[抜書き]『民俗のふるさと』


『民俗のふるさと』
宮本常一・河出文庫
二〇一二年三月二〇日 初版発行
*『民俗のふるさと』は〈日本の民俗〉シリーズ全11巻(責任編集=池田彌三郎・宮本常一・和歌森太郎、河出書房新社)の第1巻として、一九六四年七月に刊行された。
    目次
    第1章 都会の中の田舎
     1 東京の田舎者
       お国はどちら◎言葉はふるさとの手形
     2 ふるさとの殻
       生国意識◎人国記ばやり◎東京の人
     3 盆がえり・正月がえり
       五島の盆・下北の盆ヤブ入りと鍋借り◎旧暦から新暦へ
     4 県人会
       東京へ住みつく人◎学寮◎県人会◎郷人会
     5 地元の者と他所者
       東京のなかの村◎ベッドタウン発生◎月見のモラル
     6 市民意識の発生
       古い町の秩序町の自治
     7 市民の祭り
       祭りとお城◎祇園祭り◎堺の夜市長崎の祭り
    第2章 町づくり
     1 町の芽
       山の中の町商人の役目賃貸し屋あれこれ
     2 商人町のおこり
       乞食の世界落伍者の群落伍者が商人になった
     3 都城づくり
       都は物のあつまるところ都の人あつめ河原者
     4 城下町づくり
       武士の好む町◎江戸の町城下町の住民商人の出身地
     5 宿場町
       荷物輸送◎旅人と荷つぎ◎駄賃付け◎陸の港
     6 港町
       船着場◎港々に女あり港町の性格
     7 門前町
       伊勢の御師の町町衆の合議制檀那場と門前町
     8 町のしくみ
       同業相集う◎職業の変遷◎株仲間
    第3章 村と村
     1 ムラの成りたち
       条里制とムラ垣内のムラ名田のムラ親方のいないムラ
     2 ムラの格式
       ムラの格式ムラとムラの争いムラの格式の上下
     3 賤民のムラ
       死穢の思想念仏聖さげすまれる職業
     4 僻地の村
       僻地に住む人の劣等感都会人の優越感馬鹿村話
     5 境争い
       境界不明入会地◎飛地の整理
     6 血のつながりと村連合
       嫁をやりとりする村◎見知らぬ在所へ嫁にいく◎通婚と村連合
     7 村の窓をひらく
       神社中心の村連合◎寺中心の村連合◎村と村をつなぐ信仰集団共通感情をもとめて
    第4章 村の生活
     1 人は群れて住む
       一戸だけの島外敵を防ぐために◎散って住む場合
     2 村落共同体
       共同作業◎休み◎共同体くずれる
     3 親方子方の村
       親方の村◎子方の独立◎人口減少
     4 村の結束ゆるむ
       産児制限の意味◎二、三男の行くえ◎分家
     5 村八分
       権利の主張◎村ハチブの流行◎村ハチブの効果
     6 村結合から人の結合へ
       いろいろの講◎親方どり◎共感と結合
    第5章 村から町へ
     1 群の絆
       世間体◎ムラ生活の拘束◎立身出世◎故郷はついてまわる
     2 群からはなれる
       親村・枝村◎政治の外へ◎出稼ぎ・離村
     3 古いものと新しいものの場
       古い秩序の意義◎日本の都市◎都市人口と農村人口
     4 古い民俗と新しい生活
       農村の解体◎古さと新しさ◎農村国家の近代化

    あとがき
    解説 宮本学の全面開花 岩田重則
    宮本常一略年譜


    第1章 都会の中の田舎

     1 東京の田舎者

     ◎お国はどちら

     「お国はどちらですか?
     何かのおりによくこうきかれる。
     「山口県の大島ですよ
     「多分西の方の人だと思いました。 アクセントが西の方のように思えましたので…
     質問した人がそういって、国許をきいた言いわけをする。 私の言葉には山口県の言葉のアクセントがつよくのこっているようである。 私自身は気がつかないが、私の周囲の耳のさとい人には、すぐわかるようである。
     同様に私もまた初対面の人に
     「お国はどちらですか
    ときいてみることが多い。 これはその人の言葉のアクセントが気になるからではない。 私の東京であう人の何割が田舎出であるかを知りたいことと、その人たちがどれほど田舎らしいものを背負っているかを知りたいためである
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.11〜12)


     3 盆がえり・正月がえり

     ◎五島の盆・下北の盆

     だが小さな在所にはそういうものもない。 まったくひっそりとしていて開け放たれた座敷に三人五人、寝ころんで何か話している。 海にのぞんだ村では若者たちが石垣の上にならんですわって海を見ていた。何もすることがないのである。 盆の帰省とといものが、親族故旧に会い、また墓参をする以外に何もない。 おそらく盆正月の多くの帰省者の姿はこういうものであろうかと思った。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.27)


     昭和三八年には、お盆を青森県下北(しもきた)半島ですごした。 下北へ向う汽車は、いずれも満員であった。 そして盆の一三日の晩は、それぞれ墓へホカイを持ってまいる人でにぎわったが、この地方では墓地へ帰省者のまいる風習はよほどすたれているようで、墓に集っているのは、ホカイをそなえる親たちとホカイをもらおうとする子供たちとであった。ホカイというのは墓前にそなえる御飯のことである
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.27)


     だが下北半島の北端に近い佐井(さい)では盆踊りがさかんで、これには多くの若者が出て踊っていた。それらの中には帰省者が多いと見られた。 こうしたものにはなお魅力が感じられるのであろう。 そしてそういうことがこの人たちをなおふるさとに結びつけているのであろうが、それを可能にしているのは一つはお盆の帰省のゆるされるような小さな商店や工場に勤めていることにあるようであり、そこに勤めているものの学歴にも関係がある。 下北半島でも五島でも中学校を卒業して就職する者が多い。 したがって中小企業の従業員になるものが大半で、そういうところでは盆正月の帰省にも便宜をはかってくれるところが多い。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.27〜28)


     ◎ヤブ入りと鍋借り

     もともと盆がえりというのも出稼ぎに出ていったり、都会で働いていたりするものが家へかえるだけでなく、嫁にいった者、婿にいったものも親もとへかえる習俗のあったことが拡大されていったものである。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.29)


     普通に盆・正月に嫁婿の里帰りする日は十六日にきまっていて、これを薮入(やぶい)ともいっていた。 薮入りという語源はよくわからないが、奈良県吉野西奥地方では、盆の里帰りではなく、親もとで、藪焼きをするときかえってきて手伝うのを薮入りといっている。藪焼きというのは焼畑のことで、雑木の茂る山を伐りたおしてそれの乾いたころ火をつけて焼き、そのあとにヒエ・ソバなどをまきつける。 人手のいる仕事であるから一戸だけではできず、たいてい隣近所・親族の者と組んで共同でひらくか、またはユイ(交換労働)によってひらいたものである。 そのとき嫁にいった娘も、婿にいった息子もかえってきて手伝う。ボタ餅と酒一升を持っていったものという。 すると親の方は藤の着物一枚を与えた。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.29)


     焼畑をおこなっていたところにはこうした習俗がどこにもあったと思われる。 私のきいたのはこの一例であるが、そうした言葉が盆正月の里帰りに転用されるようになったものと思われる
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.29)


     盆正月に他出した子供が親のもとへかえって親を見まう習俗は古くからあって、土地によってはこれをナベカリともいっている。 新潟県西頸城(にしくびき)郡地方では正月二日に婿が嫁の里へいくのをムコノナベカリといっている。 この時婿は新しい叺(かます)に五升と三升の大小二つの餅と、その他の食物を入れて持っていき、これをセチまたはハツセチイワイといった。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.29〜30)


     長野県下伊那(しもいな)地方では結婚後はじめての正月に若い夫婦が嫁の親もとへいくのをナベカリといっている。
     ところでナベカリという言葉はどうしておこったかというに、福島県石城(いわき)郡入遠野(いりとおの)(現・いわき市)地方で、他出した子が盆の一日を申しあわせてウドンその他のめずらしいものを持ちより、親もとで鍋を借りて食事をととのえ、親にすすめる行事があった。 多分こうしたことからおこった名であろうと思われる。子供たちがそろって親のしあわせをことほぐための行事だったのである。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.30)


     4 県人会

     ◎東京へ住みつく人

     東京の人口一〇〇〇万のうち、自然増加をのぞいていったいどれほどの人間が他地方からこの都に流れ込んでいるのであろうか。 これについての正確な統計はないから何ともいえないのであるが、それぞれ人を送り出している府県の側には推定された数字がある。 その筆頭は千葉県で、約一〇〇万にのぼっているといわれる。 この一〇〇万人のほとんどは隅田川の東、すなわち江東地区に住んでいるという。農村で食いつめてこの大都会の一隅に流れ込んだもののようである。千葉は昔から武家、町家への奉公人をたくさん出していたところである
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.32)


     千葉についで多いのは新潟で、ここからは農閑期の季節労働のためにやってきたものが定住したのがすくなくない。 「頼まれれば越後からでも米搗(こめつ)きに」という言葉のあるように、町家の米搗きに雇われて一年間の米の搗きだめをしておいて故郷へかえったものだという。 そのほか、町家の下働きや夜警などにも雇われた。 肉体的な労働が多かったようである。 そうした肉体労働の一つ、風呂屋の三助から浴場経営者になった者も多い。東京の浴場二千余軒のうち半分は新潟県人が持っているという。 中には手に職をもって働きにくるものもあり、それには大工が多かった。 北陸では大工のことをゴチョウとよぶふうがある。 それを漢字にして午腸と書いた機械店が渋谷川にのぞんであるが、きいてみると新潟出身で、もとは大工をしていたとのことであった。ゴチョウは正しくはゴショウ午餉と書き、古い時代、民間の食事が二食であったころに、大工には別に午餉を出すならわしがあって、それが大工をゴチョウとよぶようになったという話を能登できいたことがあるが、とにかく新潟県から東京へ出ている人数は八〇万ないし九〇万人だろうとのことであった。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.32〜33)


     新潟とおなじように多いのが長野県で、昔は信濃の椋鳥(むくどり)とよばれていた。 この椋鳥は秋きて春かえっていった。 やはり農閑期の出稼ぎが主であった。 しかし季節出稼ぎから離村にかわり、いまでは八〇万にのぼる人が東京で働いているとみられる。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.33)


     茨城・埼玉からは各五〇万、群馬三〇万、栃木二〇万と関東各地から東京へ出ているものは全体(千葉を含めて)で二五〇万にのぼるとみられている。 これらの人たちの職業は多種多様であったようだ。 商人として入りこんだものもあり、駄賃付けなどの荷物運搬していたものがおちついたものもあり、季節労働者もいる。 鳶職(とびしょく)のようなもので東京で生活するようになったものもすくなくない。 いずれにしても東京へ集ってきたのはやはり関東平野のものがもっとも多かったわけで、その関東方言が江戸語の母胎となっている
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.33)


     関東以外では宮城四〇万、京都三五万、山梨・広島三〇万、秋田・富山・鹿児島が各二〇万とみられている。京都からの三五万は明治初年首府が京都から東京へ移されたことに深い関係があるようで、遷都にあたって公家の大半と、それに仕えている者たちが東京へ移ってきた。 そして東京京都との間には深い親縁関係が結ばれた。 そういうことによって両者の間にいまもたえざる交流がみられているようである。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.33〜34)


     ずっととんで西の広島と鹿児島からの出京者の多いのは、前者は明治二七、八年の日清戦争のとき大本営が広島におかれたとき以来、東京との密接な関係を生じたことが原因しており、鹿児島は明治維新以来、官吏・軍人を多く出し、それらの人々が後輩を東京へ呼び寄せたことに原因がある。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.34)


     ◎郷人会

     県人会が県出身者の中でも有力な人によって組織されているのに対して、郷人会をはじめ、町人会村人会となると、一地域から出た者によって組織され、この方には一般労働者もまじっていてさらにその団結はこまやかなものになってくる。 そういう会合がいったい東京の中にどれほどあるのかしれないが、とにかくおびただしい数にのぼるものであろう。 一県あたり一〇を下ることはないと思われるから、すくなくも五〇〇をこえる郷土人会があるとみられる。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.38)


     このような地方人のつくった町は自然発生的なものであるが、もともと政策的にも地方人を呼びよせて町づくりをすることは古くからおこなわれていた。 これについては後にすこしふれてみたいけれども、一つの例をあげると、大坂には豊後町・備後町・備前島・周防町・薩摩堀・阿波座・土佐堀・伏見町・境筋などがあったが、それぞれの地方の者が出てきてつくった町である。 人の住まぬところへ新しく町をつくるにはこうした方法をとらざるをえなかったのであろうが、一方地方からくるものが大体同一職業にたずさわるとなると、それがまた一地区に集って住むことになる。 だから職人町には地方の色彩をそのままつよく反映しているものがすくなくない。 東京の佃島(つくだじま)などはそれで、徳川家康が大坂夏の陣のとき、摂津(大阪府)の佃からつれてきた漁師の子孫であるという。 彼らは白魚(しらうお)をとるのが上手で、それをとって家康に奉ったことから、佳賞せられて江戸へつれてこられた。 そしてそこでも四ツ手網を用いて白魚をとり、これを幕府に献上するとともに佃煮(つくだに)をつくった。 そして江戸の一隅に住みつつ摂津在住以来の習俗を容易にすてなかった。 ここにおこなわれている盆踊りなどまったく関西ふうなもので、それだけでも関東との差異を感ずる。地方から出たものが一人で都会の中におればすぐ都会色にそまるであろうが、集団で住むと容易に古いものはすたれない
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.40〜41)


     5 地元の者と他所者

     ◎東京のなかの村

     ところが東京の中にはまた古い東京ものこっているのである。 他所者がぐんぐん入り込んできて他所者によってぬりつぶされたように見える町の中に古い東京がポツンポツンとのこっている。 何回も焼けた下町はともかくとしても、もと郊外であったところが町内化された町をあるいてみると、そこに古い武蔵野の村のおもかげを発見することがある。 数年まえのことであるが中野区新井薬師で偶然盆踊りを見たことがある。 高い櫓(やぐら)をくんでその上に音頭とりと太鼓うちがおり、また優秀な踊り子は太鼓のまわりで踊っていた。 一般の踊り子は櫓の下で踊っていた。 初めのうちはレコードなどにあわせて新しい踊りを踊っていたのが途中からこの地方でおこなわれていた古い踊りを踊りはじめた。 すると、一般の人たちはこの古い踊りはほとんど踊れないので踊りの輪がくずれたが、それに入れかわって実に上手に踊る一群が輪をつくった。 そろいの浴衣を着ているのである。 音頭の声もさえた。 私のそばで見ていた老人が「うまいもんじゃ」と、うなるようにいった。 「この連中は○○村のもんじゃ。 あそこのもんはうまい
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.)


     若者たちは一とき踊っていたが、急に輪をくずしてどこかへ行った。 また別の踊り場へいくらしい。 この仲間が去るとまた新しい盆踊りになった。 こうして武蔵野の古い村の若者たちは、盆になると村から村の踊り場を踊りあるくという。 時には競争で踊る。音頭が太鼓を負かすか、太鼓が音頭を負かすか、また踊り子が、太鼓・音頭を負かすか、それこそ火の出るように踊りあうという。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.42)


     「そういう踊りはもっと夜がふけぬとだめじゃ。 それに近ごろは、月あかりで踊るのでなくて電灯で踊るので味がなくなった。 盆が新暦になっておもしろ味がなくなった」とその老人は語った。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.42)


     若者が月の夜を村から村へ踊りにあるいたのはよい娘を見つけるためであったという。よい声をして踊りがうまければたいてい娘がよってくる。 そして娘も心をよせてくれる声と踊りは女を近づける武器であった。 その老人も若いころは練馬から池袋・早稲田のあたりまで踊りあるいたという。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.42)


     するとそれはまた餅つきの仲間の移動範囲とほぼ一致する。武蔵野の農家では正月すぎてから寒餅をつく。寒についた餅は保存にたえる。 そこで家によっては何石というほど餅をついた。 若者たちはそのころになると(きね)をかついで村々をあるいた。 そしてどこかで杵の音がするとその家へのりこんでいって餅つきの手伝いをした。 武蔵野の民家は屋敷林にかこまれてばらばらにあった。 だからどの家にどんな娘がいるかはなかなかわからなかったし、これという理由もないのに、家々の娘を見てあるくことも容易ではなかった。 餅つきは娘を見てあるくにはよい機会であった。 そこで若者たちは餅つき季節になるとじっとしておられなくて、村々をうろつきまわったのである。練馬できいた話では、練馬から西へいったことはすくなく、東は早稲田あたりまでであったという。それくらいの間の村々が一つの通婚圏をつくっていたようである。 周囲が他所者の家に埋められるようになっても、餅つきはおこなわれていたが、今どうなっているであろうか。 昭和三〇年ごろの餅つきにはもう若い者の姿はなくて、かつて村々を餅をついてあるいたという五〇歳、六〇歳台の人によっておこなわれていた。紺の法被(はっぴ)に紺の股引(ももひき)、紺の足袋(たび)に雪駄(せった)をはき、しぼりの手ぬぐいで鉢巻をしたキリッとした姿で餅をついた。 まことに好ましい風景であった。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.42〜45)


     ところがこうした祭りに対して地方からきた者の大半はまるで無関心なのである。 祭りの寄付さえ拒絶するものが多い。 彼らには別にふるさとに神がある。 そのため新しい居住地の神をまつろうとはしない。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.46)


     ◎月見のモラル

     名月の夜、月にそなえていた団子を近所の子供に盗まれて怒りにもえた若い母親がそのことを新聞に投書した。 「せっかくのたのしみにつくった団子を月にそなえたあと愛児とともにたべようとしたのを盗まれた。実にけしからん」というのである。 ところが月見にそなえた団子は全国各地に子供たちが盗んであるく風習があり、それを罪悪と考える者はなかった。 むしろ盗まれることを喜ぶのが普通であった。 月の夜を、村じゅうでともにたのしみ祝おうとする心からであったと思う。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.48)


     さらに古くはもっと深い心があったのかもわからない。 熊本県球磨(くま)地方では名月の夜はどこの畑のものでも自由にとってよかった。 その理由は最初一枚一枚の田畑をひらいた人は、その田畑が自分の子孫によって耕作され、その生活の安定を祈っていたのだが、多くはやむをえぬ事情によって他人の手にわたっている。 他人はただ金を出してそれを買っただけでたいして苦労もしてはいない。 そしてしかも開拓者の志とはちがってしまって、だれがどの田畑にあるものをとってもとがめないようにしたのだという。だれのものでもない、みんなのもの、という考え方、みんながおなじようにたのしもうとする考え方は日本の年中行事の中につよくあらわれている。 そういう考え方や行為が立場をかえると罪悪と見られるようになる。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.48〜49)


     こうして新しい都市発達の中にはそこに古くから住んでいる人たちの集りと、新たに住みついた者との間の溝、また新たに住みついた者同士の疎外が目立ってきつつある。 そのことが地域社会の持つ伝統をこわしつつ、一方では新しい社会秩序や新しい社会道徳をなかなか生み出してこない。孤立した家々の中から共通した思想感情を生み出すことは容易ではないからである
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.49)


     6 市民意識の発生

     ◎古い町の秩序

     しかし土地には限りがあり、またおたがいの領地は接していて、世の中が平和になると領土を拡大して勢力をつよめようとすることはほとんど不可能であった。すべての問題をその領土の中で解決しようとするには、できるだけ現状維持の体制をとることが一番無難であった。 したがってどこでも仕来(しきたり)が尊重され、前例が大事にされた。 そしてあらゆるものに制限がもうけられた。 たとえば酒屋の数、紺屋の数、船の数などそれぞれ一つの藩内にとりきめがあって、それをふやそうとすることは容易にゆるされなかった。 そういうことが産業や文化発展の上に大きな停滞を生んでいくのであるが、それだけに商売にたずさわるものはその縄張りを大事にし縄張りの内側の得意先を大事にしたのである。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.51〜52)


     もとより商圏を拡大するためのいろいろの手段はとられたが、それには大きな危険をおかさねばならなかった。 たとえば新しい商品を売り出すとか、遠方に商圏を拡大するというようなことがそれであるが、物の生産をほとんど人力にたよっていた時代には生産力にもおのずから限界があって、今日のように商品が消費者に押しつけられる形で売られるのではなく、消費者の注文に応じて商品のつくられることが多かったのである。 それだけに商人も職人も得意先の気に入るように努力したし、得意先との関係は親密でもあった。 またそういうことが半期勘定をも成立させたのである。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.52)


     ◎町の自治

     町はいろいろな人が方々から集ってきて住んだところであり、姓の異なるものの集合体であったから、そこで秩序のある生活をするためにはおたがいの理解を深めるための努力がなされなければならず、町内の寄合いなども必要であったが、その発言のゆるされている者は、その土地に住んでいるだけでなく、税金もおさめ、町内のいろいろの公事もつとめる者でなければならぬ。 したがって借家住いの者にはその権利はなくなってくる。 町に住んで自治のための発言権を持った者を中世末には町衆(まちしゅう)とよんでいた。 それが江戸時代になると町人とよばれるようになる。 そしてそれら町人の中からえらばれて、一つの町内の自治にたずさわる者を町年寄(まちどしより)といった。 町には別に会所(かいしょ)を持つものもあり、町年寄の家を会所に利用するものもあったが、いずれにしても町人衆のあつまる場所を必要とし、そこで話しあいをしたのである。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.52〜53)


     7 市民の祭り

     ◎堺の夜市

     大阪府堺の夜市などもまったく庶民的な祭りである。 この祭りは旧暦六月晦日におこなわれたものであるが、いま七月三一日になっている。 この日は夏越の大祓(おおはらい)の日である。 そして堺の北の住吉神社神輿の渡御がおこなわれる。 この日神輿を奉持するものは船頭・水夫たちである。 これは住吉の神が海のことをつかさどる神と信じられており、船人や漁民に尊崇せられているためである。 さて神輿は神社のまえを南北に通っている紀州街道を一路南にすすんで、大和川をわたる。 そこには堺の船頭や漁夫たちがまちかまえていて、かわって神輿をかつぐ。 そして宿院の飯匙(いいかい)橋で大祓をおこない頓宮(かりみや)で一夜をあかすのである。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.60〜61)


     ◎長崎の祭り

     市民祭の特色は自然発生的であり、しかもそれが市民の全員参加ということにあり、演技者と観衆の区別がなく、渾然と一つになっておこなわれることである。 長崎諏訪(すわ)神社の祭礼“オクンチ”などそのよい例である。 この祭りは寛永一一(一六三四)年、高尾・音羽の二女が神功皇后の新羅征伐に擬して神前で舞曲を奏した奉納踊りに由来するといわれる。 こうして遊女が参加したために、その後も丸山の遊女が出て踊りを踊ったが、のちには各町から出て踊るようになった。 しかし全市民が踊りを奉納したのではとうてい処理しきれぬ。 たとえば寛文一二(一六七二)年には踊り町が七七にのぼったが、これではどうにもならないので、この年参加した七七町以外は爾後参加をみとめないこととし、さらに一年に一一町が演技することにして七年で一回まわる方法をとった。 そして各町それぞれ独自の踊りを演出することにした。 したがって踊りそのものは実に洗練せられていった。
    (《民俗のふるさと 第1章 都会の中の田舎》P.61〜62)


    第2章 町づくり

     1 町の芽

     ◎山の中の町

     五万分の一の地形図を見ているといろいろのことを教えられる。 中国地方の山中や三河(愛知)地方の山中のように比較的高い山のない山中では村の家がかなりばらばらに散在しているが、大体一二キロくらいの間隔をおいて人家の密集した集落があり、多くはそこへ町の名がついている。 たいていは谷間にあって大きい街道に沿っている。 そこには昔から商人が住んでいて、周囲の農家はそこへ買物に出たりまた物を売りにいったりした。 同時にまたそこに住む仲買人たちは農家でつくったものを買いあつめにもあるいたのである。 それらの町と町との距離が一二キロ内外になっているのはおもしろい。 昔はどこへいくにもほとんど徒歩であった。 そして一時間の歩行距離は四キロである。 一二キロのほぼ中間に住む人は、町までいくのに片道一時間半かかる。 それを往復すれば三時間になる。 買物などしてくれば半日の仕事であり、用事が多ければ一日の行程になる。 ちょうどそれくらいのところには人はささやかな交易場をつくったのであった。 しかしこのささやかな交易場だけでは事足りないので嫁入支度をととのえるとか、りっぱな家財家具をととのえるとかいうようなときにはさらにその向うにある大きい町まで出かけていった。 自分で出かけなければ向うからきたものであるが、そうした遠方交易には牛馬が利用されたものである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.65〜66)


     小さな町の発達について一つの例をあげよう。 天竜川の中流地方は山岳が重なりあって、もとは交通のもっとも不便なところであった。 それにもかかわらずこの山中に点々として村のあったのは、戦いに敗れた者がおちてきて人目をしのんで暮しをたてようとしたことにあり、山の中腹の傾斜地に家などたてて焼畑耕作をおこない、ヒエ・アワ・ソバなどをつくって食料を自給し、コウゾ・チャ・タバコなどをつくってこれを売り、生活に必要なものを買って生きついできたのであった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.66)


     ところがタバコやコウゾのように軽くて比較的金目のあがるものは長野県飯田の町から商人が牛をひいて買いにきたそうである。 飯田から水窪奥へは、足の達者なもので一日の行程であったから、商人たちは民家へとめてもらってコウゾやタバコを買いあつめ、それをの背につけてかえっていった道がほそく山坂がけわしいので馬は通りにくかったという。 この山中のものも大事な買物は一日どまりで飯田まで出かけていったという。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.67)


     さて、明治の中ごろからこの山中でも養蚕がさかんになってきた。 そしてそのマユはやはり飯田から仲買人が買いにきたものだそうであるが、後には百姓たちが山越えに和田まで背負うて売りにいくようになった。 和田は水窪へ出るよりは遠い上に大きな峠をこえなければならぬので困難が多いが水窪よりはマユの値がすこし高かった。 それで苦労をしのびつつ山越えに売りにいったものだという。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.67〜68)


     ◎商人の役目

     農民は多くの場合一カ所に定住して農耕にはげみ副業もおこなう。 その農民が遠い市場までその生産したものを売りにいったり、また必要なものを買いに出ていたのではどうしてもそのために多くの労力をつくって生産は上らないことになるので、交易や運搬はおのずから別の人があたることになる。 これは山間その他辺鄙な土地ほどその傾向がつよくなるのだが、一概にそうともいえない。 宮城県地方には「貧乏人が二〇軒あれば店屋が成りたつが、金持ちが二〇軒あったのでは店屋がつぶれる」という諺(ことわざ)がある。貧乏人の二〇軒は金に困っているときにはたいてい店屋から品物を借りてつかっておき、金のできたときに支払う。 その方が少々高くついても便利なのである。 だが金持ち小さい店で物を借りることをしないで遠くの大きな店へ買いにいくのだそうである。 地方の小さな町はこうした原理にもとづいて発生し発達していったものもあった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.69)


     ◎賃貸し屋あれこれ

     新潟県蒲原(かんばら)平野地方には貸鍬(くわ)の制度があった。 鍬を買うことすら困難な小作百姓たちは鍛冶屋から鍬を借りてつかう。 鍛冶屋は鍬一梃を米一升とか二升とかで貸し、秋になるとその米をあつめにいく。 また鍬がいたんだものは、先をとりかえたものと交換する。 こうして鍬を何百梃というほど持っていることによって鍛冶屋は水田を二町歩も三町歩も耕作しているほどの米を得た。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.69〜70)


     2 商人町のおこり

     ◎乞食の世界

     そのはじめ商業にたずさわった者には勢力を持った者が少なからずいたが、それとは別に食いつめた者落伍した者たちが、世の一般的な秩序からのがれて、おなじような仲間だけで租税もおさめず、公役にもしたがわないで暮しをたてようとするふうが見られた。 それらの者は多く村境河原に住んだ。河原は税対象とならず、したがって夫役(ぶやく)や公事にかり出されることもない。 こうして河原居住はすでに一〇世紀のころから見られはじめたようである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.73)


     河原ばかりでなく村境もこうした仲間の居住には適していた。 大阪府のなどもそのよい例である。 ここは摂津・河内・和泉三国の境であった。 そこへ南北朝のころから自然発生的に町が発達してくる。 やはりその初めはあぶれ者の寄りあつまりがもとであったと思う。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.73〜74)


     乞食は税をとられることもなければ夫役をつとめることもない。 だがそのために追いたてをくうこともしばしばであった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.76)


     このように乞食の多かったことは明治・大正まで見られた現象であった。 応永二七(一四二〇)年、日本をおとずれた朝鮮人老松堂『日本行録』によると兵庫から京都へいく途中「いたるところに神堂があり、また僧がいる。 人はあそんでいる者が多く、田畑で働いているものがすくない。 耕したり鑿(のみ)や槌の音をきくこともできるけれども飢えた人たちの食を乞う声の方がみちみちている」という詩をつくっており、その注に「日本人には飢人が多く、また残疾の者がいたるところに多い。 道ばたにはその残疾人たちがあつまって坐っていて道行く人に食を乞うている」としるしている。 異国の人の目にうつった日本の風景はこういうものであった。 また良人の方もまともに働いている者はすくなかった。 「良人の男女の半ばは僧になっている。いったい誰が公の仕事をするのであろうか。 どこへいってもお経をよむ声がきこえる」ともいっている。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.76)


     応永当時の日本といえば、かなり安定していたころである。 それが瀬戸内海を通ってくるのにいたるところで海賊になやまされ、京都についてからも、四月二三日、その宿舎を賊におそわれている。 幸いにして警固している者たちが追払ってことなきを得たのであるが、京都市中の治安もきわめて不安定なものであった。 だから町の四角になったところには櫓門をもうけ、また町の諸所に木戸をつくって夜間はそこをとざして、夜盗の横行にもそなえた。 老松堂が博多へついたときも、町の辻に門があるのできいてみると、夜な夜な賊が人を殺して物をとってもそれを捕らえることができないので、門をつくって夜はその門をとざすことにした。 また多くの男は刀を腰におびているとあり、そうした不安な世にあって身を守るためであったようだ。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.76〜77)


     貴族一戸一戸が築泥(ついじ)やをめぐらした家に住まなければならなかったのもこのためであろうが、同時には無頼の徒や敗残者の寄り集るところで、一五世紀の初めころまでは市民的秩序がまだ十分に生れていなかったことがわかる。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.77)


     そしてそれは男だけでなく女も同様で、食べていくために男の相手をしたのである。 老松堂の目にはそれが日本の奇事としてうつっている。 「この国では女の数が男の二倍にものぼっている。 それらの女たちが道ばたに店を持っており、道ゆく人は女たちをひやかしながら通りすぎる。 すると女たちが出てきて道をさえぎり袖をひいてとまって行けという。 通行人が店に入ってお金を払うと女は白昼でも男と寝る。 しかもそれは町場だけではない。 村々でもみんなおなじで、いたるところに見られる」と言っている。 老松堂の見たのは兵庫から京都までの間の情景であったが、人の往来のさかんなところでは共通してこうしたことがおこなわれた。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.77)


     ◎落伍者の群

     それが街道筋で大きく発達して町となっていった場合には、これを特殊視するものはなくなる。 しかしすでに町になっているところへさらにつけ足したような形で住みついたり、あるいは街道や船着場でないところに流離の民がおちつき、小さい村をつくったときには、その村はなかなか大きくならない。 そして旅行者などへの奉仕というよりも、周囲の農村や農家への奉仕によって生活をたてるようになる。 そしてそのことによって蔑視されるにいたったものもすくなくないようである。 私はかつて大阪府の和泉・河内地方の未解放部落を見てあるいたことがある。 その中には死人の処理をしたり、死牛馬の始末をし、その皮をはいだりすることを職にする者の村もあったが、中には初めからそういうことを職にしたのではなく、落人の家来たちが住みついて主家に奉仕しただけでなく、周囲の農家の日雇などをしつつ、それだけでは生活がたたなくて、死牛馬の処理などもしたことから特殊視されるようになったという村もあった。しかも、そうした村はまた落伍者たちを受け入れる性格も持っていて、しだいにそういうものがあつまってきて集落が大きくなっていった。 最初から特殊職業にたずさわった者が集落をなして住んだ場合は、それは一村として設立したものであるというが、そうではなくて自然発生的に村境などにふくれあがった集落はたいてい親村を持っていた。 そして村境にあるということで取締りも困難だったから落伍者や罪をおかした者のかくれ住むには適していて、それが部落を大きくさせていき、また特殊視されていくようになったものがいくつかあることをたしかめた。 つまり町としての機能を十分に持つことができなかったために背負わされた不幸だったのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.80〜81)


     ◎落伍者が商人になった

     が、そういう村は身分の低い職業人たちには実に気楽なたまり場になった。 宿をとるにしても宿銭もやすく、また気兼ねもいらなかった。 身分の低い職業人といえばたいてい門付けをしてあるいた仲間である。 中世であれば田楽・猿楽・呪師・白拍子・獅子舞・猿ひきなどの芸能にたずさわったものをはじめ、桂女・材木売り・竹売り・箕づくり・薬売りなどの物売りこも僧・高野聖・かね打ち・巡礼など宗教関係の者も、それが門付けをしてあるくということによってすべて賤民と見られたのである。 そうした人たちが気楽にあつまり、また気軽に宿泊もできるところは、村の中ならば木賃宿であり、それ以外でそういう人たちを受け入れてくれる村であった。 そしてそれが特殊視されてきたのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.81)


     賤民についての歴史は今日実によく研究されてきている。 それらの研究資料によってみても、出自がどうであろうと、以前に何をしていようと、現在たずさわっている職業が門付けをするものであれば賤民視されたのである。 中世には販女(ひさぎめ)といって女が行商してあるくことが多かったが、そのほとんどが賤民視されている。 だから中世末まではキリシタンのパードレ(神父)の目にも「商人はたいへん富んでいてもこれをあなどりいやしめ、武士は貧乏であっても尊敬せられた」さまがうつっている。 近世初期に人々の身分が士農工商の四階級にわけられ、商がもっとも下におかれたのも中世以来の事情にもとづくものであろうが、その商が門付け・行商から座商になり、を持ち、をもち、問屋を経営するようになり、またそうした商人の集まり住む町になってくると、そこを蔑視することはなくなったのである。 このことについては後でもうすこしくわしくふれよう。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.81〜82)


     3 都城づくり

     ◎都は物のあつまるところ

     町はこうして農村の秩序の外にあふれ出たものの集合によって発達していったばかりでなく、政治的な都市の場合には地方の人をよびよせてつくったものでもあった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.82〜83)


     奈良・京都・大阪をはじめ、各地の城下町も政治の力によって意識的につくったものである。 そうした中で、最初にもっとも計画的に大規模につくられたのが天智天皇近江京であっただろうが、この首都がどんな方法でつくられたか明らかでない。持統天皇藤原京も、遺構についての調査研究はすすめられてきているが、いかなる人々によってつくられ、またどんな人たちがどんな形式で住んだかも明らかでない。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.83)


     藤原京についで平城京和銅三(七一〇)年につくられる。 その遺構は現在発掘がつづけられていて漸次明らかになりつつある。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.83)


     この都城は唐制にならってつくられ、一里(五町)四方を一坊とし、九条八坊から成る広大なもので、奈良平野の郡山(こおりやま)から北の部分をしめており、現在の奈良市街地のすくなくも五倍をしめる広さを持っていた。 この土木事業に要した労力もたいへんなものであったと思われるが、それらの労力のほとんどは全国から徴発されたものであったろう。 このころは律令国家として中央政府の統制力もつよく、地方からの貢租も忠実に運ばれていたようで、平城宮址発掘の出土品の中から、それを物語る資料がいくつも出ている。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.83)


     たとえば昭和三五年一一月から三六年二月にわたっておこなわれた第五次発掘調査によって宮内省大膳識(だいぜんしき)と大炊寮(おおいりょう)所属の建物と推定せられるものが明らかになり、そこから多くの木簡が出土した。 この木簡は、包装された荷物にくくりつけられたもの、あるいはそれに挿したもの、給与として役人たちに渡した品物の伝票と思われるものなどである。 そのうち輸送された荷につけられたと推定される木簡には紀伊国日高(ひだか)郡財部郷(たからべごう)・甲斐国山梨郡肥前国豊前国山背(やましろ)などからきたものがあり、それは天平字六(七六二)年から七年へわたってのものであった。 そして送られてきたものは菜端・塩・胡桃・小豆・酢・未醤・海藻などであった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.83〜84)


     これらは偶然出土したものであるが、このような物品の貢納は全国から送られていたに違いない。 しかもこれらの物品はそれぞれの地方から人夫によって運ばれてきたのであるが、これら人夫は都城へくるまでと、郷国へかえるまでの食物も持参しなければならなかった。 今日のように金銭さえ出せばどこでも必要なものが入手されるというようなものではなかった。 したがって貢租のために上京したかえりに食糧がつきてしまって餓死したという例さえみられた。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.84)


     ◎都の人あつめ

     さてこれらの豪族が都城に住みついたとしても別に商業をいとなむわけでもないし、それ以外の職業にたずさわったと思えないから、京都に移ってからも農業に従事する者がすくなくなかったと思う。 そして都城の警固などにあたったものであろう。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.87)


     ◎河原者

     これらの家と宮廷の高級官吏やその下部のほかに店屋が朱雀大路を中心にして東西両方に発達してくる。 これは座商の家で、そうした家によって町並もできるようになった。 また職人の居住する地区もできたであろうし、社寺の門前には社寺に隷属する下部(しもべ)の町もできたはずである。 京都祇園の犬神人などはそれで、神人といえば身分も平民よりは高いように思われるが、実は罪をおかして牢獄につながれたのち放免されて、この社の下働きとなり、社の雑役に奉仕したもので、一般平民よりは一段低くみられたのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.87〜88)


     さらに世の敗残者として村はずれ、河原などに住んだ者もある。 いわゆる河原者がそれであるが、河原に住んでいる者も職業を持っていて、なかにも芸能にたずさわる者が多かったが、造園などおこなういわゆる庭師もこの仲間に多かったといわれる。 名高い銀閣寺の庭なども善阿弥次郎三郎又四郎という親子三代の河原者が築いたのである。 そのほか有名な寺院や公家の庭も河原者の庭師によって築かれたものが多いのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.88)


     皮細工なども、そのはじめは河原者によっておこなわれたようである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.88)


     そこで京都で河原といえばすぐ加茂の河原を思いだすのであるが、加茂の四条河原ばかりでなく、芸能人に関係の深かったのは四宮河原であったようだ。 四宮河原は琵琶法師の始祖蝉丸(せみまる)のいたところとされている。 『今昔物語』では蝉丸のいたのは逢坂(おうさか)ということになっているが、『東関紀行』には蝉丸は醍醐天皇の第四皇子だったので、その住んだところを四宮河原といったとある。 四宮河原は逢坂山の西麓にあり、蝉丸が住む以前からその名があり、山科(やましな)郷の一部であった。 そしてここには仁明天皇の第四皇子人康親王が住み、この皇子もめくらであったので、盲人たちをあわれみ、いろいろの音楽を演じさせた。 盲人たちはその恩徳に感じて、年に一度ずつ四宮河原にあつまって河原の石を積んで塔をつくり、般若心経を読んで親王をまつるのを大事な行事としていた。 多分はこの四宮もシクを漢字にあてたもので、シクはの者といえば特殊民をさしているが、もともとは村はずれをさす地名だったのである。 そうしてそういうところに住む者はまたおなじような条件のところへ移動していった。四宮河原に住んでいた者たちも、こうして京都加茂川の四条河原へ移動していったのではないかと思われる。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.88〜89)


     4 城下町づくり

     ◎江戸の町

     近世に入って武士によってつくられた町はたいへん計画的であった。ドン・ロドリゴが見た近世初期における江戸のさまは、そのことを伝えている。
     「江戸市は人口十五万、海水はその岸をうち、市の中央を水の豊富なが流れ、かなり大きな船でも、川をさかのぼることができる。 しかし水深が浅いので帆船は入ることができない。 この川はいくつかに分れて流れ、人は川を輸送に利用し、食料のほとんどは川によってはこばれているから米の値は運賃がそれほどかからないため安く、男一人一日に半レアルあれば食料は足りる。 パンは果物とおなじく常食以外にたべるだけにすぎないが、この町でつくっているパンは世界中でもっとも良質なものだといっても言いすぎではない。しかもこれを買う者がほとんどいないので、ただにひとしい
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.92)


     この町およびこの町の道には見るべきものが多い。街路は優劣なく、皆一様に幅がひろく、また長くまっすぐであることスペインの市街にまさっているは木造で二階建もある。 そして外観はスペインの家屋の方がすぐれているけれども、内部の美しさは日本の方がはるかにまさっている。 また街路は清潔で、だれも通ったものがないのではないかと思われるほどである。 また市街の所々には、木戸があって町を区画している。 そして区画ごとに居住者の職業がちがっている。 一つの町には大工が住み、他職の者は一人も住んでいない。 他の町には履物をつくる者が住んでいる。 また鉄工の町があり、それぞれ同一の職業の者が一区画の町に住んでいる。 このようなことはヨーロッパの町では想像もできないところである。 町を見てあるいていると、ヨーロッパ人には見なれない仕事をしているものもあり、商家でもわれわれには得体の知れぬものを売っているのがある。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.92〜93)


     銀商は一区画を専有し、金商絹商もみな同様で他商と同居する例は見かけない。 またウズラ・カリ・カモ・ツル・アヒルなどの鳥類だけ売っている市場があり、獣肉はまた別の町で売っており、ウサギ・イノシシ・シカなどいろいろのものがある。 また魚市場という一区画がある。 そこへいくと鮮魚もあれば干魚・塩魚もある。 また大きな桶の中に水を一ぱい入れて、そこに魚を生かして売っている。 買う人ののぞみにまかせて売るのである。 魚を売る者は特に多くそのため街路まで出てきて売っており、時には買う方の求めに応じて廉売することもある。青物果物もそれぞれ売る町がある。 いずれも品物は豊富、品種もいろいろあって清潔に陳列されているので買う人の気持をそそる
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.93〜94)


     また旅館のみならんでいる町がある。旅籠(はたご)といっている。 馬を売ったり貸したりする者のみ住む町がある。馬喰町といっている。日本では八キロ行くごとに馬をかえる習慣があるので馬の数はたいへん多い。 そこで旅人が到着したとき、その馬の歩調のよしあしをみてよいのをえらぶべきで、選択にまようほどである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.94)


     売春をおこなう女たちの住む町は、町はずれにある。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.94)


     貴族や領主は他の住民と異なる地区に住んでおり、彼らと同格でない者はその町に住むことができない。 彼らの家は門の上部に紋章をかき、金をぬってその家がどういう家でどういう身分のものであるかをあらわしている。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.94)


     各町には入口・出口にがあり、夜に入ると門をとざし、昼夜ともに番兵がついている。 だから罪をおかした者があればただちにこれを知らせ、門をとじて犯人をとらえる
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.94〜95)


     江戸の町がいかに計画的にまた厳重なシステムによってつくられていたかを知ることができるとともに、都市居住の自由というものは開市当時にはほとんどみられなかったということがわかる。 しかもこのシステムはひとり江戸の町だけでなく、全国の諸市にもおこなわれた。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.95)


     ◎城下町の住民

     商人町もその領主の移動につきしたがって移動をみたものがすくなくない。会津(あいづ)の日野町蒲生氏が会津へ転封されたときつれて行かれたものだし、姫路の吉田町は最初の藩主の池田氏が三河(愛知県)吉田(豊橋)の出身であったために吉田の住民をまねき寄せたのにはじまるという。 そして大きい町づくりをしようとすればするほど方々から人を招かねばならなかったわけで、大坂・江戸・名古屋など前任地を名のった町名が多数見うけられるのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.96〜97)


     ◎商人の出身地

     かくて城下町はその初め、武士によって計画的に町づくりがなされたのであるが、地方から入りこむものがふえてきて秩序が厳重にまもれなくなり、そのため出てきたものを人返しといってその出身地へ送りかえしたり、また無宿者を佐渡の金山へ送って金堀りをさせたこともある。 そのほか市内の浮浪者を郊外に送り出し、そこを開墾させて定住せしめた例もある。 武蔵野市の連雀(れんじゃく)はそのよい例で、もと神田連雀町に住んでいた荷物運搬人夫たちを入植定住させた。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.99)


     そのようにしても江戸の人口はぐんぐんふえていって幕末のころには一五〇万にのぼっていたといわれる。 これらの人口は都市自体の住民の自然増加でなかったことはいうまでもない。 つまり厳重厳格な計画のもとにたてられた都市計画であったが、それがしだいにくずれていったのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.99)


     普通、町人といわれるものはその町に家屋敷をもっているか、ちゃんとしたのれんをもって表通りに一戸をかまえているものであって裏町の借家人は町人とは考えていなかったから、町の中にもぐりこんで生活することは比較的容易であった。 彼らは多くは田舎の宗門手形を持っており、田舎に帰るべき家があるとされており、そういう宗門手形を持たない者が無宿人であった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.99〜100)


     6 港町

     ◎港々に女あり

     港には駅馬はなかったし荷つぎの事務もなかったが、船が入港してくると、すぐ伝馬船を漕ぎ出して帆船を港の碇泊地まで漕ぎ入れ、つなぎとめる仕事をしなければならなかった。 また出帆の時には帆船を沖まで漕ぎ出して帆船が外海を走るようにしてやらねばならなかった。 難破船のあるときはこの仲間が救助にも出た。 普通の船着場ならばこれだけの用意があればよいわけだが、何艘もの船が入ってきて、しかも逆風の日がつづくと船は何日でも碇泊していなければならぬ。 そこで船人たちは女をほしがるようになる。船宿や料理屋、風呂屋などにはそれぞれ飯盛女湯女がいて船人たちの相手をしたのである。 船のとくに多く着くところでは遊郭もあって遊女もいた
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.112)


     これらの人々はその港の付近から集ってきたものもあったが、飯盛女や遊女の場合は遠方からきた者が多かった。 そしてそれが売られてきた者もあったけれども、港の付近の農家の娘が稼ぎに出ていることも多かった。 結婚までの間を男を相手に働く。 貞操についてはそれほどこだわることもなかった。 むろん結婚すればそういうことはしなくなるが、それまでは男に身をまかせることはあたりまえと思っていたようで、結婚までを稼いだ。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.112)


     陸にいて船人の上陸してくるのを待つばかりでなく、小船にのってこぎよせてくる女たちもいた。 近世初期には大坂の川口付近にも多くてこれをピンショといったという。船まんじゅうなどともいっている。『法然上人絵伝』にみえる播磨(兵庫県)室津の遊女なども小舟で沖の船へこぎ出しているから、遊女が沖にとまった船人のところへ出かけていくのはあたりまえのこととされていたのであろう。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.113〜114)


     このような習俗は瀬戸内海地方にながくのこり、大正時代までは山口県上関・愛媛県安居島・広島県御手洗・木之江・鮴(めばる)・三原・糸崎などに見られ、木之江では売春禁止法の発令まで続いた。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.114)


     明治初年の山口県上関の遊女の出身地についてみると漁村や農村の出身というのは一人もなく、いずれも町生れであった。遊女に売られるようなものは垢ぬけした町育ちのものが多く、飯盛女湯女は、港近くの農家や漁家の貧家の娘が多かったようである。 両者の差は、遊女には源氏名がついており、飯盛女にはそれがついていないので区別される。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.114)


     こうして船着場が繁栄して港町らしくなるには飯盛女がいるか遊女屋があるかが一つの条件になっていた。 瀬戸内海で遊女屋のあったのは大坂・尼ケ崎・兵庫・明石・兵庫県室津・牛窓・高松・丸亀・多度津・笹岡・鞆・尾道・三原・竹原・御手洗・鹿老渡・愛媛今治・三津浜・山口県地家室(じかむろ)・室津・下関などで、そこはいずれも港町らしい様相をもっていた。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.114)


     九州の北部から西にかけても遊女のいた港は多い。 小倉・博多・唐津・呼子(よぶこ)・星鹿(ほしか)・的山(あづち)大島・平戸田助・長崎・牛深などを数えることができる。 そして帆船はまた女がいることによって寄ってきたのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.114〜115)


     日本海岸にも遊女のいた港はあった。 ただここでは遊女のあり方がいくぶんちがっていた。日本海は冬になると船がかよわなくなる。 すると船人相手のかせぎはできなくなるので、その間は港近くの農村をあるいて宴会の座敷で芸事などをして稼いだもののようである。
      橇にのる越の遊女の寒そうに
       一分につなぐ丁百の銭
    というのが『芭蕉七部集』の中に見えているが、これは冬になって船がこなくなってから田舎わたらいをしてあるく遊女の姿をうたったものであろうという。 船のたくさんくる港ならともかくとして、こうしたわびしい遊女もあり、九州西海岸地方できいた話だが、日ごろは家で百姓をしている娘たちが、海があれて港へ船が入ってくると、船宿の亭主にたのまれて船人のあしらいにゆき、遊女同様のつとめもして、船が出て行けばまた百姓仕事に精出したものであるという。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.115)


     ◎港町の性格

     港町は全般的に見て自然発生的なものが多かったし、流離の民の一つの寄り場となっていたものであるが、その港となったところの多くが、海岸が入江になって港としては適していたが、山が海にせまって土地がせまく、背後地をもっていないものが多く、寄りくる船を唯一のたよりにしていたのであるから、一本マストの帆船から二本三本マストの洋型船になり、さらに汽船の出現をみて風待ち潮待ちをすることがすくなくなると、にわかにさびれてきはじめる。 したがって日本の場合は港町が都市の発達にそれほど大きい影響を与えているとは思えないが、それでも荷受問屋をもった港町大坂と大坂につよくつながる西日本の数多くの港町には、東日本の都市とはちがった一つのタイプ、すなわち問屋の建ちならんだ町並が見られたのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.116)


     東日本の都市の多くは町から周囲へ出ていく主要道にそって蛸の足のように町がつづいているのが普通である。 東京の町について見ても現在ではもうわからなくなってしまっているが、中仙道本郷追分から北が江戸の外であったけれども、そこから板橋までおよそ八キロほどの間はずっと家がつづいていた。奥州街道千住までは町屋がならんでいた。 また四谷から出て新宿追分でわかれる青梅街道甲州街道も四キロばかりさきまで町屋がつづいている。東海道にいたっては芝から先は江戸の外で、品川は第一の宿場であったが、その間ははやく一つづきの町になってしまった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.116〜117)


     今日これらの街道はすっかり市中になり、道路にそう民家の背後もまた人家で埋まってしまっているが、もとは町屋の背後は畑か林で、江戸の町を地図で見れば蛸の足のようであった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.117)


     大きな都会がこのような蛸足状の枝町をもっているのが、関東から中部へかけての特色で中部では名古屋にそのいちじるしい現象がみられる。 農村から出た者が都会の場末へ居住を定め、農村からくるものを相手に商売をはじめ、それがだんだん農村の方へのびていったものであろう。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.117)


     これに対して、西日本にはこの蛸足状の枝町のあるものがすくない。 たとえば大阪では農村から一荷ずつ背負ってくる農産物の買取りを目的としたような商人はすくなく、農村で生産する錦糸や錦布はそのまま問屋商品として動いていったし、米は掛屋や米問屋の手を通じて流れ、野菜類は農家から運搬されてきたが、それも一戸一戸へ門付けして売るのではなく市場へ持っていったのだから、蛸足の枝町はできようがなかった。 そして町の中央部は大量の商品を動かす問屋がならんでいた。 兵庫でも広島でも博多でもみな相似た性格をもっていた。 そういう点では港町的な性格を反映しているといえるかもしれぬ。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.117)


     7 門前町

     ◎伊勢の御師の町

     もう一つ、日本の町の中には信仰を中心にして生れたものがいくつかある。長谷熊野宇治山田などは中世にはすでにりっぱな町の態をなしていた。 そのうちの宇治山田についてみよう。 この町の中世のありさまについては豊田武氏の『中世商業誌の研究』にくわしくのべられているので、その中から援用しよう。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.118)


     宇治山田はいま伊勢市とよばれている。 もと宇治山田二つにわかれていたのは伊勢神宮内宮外宮にわかれていたことによる。 そして宇治の方は岩井田・岡田・中村・楠部・一宇田・鹿海の六郷から成っており、山田は沼木・継橋・箕輪から成っていた。 これらの郷はいずれも神宮領であり、そのため神主たちの自治がおこなわれていた。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.118)


     各郷の自治の事務は刀禰によってとられた。 刀禰は神宮の権禰宜が兼務してしたが、山田の沼木郷は外宮の鎮座しているところで、外宮の二禰宜が総刀禰をかねていた。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.118)


     さて神宮には禰宜の下に内人大物忌がいた。 禰宜は内宮は荒木田、外宮は度会(わたらい)姓のものがなることになっていた。 禰宜のことを神主ともいった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.118)


     もともと神宮は皇室の祖神をまつるものとして斎宮祭主となり、禰宜がこれをたすけて祭祀をおこない、一般人民の奉幣は禁じられていたが、平安時代に入ると民間から領地を寄進するものが相ついで、神領がいちじるしく増加してきた。 と同時に人民の私幣を奉る者がふえ、参宮者もまた増加した。 これは一つには詔刀師(のりとし)とよばれるものが、伊勢の信仰を地方へひろめて歩いたためとみられている。 もともと伊勢の神主に仕えていた身分の低いものであったと思われるが、それらのものが私幣をとりついできたものであろう。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.118〜119)


     さて参拝者がふえるにつれて、その人たちの応対をし、また私幣をうけ神領を管理する人間も増加させなければならない。 そこで荒木田・度会両家では一族の者を神人と名づけ、一族以外の者を神役人と名づけて神宮に奉仕させた。 ところが禰宜の家は格式が高いけれども増すことをゆるされなかったのに対して神役人は必要に応じてどしどしふやしていった上に、禰宜は私幣私祷をゆるされていなかったのに対し、神役人たちは勝手にうけつけて祈祷をおこなったので、一般民衆はしだいに神役人に結びつき、神役人の勢力が増大するにつれて発言権も増してきた。 こうした神役人の仲間を後に御師(おし)といった。御師は身分は低かったが束縛されることがすくなかったので、それぞれ地方をあるくとともに、国司北畠氏とも結託して、南北朝戦のときは北畠氏にしたがって尾張へ出陣している。 この仲間は同族的な結合の外に生まれたものであるから、一揆といわれるにふさわしいものであった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.119〜120)


     こうして御師の勢力が禰宜にかわるようになって会合年寄を構成するにいたる。 会合年寄というのは宇治の側についてみると、六つの寺坊関係者の中から一坊について八人を選出して衆議によって郷統治の事務をとるものである。 山田の方は三方会合衆を選出して自治事務をとった。三方というのは山田が坂方須原方岩淵方にわれているのをさすものであって、三保とも書いている。 さてここでも各保から八人宛(ずつ)をえらび出し二四人が会合衆となった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.120)


     御師たちがとくに大きな勢力を持つようになったのは八日市場に種々の市座を出すことをゆるし、その許可料をとって三方の経費にあて、経済的にもめぐまれ、結束をかためる足場を持ったからである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.120)


     このような独自の自治組織を持つことができたのは、神領であるために武家の支配権のおよばなかったことが原因であろう。 同時に武家の圧迫がなければこのような自治組織の生れ出てくる必然性もなかったかと考える。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.120)


     このように書いてくるとこの自治組織はきわめて順調に発達したようにみえるが、実は長い風雪にたえてきたのである。 まず内部にあっては神主や神人と対立しつつ自分たちの権利をのばしていかなければならなかったし、時には宇治と山田の両方が自己の権利を主張してはげしく戦わねばならぬこともあった。 また自分たちの力を外部の者にみとめさせるために戦争へも出てゆかねばならなくなった。 そして蓄財したものは金融商業に投じて、仲間としてばかりでなく、一人一人の地位をかためていくことにも努力した。 そうした中で得た自治組織だったのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.120〜121)


     ◎町衆の合議制

     日本の古い都市のうち、このような組織がもっとも早く宇治山田で発達したことは先にものべたように、神領であったために、国司もここに十分干渉することができなかったからであるが、この自治組織は近世もずっとつづけられて明治初年にいたる
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.122)


     ◎檀那場と門前町

     神社仏閣の門前町、とくにその社寺に奉仕する御師坊主たちが居住者の主体となっているところは早くから自治的な組織が見られた。 それには伊勢と似たような信仰組織が原因しているかと思う。 寺の中でも東寺・東大寺・興福寺などのように広い寺領を持ったものは別だが、民衆信仰にたよっている社寺は、それぞれ信仰団体によって支えられて社寺の経営をおこなっている。 この場合、門前に住む御師や坊主たちはそれぞれ檀家を持っていて、檀家まわりをすることによって生計をたてている。 檀家のある地方を檀那場(だんなば)といっている。 東北地方ではこれを(かすみ)ともいう。 それぞれ御師や坊主たちが地方をまわって開拓したものであろう。 そして信者たちにをつくらせ代参をさせるのである。 代参者がくると、御師や坊主は自分の居宅にとめて世話をし、信者にかわって祈祷し、お札など持たせて帰郷させる。 こうして両者の間には長い親縁関係ができて世代をかさねていく。 信仰による領有権のようなものである。そしてこの檀那場は売買されることもある
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.122)


     広い檀那場を持つ社寺は多くの場合また立派な門前町をもっているようである。 山形県羽黒山・長野県善光寺富士山秋葉山・島根県出雲大社・広島県厳島神社・香川県金毘羅権現などがこれである。 その初めは御師・坊主らによる門前町の自治組織が見られたようであるが、後には商人町の発達にともない、商人の勢力がのびていった。 商人の勢力ののびていったについては厳島や出雲大社のように門前商人が富籤興行をおこなったところもあり、それが門前市を活気あらしめ、おびただしい参拝者をあつめることにもなった。 西日本では江戸時代の中期以後富籤はさかんにおこなわれ、とくに神社の神前でおこなわれるものが多かった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.122〜123)


     8 町のしくみ

     ◎同業相集う

     職業によって居住区を定めたことも、すでに自然発生的な町にも見られたのである。 むしろ同業者が住むことによって町は発生したとも見られる。といわれるものがそれであった。 同業の者が一つ所に住んで組合をつくることにより、その権利を守ろうとした。 山城と摂津の境にある大山崎の離宮八幡の神人たちによる油座などはそのよい例であった。その初めは神前に明かす灯明用の油を手製したものであったが、それが商品としてしだいに広く売りさばかれるようになっていった。 神人というば聞えがよいが身分的には賤民に属するもので、神社におさめる油をつくり、その仲間が宮座を組織していた。 中世の社寺にはその信者たちが座を組織して祭りをおこなうふうが見られた。 離宮八幡の油座もそうした宮座の一つであっただろうが、油神人たちはその初めから百姓というよりは職人であった。 そしてその商圏がしだいにひろがっていった。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.126〜127)


     油の原料は荏胡麻(えごま)であった。荏は紫蘇に似た植物で野生同様であり、焼畑などでつくる。 その実をとって油をしぼる。 商圏が拡大していくにつれて原料の入手にも苦心するようになり、戦国時代の終りごろには美濃あたりまで荏胡麻を買いに出かけている。 美濃(岐阜県)の稲葉山に城をきずき、その下に岐阜の城下町をつくって一時は非常な繁栄を見せた城主斎藤道三は、もとは大山崎の油神人であったという。 一介の行商人ではあったが経営の才があり、また時勢を見ぬく力があって、他の武将とはちがった町づくりをしている。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.127)


     大山崎の油の売られた地域は東は美濃から西は備前(岡山県)・讃岐(香川県)におよぶ広範囲なもので、この門前町も一時は大きく発展していたが、後に菜種油が使用されるようになって、凋落してしまうのである。 大山崎の場合は一業一集団であったが、一業集団は社会経済的な変動があると、それに対抗する力が弱い。 宿場町がそのよい例で、交通事情が変化して道ゆく人がすくなくなると、すぐさびれてしまう。 大山崎も荏油の製造販売のみにたよっていたことによって、新興の菜種油にきわめて容易にうち負かされてしまったのである。
    (《民俗のふるさと 第2章 町づくり》P.124〜125)


    第3章 村と村

     1 ムラの成りたち

     ◎条里制とムラ

     そのうちムラを見ていく一つの基準になるのは条里制(じょうりせい)である。 条里制は大化の新制(六四六年)によって実施されたもので、それまでに開かれていた水田を一町四方を一区画として耕地整理し、さらにその中を一反〜二反にわけて班田収受(はんでんしゅうじゅ)を便利にした。 このようにして整理した水田も今日の遺構から見て五〇万町歩を下らなかったと思われる。 そしてその条里制のしかれたところでは、多くのムラが条里にそってつくられているが、その中にあって条里にそわないムラがある。 これは条理性以前からあったと見てさしつかえないのではなかろうか。条里にそったムラは、条里制のできたとき整理されて条里にそってつくられたか、または条里制がしかれたのちにできたムラということになる。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.133〜134)


     さてその水田が承平五(九三五年)ごろには八三万町歩になっている。 ところで昭和三三年現在の日本の水田面積は三三七万町歩であるから、いまから千年以前にすでに現在の水田の四分の一はひらかれていたことになる。 そして条里制のしかれている地帯の農村はきわめて古く成立したものであるということができる。 すると平野のムラにはきわめて古いムラが多いわけである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.134〜135)


     ところが平地だけでなく条里制のしかれなかった山間や山麓にも人は住んでいた。 そういうムラには古い神社のあるのが特色である。「延喜式(えんぎしき)」に見えている神社は古代以来のものと思われる。 そのような神社は豪族の氏神(うじがみ)だったものが多かったが、豪族の没落や退転によってムラの神としてまつられるようになったのが多い。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.135)


     ところでムラとよばれるものは、血を異にする家族が何戸かあつまって住んでいたところであると思われる。血を等しくするもの、すなわち同族だけで住んだり、特別に大きな氏族の長がいて、その下に多くの人の隷属してしるような場合にはムラとはいわなかったようである。 つまり、人が相あつまって住んでいても、ムラとよばれるものと、そうでないものがあったわけである。 そうしたなかにあって、条里田の中に存在した集落はムラといってもいいものであった。そこに住んでいる良民はそれぞれ平等の権利をもち、耕地の割当をうけていた
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.135)


     ◎垣内(かいと)のムラ

     ところが豪族が中心になって開いたムラはかならずしもそうではなかった。 豪族の長となった者は絶対的な権力をもち、多くの奴婢をかかえて耕地を経営し、また開墾をすすめていったのである。 とくに平安時代に入って律令制がゆるみ、中央政府が無力になっていくにつれて、条里制地帯の外側に住む豪族たちは、奴婢を使って開拓をすすめていった。 そして、その開拓した周辺に垣をめぐらして耕地を囲いこみしたものではないかと思われる。垣内(かいと)というのは、その初めはこうして成立したもののようである。 垣内についての一番古い文献、承保二(一〇七五)年の「伊賀国名張郡司注進状案(いがのくになばりぐんじちゅうしんじょうあん)」によると「僧良円垣内五反五畝、桑二〇〇本」とあって人家はない。 これは良円の私有する耕地を意味するものである。 つまり垣内とは私有地をしめす言葉であったと思われる。 しかもそうした土地の周辺に垣をしなければならなかったのは、いろいろの理由があったようである。 京都府の木津(きづ)川筋は古代以来水田のひらけたところで、条里制もしかれていたが、垣内のつく地名は大体条里村落の外側谷の両側の山麓につらなっており、山中にはすくない。 この事実だけからすると、垣内は条里田の外側に発達したことがわかり、そのさらに外側には未開の原野がひろがっていたと思われる。 そしてそこにはイノシシシカなどの野獣も多かったであろうし、また時にはそこが牛馬の放牧場になっていたところもあろう。 それらの動物の侵入をふせぐための垣が必要であったと思われる。 今日もそのような垣がなお各地に残存しているのを見かける。 こうして条里田の外側に垣内が発達しはじめたものであろうが、後には条里村落の中へも垣内という言葉が持ちこまれる荘園(しょうえん)はこうした私墾田(しこんでん)を中心にして発達する。 豪族たちはそのひらいた土地を世間一般にみとめさせ、自分の権利を確保するために、その土地を有力な神社や寺院、または朝廷や公家に寄進してその領地としての名目を得て、実際には豪族自身がその土地を経営し、年々いくばくかの年貢を領家に貢納することにした。 しかもこのような荘園の数は急速にふえていき、後には公領公田も荘園の中へまきこまれてしまうようになる。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.135〜136)


     これら荘園はそれぞれ社寺・公家の私領であるために政府自体の介入をさえゆるさず、それぞれ小さい国家が形成されたようなもので、全国的な統制がなくなった。 そこで鎌倉幕府がひらかれると源頼朝守護(しゅご)・地頭(じとう)の制度をもうけて、荘園内の警察権や徴税権をにぎることになり、荘園の中に別の勢力が入りこんで来る。 つまり武士が荘園の中へ住みつくようになる。 この武士荘園の領家の手下ではなく、全然別の系統である幕府から任命されたものであるから、領家と武士とのあいだには政治や権力の上から、たえずごたごたがくりかえされるようになる。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.137)


     ◎名田のムラ

     一方、武士たちは自己の勢力をつよめるために、その家来住民をつかって、空閑地の開拓をすすめていく。 この場合、開拓者開拓地に自分の名をつけたものといわれる。名田というのはそうして成立してきたのである。 人名のついた地名は三河・能登・安芸などに多く見うけられるが、人名はつかなくとも武士が中心になって下人(げにん)を使用してひらいた土地は多い。 しかもそういう土地は、山間または山間の盆地に多かった。 そうしたところに未開拓の山野が多かったからである。 こうして中世武士によってひらかれたムラの中に、御館(おやかた)または御方親方などといわれる中心をなす家があり、そのまわりを被官(ひかん)・名子(なご)などの名称でよばれる隷属の農家がとりまいていた。 それは一見して大阪平野などに見られる大きな家がムラの中にあってその周囲を小さな家がかこんでいるものとたいへんよく似ているように見えるが、実質的にはちがっている。 中世に発達した名田村では、親方の家がもっとも大きく、次に、親方に近い家、すなわち大事な家来の家とか古い分家とかは、親方の家についで大きい家に住んだ。 またムラの中には親方の家を中心にして身分の上下がきまっており、親方の家に隷属しているのが普通であった。 これに対して大阪平野農村に見る旦那の家その周囲に旦那につぐほどの規模をもった家があるとはきまっていないし、また周囲の民家との間に主従関係があるともきまっていない。 むしろ大阪平野の村ではとびぬけて大きな家をのぞいたあとは、みなおなじような広さの屋敷をもっており、もしその屋敷のせまい場合は多くは分家である。 大きい家を村人は旦那の家として尊びはするけれども主従的な関係がないから、旦那の家が多忙だからといってムラ人から夫役をとることはない。 そういう家には特定の出入りと称する小者の家があって、いそがしいときなど手伝いをしている
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.137〜138)


     ◎親方のいないムラ

     中世に発達したムラは親方を中心にして結合し、親方との間に主従関係の結ばれているような名田村のほかに、おなじような力をもった何人かの百姓があつまってつくったものもあった。 つまり血を異にし、姓を異にしたものが集り住んだのである。 本当のムラというものはそういうものであったと見えて、「淡路太田文」など見ていると、荘園の中の(みょう)やのほかに○○村としるされたものがある。 百姓だけが寄りあつまってできたもののようである。 今日、そういうムラをたずねていってみても、特別に権利をもっている家はほとんどない。 かりにあるとすれば多くは戦いに敗れた武士などがあとからやってきて定住したもので、それが後に庄屋など勤めるようになっている。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.139)


     一方、山間にも親方のいないムラは多かった焼畑などおこなって定住したムラがそれである。 その親村になるところには親方の家があるが、枝村になっているところはみなおなじような大きさの家があつまって住んでいる。 石川県の白山(はくさん)を中心にした一帯の山間には焼畑定住のムラが特に多いのだが、ほとんど共通しておなじような大きさの家で構成されている。 ただそういうムラでは家が一つところにかたまっておらず、多くはバラバラに散在している。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.139〜140)


     2 ムラの格式

     ◎ムラの格式

     いままでのべてきたところで、ムラの成りたちのあらましはわかるのだが、それを一つの地域にとって見ると、ちがった時期、ちがった条件で成立したムラが入りみだれて存在している。 それでムラとムラとの関係がむずかしくなっている。 そしてその伝統と格式にこだわることによってムラとムラとの争いのおこることはすくなくなかった。 たとえば和泉平野北部のムラを見ていると、一つ一つでムラの格式はみなちがっていたようである。シュク・シャクサガリ・ジョウロク・マイマイなどいろいろの呼び方の階級がある。 それらは決していわゆる未解放部落ではない。 未開放部落はそのほかにある。 おなじ部落の家にも筋のよい家悪い家がある。 決して貧富の差がそれをきめているのではない。 そして通婚などおなじような格式のムラ同士でおこなっており、すぐ隣のムラと全然往来しないという例はきわめて多いのである。 どうしてこのような差が生じたものであるかを私はまだつきとめていない。が一般に蔑視されるムラは中世以前から存在していたものに多いのはどうしたことであろうか。 最近はムラの格式をやかましくいうものはよほど減ってきたが、まだ特定のムラとのみ通婚しあっている例は多いと思う。 そしてそういう格式がどんなにムラ人の生活感情をつよく支配しているかを、私はしばしば見ることができた。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.140〜142)


     その一つに、ある古いムラがあった。 周囲に堀はなかったが、ムラの中の家はみな築泥塀(ついじべい)をもっており、おなじような大きさの家がぎっしりたちならんでいて、ムラの中の道はせまく迷路になっていた。 このムラの成立はいつごろか明らかでないが、中世初期には成立していたのではないかと思われる。文献はのこっていないがこのムラと通婚しているもう一つのムラの成立がきわめて古いことから察しられる。 もう一つのムラというのは和泉(大阪府)一宮の大島神社のすぐそばにあり、平安時代以来の文書にもしばしば出てくる。 そしてムラの北半分には、もと堀もめぐらしていた。堀をめぐらすムラは古いといわれているが、同時にどういうものか一段低く見られる傾向がある。 このムラと前記のムラは同格のムラと見られて密接な通婚関係があった。 ともに近世に入っては純粋の農村であった。 しかも多くの古い習俗をのこしていた。 ムラの中は平均一町歩以上をつくるオモヤ筋と、二、三反つくってオモヤにつかわれるインキョ筋(分家筋)にわかれており、オモヤはインキョ筋の者をつかって田畑を耕作し、この奉公人をヤッコといった。 ヤッコは親方の仕事をするだけでなく、雨の日や夜間には自分の家の仕事をしたものである。 したがって雨の日は自分の家にいた。 そこで昼間雨がふって夜晴れるのをこの地方ではヤッコ日和といった。 夜晴れたのでは親方のトクにならないからである。 また、昼間晴れて夜雨のふるのをオヤカタ日和といった。 そういう日は親方の仕事をすることになる。 このように晴れた日は親方の家で稼ぎ、雨の日や夜間に自分の水田を耕すような制度は中世以来のものではないかと思っているが、明らかでない。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.142〜143)


     またこのムラではちょうどムギのうれるころになると、夜、若い男女が田の畔などで交合する風習があった。 いわゆる夜ばいではない。 二人でしめしあわせておいて田のほとりに出ていってねるのである。そうすると豊作になるといっていたが、私の目にはそれが単に呪術的なものとのみはうつらなかった
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.143)


     ◎ムラとムラの争い

     ただこのムラのインキョ(分家)たちは貧しかったので、農閑には町家のを買ってあるくのを一つの生業にしていた。 ところが明治末のある年の祭りに、一里ばかり北のムラの若者たちに「灰買い」とののしられた。 それをきいてムラじゅうが憤慨した。 「かげで言われるのならまだしも大ぜいのところで言われたのはけしからん」とムラじゅうが相談して仕返しすることになり、壇尻(だんじり)(地車)の下に割木をたくさんかくして出かけていった。 祭りには各ムラの者が壇尻をひき出して田圃(たんぼ)道をねりあるく。 ムラの中の道はせまいから十分にひけないのである。 だから野道には方々の壇尻が出ていて、時にはそれがぶつかって喧嘩になることもあるが、このときはそのムラの壇尻は付近のムラをつきぬけて目ざすムラまでいって突然自分たちの壇尻につりさげてある提灯の火を消すとともに、相手の壇尻の火も消してしまって、壇尻の下から割木を持ち出し、誰彼かまわずなぐりつけておいて引上げてきた。 相手方は不意をおそわれて手のほどこしようがなかった。 しかもどこの者が押しかけてきて乱暴したかさえもわからなかった。 そのムラでは大さわぎになった。 死者が三人も出、二〇人あまりが傷ついたからである。 しかも思いあたるふしはほとんどない。 壇尻同士がののしりあうのはあたりまえとされていたからである。 が、やがて取調べがすすむにつれて、やっとののしられたムラの者であることがわかって、壇尻をひいた者たち全部が警察にとらえられてしらべられることになり、ずいぶん拷問もうけたが、だれひとり口を割るものはなかった。 とうとう代表者の一人を罪人に仕立てて無期懲役に付した。 その男が刑期をおえてムラへかえってきたとき、私はそのムラにいた。 この惨事の動機はいたって簡単であった。相手のムラの方がそのムラよりはさらに一段低く見られているのに、その相手からののしられたことの怒りであった。 これに似た事件は大正の終りころまで和泉地方にはきわめて多く、しばしば殺傷沙汰があったという。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.143〜144)


     ◎ムラの格式の上下

     ムラの格式は通婚関係以外にもいろいろあらわれる。 たとえば、一つの神社の氏子が数カ所にまたがっている場合に、その祭りに参加する各ムラの祭りではたす役割がきまっていて、それに格式差の見られることがある。 また宮座なども一つのお宮でいくつかのムラの宮座のおこなわれるときムラの格式によって座の順序のきまっている例が山城大和地方にはすくなからずある。 たとえば奈良県高山八幡宮のごときもそれで、この社の前には茅葺きの座の建物がある。 それが一一の座から成っているが、そのうち一分座というのが社殿に一番近く格式が高い。 一分は神社のまえにあるムラで一番権威があり、一分の者が酒もりをはじめぬと他の座の者は待っていなければならなかった。 座はムラごとに組織され、座の順がムラの格式の順であった。 そしてそういうものを認めあうことによってムラとムラとの間の安定を見たのであるが、それがすこしでも乱されるとすぐ争いになった。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.146〜147)


     大坂地方では「嫁は川下からもらえ」ということわざがある。 川の上と下の間にもムラの権利の差はあったもので、川下のムラは川上から田の用水をわけてもらう。 そこで川上のムラにはいつも頭をさげていなければならない。 そういうところから嫁をもらうと相手に無理が言えなくなる。 しかし川下ならばそうした無理をいうことはなく、逆に川下へ無理を言うこともある。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.147)


     そのほかいろいろの条件がムラの格式を生み出していった。 藩政時代に幕府直領を天領(てんりょう)といったが天領の者は威張っていた。 そして周囲の小藩の領地の者に対しては無理なことを言ったりおこなったりしたものである。天領では年貢も比較的安く、また夫役に出ることもすくなくて、その生活は一般の大名領よりも楽であるのが普通であった。 そこで一所懸命に働いても貧乏している小藩の者を軽蔑する風習が見られた。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.147)


     天領と藩領の間ばかりでなく、大藩と小藩の間にもそうした関係が見られて両者のムラの間にはいろいろのしこりがあった。 そういうものが今日もまだとけきっているとはいえない。 とくにそうしたしこりの中にはムラ境の争いがからんでいる場合が多い。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.147〜148)


     3 賤民のムラ

     ◎死穢の思想

     ムラの格式についてもうすこしのべてみたい。 格式の差が原因して人の心を暗くさせる問題をよびおこしているのは、未解放部落に関するものである。 もうこういう問題は解消しきっていいものであると思うが容易に消えない。 この部落の歴史については早く喜田貞吉(きたさだきち)博士が真剣にとりくんできてその事実を明らかにし、戦後は奈良本辰也教授らによって精力的な研究がすすめられてき、ようやくその全貌と、これまでの歴史が明らかになろうとしている。 それらの業績によって照らしてみると、この人々はまったく社会悪の犠牲になってきたのである。 世間では未解放部落の人々は古代に朝鮮からわたってきた者の子孫なのだとの俗説がひろくおこなわれ、日本人とは血を異にするものだといわれてきた。 その中には朝鮮人を一段低く見下した考え方があってのことである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.148)


     ところが大阪大学の小浜基次教授が長年その体質調査をしてきた結果によると、体質的にはむしろ純粋の日本人としての要素を一般人より典型的に持っているとのことである。たとえば朝鮮人ならば短頭形が多いのだが、未解放部落では中頭形が多い。 それは古い日本人の一つ一つの特色であったものだ。 そういうことになると俗説は単に俗説で終ってしまう。 ではどうして特殊視され蔑視されるようになったかというと、それには日本人自体の中に古くから汚穢を忌む思想があり、汚穢は不幸をもたらすものと考えられていた。「魏志倭人伝」にも「人の死んだとき(も)に服すること十余日、その間は肉を食わず、喪主は泣きくらしている。 すでに葬ってしまうと一家中が水の中へはいって沐浴(もくよく)する。 また倭人が中国にやってくるとき船に持衰(じさい)とよぶ者を一人のせる。 持衰は髪をくしけらずシラミをとらず、衣服は垢(あか)によごれている。 しかも肉をくわず、女を近づけず、喪に服する人のようである。 航海の途中病人が出たり暴風雨にあったりすると、それは持衰のつつしみが足らないからだといって殺すことがある」としるされている。 ここにいうけがれとは身体に垢がついたり、シラミがわいたりしていることではなく、肉を食ったり、女と交合したり、死人があったりする場合に生ずるものである。 このような考え方はその後、今日にいたるまでわれわれの生活をつよく支配したものである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.148〜149)


     そのうちでも死穢にふれることをとくに忌んだ。 人の死にあたって死者を葬るとき、その者に死穢がつくと大きな不幸に見まわれると考えたからである。 だから人々はできるだけ死穢にふれないようにした。小さいムラでは死者を葬るための墓穴をほるようなこと、あるいは死体を焼くような仕事は順番におこなうか、または他村からきた養子にさせるというのが多いが、戸数の多いムラでは特別に人をやとってそれをさせたものである。 これを隠亡といったが、隠亡はそのためにかえって一般から低く見られることになった。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.149)


     ◎念仏聖

     これらの僧は多く半僧半俗であった。 そして中には農業にしたがっているものもあれば、遊芸にたずさわっている者もあった。 一四世紀から一六世紀すなわち室町時代にあってはこれらの仲間はその名の下に「」または「阿弥」とつけるふうがみられ、それによると連歌をたしなみ、申楽(さるがく)の能や田楽能を演じた者も念仏僧−−とくに一遍の流れをくむ時衆(じしゅう)の徒に多かったことが知られる。豊臣秀吉の父も木下筑阿弥といったから、やはり時衆仲間であったと思われ、徳川家康も時衆の子孫だといわれている。 おそらく一六世紀のころには時衆は関東・東海・近畿にみちみちていたのではないかと思われる。 そして戦争などあるとついていって戦死者を葬ったり、またその死の様子を家族の者につげる役目もしたようで、そうした中から多くの戦記文学も生れてきたのである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.150〜151)


     ◎さげすまれる職業

     つぎに人の死を処理するだけでなく、死牛馬の処理をする者もその死穢のためにきらわれた。そういうことになれば野獣を狩りする狩人はもっとひどく蔑視されたはずであるが、この方はそうでもなかった。 だが『今昔物語』など読んでいると、餌取(えとり)法師の話が見えていて、野獣を狩りするゆえに罪業ふかきものとして仏をまつり、つつしみ深い生活をしていたことがしるされているから、古くは死穢をさけ、罪業消滅を祈っていたことがわかる。 しかしこの方は江戸時代に入ると別に見下げられるようなこともなかったのは、弓をひくことに巧みで、戦場へも出ていくことが多かったためかもしれない。 それに対して死牛馬を取扱うものの地位がとくに低くみられるようになったのは、徳川幕府の政策によるものであるといっていい。 すなわち士農工商の下にさらに穢多(えた)・非人(ひにん)をおいたことがこれである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.152)


     これらの人々は小人数のときは一般農村の端に住みついたが、多人数ならば村境河原などに住んでいたので河原者坂の者などともよばれた。 そして大きい町の近くには大きな村が存在した。 大阪の渡辺村はそうしたムラで、はじめは淀川のほとりにあったらしい。 今も市内の中央に渡辺橋というのがある。 それが坐摩(いかすり)神社の付近に移り、さらに大阪の南郊に移った。死牛馬の皮をはぎ、これを細工する者が多かったが、市中に火事のあるときは出ていって消火にあたったはじめにはまといをもたなかったが、文政年中(一八一八〜一八三〇)に町奉行からまといをもらったという。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.152〜154)


     京都周辺には賤民のムラは多かった。 その中にはもともと市中の加茂川原などに多く住んでいたものが後に整理されて移住したのがすくなくなかったようである。 そして自分らのいやがるような仕事をその人たちにさせたのである。 京都にかぎらず大きな町の周辺にはたいてい未解放部落の存在したのはそういう人たちが住んでいてくれないとすまなかったからである。 これらのムラの特色は、家と屋敷があるだけで耕地を持たなかったことである。 だから村域はきわめてせまいのが特色であり、農業以外の職業で生計をたてていたのである。 かりに農業にしたがっているとしても付近のムラの地主の土地を借りて小作していたのである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.154)


     これらのムラの職業としては浅草の弾左衛門(だんざえもん)という穢多頭(えたがしら)の持っていた源頼朝の令書といわれる文書には、長吏(ちょうり)・坐頭(ざとう)・舞々(まいまい)・猿楽・陰陽師(おんようし)・壁塗(かべぬり)・土鍋(どなべ)・鋳師(いし)・辻目暮(つじめくれ)・非人・猿曳(さるひき)・鉢叩(はちたたき)・弦差(つるさし)・石きり・土器師(はじし)・法下(ほうか)・笠縫(かさぬい)・渡守(わたしもり)・青屋(あおや)・坪立(つぼだて)・筆結・墨師・関守(せきもり)・鉦打(かねうち)・獅子舞・箕作(みづくり)・傀儡師(かいらいし)・傾城屋(けいせいや)などがあげられている。 頼朝の令書というのはもとより偽書であるが、それにしても賎業とみられたものがどういうものであったかがわかる。 その中には死牛馬の処理というよりも、舞々・猿楽・猿曳・放下・獅子舞・傀儡師のように芸能をもって門付けしてあるく者が多く、そのほかでも一般民家の雑用程度の仕事をしてあるく者が多かったわけで、そういうものが賎業と見られていたわけである。 そうした中にあって、大阪地方では下駄なおし雪駄なおしなど履物の修理をする者が多かった。道具を籠に入れ、これに緒をつけて肩からかけ、あるいは二つの箱に道具をいれてこれを天秤棒でかつぎ、民家の軒下など借りて下駄の歯をさしかえたり、雪駄の裏へ皮や鉄をうちつけたりしたのである。 また履物つくりをするムラもすくなくなかったのである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.154〜156)


     そのほか死刑にされる者の首を斬ったり、あるいは磔(はりつけ)の槍をつかうのをはじめとして、犯罪者を取締り、これをさがし出す場合に、その手先となって働くのは非人が多かった。 そしてそういう人たちを使用する役人を不浄役人といった。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.156)


     いずれにもせよその職業のために一般農村や町家とは別に住居を定め、そのうえ低く見られてきたのであるが、この人々によって、われわれは自分たちの一番いやな思いをするものの処理をしてもらうのであるから、逆に感謝もし尊敬もしなければならなかったはずである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.156〜157)


     事実、時宗(じしゅう)をひらいた一遍みずから捨聖(すてひじり)といって不幸な死をとげた人々のためにその往生極楽を願って全国を遊行し、当時においては多くの民衆からひろく尊敬されたのであるが、その末流の多くが賤視せられるにいたったことに、世の中のひずみがあった
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.157)


     4 僻地の村

     ◎僻地に住む人の劣等感

     職業による蔑視ばかりでなく、こうして僻地であることのための蔑視もつよく見られたのである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.158)


     佐渡の相川(あいかわ)は昔は金山で栄えた町であった。 そして実に多くの人の集り住んだところである。 したがってその中にはまずしく暮している者も多く、食いかねるとその子供をそこから北の方につづく海府(かいふ)のムラへ里子にやったものである。 海府は農村で田畑をつくり、また海藻をとったりイカを釣ったりなどして生活をたてている。 相川からみればひらけてはいなかったが、働きさえすれば生活のたつところで、すこし生活にゆとりのある者は相川からの子供を四人も五人もあずかって育て、百姓仕事をさせていた。 そういうことからすると海府の方が生活もたちやすいところであったというわけだが、相川では海府の者といえば田舎者として馬鹿にしていた。 そして子供たちを叱るのに「海府へやるぞ」とおどしたものであるという。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.158)


     ◎都会人の優越感

     これはひとり歴史研究の問題だけでなく、あらゆる考え方の中に地方蔑視というか僻地蔑視の意識はぬけがたいまでにしみこんでいるからで、その事実をもっともよくあらわしているのが馬鹿村話である。 馬鹿村はたいてい山奥にある。 そこから町へ出てきた男がいろいろの失敗をして笑われる話である。 昔話の笑話の中ではかなりの分量をしめている。 その一つ二つを紹介する。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.160〜161)


     ◎馬鹿村話

     田舎者の親子が旅をして峠の上までくると眼下に大きな町がみえた。 そこで息子がおどろいてきいた。
     「とと(父)、とと。 なんとこの町は広いの。 日本ほどあろうか
     「なんの、日本はこの倍ほどある」とおやじが答えた。
     せまい社会に生きたものがほんのすこしひろい世界を見ておどろいた話なのである。 またこんな話がある。
     山奥の者が町へ出てきた。 町の魚屋ではいろいろの魚を売っていた。 田舎者がそれを見て「この魚はどうしてたべたらうまいか」ときいた。
     「つくって食うのがいちばんよい」と魚屋はおしえた。 つくるというのは刺身(さしみ)にすることである。 ところが田舎者はつくるというのは作物をつくることのように考えて、さっそく魚一匹を買ってきて、それを地中に埋めておいた。 いつまでたっても芽が出ないので掘ってみるとウジがいっぱいわいていた。 田舎者は「ああこれを食うのか」と思って煮てたべた。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.161)


     5 境争い

     ◎境界不明

     このように一つ一つの村がそれぞれちがった立場に立ち、またそれが階級的に秩序づけられていると、その秩序の乱れたとき、つい争いのおこるのは当然のことであるといっていい。 とくにそういう争いのおこるのは村境入会地(いりあいち)においてであった。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.163)


     ところで村境というようなものはもともときわめて不明瞭なところが多かった。とくに古代に成立したムラ、すなわち条里制のムラにそれが見られた。 ひらけつくした水田の中にかたまった集落がある。 その人家のかたまっているところだけがムラではない。 そこに住む人たちが生活をたてていくために田畑を耕作しているわけだが、その耕地をも含めた範囲がムラなのである。 ではムラの境はどこにあるかといえば、隣のムラの者が耕しているところと自分のムラの者の土地の相接しているところということになる。 ところがその耕地はいろいろに入りみだれている。 しかも中世以前にあっては属人主義であったから、甲という部落に住んでいる者の持っている土地がすべて甲のムラのものになり、乙の部落に住んでいる者の所有地がすべて乙のムラのものになっていた。 そこでその耕地の入りみだれているような場合にはムラの境を一本の線でひくようなことはできなかった。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.163〜164)


     私は大阪府下の農村の何カ所かでムラの古い地図を見せてもらったことがあったが、水田一枚ごとに村名のちがっているところさえあった。 そういうところでは村境はないといってもよいのではないかと思われた。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.164)


     これは大阪府下の農村のみの現象ではなく、古くはみな相似たものであった。 能登半島などもそういうところで村々の耕地は入りみだれていた。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.164〜165)


     それを村切(むらきり)といって村と村との間に境をいれ、甲村に住む者の土地が乙村の地区にある場合には乙村としてみとめる方法がとられ、飛地はできるだけ整理をおこなってから今日見るような村の基礎ができるのだが、この大事業をやってのけたのが豊臣秀吉であり、いわゆる太閤検地とよばれるものである。これによって租税のとりたては非常に便利になり効果的になってくる。 そして同時に人々にも境の観念ははっきりしてくるのであるが、この区画整理は全国的に完全におこなわれたものではなく、能登半島や大阪平野のように明治時代にいたるまで入りくんだままにすておかれたところもある。 そういうところでは土地の所有者同士の境争いはそのままムラの境争いになるので、村にはそうした隣村との交渉にあたる役員をおいた。 それを立合(たちあい)といっているが、立合は境ぎめをするだけでなく、用水の分配などにも立ち合ったもので、そのような渉外員をおかなければ村と村との秩序を保つことはできなかった。 それほど村外との交渉が頻繁だったのである。 だから立合をりっぱにつとめあげたものはたいてい村長になり、村長としても成功したといわれている。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.165)


     ◎入会地

     村の境が一本の線でひかれるようなところは近世に入ってから開拓されせられたところや、人口の稀薄なところに多い。 そういうところでもその初めはどこが境であるかわからなかったところがすくなくない。 人がある一定の場所に住居を定めて定住し、その周囲に耕地をひらく、その土地は別に地主のいない場合には自分のものになる。 ひいてはそのムラのものになる。 その耕地を培養していくために草を刈って肥料にする。 採草地は原野を利用するものであるから、だれのものでもない。 しかしその原野がひろく、原野の付近にムラがいくつもあれば、それらの村人たちが甲乙の区別なしにそこへ草を刈りにいく。入会地はそうして成立する。 箱根山麓の広大な入会地などもその初めは採草地として麓のムラの人々が利用したものである。 しかしその利用にもおのずから厚薄が出てくる。 山に近いものは多く利用し、遠いものは利用度がすくなくなる。 そして山に近い村が何となくそこを自分の山だと思いこむようになってくる。 そのことから争いがおこってくる。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.165〜166)


     佐賀県佐賀平野の北に背振(せぶり)山地があるが、ここなどもその典型的な例である。 背振山地の東部をしめる東背振村(現・吉野ヶ里町)の現在国有地になっているところの大部分は、もと佐賀平野の村々の採草地であった。 東背振村は旧藩時代には九カ村からなり、それぞれの村に庄屋がいたわけであるが、ムラの周囲は水田としてひらきつくされていて採草する余地はなかったから、背振山地へみな草を刈りにいっていたが、しばしば争いがおこされるので、貞享四(一六八七)年に藩はそれぞれの村に採草地を割りあてた。 そうすればもう争いはなくなるはずであるが、今度は自村の割当地の外まではみ出して刈る者があらわれ、やはり争いがたえない。 中には平野の村の者が草を刈ってかえっていくのを荷が大きすぎる、草の刈りすぎだといって山麓の村の者が奪いとるような事件もおこり、それはたいへん不当だとして平野の村から藩へ訴えて出たことがある。 そこでついに藩は平野の村の者に対して、麓の村を通りぬけないで行ける草刈道を草刈場までつけることをゆるしたという。 それでやっと事なきを得て、明治末年までこの草刈りはつづくのである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.166〜167)


     これと似たような話は入会地のあるところではよくきくことである。 そして麓の村の者に草をうばわれたのがもとで血で血を争うようなことになるのである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.167)


     秋田県鳥海(ちょうかい)山の北麓なども由利郡の村々の草刈場として利用されていたが、採草を中心にして争いのおこることが多かった。 広い原野をそれぞれ思い思いに刈っているが、それがだんだん接近してくると採草地の奪いあいになり争いがおこる。 するとその付近で刈っていた他村の者がそれぞれ気のあった村の方へ荷担し、何百人というぼとの者が鎌をふるって大合戦を演じたこともあるという。 そこでその争いをできるだけすくなくするために、それぞれの村からなるべく他村を通らない草刈道をつけた。 この道を馬道(うまみち)といっている。 夏の土用(どよう)がすぎて草刈る時期になると、まず馬道の普請をして、それから草刈に出かけていく。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.167)


     東北地方には原野がひろく、村と村との境のはっきりしないところが多かったから、入会地として共同利用したところがすくなくなかったが、その利用がすすむにつれて争いがおこされてくる。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.167)


     仙台藩(宮城県)ではこうした採草地を野手山(のてやま)といったが、野手山は単に草を刈るだけでなく、ワラビのよく生えるところではワラビ根をほって、その根からワラビ粉をとり、凶作のときなど食料にあてた。 カヤを刈るところをカヤ野とよび、ワラビをとるところをワラビ野といったが、カヤを刈る場所とワラビの生える場所はちがっている。カヤを刈る場所は、近世初期以来、それぞれの村でほぼきまっていたが、ワラビをとるところはきまりがない。 そこで自分の割当地にワラビのすくないものは多いところへ行こうとする。 一方ではそれを阻止しようとして争いがおこる。 とくにワラビをほるのは凶作の年で、そういう時には血の雨の降る争いがくりかえされ、その後始末に何十年もかかるというようなことがしばしばあった。 そして争いのあるたびにおたがいの権利と、その境が明確にされていったのである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.167〜168)


     7 村の窓をひらく

     ◎村と村をつなぐ信仰集団

     大阪平野・奈良盆地の村々は近世に入ると幕府領・旗本領・小大名領が入り乱れて領有関係は実に複雑になってくる。 だから隣村同士でも領主のちがっていることがあり、はなはだしきは一村が二人も三人もの領主によって支配されている例もみられた。 それが村々の共通意識を育てていくのに大きな障害になったにもかかわらず、村人たちが利害をともにするような事件のおこったときは、すぐ連合し、各村の庄屋連名で奉行所へうったえ出ている。 これを国訴といった。 そうした国訴を成立させたのはおたがいの間にすでに共通感情が存在していたからであろう。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.179〜180)


     これはひとり近畿諸村の先進地に見られたものばかりでなく、各地にそれがあった。 たとえば、牛馬が死んで新しい牛馬を買おうとするとき万人講(まんにんこう)をもよおして、 その金をもとにして買えばふたたび不幸をくりかえさないといわれている。 万人の人から死牛馬の供養塔のために金をうけ。 昔は一人一文、明治になってからは一人一銭であった。 「万人講でございます」といって村々をあるいて喜捨をうけ、 その数が一万に達すると僧をまねいて牛馬の供養をいとなみ、供養塔をたて、 集った金に必要な金を加えて牛馬を買う。 この万人講の供養塔を徳島、岡山、大分などで見かけ、同様の伝承をきいたから、 もとは西日本にひろく分布していたのではないかと思われる。こうしたことが共同連帯感を生んでいくのである
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.181)


     また佐渡では島内順礼がおこなわれている。 順礼姿で家々で喜捨をうけつつ島内の寺々をまわる。 この順拝にもただ寺々をまわるだけでなく、自分のムラの地蔵堂・観音堂などのいたんだのを修理する費用を捻出するための順礼もある。 そうした費用は自分たちの手持ちの金をあつめたのでは効果がうすく、多くの人の喜捨をうけなければならないのだと私の出あった順礼仲間はいっていた。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.181)


     ◎共通感情をもとめて

     こうした連合のほかに用水路を通じての村連合も見られてくる。水の分配はときに村と村を大きく対立させることもあったが、水を平等にわけ、その用水がかりの村々が共同の恩恵に浴するためにはおたがいの協力と秩序の維持が大切であった。 しかも重要な大きな用水路の大半は江戸時代中期以降につくられてくる。 これによって村と村との結合が生じてくる。 一方ではそれがまた争いの種になったとしても、そういうことを通じてすこしずつその殻を破っていったのである。
    (《民俗のふるさと 第3章 村と村》P.183)


    第4章 村の生活

     1 人は群れて住む

     ◎一戸だけの島

     私は一つの島に一家族だけ住んでいるという島を今までに三つほど訪れたことがある。 その一つは広島県の中の小島である。戦後外地からひきあげて来ておちつくさきがなかったので無人島へおちついたのだという。 その島はすぐ近くの島から耕作にいっていて、かなりの畑がひらけているが、人はすんでいなかった。 水がとぼしいことが大きい原因であったが、時々がおそろしくふえることがある。 それで住んでいても住みきれなくて親島へ引きあげたという。 今住んでいる人もその鼠になやまされつづけた。 もう一つ困ったことは子供の通学だった。 島には学校がないので親島までゆかねばならぬ。 海の荒れない限り日曜や夏冬の休みを除いて子をのせて海をわたった。一家族だけの生活がいかに不便なものであるかを痛感した。 だから子供が大きくなって町で暮らすようになれば、島を出たいと希望している。
    (《民俗のふるさと 第4章 村の生活》P.184〜185)


     その二は長崎県五島の中の大島の属島宇々島を見た。 宇々島は親島の大島で生活に困った者をクジびきでこの島へ送って生活のたちなおるまでそこにおく。 島には一町四反ほどの畑があり、それを自由につくり、つくったものはすべて自分のものになる。 また島の周囲の海藻も自由にとってよく、それが自分のものになる。 そのうえ、島にいるので公役につかわれることもなく、島に五年もいればたいていの借銭なら払ってしまわれる。 こうして親島で困った者を一人ずつ送っては財産をたてなおさせたのである。 私がこの島をおとずれたとき、それまで長くいた人は親島へ帰り、新しい人がかわってはいっていた。 そして主人は磯へいって海藻をとっていたので、その妻女にはなしかけたのだが、すぐ涙をおとすので、くわしいことは何一つきけなかった。 群からはなれて暮すことがどんなに苦しくさびしいことか。 財産をたてなおすことはよいけれども、それには一方ならぬ決心のいるものであった。
    (《民俗のふるさと 第4章 村の生活》P.185〜186)


     その三は隠岐島の南岸にある妻ケ島を見た。 この島にはたった一軒だけの家が一二代も住んでいるのである。 そのはじめは藩の命令で見張役としてこの島へ来たものらしい。 それにしてもよく二〇〇年以上を住んだものだと思う。 家の周囲に一町歩以上の耕地があり、薪をとるための松林もあり、魚介をとるための磯もある。 住みついてみれば決してわるいところではないが、自分の持ち地だけでは二軒分は暮せない。 そこで分家は島の外へ出した。
    (《民俗のふるさと 第4章 村の生活》P.186)


     ◎外敵を防ぐために

     一般に平坦な水田地帯に武士の住むことはすくなかった。武士は丘陵か山地に住居する者が多かった。 そこで鎌倉時代以来地方でかなりの勢力をしめていた武士の居住地付近を見ると、民家が山を背にし、まえが田または畑になっているようなところに屋敷をかまえている。 時には台地の突端になっているところもある。 その一つの典型的な風景は山陽線の三原から西条付近までに見ることができる。 ここは小早川氏の領したところである。 小早川氏は鎌倉武士土肥実平の後で、鎌倉時代の初め、地頭として安芸国(広島県)沼田荘へ下ってきてそこに住み、その子孫が多くの分家をつくって安芸国東半分に栄えた。 ちょうどその領知した範囲の村々を見ると多くの家が山の麓に屋敷をかまえ、前は石垣をつきあげ、後は山を背にしている。 そういう家が山麓にならんでいるのである。 こうした屋敷構えの歴史は鎌倉時代以来のものではなかっただろうか。 このような風景はこまかに見ていくと方々にある。 熊本県の阿蘇山を中心にして分布する村々の郷士の家などもこれとほぼおなじような構えをしているし、関東平野西寄りの山地にも伊豆地方にも同様な屋敷のあり方を見ることができる。 関東ではそういう家を中心にして小さい家がその下に何戸かとりまいている。 つまり御方とか親方とかよばれる家をとりまいて小さいながら、一つの結束をして外敵の侵攻を防ぎ生産をあげようとしたものであろう。
    (《民俗のふるさと 第4章 村の生活》P.189〜190)


     そういうような武家的なムラでないところでもやはり相あつまって住むことは外敵を防ぐためには重要で、山すその小さな谷口などに五戸一〇戸かたまって住んでいるムラの歴史についてしらべてみるとたいていは中世以前からそこに定住していたという伝承をもっている。 これらのムラには親方のあるものもあるが、ないものもある。 親方はなくても本家といわれる家がある。 そして同族結合地縁的な結合がつよく見られる。
    (《民俗のふるさと 第4章 村の生活》P.190)


























































    継続中