待ちかねているかのように、まず「山越阿弥陀」が登場し、ついで阿弥陀が二十五菩薩を伴うものになった。 そしてついには「早来迎(はやらいごう)」となって、如来は早駆けの雲に乗ってあたかもUFOのように飛来してくるようになったのである。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.195)


     こうして、本来は「向こう」へ行くべき「往生の思想」が、しだいに「向こう」からやってくる「来臨の思想」になっていったのだった。 いったいなぜ、このような変化がおこったのか。 私は次のように考えている。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.195)


     もともとわれわれの国には“訪れる神”の思想があった。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.195)


     これは折口信夫によって“稀に訪れる人”という意味でマレビトと名づけられたこともある。 マレビトとは「向こう」からやってくる神、すなわち〔客神〕のことをいう。 わかりやすくは「いつやって来るのかわからない神」である。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.195)


     古代日本のマレビトの観念は、山中にすだく魂が成長して、ときおり村里の社会に降りてきて、その社会の安全と豊饒を約束するという考えとして定着した。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.195〜196)


     村里に来た神は、ごく短い期間を逗留し、そしてまた山に帰っていくとされた。 それはもとはといえば、海の向こうから来臨する神の姿が山に転化されたものかもしれなかったけれど、いずれはたとえば正月の門松のように、村では山のシンボルとして松や竹を飾って恵方棚などとして、しばし山から仮泊する神の逗留を迎えたのである。 神が帰還するにあたっては、今度は村のシンボルであるなどを飾った。 節分の鬼に有名なこの儀礼は、もともとは山に戻っていく成長した魂、すなわち“大人”のための儀礼だった。
    (《日本数寄 浄土の変相》P.196)


     ときどきしかやってこない神が社に来臨することを、まとめてオトヅレ(訪れ)といった。 オトズレとは「音連れ」である。 神がやってくるときに音を伴っていたことを暗示した。そうだとするのなら、われわれが浄土変相図や数々の阿弥陀来迎図に見る歌舞音曲を奏でる供養菩薩たちの姿も、わが国のオトヅレの思想にはすこぶるふさわしい
    (《日本数寄 浄土の変相》P.196)


     末法という表象

     多くの宗教には終末論のプログラムがある。
     時代が下がるにつれ世が乱れ、ついに大混乱が訪れるというシナリオだ。
    (《日本数寄 末法という表象》P.201)


     仏教では釈迦寂滅から数えて正法像法の時をへて、おおかた二千年を食(は)むと「末法」にいたると考えた。 この〔下降史観〕ともいうべき末法年の数え方には諸説があるのだが、わが国では永承七年(一〇五二)に末法に入ると考えるのが一般的だった。 その恐怖への予想は『日本霊異記』最澄の言葉の中にも見えている
    (《日本数寄 末法という表象》P.201)


     なぜ阿弥陀はこんなにも光につつまれたのだろうか。
    (《日本数寄 末法という表象》P.206)


     もともと阿弥陀はインド産で、無量寿あるいは無量光を意味する「アミターバ」が中国で音写されて「阿弥陀」となった。『無量寿経』によれば、世自在王如来の世に法蔵比丘五劫の時を思惟しつづけて四十八大願を発し、これを十劫の時を費やして実現した如来が阿弥陀である。 ようするに、最初から光の代名詞だったのであり、かつ「願い」に結びついていた。
    (《日本数寄 末法という表象》P.206)


    V 数寄と作分

     主客の遊び

     遊びの本分は、一に結構、二に手続き、三に趣向にある。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.218)


     これをまとめて武野紹鴎(たけのじょうおう)の時代から「作分(さくぶん)」といってきた。 茶の湯にかぎれば、その作分を二にとって山上宗二(やまのうえそうじ)は「覚悟作分手柄」といった。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.218)


     このうち、結構のほうはそこそこの空間演出が多くの人たちの工夫によって容易になってきた。 「しつらい」である。 小料理屋やカフェバーでも、あるいはできのよい喫茶店やレストランならば、一応の結構は配当されている。 設計感覚や意匠感覚も悪くない。 最近では内田繁杉本貴志の登場が大きかった。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.218)


     では手続きはどうかというと、これが旧態依然、いや本来の、桃山ふうの旧態すら継承されぬままに、ただ慌しいばかりであって、新しい手続きは何も生れてこない。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.218)


     趣向のほうにも格別な作分が見られない。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.219)


     スサビとは数寄(すき)の第一歩である。
     そのスサビとはもともと「荒び」と綴る。
     それがやがて「遊び」とも綴られるようになってスサビと訓(よ)んだ。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.220)


     数寄はもちろんスキである。 「好き」でもあるが、隙間を透くことでもあった。 一言でいえばスクーリングのこと、透いて漉いて鋤いて空いていくことである。 そのうえで好いていく。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.220)


     松永の宣長の「鈴屋」に行ってみるとよい。 まことに小さな二階屋にすぎないが、千客が万来した。小布施高井鴻山の家を訪れてみるとよい。葛飾北斎から佐久間象山までがいつもやってきた。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.222)


     われわれは、いつしかそういう客を失ってしまったのではないか。自身が亭主のリスクを負うことが苦痛になってしまったのではないか。
    (《日本数寄 主客の遊び》P.222)


     茶数寄茶振舞

     1 調度数寄

     趣向とは何かとおもう。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.224)


     趣向を凝らすというが、凝らさない趣向もまた趣向である。 そこには〔用意〕の趣向もあれば〔卒意〕の趣向もある。 準備もあるが、ひらめきもある。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.224)


     2 道行数寄

     つまり〔宋風の気取り〕がよろこばれたのである。 当時の「好み」はいまだ中国ふうの気取を必要としていたわけである。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.230)


     鎌倉末期、南北朝時代になると、しばしば無礼講破礼講とよばれた乱遊飲食の会がそこかしこでつくられた。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.230)


     そこには、〔悪党〕(自立派の武士集団)をもよびこむ秘密結社の雰囲気もないではなかったが、そろそろ流行しつつあった茶合わせ、すなわち「闘茶」もさかんに遊ばれた。本茶非茶の区別、水の産地の異同を競ったのだ。『喫茶往来』がえがく茶会の光景は、そのような鎌倉末期から室町幕府成立までの喫茶を下敷きとした茶会のことだった。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.230〜231)


     3 茶禅数寄

     唐絵や唐物はだいたいが禅僧貿易商人によって入ってきた舶来品をいう。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.234)


     その禅僧はありていにいえば半分が商人だ夢窓疎石にしてからが天龍寺船を足利尊氏に提案して日宋貿易の指導にあたったいた。 そこへ義満の日明交易船がいっそう拍車をかけた。 さきほども東福寺が巨大な輸入元のひとつであったことを書いておいた。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.234)


     しかし、大陸半島から入ってくる物品、つまり唐物のすべてが出来のよいものとはかぎらない。 また、何がすぐれているかも、かんたんにはわからない。 そこで、唐絵唐物のよしあしを判定する信頼すべき“目利き”が必要になる。 アートディレクターであってディーラーであるような、それでいて飾り付けまでできる相談相手が必要になってきた。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.234)


     ここに登場してきたのが将軍まわりの同朋衆(どうぼうしゅう)だった。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.234)


     5 侘茶数寄

     すでに好みは「(そう)」の趣向に移っていた。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.240)


     珠光宗珠、および下京茶湯をたのしんだ町衆たちがこれを洗練していった。 世の器物にたいる好みも、だんだんに唐物数寄から和物数寄のほうへ移っていた。 珠光の諭した「和漢をまぎらかす」とはそのことである。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.240〜241)


     ついで草庵茶湯を徹底させたのが、珠光の門人十四屋宗陳(じゅうしやそうちん)であり、ならびに宗悟(そうご)についた武野紹鴎(たけのじょうおう)だった。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.241)


     紹鴎は堺の資産家の出身で、もともとは連歌師だった。 茶を習った五、六年を京都の室町四条に住み、天文六年(一五三七)には堺に戻っている。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.241)


     当時のは一座建立を同じうする茶道具数寄の一大巣窟だった。『山上宗二記』には「紹鴎三十まで連歌師なり。 茶湯を分別し名人になられたり」とある。 堺という国際都市がかかえた茶数寄の多さが生んだ人である。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.241)


     紹鴎の茶は、そのころ「名物一種だにあらば侘数寄(わびすき)するが本意なり」という風潮のなかで育った。気合を枯らして茶にあたるようになっていた。 そうした紹鴎を、『南方録』は、張付を土壁に代え、木の格子であったものを竹格子になおし、さらに障子の腰板を除いて“草の座敷”をつくったと評判した。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.241)


     しかし、はたして紹鴎にそのような「草」の完成の意図があったかどうかは、わからない。 それは逸脱への端緒であったかもしれないからである。
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.241)


     それは「やつし」の感覚といえるものだったかもしれなかった。 このへんのこと、わかるようで、わからない
    (《日本数寄 茶数寄茶振舞》P.241)


     バロック・オベリスク

     吉田織部は天文十三年(一五四四)に生まれ、永禄期には信長に、その後は秀吉に仕えて天正年間の山崎の合戦賤ヶ岳の戦に参加した武将である。 したがって、その茶の点前が評判になるのはもっとのちのことだった。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.263)


     おそらくは秀吉の後備衆(うしろそなえしゅう)あるいは御噺衆(おはなししゅう)として肥前名護屋に赴いた文禄元年(一五九二)あたりのこととおもわれる。 このとき秀吉は織部に「武門の茶」をつくることを勧めた。 「利休が伝ふ所の茶法、武門の礼儀薄し、其旨を考へ茶法を改定むべし」と『吉田家譜』にある。 きっと織部が美濃焼に工夫をもちこむのもこの時期以降だったろう。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.263)


     二年後の二月、織部は秀吉の吉野の花見に随行し、さらに三月には利休とともに高野山までまわっている。 そして五月にはいわゆる『織部家数寄之大事』が成立していただろうから、きっとこのへんに織部の茶の確立がある。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.263)


     けれども、これらはいってみれば織部感覚の芽生えとでもいうべきもので、まだまだアバンギャルドというわけではなかった。 織部はこのあとにソフトウェアの冒険を加えていくことになる。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.263)


     そこで第三に、ではどこで織部は織部になったのかという点にある。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.263)


     豪商茶人の宋湛はその夜の日記に「セト茶碗、ヘウゲモノ也」と書いて、織部の大胆をおもしろがった。 「いとをかし」というところであろう。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.264)


     これがアバンギャルドな織部ソフトウェアの最初の出現である。 よほどの覚悟と作分があったとも想定されているし、逆に、ふとおもいついただけなのかもしれなかった。 おそらくは後者であろう。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.264)


     第四に、この慶長年間の文化動向と織部の関係が気になる。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.264)


     第五には、織部の国際性ともいうべきを問う必要がある。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.265)


     第六に、いったい織部焼とは何であったのかということだ。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.265)


     1997年、織部賞(磯崎新選考委員長)のグランプリはエットレ・ソットサスに贈られた。 ソットサスの大胆きわまりない試みは建築からタイプライターまで多様だが、これは1963年の“陶芸品”。 こんなところにも織部が笑っている
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.273)


     しかし、織部好みは世界現象のひとつでもあった。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.274)


     かならずしも日本の独創だけではなかった。 織部の文化遺伝子には、十七世紀をむかえつつあった世界のバロック化のムーブメントと結びついた力が秘められていた。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.274)


     ルネッサンスとは中心を一点にもった正円の世界である。 日本でいえば長次郎の楽茶碗にあたる。 それは人間の手がもたらす造形の完成をめざした深くて尊いものである。レオナルド・ダ・ヴィンチの人体図が両手両足を広げた正円におさまっていることにも、このことは象徴されている。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.274)


     これにたいしてバロックとは、そうした完成の究極をいったん離れ、あたかも楕円が二焦点をもっているように、むしろ自在な多元性を求めてあえて「逸脱」を試みて歩み出した様式をいう。 バロックという言葉も「歪んだ真珠」を意味するバロッコから派生した。 これは、つまりは織部の沓形茶碗なのである
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.274)


     利休は草庵の茶あるいは侘び茶をつきつめて、究極の二畳台目一畳半を理想とした。それはまさしく「次」がない時空間だ。 その利休が、秀吉「次」を求めた朝鮮出兵という暴挙を諌めたらしいことも伝わっている。
    (《日本数寄 バロック・オベリスク》P.274)


     編集文化数寄

     2 編集数寄

     神話や伝説や昔話はむろんのこと、仏典や聖書にしても、『平家物語』や『アーサー王物語』にしても、そこに明確な作者がいるということはない。 ゲーテの『ファウスト』にすらそこには八百年以上の民衆による物語編集が控えていたのだし、その前は『ヨブ記』を編集するためのもっと長い時間が流れていた。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.285)


     だからこそ、ダンテが『神曲』を書くときは俗語の研究にとりくまねばならなかったのだし、仙覚から契沖(けいちゅう)をへて真淵におよぶ万葉研究は、つねに何が日本語らしきなのか」を追求するしかなかった。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.285)


     けれども、そのような追求のあげくに本居宣長がたどりついた古典的で雅味に富んだ日本語は、いまではだれもつかわなくなっている。 明治維新直後や第二次世界大戦直後は、日本語表記をすべてローマ字に一変する計画さえすすんでいた。 私は好きではないが、それもひとつの編集計画だったのである。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.285)


     こういうことはつねにおこっている。
     目立つようにおこることもあれば、静かに進行することもある。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.285)


     とくに言葉の編集は職業的な自覚にもとづいた編集によって進捗するとはかぎらない。 東国の武士たちは最初こそ独自の言葉をもっていたが、いつしか公家の言葉づかいに染まっていった。 それが清盛時代の社会文化を生み、そこから琵琶法師たちの『平家物語』の着想がふくらんでいった。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.285〜286)


     乱世の庶民がバサラ大名悪党異風異体の言葉づかいに惹かれていったのは、最初はごくちょっとしたきっかけにもとづいていた。 言葉づかいとその言葉がつかわれるときの意匠感覚が、たとえば扇のサイズなどが、ぴったり連動していたためだ。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.286)


     4 日本数寄

     最初に〔語り〕があったのである。 それが編集文化のルーツである。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.298)


     この語り部たちの動向には、のちの『古語拾遺』や『高橋氏文』などの記録で推察できるように、またのちの大嘗祭の記録からも憶測できるように、忌部(いんべ)氏や中臣氏や高橋氏や佐伯氏などの、一族あげての歴史文化編集をめぐる争いの動向がふくまれていた。 いわば古代のコトダマ一族が対抗しあっていた動向である。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.298)


     かれらは神威を借りた言語編集術の職人たちだった。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.299)


     かれらは歌や物語を伝えるために、その歌や物語が発生してきた場の記憶」を解説する職人でもあった。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.299)


     そのころは解部(ときべ)という職掌もあって、『日本書紀』持統紀には「解部一百人を刑部省に併せき」などと記録されている。 この解部がのちに、赤井敏郎の研究であきらかになってきた絵解きの系譜にもつながったし、おそらくはまたお伽衆(とぎしゅう)の出現にもつながった。 「伽」は「解」なのだ。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.299)


     日本のばあい、このようなコトダマ一族がとくに重視されるのは、日本文化の起源にはそもそも文字がなかったからである。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.299)


     あらためて考えてみると不思議な気分にさせられるけれど、日本は縄文このかた一万年にわたる無文字社会だった。われわれの文化史はオラル・コミュニケーション文様表示によって、最初の文化の様式を確立していった
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.299)


     しかしまた、文字がなかったということは、かえって生きた言葉の交換関係がそのまま独自なかたちで各地に定着しやすかったということを促してもいた。 また、文字がないからこそ、歌や物語が依ってきたる当時の「語りの場」をミームとして伝えることにもなっていた
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.299)


     以上が各地の『風土記』や伝説の奥から読みとれることだ。出雲の語部の君大伴の談(かたり)の連(むらじ)、中臣阿部志斐(した)の連らは、そういった専門集団の名称を伝えている。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.299〜300)


     けれども、やがて事態は大きく変化する。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.300)


     大陸半島から漢字漢字文化が渡来した。 漢字の導入が日本のコミュニケーション事情と編集事情を変えたのだ各地域が自由につかっていた言葉をどのように表記するかを、中央政府が統合的に決定しなければならなくなったのだ
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.300)


     が、日本に入ってきたのは多様な民族の多彩な古代文字群ではなくて、幸か不幸か、漢字だけだった
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.300)


     そのため、日本ではどの文字システムを選定するかではなく、入ってきた漢字と縄文以来の従来からの倭語や和語とくらべて、どの読み方やどの意味あいをどんな文字アソシエーションに含意していくかということが、文字文化の最初の重大な編集作業になっていったのである。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.300)


     その劇的な端緒はまず「女文字」の出現にあらわれ、ついで紀貫之の『古今集』編集に萌芽した。 貫之と淑望(よしもち)が真名(まな)仮名序をもって『古今集』の編集意図を綴ったことは、このあとの日本文化の言語編集史を大胆に象徴することになる。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.303)


     結論からいえば、こういうことになる。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.303)


     第一には、われわれの国は言葉と文字の関係を編集したときの原初の記憶を捨てることなく、その後の表現系の歴史を展くことになった。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.303)


     たとえば「アマ」という従来からの和語を漢字の「海」とするか「天」とするかということそのこと自身が、われわれの表現系の共振編集状態をつくっていったのだ。アマを「天」と綴ろうと「海」と綴ろうと、また「麻」と綴ろうと、そこには天も海も麻もふくみあわされるミームのイメージが残響するようになったのだ
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.303)


     第二には、万葉仮名や女文字の発達は歌や歴史語りの記録のために発案されたものであったが、その歌や物語が発生し、成長していった“現場の記憶”は壊されなかったということだ。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.303)


     いや、むしろ、歌や物語の原型を互いに共有することこそが、その歌や物語に所属する言葉づかいや文脈のグルーピング関係やシソーラスを蘇りやすくさせたのである。 そこには今日の機械語の翻訳過程からは想像もつかないような、それとはまったく異った「語りの場」の記録編集術ともいうべきが残ったのだ。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.303)


     まず、なによりも当時の日中外交関係からして、漢字がたちまちにして「真名(まな)」としての格調をもっていったということである。 このことは、漢字だけではなく、中国の制度や文物や色彩をふくむ表現系を正統とみなし、これを「真」と見立てる漢風あるいは唐風の風習をつくっていった。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.305)


     風習だけではなかった。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.305)


     たとえば天皇をマヒト(真人)とよび、真実や真理をあらわす言葉をマコト(真言)と、鉄をマガネ(真金)とよぶような、「真」のシステムの強調にもなっていく。 ついで、こうした「真」のシステムの強調は、真名にたいするに「仮名」が仮のものであるような、そうした〔仮想の和文化〕をつねに胸中に認識させることにつながった。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.305)


     こうしてここに「真」と「仮」とが並行し、互いに別々の表現をとりながらも、相互に響きあうことになったのである。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.305)


     紀貫之『古今集』真名序仮名序を併記したのは、その点において象徴的だった。 ついでながら、藤原俊成が天台教学を借りて「空・仮・中」の三諦を歌の道に仮託したことも、どこかに「真」と「仮」との平衡感覚が作用したのではないかとおもわれる。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.305)


     6 寂侘数寄

     もともと「スキ=数寄」とは色好みをさす言葉であって、たんに「好き」の言葉をあてていたと思われる。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.315)


     が、すでにそこには「好く」だけではなくて、「透く」も「梳く」も「漉く」も、さらには「鋤く」や「剥く」さえ入っていた。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.315)


     ただ通過するだけなのではない。 通過していることを感じつつもそのうえで、その渦中への執着をあらわすことが数寄だった。 室町期の辞書『下学集』では、数寄は「辟愛之義也」と書かれている。 すなわち渦中への執着が数寄心とされたのだ。
    (《日本数寄 編集文化数寄》P.315〜316)


    W 江戸の人工知能

     和算と条理学

     江戸時代にはすでに計算器があった。
    (《日本数寄 和算と条理学》P.325)


     その計算器によって江戸の先駆者たちはすばらしいシステム思考をたのしんだ。ソロバンである。「十露盤(そろばん)」といった。
    (《日本数寄 和算と条理学》P.325)


     日本にソロバンが入ったのは戦国時代の後半のころで、明との貿易をしているうちに流入してきた。 ついで桃山時代にはけっこう実用化がすすんだ。 川越の「喜多院職人絵尽」刺繍屋の図を見るかぎり、すでに主人がソロバンをはじく習慣がけっこう定着しているように見える。
    (《日本数寄 和算と条理学》P.325)


     こうしたソロバンの普及をうけ、元和八年(一六二二)に「天下一割算指南」の看板をかかげた毛利重能(しげよし)の『割算書』が刊行される。
    (《日本数寄 和算と条理学》P.325)


     ここに有名な“糸割り”や“絹糸割り”などの経済のしくみをアルゴリズミックなシステムとして見る方法や、あるいはまた“町見様”や“普請(ふしん)割り”といった都市計画のための方法などが萌芽した。 その『割算書』の重能の弟子が高原吉種(よしたね)で、その弟子が点竄術(てんそじゅつ)のプログラマー関孝和だった。
    (《日本数寄 和算と条理学》P.325〜326)


     ソロバンだけが江戸のシステム思考のツールだったのではない。 和算家にはもうひとつのツールとして、中国古来の算木があった。
    (《日本数寄 和算と条理学》P.326)


     この算木とソロバンを駆使して日本でひろまったのが天玄術だった。
    (《日本数寄 和算と条理学》P.326)


     そこに和風化がおこったのだ。 そういうと、どこか神秘的な響きを感じるかもしれないが、そう思うのは現代日本人であるからだ。アラビア算法から数学が、錬金術から化学が発生していることをおもうように和算を見る必要がある。
    (《日本数寄 和算と条理学》P.326)


     江戸の人工知能

     麻田剛立(ごうりゅう)と三浦梅園、梅園の弟子の脇蘭室、その蘭室の弟子の帆足万里
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.331)


     その帆足万里の科学概論ともいうべき『窮理通』の自序に、こんな一節がある。

      西人の学、累を積みて進み、日になり月にすすみ、明季以来、可辟児の天を論じ、欠夫列児の星を比し、波意玄斯の下降を算し、奈端の索引をを微する、花蕊雌雄の弁気水分析の方、その器械にあるや、顕微の鏡排気の鐘層累生焔の柱升降候気の管、その学の便して、智を益するもの、また東方のよく及ぶところに非ざるなり。先生の時にあたりて、その言おほいに備わる。

    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.331)


     ここで奇怪な漢字があてられている可辟児はコペルニクス、欠夫列児はケプラー、波意玄斯は光の波動説のホイヘンス、そして奈端はおよその察しがつくように、索引こと引力の発見者ニュートンである。 花蕊雌雄の弁、気水分析の方とはそれぞれリンネの植物分類学とラヴォアジェらの化学をさしている。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.331〜332)


     万里は、これら西人の学にあたる成果がそれまでの日本にまったくなかったことを指摘した。 さらに真空ポンプガルヴァーニ流の起電装置などが発達しなかったことを嘆きつつも、そのうえで、やっと先生の時にその言が備わったと書いた。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.332)


     先生とは三浦梅園のことだった。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.332)


     西人の学と梅園の学を比肩させる帆足万里の視点は、何の用意もなくできあがったのではない。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.333)


     江戸時代の中期、貝原益軒荻生徂徠(おぎゅうそらい)こそがその先鋒だった。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.333)


     この二人の作業仮説には、それ以前にはまったくといってよいほど乏しかった「方法を問う自由」というものがあった。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.333〜334)


     そしてここから、江戸後期の梅園昌益宣長馬琴京伝北斎らに象徴される編集の冒険」の時代が出奔してきたものだった。 どんな時代であれ、編集の冒険は方法の自由のあとにくるものなのだ。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.334)


     元禄屈指のエンサイクロベディストの益軒『大疑録』を書いたのがなんと八十四歳だったということは、デカルトが方法的懐疑を早々と二十代前半に持ち出したことにくらべて、いかにも東西の差異を感じさせる。 が、そこにかえって、“江戸からの出発”がまことに懸命なものであったことをうかがわせるものがあった。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.334)


     益軒の生きた時代は寛永から正徳におよぶ日本儒学の完成期にあたっている。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.334)


     すでに程子朱子理気哲学はこのあいだにすっかり日本化をとげた。 御用学問になった。 その一部始終を見てきた益軒が、満を持したというにはものすごすぎる高齢の八十四歳の最後になって、老いの一徹ともいうべき大疑をぶつけたのだ。 われわれの国の実直なマテリアリズムと、そして方法の自由は、ここから萌芽した。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.334)


     益軒の大疑は形而上と形而下の境目にむけられていた。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.334)


     儒学の流れが誤った観念主義に陥ったという批判にむけられたのだ。 そしてせめて「易」の原点に戻るべきであることを説いた。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.334〜335)


     ここで益軒は、易では天にあるものは現出しているものだから「象」とみなし、地にあるものは触れられるものだから「形」とみなすという立場をとった。 形の有無が一種のクリティカル・ポイントで、形より上が「」、形より下が「」にあたる。 この天に陰陽の二気があり、それぞれが流行交通しあっているというのである。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.335)


     ここにいう「」とはまさしく生成するものの本体だった。 その交通の状態が「」だった。ところが朱子学の系譜では、陰陽の現象を形而下におしこめ、代わって「理」を持ち出してこれを道とみなすようにしてしまった。 つまり、形而上に理が、形而下に気がふりあてられた。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.335)


     これでは思索の対象のなにもかもが理の観念の中に投げ入れられるだけであり〔陰陽成象〕と〔開物成務〕を重視した易が生かされないではないか、生成の気が生かされなくなるではないか、そのように益軒は疑ったのだ。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.335)


     興味深いことに『大疑録』は益軒の遺志によって伏せられた。 そして死後三年たったのちに門人の竹田春庵によって荻生徂徠に示された。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.335)


     そこで益軒のバトンをうけた徂徠が重厚に走った。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.335)


     三浦梅園『玄語(げんご)』を書きはじめたのは宝暦三年だった。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.337)


     一七五三年、カントが天体論を綴り、ヴォルテールが国民の習俗を考察し、大英博物館が創立した年だ。賀茂真淵は(かものまぶち)は源氏の評釈をまとめはじめていた。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.338)


     それから二十三年、『玄語』はなんと二十三回にわたる改稿をへて五十三歳のときに完成をみる。 すでに時代は安永に入っていた。 しかもこの間、『敢語』に四年、『贅語(ぜいご)』にはさらに三十四年をかけている。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.338)


     もともと梅園も、大いなる懐疑から出発した人だった。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.338)


     ただし益軒ともデカルトともちがって、梅園自身の述懐によれば「われ十歳に満たざりしうちよりおほいに疑団を蓄へき」ということを心がけていた。 この疑団は、自分には生まれる前があるのに、また自分はいずれ死ぬはずであるのに、なぜその前も後もつかめないようになっているのかというものだった。すでに存在するものの生成と消滅を観じた強烈な懐疑である。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.338)


     この疑団はわれわれにもいまなおつきまとっている。 自分ひとりでこれを解決するにはあまりに巨大なテーマだし、なにぶん自分それ自身が生成と消滅の中間に封じこめられているのだから、思索の手順をさがすだけでもたいへんであるそこで先人の考え方を参照することになるのだが、梅園にしてもそれはおなじだった。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.338)


     この「」と「」の関係から、いわゆる条理学が生まれてくる。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.339)


     しばしば“反観合一の条理学”ともいわれている梅園の哲学である。 梅園自身は条理学というふうにはつかっていないが、「条理はすなはち天なり、反観はすなはち人なり」というように説明していた。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.339)


     条理とはおおむね筋道のこと、多少うがって自然の論理回路のことである。 その条理が「天」にのっとり、反観が「人」によっている。
    (《日本数寄 江戸の人工知能》P.339)


     蔦屋の縁側

     蔦屋重三郎はネットワーカーである。 江戸のネットワーカーだ。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.342)


     私の考えるネットワーカーは、やたらに人脈を広げたり人脈に頼っている者のことではなくて、曖昧な領域や曖昧な動向に敏感な人たちのこと、別の言葉でいえば「近さ」に勇気をはらった人々のことをいう。 私は遠くへ旅する者よりも、近くに冒険する者にひどく愛着がある。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.342)


     ネットワーカーは縁側をつなぐ。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.342)


     縁側とは内でも外でもない領界をいう。 だから、どんな縁側がそこにたちあらわれているかということがネットワーカーの条件になる。 だから、ネットワーカーがどこにいるかといえば、それはつねに「あいだ」にいる。 また「近さ」にいる。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.342)


     このようなネットワーカーの本質にはフラジリティがひそんでいる。 あやうさだ。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.342)


     ネットワーカーは自分の弱さを知っている。 ネットワーカーの活動は情報を交換する場面をつくりだすことによって広く知られていくのだが、もともと情報の本質というものは「弱さ」や「欠如」のほうへむかって流れるものであるからだ。 これを「情報のヴァルネラビリティ」というふうにみたらよいかとおもう。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.343)


     二十三歳のとき、重三郎は吉原の大門五十軒町に貸本・小売の本屋を出した。 絵入り細見本(さいけんぼん)を並べた小さな本屋「僻羅館(へきらかん)」だ。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.343)


     蔦重がつくった最初の縁側だった。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.343)


     細見は遊郭ガイドブックのことで、しょっちゅう版を改める。 これを「細見の改め」というのだが、ようするに情報誌をしだいにヴァージョン・アップすることをいう。 コンテンツとしては遊女や芸者や店のことを細かく載せた。 蔦重が最初から手の内の「情報」の披瀝と拡充を得意にしていたことが知れる。 細見本の序文はのちに蔦重と濃い関係になる福内鬼外こと平賀源内が書いていた。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.343〜344)


     源内はそのころ最も刺激的な活動をしていた江戸のコスモポリタンであるが、ネットワーカーはこうした因縁を逃さない。 本づくりにとって序文は縁先のひとつなのだ。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.344)


     これが大当りして、やがてはおびただしい絵草子を扱って日本橋通油町にブックセンター耕書堂をオープンさせた。 戯作名人の喜三二と組んで黄表紙も出した。 リスクは自分で負った。 ネットワーカーは自前が前提なのだ。 自前を惜しみ、他人の軒先でネットワーキングを画策する連中は本来のネットワーカーにはなりえない。 それはただのずるい連中にすぎない。
    (《日本数寄 蔦屋の縁側》P.344)


     若冲の名物学

     私は祇園南海『湘雲●語』が好きである。 とくに「人好奇是病」の議論にときどき酔ってみるのだが、その議論には「趣は奇からしか生まれない」という論法が登場する。
    ●:“王贊”で1文字。
    (《日本数寄 若冲の名物学》P.349)


     南海」は「」に反するもので、そんな「奇」を好むのは病気だろうと言いつつも、しかし「正」とは「」のことだが、この「正」や「恒」を実行したところで「」というものは出てこないと指摘した。 むしろ「正」に反して「奇」におよぶところにやっと反俗としての「趣」があらわれるのだと書いた。
    (《日本数寄 若冲の名物学》P.349)


     これはうっかりすると若冲にこそぴったりだった。
    (《日本数寄 若冲の名物学》P.349)


     うっかりするとというのは、南海のいささか穿った議論をうけた伴蒿蹊(ばんこうけい)が『近世畸人伝』に、「奇から趣を生む天にかなふ人」の代表として高遊外売茶翁(こうゆうがいばいさおう)やら池大雅やらの京都の文人サークルの面々をあげ、その面々はひとしく若冲が生涯何度も交わった人物だったからである。
    (《日本数寄 若冲の名物学》P.349)


     秋成の暗示

     ここにおいて江戸文学は狂文狂詩をたくみに獲得したのだ。 狂ってみせたのだ。 そして、たとえば銅脈先生こと畠中観斎寝惚先生こと太田南畝、さらには御存知風来山人こと平賀源内などを生んだ。
    (《日本数寄 秋成の暗示》P.356)


     いわゆる“うがち”の登場である。
    (《日本数寄 秋成の暗示》P.356)


     それまで反権力的な部分が切り捨てられて紹介されていた『水滸伝』は、後期陽明学の李卓吾の解釈にしたがった新しい翻案のスタイルに切り替えられ、結局のところは、そのスタイルが都賀庭鐘(つがていしょう)や建部綾足(たけべあやたり)によって換骨奪胎され、そしてついには上田秋成に継承されていった。
    (《日本数寄 秋成の暗示》P.356)


     だから秋成を読むということは、中国と日本の言語文化の百年にわたるシーソーゲームを読むことでもあったのである。 もっともひとり秋成は、そうした流れのどの位置に属した者をもはるかに凌駕する才能に恵まれていた。
    (《日本数寄 秋成の暗示》P.357)


     浮世絵の最期

     大蘇芳年(たいそよしとし)を浮世絵の中に見ようとするも、浮世絵の外に見ようとするも、どちらもうまくない。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.363)


     それは芳年の時代をもって浮世絵が文化の海峡に溺れ死んでいったからである。 芳年の特異なエロティシズムに接近する前に、まずこのことが気にかかる。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.363)


     芳年はちょうど三十歳で明治維新を迎えた。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.363)


     高橋由一(ゆいち)は四十一歳だった。小林清親は二十二歳だった。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.363)


     由一や清親の変貌に「明治」が大きな影響を与えたことを認めるのなら、芳年を議論するにも、その前半生が江戸幕末に、その後半生が明治の開花期に、まっぷたつに分断されていたことを看過するわけにはいかないが、少なくとも私は、英泉(えいせん)や国芳らと芳年をくらべるときは、そのような時代の激変をあれこれの勘定に入れたいとおもってきた。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.363)


     たとえば色川大吉はいう。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.363)


     明治になって各地に学校が建てられ、鉄道が敷かれ、その上を暴走する汽車が暴走するようになっても、村々を流れる川にカッパが棲んでいないなどとおもう小学生などはいなかった。 しばらくは幻想世界と文明開化の併存はつづいていた。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.364)


     けれども明治初年には十七万あまりあった村が、たった十数年のあいだにわずか一万あまりになってしまったことにも注目しなければならない、と。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.364)


     一方、紙窓(かみまど)の国であった日本にガラス電気がもたらされたことが、民俗の観念を一挙に変質させる最大の引き金になったことを最初に観念してみせたのは、やはりのこと柳田国男であった。村にひそむ闇こそが日本の民俗を支えてきたという見解である。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.364)


     明治期における「村」の後退とは、それほどに象徴的なことだったのだ。 それは一に、村の近代化にともなう「物語の後退」を意味していたからである。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.364)


     こうして村はなくなっていく。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.364)


     しかしそのなくなっていくプロセスでは、さまざまな過渡期の幻想も生まれる。 物語はなくならなかったのだ。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.364)


     村の近くに鉄道が開通すれば、まもなくタヌキが汽車の音をまねて線路の上を走る夜があるという噂がひろまり、村に電報が配達されはじめると、村のムジナが配達夫のまねをして家々の戸を「デンポー」といってたたくという、ほほえましい噂が隣り村にもひろまるのである。 村の闇はかろうじて文明開化の明るさと交じってなお、新しい伝承のモドキをつくりつづけようとした
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.364〜365)


     そこでふとおもうのは、もともと浮世絵師とは、こうした〔折衷の幻想〕に強い者たちのことではなかったかということだ。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.365)


     柳田が、紙窓からガラス窓への變化が村の家々に明るさをさしこませ、それが民俗の観念を塗り替えてしまったというでんでいうのなら、とりあえず美術の観念にとっては、写真術と印刷術の発達が浮世絵に本物の光をさしこませてしまったのだ。 それとともにじいさん・ばあさんの物語もまた、新奇な小説にとって代えられたのである。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.365〜366)


     人々は村の闇を街灯一本で中途半端に明るくしたような話を聞くくらいなら、「市電の走る街にお化けを出してみたいと言いきった泉鏡花のような作家たちのノベルティを、新たに好むようになっていたのだった。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.366)


     なぜ芳年が血みどろ絵に走ったか、その謎はときにくい。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.367)


     私なりの推測と回答はあとで多少は書くことにはするけれど、ここではさしあたって、この神仏分離の時代が、時代そのものとして文字通りの瀕死状態にあったということだけを書いておく。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.367)


     幕末とは、だれもが明日のヴィジョンから見放されていたし、だれもが自分がどうなってもかまわないという気分になっていた時代である。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.367)


     各地に頻発した戦乱や暗殺の流行のせいばかりではなかった。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.367)


     師匠の国芳が死ぬ直前には、無惨なコレラが全国的に流行して死者三万人におよび、江戸の街のそこかしこにも地獄絵さながらの光景が出現していたのだし、慶応二年の『英名二十八句衆』が発表された直後からは、時まさに呼応して、ただただ「打ちこわし」の喧噪と「ええじゃないか」の大合唱ばかりが芳年の耳にも聞えたはずだ。 まったく「どうなったっていいじゃないか」という時代、浮世絵師としても異常な刺激を自身の内側に放りこまないではいられなかった時期だったのだ。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.368)


     しかし、そうして明けた王政復古の世相は、これまたなんとも奇妙なものだった。 たんなる官軍の天下になったのではなく、下層民衆とむすびつきすぎた相楽総三(さがらそうぞう)の赤報隊などが惨殺されたような、裏切り文化のまかりとおる世相だったのである。『夜明け前』青山半蔵が総三をしのび「夜はまだ暗い」と言ったのはそのことだ。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.368)


     横井小楠らの攘夷反動派も次々に謀殺された。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.368)


     こうして、芳年の描いた血みどろの絵は、わずか数年のあいだにすっかり現実そのままの構図となってしまったのである。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.368)


     とりわけ神仏分離の号令こそ、妙だった。日本はずっと神仏習合の国だったのだ。 しかし現実は、芳年のファンタジーをこえ、芳年の予想をこえた。 芳年は血みどろ絵には戻れなくなっていく。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.368)


     この時期、芳年の何度目かの分断が、すなわち分身化がおこる。 明治五年(一八七二)のことである。 福沢諭吉の『学問のすゝめ』が発刊され、またたくまにベストセラーになった年だった。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.369)


     この年、芳年は古くからの稗史(はいし)を画題とした『一魁随筆』を刊行しはじめるのだが、これはまったく売れず、ようやく「郵便報知新聞」錦絵版を問うて、兄弟子の芳幾が拠って立つ「東京日々新聞」と競いあう。 それが契機に、明治十年の西南の役では注文がやっと殺到した。 つづく『大日本名将鑑』が爆発的な売れ行きをみせると、三人の子連れの女と結婚した。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.369)


     いまおもえば力作揃いであった『一魁随筆』が、当時はまったく売れなかった理由は明白だ。 この勧善懲悪や義理忠孝の場面をふんだんにもりこんだ稗史絵の主題こそは、福沢諭吉が「楠公権如論」としてからかい、徹底して批判した内容だった。開明的ではあるが日本文化には音痴なところがあった諭吉の「脱亜入欧」の主張からすれば、これは当然の批判であった。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.369)


     明治五年から十年にかけての時代とは、日本史上初めて、民衆の好みが楠木正成や赤穂浪士から離反した特殊な時期なのである。 それは西南戦争で西郷が破れるまで持続した。ようするに、おもてむきはだれもが「万機公論」に決しているフリをする必要があった時代なのである。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.369)


     新聞浮世絵が連動する端緒をつくったのは、落合芳幾だった。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.370)


     芳幾はみずから「東京日日新聞」の発起人とさえなって、いよいよ行きづまりつつあった浮世絵の活路を万機公論のメディアに転用することをおもいつく。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.370)


     その芳幾をすこぶる感化させたのは、幕末期は戯作者として仮名書魯文河竹黙阿弥と交わっていた山々亭有人(さんさんていありんど)(条野伝平)、慶応四年に佐幕派の「江湖新聞」を出し、その後は「東京日日」の朱筆兼社長となった福地桜痴(おうち)、その「東京日日」の編集長を引き受けた岸田吟香らの事業ジャーナリストだった。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.370)


     晩年の芳年は、年来の神経病の再発に悩んで奇行をくりかえした。
     一時は脳病院にも入って回復をこころみるもかなわず、ついには極貧のまま死んでいる。 ちょっとアントナン・アルトーをおもわせる最期だった。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.372)


     これが明治二十五年(一八九二)のことだった。 いよいよ日本の世紀末が訪れていた年である。 浮世絵は退潮し、代わって石版画による「額絵」が登場する季節になっていた。 明治二十五年とは、のちに唐木順三この年以降に生れた日本人には「気概と修養がないと批判した年である。
    (《日本数寄 浮世絵の最期》P.372)


    あとがき 隙間数寄

     数寄とは「何かで何かを漉く」ということをいう。
     何かと何かというのは、何でもよい。
    人であってもいいし、物であってもいい。 物語であっても、事態や景色であってもいい。
    (《日本数寄 あとがき 隙間数寄》P.395)


     ただし、その「漉く」ということが「透く」でもあり、「鋤く」でも「剥く」でもあって、また「好く」なのである。
    (《日本数寄 あとがき 隙間数寄》P.395)


     そこで、たとえば徳一において空海を梳くとか、丿貫(へちかん)において利休を透くとか、溝口において秋成を、そのまた逆の、秋成によって溝口を剥くということが、あるいはもっと端的にいうのなら、須恵器長次郎の茶碗に通過させることが、宮城道雄山田耕筰早坂文雄武満徹で鋤くことが試みられてよいことになる。 できれば、さらなる小異によって時代や思想の大同を通過痛撃して、これらを更新登録させる方法が、より数寄らしい。 そこは無常迅速なのである。
    (《日本数寄 あとがき 隙間数寄》P.395)


     趣向や好みの意表については本文にもあれこれ綴ったことなので、いまさら説明は省くことにするが、おそらく「日本数寄」などという言葉は、もしこういう言葉を本来的につかうのなら、きっと河鍋暁斎にあこがれて日本画をマスターした建築家ジョサイア・コンドルや、小泉節子の昔語りに一心に耳を傾けて「耳なし芳一」を綴ったラフカディオ・ハーンや、六代尾形乾山に傾倒して浜田庄司とともに益子に賭けたバーナード・リーチなどの、つまりは外から日本を漉いた外国人にこそふさわしいのであろうとおもう。
    (《日本数寄 あとがき 隙間数寄》P.395〜396)


     けれども勝手なことを言わせてもらうなら、本書によってそのような「外からの数寄」とは異った「内からの数寄」が誕生したとも、おもいたい。いつまでもガイジンさんに教わっているのでは、情けない
    (《日本数寄》P.396)