[抜書き]『間抜けの実在に関する文献』


『間抜けの実在に関する文献』 内田百闖W成 6
内田百閨Eちくま文庫
二〇〇三年三月十日 第一刷発行
    目次
    間抜けの実在に関する文献
    百鬼園師弟録
    学校騒動記
    学校騒動余殃
    解夏宵行
    三校協議会
    漱石遺毛
    虎の尾
    漱石先生臨終記
    湘南の扇
    河童忌
    亀鳴くや
    長春香
    明暗交遊録
    凸凹道
    予科時代
    新教官
    梟先生
    四君子
    海軍機関学校今昔
    哈叭道人夜話
    石人
    青木先生
    読本の潜水艦
    海賊大将軍
    村上流航行要術
    とくさの草むら
    一粒一滴
    空中分解
    忘却論
    白映えの烏城
    ノミに小丸
    乱れ輪舌FOT
    カメレオン・ボナパルテ
    実説艸平記

     解説 堀江敏幸
     草平と百閨@小宮豊隆


    学校騒動余殃

     卒業後、所望の社会的地位を得なかった文科出身者中の数名が、母校の旧師を逐(お)って、その後に代わらん事をたくらみ、彼等と私公ある教員某は、隠秘の内に策謀を導いて彼等にその志を得しめ、これと結託して、二三の教員も亦(また)自己の学内に於ける地位の向上を計ったのである。
    (《内田百闖W成6 学校騒動余殃》P.46〜47)


     即ち騒動の本源は彼等の職場争いであり、その争いの相手は、卒業生等が学窓に在る時、教えを受けた教授達なのである。 彼等は旧師を学外に逐うに際して、醜類、無能教授の悪罵を、その背後に浴びせかけた。
    (《内田百闖W成6 学校騒動余殃》P.47)


     私は、その追われた一人であり、某氏は騒動組の大将である。
     この騒動についての記述は、拙薯「続百鬼園随筆」に収録したから、読者諸賢の清鑒(せいかん)を仰ぎたい。 本篇では単に某氏から受けた誹謗に対する弁明をするだけに止める。
    (《内田百闖W成6 学校騒動余殃》P.47)


     今この稿を草するに際して、某氏のお名前をここに書く事だけは、御遠慮したいと思うけれど、ただ某氏と呼んだのでは、文を進める上に気が乗らないから、仮りに青山大人と称し奉る事にする。
    (《内田百闖W成6 学校騒動余殃》P.47)


     私は学校を止められるし、その前からの病気も、段段悪くなるらしいので、何かと気分が鬱陶しかった。塩気を舐(な)めた目白の様になって、ぼんやり家にふくれていると、青山大人の方では、私の知らぬ間に、ますます敵意を磨いて居られた。
    (《内田百闖W成6 学校騒動余殃》P.47)


    解夏宵行

     冨坂の教会の中にいたフンチケルさんから、度度御馳走によばれて、家の人達と一緒に西洋料理を食べた。 食事の初めから紅茶茶碗に紅茶をついで、がふがぶ飲みながら、御馳走を食うのである。その中に砂糖を入れた日には、到底御馳走が咽喉を通らないので、苦(にが)いなりに飲んでいると、御主人側では、無闇に砂糖をしゃくり込んで、がぶりがぶりと飲みながら、私の手許(てもと)を見て、何故砂糖を入れないか、と問い質(ただ)す。 私の独逸(ドイツ)語の会話力では、そう云う風な、相手と全く反対した自分の嗜好について、向うを怒らせない様に説明することなどは、中中面倒だから、申しわけに少しばかり砂糖を入れて、その方の忍耐によって、会話力の不足を補っておこうとすると、先方では、それを私の遠慮と解し、奥さんが自分で私の茶碗に砂糖をしゃくり込んだ。
    (《内田百闖W成6 解夏宵行》P.52〜53)


     食事がすんでから、麦酒を飲むのである。 いい加減、腹がふくれているから、平生の様に牛飲するわけに行かない。 抑(そもそ)も食事と一緒に無暗に酒を飲みたがる我我の習慣の方が、へんなのだそうだけれども、昔からそう云う癖になっているので、世界民俗の多数決に従うわけには行き兼ねる。それでも、飲んでいれば、段段に愉快になり、酒の酔いが廻って来ると、私の独逸語が急にうまくなる
    (《内田百闖W成6 解夏宵行》P.53)


     ある晩、いつもの様に、御招待があったから、出かけて見ると、フンチケルさんの郷里の瑞西(スウイス)からやって来た女客が二三人いたので、面喰った。 女の西洋人と話しをすることは、私の苦手である。 男の先生にばかり教わった所為(せい)で、女の相手は、やりにくいのだとも思うし、それよりも、洋の東西を問わず、女は多弁であるやっと登用を弁ずる程度に間に合わしている私を捕えて、無用の饒舌を弄せられては、言葉数が多いだけ、疲労が増すのである
    (《内田百闖W成6 解夏宵行》P.53)


     今度は、若い綺麗な婦人が云った。私達は昨日江ノ島に遊んだ。 美しく可愛らしい景色である。 あなたはそう思わぬか。
     「私はまだ江ノ島にいった事がない
     「おお」と若い婦人は大袈裟な顔をした。
     「何故あなたは、そう云う美しい景色を訪ねないか。 景色を見る事を好まぬか
     「景色を見る事を好むけれども、まだ機会が私に幸いしない
     「機会は禿坊主である。 その一房しかない髪の毛を、お掴みなさい」とむずかしい事を云い出した。幸いその文句を知っていたので
     「そうです、そうです。 しかし手が辷(すべ)って、私には中中掴めないから、走り去る」と誤魔化(ごまか)して、ほっとしかけたら、またさっきの婦人が、
     「箱根について貴君はどう思うか」と云い出した。
    (《内田百闖W成6 解夏宵行》P.54〜55)


     フンチケル夫妻もその話しに這入(はい)って、箱根をほめ出した。 丁度私の知らない所ばかり見物して廻ったと見えて、その感想を地元の私に質するつもりらしかった。
     「遺憾ながら、箱根についても私は知らない」「おお」と云って、その婦人は苦い顔をした。
     「旅行のきっかけが、私を恵まないのである
     その場をつくろって置くつもりで、そう云ったけれど、みんなが、遠来の女客達は勿論(もちろん)、フンチケル夫人まで、いやな顔をして、黙ってしまった。
     私が片意地になって、女客達の話しに乗らないか、或(あるい)はみんなを、からかっているとでも、邪推した様である。
    (《内田百闖W成6 解夏宵行》P.55)


     そう云う所ばかりでなく、東京の中にも、知らない名所が方方にある。 丸ビルが出来てから、何年間も私は中に足を入れなかった。あんまり大きいのが気に喰わないのみならず、通りがかりに中を見ると、こんなに人間の濃密な所には、混じり込むのがいやだと考えた。
     古い借金のことで、差押問題が持ち上がり、丸ビルにいる弁護士の助力を乞うために、倒頭中に這入った時には、全く金の世の中で、貧乏なれば、丸ビルにすら這入(はい)らなければならないかと情なく思った。
    (《内田百闖W成6 解夏宵行》P.55〜56)


     すぐ次の角から横町に曲がって、裏道の酒場に這入(はい)った。 西洋人が沢山いて、女給はまあ裸の様なものである。 例の如く、蓄音器が大変な音をたてているので、番の女給に、あれを暫く止めるわけには行かないかと頼んだら、お客様が皆様その席席で、内緒話をなさるので、隣りの席に聞こえない様に鳴らすのだから、止めるわけには行かないと云った。
    (《内田百闖W成6 解夏宵行》P.58)


    虎の尾

     こちらの都合で、面会謝絶と云う事が通るものなら、勝手に来られて迷惑するのは、お客ばかりでなく、いろいろの手紙や葉書が、先方の都合でやって来る事も、迷惑に変りないのであるから、郵便謝絶と云う事は出来ないものかと考える。
    (《内田百闖W成6 虎の尾》P.72)


     速達郵便は、ぶしつけである。 更闌(こうた)けた頃、表の戸をどんどん敲(たた)かれる事がある。 その時刻に、人がやって来るのは、勿論(もちろん)迷惑するが、相手がそこに来ていれば、主客ともにまだ起きている関係だけでは、あいこだけれども、速達郵便は、差出した本人がぐっすり寝込んでいる時分に、相手を叩き起こしている場合もあるから不都合である
    (《内田百闖W成6 虎の尾》P.72〜73)


     人が勝手によこした手紙を、読むも読まぬも、こちらの勝手だろうと思う。書留とか配達証明とか云う郵便の規則は、郵便物を受取るまでの保証であって、受取った物を当方に読ませる強制力はなさそうである。 そんな事が出来るものなら、もっともっと切手を沢山貼れば、受取った当人の否応なしに、中に書いてある通り承知させる事も出来そうな理屈である。内容証明と云う郵便はもっと念入りで、書いた本人の外に、郵便局がその内容を知っていると云う事を証明する。余っ程意地悪く出来てはいるが、しかし矢っ張りそれだけの事であって、受け取った当人が、それを読んだか読まないかは、郵便局の関知如何に拘らず、別問題である。
    (《内田百闖W成6 虎の尾》P.73)


     一体、切手を余計に貼って、むずかしくした郵便のうちで、書留はなんとなく、いいものを貰うような聯想(れんそう)があって、結構だけれども、配達証明とか、内容証明とか云う種類は、およそ込み入った喧嘩をするために出来た物の様であり、その喧嘩も多くは弱い者いじめに使う意地悪の郵便である。
    (《内田百闖W成6 虎の尾》P.73)


     結局、二銭切手の開封郵便を、広告らしいなと思うと、そのまま捨てて顧ない如く、どんな郵便でも、受取った後、すぐに読むか、なかなか読まないか、読まずに捨てるかは、当方の随意である。帝国国民は、信書不開封の自由を享有しているものと私は安心している。
    (《内田百闖W成6 虎の尾》P.73)


     電話があったら、便利でいいだろうと思うことがある。 しかしそれは、こちらで用事を思いついた時のことであって、自分が何も待ち設けていない時に、人から電話をかけられたら、迷惑するに違いないと想像する。 一たび電話をひいたら、いくら戸締りをして寝ても、何もならない。 泥棒は別だけれども、夜の訪問者は泥棒ばかりとは限らない。泥棒以外の訪問者に対しては、屋内に引込まれた一条の針金が、門の扉や雨戸を無効にするのである
    (《内田百闖W成6 虎の尾》P.74)


     電話のある家の人を訪問して、何か相談している時、または話に興の乗った最中でも、家人が来て「お電話です」と一言云えば、大概の主人は「ちょっと失礼」と席を立ってしまう。機械に対する畏敬の心が、人人の胸の底に、不釣合な勢力を張って潜んでいるのである。そう云う時、私は機械に嫉妬を感じ、未開人の様な主人に憤懣する。 「後にして貰えばいいではないか、本人がやって来たとすれば、私との対談がすむまで、待たせるだろう。電話の針金を通した為に、来訪の順序を逆にするとは怪(け)しからん。 自分は本人で来ているのである
    (《内田百闖W成6 虎の尾》P.74)


     そこへ主人が帰って来て、「やあどうも」と云って座に復しても、要談ならば、また一くさり前からやり直さなければ脈絡が断たれているし、閑談ならば、大概の興は去ってしまっている。
    (《内田百闖W成6 虎の尾》P.74)


    長春香

     余震も次第に遠ざかり、雑司ヶ谷の公孫樹(いちょう)の葉が落ちつくした頃、過ぎ去った何年の間に、私の許で長野と知り合った学生達と、同じく長野を知っている盲人の宮城道雄氏も加わって、一夕の追悼会を営む事にした。 町会に話して、盲学校の傍の、腰掛稲荷の前にある夜警小屋を借りて、会場に充てた。 だれかが音羽の通の葬儀屋から買ってきた白木の位牌に、私が墨を磨(す)って、「南無長野初の霊」と書いた。 小屋の正面に小さな机を据えて、その上に位牌をまつり、霊前には、水菓子や饅頭の外に、後で闇汁の鍋にぶち込む当夜の御馳走全部を供え、長春香を●(た)いて、冥福を祈った。
    (●:一字で、“火主”に似ている)
    (《内田百闖W成6 長春香》P.124〜125)


     何処かで借りて来た差し渡し二尺位もある大鍋の下に、炭火がかんかん起こっている。牛肉のこま切れをだしにして、その中に手でぽきぽき折った、まるごとの甘薯、長い儘の干瓢(かんぴょう)、焼麩の棒、饂飩(うどん)の玉等をごちゃごちゃに入れた。 灰汁(あく)を抜かない牛蒡(ごぼう)が煮えて来るに従って、鍋の中が真黒けになって、何が何だか解らなくなった。 そのまわりにみんな輪座して、麦酒や酒を飲みながら、鍋の中を掻き回して、箸のかかる物を何でも食った。
    (《内田百闖W成6 長春香》P.125)


     「闇汁だって、月夜汁だって、宮城先生にはおんなじ事だぜ」とだれかが云った。
     「このおさつは、まだ中の方が煮えていませんね」と宮城さんが、隣座の者の取ってくれた薩摩芋をかじりながら云った。
     「宮城先生には、この席のどこかに、長野さんが坐っているとしても、いいでしょう
     「そりゃ構いませんが、声を出されては困ります
     その内に、もう酔払って来た一人が、中腰になって、私に云った。
     「先生、駄目だ。 みんなでうまそうに食ってばかりいて、肝心のお初さんは、うしろの方に一人ぼっちじゃありませんか
     そうだ、そうだと云って、みんなが座をつめて、一人分の席を明けた所へ、酔払ったのが、がたがたとお位牌を机ごと持って来た。
     「お供えの饅頭も柿も煮てしまえ」とだれかが云って、霊前のお供えをみんな鍋の中にうつし込んだ。
     「お初さん一人だけお行儀がよくて、気の毒だ。 食わしてやろう
     お位牌の表を湯気のたつ蒟蒻(こんにゃく)で撫でている者がある。
     「お位牌を煮て食おうか」と私が云った。
     「それがいい」と云ったかと思うと、膝頭にあてて、ばりばりと二つに折る音がした。
     「こうした方が、汁がよく沁みて柔らかくなる
     「何事が始まりました」と宮城さんが聞いた。
     「今お位牌を鍋に入れたところです
    (《内田百闖W成6 長春香》P.125〜126)


    明暗交遊録

     私は盃の間に、子供の時に教わった帝国読本の一節を暗誦した。 「こんにちは、氏神様のお祭で、たくさん人が通ります。 さぞ、にぎやかでありましょうから、早くお宮へまいりましょう
     これを任意の他の頭韻にそろえて読む事が昔に流行った。 それを私は宮城検校に伝授した。 「けんにちは、けじ神様の、けまつりで、けくさんけとが、けえります。 けぞ、けぎやかでけりましょうから、けやくけ宮へけえりましょう
     それで色色練習して、一度は「め」の字でやらないと気がすまない。 「めんにちは、めじ神様のめ祭で、めくさん、めとがめえります。 めぞ、めぎやかでめりましょうから、めやくめ宮へめえりましょう
     盲人(もうじん)と云う事はかまわないが、「目くら」と云ってはいけないのである。 それは私は昔から最初の杉山勾当以来、盲人に師事してよく承知しているのだけれども、宮城検校に対してはわざとそう云う悪戯をした。
    (検:手偏に“僉”)
    (《内田百闖W成6 明暗交遊録》P.130〜131)


     宮城検校は払方町から牛込加賀町に移った。 加賀町の家は大分広くて、門があった。 しかしそれにしても両隣りは近いので、朝から晩まで絶え間のないお稽古の音がうるさいだろうと云う様な事を、宮城検校はしきりに心配した。
     「庭の向うの、お隣りの板壁に、蓆(むしろ)を一ぱいに打ちつけて、ぶら下げておくとよろしい」と私が云った。
     「そうすると、どうなりますか」と大検校がきいた。
     「そうすると、お稽古の音が蓆にぶつかります
     「それで
     「それで夕方お稽古のすんだ後で、蓆を外してはたきますと、一日じゅう溜まっていた音がみんな落ちますから、それを掃き寄せて捨てればよろしい
     「本当かと思いました」と云って、宮城検校は瞼の上をこすった。
    (《内田百闖W成6 明暗交遊録》P.133〜134)


    予科時代

     二三日後の午後の時間を終って、私が教壇を降りようとすると、先生と云って伊藤が私を呼び止めた。 伊藤は激越な調子で私にこんな事を云うのである。 みんなのおかずを食い荒らす事は先生からそう云って止めさして戴きたいのです。おかずを食うならまだしもいいのです。 つっ突いて見て、うまくなさそうだと食わないのです。 それですから僕が弁当を食おうと思って蓋を開けて見ますと、鯵(あじ)の向きが違っていました。 人がいじり廻した物を食う気にはなれません、僕は折角家で入れてくれたおかずを食わずに持って帰るのは、実にすまないと思います。 先生から取り締まって戴き度(た)いのです。
     他人の弁当の蓋をあけて、魚の向きを変えてはいかんと訓示するのは私の任でないと思ったので、その訴もまた黙殺した。
    (《内田百闖W成6 予科時代》P.143)


    梟先生

     学校の教師をやめて以来、家の中に独坐する事が多いので、段段自分の気持ちが尤(もっと)もらしくなり、それにつれて、昔に面白がった事がまるで他人の事の様に苦苦しく思われたりする。 大地震の前、神田須田町の白梅亭でないもう一軒の名前を忘れた寄席に昼席がかかっていたので聴きに行った事がある。昼席に行くと、煙草盆座布団の外に、木枕を持って来ると云う話を聞いた事があって、本当か知らと思って行って見ると、まばらの客席の真中に、枕をして長長と寝ている人があるので感心した。芝居や寄席で煙草を吸ってはならぬと云う規則の出来た当座の事で、寄席の天井に縦横に綱を引いて、そのところどころに「この処喫煙所」と云う半紙が幾枚もぶら下げてあった。 両側の壁には大きな洋紙に「その筋の御達(おたっし)に依り指定場所以外にて御喫煙の儀堅く御ことわり申候」と書いてある。 自分の席に坐って見ると、「この処喫煙所」の半紙が、丁度頭の上の見当に下がっているから差支なさそうである。 そう思って方方を見廻して見るに、どこに坐っても大体自分の席は、「喫煙所」の半紙がひらめいている下と思われそうであった。
    (《内田百闖W成6 梟先生》P.150〜151)


     昼席は講談なので、いろいろ入り組んだ昔噺が出る事と思っていると、中年の講釈師が高座に上がって、秦の始皇帝は宮中に三千の美妃を蓄えたまい、裸にしてうつ伏せに寝かせたお尻の上を、一杯機嫌でとんとんとんと渡らせたまう。 お尻の脂で足を蹈み辷(すべ)らし、すってんころりと転がりたもうた所に手枕を遊ばして、朕は今晩このところに伏すと仰せられると云ったのが珍らしくて、帰った後まで忘られなかった。
    (《内田百闖W成6 梟先生》P.151)


     同僚の家を初めて訪ねて、玄関に起ったけれども中中出て来ないので、庭に廻って見ると、雨戸をたて切った外に薄月が射して、軒の外れに盆栽の棚が置いてあったから、その中の手頃なのを一つ抱えて又玄関に廻って声をすると、間もなく奥さんが出て来た。 そこで簡単に初対面の挨拶をして、御主人様は盆栽がお好きだと伺っていたから、今途中で一鉢買って来ましたと云って、薄暗い三和土(たたき)の上に置いたら、それは何よりの物を戴きまして、本当に御親切様と云って奥さんがよろこんだ。
     上がりこんで話している内に、玄関の方で見覚えがあると思ったとか、矢っ張りそうでしょう、二番目の棚のだわとか云う声が聞こえた。
    (《内田百闖W成6 梟先生》P.155)


    哈叭道人夜話

     「偕老洞穴を契られるのであるから、御両人の前途は長い。 その間には今まで気のつかなかった相手の欠点も現われて来るでありましょう。 不満、倦怠、その他色色の事が起こるでありましょう。 しかし、そう云う際にお二人が決して口にしてはならない言葉がある。 それを只今この席で申し上げるから、お二人は決してその言葉をお用いにならぬと云うお覚悟を願いたいのです。 それは、新郎に一つ、新婦にひとつ、たったそれっきりです。 御銘銘一つ宛(ずつ)の事であるから、是非私の申す事を守って戴きたい
     正面の座にいる新郎新婦はもとより、列座の人人が残らず私の顔を仰ぎ見ているので、私は少し得意になった。 これから云おうとする事が、借り物であると云う事などは忘れて、物物しく口を切った。
     「新郎に封ずる一言は、全体お前は、と云う事である。 新婦に禁ずる一言は、どうせあたしは、という事である。 これを以って祝辞に代えます」といって著席(ちゃくせき)した。
     どうも、うまい事を云ったものだと自分ながら感心して、その後味を味わいながら盃を重ねている内に、好い加減酔いも廻った様である。
     あちらこちらの席で話し声が高くなり、その間に、「全体、君は」とか、「そうだよ、どうせそうだよ、どうせあたしはだよ」などと云い合っている声が方方で聞こえた。
    (《内田百闖W成6 哈叭道人夜話》P.175)


     通された座敷には、びっくりする様な明かるい電燈がともっているので、暫らくの間は目がぱちくりする様でし、影は馬鹿に濃くて、自分の身体を動かす度に、そこいらが何だか動き廻る様な気がして、落ちつかなかった。
     「どう云うわけで、こんなに明かるい電燈をつけるのかね
     「明かるい家庭ですよ
    (《内田百闖W成6 哈叭道人夜話》P.196)


    忘却論

     まともにこっちを見ていると云うのが、しかし不馴れな教官の勘違いであって、生徒の方では両眼を見開いたまま居睡りをしているのである。その芸当は多年の習練を経なければ出来るものではない陸軍士官学校は昔の官立高等学校又は私立大学の予科に当たるので、一般の学校から進学して来る者は中学をおえてから入学試験を受ける。 そのコースから来た生徒には、教室内で目を開いたまま寝ているなどと云う離れわざは出来ない。 それをやるのは幼年学校を経て士官学校に来た子飼いの軍生徒に限る。 士官学校の下に幼年学校があり、これが一般の中学校に該当する。 中央幼年学校を卒業してから士官学校に這入(はい)るのだが、中央幼年学校の下になお地方幼年学校があって中学初年級の課程を授けると同時に、子供の時から軍人精神を叩き込む。 この筋を通って来たのが本物のこちこちの軍人となり、規律の為には目を開いたまま寝て見せると云う極意を体得する。
    (《内田百闖W成6 忘却論》P.289)


     月謝は払うのではない。 納めるのだが、そう云う言い方は敗戦後は通用しなくなったらしい。 税金を払う、払ったと云う。 払うのではない、納めるのであって、だから納税と云う。 亜米利加(アメリカ)の影響で、英語のペイを鵜呑(うの)みにした訳語を振り廻すから、税金を払ったり、月謝を払ったりする事になる。 ついでながら、血の出る様なお金で税金を払ったから血税と云うらしいが、血税は徴兵の義務の事である。 ついでにもう一つ、大正十二年の大地震の時、地震で死んだ人の事も或る新聞は震死者と云った。震死は落雷に打たれて死ぬ事であって、地震の死者ではない。
    (《内田百闖W成6 忘却論》P.291〜292)


     語学の話をもう少し続けよう。 私は備前岡山で育ったが当時の小学校は尋常小学校四年、高等小学校四年で、その高等小学校三年から英語を教わった。 それが中学に這入ってからどのくらい役に立ったかわからないが、小学校の英語の時間に新任の若い先生からこんな事を教わった。英語の中で一番綴りの長いのは「設立不賛成」と云う意味の百二十五字の一語である
     教わった事はそのまま覚えているが、先生はその長い綴りの英語を黒板には書かなかった。 いまだにどんな字なのか、私は知らない。
    (《内田百闖W成6 忘却論》P.296)


     しかし、六ずかしい、やさしいと云う事は、私共に取っては実に截然(せつぜん)と区別する事が出来るが、漱石先生英語で書いた物のあれは六ずかしい、これはやさしいと云う区別はよくわからないと云われたのを、じかに聞いた事がある。
    (《内田百闖W成6 忘却論》P.297)


     そう云えば私共でも、特別な場合を除き、新聞や雑誌の日本文が、あれは六ずかしい、これはやさしいなどと思った事はない。 漱石先生の英語では、云われた通り差別はなかったのだろう。
    (《内田百闖W成6 忘却論》P.297)


     気の弱いのが、先生そんなに詰め込まれても、じきに忘れてしまいますと訴える。
     構わない。 覚えていられなかったら忘れなさい。 試験の答案に書くまで覚えていればいいので、書いてしまったら忘れてもいい。 しかし覚えていない事を忘れるわけには行かない。 知らない事が忘れられるのか。 忘れる前には先ず覚えなければならない。 だから忘れる為に覚えなさい。 忘れた後に大切な判断が生じる。 語学だけの話ではない。 もとから丸で知らなかったのと、知っていたけれど忘れた場合と、その大変な違いがいろいろ忘れて行く内にわかって来るだろう。
    (《内田百闖W成6 忘却論》P.298)


    白映えの烏城

     昭和二十年五月二十五日の夜から二十六日の未明にかけて来襲した敵機の編隊による焼夷弾攻撃で、東京の私共は焼け出されたが、その一月後の六月二十九日夜から三十日、B29の編隊は無防備の岡山を襲って吉備の国の都を焼き払った。
     敵機が独逸(ドイツ)の漢堡(ハンブルク)を襲った際用いたと云う絨毯(じゅうたん)爆撃の手を岡山の空襲にも試みた様である。
     先発機が市街の四隅、町外れに近い地点に焼夷弾を落として、その燃え上がった炎を目じるしにし、後続の編隊は目じるしの炎を結んだ線の中へ投弾した。
     その正確な攻撃によって、当時の戸数三萬の内、周辺の縁になった三千戸を残しただけで、全市を灰燼に帰せしめた。
    (《内田百闖W成6 白映えの烏城》P.300〜301)


     だから授業の中でも、習字の時間は特に八釜しかった。墨の磨(す)り方がいかん。筆の軸がよごれている。懸腕直筆 頻(しき)りにそれを云われたが、中中先生の云われる様に行くものではない。 腕を張り、着合いをかけて手習い草紙に書いていると、生徒の机の列の間をコツコツと歩いていた先生が、いつの間にか足音を忍ばせ、どこへ行ったかと思っている途端、不意に後ろから手を伸ばして生徒が持っている筆を、すいっと引っこ抜いてしまう。
     墨を含んだ筆の穂が、持っていた指を撫でるから、指の腹は墨だらけになり、始末に困っている頭の上からどなられる。そんな事ではいかんぞ。 懸腕直筆。 筆を持つ手はしっかり。しっかり持った筆を軽く運ぶのだ。 わかったか。
    (《内田百闖W成6 白映えの烏城》P.303)


     子供の時に教え込まれたからか、その教えをよく守り、筆を使えば必ず後で穂先を洗う習慣が身についた。 一つにはそんな事が私の性分に合っていたのかも知れない。
    (《内田百闖W成6 白映えの烏城》P.304)


     ところがその癖がインキを使うペンに波及しているのに気づき、自分ながらあきれる。 昭和十年か、或(あるい)はその一二年前だったかも知れないが、私は銀座の文房具のデパート伊東屋で、十四金の金ペンを買った。 その金ペンは万年筆の様にペンの先に固着(こちゃく)させてあるのだが、万年筆ではない。 一一(いちいち)インキ壷につけてインキを含ませるのである。 ペンの具合が良かったので以来愛用し、今日に及んでいる。 今こうしてこの稿を書いているのもその金ペンである。 だから前後三十年に亙って同じ一本のペンを使っている事になる。
    (《内田百闖W成6 白映えの烏城》P.304)


     そんなに長い間の使用に堪えたのは、間にいろんな事もあったが、その金ペンの運がよかったのと、一つには私の手持ちがよかったからであって、私はその日の仕事を切り上げ、ペンをおいて、机の前を離れる時は、必ずペンを洗面所なり台所なりへ持って行き、水を流してペン先を洗う。 それは十年一日の如く、ではなく三十年一日の如く、嘗(か)つて一度もインキでよごれたペン先をその儘にして机を離れた事はない。 これ一に金峯先生の筆洗いの教えを拳拳服膺(けんけんふくよう)した結果であるが、ペン先についたインキを洗い落とせとだれが云ったかと金峯先生は腑に落ちないかも知れない。
    (《内田百闖W成6 白映えの烏城》P.304〜305)


    ノミに小丸

     一週間に木曜日は一度しかない。
     その一日を待ち兼ねて、私共は夕方になると、雨が降っても火が降っても早稲田南町の漱石先生の書斎へ出掛けて行った。
     その晩なら必ず先生に会える
     そうやって集まって来る私共を、先生の方では待っていたのか、どうかそれは知らないが、通されてその前にひざまずき、お辞儀をした頭を上げて見る目の前の先生は、いつもと変わらぬ面白くもなさそうな顔だが、別に迷惑そうでもない。 若いみんなと一緒の中に溶け込み、時時、少し曲がっている鼻のわきに皺を寄せて笑う事もある。
    (《内田百闖W成6 ノミに小丸》P.312)


     どう云う時であったか、後先のつながりは忘れたが、私は恐れつつしんで先生の前に畏(かしこ)まった儘の続きで、極く自然に、先生の鼻は曲がっている様だと云った。
     フンと先生が云ったらしかった。 そうして、「南部の鮭(しゃけ)の鼻曲がり、と言うんだよ」と教えてくれた。
    (《内田百闖W成6 ノミに小丸》P.312〜313)


     漱石先生は英語であったが、その英語力がどの位であったか、私などにはわからない。 私は英語を最終の語学としたわけではないが、それにしても随分長い間の学校の過程で学んだ割りには物になっていない。勉強中に蚤が喰った所為(せい)だろうもう少しは読めてもよさそうなものだと思うけれど、英吉利(イギリス)人の書いた英語の本なぞ大体歯が立たない。せいぜい仏蘭西(フランス)や露西亜(ロシア)、その他英語でない国の物を英語に書き直した物、つまり英訳本ならいくらか読む事が出来た。正宗白鳥さんが源氏物語を英訳で読み、日本語の原文よりこの方が解り易いと云ったと云う話は同じようなわけなのか知ら。
    (《内田百闖W成6 ノミに小丸》P.318)


     どうもその国の原語で書いた物は六ずかしい。 翻訳の英語の方がやさしい。 そうだね。 そうだよ。 漱石先生の前で、こちら同士でそんな話をしていたら、聞くともなく聞いていたらしい漱石先生が、退屈そうな顔をして、英語が六ずかしいとか、あれはやさしいとか、そんな区別は僕にはわからないね、と云った。
     そう云われて見ればそうかも知れない。 私共だって、ふだん見る新聞や雑誌の文章を読んで、あれは六ずかしかった。 これはやさしく書いてあるなどと区別した事はない。
    (《内田百闖W成6 ノミに小丸》P.318〜319)


    乱れ輪舌FOT

     今からでも読める筈であるが、それがそう行かないのは、私の所に全集がないからであるが、もとは初版本全集一揃の外に、印刷所の築地活版から貰った特別上質紙刷上げの未装釘一揃も持っていた。 仏蘭西風の所謂(いわゆる)ブロッセ版で、その装釘は蔵書家各自が自分自身の好みによって仕上げると云う趣旨のものであった。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.328)


     それ等の全集はその後永い間座右から離さず、度度(たびたび)引っ越しした際にも常に行く先へ持ち廻って蔵書の列の中心に置いたが、段段に生活の上の不始末がかさんで、金貸しが差押えに来る様になった或る時、差押えは勿論執達吏(しったつり)の手で行うのであるが、その事前の談判の際、やって来た高利貸の一人が書斎の漱石全集に目をつけて、これはどうだろうと云い出した。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.329)


     差押えにはその対象に多少の制限がある。転附命令等による俸給差押えは、当時の金額で年額三百円、月額二十五円は最低の生活費として取りのけておかねばならない。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.329)


     又不動産差押への場合は、どんなに贅沢な、金目になりそうな立派な出来でも、御仏壇には手がつけられない。 大工の鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、魚屋の庖丁など職業用の物にも封印は出来ない。 そうだとすると、内田さんこの漱石全集は、どうかな、と一緒に来た仲間同士で話しあった。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.329)


     何冊揃いの大きな独逸語の字引などもあったが、彼等にその背文字は読めないにしても、私が語学教師である事は知っているから、これは大工の鋸に類すると判断して問題にしなかったが、漱石全集はそれ程職業上の関係はないだろう
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.329)


     しかし、そうだとしても矢張り後で何かと異議を出されたりすると事面倒になる。まあ取りのけておこうか。 それがいい、と云う事になって彼等の間で話がまとまり、私が何年か前その校正に骨身を削った漱石全集が、金貸しの餌食(えじき)になる難は免れる事が出来た。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.330)


     だからその時、そんな事で漱石全集を失ったのではないが、結局いつの間にか無くなった。 昭和二十年初夏の空襲の戦火で家を焼かれた時、焼け落ちた後の灰燼(かいじん)が書棚のあった所だけ盛り上がっていたのを思い出すけれど、その灰の中にあった漱石全集は、どうももとの物とは違っていた様な気がする。 あまりはっきりしないが、後の新らしい版ではなかたか知ら。 それではそのもとの、昔の全集はどうなったのか。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.330)


     よくわからない。 考えつめて、突きとめる事が出来ない。 なぜだと云うに、それは多分、何しろいろんな事があったから、その時分の事の一つとして、考えたくない霧の中に見失ったのではないか。 そうだろうと思う。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.330)


     昔の事はそうとして、今私の所には漱石全集がない。 私に取っては全く外ならぬ漱石全集であるのに、それがない。 しかし今なら何とか揃えられる筈であるが、それを敢えてしないには又わけがある。 本と云う物は実体であって、嵩(かさ)があって、場所を取る。 漱石全集と雖(いえど)も空間を占めるから、他の物を排除する。 それが困るので、簡単に云えば置き場所が無い。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.330)


     まだ私が上京しない前、東京近在の大久保に「出歯亀(でぎがめ)」が出たと云う騒ぎがあって、一世を震撼させた。 その住宅地にある幸田さんと云う家の若奥さんが、晩になって近所の銭湯へ行った帰りに暴漢に襲われ、怪(け)しからん事をされてその場で殺された。
     大変な騒ぎで何百里隔てた岡山でもその噂で持ち切った。 人人は寄るとさわるとその話をした。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.336)


     一般に「出歯亀」をラ行四段の動詞にして、「でばラ、でばリ、でばル、でばレ」と活用した。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.336)


     六高の同級の友達が、その当時の俳句の連座でおかしな句を作った。
       でばりければ止むを得ず出替りぬ
     季題の奉公人の出替りを詠んだので、句の姿は新傾向風になっている。
     うっかり人が読むと、下女が主人にいたずらをされて、おなかが大きくなり、出張って来たから止むなく暇を取ったと云う事になりそうだが、又現にそう解した仲間もいたけれど、そうではないので「でばる」は腹が出張るのではなく、出歯亀の様な事をした「出歯る」なので、作者は出歯亀のラ行活用を用いたのである。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.336)


     暫らくして、女中が私共の前に何だか運んで来た。 勝手がわからないので、その儘そっとしておくと、先生がどうぞ、遠慮なく、と云われるし、一緒に来た友達も、君いただこう、と云うからお箸を手に取った。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.338)


     笊蕎麦(ざるそば)だったが、私はよく知らない。 よくにも何にも、まだそう云う装置で蕎麦を食べた事がない。 蕎麦と云う物は岡山で食べた事はあるけれど、口の中がざござこして、もそもそして、貧乏人が腹のたしに食うものだとされていた。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.338)


     そこに出されたのは蒸籠(せいろう)の笊蕎麦だったらしい。 よく知らないから丸い塗り物の蓋を取って、徳利壷のおつゆを蕎麦の上からザアと掛けた
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.338)


     隣にいた友達が驚いた様で、君、君、それはこの茶碗に注いで食うのだよ、と教えてくれた。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.338)


     やっと綺麗に食べ終り、ほっとした。 うまくも何ともない。 しかし、あまい、まずいそんな事ではない。 咽喉を通して、嚥み込んで、これで済んだ。 済んだからもとの通り蓋をしようと思う。 何だか隣りから云う様だから気になった。
     全く思いも掛けない事で、蒸籠は二重になっていた。 下にもう一段ある。 そんな事とは知らないから、ほっとしたばかりなのに、どうしたらいいだろう。
    (《内田百闖W成6 乱れ輪舌FOT》P.338)


    カメレオン・ボナパルテ

     何を腹を立てたかと云うに、教壇に起った先生に向かって拍手するとは何だ。 無礼千萬。芸人ではないぞと云う腹であった。
    (《内田百闖W成6 カメレオン・ボナパルテ》P.346)


     A組のクラス会で、彼等と何を話し合ったか、取りとめがない事は勿論(もちろん)として、全然記憶に残っていないのは、その約一時間の間、癪にさわる事が何もなかったからであろう。 そもそもそのA組は、いつも「何をこの野郎」と云う気魄で授業にのぞんでいるにしろ、もとから嫌いではなく、だからクラス担任を引き受けた位であるが、翌年であったか、学内にストライキ騒動が勃発した事があった。 その時私のA組はだれ一人動いた者がなく、教授室の同僚の一人から、「あすこは内田さんの近衛聯隊だから」と云われた位であった。
    (《内田百闖W成6 カメレオン・ボナパルテ》P.346)


     後に学校内部でごたごたがあった時、彼は去就を曖昧にしたので私は気に入らなかった。 それは直接私に関係した事ではなく、一つの筋に関する不都合で、その点を私は不快に思ったのだが、病臥していよいよ自分であきらめた時、「内田先生に会いたかった。 先生は到頭来てくれなかった」と云ったと云う。 その言葉を思い出すと、矢張り私はつらい。
    (《内田百闖W成6 カメレオン・ボナパルテ》P.354)


     別の学生が、昔の事で、肺病は手のつけ様がなかった。もういよいよ駄目だと云う。 その学生が、しょっちゅう私について廻ったり、宮城道雄氏に外国文学の古典を読んで聞かせる役目を私から引き受けたりしていた関係で、一目私に会いたいと言った。
     鎌倉に転地療養をしていたのだが、私はわざわざ出掛けた。大丈夫だよ、元気を出せなどと空疎な言葉を残して帰って来たが、間もなく彼は死んだ。
    (《内田百闖W成6 カメレオン・ボナパルテ》P.354)


     その外にも、見舞に行った友達に、「先生によろしく言ってね」と云って死んだのもいる。
    (《内田百闖W成6 カメレオン・ボナパルテ》P.354)


     次から次から思い出せば切りがない。 親子ではないけれど、逆さ事と云うのはよくない。 しかし、だからと云って、私が彼等に義理を立てては切りがない。 それで、知らん顔をしてこうしていると云うわけでもないが、それはそれとして、一体私はいつ迄人の事を思い出しているのだろう。
    (《内田百闖W成6 カメレオン・ボナパルテ》P.354〜355)


    実説艸平記

     草平さんを識(し)ったのは早稲田南町の漱石先生の許(もと)で会ったのが初めてである。 外の数人の先輩の中で、特に草平さんが好きだと思ったわけではなく、取り立てて尊敬を払ったと云うのでもないが、それから後の何十年の歳月を振り返って見ると、一番草平さんに接近している。 結局好きだったと云う事が、過ぎ去った日の跡を辿って自分にはっきり解る。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.358)


     全集の様な大部の物の校正をするに就いては、校正が出てから送り仮名等で問題を起こし、その度(たび)に直し直しする様では捗(はかど)らない。 原稿を印刷に廻す前に、先(ま)ず原稿の内に校正をしてから渡さなければいけないと云う私の意見が容れられた。 それでみんなで「校正文典」と云うものを作った。 漱石先生の仮名遣(づかい)、送り仮名、用字の上の癖などを調べ、それに則(のっと)った「漱石文法」なのである。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.363)


     原稿校正は私がする事になったけれど、昔から仕事の埒(らち)のあかないたちなので、中中捗らなかった。 全集第一回配本の期日が迫っても、まだ原稿が印刷所へ廻っていないと云う始末であった。予約募集なのだから、これでは刊行の責任者として困る岩波茂雄さんが云った。しかし我我の仕事が未だそこ迄行かないのだと草平さんが突っぱねる。 岩波さんと草平さんは全集の仕事の間じゅう、しょっちゅう喧嘩ばかりしたが、初めからそう云う雲行きで、たしか第一回配本は予定より大分遅れて、岩波から予約者にお詫びの手紙を出した様な記憶がある。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.363)


     私がぼんやりしていても、草平さんの家へ行った時に、真逆(まさか)そんな事を話し出す筈もないのだが、何しろ笠子さんはしょっちゅう十三号室へやって来るので、いろんな事を目撃させられたり、聞き耳を立てるつもりはなくても、つい聞かされたりする事が多いので、うっかりして何を云ったか知れない。 矢来でお酒をよばれている時、何か口を辷(すべ)らしたらしいのだが、私は気がつかなかった。 傍でお酌をしていたお師匠さんの奥さんが、銚子のお代りで下へ降りて行った隙を見て、草平さんが手振りをしながら、
     「船中にて申すまじき事」と云った。
     そうだったかと気がついて、奥さんが上がって来ない内に、あやまった覚えがある。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.368〜369)


     何年か後に学校の先生をよして、神田で古本屋を始めた時の開店披露のビラを貰って、初めて岩波さんの名前を記憶した。 年代はよく覚えていないが、大正十二年の大地震の火事で焼ける何年か前に、神田三崎町の電車通にあった救世軍の本営から出た火で神保町一帯が焼けた神田の大火にも古本屋の岩波は焼けた様に思う。 当時掛(か)け値(ね)売りが当り前の事になっていた古本を、正札で売ると云うのが岩波古本屋の看板であったが、ビラにはその事を吹聴(ふいちょう)した外に、教育の事に携(たずさ)わって人の子を賊する不安より免れんが為に、職を辞して古本屋を始めると云う様な事が書いてあった。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.375)


     店を開いて間もない頃、中学校長の会議で上京したとこか近県の校長さんが岩波古本屋へ来てバイブルを買って行ったのはいいが、よその古本や並みに考えて、まけろ、まけろと頻(しき)りに値切ったと云うのを、外出先から帰って聞いた岩波さんが烈火の如くに憤り、本もあろうに聖書を値切って買おうとする様な、そんな心根(こころね)の者にうちの店の本を売るわけに行かないと云うので、どうして宿所が解ったのか知らないが、九段のその宿屋へ押し掛けて行って、校長からバイブルを取り戻して来たと云う話を聞いた事がある。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.375)


     岩波嫌いの草平さんには、そう云う話が一一(いちいち)気に入らなかった。正義派ぶった、わざとらしさとしか思われないのである。 後年までも一貫していた草平さんの言い分は、正義は犠牲を伴なう筈のものだ。 それが岩波の場合はそうではないのだからねえ。 正義を真向(まっこう)に振(ふ)り翳(かざ)してそれで些(ちっ)とも損なぞしやしない。 段段に得(とく)をして、結局産を成したのが岩波だ。正義で儲けたのは岩波だけだろう
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.375〜376)


     それから又大分経ってから、もう一度よんだ時には、私の家の自慢の御馳走を用意して待った。 馬鈴薯を摺り潰して裏漉(うらご)しにかけてマッシュを造り、おや指の一節(ふし)ぐらいの団子にして、マゾラ油で揚げて小さなコロッケにする。 肉は何も這入っていない。 ジャガ薯のコロッケだからジャガコロと呼んでお客に吹聴(ふいちょう)して得意であったが、それを家の者が手間をかけて造り上げて草平さんに供したら、ちっともお気に召さない。こんな物が何だと云う顔をした。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.378)


     草平さんには根性悪(こんじょうわる)の底意地の悪い所があって、後輩の私なぞには露骨に遠慮なくそう云う所を見せたけれど、それはその時時の癇(かん)であり、虫の居所から来る発作に過ぎないので、心底(しんそこ)は底抜けの気のいい人であった。 自分で何か物物しくたくらんでも、必ず尻が割れてしくじり、後で自分の失敗をおかしそうに笑ってお仕舞になる。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.386)


     どうも気になって仕様がないので、草平さんを誘って行って見ようかと思いついた。 前に矢来にいた時、遊びに行っていたら、話にそう云うきっかけが出て、よろしい、それじゃこれから猥本(わいほん)を借りに行きましょう、一緒にいらっしゃいと云うのでついて行った。牛込北町の四ツ角から二三軒目に貸本屋があって、店の戸棚に講談本が一杯つまっている。 草平さんは以前からその店と馴染みの様で、又馴染みでなければ内所の本を貸してはくれない。 草平さんがそう云うと、亭主が奥から古ぼけた木版本を何冊か持って来た。 その中を私も何冊か貸して貰って帰ったが、変体仮名(へんたいがな)を交(ま)じえてうねくねと綴った木版の文章は中中読みにくいそれを判読したり、どうしても読めない所は想像でつなぎ合わせたりしてやっと読み進んで行くところに何とも云われない味わいがある。 すらすらと読めては、結局は千篇一律の内容だから何の趣もない。 私の高等学校時分の一年か二年下だった某君が、大学を出るとすぐに淫書刊行会と云うのを始めて、私もその刊行書を手に入れた。 絵は這入っていないけれども活版本だからいくらでも読める。 暑中休暇の暑い盛りに二階の自分の書斎に寝転んで、何冊も積んであるのを片っ端から読破したら、興奮と暑さの為に頭ががんがん痛くなって、どれもこれもみんなおんなじ事ばかり書いてあるのが、げえげえ云う程いやになった。 しかし翌(あ)くる日もまた読んで又頭を痛くした。 みんな読んでしまった後で、こう云う本は矢っ張り変体仮名で書いた木版本に限ると思った。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.406〜407)


     しかし、草平さんも学校を止めれば困る。我我の為に働かれた森田先生に不自由をさせては相済まぬと云うので、学校に残った一味の申し合せにより、各自の月給の中から月月草平さんに仕送りをする事になったそうだが、何回続いたかは知らない。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.423)


     草平さんが先に立って、自分から起こした騒動ではあったが、その為に草平さんは年来の古い友達を大勢(おおぜい)失い、代りに新しい仲間や配下が出来た筈だけれども、それは後では頼りにならなかった様である。 学校を追われた後の明け暮れは、日に日に淋しいものであったらしい。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.423)


     草平さんはめっきり年を取り、腰が曲がってよぼよぼしていると云う噂を風の便りに聞く事があった。 私は今度の事で草平さんと不倶戴天(ふぐたいてん)の間柄になったと云われたりしたが、それ程の事ではないけれど、なんにも知らずに出入りしている私を片づけてしまう相談を一味の者と進めていたなぞは、後から考えて私としてもさらりとした気持には戻りにくい。 又追い出された側にあって私は幹部でも実行委員でもなかったけれど、一味のする事に腹を立てた点では人後に落ちなかった。 それで大勢の先生達が銘銘の生活を破壊する様な羽目に陥る方向に志気を鼓舞しなかったとは云えない。 後になって草平さんと騒動の事は水に流して旧好を温めるなぞという事は私自身の気持からも、またひどい目に会わされた先生達への義理からも出来る事ではない。 腰が曲がっても、よぼよぼになっても、私の知った事ではないと思う事にした。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.423〜424)


     戦争になる前の或る冬、世間は暗く重苦しく、又格別に寒かったが、小石川竹早町のお寺で漱石先生の何回忌かが営まれた。 先生の生前からの顔見知りは殆んどみんな集まり草平さんも出て来たが、全く話に聞いた通り、すっかり腰が曲がって、百なり爺さんの恰好であった。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.424)


     小宮さんが、
     「森田さんはどうしてそんなに憔悴(しょうすい)してるんだ」と云った。
     草平さんがそっちへ向いて何か云ったのだが、風が吹いた様な声で、少し離れた私には聴き取れなかった。 しかし草平さんは六つかしい顔をして笑っている様であった。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.424)


     お焼香が済んだ後で、みんなが席を動いた時、私は草平さんが坐っている前を通った。 一寸(ちょっと)会釈をしたつもりであったが、草平さんは坐ったなりで私を見上げる様にして、「ほほう」という様な声を出した。
     「君は、なぜ、そう、えらそうなのだろう
     そう云った草平さんの声が、丁度前を通り過ぎた私の後に聞こえた。威張ってなぞいなかったが、もとの様に冗談で受け答えをする気にもなれず、黙ったなりですませた。 しかし草平さんに済まない様な気がしたので今でも覚えている。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.424〜425)


     戦争が終った後、何年目かに草平さんは共産党に入った。出隆君が入党した後であって、出隆の場合、世間が可成り騒いだので、已に世の中から忘れられている老文士が、その轍(わだち)を蹈み、人の注意を引いて名を売ろうとしたのだと云う批評もあったが、それは違う。 草平さんの入党の動機は知らないけれども、理論の窮極から行動的に入党したのでない事は解っている。 前にも云った如く、草平さんは若い時から共産党が好きだったので、好きな道を歩いて見たに過ぎないのだろう。 胸の中に燃えた古風な正義感とか、結論に対する反抗心とか、流行言葉で云えば一片の耿耿(こうこう)たる反逆精神と云う様なものに導かれて、もとからそう云う方向に歩いて見たく、その先に在るものに好意を寄せていたのである。 世間の事実として見ると、森田草平の入党は突飛であったかも知れないが、私なぞにはそれ程不思議でもなく突飛でもない。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.425)


     疎開先で亡くなって、上野のお寺でお葬式が営まれたが、風を引いていたので私は代理をやってお焼香をさせた。 私が行くと人前で泣き出す様な気がしたので、風邪を押して行くのは思い止まった。 代理の者が帰って来てから話すのを聞くと、小宮豊隆さんの追悼演説に対して共産党の細川嘉六氏がその起ち場からの反駁を展開し、八釜しい事だったそうだが、草平さんにはどうでもいい事だったかも知れない。法政騒動にしても、草平さんをたぶらかして事を起こした二三の事実上の元凶は、まだちらくら目ざわりにいるので、当時を思い起こすと今でも腹が立つ様だが、草平さんは死ぬ前には、どっちがどうなのか覚えていなかったのではないかと思う。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.425〜426)


     臨終まで病床に附き添って看病したと云う青年が私の所に来て、森田先生は何度でも貴方の事を思い出して、その話をなさいましたと云った。えらそうになぞしていないと云う事を見せに行かなければいけなかったかと思う。
    (《内田百闖W成6 実説艸平記》P.426)









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