[抜書き]『城下の人』


『城下の人』 石光真清の手記
石光真清・中公文庫
昭和六十三年九月二十日六版
    目次
    夜あけの頃
    神風連
    鎮台の旗風
    熊本城炎上
    戦場の少年たち
    戦禍の中の人々
    焦土にきた平和
    父の死
    自分の足で歩む道
    東京
    若い人々
    天皇と皇后
    出征の記
    コレラと青竜刀
    周花蓮
    夢と現実


    夜あけの頃

     ミサは私を心から可愛がるし、私もまたミサになついたが、私が三歳になった明治三年の秋、父の友人で熊本屈指の醸造家として、新町の一角に宏大な店舗を構える木津屋の主人源太夫が、私の家に遊びに来て、ミサの働きぶりにすっかりほれ込み、ぜひ自分の家の女中に欲しいと父に懇望し、とうとう一緒に連れて行ってしまった。 私は遊び相手を失って淋しさに捕われた。 そのためではないだろうが、死んだ兄と同じように医薬の厄介になり勝ちとなり、明治四年、やはり四歳の時に「ジフテリヤ」に罹ってしまった。 その時分ジフテリヤのことを「ノドケ」と言って、まったく治療の方法がなく、ノドケといえば、医師は申しわけに投薬はするが、ほんの気休めでただ死が来るのを待つに過ぎなかった。 しかも、この病気は幼児に多く、死ぬまで大変に苦しむ。 内臓には異常もないのに、咽喉(のど)だけが詰ってゆくのである。 丁度咽喉をやんわり絞められるのと同じで、無心の小児も呼吸困難になるにしたがって、小さな身体をもがき苦しむ。 ついには、ぱっと無意識に跳ね起きたりする。 このように苦しむわが子の姿を、親はどうしてぼんやり眺めていられよう。
    (《城下の人 夜あけの頃》P.8〜9)


     丁度手の届くところに硯箱があった。 その硯箱の中に筆がはいっていた。 硯箱に筆のあるのは当り前で不思議はないが、ただ違うのはその硯箱は、父が大切にしていた持物で立派なものであった。 母が寝たまま、手を差し伸べ、硯箱を引き寄せたのを見て父は驚き、
     「守家(もりえ)、何をするのか
    と不思議な面持で訊ねた。 夢中の母は黙ったまま筆を取出すと、急いで先の毛をむしり取り、竹の軸ばかりにして、それを私の口へ差込み、一方を自分の口にくわえて、私の咽喉に詰っている痰を自分の口へ吸い取った。
    (《城下の人 夜あけの頃》P.9)


    神風連

     こうして庭に立つと、四年前、父に連れられて本妙寺に参拝した病み上りの日のことが忘れられない。
     「正三、この欅の木はお前の今の容体そのままだ。 お前を看病したように、この木を育ててごらん
     父の言葉が、私にこの欅に対する執着を植えつけた。 父が水を呉れない日があっても、私は忘れなかった。 そして心淋しい時はいつもこの木の下に来るのが一つの習慣になった。
    (《城下の人 神風連》P.29)


     「まあ、お二人で……何をしていらっしゃるのですか
     と木津屋に女中奉公しているミサがニコニコしながらやって来た。
     「あっ、ミサだ
     私は嬉しくなって叫ぶと、姉も愛想よく、
     「まあ。珍しい、きょうは宿下(やどさが)(休暇)かい
    と笑顔で言った。
    (《城下の人 神風連》P.29〜30)


     父は独言をいいながら暫く考えてから、私たちを慈しむ柔和な顔をして、
     「実は、散髪廃刀のことだが……
    と私と真臣の顔色を見較べた。 私は、はっとして言った。
     「お父さま、加屋先生が奔走されたように、いつまでも髪を結っていられるようになったのですか
     「違う
     父は一言のもとに強く否定してから、また静かに言い聞かすような口調になった。
     「明治四年八月に太政官から、なるべく散髪廃刀せよ、というお布令が出ているのはお前たちも知っていよう。千年もの永い間の習慣を急に変えては人々の心を動揺させるので、このような手緩いお布令が出されたのだ。 しかし、もうあれから五年も経っている。 いよいよきょう、全国民一人残らず散髪廃刀せよ、というお達しが出たのだ。 学校へも塾へも県庁から厳達された筈だ−−わしも兄さんも、もう以前からざんぎりになっている
     私も真臣も、父の話を聞いているうちに、身体が震えてきた。 悲しみの涙が込み上げて来た。 生まれてから今日まで結い続けてきた髪を切り、武士の魂だと教えられてきた愛刀を手離すのはいかにも悲しかった。
    (《城下の人 神風連》P.35〜36)


     私は悲しかった。 自分のざんぎりの丸腰姿が、まるで刀を奪われた捕虜のように惨めに思われた。 考えてみれば、西洋文化のために、意気地なく捕まった捕虜に違いないのである。 私は往来に出るのが恥しく邸内にとじこもっていた。
    (《城下の人 神風連》P.37)


     このことがあって四、五日後のことである。 上林町に住む従兄の生田登三郎が父を訪ねて来た。 生田家は父の姉の嫁ぎ先で、この伯父夫婦は廃藩御役御免となった後は、この登三郎は昨年の秋に、嫁を迎えて県庁に勤めていた。 嫁さんは清子といって非常に美しい人で、夫婦の仲は睦まじいという噂であった。
     登三郎は私の父に、
     「叔父さん、わたしも東京に出ることに決めました。 熊本では成功の望みは持てんので、東京に出て警視隊に志願するつもりです
    と言った。 すでに決心して別れに来たのであった。 そして、両親も嫁も残して一人で行くというのである。 父が驚いてその理由を訊ねると、両親が「夫婦で江戸に出るとは何事だ、参勤交代のことを考えろ」と言って、どうしても同意しないとのことであった。 「そんな無茶を言っては若い者が可哀そうだ」と、父は早速登三郎と一緒に生田の家に出かけて行った。
    (《城下の人 神風連》P.37〜38)


     「昔の参勤交代とは違う。 清子も一緒にやった方がよい
    と新しい時代を説いたが、昔気質の生田の老夫婦は父の意見に耳を貸さなかった藉(か)さなかった。
     「さようなことは出来ん。何のための嫁だ。 妻を伴うて江戸へ行く、そんなことをしたら世間の物笑い
    と、どうしても同意しなかった。 登三郎は止むなく、私の父に改めて厚意を謝した上で、
     「二、三年のうちには必ず成功して、両親も清子も東京へ呼びます。 それまでは、なにかとご迷惑でしようが、留守中はどうぞよろしくお願いいたします
    と、結婚して僅か五カ月足らずの嫁を残して上京した。 父も母も涙ぐんで見送った。
    (《城下の人 神風連》P.38)


     私は築山の上でぼんやりしていると、植木屋の辰五郎が半纏姿で威勢よくやって来た。
     「坊ちゃん。 きのうは大変でしたね。 びっくりしたでしょう。 わしは普通の火事だと思って鎮台へ駈けつたら、パパンと鉄砲でうたれてびっくりしましたよ。 胴っ腹に穴をあけられちゃ堪りませんやね。 坊ちゃん。 鎮台は強いですねえ、忽ち神風連を撃退しましたからなあ、わしも、もう少し若けりゃあ鎮台に行けるんだが
     「なにっ、神風連を?
     「おや、坊ちゃん知らないんですか、きのうの騒ぎは神風連と鎮台の戦争だったんですよ
     「そうか! では加屋先生も一緒かしら
     「勿論、加屋先生は神風連の将帥ですからね
    (《城下の人 神風連》P.45)


     間もなく父が帰って来た。 それで加屋先生は騒動の中心人物の一人であることが判った。
     総帥太田黒伴雄氏、副将加屋霽堅氏の下に党人百七十名が結束して立ったのである。
    (《城下の人 神風連》P.45)


     闇夜の藤崎八幡宮に武装して集合し、神前に供物を捧げ騒動の理由を奉告して第一隊は熊本鎮台司令長官種田政明少将邸へ、第二隊は与倉知実中佐邸へ、第三隊は高島茂徳中佐邸へ、第四隊は安岡良亮権令邸へ、第五隊は太田黒惟信邸へ、第六隊は砲兵営(熊本城内)へ、第七隊は歩兵営(熊本城内)へ、と七隊に分かれ、目的を達したら火を放って合図をしようということを約束して、幟(のぼり)を押立て、螺(ほら)を吹き鳴らして出発したのであった。
    (《城下の人 神風連》P.45)


     太田黒(伴雄)、加屋両将の率いる第六隊が主力で、まず砲兵営の寝込みを襲って、営内を散々に暴れ廻り火を放った上、これも歩兵営攻撃の第七隊応援に急いだ。
     受持の南門に来てみると、すでに鎮台兵が厳重に警護していた。
    (《城下の人 神風連》P.47)


     闇の物陰から機を窺っては斬り込み、斬り込んでは撃たれ、死物狂いで兵舎に取り着いて、用意の藁束に火を付けて投げ込みつつ舎内へ大刀を閃かして乱入した。
    (《城下の人 神風連》P.47)


     「敵は寡勢だ。驚くな
     鎮台兵は口々に叫びながら急速に陣形を整え始め、それぞれの位置について銃弾の雨を浴びせかける。 こうなっては刀と槍だけの神風連は敵するすべもなく、まず加屋副将が倒れ、次いで太田黒総帥も銃弾に当り附近の民家にかつぎ込まれて戦死した。 神風連の人数はめきめき減って、到底勝つ見込みもなくなり、闇に紛れて退散したのである。 父はこう語って、
     「あの方々も随分無謀な企みをやったものだ惜しい方々ばかりだ。 官の方で行方を探索中とのことだからニ、三日中には消息が判ろう
    と声を落とした。
    (《城下の人 神風連》P.48)


     「いろいろと事情もあろう。 一番近い原因は何といってもこの春の廃刀令だ頑迷者だ、時代遅れだと一部の人に笑われながら、じっと堪え忍んでおられたことと思う。 こうなった上は世の人人に末永く反省させようと、わが身を犠牲にしての決断であったろう
    と感慨深く語った。 私の胸にも散髪の日の悲憤が蘇って来た。
    (《城下の人 神風連》P.48)


     その後、神風連の残党は大部分はその日のうちに自刃し、残る者は捕われて主謀者は死刑、その他は二年から十年の禁固刑に処された。
    (《城下の人 神風連》P.48)


    熊本城炎上

     二月に入って、寒い風が吹き荒(すさ)ぶ日であった。いよいよ西郷隆盛が二万五千の大軍を率いて熊本に向い行動を起したという噂が流れて来た。
    (《城下の人 熊本城炎上》P.75)


     「生田さま、唯今お布令が出ました。お城で大砲が続けざま三発打ったら、それが、戦さが始まることを市民に知らす号砲ですから、すぐ立退いてください。 お布令の中には薩摩の軍勢が、鹿児島を出発して、熊本にむかったと書いてあります。 立退きの準備、ご油断なくなさりませ
    と言ってまた忙しそうに出て行った。
    (《城下の人 熊本城炎上》P.76)


     「時に旦那さま。 これから先、どうなりましょう。 薩摩方の物見はもうこの辺に入込んで、あちこち見廻っております
     父は不審そうに、
     「どうしてそれが判るか
    と反問した。
     「言葉が違います。 訊ねることが、まるで土地不案内のようで……
     「そうか。 それでは熊本進入も、明日か、遅くも明後日に迫ったなあ。 こうなると、物見同士の衝突が起こるかも知れない。 油断は大敵だ。 思わぬ嫌疑を受けて災難に遭わないように気を付けよ
     徳兵衛は父の話にやや安心した態で帰って行った。
    (《城下の人 熊本城炎上》P.81〜82)


     また新町の木津屋では、父が徳兵衛に教えた通り、源太夫夫妻と慶太郎は、十八日のうちにミサを供に連れて、生田の伯父たちと同じ柿原の豪農の隠居家を借りて避難し、店には大番頭の常吉が残り、幾十人もの使用人を指揮して酒倉は勿論、家財倉など、十棟に近い倉を密閉した。 火の手があがってからは、火気の侵入を防ぐために味噌を惜気なく使って、隙隙に塗込み、絶えず火の手を見ながら防火に努めていたが、午後四時頃、遂に猛火に襲われて、さしもの大店舗も瞬く間に焔に包まれてしまった。
    (《城下の人 熊本城炎上》P.85〜86)


     川岸は避難者でごった返していた。 つい先刻までは貧富の階級が画然としていたのに、家も財も焼き尽くされてしまってみれば、誰も彼も裸一貫である。 こうなると、人の心は急に変化するもので、互に慰め合い、助け合い、お握りを分け与える者、避難地を持たない哀れな人たちを同伴して去ってゆく慈善家もあって、猛火の中に人情の美しさを描いた。
    (《城下の人 熊本城炎上》P.86)


    戦場の少年たち

     「私たちはお城の陥落するのを見たいのです。お城を攻めるには祇園山を一番先に占領して、大砲を打込めば、お城は難儀すると、加屋先生が申されました
     「加屋先生とは誰か
     「神風連の先生です。 去年の秋、党人と一緒にお城に斬り込んで戦死されました
     「ああ、加屋霽堅先生か。 そんなことを申されたか
     「小父さんも、薩摩の将校でしょう
     その人は私のぶしつけな質問に、私の顔を見詰めた。
     「わしは村田新八じゃ。 お前たちは中々の元気者だな。 きょうはこれでお帰り
    と大砲陣地の方へ去って行った。 『村田新八、村田新八』私は口の中に何回も繰り返しながら後姿を見送った。 この日もとうとうお城は落ちなかった。
    (《城下の人 戦場の少年たち》P.102〜103)


     薩軍は熊本城総攻撃にかかるまでは、たやすく城を抜けるものと考えていたが、いざ攻撃にかかって見ると守りは意外に強固で、二十二日も戦況は進捗しなかった。 二十三日。 再び早朝から強襲を敢行したが、ただ兵力を損するのみで、またも失敗に帰した。
    (《城下の人 戦場の少年たち》P.103)


     一方政府では、有栖川宮熾人親王を征討総督に任じて討伐軍を組織し、第一旅団司令官三好重臣、第二旅団司令官野津鎮雄の両少将が五万余の大軍を率いて、二十二日早くも博多に上陸、熊本に向って進軍行動を起こした。 征討軍の組織は、軍司令部ともいうべき軍団に、有栖川宮殿下を初め、陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純良参事となって加わり、これに参謀部、会計部、軍医部、砲兵部、輜重部、運輸局、裁判所等が属していた。 後で知った話だが、叔父の野田豁通も会計部長として出征していた。
    (《城下の人 戦場の少年たち》P.103)


     このような具合で、薩軍は一挙に城を抜くことの困難なるを知って、長囲持久の作戦をとり、池上四郎を攻城軍の総将として残し、第一番大隊長篠原国幹、第二番大隊長村田新八、七八番連合大隊長別府晋介の三大隊一万余名の主力が官軍を●撃するために、高瀬方面に向かって転戦した。 しかし、いかに薩軍は勇敢であっても、優秀な兵器を多数に擁する官軍の大部隊に遭遇しては苦戦つづきで、間もなく田原坂(たばるざか)、木留(きどめ)、吉次峠山鹿等の線に後退して、自然の要害によって官軍を食い止める作戦に出ざるを得なくなった。
    (●:激のサンズイの代りにシンニョウ)
    (《城下の人 戦場の少年たち》P.103〜104)


     一方攻城軍も日夜猛撃を続行し、段山坪井の方面ではひき続いて激戦が繰返されていたが、三月に入っても城は依然持ちこたえていたし、薩軍には疲れの色が見え始めて来た。
    (《城下の人 戦場の少年たち》P.104)


    戦禍の中の人々

     農村は野良仕事も閑散な時なので、村の若い者は薩軍に狩り出されて、毎日弾丸、兵糧の運搬や炊出しの手伝いなどの雑役に服し、夜になると村に帰ってから太平記読みを真似て、鎮守様の広場や寺の境内で、段山方面、京町口、長六橋の戦況等を村の人々に物語った。 それが避難地にもたらされる唯一の新聞で、その時は、村の者も、避難者も、男女老若の別なく集まって、中々賑やかである。 紺屋父子と清子の三人は、聞き手のうちでも最も熱心な人々であった。
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.105)


     こうして、日の経つにつれて、避難地は、困窮を告げて来た。 避難者たちは、去年の神風連の騒動が、一夜で結末がついたことが頭にあるので、今度も七日か十日で勝敗がつくものと自分勝手な胸算用で、左程準備をしていなかった。小さな村に一時にどっと避難者が入り込んだ上に、薩軍が各村落へ兵糧徴発にやって来ては、倉庫や物置を詮索して、食糧となるものは片っ端から運び去るので、三月に入って間もなく柿原は、食物の欠乏を来たした。 男は遠くの村まで米や麦類の買入れに出かけ、女や老人は裏山から小萩山方面に分け入って、野生の草や根で、食べられるものはなんでも採取した
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.106)


     高瀬の方面から、危険な戦場地帯を抜けて来た良八という村の若者が、田原坂激戦の模様について、例の如く鎮守様の広場で太平記読みをやるというのである。 今までもたらされた話は、熊本城をめぐる攻防戦ばかりで、聞き手も少々食傷気味のところへ、方面違いの田原坂の戦況を持った良八の登場であった。 忽ち話題になった。
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.109)


     田原坂清正公が腹切り坂と命名したほど熊本に対する要衝の地で、ここの守将はもし敗れたら責任を負って切腹するのが昔からの習わしであった。 それだけに官薩両軍が死力を尽くして戦っているという噂は村の人たちも知っていた。
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.109)


     良八は二十七、八の才気走った元気な青年であった。
     「段山、長六橋、坪井方面の戦さも随分激しいそうだが、田原坂の激戦に較べれば小競合(こぜりあ)いに過ぎんだろう。 田原坂の嶮は皆さん御存知の通り守るに易く、攻めるに難い地勢である。 この天嶮に陣取るは薩軍一万五千、篠原国幹児玉十郎などという英傑を主将として、全力を尽くして、潮の如く押寄せる官軍の進路を阻んでいる。 博多湾上陸の官軍は五万八千だが、田原坂に食止められ、盛んに砲銃を撃って突貫を繰返しているが、薩軍は頑として退かない
     良八は拳を振り上げ、感激の表情を作って中々の名調子であった。
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.109)


     私の父は病身ではあるが、村の鎮撫使を使命されていたので、毎日村の若者を従えて村内を巡視し、揉めごとが起こると、すぐ出かけて行って取捌いた。 父は或る日、庭の避難所で私と姉を前にして話した。
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.112〜113)


     「薩軍は中々難儀しているようだ。 一挙に屠(ほふ)るつもりだったお城も立派に持ち耐えているし、官軍はどんどん新鋭を博多湾に上陸させて田原坂へ繰出しているという話だから……お城は落ちまいなあ。 しかし薩軍には西郷さん桐野篠原村田辺見別府池上などという偉い武将が揃っているから、一体どういう結果になるか。 戦争というものは一寸した進退駆引によって勝敗がきまるものだから、まあ当分このようにして戦いが続くだろう
     「お父さま、村田という方は、村田新八という方でしょう
     「うんそうだ、お前どうして知っている
     父は怪訝(けげん)な顔をした。 私は困った。 内緒で毎日のように祇園山の戦場を飛び廻っているのを父は知らなかったのである。
     「この間お逢いしました
     「何処で……
     「祇園山の上です
     父は呆れて私の顔を見詰めたまま黙ってしまったが、別に叱りもしないでそれきり話を変えてしまった。
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.113)


     朝早くであった。半鐘が鳴り出し、村の人たちが、がやがや騒々しく叫びながら走り廻り、何事か起こったらしい様子であった。 女中のミサは寝床から飛び起きて外に出て見ると、雨も降らないのに井芹川の流れが水嵩を増して、池上附近は氾濫しており田畑は徐々に冠水し始めていた
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.118)


     祇園山の大砲陣地にでも行くのであろう。 小銃を肩にした薩軍の兵士が時々坂道を登って来る。 髪を振乱し後手に縛されたミサの後姿に足を停めて振返った。
     「あれは間諜だな、きっと
     こんなことを囁いて行くのを、今のミサは夢のように聞いた。 魂の抜けてしまった骸にひとしく、羞恥心も判断力も失せて、護送兵に促されるまま足を運んでいるだけであった。
    (《城下の人 戦禍の中の人々》P.128)


    父の死

     当時野田の叔父も熊本に入り、河原町の軍団本部に詰めていて、父の病気に心を痛め、軍医正林紀先生を同道して厳めしい軍装姿で訪ねて来た。 当時、林軍医正は、陸軍ばかりでなく、日本医界における第一人者として知られ、実際の技術は軍医長官松本順先生より遥かに秀れているという話であった。
     「林先生の診察を受ければ、このまま死んでも悔いがない
    と父は悦んだ。
    (《城下の人 父の死》P.156〜157)


    野田の叔父は、
     「田原坂の戦さは、この戦争の関ケ原とでもいおうか、その激しさは話の外だった。 連日の撃合い斬合いに、犠牲者は増えるばかりで、屍山血河の惨状であったが、何と言っても警視隊の斬込んだ十六日が一番の激戦で、登三郎はよく奮闘したそうだ。 弾の雨を潜って斬り込み二名を斬りたおし、次の行動に移ろうとした時に、横合いから血刀を浴びせられたそうだ。 可哀そうなことをした。 わしも打合せのため野津第一旅団長を前線に訪ねる途中、木陰からぱんと狙撃されたが、命拾いをした。 弾はわしの洋袴(ずぼん)を貫き道案内の鞍掛村の士族内田淳の足を砕きおった。 しかし薩賊も、日向の山中の鼠と化したからには、もう大したこともあるまい
     私はこの話を聞いて「薩賊」という言葉が気に入らなかった。
     「叔父さん、薩軍をどうして『薩賊』というのですか。 薩軍の人たちは『官賊官賊』といっていました
     私がこう訊ねると、
     「ワッハッハ、では叔父さんは官賊か
     と哄笑したが、すぐ真顔になって、
     「西郷どんも無茶をされたもんだ。 陸軍にとっては惜しい将軍だがなあ。 もう日本は国内戦争などしている時ではない。 四面何れを見てもわが国を狙う敵ばかりだ。 早く軍を拡充して外敵に備えなければならん。 どうだ坊たちは成人したら何になるつもりか
     「僕は軍人になります
     私が答えると、真臣もまた、
     「僕も軍人になります
     と二人は顔を見合わせた。
    (《城下の人 父の死》P.157〜158)


     「ではこれでお別れするが、本営も近く日向に移ることになろう。 当分逢えんと思うが、どうぞ兄上、身体を御大切にして下され
    と野田の叔父が名残り惜し気に帰ると、父は母を呼んだ。
     「如何に天下の名医でも、このように病勢が進んでは手の下しようもあるまい。 わしの身体はわしに一番よく判っておる。 丁度ヒビの入った瓶のようなもので、何処かの調子でこうして形をなしているが、一寸調子に狂いがくると忽ちこわれてしまう。 日本一の林先生の診察を受けたのだから、わしも思い残すことがない。 『生は死の始め』これだけは定っている。 わしの命数ももう幾何もないと思う。 何か聞きたいことがあれば今のうちに聞いておいてくれ
    と静かに死を待つ態度だった。
    (《城下の人 父の死》P.159)


    天保五年十月十日生れたが、袋子(羊膜に入ったまま生れる)だった。 昔から袋子は嫁がずと言い伝えられていたので「この子は人の妻になることは難しかろう、家を守るべき宿命の下に生れたのだ」と「守家」と命名された。 しかし、別に異常もなく健康に育ったが、不幸にも幼少のころに天然痘に罹り醜い容貌になった。
    (《城下の人 父の死》P.170)


    自分の足で歩む道

     十一年の春、本山小学校は学級も拡充され、兄の真澄が東京から招聘され、林田亀太郎(後の衆議院書記官長、代議士)、西村賤夫(後の外務省会計部長)等が教鞭を取るようになって、県下の小学校でも一頭地を抜く存在となり、注目を集めた。 教授の方法も最新式の東京の様式を倣い、十二、三歳の生徒が演説会や討論会を公開して、大人を煙に巻いた。 こんな具合で城下でも教育に熱心な父兄はわざわざ子弟を本山小学校に入学させた。徳富健次郎(蘆花)、鳥居赫雄(素川)、元田享一(後の陸軍中将)、嘉悦敏(後の陸軍中将)等が私や真臣の親しい学友であった。 また県下の希望校が時々学級別に連合して、寺院などを借りて学科の競争試験を行った。 優劣は学級全体の総合点で決まるので、全級が一団となって平常から勉強に懸命であった。
    (《城下の人 自分の足で歩む道》P.175〜176)


     十三年の春である。 私たちの組へ十八歳になる青年が二人、入学してきた。堂々たる青年が、十二、三の子供と机を並べて勉強を始めたのだから、全校の話題となった。 しかもその入学の理由がふるっている。 一人は立川、一人は丸山といって、共に球磨郡の山奥の日向との国境に近い五家荘(ごかのしょう)の生れであった。
     昔平家の落武者がここに足を留め一部落を作って他郷との交際を絶ち、交通も禁じて自給自足の鎖国主義で七百幾年の間、集団生活を続けて来た。 維新の後、士農工商の階級が撤廃され、四民平等となっても永年の習慣で五家荘の住民は容易に村を出ず、また他郷人の入村を阻んで融和しなかった。 県令富岡敬明は命令をもって威圧することも出来ず、彼等の自覚を待つことにして、県吏に旨を含めて五家荘に派遣し、村の世話役を集めて維新の意義を説き聞かせ、鎖国主義を廃してどしどし他郷に進出することを勧めた。 世話役もその熱意に感動し、取敢えず二人の青年を熊本に送るから充分に教育してくれと、託されたのが即ち立川と丸山であった。
    (《城下の人 自分の足で歩む道》P.179〜180)


    東京

     食事を終え、熊本の話も済んで、甲斐和次郎を相手に輸出茶の近況、輸出入品の品種、数量、貿易の趨勢などを統計的に話し出したのを聞いているうちに、服装によって軽蔑の心を抱いたのが何だか恥ずかしくなって来た。 話によると兄の仕事は総て外人相手である。
     「そのような服装で外国語で応対するのですか。 外人が馬鹿にしませんか
     「会社には番頭手代小僧の三階級があって、番頭になれば洋服も着用出来るし馬車にも乗れるが、手代は仕着せで満足しておらねばならぬ。 社用の時も人力車だ。 何百万、何十万という大きな取引にかると番頭がやり、手代、小僧はその下働きをするだけだ。 しかしこの服装は日本商人の正しい服装だ。 日本人が日本の服装をするのに外人が笑う筈がないじゃないか」 と兄は微笑しながら言った。
    (《城下の人 東京》P.190〜191)


    宿の二階から街路を眺めていると、二頭立ての立派な馬車が走り去った。
     「おお正三、ご覧、あの馬車に乗って行くのは糸平という生糸の相場師だ。 自分では天下の糸平といっている。 元は信州の魚屋の小僧だったそうだが、今では外国商館を向こうに廻して生糸の取引で巨万の財を持っている。 わしはここに来てから糸平の遣り口をいろいろ研究したが、やはり秀れた手腕を持っている。 外国商館が繭(まゆ)が出廻って市場に生糸がだぶつき、相場が下ると買出す、高くなると買止めてまた安くなるのを待つ。 実に狡(ずる)い遣り方だ。 そこに目を付けたのが糸平で、商館よりも一歩前に、繭が出廻ると買煽る、糸価が騰(あが)る。 商館が狼狽して買出すとますます騰る、結局商館が渋々高い糸を買って、買止めをやる直前に今度は糸平が売りに出す。 糸価が忽ち下るという具合に商館筋を手玉に取っている形だ。 こうして彼は生糸貿易の実権を握ったのだ。 東京でも横浜でも馬車に乗っているのは大臣、参議の外は殆んど商人だ。 今の世に商人ほど活舞台の広いものはなく、まだまだ発展の余地がある。 智恵と手腕があれば思いのままに働けるのだから面白い
     兄の話を聞いているうちに商人に大きな魅力を覚えて、自分も実業界に入ろうかなと意志がぐらついて来た。
    (《城下の人 東京》P.191)


     九月になると、新橋から京橋まで鉄道馬車が開通した。 道路に鉄道と同じく二本のレールを敷き、その上を二頭立ての馬車が走るのである。 その評判は大したもので、乗心地についてかれこれ言う者もあれば、速力について噂する者、車掌の格好を真似て笑う者、人力車の強敵だと心配する者もあった。
    (《城下の人 東京》P.194)


     叔父は東京に来てからの私の行動に安心が出来なくなって、近衛師団砲兵連隊付中尉柴五郎氏(後の陸軍大将)の下に預けた。
    (《城下の人 東京》P.197〜198)


     叔父は戊辰の役に征東大総督府の幕僚として従軍し、会津若松城を攻撃した。 同城が陥落後、叔父が初代の青森県知事に就任していた時に、育英事業として会津藩士の子弟から二名を選抜し県庁の給仕として採用したことがあった。 その一人が柴五郎氏で、他の一人は山崎といい欧州に留学を命ぜられて、ローマに滞在中に死んだ。 柴家は上二番町にあった。 長兄は丈太郎といい会津の郡長であった。 長姉は望月家に嫁し一男一女あり、柴家に同居中であった。
    (《城下の人 東京》P.198)


     柴家に預けられてからは監督が厳重で遊び廻ることは出来ず、随分と窮屈であった。 叔父の家の一年間は、林田、高道、荒木の才知に充ちた連中と起居を共にし、一歩外へ出れば取締りのない不規律な学校に出入して、遊ぶことにのみ心を奪われ、何等将来のことも考える暇もなく、自由な日を送って危うく道を踏み外そうとしたが、柴家に預けられてからは五郎氏の監視のほかに、望月の小母さんは私に細心の注意を払い、教訓を与え、怠けることの出来ないように仕向けられた。
    (《城下の人 東京》P.198)


     「小母さん、合格しました。 これも皆さんのお蔭です。 有難うございました
     正座して通知書を出すと、
     「まあ、よかった
    と私の手から奪うように通知書を取上げて、じっと眺めていたが、やがて慈愛に満ちた眼差しで
     「入学したからには、今まで以上に勉強に励まなければなりません」と言った。 望月の小母さんも、私の浮かぬ顔に内心はびくびくだったのであろう。 柴五郎氏も「よかった、よかった」と、我がことのように悦んで私の肩を叩いた。
     私の合格は、柴氏や小母さんの熱意と督励による、つまり他力本願で入学したようなものであった。 野田の叔父も悦んだ。 兄は通知を出すと、大急ぎで横浜から上京して来た。
    (《城下の人 東京》P.200)


    若い人々

     人は苦しみにもれるが、楽しみにも(な)れるものである。
    (《城下の人 若い人々》P.218)


     東京に初めて出た時の驚きも、軍学校に入ってからの厳しい訓練も、或は母や妹たちが揃って上京して来た時の嬉しさも、兄真澄の三回に及ぶ不幸な結婚の結末も、いつかれ忘れて、その頃から平凡な生活が続いた。
    (《城下の人 若い人々》P.218)


     明けて明治二十年、士官学校の規則が改正されて士官候補生制度となり、私たち第十一期生は全部軍曹となって外出の時には帯剣を許された。 明治八年に廃刀令が出て帯刀を奪われ、十年の役の時に特に帯刀を許されたあの幼い日の悲しみと悦びが思い出された。 丁度十年ぶりの帯刀であった。 この年の七月、私が兄と仰いで敬愛していた橘周太君は、歩兵少尉に任ぜられて青森の歩兵第五連隊付を命ぜられ、横浜から汽船で青森に向かった。
    (《城下の人 若い人々》P.218〜219)


     私の一家にとって、この頃が一番平和な時代であった。 私の一家がそうであったように世もまた泰平であった。維新の大業はほぼ完成して薩長の勢力は動かし得ないものになっていた。 朝鮮、琉球に対する清国の圧力は激しく、いずれは日本の成長と衝突する勢いにはあったが、清国と事を構えるほど日本は強くなかった。 また国内においても薩長の勢力に抗するほどの集団もなかった。 士官学校に在学中、薩長閥に非ざれば軍界における栄達はあり得ないと言われ、維新の大業に遅れをとった熊本出身者は、これに抗するため幾度か団結を計ったがまとまらなかった。藩閥政治を打破して近代国家へ急進しようとする自由民権派の動きも、政府が次から次に大きく手をうってゆく近代化政策に押し流されて、人心を掌握するに到らなかった。 二百余年にわたる鎖国から解放されて、欧米の物心両面の文化が一時に流入されたのであるから、一般の市民はその珍しさ明るさに眩惑されたのは無理もない。
    (《城下の人 若い人々》P.219〜220)


     丁度そのように初めて東京にパッと電燈がついた。 私の家は倹約第一主義であったから、到底手が出せなかったが、一族の間ではまず野田豁通叔父の家に電燈が輝いた。
     「ほら、こうすれば点(つ)く、こうすれば消える
    と佳子叔母さんがパチリパチリとやって見せた。 野田の叔父は片手に茶碗を持ち、長い髭の口をへの字に結んで、まぶし気に電燈を仰ぎ見ながら、
     「どうじゃ、便利なもんじゃろう
    と自慢した。 ランプと行燈(あんどん)で暮して来た私にとっては驚異であった。ランプを天井に吊ると、その真下は暗いものであるが、この電燈というものは逆に真下が一番明るかった。 そのためか部屋が夜になっても広々と感じられた。
    (《城下の人 若い人々》P.220)


     この日から再び兄に不幸が来た。 生活をたてるために自分で事業を始めた。 まず日本橋区本材木町に関東石材会社という会社を設立して、当時興隆期にあった洋館建設資材を狙ったが見込み違いで失敗した。 次に四、五人の同郷人を誘って秋田県院内銀山の採掘を始めたが、これもまた失敗して、私たち一家の負債は重くなり、熊本に残して来た不動産も全部担保に入って、幾度となく差押えられた。 この跡始末に数年かかったが、兄はこの失敗の内容を母に秘密にしていたので、三井物産勤務の時と変りなく月々定まった生活費を母に手渡さなければならなかった。 この金は恐らく無理算段をして調達したものに違いなかった。 当時兄からその苦労話を聞いて、私も貰い泣きした憶えがある。
    (《城下の人 若い人々》P.225〜226)


     私ばかりではない。青年将校は誰でも楽でなかった。 支給日は毎月十七日だったが、これが二十四日に改正されたことがあった。 妻子を抱えた中少尉連中は一週間の食いのばしに困って、金策のため額を集めて密談した。
     「武士は食わねど高楊枝ということがあるが、食わない武士はまずあるまいて……とニヤニヤ笑って同僚の貧乏話を眺めている男があった。 この男は第一中隊付の下士官出身の少尉堤文造君である。
     「諸君も知っていよう。 徳川家康が天下を取ったのも金の力、細川幽斎公が徳川に屈服したのも金に縛られたからだ。 天下を取る者、一国一城の主(あるじ)となるもの、皆金の力である。 金で勇士を得、英傑を養って奴隷としたのだ。 大成するものは総て金銭を蓄え、金銭を善用した。 軍人といえども金銭の価値を知らぬ奴は、一生人の奴隷となって大成出来ん
    と常々士官室で気焔をあげていた男である。 同僚はことごとく彼を守銭奴の堤文造と言って軽蔑していた。 ところが彼を軽蔑していた連中も、月給支給日が一週間延びて忽ち参ってしまったのである。 彼と特に親しい者は一人もいないし、彼に借用を申し入れる勇者もなかった。 申入れて断られたら生涯の恥辱であろう。 それぞれ腹の中で畜生! と思いながら、じっと我慢して聞こえぬふりをしていると、彼は一同にいい気持で追討をかけた。
     「諸君、だいぶ困っとるらしいな。 気の毒に思うよ。 たかが一週間だ、一週間支給日が延びて青い顔をするようでは戦(いくさ)は出来んな。 軍人というものは、いつ戦場で仆(たお)れるか判らんものだ。 貯蓄の心掛けがなくて、どうして妻に後事を託して、安んじて死ねるんだ。 常々僕が諸君に言っておったことを、諸君は馬鹿にしておったらしいが、これでよく判ったろう。 今になって慌てるのは軍人の恥辱だ
    (《城下の人 若い人々》P.227〜228)


    天皇と皇后

     明治二十四年五月十二日午前一時、真夜中の兵営に非常ラッパが鳴り渡った。
     週番勤務中だった私は、機械的にベッドから飛び出して耳を澄ませた。 確かに非常ラッパである、手早く軍服を着用して、闇の中を何事であろうかと、手さぐりで週番中隊長の部屋に駈けこむと、ほとんど同時に八名の週番士官が集合した。 週番中隊長は直立不動の姿勢で、顔面をひきつらせて待っていた。 薄暗いランプの光にギラギラする眼で私たち八名の士官を点呼した。 声がふるえていた。 私たちの心臓は早鐘を打ち出した。
     「重大な事件が起きたことを伝達する。 ロシア皇太子は滋賀県大津市において、兇漢のために負傷された。 畏くも天皇陛下におかせられては、事重大なるにつき本十二日午前五時新橋駅発の特別列車にて京都に行幸される旨仰出(おおせいだ)された。近衛諸隊は正装して午前三時三十分までに営内に整列待機すべし。 遺漏なきよう
    (《城下の人 天皇と皇后》P.229)


     やがて自宅から非番の将校連も迎えの馬に跨って駈けつけて来た。 営庭の雨に濡れた葉桜を通してカンテラの焔が無数にゆらめいていた。 下士官がそれぞれ受持の班を整列させて点呼すると、兵が一名足りない。 点呼をやり直してみたが、やはり一名足りなかった。 部屋に飛び込んで捜索すると、かすかに泣声のような声が聞こえて来る。 その声を頼りに近づくと、一名の兵がベッドの下に隠れて声をあげて泣いていたのである。 班長が引っぱり出してビンタを食わせようとするところに、私も駈けつけて押しとどめた。どうしたんだ! 皆が捜しとったぞ! と言っても涙を流すばかりで答えない。 私は彼のふるえる腕をとって士官室に引っぱってゆき、班長を営庭に帰してから、努めて静かな調子で言った。
     「お前は考え違いをしておるな。 天皇陛下が急に京都に行幸されるので正装して御伴をするのだ。 お前は何を考えておったのか言って見ろ
     兵士は涙に濡れだ眼をあげて、ふるえる口辺にやっと微笑を浮べた。
     「申しわけありません。戦争が起ったので整列……と聞きました。 軍人ですから覚悟はありますが、余り突然だったので、びっくりしたのであります。 郷(くに)には親もいますし、女房もおりますので……お別れをしておったのであります
     正装戦争の聞き違いと判って、私は大声で笑った。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.231)


     明治二十四年五月十一日午前八時三十分、ニコライ皇太子ギリシャ親王ゲオルギス殿下の一行は京都の常盤旅館を出発、人力車を連ねて大津市を訪ね琵琶湖の風景を楽しんだ後、午後一時三十分頃京都へ帰途に就いた。 その行列は物々しいもので、人力車四十余台、皇太子のほか接伴委員長有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王、陸軍中将川上操六沖滋賀県知事などを初めとして、皇太子の随員多数も加わり、一列に車を連ねて、その長さ二百米(メートル)に及んだ。 この長い行列が日章旗と提灯に飾られた市町筋の下小唐崎を町民の礼拝のうちに通過して行った時、警戒中の巡査津田三蔵が皇太子に挙手の礼をして見送ってから、突然帯剣をを抜いて追い縋るように二度斬りつけたのである。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.232)


     大津事件湖南事件ともいう)も、このようにして、どうやら無事に納まり、国民三千五百万ホッと胸を撫で下ろした。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.241)


     兄真澄の事業の失敗続きで悪戦苦闘していた私の一家にも、明けて明治二十五年、ようやく安定の春が来た。三井物産に勤めていた頃、横浜支店長であった馬越恭平氏が、創業三年で行詰った恵比須麦酒(えびすビール)会社(現在サッポロビール株式会社)を引き受けて再建することになり、その支配人として兄を起用したのである。 三井物産当時の兄は苦労が足りなかった上、馬鹿正直と言われるほどの正直一点張りのために、馬越支店長とも激論することが度々であり、ついには益田重役の激怒に遭って職を辞したが、その後の兄を導いた運命は次から次にと、気の毒な失敗ばかりであった。 それにも拘らず生まれながらの孝心と正直をそのまま頑固に持ち続けて、右に転び左に躓(つまず)く姿を黙って眺めていた馬越恭平氏は、その頑固さに、いつしか惚れこんでいた。 兄真澄にも異存があろう筈はなかった。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.241)


     「君の起用を決めた理由は簡単だ。 これからの事業は、御一新前のように個人の手腕力量だけではやれない。 資本と信用と組織だ。 けれども、その中で一番大切なものはやはり昔通り信用だ、信用だけは買うことも譲ってもらうことも出来ないものだ信用のない人間を集めて、いくら立派な組織を作っても、いくら莫大な、資本を積んでも事業は成功しない。 君が生れながら備えている正直と誠意を信用して、この事業の再建をまかせたい
     馬越恭平社長はこのように語って協力を求めた。 また同時に、私の母に対しても諒解を求めて言った。
     「良い御子息をお持ちです。 人は勉強によって術を得ることは出来ます。しかし誠意を得ることは出来ません。 生まれながらに備わった誠意というものは、数万貫の鉱石の中から掘り当てた宝石のように貴いものです
     こうして馬越社長は支配人としての兄に再建の重責を託したのである。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.241〜242)


     私にとっては忘れることの出来ない明治二十六年十月二十五日。 靖国神社裏手の麹町区三番町の母の家に、本郷源三郎を招いて、事の次第を報告して婚約の内諾を取消した。 すると、本郷源三郎は急に坐り直し、両腕を張って握りこぶしを両膝に置いて私を凝視した。 私はハッとした。
     「石光、貴様は何気ない様子でそんなことを言うが、事実、何気なしに言っとるのか
     私は本郷が気を悪くしないように、努めて何気ない風を装っていたし、前に内諾を伝えた当の私が断るのであるから、まことに照れくさくもあったのである。 私は返す言葉もなく、
     「済まぬ……
    と言って首垂(うなだ)れた。 けれども本郷は承知しなかった。
     「はっきり理由を聞こう。 貴様の家は、れっきとした士族だ、俺の家は百姓だ。 時代は変って、貴様も俺も、こうして同じ軍籍にあるが……しかし家柄は違う。 それが理由なら致し方がない。 それが、理由ならな……
     「違う。 そんなことを言う時代でもなし、家柄がそんなに大事なら、この十年間、貴様と親しく交際はしてらん筈だ
     「では、なんだ。 さっき言った易断か
     「俺としては不本意だが……それだ
     本郷はじっと私を睨みつけていたが、次第に怒気の昂まってゆくのが、その気息から知れた。
     「それなら聞くが、貴様はこの十年間、俺を信用して交際していたのか、それともやむを得ず……迷惑ながら交際しとったのか。……さあ、返事をしてくれ。 俺たちは、もう子供ではないからな
     私は再び言葉に窮した。 すると、本郷は荒々しく言い放った。
     「無理に返事はしてもらわんでええ。 貴様は今日まで俺を信用して交際してくれたと思う。 そう信じよう。 そして婚約を内諾してくれた。 心から礼を言う。 だが、今日限り貴様との交際は打切る。たかが素人まがいの易者の言葉を信用して、十年の友情を裏切るような奴を、友人に持てるか。 俺の恥辱だ。 絶交する!
     「そうか。それまで言うか。 それなら仕方ない……俺も言おう。 俺としては親子兄弟の間で、十分語合った末だ。 易者の言葉が正しかろうと、間違いであろうと、そんなことはどうでもよい。 問題は……現に母親が心配しておることなんだ。親に逆らわなければ、保てんような友情なら、俺の方からもお断りする。 親兄弟と義絶してまで、貴様と交際する気はない。 俺の、この心中を察し得ないような奴は、俺の親友ではない。 ありがたく絶交してもらおう!
     「よかろう。 完全に意見は一致した。 おい、石光、君子は交りを絶つも悪声を放たず、ということがある。お互いに謹慎しよう
     「よかろう
     私は何か言い継ごうとしたが言葉が出なかった。 本郷はすぐ立ち上り、帯剣の音をひびかせながらさっさと玄関から出て行ってしまった。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.246〜248)


     橘周太は休日には必ず家にいた。 その頃の彼は軍における教育制度の研究に熱中しており、陸軍将校団教育令を初めとして、彼の起草によって施行されたものが尠くなくない。近衛歩兵第四連隊に勤務の傍ら、寸暇を惜しんで机に向かっていた。 私が訪ねた時も、例によって紺がすりの木綿の着物の前をキチンと合わせて細筆をとって机に向かっていた。連隊における兵の教育指導要綱を起草中であった彼は、私を悦んで迎えた。 和服姿の時にも、背骨をまっすぐに伸ばして、両手を机の上に拡げて人に対する癖があった。 彼の生真面目な清潔な、そしてなごやかな微笑に会うと、私は本郷源三郎に、今しがた絶交されたいきさつを訴える気にはなれなかった。 彼は半紙に細字で書き綴った草稿を私に見せて批評を求めた。 このような仕事を彼は楽しんでいたように思われる。
     「……兵汗を拭わざれば拭うべからず。 兵休まざれば休むべからず。 兵食わざれば食うべからず。 兵と艱苦を同じゅうし、労逸を等しゅうする時は、兵も死を致すものなり。信用は求むるものに非ず、得るものなり……
     「信用は求むるものに非ず、得るものなり
     私の眼はこの短い文章のところに釘付けになって幾度が繰返して読んだ。 私の賛辞を橘周太は悦んで、自分でも静かに読み直した。 私は手帳を出してこの部分を写しとってポケットに収めた。 橘周太という人は、本当にこの文章の通りの人であり、この文章の通りに行動して、兵と共に戦場に果てた人である。 後世軍神に祀られてからは、鬼神も泣かしめる勇壮な荒武者のように伝えられてしまったが、左様な人柄ではなかった。 伝来の武士道の厳しさと美しさを、新しい軍律の中に生かした所謂新日本の軍人精神の基礎を築いた人であった。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.248〜249)


     「……信用は求むるものに非ず得るものなり……」 「貴様は俺を信用して交際しておったのか、いやいやながら交際しとったのか」 「親に逆らわなければ保てんような友情なら、悦んで絶交してもらおう」 「よし、意見は一致した、君子は交りを絶つも悪声を放たず、ということがある、お互いに謹慎しよう」 橘周太の家を辞して自宅に帰る道すがら、私の頭の中には断片的に激しい言葉が爆発しては消えた。 「信用は求むるものに非ず……」 私は本郷源三郎に、これ以上釈明して友情を無理に取り戻すことはやめる決心をした。いつかは判ってくれる時があるだろうと、風の吹き通るような空疎(うつろ)な胸を抱いて夕景のお堀端を歩いて、わが家に帰った。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.249〜250)


     「永らくの勤務、大儀でありました。 軍務多忙の時です。 折角身を大切に御奉公をするよう望みます
    というお言葉を賜わった。 御前を下ってから次の間で、三宮主事から左の御下賜品があった。
      金一封(五百疋)
      越後上布 一反
      はこせこ 一個
      硝子コップ 一対
     この御下賜品を戴いて連隊に帰ると、営内の空気は見違えるように引きしまって、ただならぬ空気がみなぎっていた。 日清両国の交渉が正に決裂しようとする寸前だったのである。
    (《城下の人 天皇と皇后》P.255)


     出征の記

     明治二十六年から二十七年にかけて、当時の私たち青年将校には詳しくは判らなかったが、朝鮮をめぐる国際情勢は緊迫していた。 私が幼年学校に入校する時、受験勉強のために身を預けた会津出身の柴五郎中尉(後の陸軍大将)は命を受けて大陸に渡り、福州に潜んで写真屋を開業して、清国の動向を調査していたし、その他にも多くの有為な先輩たちが軍服を脱いで大陸に渡って特殊任務に就いていた。 その報告は、勿論私たちの知り得るものではなかったが、国難近きを思わせるに十分であった。 私が士官学校在学中に、同期生であった朝鮮の親日派の留学生朴裕宏君が、母国の窮境にあるを嘆いて自殺を遂げたことは、若い私たち同期生の胸を打った事件であったが、その頃から朝鮮の政情は混沌として、清国派の事大党と親日派の独立党とが互いにクーデターを繰返し、親日派の金玉均も明治十七年に敗れて日本に亡命していたが、二十七年に政府党のために国外に誘い出されて暗殺された。 その後間もなくの、二十七年五月、東学党の反乱が起こって内乱に発展し、朝鮮政府の力では解決出来そうになかった。 清国は直ぐ出兵の体勢をとったので、日本も兵を送って、共同して反乱を鎮定した。 日本としては、中立の立場をとる朝鮮の独立政府が望ましかったので、清国側と協議したが、清国はこれに応じないで却って増兵し、武力で属国化の体勢をとったので交渉は決裂してしまった。
    (《城下の人 出征の記》P.256〜257)


     このような事情にありながら、日本は国運を賭けて宣戦しなければならなかった。 維新以来、海外の経済力、軍事力が、東洋の植民地化を目指して犇(ひし)めいていたが、日本はこれに抗して急激な近代化を断行し、このためには多くの血の犠牲もあったし、武士階級の痛々しい没落もあった。 けれども日本の工業力はその近代化の点では、はるかに清国を凌いでおり、そのうちでも繊維製品は朝鮮を最大の市場として進出していたのである。 急激な近代化のためには、生産機械も武器も交通機関も、輸入に仰がなければならなかったので、この貿易収支の均衡をとるためには輸出市場の安定が必要であった。 日本が朝鮮の中立と独立を支持したのはそのためであった。 しかも世界最強を誇るロシアと、眠れる獅子の清国の圧力下にあった日本としては、緩衝地帯としての朝鮮が安全であって欲しかった。 この均衡が破れたのである。 近代化の途上にあった日本は、植民地化の圧力に抗して独立してゆくために、重大な賭をしなければならなかったのである。
    (《城下の人 出征の記》P.257〜258)


     世間は騒然となった。討てや懲らせや清国を! ややもすれば恐怖に追いこまれがちの国民を鼓舞する歌がうたわれ、部隊を送る万歳の声が全国に満ちた。
    (《城下の人 出征の記》P.258)


     ところが、案ずるより生むが易いというものか、緒戦の戦果は素晴らしかった。 まず第五師団が朝鮮に上陸して牙山成歓の敵を追って平壌に立籠った左宝貴の精鋭を破って北上し、ついに鴨緑江を渡って満州に進出、続いて第三師団海城から営口に、第一第六師団旅順に、第二師団威海衛に……とわれわれ自身が驚くほど、予想外の勝利を占めて行った。 これらの勝報に全国は湧返ったので、宣戦当時の恐怖に近い衝撃は消えて、街を歩くわれわれ青年将校は得意であったし、また私の属する近衛師団には、まだ動員令が下っていなかったし、また独身でもあったので後事の心配もなかった。 こんなわけで、私たち近衛の青年将校は、勝報の度に酒盃を挙げて日本の前途を祝ったものである。
    (《城下の人 出征の記》P.258)


     酒盃を挙げる……と言えば、その頃から兄真澄の経営する恵比寿ビールが軍でも大いに用いられ、戦地にも大量に送りこまれて行った。 時代もよかったろうが、兄の苦心と叔父野田豁通(当時野戦監督長官)の斡旋が大いにあずかって力となったのである。 これでビール会社も拡張を重ねて大企業に発展する見込がつき、私たち一家の経済的破綻も、少しずつ癒えて行った。 と言っても熊本の不動産まで担保に入れた莫大な負債は、母に秘密のままに、兄は利払いに追われていたから、兄はこの戦時景気に乗って一挙に挽回しようと考えた。 幸いにも叔父野田豁通野戦監督長官として広島大本営にあって、軍需品購入の最高責任者であったから、兄は一時御用商人となって、あらゆる軍需品を買い集めて納入した。 上司の馬越恭平社長は、三井物産に在職中、輸入軍需品の購入責任者が野田豁通であって、前々からの知己であった関係から、今回の兄の仕事を許したばかりでなく、援助も惜しまなかったのである。 この仕事で漸く私の家の負債約三万余円は全部返済することが出来たばかりでなく、それまで兄も知らなかったことであるが、叔父野田豁通自身の、兄に劣らぬ約二万円の負債まで、兄自身の手で返還することが出来た。 野田豁通は、このように永らく軍需品購入の責任者であり、後に主計総監、男爵として歿したのであるが、自分で利を貪ることは生涯しなかった清廉の人であった。 しかも私宅には常に五、六名から十名ほどの書生を養って人物を養成していた。 特に出色の人は後藤新平(後の外内務大臣)、斎藤実(後の総理大臣)などで、私自身も熊本から出て来た時に、多くの書生の仲間入りをしたことがあった。 このような太っ腹の義侠心のために出費も多く借金が出来たものであろう。 兄の手で借金は一応なくなったが、野田の叔父が死んだ時は、清算したら、その後も借金が積まれて行ったものと見えて結局マイナスであった
    (《城下の人 出征の記》P.258〜259)


     その日の夜、大隊付の二等軍医細堀鎌治君が、ぶらりと訪ねて来て、しばらく喋っていたが、退屈したので街に散歩に出た。 大本営の設けられた広島は大変な賑わいで、街には故国に名残りを惜しむ兵士が満ちており、料亭、遊郭も、軍人や御用商人で何処も満員であった。 私たち二人は芝居小屋などをのぞいていたが、賑わいに誘われて遊郭の内に入った。 入って見ると此処は全くの別天地で、三味太鼓の音に浮かれて嬌声が満ちていた。 その頃、遊郭のひやかし客には一般の婦女子も沢山混っていたもので、張店を囲んで牛太郎の呼び入れを面白く見物していた。 この賑わいの中を二人でブラブラ歩いているうちに、尿意を催した細堀軍医が、暗がりの横丁に入って立小便を始めた。 すると、まことに運が悪いとはこのことであろう。 ひょっこりと憲兵上等兵が現われて細堀軍医の肩を叩いた。
    (《城下の人 出征の記》P.266)


     「もし、もし、此処を何とお心得ですか。 往来です。 お判りですか
     細堀軍医は途中で止められなかったと見えて、長小便の流れが往来にまで流れて、漸く前のボタンを締めながら向き直り、憲兵上等兵を見てシマッタという顔をした。
     「お見受けしたところ将校の御身分ではありませんか。 往来であることがお判りになりませんか
     言葉は丁寧であったが、詰問的でありしつっこかった。
    (《城下の人 出征の記》P.266)


     コレラと青竜刀

     私は実戦の経験がなかったが、円陣を作っている部下に、地物の利用法連絡のとり方を、ひと通り注意した。 それが終ってから兵士たちは、銃の手入れ、弾薬盒の検査をしながら軽口を叩いていた。
     「いいか、ぬけがけの功名などは、よろしくないぞ。 あんなことは、昔の話だ。 今の戦争は協力一致でゆかねばいかん
     「つまり小隊長を中心に、命令通り動いとれば、いいんだろう
     「小隊長も初陣だし、俺たちも初陣だ。 たまには小隊長も、まごつくことがあるだろう
     「その時は小隊長と一緒にまごついていればいいんだよ、下手に気の利いたようなことをすると、却って隊全体が、ばらばらになって、ひどい目にあうぞ
     「今まで鉄砲玉という奴は、必ず俺たちの方から向うへ飛んでいったもんだが、明日(あす)の朝からは、向うから俺たちの方に飛んで来るんだぞ、気をつけろよ
     笑声の中で話している兵士たちの言葉は、素朴な表現だが、時々、成程と感心することがあった。 こんな深い山の中で、暗いカンテラの光を頼りに、銃の手入れをしながら、兵士たちがこんな話をして笑い合っているのを、もし仏様とか神様とかが御覧になったら、この中の一人でも死なせたくないとお考えになったに違いない。 若い私でさえが、素朴な愛すべきこの兵士たちの一人でも、傷つけたくないと思ったのだから……。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.277〜278)


     「貴様は村の中で敵を見たか
     「薄暗くてよく判らなかったが、道路で渡り合っていた奴が敵だったろうが、よく見えんだった
     「それが本当だ。 俺は山の上の安全な所で見ておったのでが、それでも戦闘が始まると薄暗くなって、よく見えんだった。 しばらくして、ようやく見えるようになったんだが、敵味方が乱れて、えらい白兵戦だったぞ
     こんな話を交わしてから、私は小隊の者を集めて点呼した。 幸いにも犠牲者がなかった。 この時、突然附近の民家から、真青な顔をした敵兵が一人、青竜刀を振りかざして、小隊の中に飛びこんで来た。 恐らく逃げ場を失って飛び出して来たものであろう。
     私は初めて軍刀を抜いて立ち向かい、二、三合渡り合うと、敵兵は青竜刀を抛(ほう)り出して、ひっくり返った。 私は夢中で胸のあたりを刺して止どめを食わせた。 あとで井手口寅吉に聞くと、井手口が背後から銃剣で敵を突き刺して倒したのだそうである。 これが、生れて初めて私が斬った男であった。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.280〜281)


     村落内の掃討が終り、死傷者を収容してから、師団長北白川宮能久親王殿下を初め、師団司令部の幕僚たちが瑞芳に進駐し、砂金公署内に司令部を置いた。
     以上が私の生涯における初陣の経験である。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.281)


     瑞芳で初めて戦争を体験した時は、眼先が暗くなり、腰が浮き上って、この世の思いもなかったが、二度、三度と、敵を追ってゆくうちに、だんだんと敵兵の姿も見えるようになったし、地形を考えて兵を指揮する度胸も出来た。 最初は、私は自分が意気地なしだと思っていたので、敢て自分の体験を人に話さなかったが、夜営の思い出話に、戦友たちの間にも、ぽつぽつ本当の体験談が交わされるようになった。 それによると、お互いの初陣の気持は、似たり寄ったりであったので、安心した。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.282)


     瑞芳から敵を追って基隆(キイルン)を占領し、続いて台北に入った。 総督樺山資紀大将角田秀松参謀長等が幕僚を従えて乗り込み、六月十七日に施政式が行われた。 これが意外にも台湾占領の犠牲者を多くする原因になったのである。 というのは、式後に台北駐在の部隊の分列式をしたのであるが、これが余りに少数で、せいぜい一連隊ほどのものであった。 式には台湾側の代表者は勿論、一般の市民も見物していたが、台湾側は意外の感に打たれたのである。
     「こんな少数の軍隊だったのか。 唐景松将軍は、数十万の日軍が来襲したと信じて退却したのだ。 こんなことなら、いずれ逆襲して日軍を追い払うだろう
     この情報が敵側に達してから、台湾軍の抵抗が強くなって、各地にゲリラ部隊民兵が蜂起して、ひどくわれわれを悩ました。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.282)


     すると、この時である。
     「待ってくれ! 首を取られる!
     という絶叫が後ろに聞えた。 見ると兼氏谷五郎という二等兵が、出遅れて窪みの中に取り残されてしまったのである。
     「馬鹿野郎! 貴様一人のために待てるかっ、首を取られたら自分で抱えて来い!
     私がこう怒鳴って飛び出すと、兼氏二等兵も勇気が出たと見えて、飛び出して来て合流した。 妙なもので、五十倍の敵兵が真昼間の戦場で、僅か二十名のわれわれの勢いに気を呑まれて、呆然と見送ってしまったのである。 お蔭で一人の負傷者もなく帰還することが出来た。 戦争にはこのようなことが多いものである。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.283)


     「炊煙の具合から見ると、どうも三、四百の数らしいが、二日間、間断なく砲撃しても全然退却しない。 やむを得んので、決死隊を組織して、十名が目下土塀に爆薬をしかけとる最中だ。 これが成功して、土塀に穴があいたら本郷中隊が突撃することになっとる。
     大隊長の説明のように、絶交した同期の秀才、本郷源三郎中尉は、大体本部から約一丁ほど前進して、兵士を伏せて待機していた。 彼が同じ戦線に出ていることは、もとより知ってはいたが、戦闘の激しさに忘れていた。母のことも亡兄のことも、また本郷の身上(みのうえ)も妹真津子の身上も、嘘のように心に浮んで来なかったのである。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.287〜288)


     爆薬が破裂した。 大隊長も私も、また前身陣地の本郷源三郎も、双眼鏡を眼にしてジッと先方を見つめた。 爆煙が風に吹き去られると、土煉瓦塀の破壊個所が現われた。 ……だが、それは狭い通路にしかなっていなかった。 決死の十名は起き上って、さっと土煉瓦塀の中に吸いこまれて行った。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.288)


     だが……本郷源三郎は石像のように突立ったまま、突撃の命令も下さず、ジッと先方を眺めていたのである。 やがて、敵兵に捕われた十名の決死隊が、裸にされ、煉瓦塀の上に引きずり上げられた。 そして、耳をそぎ、鼻を落し、手を斬り、足を断って、嬲り殺しにして、塀の外に投げ棄てられたのである
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.288)


     七月の下旬になると、新竹城警備の二百余人のわが中隊も、健康者は僅かに八十名になってしまった。 ほとんどがコレラであった。 私が十歳の時に体験した熊本の西南戦争(明治十年)にもコレラが流行し、明治十九年にも全国に大流行して、兄真澄の妻満子も東京で急死したのであった。 この頃まで、コレラの予防法も治療法もなかったので、成りゆきまかせの状態であった。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.290)


     病者が多くなると警備にも差支えて来るので、下痢を始めた者も、我慢の出来るだけは我慢して、健康者と一緒の行動をとっていた。苦しくなると横になるが、食事も同じ、便所も同じで、しかもが群をなしていたのであるから、これでは、どんどん伝染するのが当り前であろう。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.290)


     いよいよ苦しくなって、下痢が続いて、水を飲んでも吐くようになると軍医の診察を受けて入院する。 入院ときまれば、死の宣告と同じであった。 戦友に今日までの礼を言い、遺言を述べて、担架で運ばれて行った。 入院と言っても、何の治療も出来なかった。 病室には硝石灰を厚く撒き、その上に(むしろ)を敷いてあるだけで、病室と言うより、死体置場であった。 この蓆の上の数カ所に、水を満たした桶が置いてある。 コレラという病気は、ひどい下痢と吐瀉のために、身体の水分が欠乏してくるが、飲めば吐いてしまう。 こうして苦しみながら死んでゆくのであった。 渇に堪えかねて、下痢をしながら、吐きながら、身を引きずるように、石灰にまみれて、水桶にたどりつき、水を飲み、水を吐き、そして死んでいった。 死体は蓆で巻き、三カ所を麻縄で締めて、名札をつけてから、東門外で、火葬された。 こうして、病死者の数は戦死者の十倍に達したのである。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.290〜291)


     私も、ついにコレラに罹った。 便所でひどい下痢をして兵舎に戻り、井手口寅吉を呼んだ。
     「おい、やられた……
     井手口はすぐ覚った。 私の顔色が変っていたのであろう。
     「中尉殿、大丈夫であります。 井手口がついております。 自分が必ず癒してさし上げます
     そう言って、部屋に病床を作った。軍医に報告すれば入院させられ、必ず死んでしまうから、この部屋で秘密に治療しようと言うのであった。 私は自分の運命を彼に委せた。 井手口はビール壜を五、六本集めて来て、その中に熱い湯を入れて、私の腹に当てた。 冷えて来ると、順々に熱い湯を入れては腹に結びつけて不眠の看病が始まった。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.291)


     「中尉殿、下痢が出そうになっても、出さないで下さい。我慢して下さい。 いいですか、決して出してはいけません
     私が堪えられなくなると、井手口は手の親指で私の肛門を押えて下痢を止めた。 遂には疲れて来たのであろう、足の踵(かかと)で私の肛門を押えて夜を徹した。
     「おい、井手口、済まん、ありがとう、こうまでされれば、僕は死んでも悔いないよ
    と言えば、井手口も泣声になり、
     「中尉殿、しっかりして下さい。 弱いことを言ってはいけません。 必ず、必ず井手口が癒して差し上げます
    と寝台に縋りついて肛門を押えたまま、泣き出した。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.291〜292)


     こんな治療方法に効果があったものかどうか、私には判らないが、医薬品もなくなっていたし、治療の方法もなかったから、窮余の策として、兵士たちの間で田舎の民間療法でも思い出して、始めたものだと思われる。
    (《城下の人 コレラと青竜刀》P.292)


     周花蓮

     やはり敵は、その時をじっと待っていたのである! 城壁上に一斉に敵兵の黒い姿が現われて、小銃を浴びせて来た。 わが方の掩護射撃も一斉に火蓋を切って落した。 すると、思いがけないことに、城壁上から真白い煙が濛々と立ちこめて、あたり一帯が見えなくなり、梯子を登りかけた兵士たちが転がって落ちて来た。石灰を大量に撒いたのである。 この戦闘の有様は、まるで戦国時代の絵巻物を見るようで、こんな戦法は私たちが教えられた戦術にはなかった。 掩護射撃も出来ないし、梯子の兵士は眼が開けられなかった。 一斉に退却ラッパが鳴った。 死傷者を収容し、本部で更めて戦法が練られた。
    (《城下の人 周花蓮》P.296〜297)


     再び猛烈な砲撃が加えられて、やがて、前と同じように歩兵隊が進撃した。 新戦法と言っても大したものではなく、麻袋などで饅頭笠のようなものを作って被ったり、携帯天幕を頭から被ったり鼻や口にマスクをかけたりした程度で、掩護射撃のもとに、再び梯子を登り始めた。 敵は前と同様に石灰を滝のように撒き散らし、今度は石塊煉瓦まで降らせた。 このために、わが方の損害は多く、午後になっても、城壁上に取りつけずに、敵も味方も旧式な戦法を繰返していた。
    (《城下の人 周花蓮》P.297)


     もうすでに勝敗のけじめがついたのに、混乱した敵の残兵は、ばらばらのままで勇敢に抵抗した。 狭い城壁の上で、赤い房のついたを揃えて突かんしてきたり、青竜刀を揮って襲いかかって来た。 敵も味方も、城壁上に満ちた戦死者を踏んで肉弾戦を演じた。 だが……これも一時間ほどで静かになった。
    (《城下の人 周花蓮》P.267)


     私は味方の死傷者を収容し、部下の死体の血を一人一人、寄せ書の日章旗に滲ませてポケットに収めた。 重傷に喘ぐ敵兵や、意外に多かった残留市民の悲惨な重傷者は、見るに忍びず、止(とど)めを刺して歩いた。 一応場内の掃討も済んでから、私は朝からの戦闘に疲れを覚えて、崩れた望楼の石段に腰を降して休息した。辺りは敵兵の死体で埋まっており、足元には赤黒い血が一面に流れていた。 私が煙草をつけると、兵士たちも思い思いに、煙草を出したり、水筒の水を飲んだりしていたが、誰も、魂を奪われたように呆けて、無口であった。
    (《城下の人 周花蓮》P.267〜268)


     夢と現実

     嘉義城占領が台湾討伐の山で、それ以後は塩水港で多少の抵抗があったほかは、台南入城まで敵の片影すら見なかった。黒旗軍の本拠台南は必ずや激戦地になるものと思っていたが、彼は不利を覚って、一斉に支那大陸へ引揚げてしまった。 二十八年十月二十二日台南入城、十一月十一日台南を出て打狗港から和泉丸に乗船して母国へ向かった。
    (《城下の人 夢と現実》P.305)


     隣の大国と初めての本格的な国際戦争に、われわれは個々の命を賭け、国はその歴史を賭けて戦った。 そして、われわれ日本人としての自信を得、維新後に急激に近代化した新しい日本国も、世界の一員として、その位置を占める自信を得た。
    (《城下の人 夢と現実》P.305)


     私たち軍人が、この初めての外地の戦いを通じて得た経験は、貴重であり、豊富でもあった。 ことに私たちが悩まされたものは、予想しなかった敗残兵の土匪化流行病であった。わが軍の犠牲は、ほとんどが、この二つによるものであったと言ってもよい。 師団長北白川宮殿下外山師団長をはじめ、多くの将兵がコレラマラリアに仆(たお)れた。 その数は戦死者の十倍であって、軍衛生設備が無に等しいことを示していた。 将兵はこの惨憺たる戦場に堪えて、勝利を収めたのである。
    (《城下の人 夢と現実》P.305〜306)


     私たちを日の丸の小旗で送った新橋駅に、再び日の丸の小旗に迎えられて、降り立ったのはあれから八カ月ぶりの十一月二十二日であった。 新橋駅に着くと、今は亡き、出発の日の兄真澄の姿が眼に浮んで来た。私に握手をして別れたのはこの辺であったなあ……と、当時を偲びながら、小隊をまとめて沿道の市民の歓呼と軍楽の渦の中に巻きこまれ、いくつかの杉の葉で作られた凱旋門を潜り、胸を張って原隊の留守部隊に迎えられた。
    (《城下の人 夢と現実》P.306)


     日清両国の間で調印の済んだ平和条約によって、台湾と遼東半島が日本に割譲されたが、ロシア、ドイツ、フランスの共同干渉によって、日本は一週間後にやむなく遼東半島の放棄を宣言しなければならなかった。 政府は国民に臥薪嘗胆を説いて軽挙を戒めたが、国民の悲憤は容易にはおさまらなかった。 ことに、山野を血で染めた惨憺たる戦いの犠牲を、自分の眼で見て来た私たちの悲憤は、一層おさまり難いものであった。 遺族の消息や、廃兵の姿に接するたびに、私の胸には次第に深い傷痕が刻まれていった。
    (《城下の人 夢と現実》P.306〜307)


     国と国との、民族と民族との、生きる戦い、子孫のための戦いの激しさを、私たちは血煙と絶叫のうちに、見せられ聞かされたのである。 やがては、大ロシア帝国の侵略に脅かされて、再び国の運命を賭けて戦わねばならない時が来るであろう。大津事件でロシアが寛大な態度をとって、破綻(はたん)を喰いとめたのも、結局は将来を期してのことであろう。大清国には勝っても、大ロシア帝国には……考えただけでも戦慄を覚えた。 ロシアも、このことあるを期して、遼東半島の日本帰属を排除したのである。この地に軍港と陸軍基地が設けられれば、やがて来るべきロシアの満州侵略の邪魔であろうから。
    (《城下の人 夢と現実》P.307)


     私はロシア研究の必要を感じた。 当時軍界にあって、ロシア研究に手をつけ始めた人は、先輩の村田惇砲兵大佐、田中義一(後の大将、総理大臣)歩兵少佐のほか二、三の人々に過ぎなかった。
    (《城下の人 夢と現実》P.307)


     石川要領少尉には、その後ずっと合う機会がなかったが、日露戦争の真最中、私が第二軍司令官奥元帥の戦線視察に随行して、第四師団の戦線に行った時、偶然、石川大尉に会った。中隊長として歴戦の強者であり、同期の大半が死傷しているのに、かすり傷一つ負っていないことが、第二軍内で有名だったのである。 その話を聞いた時に……ははあ、例の要領でいっとるな……と私は秘かに微笑したのである。 さて本人に戦場で会って見ると、眼の坐った歴戦の勇士になっているので驚いた。 私の質問に対して彼はこう答えた。
     「秘訣も何もありませんよ。 戦場における生死というものは、理屈では判らん。 だが……コツというか、要領というか、大事なことが一つある。 例えば機関銃が幾十挺も敵陣に並んどって、四十五度に銃口を搖動して発射すれば、地上は隙もないほど、弾丸の流れに掩われとる筈だが、この中を伝令使が飛び交ったり、中隊長、小隊長が位置を変えて指揮をとっても、死なん奴は、死なんように出来とるんだ。 戦場に来たばかりの新参者は、とかく、新兵でも、参謀でも、副官でも、びくびくしたり、まごまごしたり、また妙に肩を怒らせて強がったりするものだが、こんな奴が死ぬんだな。……僕は強がりは嫌いだよ、無暗に死ぬことは、ないからな。 僕は必ず、円匙(えんぴ)を指揮刀の代りに持って突撃することにしとる。無理をせんで地に伏せる。 そして頭を埋める穴を掘るんだ。 氷結しとる時は、周囲から土の塊りでも、木片でも何でも、掻き集めて山を作って、頭をかくすんだ。 大砲と小銃の爆音で、耳がオーン、オーン鳴り、眼が灰色に霞んで来るような時だって、あわてちゃ、いかん。 この中を吶喊(とっかん)する時は、僕は円匙を片手で軽く握って……この軽く握ることがコツさ、軽く握って顔の前に突き出して吶喊するんだ。 仮りに小銃弾や、砲弾の破片が、この円匙に当っても、カーンという音を立てて、はじかれてしまう。 軽く握ることは中々出来んもので、緊張しとると、つい強く握ってしまう。 そうすると、小銃弾は結構円匙を貫いて……名誉の戦死ということになるのさ。 吶喊の目標だって同じコツがあるんだ。 無暗に敵陣ばかり目指して進むから死ぬのが当り前なんだ。 向う様は殺そうと待ち構えているんだからな。戦場というものは、殺し合う場所に初めっから決まっとるんだから、この裏をかけばよいのだ。 進む時は敵を相手にするな、敵から身を守れる地物を見付けることだ、急いで、そいつに取りつくことだ。 まごまごしとると、他の奴に、いい場所をとられてしまう。 この要領で進撃すれば、進度も速くなるし、敵も圧倒されて崩れて来るし、わが方の損害も軽微と……まあ、当り前のことを、当り前にやっとるだけさ
     と言って石川要領大尉が笑った。ここまで来れば、立派な要領哲学であり、要領戦術である
    (《城下の人 夢と現実》P.313〜314)


     大した考えもなく、世間の慣習に従って、すなおに結婚したのだが、結婚というものは順調に行けば気がつかずに済む、これを境に私の生活環境が、飛躍的に複雑になっていることに気が付いた。 夫婦の関係、親子の関係、兄弟姉妹との関係、これが私の家と妻の家と二様につながって、糸が結ばれている。まごまごしていると、義理や愛情に絡みつかれて、動きがつかなくなるかも知れない……私のロシア留学は急ぐべきである、と決心してまず弟の真臣に相談した。 実は苦心して準備にかかった渡航費は、殆んど私の病気と妻の病気に費されてしまったのである。
    (《城下の人 夢と現実》P.317)


     六月大津を引揚げてからは、妻子と共に母の家に同居し、参謀本部に通って、ロシア事情の調査と出発準備にかかった。 その頃、亡兄真澄の同僚で恵比須麦酒会社の重役矢野二郎氏に別れの挨拶に行ったところ、同氏は私の決意を賞め、ウラジオストックには丁度社長馬越恭平氏も行っており、あちらで会えるかも知れないこと、また日本郵船会社の支店もあって相当信用もあるから関係を持った方がよい……と、すぐその場から社長の近藤廉平氏に電話で私を紹介した。 すると、同社長はすぐ会社に来いと言うので、私はその足で同社長を訪うた。八月二十日に相模丸が神戸からウラジオストックに出航するから、それで一緒に行こうと言い出した。 私はその方が心強いのでお願いした。 そうこうするうちに、参謀本部次長田村怡与造大佐、ウラジオ駐在武官町田経宇大尉(後の陸軍大将)、朝鮮出張の福原銭太郎大尉(後の陸軍中将)も同行することになった。
    (《城下の人 夢と現実》P.323〜324)


     神戸港から郵船相模丸に乗船したが、近藤廉平社長が乗船するというので、特別の待遇であった。 船内は清潔に磨かれ、塗り更えられ、船員の礼儀も正しく、私たちが軍用船として乗った時とは、まるで別の船のような気がした。 天候に恵まれて快適な航海だったが、気の毒にも船長は四六時中ほとんど船橋にあって、望遠鏡を手から離さないという緊張ぶりであった。 私たちもこれには少々驚いて苦笑を噛み潰した。
    (《城下の人 夢と現実》P.324)


     朝鮮の釜山で上陸、田村大佐町田福原と私の三大尉は揃って領事館を訪問した。 領事は幣原喜重郎氏(後の男爵外務大臣、総理大臣)で、釜山の埋立築港工事などの説明を聴き、次に釜山日報社高木氏(熊本出身)を訪ね、同氏の案内で市中見物をした上で船に帰った。
    (《城下の人 夢と現実》P.324)


     次の寄港地元山は、同行の福原大尉の新任地に近かったから、ここで別れることになった。 ここでも揃って領事館を訪問してから守備隊に行った。 当時、元山には一中隊が駐屯していて、中隊長は牛尾(うしお)という大尉であった。 朝顔作りの名人だそうで、自分の部屋は勿論のこと、兵営内の集会所まで朝顔の鉢で埋っていた。 よほどの変り者と見える。 まず牛尾大尉は恐縮した面持で、自分の姓を牛尾(うしお)と書かず(うしお)と書いていることを諒承願いたいと言った。
     「鶏口(けいこう)となるも牛尾(ぎゅうび)となる勿(なか)、という古語ありますので、牛尾と書きますと、朝鮮人から軽蔑されます……どうも正式の手続をとらず、勝手に変えました点はまことに相済みませんが、国家のため守備隊長として威厳を保つ必要がありまして……
    と立板に水の弁は中々とまりそうもなかった。
    (《城下の人 夢と現実》P.324〜325)


     私はフト橘周太君の言葉を思い出して言った。
     「信用は求むるものに非ず、得るものなり、と申します……
     「ほうそれは、誰の言葉ですか
     「橘周太君です。 先輩の歩兵少佐です
     「それは立派なお考えだ。信用は求むるものに非ず、得るものなり。 成程、信用は求むるものに非ず得るものなり……これは立派なお考えだ。 これは商法にも通じます
     「私もこの心掛けで暮すつもりです。 亡くなった父も兄も同じようなことを言っていました
     「お兄さんは、立派なお方だった。 あなたが、こうしてロシアに留学なさるについて、お母様やお姉さまや、また奥さま方(がた)の身の上を随分と御心配になったことと思いますが、御心配は無用、どうぞ安心して勉強して下さい。 御留守中の相談相手になって、決して御不自由な目には遭わせません
     この言葉は馬越恭平氏の在世中ずっと守られて、兄の遺家族に対する厚情は、明治、大正、昭和の三代にわたって続けられた。
    (《城下の人 夢と現実》P.328)


     翌日の朝は、元気のよい熊本弁で叩き起こされた。
     「やはり来ておらした、石光つぁんたい
    と入って来たのは熊本市出身の阿部野利恭氏であった。 彼は肥えた大躯をゆすって哄笑した。 握手をした。農商務省の商業訓練生として派遣されていたが、傍ら朝日新聞社の通信員を兼ね、また熊本茶業組合の輸出紅茶についても細々ながら働いていた。 彼も、ここに足跡を印したことが機縁となって、シベリアと満洲に永くとどまり、特殊任務を自ら担うことになって、私とは終生親交を結んだ。 また駐在武官武藤信義大尉(後の元帥)とは、その後も行を共にして困難な任務に就くことになった。 その頃、本願寺出張所の古畳の上で、黒い法衣をつけて女郎衆に説法していた清水松月師こと、参謀本部出仕、歩兵少佐花田仲之助氏(鹿児島県出身)とは数回会ったが、特別任務の掟を厳に守って、この地では、とうとう説法以外の話をする隙を与えられなかった。
    (《城下の人 夢と現実》P.329)


     田村怡与造大佐を中心に、武藤信義大尉、町田経宇大尉と私と打合せた結果、当時、東部シベリアの露軍根拠地として最大であったブラゴヴェヒチェンスクを留学地と定めて出発することになった。
     「一年経ったら、ひとまずウラジオに出て来い、その頃には、僕も来るからな
     田村大佐は、単身出発する私を慰めるように、優しい微笑を浮べて言った。
    (《城下の人 夢と現実》P.329)


     この留学地ブラゴヴェヒチェンスクが、清国市民大虐殺の惨劇地になり、これをきっかけに怒涛のようにロシア軍が全満洲に殺到して、ついに私自身もまた東亜の大戦乱に巻きこまれてしまった。 私はこの地に留学するについて、特別任務を志願したわけではなかった。 しかし歴史の流れ、時のゆきがかりは、疾風のように私を巻きこんでしまったのである。 私を馬賊の群に投げこみ女郎衆を友として、ある時は苦力(クーリー)に、ある時は洗濯夫に、またある時はロシア軍の御用写真屋になって全満洲に辛酸の月日を送ろうとは、夢にも思わなかった。 それを考えると、歴史の起伏のうちに漂う身一つは、黒龍江に流れる枯葉一葉にも当らない思いがするのである。
    (《城下の人 夢と現実》P.329〜330)