[抜書き]『現代語訳 日本書紀』


『現代語訳 日本書紀』
福永武彦・河出文庫
二〇〇七年五月二十日 4刷発行
    目次
    神代(じんだい)の部
       宇宙の初め(本文)    同、別伝(一書の一)    同、別伝(一書の二)    同、別伝(一書の五)    神世七代(本文)    二神の婚姻(こんんい)・国生(くにう)み(本文)    同、別伝(一書の一)    同、別伝(一書の二)    同、別伝(一書の五)   一〇 神々の誕生(本文)   一一 同、別伝(一書の一)   一二 火神(ひのかみ)の誕生(本文)   一三 同、別伝(一書の二)   一四 同、別伝(一書の三)   一五 同・黄泉国(よもつくに)・禊(みそ)ぎ、別伝(一書の四)   一六 黄泉国(よもつくに)、別伝(一書の七)   一七 黄泉国(よもつくに)・禊(みそ)ぎ、別伝(一書の八)   一八 うけもちの神、別伝(一書の九)   一九 〔うけい〕の勝負(本文)   二〇 同、別伝(一書の一)   二一 同、別伝(一書の二)   二二 天岩屋戸(あめのいわやど)(本文)   二三 同、別伝(一書の一)   二四 同、別伝(一書の二)   二五 同・〔うけい〕、別伝(一書の三)   二六 八岐(やまた)の大蛇(おろち)(本文)   二七 同、別伝(一書の二)   二八 同・樹種(こだね)、別伝(一書の四)   二九 樹種(こだね)、別伝(一書の五)   三〇 大国主神(オホクニヌシノカミ)、別伝(一書の六)   三一 高天原(たかまのはら)の使(つかい)たち・国譲り・高千穂峯(たかちほのたけ)・鹿葦津姫(カアシツヒメ)(本文)   三二 同、別伝(一書の一)   三三 同、別伝(一書の二)   三四 同、別伝(一書の六)   三五 海幸山幸(うみさちやまさち)・豊玉姫(トヨタマヒメ)(本文)   三六 同、別伝(一書の一)   三七 同、別伝(一書の三)   三八 同、別伝(一書の四)   三九 系図(本文)
    人皇(じんこう)の部
      四〇 〔神武(ジンム)〕東への道   四一 〔同〕征旅(せいりょ)の歌   四二 〔同〕秋津洲(あきつしま)   四三 〔崇神(スジン)〕三輪(みわ)の酒宴   四四 〔同〕四道(しどう)将軍   四五 〔同〕三輪山(みわやま)の神   四六 〔同〕出雲振根(いずもふるね)   四七 〔景行(ケイコウ)天皇〕望郷歌   四八 〔同〕御木(みけ)の小橋(おばし)   四九 〔同〕日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、熊襲(くまそ)を伐(う)つ   五〇 〔同〕日本武尊、東国を伐つ   五一 〔同〕日本武尊の死・白鳥   五二 〔神功(しんこう)皇后〕忍熊王(オシクマノミコ)の乱   五三 〔同〕酒の歌   五四 〔応神(オウジン)〕葛野(かずの)の歌   五五 〔同〕髪長姫(カミナガヒメ)   五六 〔同〕国樔(くず)の歌   五七 〔同〕兄姫(エヒメ)の歌   五八 〔同〕枯野(からの)の歌   五九 〔仁徳(ニントク)〕大山守命(オホヤマモリノミコト)の乱   六〇 〔同〕桑田(くわた)の玖賀姫(クガヒメ)   六一 〔同〕皇后(おおきさき)磐姫命(イハイノヒメノミコト)と八田皇女(ヤタノヒメミコ)   六二 〔同〕莵餓野(つがの)の鹿   六三 〔同〕雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)の恋   六四 〔同〕雁(かり)の卵   六五 〔履中(リチュウ)〕大坂の少女   六六 〔允恭(インギョウ)〕衣通郎女(ソトホシノイラツメ)   六七 〔同〕軽(かる)の兄妹   六八 〔安康(アンコウ)〕大前小前宿禰(オホマエオマエノスクネ)の歌   六九 〔雄略(ユウリャク)〕眉輪王(マヨワノミコ)の復讐(ふくしゅう)   七〇 〔同〕蜻蛉(あきず)の歌   七一 〔同〕葛城山(かつらぎやま)の猪(いのしし)   七二 〔同〕泊瀬山(はつせやま)の歌   七三 〔同〕大工(だいく)の御田(ミタ)と采女(うねめ)   七四 〔同〕歯田根命(ハタネノミコト)と采女   七五 〔同〕大工の真根(マネ)と采女の相撲(すもう)   七六 〔同〕将軍尾代(ヲシロ)の歌   七七 〔顕宗(ケンソウ)〕二人の少年の舞(まい)   七八 〔同〕角刺(つのさし)の宮(みや)   七九 〔同〕老婆(ろうば)の置目(おきめ)   八〇  〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌   八一 〔継体(ケイタイ)〕勾大兄皇子(マガリノオヒネノミコ)と春日皇女(カスガノヒメミコ)   八二 〔同〕毛野(ケナ)の臣(おみ)と目頬子(メヅラコ)   八三 〔欽明(キンメイ)〕大葉子(オホバコ)の歌   八四 〔推古(スイコ)〕蘇我馬子(そがのウマコ)の寿歌(ほぎうた)   八五 〔同〕聖徳太子と飢えた旅人   八六 〔舒明(ジョメイ)〕蘇我蝦夷(そがのエミシ)と境部(さかいべ)の臣(おみ)の親子   八七 〔皇極(こうぎょく)〕八●(やつら)の舞(まい) ニンベンに“八”と“月”   八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)   八九 〔同〕童謡三首(蘇我氏滅亡の暗示)   九〇 〔同〕常世(とこよ)の神   九一 〔孝徳(コウトク)〕蘇我造媛(そがのミヤツコヒメ)の死   九二 〔同〕我が飼う駒(こま)   九三 〔斉明(サイメイ)〕建王(タケルノキミ)を悼(いた)む歌   九四 〔同〕童謡(わざうた)(新羅(しらぎ)遠征軍の敗北の暗示)   九五 〔同〕天皇を悼(いた)む歌   九六 〔天智(テンチ)〕童謡(わざうた)(〔つめ〕の遊びの歌)   九七 〔同〕童謡(橘(たちばな)の歌)   九八 〔同〕童謡三首(吉野(よしの)の鮎(あゆ)、その他)
    歌謡略注
    解説−−山本健吉


    神代(じんだい)の部

     一五 同・黄泉国(よもつくに)・禊(みそ)ぎ、別伝(一書の四)

     「上(かみ)の瀬は、潮の流れがたいそう速い。 下(しも)の瀬は、潮の流れがたいそうゆるやかだ。
    (《現代語訳 日本書紀 一五 同・黄泉国(よもつくに)・禊(みそ)ぎ、別伝(一書の四)》P.42)


     一七 黄泉国(よもつくに)・禊(みそ)ぎ、別伝(一書の八)

     また、その妻と泉津平坂(よもつひらさか)で戦い合った時に、イザナギノ尊が言うには、
     「前に、我が血筋の者のために悲しみ、また心に恋しく思ったのは、私の心が弱く、意気地がなかったためだ。
     このように言った。
     その時、道の番をしていた泉守道者(ヨモツモリビト)が、あとを追って来たイザナミノ尊に向かって、
     「お言葉をどうぞ。
     こう言ったので、女神は、
     「私はあなたと御一緒に国を生みました。 どうしてこれ以上、また御子を生もうなどと考えましょう。 私はこの黄泉国(よもつくに)にとどまります。 御一緒に行くつもりはございません。
     このように言った。
     この時、菊裡媛(ククリヒメ)も、言葉を洩(も)らすことがあった。 イザナギノ尊はこれを聞いて賞(ほ)め、そしてこの国を去った。
    (《現代語訳 日本書紀 一七 黄泉国(よもつくに)・禊(みそ)ぎ、別伝(一書の八)》P.48)


     二二 天岩屋戸(あめのいわやど)(本文)

     この後のスサノヲノ尊の行状(ぎょじょう)は、たいそう暴虐(ぼうぎゃく)を極めた。 その次第は次のようである。
     アマテラス大神は、川添いの狭い田と長い田とを、自分の田として耕(たがや)していた。 するとスサノヲノ尊は、春には、すでに種子(たね)を蒔(ま)いてある田に行って、その上に種子を蒔いたり、姉君の田を横取りして自分の物のような顔をしたり、(あぜ)を壊して水を流し出してしまったりした。 また秋には、稲の実った田の中に、斑色(まだらいろ)をした馬を放して、せっかくの収獲をめちゃめちゃにしてしまった。 また、アマテラス大神が、その年の新嘗(にいなえ)を祭るのを見ると、その神聖な御殿にこっそり(くそ)をして廻(まわ)り、また、姉君が神に献上するための衣を織る、斎服殿(いむはたどの)にいるのをうかがい見ると、斑色(まだらいろ)をした馬の皮を、生きながら逆剥(さかは)に剥ぎ、御殿の屋根に穴をあけてその中に投げ込んだ。 これを見たアマテラス大神は、びっくりして身を避けるはずみに、機具(はたぐ)の梭(ひ)で身体を打ち、怪我(けが)をしてしまった。 あまりのことに、姉君もすっかり憤慨し、天岩屋(あめのいわや)の中にはいると、岩戸をぴったり閉めて閉じ籠ってしまった。
    (《現代語訳 日本書紀 二二 天岩屋戸(あめのいわやど)(本文)》P.63)


     このために、天地四方は黒暗々の闇となり、昼と夜との区別もなくなった。 その時、八十万を数える神々は、天安河(あめのやすかわ)の河原に集まり、アマテラス大神にどうしたら岩屋から出てきてもらえるかを相談した。 そこで、較(くら)べものもない智慧者(ちえしゃ)である思兼神(オモヒカネノカミ)が、深遠な謀(はかりごと)をめぐらして、次のように手筈(てはず)をきめた。 まず常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)である(とり)を集めてきて、これにいっせいに長鳴をさせた。 次に力持ちの手力雄神(タヂカラヲノカミ)を岩戸の側に立たせ、中臣(なかとみ)の連(むらじ)の遠い祖先である天児屋命(アメノコヤネノミコト)と、忌部(いみべ)の遠い祖先である太玉命(フトダマノミコト)とが、天香山(あめのかぐやま)に生える、青々と葉の茂った(さかき)の木を、根こそぎ掘り起こして、その上枝には、五百箇の玉を緒(お)に貫いた長い玉飾を取って懸(か)け、その中枝には、八咫鏡(やたかがみ)、別名は真経津鏡(まふつかがみ)を取って懸(か)け、その下枝には、青い麻の和弊(にぎて)、白い木綿(ゆう)の和弊(にぎて)を取って垂らし、そこで神々がアマテラス大神の現われ出ることを願って、共に祷(いの)った。 また、猿女(さるめ)の君(きみ)の遠い祖先である天鈿女命(アメノウズメノミコト)が、手には、魂を鎮(しず)めるための(かや)で柄を巻いた矛(ほこ)を持ち、天岩屋戸(あめのいわやど)の前に立って滑稽(こっけい)きわまりない所作(しょさ)を演じ、また、神意をうかがうために、天香山(あまのかぐやま)の(さかき)の木を頭に巻いて鬘(かずら)の代りとし、日陰葛(ひかげかずら)をたすきに掛けて、庭火を焚(た)き、中が虚(うつろ)な台を伏せ、神の乗り移った有様となって踊った。
    (《現代語訳 日本書紀 二二 天岩屋戸(あめのいわやど)(本文)》P.64〜65)


     この時アマテラス大神が、外の騒ぎを聞いて不思議に思い、
     「私が近頃、岩屋(いわや)の中に閉じ籠(こも)ってしまったので、豊葦原(とよあしはら)の中国(なかつくに)は永久の夜になってひっそりしていることと思っていたのに、どうしてアメノウズメノ命は、あんなに愉(たの)しそうに遊んでいるのだろう?
    (《現代語訳 日本書紀 二二 天岩屋戸(あめのいわやど)(本文)》P.65)


     このように呟(つぶや)いて、そこで岩屋を細めに開いて、外の様子を眺めて見た。タヂカラヲノ神は、この時とばかり、アマテラス大神の手を取って、岩屋の外へと引き出した。 そして中臣神(ナカトミノカミ)と忌部神(イミベノカミ)とが、素早くそのうしろに注連縄(しめなわ)を張りめぐらし、お願いするには、
     「二度とここからお戻りにならないで下さい。
     こう言った。
    (《現代語訳 日本書紀 二二 天岩屋戸(あめのいわやど)(本文)》P.65)


     このあと、神々はスサノヲノ尊の罪を責めて、千の座(くら)の上に罪を贖(あがな)う品物を載(の)せて、差し出すように責め促(うなが)した。 さらには、その髪を抜いて、罪の償(つぐな)いとさせるに至った。
      一説に、その手足の爪を抜いて償(つぐな)わせたとも言う。
     こうして最後に、高天原(たかまのはら)から追い払ってしまった。
    (《現代語訳 日本書紀 二二 天岩屋戸(あめのいわやど)(本文)》P.65〜66)


     二三 同、別伝(一書の一)

     一書に曰く、こののちのこと、アマテラス大神の妹君と伝えられる雅日女尊(ワカヒルメノミコト)が、斎服殿(いみはたどの)にいて、神に献上する衣を織っていた。 スサノヲノ尊はこれを見ると、斑色(まだらいろ)をした馬を生きながら逆剥(さかは)に剥いで、御殿の中に投げ込んだので、ワカヒルメノ尊驚いて機具(はたぐ)から転がり落ち、手にしていた(ひ)で身体を突いて、そのためにこの世を去った。
    (いみはたどの)ママ
    (《現代語訳 日本書紀 二三 同、別伝(一書の一)》P.66)


     二九 樹種(こだね)、別伝(一書の五)

     一書に曰く、スサノヲノ尊が言うには、
     「(から)の国には金銀がある。 もしも我が御子の治める国に、船がなかったならば良くないだろう
     こう言って、次々と(ひげ)を抜き取ったところ杉の木となり、胸毛を抜き取ったところ(ひのき)となり、尻の毛(まき)の木となり、(まゆ)の毛は(くす)の木となった
    (《現代語訳 日本書紀 二九 樹種(こだね)、別伝(一書の五)》P.85)


     さらにその用途を定め、揚言(ようげん)して言うには、
     「杉の木と樟(くす)の木と、この二つの木はにつくるがよい。(ひのき)は、立派な御殿をつくる用材にする。(まき)は、この世に行きとし生ける者の、墓の(ひつぎ)に用いるがよい。 食用となる数々の果樹の種子は、よく蒔いて育てなさい。
     このように言った。
    (《現代語訳 日本書紀 二九 樹種(こだね)、別伝(一書の五)》P.85)


     時にスサノヲノ尊の御子は、名をイソタケルノ命と言った。 その妹は、大屋津姫命(オホヤツヒメノミコト)。 次に●津姫命(ツマツヒメノミコト)。 すべて三柱の神も、よく樹種(こだね)を蒔いて歩いた。 この三柱の神は、紀伊(き)の国に祭ってある。
    (●:ツマ、木ヘンに爪。“木爪”)
    (《現代語訳 日本書紀 二九 樹種(こだね)、別伝(一書の五)》P.85〜86)


     三一 高天原(たかまのはら)の使(つかい)たち・国譲り・高千穂峯(たかちほのたけ)・鹿葦津姫(カアシツヒメ)(本文)

     アメノワカヒコは、以前にタカミムスビノ尊から頂戴(ちょうだい)した、天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あめのははや)とを取り出すと、 この(きじ)を射殺してしまった。 するとその矢は、雉の胸を突き抜けて、高天原の、タカミムスビノ尊のいるその前に落ちた。 そこでタカミムスビノ尊が、この矢を見て言うには、
     「この矢は、むかしアメノワカヒコに私のやったものである。 見れば血潮に染(そま)っている。 思うに、アメワカヒコが国神(くにつかみ)と戦って、そのために染ったものだろうか?
     こう言って、矢を取りこれを投げ返したところ、その矢は下界に落ちて、 アメワカヒコの胸先に突き刺さった。 たまたまアメワカヒコは、新嘗(にいなめ)を祭って、これを食べて寝ているところだった。 矢が命中したので、たちどころに死んだ。 これが世人の、いわゆる「返矢畏(かえしやおそ)るべし」−−返矢はきっと当たる、 ということのもとである。
    (《現代語訳 日本書紀 三一 高天原(たかまのはら)の使(つかい)たち・国譲り・高千穂峯(たかちほのたけ)・鹿葦津姫(カアシツヒメ)(本文)》P.94〜95)


     そこで二柱の神は、従おうとしない神々を処罰して、
      一説に、この二柱の神は、荒びた神々や、またの類を処罰して、すべて平定した。 その時、従わなかったのは、ひとり星の神香香背男(カガセヲ)のみだった。 そこでまた、織物をつかさどる倭文神(しずりがみ)の、建葉槌命(タケハヅチノミコト)を差し向けたところ、命(めい)に服した。 その上で、二柱の神は天に上ったと言う。
    (《現代語訳 日本書紀 三一 高天原(たかまのはら)の使(つかい)たち・国譲り・高千穂峯(たかちほのたけ)・鹿葦津姫(カアシツヒメ)(本文)》P.101)


     三五 海幸山幸(うみさちやまさち)・豊玉姫(トヨタマヒメ)(本文)

     ヒコホホデノ尊は、そこで本国の宮殿に帰り、いちいち海神の教えた通りにした。 すると兄のホノスソリノ命は、さんざんに懲(こ)らしめられて、哀れみを乞うて言うには、
     「こののちは、あなたのために俳優わざおぎ)の身分となって、いろいろな所作(しょさ)を演じますから、どうか、いのちだけは助けて下さい。
     こう頼んだので、そのまま赦(ゆる)してやった。 このホノスソリノ命は、吾田(あた)の君小橋(きみおばし)の祖先である。
    (《現代語訳 日本書紀 三五 海幸山幸(うみさちやまさち)・豊玉姫(トヨタマヒメ)(本文)》P.135)


    人皇(じんこう)の部

     四一 〔同〕征旅(せいりょ)の歌

     十二月の四日、我が軍はついにナガスネビコに対して攻撃を開始したが、力戦これつとめても、勝つことができなかった。 すると不意に、一天にわかにかき曇って、物凄(ものすご)い豪雨となった。 そこに、金色に光り輝く不思議な(とび)が、虚空(こくう)を掠(かす)めて飛んで来ると、天皇が手にした弓の尖端にとまった。 その鵄(とび)の眩(まぶ)しく輝くこと、まるで稲妻のようだった。 このために、ナガスネビコの軍隊の者どもは、一人残らず眩惑(げんわく)されて、戦う気力を喪(うしな)ってしまった。 ナガスネビコの長髄(ながすね)は、もとは村の名であり、これによってまた人の名とした。 我が軍が鵄(とび)の吉兆を得てからは、世の人はこの村を鵄(とび)の村と名づけている。 今、鳥見(とみ)というのは、それが訛(なま)ったものである。
    (《現代語訳 日本書紀 四一 〔同〕征旅の歌》P.189)


     四八 〔同〕御木(みけ)の小橋(おばし)

     そこで天皇が、
     「これは何という樹か?
     こう尋ねたところ、一人の老人が進み出て、
     「これは(くぬぎ)でございます。 まだ倒れずに立っておりました頃は、朝日が出ると杵島山(きしまやま)を隠し、夕日が照ると阿蘇(あそ)山を隠すほどでございました
     こう答えた。 そこで天皇が、
     「これははなはだ霊妙な樹である。 それゆえ、この国を御木(みけ)の国と名づけたら宜しかろう
     このように言った。
    (《現代語訳 日本書紀 〔同〕御木の小橋》P.215)


     四九 〔同〕日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、熊襲(くまそ)を伐(う)つ

     景行天皇の二十五年、秋七月の三日、竹内宿禰(タケシウチノスクネ)を派遣して、北陸道と東方の諸国の形勢、および人民の様子などを視察させた。
     二十七年、春二月の十二日、タケシウチノスクネが東国から帰還し、奏上するには、
     「東方の田舎に、日高見(ひだかみ)の国がございます。 この国に住む者は、男も女も、みな髪を結(ゆ)いあげ、身体には入墨(いれずみ)し、はなはだ勇猛な性質であります。 これらの住人を、蝦夷(えみし)と申します。 その国は、土地が広大で、地味が豊かでございます。 これを攻めて取りましょう。
     こう言った。
    (《現代語訳 日本書紀 四九 〔同〕日本武尊、熊襲を伐つ》P.215〜216)


     五〇 〔同〕日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、東国を伐つ

     天皇は、(おの)と(まさかり)とをしるしに授け、ヤマトタケルノ尊に言うには、
     「私の聞くところにわれば、東方の蛮族は性質が凶暴で、人を侵すことをなんとも思わない。 村には長たる者がなく、境界を取り合って互いに盗む。 山には荒々しくすさまじて神がいるし、野には悪い魔物が住んでいる。 道を(さえぎ)、通行の者を苦しませている。 東方の蛮族の中でも、蝦夷(えみし)は最も強い。 男と女とは混って暮し、父と子との区別もない。 冬は穴の中に寝、夏は樹の上に住む。 獣の皮を着、獣の血をすすり、兄弟は互いに疑い、山に登ることは飛ぶ鳥のようで、草を行くことは走る獣のようである。恩を受けてもすぐに忘れ、怨(うら)みは必ず報(むく)いる。 そこで、結んだ髪の中に矢を隠し、刀は着物の中に隠し持っている。 ある者は衆をたのんで境界を侵し、ある者は畑の作物をうかがって、人民の苦労を掠(かす)め取る。 討ては草に隠れ、追えば山に逃げる。 そこで昔から今日に至るまで、朝廷の威光にも従わないと言い伝えている。 今、私がお前の人となりを見るに、身体は逞(たくまし)く、容姿は端麗(たんれい)であり、その力は鼎(かなえ)をあげ、勇猛なことは雷電のごとくで、向かえば敵する者がなく、攻めれば必ず勝つ。 形は我が子であるが、その実(じつ)は人の姿をした神であると思っている。 これは天が、私が愚かであり、国内が乱れているのを憐(あわ)れんで、天津日嗣(あまつひつぎ)を治め、国家の滅びないようにとしてくれる証拠であろう。 また、この天下はお前の天下であり、この位はお前の位である。 どうか深謀熟慮(しんぼうじゅくりょ)し、悪を探り叛(そむ)く者をうかがい、あるいは威光を示し、あるいは徳によって手なずけ、武器を奮(ふる)って魔物を退治しなさい。
     このように命じた。
    (《現代語訳 日本書紀 五〇 〔同〕日本武尊、東国を伐つ》P.223〜224)


     五五 〔同〕髪長姫(カミナガヒメ)

     そこでオホサザキノ尊は、天皇から歌を頂戴(ちょうだい)して、カミナガ姫を賜(たま)わったことを知るや、驚喜して、次のような歌を詠んで答えた。
      36
      水渟(みずたま)る 依網(よさみ)の池に
      繰(ぬなはく)り 延(は)へけく知(し)らに
      堰杙築(ゐぐひつ)く 川俣江(かはまたえ)の
      菱茎(ひしがら)の 刺(さ)しけく知(し)らに
      吾が心(こころ)し いや愚(うこ)にして


      (水たまる依網(よさみ)の池に、底深く生えた蓴菜(じゅんさい)は、茎(くき)を長く延ばしているとは知らなかった。 堰杙(いぐひ)を打った川俣江(かわまたえ)で、菱(ひし)の枝が這(は)っているとは知らなかった。 父君のお気持を知らないでいたこの私の心は、本当に愚かなことでした)
    (《現代語訳 日本書紀 五五 〔同〕髪長姫(カミナガヒメ)》P.248〜249)


     五九 〔仁徳(ニントク)〕大山守命(オホヤマモリノミコト)の乱

     そこでオウノスクネが日嗣の御子にこの由(よし)を報告したところ、御子が言うには、
     「さっそくオホサザキノ尊に申し上げよ。
     こう命じた。
     オウノスクネが、そこでオホサザキノ尊に申し上げるには、
     「私があずかっております屯田(みた)をば、オホナカツヒコの皇子が取り上げて、私に任せてくれません
     こう訴えたので、オホサザキノ尊は、大和(やまと)の直(あたえ)の祖先、麻呂(マロ)に尋ねて言うには、
     「大和(やまと)の屯田(みた)は、もともと山守部(やまもりべ)の土地だというのは本当なのか?
     こう訊いたところ、答えて、
     「私は存じません。 ただ私の弟、吾子籠(アココ)は存じております。
     こう言った。
     しかしこの時、アココは韓国(からくに)に派遣されて、まだ帰って来ていなかった。 そこでオホサザキノ尊がオウに命じて、
     「お前は自身、韓国(からくに)に行き、アココを呼んで来い。 それも日に夜を継いで、大急ぎで行って来い。
     こう言って、淡路の海人(あま)八十人を差し向けて、水夫(かこ)とした。
     そこでオウは韓国(からくに)に赴き、アココを連れて戻って来た。
     さっそく、アココに大和の屯田(みた)のことを尋ねると、答えて言うには、
     「伝え聞くところによりますと、纏向(まきむく)の玉城(たまき)の宮にいて天下をお治めになりました天皇〔垂仁(スイニン)〕の御世に、日嗣(ひつぎ)の大足彦尊(オホタラシヒコノミコト)〔景行(ケイコウ)天皇〕に命じて、大和(やまと)の屯田(みた)をお定めになりました。 この時の御命令に、およそ大和の屯田は、常々、天下を治める大君の屯田(みた)である。 たとえ大君の御子であっても、天下を治めるのでなければ、これを収めることはできない。 このように仰せになりました。これを山守部(やまもりべ)の土地と言うのは、宜しくございません
     このように答えた。
     そこでオホサザキノ尊は、アココをヌカダノオホナカツヒコノ皇子のところに派遣して、こうした事情を説明させたので、オホナカツヒコノ皇子も返す言葉がなかった。これによって皇子が、よくない心を持っていることが分ったが、大目に見て特に罪を責めるということもなかった
    (《現代語訳 日本書紀 五九 〔仁徳(ニントク)〕大山守命(オホヤマモリノミコト)の乱》P.259〜261)


     このことがあってののちに、オホナカツヒコノ皇子と同腹の弟である大山守皇子(オホヤマモリノミコ)は、日頃、先の天皇が自分を日嗣(ひつぎ)としなかったことを怨(うら)んでいたが、重ねてこのことを怨(うら)みとした。 そこで(はかりごと)をめぐらして、
     「私は日嗣の御子を殺して、天下を治める位に登ろう。
     このように言った。
    (《現代語訳 日本書紀 五九 〔仁徳(ニントク)〕大山守命(オホヤマモリノミコト)の乱》P.261〜262)


     七二 〔同〕泊瀬山(はつせやま)の歌

     雄略(ユウリヤク)天皇の六年、春二月の四日、天皇は泊瀬(はつせ)の小野(おの)に遊び、周囲の山や野の風景を見て感動し、ここに次のような歌を詠んだ。

      77
      隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は
      出(い)で立(ち)ちの 宜(よろ)しき山(やま)
      走(わし)り出(で)の 宜(よろ)しき山(やま)の
      隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山(やま)は
      あやにうら麗(ぐは)し あやにうら麗(ぐは)し


      (山深く籠(こも)りかくれた泊瀬(はつせ)の山は、立ち上がったその姿の、美しい山、走り出そうとするその姿の、美しい山だ。 山深く籠(こも)りかくれた泊瀬の山は、なんと見事なことか、なんと見事なことか。)

     そこでこの小野に名づけて、(みち)の小野(おの)と言った。
    (《現代語訳 日本書紀 七二 〔同〕泊瀬山(はつせやま)の歌》P.322〜323)


     七七 〔顕宗(ケンソウ)〕二人の少年の舞(まい)

     そこでヲタテは、琴(こと)を弾(ひ)きながら、篝火(かがりび)の側(そば)にいる二人に向かって、
     「お前たちも立って舞え。
     こう命じたところ、兄と弟とは互いに譲って、なかなか順序がきまらなかったから、ヲタテが責めて、
     「どうしてそんなにぐすぐすしているのだ? 早く立って舞わないか。
     こう催促した。
     オケノ王は立ち上って舞い、舞い終ったところで天皇が次に立ち、みずから衣や帯をととのえて、次のように、新築の家を祝う室寿(むろほぎ)の言葉を述べた。

      築(つ)き立(た)つる稚室葛根(わかむろつなね)
      築(つ)き立(た)つる柱は
       この家長(いへぎみ)の御心(みこころ)の鎮(しづまり)なり
      取(と)り挙(あ)ぐる棟梁(うつばり)は
       この家長(いへぎみ)の御心(みこころ)の林なり
      取(と)り置(お)ける掾●木ォ(はへき)は
       この家長(いへぎみ)の御心(みこころ)の斉(ととのひ)なり
      取(と)り置(お)ける蘆●(えつり)は
       この家長(いへぎみ)の御心の平(たひらぎ)なり
      取(と)り結(ゆ)へる縄葛(つなかづら)は
       この家長(いへぎみ)の御寿(みいのち)の堅(かため)なり
      取(と)り葺(ふ)ける草葉(かや)は
       この家長(いへぎみ)の御富(みとみ)の余(あまり)なり


      出雲は新墾(にひぼり)
      新墾(にひぼり)の十握(とつか)の稲(いね)の穂(ほ)を
      浅甕(あさみか)に醸(か)める酒(おほみき)
      美(うまら)にや飲喫(やら)ふるかね吾子等(あこたち)
      あしひきのこの傍山(かたやま)の牡鹿(さをしか)の角挙(つぬささ)げてわが舞はらば
      旨酒(うまざけ)餌香(ゑか)の市(いち)に直(あたへ)もちては買はず
      手掌(たなそこ)も●亮(やらら)に
      拍(う)ち上(あ)げ賜(た)べわが常世等(とこよたち)


      (築き上げたこの新築の家の綱。 このしっかりと突き立てた柱は、この家(や)の主人の御心の鎮(しず)まりです。 柱の上に横たえた棟梁(うつばり)は、この家の主人の御心の栄えです。 棟(むね)から整然と斜めに並んでいる垂木(たるき)は、この家の主人の御心の整(ととの)いです。 垂木の横に平(たいら)につけた桟(さん)は、この家の主人の御心の平(たいら)ぎです。 材木を結びつける縄の葛(かずら)は、この家の主人の御命(おいのち)の堅(かた)めです。 屋根にぎっしりと葺(ふ)き上げた葺草(かやくさ)は、この家の主人の財産の余(あま)りです。
      樹々の繁った山の奥の、この片側に土地の開けた片山(かたやま)の、角のついた鹿の頭(かしら)をかぶって、私が舞(まい)を舞うならば、うま酒を名物の餌香(えか)の市場で、代物さえ出せば買えるような酒とは違った、この手づくりの酒をあがって、さあこころよく爽(さわ)かに、掌(てのひら)を拍(う)って下さい。 一座の皆様がた。)

     このように述べた。 そこで室寿(むろほぎ)がすんだ後に、今度は琴の調子に合せて、次のような歌をうたった。

      63
      稲莚(いなむしろ) 川副楊(かわそひやなぎ)
      水行(みづゆ)けば 靡(なび)き起(お)き立(た)ち その根(ね)は失(う)せず


      (稲莚(いなむしろ)をなして、川波の流れて行く、その川のほとりの柳の木は、水の流れに洗われて、靡(なび)き伏したり起き立ったりすることはあっても、決してその根の枯れ失せることはないものです。)

     これを聞いて、ヲタテかせ語るには、
     「これは面白い。 もう一つ所望したいものだな。
     こう言ったので、天皇は、立ったり坐ったりして舞う殊舞(たつつまい)をして、叫び声をあげて称(とな)えるには、

      大和(やまと)は 彼彼(そそ)の茅原(ちはら)
       浅茅原弟日(あさちはらおとひ) 僕(やつこ)らま


      (大和の国は、あちらにも茅(かや)の原、こちらにも茅(かや)の原。 その中の、浅茅原(あさじはら)のように、年若いのはこの私です。)

    (《現代語訳 日本書紀 七七 〔顕宗(ケンソウ)〕二人の少年の舞(まい)》P.336〜339)


     八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌

     十一年、八月、オケノ天皇が崩(ほう)じた。 すると、大臣の平群(へぐり)の真鳥(マトリ)の臣(おみ)は、擅(ほしいまま)に政治を執り行って、自分が日本国に大君たろうとの野心を起した。 そこで御子のためだと偽(いつわ)って宮殿を造営し、それが出来上ると自分がそこに住み込み、万事につけて驕(おご)りたかぶって、臣下たるの分(ぶん)を守らなかった。
    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.347)


     ここに御子は、物部(もののべ)の麁鹿火(アラカビ)の大連(おおむらじ)の娘、影媛(カゲヒメ)を妻としたいと望んで、仲人(なこうど)をカゲ媛(ヒメ)の屋敷に差し向け、婚姻の日取をきめさせた。 ところがカゲ媛は、すでにマトリの大臣の子、(シビ)と通じていたから、御子の約束に背(そむ)くことになるのを恐れて、答えて言うには、
     「それでは恐れ入りますが、海柘榴市(つばいち)の巷(ちまた)でお待ちいたしましょう?
     こう答えた。
    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.347〜348)


     そこで御子は、速(すみや)かに約束された場所に行きたいと思い、側(そば)に仕える舎人(とねり)に命じて、平群(へぐり)の大臣の屋敷にやり、朝廷の馬を求めさせた。 大臣はからかい半分に嘘を吐(つ)いて、
     「朝廷の馬を、不段から飼って養うというのも、誰のためでございましょう? 仰(おお)せの通りにいたしますよ。
     こう口先では言いながら、いつまで経っても、いっこう馬を差し出そうとはしなかった。 御子は大臣を怨(うら)みに思ったが、顔に出して怒ることもせずに、約束の場所へと出向いて行った。
    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.348)


     海柘榴市(つばいち)の巷(ちまた)で、男女が集まって歌を掛け合う歌垣(うたがき)が行われ、その人垣の中に御子もまじって、カゲ媛(ヒメ)の袖(そで)を取ったまま、心の思いを訴えようとしてその場を動かずにいた。 そこに不意にシビの臣(おみ)が現われ出て、御子とカゲ媛との間に割って出た。 そのために、御子はカゲ媛の袖を離して、場所を移り、前に進んでシビの真向(まむか)いに立つと、まず歌って言うには、

      87
      潮瀬(しほせ)の 波折(なをり)を見れば
      遊(あそ)び来(く)る 鮪(しび)が鰭手(はたで)に 妻立(つまた)てり見(み)ゆ

      一本、潮瀬を水門に易へたり
      (潮路はるかに、うねりを見ていたら、泳いで来るシビの鰭(ひれ)のあたりに、妻の立つのがほの見える。)

     シビはこれに対して、次のように歌って答えた。

      88
      臣(おみ)の子(こ)の 八重(やへ)や唐垣(からかき) 許(ゆる)せとや御子(みこ)

      (臣さまが、八重にめぐらした唐(から)ふうの柴垣の中に、おっと、はいって来るおつもりですか、王子さま?)

    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.348〜350)


     次に御子が歌うには、

      89
      大太刀(おほたち)を 垂(た)れ佩(は)き立(た)ちて 抜(ぬ)かずとも
      末果(すえは)たしても 闘(あ)はむとぞ思(おも)ふ


      (大きな太刀(たち)を腰に佩(は)いているのは、伊達(だて)ではないぞ、今は場所がら抜かないでいるが、いずれは必ずこの太刀で一勝負をしてやるつもりだ。)

     シビの臣(おみ)が、それに答えて歌うには、

      90
      大君(おおきみ)の 八重(やへ)の組垣(くみかき) 懸(か)かめども
      汝(な)をあましじみ 懸(か)かぬ組垣(くみかき)


      (王子さまのお屋敷の柴垣がお粗末ゆえ、八重の組垣(くみかき)を作って差し上げようかと思ったけど、あなたみたいな物の数でもない人に、どっこい組垣なんか作ってやるものか。)

     御子が、それに対して歌うには、

      91
      臣(おみ)の子の 八符(やふ)の柴垣(しばかき)
      下動(したとよ)み 地震(なゐ)が揺(よ)り来(こ)ば 破(や)れむ柴垣(しばかき)


      一本、八符の柴垣を八重唐垣に易へたり
      (臣(おみ)のやつの柴垣は、八ところ結んだ堅固そうな柴垣だが、地面を揺り動かして地震でも来ようものなら、ひとたまりもない柴垣だ。)

    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.350〜351)


     御子はまた、カゲ媛(ヒメ)に歌を贈って言うには、

      92
      琴頭(ことがみ)に 来居(きゐ)る影媛(かげひめ) 玉(たま)ならば 吾(あ)が欲(ほ)る玉(たま)の 鰒白珠(あはびしらたま)

      (琴をかき鳴らせば、影のように現われ出でるカゲ媛よ、あなたを玉にたとえるならば、あなたは私の最も好きな、鰒(あわび)から採れる白い真珠なのです。)

     これに対して、カゲ媛(ヒメ)に代ってシビの臣(おみ)が答えた歌は、
      93
      大君(おほきみ)の 御帯(みおび)の倭文服(しつはた) 結(むす)び垂(た)れ
      誰(たれ)やし人(ひと)も 相思(あひおも)はなくに


      (王子さまの)倭文織(しずおり)の、帯の結び目が〔垂れて〕おりますが、誰(だれ)をこの私が思うことがありましょうか〔大事な恋人のほかには?〕。)

    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.351〜352)


     御子はそこで初めて、シビの臣(おみ)がすでにカゲ媛(ヒメ)を得ていることを知った。 そして万事につけて、平群(へぐり)の臣(おみ)の親子が自分を馬鹿にしていることに激怒して、その夜急遽(きゅうきょ)、大伴(おおとも)の金村(カナムラ)の連(むらじ)の屋敷に向かい、軍隊を集めて策略を練った。 大伴の連は、数千の兵をひきいて道を塞(ふさ)ぎ、シビの臣を奈良山(ならやま)で殺した。
      一説に、シビはカゲ媛の家に泊っていて、その夜、殺されたという。
    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.352〜353)


     この時、カゲ媛は恋人の殺された場所に駈けつけたが、すでに殺されたあとだったので、驚き悲しんで、涙が目蓋(まぶた)に溢(あふ)れた。 そこで次のような歌を詠んだ。

      94
      石(いす)の上(かみ) 布留(ふる)を過(す)ぎて
      薦枕(こもまくら) 高橋過(たかはしす)ぎ
      物多(ものさは)に 大宅過(おほやけす)ぎ
      春日(あるひ) 春日(かすが)を過(す)ぎ
      妻(つま)ごもる 小佐保(をさほ)を過(す)ぎ
      玉笥(たまけ)には 飯(いひ)さへ盛(も)り
      玉●(たまもひ)に 水(みづ)さへ盛(も)り
      泣(な)き沾(そば)ち行(ゆ)くも 影媛(かげひめ)あはれ


      (石(いす)の上(かみ)の布留(ふる)を過ぎて、高い枕の高橋(たかはし)を過ぎて、物の多い大宅(おおやけ)を過ぎて、春がすみの春日(かすが)を過ぎて、妻の籠もるという小佐保(おさほ)を過ぎて、はるばると、悲しい旅を続けて来たことです。 死んだ人のために、玉の器(うつわ)には食べ物を盛り、玉の椀には水さえ盛って、泣き濡れて行くのです。 哀れカゲ媛は。)

    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.353〜354)


     こうしてカゲ媛(ヒメ)は、シビの臣(おみ)の亡骸(なきがら)を埋め終って、いよいよ家へ帰らなければならなくなった時に、なおも悲しみのために声もふさがって、
     「なんという苦しいこと、今日、愛する夫を失ってしまった。
     こう言って涙を流し、悶々たるその心を次のような歌にうたった。

      95
      青土(あをに)よし 奈良(なら)の挟間(はさま)に
      獣(しし)じもの 水漬(みづ)く辺隠(へごも)り
      水(みな)そそく 鮪(しび)の若子(わくご)を 漁(あさ)り出(ず)な猪(ゐ)の子(こ)


      (青土(あおつち)の取れる奈良山の、山々の谷間(たにあい)に、水のよどみ流れ行くあたりの土深く、倒れた鹿のようにかくれ葬られた、私のシビの若様を、どうか探し出さないで下さいね、猪(いのしし)よ。)

    (《現代語訳 日本書紀 八〇 〔武烈(ブレツ)〕歌垣(うたがき)・影姫(カゲヒメ)の歌》P.354〜355)


     八一 〔継体(ケイタイ)〕勾大兄皇子(マガリノオヒネノミコ)と春日皇女(カスガノヒメミコ)

     継体(ケイタイ)天皇の七年、九月、天皇の御子、勾大兄皇子(マガリノオヒネノミコ)(のちの安閑(アンカン)天皇)が、親しく春日皇女(カスガノヒメミコ)を側(そば)近く召し寄せた。 あたかも秋の月の冴(さ)え渡った夜で、二人の間に話は尽きず、いつのまにか夜が明けるにいたった。 感興のおもむくに従い、言葉はたちまち次々と溢(あふ)れ出したので、皇子は口ずから次のような歌をうたった。

      96
      八島国(やしまくに) 妻枕(つまま)きかねて
      春日(はるひ)の 春日(かすが)の国(くに)に
      麗(くは)し女(め)を 有(あ)りと聞(き)きて
      宜(よろ)し女(め)を 有(あ)りと聞(き)きて
      真木栄(まきさ)く 檜(ひ)の板戸(いたど)を
      押(お)し開(ひら)き 我入(われい)り坐(ま)し
      足取(あとど)り 端取(つまど)りして
      枕取(まくらど)り 端取(つまど)りして
      妹(いも)が手(て)をば 我(われ)に枕(ま)かしめ
      我(わ)が手(て)をば 妹(いも)に枕(ま)かしめ
      真栄葛(まさきづら) 手抱(ただ)き叉(あざ)はり
      宍串(ししぐし)ろ 熟睡寝(うまいね)し間(と)に
      庭(には)つ鳥(とり) 鶏(かけ)は鳴(な)くなり
      野(ぬ)つ鳥(とり) 雉(きざし)は響(とよ)む
      愛(は)しけくも いまだ言はずて 明(あ)けにけり我妹(わぎも)

      (この大八島国(おおやしまくに)の隅々まで、妻になるひとを求め歩いたが、そのひともどこにも求め得ないでいたところに、春がすみの春日(かすが)の国に、世にもうるわしい女がいると聞き、世にも素晴らしい女がいると聞いて、めでたい檜(ひのき)の木の板戸を、押し開いて私ははいった。 足のほうからその着物の裾(すそ)を取り、頭のほうからその着物の端を取って、可愛い妹(いも)の手を我が首に纏(ま)かせ、私の手を妹の首に纏(ま)きつけて、葛(かずら)のよじれるように身体をもつれ合わせて、ぐっすりと二人して眠った時に、庭に飼う鶏は、はや暁(あかつき)を告げ始めた。 野原の向うから雉(きじ)の鳴声が響いてくる。 恋しいこの気持を、まだ十分に言わないうちに、悲しいかなもう夜が明けて来たよ、愛する妻よ。)

     そこで后(きさき)のカスガノ皇女が、これに答えて次のような歌をうたった。

      97
      隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川(かは)ゆ
      流(なが)れ来(く)る 竹(たけ)の い組竹節竹(くみだけよだけ)
      本(もと)へをば 琴(こと)に作(つく)り
      末(すゑ)へをば 笛(ふえ)に作(つく)り
      吹(ふ)き鳴(な)す 御諸(みもろ)が上に
      登(のぼ)り立(た)ち 我(わ)が見(み)せば
      つぬさはふ 磐余(いはれ)の池の
      水下(みなした)ふ 魚(うを)も 上(うへ)に出(で)て嘆(なげ)く
      やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の
      帯(お)ばせる 細紋(ささら)の御帯(みおび)の
      結(むす)び垂(た)れ 誰(たれ)やし人も 上(うへ)に出(で)て嘆(なげ)く

      (山深く籠(こも)りかくれた泊瀬(はつせ)の川を、流れ寄って来る竹は、茂り合った竹、節(ふし)ある竹。 その竹の、根の方は琴に作り、先の方は笛に作り、その笛を吹き鳴らす御諸山(みもろやま)のその上に、登ってあたりを眺めますと、あれあのように磐余(いはれ)の池で、水底深く沈んだ魚も、顔を出して吐息(といき)をついて聞きほれます。
      天下をしろしめす我が大君(おおきみ)の、腰に巻いた〔ささら〕模様の、帯の結び目が〔垂れ〕ておりますが、〔誰〕であろうと顔に出して、吐息(といき)をついて賞(ほ)めそやさない者はございません。)

    (《現代語訳 日本書紀 八一 〔継体(ケイタイ)〕勾大兄皇子(マガリノオヒネノミコ)と春日皇女(カスガノヒメミコ)》P.355〜359)


     八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)

     皇極(コウギョク)天皇の二年、冬十月の六日、蘇我(そが)の大臣(おおおみ)エミシは、病気と称して参内(さんだい)しなかった。 そして自分勝手に、紫の冠(かんむり)をその子の入鹿(イルカ)に授けて、大臣の位に擬し、またその弟を呼ぶのに、物部(もののべ)の大臣(おおきみ)をもってした。 大臣の祖母は、物部(もののべ)の大連(おおむらじ)弓削(ユゲ)の妹であるから、母の財力をも恃(たの)みとして、その勢いはあたるべからざるものがあった。
    (《現代語訳 日本書紀 八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)》P.377〜378)


     同月十二日、イルカ(うえ)の宮(みや)の王(みこ)たち(聖徳太子の王子たち)を廃して、舒明(ジョメイ)天皇の皇子古人大兄(フルヒトノオヒネ)を立てて天皇としようと、謀(はかりごと)をめぐらした。 この時、民間に行われる童謡(わざうた)に、次のようなものがあった。

      107
      岩(いは)の上(へ)に 小猿米焼(こざるこめや)く
      米(こめ)だにも 食(た)げて通(とほ)らせ 山羊(やましし)の老翁(をぢ)

      (岩の上で、小猿どもが米を焼く。 せめて米でもあげましょう、寄っていらっしゃい、山羊(やぎ)のおじさん)

    (《現代語訳 日本書紀 八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)》P.378)


     十月の朔日(さくじつ)、蘇我(そが)の臣(おみ)イルカは、小徳巨勢(しょうとくこせ)の臣(おみ)徳太(トコタ)と、大仁土師(だいにのはにし)の連(むらじ)娑婆(サハ)とを派遣して、ヤマシロノオヒネノ王の一族を、斑鳩(いかるが)に襲撃させた。
    ・・・・・・・・・
    (《現代語訳 日本書紀 八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)》P.378)


     ここにヤマシロノオヒネノ王の一族は、胆駒山(いこまやま)から帰って、斑鳩寺(いかるがでら)にはいったので、将軍たちは兵卒をひきいて寺を囲んだ。 そこで王は、三輪(みわ)の君(きみ)文屋(フムヤ)をして将軍たちに言わしめるには、
     「私がもし軍隊を集めてイルカを伐(う)つならば、必ずや私の方が勝つだろう。 しかし私個人のことで、人民たちの暮しにまで危害を及ぼすようなことを、私は好まない。 そこで私の身をイルカに与えることにしよう
     このように言って、ついに一族の子弟や后たちとともに、いっせいに首をくくって死んだ。
    (《現代語訳 日本書紀 八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)》P.378〜379)


     この時、(ふし)おもしろい音楽が空中に聞え、五つの色に彩られた幡(はた)や衣笠(きぬがさ)が、大空に浮んで寺の上に懸(かか)ったから、人々はこれを仰ぎ見てほめ称(たた)えた。 そこでイルカにも見物するようにすすめたところ、幡も衣笠もみるみるうちに黒雲に変ってしまい、イルカはついに見ることができなかった。
    (《現代語訳 日本書紀 八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)》P.379)


     イルカの父の蘇我の大臣エミシは、ヤマシロノオヒネノ王の一族が、イルカのために滅ぼされたと聞いて、怒り罵(ののし)って言うには、
     「ああイルカの馬鹿者め! 愚かなあまり、とんでもない乱暴なことをしでかしたものだ。お前自身の生命(いのち)が危いということが分からないのか!
     こう言った。
    (《現代語訳 日本書紀 八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)》P.379〜380)


     世人が、前にあげた童謡(わざうた)の暗示を説いて、次のように言った。
     「岩の上に』というのは、上(うえ)の宮(みや)に喩(たと)え、『小猿』は、林(はやし)の臣(おみ)のイルカに喩え、『米焼く』というのは、上の宮を焼くのに喩え、『米だにもたげて通らせ山羊(やましし)の老翁(をぢ)』、というのは、ヤマシロノ王の髪の毛が、黒いのと白いのと混って、山羊に似ているのに喩えたものだ。
     こう言った。
    (《現代語訳 日本書紀 八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)》P.380)


     また説いて、
     「王がその宮殿を捨てて、胆駒山(いこまやま)深くお隠れになるしるしだ。
     このように言った。
    (《現代語訳 日本書紀 八八 〔同〕童謡(わざうた)二首(猿の歌)》P.380)


     九〇 〔同〕常世(とこよ)の神

     皇極(コウギョク)天皇の三年、秋七月、東国の不尽河(ふじがわ)のほとりに住む、大生部(おおうべ)の多(オホシ)という者が、村の人々に虫を祭ることをすすめて言うには、
     「これは常世(とこよ)の国から来た神だ。 この神を祭るならば、富(とみ)と寿(いのち)とを得るだろう。
     こう言った。
    (《現代語訳 日本書紀 九〇 〔同〕常世(とこよ)の神》P.389〜390)


     神に仕える巫子(みこ)たちも、彼と一緒になって、神語(かむごと)だと偽(いつわ)って言いふらすには、
     「常世(とこよ)の神をお祭りすれば、貧しい者は金持ちになる。 年寄りは若返る。
     こう言った。
    (《現代語訳 日本書紀 九〇 〔同〕常世(とこよ)の神》P.390)


     そこで村人たちにいっそうすすめて、彼らの家の財産を手放させ、酒や肴や家畜の類(たぐい)を、道の側に並べさせて、口々に、
     「新しい財産が手にはいった!
     こう叫ばせた。
    (《現代語訳 日本書紀 九〇 〔同〕常世(とこよ)の神》P.390)


     都の人も田舎の人も、これを聞いて、常世の虫を取って、清めた(たな)の上に置き、歌ったり踊ったりして幸いを求め、財産をすっかり捨ててしまった。 なんの益するところもなく、その損失はきわめて大きかった。
    (《現代語訳 日本書紀 九〇 〔同〕常世(とこよ)の神》P.390)


     ここに葛野(かずの)(はた)の造(みやつこ)河勝(カハカツ)人民がすっかり騙(だま)されているのに憤慨して、大生部(おおうべ)のオホシを打ちこらしめたので、巫子(みこ)たちも恐れ入って、その祭りをすすめることをやめにした。
    (《現代語訳 日本書紀 九〇 〔同〕常世(とこよ)の神》P.390〜391)


     世の人が、そこで秦(はた)の造(みやつこ)をほめて、次のような歌を詠んだ。
      112
      太秦(うつまさ)は 神(かみ)とも神(かみ)と 聞(き)こえくる
      常世(とこよ)の神(かみ)を 打(う)ち懲(きた)ますも


      (秦(はた)の殿様ときたら、偉いが上にも偉い神様と聞こえている、常世の国の神様を、ずんとお打ちこらしになったのだからなあ。)

      この虫というのは、いつも、(たちばな)の樹犬山椒(いぬざんしょう)の樹に生れる。 長さ四寸あまり、大きさ親指ばかりで、色は緑色、黒い斑点がある。 その形は(かいこ)によく似ている。

    (《現代語訳 日本書紀 九〇 〔同〕常世(とこよ)の神》P.391)


     解説−−山本健吉

     本当は日本紀と言った方がよい。
     古事記が撰進された元明天皇の和銅五年(七一二)正月におくれること八年あまり、元正天皇の養老四年(七二〇)七月に、舎人親王によって撰進された。 以下六部の官撰史書を六国史(りっこくし)という。


      一、日本紀 三〇巻。神代より持統天皇まで(−−六七九)
      二、続日本紀 四〇巻。文武天皇より桓武天皇延暦一〇年まで(六九七−−七九一)
      三、日本後記 四〇巻(うち一〇巻現存)。桓武天皇延暦一一年より淳和天皇まで(七九二−−八三三)
      四、続日本後記 二〇巻。仁明天皇一代の記録(八三三−−八五〇)
      五、日本文徳天皇実録(略して文徳実録) 一〇巻。文徳天皇一代の記録(八五〇−−八五八)
      六、日本三代実録(略して三代実録) 五〇巻。清和・陽成・光孝天皇三代の記録(八五八−−八八七)

     六国史のなかで読んで興味のあるのは、日本紀にとどめをさす。 日本紀は唐に倣って史書の講筵のために編纂された性格が強く、それは長いあいだ、古事記よりも上位に置かれてきた。 古事記を発掘したのは本居宣長であって、彼は古事記に対して日本紀は漢ごころに犯されたものとして排斥したから、それ以後ようやく記紀として並び称されるようになった。 今日においては、語部の語りくちをかなりまで生かした古事記の方が、文体的な魅力にも富み、形象性も豊かであるので、古事記を愛読する人は多いが、それに対して説話や史実の素材は豊富だが、ほとんど純粋な漢文体で書かれている日本紀の方は、読む人も寥々として少ないのである。
    (《現代語訳 日本書紀 解説−−山本健吉》P.424〜426)


     なお、日本書紀という呼称は、すでに弘仁私記の序文に見えているのだから、古い唱えであったには違いないが、正しくは日本紀だったろうとは、折口信夫の考えである。中国の史書のうちに、前漢紀・後漢紀と言った「紀」という型があって、いずれも三〇巻で、それは漢書・後漢書の綱要ともいうべき内容であり、編年体を採っていた。それが古く日本にもはいってきていて、その体に倣ったものと想像しているのである。 それは日本紀に対して、大部な日本書の存在を予想せしめるが、それが成書としてあったかどうかは別として、その一部として二巻の帝紀は存在したらしいのである。未完の史書、日本書の一部として帝王本紀が早く成っていて、それが伝写を経て、多くの異本を生じ、帝紀という言葉を普通名詞化してもきた、というのが折口博士の想像説なのである。
    (《現代語訳 日本書紀 解説−−山本健吉》P.427〜428)