[抜書き]『折口信夫』


『折口信夫』ちくま日本文学
『折口信夫』折口信夫・筑摩書房
二〇〇八年十月十日 第一刷発行
    目次
    海やまのあひだ 抄
    春のことぶれ 抄
    古代感愛集 抄
    近代悲傷集 抄
    現代襤褸集 抄
    詩 拾遺
    死者の書
    実川延若讃
    日本文章の発想法の起り
    「古代研究」追い書き
    妣(はは)が国へ・常世(とこよ)へ
    春来る鬼(おに)
    地方に居て試みた民族研究の方法

    私にとっての折口信夫(おりぐちしのぶ)  小松和彦(こまつかずひこ)
    年譜


    春のことぶれ 抄

     気多(けた)はふりの家 抄

     気多の村
     若葉くろずむ時に来て、
      遠海原の 音を
       聴(き)きをり

    (《折口信夫 春のことぶれ 抄》P.31)


      気多の宮
     蔀(しとみ)にひゞく 海の音。
      耳をすませば、
       聴くべかりけり

    (《折口信夫 春のことぶれ 抄》P.32)


     昭和職人歌 抄

      木地屋

     山の木のともしきを 思ふ。
     たまさかの 轆轤(ひきれ)の
     おとに、
      心澄(す)みつゝ
    (《折口信夫 春のことぶれ 抄》P.43〜44)


    詩 拾遺

     貧窮(ひんきゅう)問答

     稗飯(ひえめし)の味といふやつをです。ほんの参考にです。
     試(た)めさせてくれませんか。ほんのぽっちりです

     板の間に 蒲団(ふとん)を敷(し)かないでね。なに 先祖代々(だいだい)だって……。
     なるべく 苦(にが)い顔で寝(ね)てゝくれよう−−。写真は 正直なんだから

     実感々々 さう! さうだ。十分に表現してほしんだ。
     をつと さう 稗を 旨(うま)さうに ぱくつちや困る

     もう野も駄目(だめ)。山もあさり尽(つく)した。川へ出て やまめばかり釣(つ)つてる。
     さう謂(い)つた ぼうずが とれないかい。君

     どうも 自覚が不足だ。自覚を 自覚を 自覚をだ。
     笑つてばかり居る間(ま)に、嘗(な)めてゞも居ろ。掌(てのひら)に書いた「米」を

     写真版(しゃしんばん)と言ふやつは、どうも 実感が出ないでね。
     「網(あみ)」をかけるのでね……。思ひがけない憂鬱(いううつ)さも 出るには出るがね
      ×
     田さ蒔(ま)ぐべいか。山さ蒔ぎ申(も)すべかな。その自覚ちふ種(たね)つこばさ。
     まあ待(ま)つて呉(け)せ。三十年 五十年だけ

     田さ蒔(ま)ぐめ。山さにや蒔ぐめ。東京さまぐべと思った 男児(わらし)や女児(めらし)だによ。
     国(くによ)を助けるとかで 乞食面曝(ほいとづらさら)す 稽古(けいこ)にや やり申(も)さない ち 言つて呉(け)

     予覚(つもり)にも おめとつ(苦痛)た感情を出せろ と言ふけ?
     百姓の勘定(かんぢやう)なら、来年春にならざ 訣(わか)ねこつだ

     おれが村 田どころになつたので、肥料代(ひれうだい)がうんと 殖(ふ)えやんした。
     山神平(さんじんだひら)や 冷水沢(ひやみづさは)よ。畝(うな)ひこくつた罰(ばち)であんしよ

     何、娘をとえ? 今 はじめたこつでねえもさ
     お恥(しよう)しい唄(うた)ば 聞いてなさろ。「昔(むかし)なつかし宮城野 信夫(しのぶ)」ちのを


                            (昭和十年三月)
    (《折口信夫 詩 拾遺》P.129〜131)


    死者の書

    一本の路(みち)が、真直(まっすぐ)に通っている。二上山男嶽(おのかみ)女嶽(めのかみ)の間から、急に降(さが)って来るのである。 難波から飛鳥(あすか)の都への古い間道なので、日によっては、昼は相応な人通りがある。 道は白々と広く、夜目には、芝草(しばくさ)の蔓(は)っているのすら見える。当麻路(たぎまじ)である。 一降りしてまた、大降(おおくだ)りにかかろうとする処が、中だるみに、やや坦(ひらた)くなっていた。 梢(こずえ)の尖(とが)った(かえ)の木の森。 半世紀を経た位の木ぶりが、一様に揃(そろ)って見える。 月の光りも薄い木陰(こかげ)全体が、勾配を背負って造られた円塚であった。 月は、瞬(またた)きもせずに照し、山々は、深く●(まぶち)を閉じている。
    ●(まぶち:“目匡”で一字)
    (《折口信夫 死者の書》P.146〜147)


     こう こう こう。
    さっきから、聞こえていたのかも知れぬ。 あまり寂けさに馴(な)れた耳は、新(あらた)な声を聞きつけよう、としなかったのであろう。 だから、今珍(めずら)しく響いて来た感じもしないのだ。

    (《折口信夫 死者の書》P.147)


     こう こう こう−−こう こう こう。
    確かに人声である。 鳥の夜声とは、はっきりかわった韻(ひびき)を曳(ひ)いて来る。 声は、しばらく止(や)んだ。 静寂(せいじゃく)は以前に増し、冴え返って張りきっている。 この山の峰つづきに見えるのは、南に幾重(いくえ)ともなく重った、葛城(かつらぎ)の峰々である。 伏越(ふしごえ)櫛羅(くしら)小巨勢(こごせ)とだんだん高まって、果ては空の中につき入りそうに、二上山と、この塚にのしかかるほど、真黒に立ちつづいている。

    (《折口信夫 死者の書》P.147)


    壁と言うよりは、壁代(かべしろ)であった。 天井から吊りさげた竪薦(たつごも)が、幾枚も幾枚も、ちぐはぐに重なっていて、どうやら、風は防ぐようになっている。 その壁代に張りついたように坐っている女、先から●嗽(しわぶき)一つせぬ静けさである。
    ●:“亥欠”。
    壁代:壁の代用として仕切りに垂らすもの。
    竪薦:コモ、ムシロを合わせて風よけなどのとばりとしたもの。

    (《折口信夫 死者の書》P.155)


    貴族の家の郎女は、一日もの言わずとも、寂(さび)しいとも思わぬ習慣がついていた。
    (《折口信夫 死者の書》P.155)


    くそ−−外の世界が知りたい。 世の中の様子が見たい。
    (《折口信夫 死者の書》P.169)


    万法蔵院晨朝(じんちよう)の鐘(かね)だ。 夜の曙色(あけいろ)に、一度騒立(さわだ)った物々の胸をおちつかせるように、鳴りわたる鐘の音(ね)だ。 一(いつ)ぱし白みかかって来た東は、更にほの暗い明(あ)け昏(ぐ)れの寂けさに返った。
    晨朝:じんじょう、ともいう。午前六時ごろに行なう勤行。
    一ぱし:いったん。

    (《折口信夫 死者の書》P.171)


    何処からか吹きこんだ朝山颪(おろし)に、御燈(みあかし)が消えたのである。当麻(たぎま)語部(かたり)の姥も、薄闇に蹲(うずくま)っているのであろう。 姫は再(ふたたび)、この老女の事を忘れていた。
    (《折口信夫 死者の書》P.172)


    新しい物語が、一切(いっさい)、語部の口にのぼらぬ世が来ていた。けれども、頑(かたくな)な当麻氏の語部の古姥のために、我々は今一度、去年以来の物語りをしておいても、よいであろう。 まことにそれは、昨(きぞ)の日からはじまるのである。
    (《折口信夫 死者の書》P.172)


    この郷に田荘(たどころ)を残して、奈良に数代住みついた豪族(ごうぞく)の主人も、その日は、帰って来ていたっけ。これは、天竺(てんじく)の狐(きつね)の為(し)わざではないか、それとも、この葛城郡に、昔から残っている幻術師(まぼろし)のする迷わしではないか。あまり荘厳(しょうごん)を極めた建て物に、故知らぬ反感まで唆(そそ)られて、廊(ろう)を踏(ふ)み鳴し、柱を叩いてみたりしたものも、その供人(ともびと)のうちにはあった。
    (《折口信夫 死者の書》P.174)


    まろ子というのは、尊いご一族だけに用いられる語で、おれの子というほどの、意味であった。 ところが、そのおことばが縁(えん)を引いて、この郷の山には、その後また、貴人をお埋(う)め申すような事が、起ったのである。
    (《折口信夫 死者の書》P.175)


    だが、そういう物語りはあっても、それはただ、この里の語部の姥の口に、そう伝えられている、と言うに過ぎぬ古物語りであった。わずかに百年、その短いと言える時間も、文字に縁遠い生活には、さながら太古を考えると、同じ昔となってしまった。
    (《折口信夫 死者の書》P.175)


    郎女の家は、奈良東城、左京三条第七坊にある。 祖父武智麻呂(おやじたけちまろ)のここで亡くなって後、父が住んでからも、大分の年月になる。 父は男壮(おとこざかり)には、横佩(よこはき)の大将(だいしょう)と謂われるほど、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫(くふう)を凝(こ)らさずにはいられぬ〔だて〕者(もの)であった。 〔なみ〕の人の竪(たて)に佩(は)く大刀を、横(よこた)えて吊る佩き方を案出した人である。 新しい奈良の都の住人は、まだそうした官吏(かんり)としての、華奢(きゃしゃ)な服装(ふくそう)を趣向(この)むまでに到っていなかった頃、姫の若い父は、近代の時世装に思いを凝(こら)していた。 その家に覲(たず)ねて来る古い留学生や、新米(いま)の帰化僧などに尋ねることも、張文成(ちょうぶんせい)などの新作の物語りの類(たぐい)を、問題にするようなのとも、また違うていた。
    張文成:唐の進士・文人。『遊仙窟』の作者。
    (《折口信夫 死者の書》P.179)


    横佩家の郎女(いらつめ)が、称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶっしょうじゅぎょう)を写しはじめたのも、その頃からであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.181)


    父の心づくしの贈(おく)り物の中で、一番、姫君の心を饒(にぎ)やかにしたのは、この新訳の阿弥陀経一巻(あみだきょういちかん)であった。
    (《折口信夫 死者の書》P.182)


    国の版図(はんと)の上では、東に偏(かたよ)り過ぎた山国の首都よりも、大宰府は、遥かに開けていた。 大陸から渡(わた)る新しい文物は、皆一度は、この(とお)の宮廷領(みかど)を通過するのであった。 唐から渡った書物などで、大宰府ぎりに、都まで出て来ないものが、なかなか多かった。
    (《折口信夫 死者の書》P.182)


    学問や、芸術の味いを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて大宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.182)


    姫は、蔀戸(しとみど)近くに、時としては机を立てて、写経をしていることもあった。 夜も、侍女(じじょ)たちを寝静まらしてから、油火(あぶらび)の下で、一心不乱に書き写していた。
    (《折口信夫 死者の書》P.182)


    百部は、夙くに写し果した。 その後は、千部手写の発願(ほつがん)をした。 冬は春になり、夏山と繁(しげ)った春日山(かすがやま)も、既(すで)に黄葉(もみじ)して、それがもう散りはじめた。 蟋蟀(こおろぎ)は、昼も苑一面に鳴くようになった。佐保(さほ)の水を堰(せ)き入れた庭の池には、遣(や)り水(みず)伝いに、川千鳥の啼(な)く日すら、続くようになった。
    (《折口信夫 死者の書》P.182〜183)


    五百部を越えた頃から、姫の身は、目立ってやつれてきた。 ほんのほずかの眠りをとる間も、ものに驚いて覚めるようになった。 それでも、八百部の声を聞く時分になると、衰(おとろ)えたなりに、健康は定まって来たように見えた。 やや蒼みを帯びた皮膚(ひふ)に、心もち細って見える髪が、いよいよ黒く映え出した。
    (《折口信夫 死者の書》P.185)


    八百八十部九百部。 彼女は侍女にすら、ものを言うことを厭(いと)うようになった。 そうして、昼すら何か夢見るような目つきして、うっとり蔀戸ごしに、西の空を見入っているのが、皆の注意をひくほどであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.185)


    実際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなった。二十部・三十部・五十部。 心ある女たちは、文字の見えない自身たちの〔ふがいなさ〕を悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出来るように、と思うからである。
    (《折口信夫 死者の書》P.185)


    奈良の都には、まだ時おり、石城(しき)と謂われた石垣を残している家の、見かけられた頃である。 度々の太政官符(だいじょうがんぷ)で、それを家の周(まわ)りに造ることが、禁ぜられて来た。 今では、宮廷より外には、石城を完全にとり廻した豪族の家などは、よくよくの地方でない限りは、見つからなくなっているはずなのである。
    (《折口信夫 死者の書》P.195)


    それに一つは、宮廷のご在所が、御一代御一代に替っていた千数百年の歴史の後に、飛鳥(あすか)の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、同じ山河一帯の内にあった。 それでおよそ、都遷しのなかった形になったので、後から後から地割りが出来て、相応な都城(とじょう)の姿は備えて行った。 その数朝の間に、旧族の屋敷は、だんだん、家構えが整うて来た。
    (《折口信夫 死者の書》P.195)


    葛城に、元のままの家を持っていて、都と共に一代ぎりの、屋敷を構えていた蘇我臣(そがのおみ)なども、飛鳥の都では、次第に家作りを拡(ひろ)げて行って、石城なども高く、幾重にもとり廻して、およそ永久の館作りをした。 それと同じような気持ちから、どの氏でも、大なり小なり、そうした石城(しき)づくりの屋敷を構えるようになっていった。
    (《折口信夫 死者の書》P.195〜196)


    蘇我臣一流(ひとなが)れで最(もっとも)栄えた島の大臣家(おとどけ)の亡びた時分から、石城の構えは禁(と)められ出した。
    島の大臣家:蘇我馬子は島の大臣と呼ばれたことからその一族。
    (《折口信夫 死者の書》P.196)


    この国のはじまり、天から授けられたという、宮廷に伝わる神の御詞(みことば)に背(そむ)く者は、今もなかった。 が、書いた物の力は、それが、どのように由緒のあるものでも、それほどの威力を感じるに到らぬ時代が、まだ続いていた。
    (《折口信夫 死者の書》P.196)


    その飛鳥の都も、高天原広野姫尊様(たかまのはらひろぬひめのみことさま)の思召(おぼしめ)しで、それから一里北の藤井个原(ふじいがはら)に遷され、藤原の都と名を替えて、新しい唐様(もろこしよう)の端正(きらきら)しさを尽した宮殿が、建ち並ぶようになった。 近い飛鳥から、新渡来(いまき)の高麗馬(こま)に跨(またが)って、馬上で通う風流士(たわれお)もあるにはあったが、多くはやはり、鷺栖(さぎす)の阪の北、香具山の麓から西へ、新しく地割りせられた京城(けいじょう)の坊々(まちまち)に屋敷を構え、家造りをした。 その次の御代になっても、藤原の都は、日に益(ま)し、宮殿が建て増されて行って、ここを永宮(とこみや)と遊ばす思召しが、伺(うかが)われた。 その安堵(あんど)の心から、家々の外には、石城(しき)を廻すものが、またぽつぽつ出て来た。 そうして、そのはやり風俗が、見る見るうちに、また氏々の族長の家囲いを、あらかた石にしてしまった。 その頃になって、天真宗豊祖父尊様(あめまむねとよおおじのみことさま)がおかくれになり、御母(みおや)日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみよとよくになりひめ)の大尊様(おおみことさま)がお立ち遊ばした。 その四年目思いもかけず、奈良の都に宮遷しがあった。 ところがまるで、追っかけるように、藤原の宮はもとより、目ぬきの家並(やな)みが、不意の出火で、それこそ、あっという間に、痕形(あとかた)もなく、(そら)の有(もの)となってしまった。 もうこの頃になると、太政官符に、更に厳しい添書(ことわき)がついて出ずとも、氏々の人は皆、目の前のすばやい人事自然の交錯(こうさく)した転変に、目を瞠(みは)るばかりであったので、久しい石城の問題も、それで、解決がついて行った。
    天真宗豊祖父尊様:文武天皇。
    大尊様:元明天皇。

    (《折口信夫 死者の書》P.196〜197)


    古い氏種姓(うじすじょう)を言い立てて、神代以来の家職の神聖を誇(ほこ)った者どもは、その家職自身が、新しい藤原奈良の都には、次第に意味を失って来ている事に、気がついていなかった。
    (《折口信夫 死者の書》P.197)


    兵部大輔大伴(ひょうぶだいふおおともの)家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。 ちょうど、春分から二日目の朝、朱雀大路を南へ、をやっていた。 二人(ふたり)ばかりの資人(とねり)が徒歩(かち)で、驚くほどに足早について行く。 これは、晋唐(しんとう)の新しい文学の影響(えいきょう)を、受け過ぎるほど享(う)け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなった癖である。 こうして、どこまで行くのだろう。 ただ、朱雀の並み木の柳(やなぎ)の花がほおけて、霞(かすみ)のように飛んでいる。 向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎(かげろ)うばかりである。
    資人の一人が、〔とっと〕と追いついて来たと思うと、主人の鞍(くら)に顔をおしつけるようにして、新しい耳を聞かした。 今行きすごうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。
     それで、何か−−。娘御の行くえは知れた、と言うのか。
     はい……。いいえ。何分、その男がとり急いでおりまして。
     この間抜(まぬ)け。 話はもっと上手(じょうず)に聴くものだ。

    (《折口信夫 死者の書》P.203〜204)


    柔(やわ)らかく叱った。 そこへ今(も)一人の伴(とも)が、追いついて来た。 息をきらしている。
     ふん。 汝(わけ)は聞き出したね。 南家の嬢子(おとめ)は、どうなった−−。

    (《折口信夫 死者の書》P.204)


    出端(ではな)に油かけられた資人は、表情に隠さず心の中を表したこの頃の人の、自由な咄し方で、まともに鼻を蠢(うごめか)かして語った。
    (《折口信夫 死者の書》P.204)


      おい、汝(わけ)たち。 大伴氏上家(うじのかみけ)も、築土垣を引き廻そうかな。
      とんでもないことを仰せられます。
    二人の声が、おなじ感情から迸(ほとばしり)り出た。 年の増した方の資人が、切実な胸を告白するように言った。
      私どもは、ご譜第(ふだい)ではござりません。 でも、大伴と言うお名は、御門御垣(みかどみかき)と、関係深い称えだ、と承っております。大伴家からして、門垣を今様にする事になってご覧(ろう)じませ。 ご一族の末々まで、あなた様をお呪(のろ)い申し上げることでおざりましょう。 それどころでは、ござりません。 第一、ほかの氏々−−大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい、人の世になって初まった家々の氏人までが、ご一族を蔑(ないがしろ)に致すことになりましょう。
    こんな事を言わしておくと、せっかく澄みかかった心も、また曇って来そうな気がする。 家持は忙(あわ)てて、資人の口を緘(と)めた。
      うるさいぞ。 誰に言う語だと思うているのだ。 やめぬか。 雑談(じょうだん)だ。 雑談を真に受ける奴が、あるものか。
    馬はやっぱり、しっとしっとと、歩いていた。築土垣 築土垣。 また、築土垣

    譜第:代々臣属の者。世臣。
    御門御垣:宮邸の門を護る職。
    (《折口信夫 死者の書》P.210〜211)


    こんなにいつの間に、家構えが替っていたのだろう。 家持は、なんだか、晩(おそ)かれ早かれ、ありそうな気のする次の都−−どうやらこう、もっとおっぴらいた平野の中の新京城(しんけいじょう)にでも、来ているのではないかという気が、ふとしかかったのを、危(あやう)く喰(く)いとめた。
    (《折口信夫 死者の書》P.211〜212)


    築土垣 築土垣。 もう、彼の心は動かなくなった。 ただ、よいとする気持ちと、よくないと思おうとする意思との間に、気分だけが、あちらへ寄りこちらへよりしているだけであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.212)


    おとめの閨戸(ねやど)をおとなう風(ふう)は、何も、珍しげのない国中の為来(しきた)りであった。 だがそれにも、かつてはそうした風の、一切行われていなかったことを、主張する村々があった。 いつのほどにか、そうした村が、他村の、別々に守って来た風習と、その古い為来りとをふり替えることになったのだ、と言う。 かき上る段になれば、何の雑作(ぞうさ)もない石城(しき)だけれど、あれを大昔からとり廻していた村と、そうでない村とがあった。 こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老(とね)たちが、どうかすると居た。 多分やはり、語部などの昔語りから、来た話なのであろう。 踏み越えても這入れそうに見える石垣だが、大昔交された誓(ちか)いで、目に見えぬ鬼神(もの)から、人間に至る迄、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になっている
    (《折口信夫 死者の書》P.214〜215)


    こんな約束(やくそく)が、人と鬼(もの)との間にあって後、村々の人は、石城の中に、ゆったりと棲むことが出来るようになった。 そうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入って来る。 それは、別の何かの為力で、防ぐ外はなかった。 祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚りなく、垣を踏み越えて処女の蔀戸(しとみ)をほとほとと叩く。 石城を囲うた村には、そんなことは、一切なかった。 だから、美(くわ)し女(め)の家に、奴隷(やっこ)になって住みこんだ古(いにしえ)の(あて)びともあった。 娘の父にこき使われて、三年五年、いつか処女に会われよう、と忍び過した、身にしむ恋(こい)物語りもあるくらいだ。 石城を掘(ほ)り崩(くず)すのは、どこからでも鬼神(もの)に入りこんで来い、と呼びかけるのと同じことだ。 京の年よりにもあったし、田舎(いなか)の村々では、これを言い立てに、ちっとでも、石城を残しておこうと争うた人々が、多かったのである。
    (《折口信夫 死者の書》P.215)


    そういう家々では、実例として恐ろしい証拠を挙げた。 三十年も昔、−−天平(てんぴょう)八年厳命が降って、何事も命令のはかばかしく行われぬのは、朝臣(ちょうしん)が先(さきだ)って行わぬからである。 汝等(みましたち)進んで、石城を毀って、新京の時世姿(いまようすがた)に叶(かの)うた家作りに改めよと、仰せ下された。藤氏四流のごとき、今に旧態を易(か)えぞるは、最(もっとも)もその位に在るを顧(かえり)みざるものぞ、とお咎めが降った。 この時一度、およそ、石城はとり毀たれたのである。ところが、それと時を同じくして、疱瘡(もがさ)がはやり出した。 越えて翌年、ますます盛んになって、四月北家を手初めに、京家・南家と、主人から、まずこの時疫(じえき)に亡くなって、八月にはとうとう、式家の宇合卿(うまかいきょう)まで仆(たお)れた。 家に、防ぐはずの石城が失せたからだと、天下中の人が騒いだ。 それでまた、とり壊(こわ)した家も、ぼつぼつ旧(もと)に戻したりしたことであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.215〜216)


    こんなすさまじい事も、あって過ぎた夢だ。 けれどもまだ、まざまざと人の心に焼きついて離れぬ、現(うつつ)の恐しさであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.216)


    それはそれとして、昔から家の娘を守った邑々も、だんだん〔えたい〕の知れぬ村の風に感染(かま)けて、(しの)び夫(づま)の手に任せ傍題(ほうだい)にしようとしている。 そうした求婚(つまどい)の風を伝えなかった氏々の間では、これは、忍び難い流行であった。 それでも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思わぬようになった。 が、家庭の中では、母・妻・乳母(おも)たちが、いまだにいきり立って、そうした風儀になって行く世間を、呪いやめなかった。
    (《折口信夫 死者の書》P.216)


    手近いところで言うても、大伴宿禰(すくね)にせよ。 藤原朝臣にせよ、そういう〔妻どい〕の式はなくて、数十代宮廷をめぐって、仕えて来た邑々のあるじの家筋であった。 でもいつか。そうした氏々の間にも、妻迎えの式には、
      八千矛(やちほこ)の神のみことは、とほ/"\し、高志(こし)の国に、美(くわ)し女(め)をありと聞かして、賢(さか)し女(め) をありと聞(きこ)して……
    から謡(うた)い起す神語歌(かみがたりうた)を、語部に歌わせる風が、次第にひろまって来るのを、防ぎとめることが出来なくなっていた。

    (《折口信夫 死者の書》P.216〜217)


      (ざえ)を習うなと言うなら、まだ聞きも知らぬこと、教えて賜(たも)れ。
    素直な郎女の求めも、姥たちにとっては、骨を刺(さ)しとおされるような痛さであった。
      何を仰せられまする。 以前から、何一つお教えなど申したことがおざりましょうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すというような考えは、神様がお聞き届けになりません。 教える者は目上、ならう者は目下、とこれが、神の代からの掟でおざりまする

    (《折口信夫 死者の書》P.219)


    志斐嫗(しいのおみな)の負け色を救うために、身狭乳母(むさのちおも)も口を挿(はさ)む。
      ただ知った事を申し上げるだけ。 それを聞きながら、御心がお育ち遊ばす。 そう思うて、姥たちも、覚えただけの事は、郎女様のみ魂を揺(いぶ)るようにして、歌いもし、語りもして参りました。教えたなどおしゃっては私めらが、罰(ばち)を蒙(こうむ)らねばなりません。

    (《折口信夫 死者の書》P.219〜220)


    大日本日高見(おおやまとひたかみ)の国。 国々に伝わるありとある歌諺(うたことわざ)、またその旧辞(もとつごと)。 第一には、中臣の氏の神語り。藤原の家の古物語り。 多くの語り詞(ごと)を、絶えては考え継(つ)ぐごとく、語り進んでは途切(とぎ)れ勝ちに、呪々(のろのろ)しく、くねくねしく、独り語りする語部や、乳母(おも)や、嚼母(まま)たちの唱える詞が、今更めいて、寂しく胸に蘇(よみがえ)って来る。
      おお、あれだけの習しを覚える、ただそれだけで、この世に生きながらえて行かねばならぬ〔みずから〕であった。
    父に感謝し、次には、尊い大叔母君、それから見ぬ世の曾祖母(おおおば)の尊に、何とお礼申してよいか、量(はか)り知れぬものが、心にたぐり上げて来る。 〔だが〕まず、父よりも誰よりも、お礼申すべきは、み仏であるこの珍貴(うず)の感覚(さとり)を授けたもう、限り知られぬ愛(めぐ)みに充ちた〔よき人〕が、この世界の外に、居られたのである。 郎女は、塗香(ずこう)をとり寄せて、まず髪に塗り、手に塗り、衣を薫(かお)るばかりに匂わした。

    (《折口信夫 死者の書》P.222〜223)


     ほほき、ほほきい ほほほきい−−。
    きのうよりも、澄んだよい日になった。 春にしては、驚くばかり濃(こ)い日光が、地上にかっきりと、草木の影を落していた。 ほかほかした日よりなのに、それを見ていると、どこか、薄ら寒く感じるほどである。 時々に過ぎる雲の翳(かげ)りもなく、晴れきった空だ。 高原を拓(ひら)いて、間引(まび)いた疎(まば)らな木原(こはら)の上には、もうたくさんの羽虫(はむし)が出て、のぼったり降(さが)ったりしている。 たった一羽の鶯(うぐいす)が、よほど前から一処を移らずに、鳴き続けているのだ。

    (《折口信夫 死者の書》P.223〜224)


     ほほき ほほきい ほほほきい。
    と鳴いているのだ、と幼い耳に染(し)みつけられた、物語の出雲の嬢子が、そのまま、自分であるような気がして来る。

    (《折口信夫 死者の書》P.225)


    ほほき鳥−鶯−になっていた方がよかった。昔語りの嬢子は、男を避けて、山の楚原(しもとはら)へ入り込んだ。 そうして、飛ぶ鳥になった。 この身は、何とも知れぬ人の俤にあくがれ出て、鳥にもならずに、ここにこうしている。 せめて蝶飛虫(ちょうとり)にでもなれば、ひらひらと空に舞(ま)いのぼって、あの山の頂へ、俤びとをつきとめに行こうもの−−。
    (《折口信夫 死者の書》P.225〜226)


     ほほき ほほきい。
     自身の咽喉(のど)から出た声だ、と思った。 だがやはり、廬の外で鳴くのであった。 郎女の心に動き初めた叡(さと)い光りは、消えなかった。 今まで手習いした書巻のどこかに、どうやら、法喜という字のあった気がする。 〔法喜〕−−飛ぶ鳥すらも、美しいみ仏の詞に、感(かま)けて鳴くのではなかろうか。 そう思えば、この鶯も、
     ほほき ほほきい。
    嬉(うれ)しそうな高音(たかね)を、だんだん張って来る。

    (《折口信夫 死者の書》P.226)


    物語をする刀自たちの話でなく、若人らの言うことは、時たま、世の中の瑞々(みずみず)しい消息(しょうそこ)を伝えて来た。 奈良の家の女部屋は、裏方五つ間(ま)を通した、広いものであった。 郎女の帳台の立(た)ち処(ど)を一番奥にして、四つの間に、刀自・若人、およそ三十人も居た。 若人等は、この頃、氏々の御館(みたち)ですることだと言って、苑の池の蓮(はす)の茎(くき)を切って来ては、藕糸(はすいと)を引く工夫に、一心になっていた。 横佩家の池の面を埋めるほど、珠を捲いたり、解けたりした蓮の葉は、まばらになって、水の反射が蔀を越して、女部屋まで来るばかりになった。茎を折っては、繊維(せんい)を引き出し、その片糸を幾筋も合わせては、糸に縒(よ)る
    (《折口信夫 死者の書》P.226〜227)


    郎女は、女たちの凝っている手芸を、じっと見ている日もあった。ほうほうと切れてしまう藕糸を、八合(こ)・十二合(こ)・二十合(はたこ)に縒って、根気よく、細い綱のようにする。 それを(う)み麻(お)(お)〔ごけに繋ぎためて行く。 奈良の御館でも、(かいこ)は飼っていた。 実際、刀自たちは、夏は殊にせわしく、そのせいで、不機嫌(ふきげん)になっている日が多かった。
    (《折口信夫 死者の書》P.227)


     刀自たちは、初めは、そんな(から)の技人(てびと)のするような事は、と目もくれなかった。 だが時が立つと、だんだん興味を惹(ひ)かれる様子が見えて来た。
    (《折口信夫 死者の書》P.227)


      こりゃ、おもしろい。絹の糸と、績み糸との間を行くような妙な糸の−−。 これで、切れさえしなければのう。
    こうして(つむ)ぎ蓄(た)めた藕糸は、皆一纏めにして、寺々に納めようと、言うのである。

    (《折口信夫 死者の書》P.227)


    寺には、それぞれの技女(ぎじょ)が居て、その糸で、唐土様(もろこしよう)と言うよりも、天竺風な織物に織りあげる、と言う評判であった。 女たちは、ただ功徳(くどく)のために糸を績いでいる。 それでも、それがかせたまと言う風に貯(たま)って来ると、言い知れぬ愛着(あいちゃく)を覚えていた。 だが、それがほんとは、どんな織物になることやら、そこまでは想像も出来なかった。
    (《折口信夫 死者の書》P.227〜228)


    若人たちは茎を折っては、巧(たく)みに糸を引き切らぬように、長く長くと(ひ)き出す。 またその、粘(ねば)り気(け)の少い〔さくい〕ものを、まるで絹糸を縒り合せるように、手際よく糸にする間も、ちっとでも口やめる事なく、うき世語りなどをしていた。 これはもちろん、貴族の家庭では、出来ぬ掟になっていた。 なってはいても、物珍(ものめ)でする盛りの若人たちには、口を塞(ふさ)いで緘黙行(しじま)を守ることは、死ぬよりもつらい行(ぎょう)であった。 刀自らの油断を見ては、ぼつぼつ話をしている。 そのきれぎれが、聞こうとも思わぬ郎女の耳にも、ぼつぼつ這入って来勝ちなのであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.228)


      鶯の鳴く声は、あれで、法華経法華経と言うのじゃで−−。
      ほほ、どうして、え−−。
      天竺のみ仏は、〔おなご〕は、助からぬものじゃと、説かれ説かれして来たがえ、その果てに、女(おなご)でも救う道が開かれた。 それを説いたのが、法華経じゃと言うげな。
      −−こんなこと、おなごの身で言うと、さかしがりよと思うけれど、でも、世間では、そう言うもの−−。
      じゃで、法華経法華経と経の名を唱えるだけで、この世からして、あの世界の苦しみが、助かるたいの。
      ほんまにその、天竺のおなごが、あの鳥に化(な)り変って、み経の名を呼ばわるのかえ。
    郎女には、いつか小耳に挿んだその話が、その後、いつまでも消えて行かなくなった。 その頃ちょうど、称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅぎょう)を、千部写そうとのを発(おこ)していた時であった。それが、はかどらぬ。 いつまでも進まぬ。 茫(ぼう)とした耳に、この世話(よばなし)が再(ふたたび)また、紛(まぎ)れて入って来たのであった。

    (《折口信夫 死者の書》P.229)


    ふっと、こんな気がした。
      ほほき鳥は、先の世で、御経(おんきょう)手写の願を立てながら、え果(はた)さで、死にでもした、いとしい女子がなったのではなかろうか。……そう思えば、もしや今、千部に満たずにしまうようなことがあったら、我が魂は何になることやら。 やっぱり、鳥か、虫にでも生れて、切なく鳴き続けることであろう。
    ついに一度、ものを考えた事もないのが、この国のあて人の娘であった。 磨(みが)かれぬ智慧を抱(いだ)いたまま、何も知らず思わずに、過ぎて行った幾百年、幾万の貴い女性(にょしょう)の間に、蓮(はちす)の花がぽっちりと、莟(つぼみ)を擡(もた)げたように、物を考えることを知り初(そ)めた郎女であった。

    (《折口信夫 死者の書》P.229〜230)


      おれよ。 鶯よ。 あな姦(かま)や。 人に、物思いをつけくさる。
    (《折口信夫 死者の書》P.230)


      そんな事は、どうでも−−。 まず、郎女さまを−−。
    噛(か)みつくようにあせっている家長老額田部子古(いえおとなぬかたべのこふる)の〔がなり〕声がした。
    同時に、表戸は引き剥(は)がされ、それに隣(とな)った、幾つかの竪薦(たつごも)をひきちぎる音がした。

    (《折口信夫 死者の書》P.231)


    ずうと這い寄って来た身狭乳母(むさのちおも)は、郎女の前に〔居たけ〕を聳かして、掩(おお)いになった。
    外光の直射を防ぐためと、一つは、男たちの前、殊には、庶民の目に、貴人(あてびと)の姿を暴(さら)すまい、とするのであろう。

    (《折口信夫 死者の書》P.231)


      なも 阿弥陀ほとけ。 あなとうと 阿弥陀ほとけ。
    何の反省もなく、唇を洩れた詞。 この時、姫の心は、急に寛ぎを感じた。 さっと−−汗。 全身に流れる冷さを覚えた。 畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、すぐに動顛(どうてん)した心を、とり直すことが出来た。

    (《折口信夫 死者の書》P.240〜241)


      のうのう。 あみだほとけ……。
    今一度口に出してみた。 おとといまで、手写しとおした、称讃浄土経(しょうさんじょうどきょう)の文(もん)が胸に浮ぶ。 郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗(のぞ)いたこともなかった。 父君は家の内に道場を構えていたが、簾越しにも聴聞(ちょうもん)は許されなかった。 御経(おんきょう)の文(もん)は手写しても、もとより意趣は、よく訣(わか)らなかった。 だが、処々には、かつがつ気持の汲みとれる所があったのであろう。 さすがに、まさかこんな時、とっさに口に上ろう、とは思うていなかった。

    (《折口信夫 死者の書》P.241)


    山の躑躅の色は、様々ある。 一つ色のものだけが、一時に咲き出して、一時に萎(しぼ)む。 そうして、およそ一月は、後から後から替った色のが匂い出て、禿(は)げた岩も、一冬うら枯れをとり返さぬ柴木山も、若夏の青雲の下に、はでなかざしをつける。 その間に、藤の短い花房(はなぶさ)が、白くまた紫に垂れて、老い木の幹の高さを、せつなく、寂しく見せる。 下草に交って、馬酔木(あしび)が雪のように咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに、過ぎるのがあわれである。
    (《折口信夫 死者の書》P.262)


    もうこの頃になると、山は厭わしいほど緑に埋(うも)れ、谷は深々と、繁りに隠されてしまう。 郭公(かっこう)は早く鳴き嗄(か)らし、時鳥(ほととぎす)が替って、日も夜も鳴く。
    (《折口信夫 死者の書》P.262)


    草の花が、どっと怒涛(どとう)の寄せるように咲き出して、山全体が花原みたようになって行く。 里の麦は刈(か)り急がれ、田の原は一様に青みわたって、もうこんなに伸びたか、と驚くほどになる。 家の庭苑(その)にも、立ち替り咲き替って、栽(う)え木、草花が、どこまで盛り続けるかと思われる。 だがそれも一盛りで、(つぼ)はひそまり返ったような時が来る。 池には(あし)が伸び、(がま)が(ほ)(い)が抽(ぬき)んでて来る。 遅々として、しかし忘れた頃に、にわかに伸(の)し上るように育つのは、蓮の葉であった。
    (《折口信夫 死者の書》P.262〜263)


    寺々の知音に寄せて、当麻寺へ、よいように命じてくれるように、と書いてもやった。 また処置方について伺うた横佩墻内の家の長老(とね)・刀自たちへは、ひたすら、汝等の主(あるじ)の郎女を護っておれ、と言うような、抽象風(ちゅうしょうふう)なことを、答えて来たりした。
    (《折口信夫 死者の書》P.263〜264)


    次の消息には、何かと具体した仰せつけがあるだろう、と待っている間に、日が立ち、月が過ぎて行くばかりである。 その間にも、姫の失われたと見える魂が、お身に戻るか、それだけの望みで、人々は、山村に止っていた。 物思いに、屈託(くったく)ばかりもしていぬ若人たちは、もう池のほとりにおり立って、伸びた蓮の茎を切り集めだした。 それを見ていた寺の婢女(めやっこ)が、それはまだ若い、もう半月もおかねばと言って、寺領の一部に、蓮根(はすね)を取るために作ってあった蓮田(はちすだ)へ、案内しよう、と言い出した。
    (《折口信夫 死者の書》P.264)


    あて人の家自身が、それそれ、農村の大家(おおやけ)であった。 それが次第に、官人(つかさびと)らしい姿に更(かわ)って来ても、家庭の生活には、いつまでたっても、 どこか農家らしい様子が、残っていた。家構えにも、屋敷の広場(にわ)にも、家の中の雑用具(ぞうようぐ)にも。 第一、女たちの生活は、起居(たちい)〔ふるまい〕なり、服装なりは、優雅(ゆうが)に優雅にと変っては行ったが、やはり昔の農家の家内(やうち)の匂いがつき纏うて離れなかった。刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よくその家の遠い田荘(なりどころ)へ行って、数日を過して来るような習しも、絶えることなく、くり返されていた
    (《折口信夫 死者の書》P.264〜265)


    だから、刀自たちはもとより若人らも、〔つくねん〕と女部屋の薄暗がりに、明し暮しているのではなかった。 てんでに、自分の出た村方の手芸を覚えていて、それを、仕える君のために為出(しいだ)そう、と出精してはたらいた。
    (《折口信夫 死者の書》P.265)


    裳の襞(ひだ)を作るのに珍(な)い術(て)を持った女などが、何でもないことで、とりわけ重宝がられた。袖の先につける鰭袖(はたそで)を美しく為立(した)てて、それに、珍しい縫いとりをする女なども居た。 こんなのは、どの家庭にもある話でなく、こういう若人をおきあてた家は、一つのよい〔見てくれ〕を世間に持つ事になるのだ。 一般(いっぱん)に、染めや、裁ち縫いが、家々の顔見合わぬ女どうしの競技のように、もてはやされた。 摺り染めや、(う)ち染めの技術も、女たちの間には、目立たぬ進歩が年々にあったが、(ひ)で染めのための染料が、韓の技工人(てびと)の影響から、途方もなく変化した。 紫と謂っても、茜(あかね)と謂っても皆、昔のような、染め漿(しお)の処置(とりあつかい)はせなくなった。 そうして、染め上りも、艶々(つやつや)しく、はでなものになって来た。 表向きは、こうした色の禁令が、次第に行きわたって来たけれど、家の女部屋までは、官(かみ)の目も届くはずはなかった。
    (《折口信夫 死者の書》P.265)


    家庭の主婦が、居まわりの人を促(うなが)したてて、自身も精励してするような為事は、あて人の家では、刀自等の受け持ちであった。 若人たちも、田畠に出ぬと言うばかりで、家の中の為事は、まだ見参(まいりまみえ)をせずにいた田舎暮しの時分と、大差はなかった。 とりわけ違うのは、その家々の神々に仕えると言う、誇りはあるが、小むつかしい事がつけ加えられている位のことである。 外出には、下人たちの見ぬようにを深々とかずき、その下には、更に薄帛(うすぎぬ)を垂らして出かけた。
    (《折口信夫 死者の書》P.266)


    一時(いっとき)たたぬうちに、婢女(めやっこ)ばかりでなく、自身たちも、田におりたったと見えて、泥(どろ)だらけになって、若人たち十数人は戻って来た。 皆手に手に、張り切って発育した、蓮の茎を抱(かか)えて、の前に並んだのには、常々〔くすり〕とも笑わぬ乳母(おも)たちさえ、腹の皮をよって、切(せつ)ながった。
      郎女様。 ご覧(ろう)じませ。
    竪張(たつばり)を手でのけて、姫に見せるだけが、やっとのことであった。
      ほう−−。
    何が笑うべきものか、何が憎(にく)むに値するものか、一切知らぬ上臈(じょうろう)には、ただ常と変った皆の姿が、羨(うらやま)しく思われた。

    (《折口信夫 死者の書》P.266)


      この身も、その田居とやらにおり立ちたい−−。
      めっそうなこと、仰せられます。
    めっそうな。きまって、誇張(こちょう)した顔と口との表現で答えることも、このごろ、この小社会で行われ出した。 何から何まで縛(しば)りつけるような、身狭乳母(むさのちおも)に対する反感も、この〔ものまね〕で幾分、いり合せがつくような気がするのであろう。

    (《折口信夫 死者の書》P.267)


    その日からもう、若人たちの糸縒りは初まった。 夜は、閨の闇の中で寝る女たちには、稀(まれ)に男の声を聞くこともある、奈良の垣内(かきつ)住いが、恋しかった。 朝になるとまた、何もかも忘れたようになって績(う)み貯める
    (《折口信夫 死者の書》P.267)


    そうした糸の、六かせ七かせを持って出て、郎女に見せたのは、その数日後であった。
      乳母(おも)よ。 この糸は、蝶鳥の翼よりも美しいが、蜘蛛(くも)の巣(い)より弱く見えるがよ−−。
    郎女は、久しぶりでにっこりした。労を労う犒(ねぎら)うと共に、考えの足らぬのを憐(あわれ)むようである。
    刀自は、驚いて姫の詞を堰き止めた。
      なるほど、これは(さく)過ぎまする
    (《折口信夫 死者の書》P.267〜268)


    女たちは、板屋に戻っても、長く、健(すこ)やかな喜びを、皆して語っていた。全く些(すこ)しの悪意もまじえずに、言いたいままの気持から
      田居とやらへおりたちたい−−、
    を反復した。

    (《折口信夫 死者の書》P.268)


    刀自は、若人を呼び集めて、
      もっと、きれぬ糸を作り出さねば、物はない。
    と言った。 女たちの中の一人が、
      それでは、刀自に、何ぞよいご思案が−−。
      さればの−−。
    昔を守ることばかりは〔いかついが、新しいことの考えはただ、尋常(よのつね)のごとく、愚(おろ)かしかった。

    (《折口信夫 死者の書》P.268)


    ゆくりない声が、郎女の口から洩れた。
      この身の考えることが、出来ることか試してみや。
    うま人を軽侮(けいぶ)することを、神への忌みとしていた昔人である。 だが、かすかな軽しめに似た気持が、皆の心に動いた。

    (《折口信夫 死者の書》P.268〜269)


      夏引きの麻生(おふ)の麻(あさ)を績むように、そして、もっと日ざらしよく、細くこまやかに−−。
    郎女は、目に見えぬものの〔さとし〕を、心の上で綴って行くように、語を吐(は)いた。

    (《折口信夫 死者の書》P.269)


    板屋の前には、にわかに、蓮の茎が(ほ)並べられた。 そうしてそれが(かわ)くと、谷の澱みに持ち下りて(ひた)浸しては晒(さら)し、晒しては水に漬(ひ)でた幾日の後、の上で槌(つち)の音高く、こもごも、交々(こもごも)と叩き柔らげた
    (《折口信夫 死者の書》P.269)


    その勤(いそ)しみを、郎女も時には、端近くいざり出て見ていた。咎めようとしても、思いつめたような目をして、見入っている姫を見ると、刀自は口を開くことが出来なくなった。
    (《折口信夫 死者の書》P.269)


    日晒しの茎を、八針(やつはり)に裂き、それをまた、幾針にも裂く。 郎女の物言わぬまなざしが、じっと若人たちの手もとをまもっている。 果ては、刀自も言い出した。
      私も、績みましょう。
    (《折口信夫 死者の書》P.269)


    績みに績み、また績みに績んだ。 藕糸(はすいと)のまるがせが、日に日に殖えて、廬堂(いおりどう)の中に、次第に高く積まれて行った。
    (《折口信夫 死者の書》P.269〜270)


      もう今日は、みな月に入る日じゃの−−。
    (こよみ)の事を言われて、刀自は〔ぎょっ〕とした。ほんに、今日こそ、氷室(ひむろ)の朔日(ついたち)じゃ。 そう思う下から歯の根のあわぬような悪感(おかん)を覚えた。大昔から、暦は聖(ひじり)の与(あずか)る道と考えて来た。 それで、男女はただ、長老(とね)の言うがままに、時の来また去った事を教(おそ)わって、村や、家の行事を進めて行くばかりであった。 だから、教えぬ日月を語ることは、極めて聡(さと)い人の事としていた頃である。いよいよ魂をとり戻されたのか、と瞻(まも)りながら、はらはらしている乳母であった。 ただ、郎女はまた、秋分の日の近づいて来ていることを、心にと言うよりは、身の内に、そくそくと感じ初めていたのである。は、池のも、田居のも、極度に長(た)けて、莟の大きくふくらんだのも、見え出した。 婢女(めやっこ)は、今が刈りしおだ、と教えたので、若人たちは、皆手も足も泥にして、また田に立ち暮す日が続いた。

    (《折口信夫 死者の書》P.270)


      郎女様が−−。
    誰かの声である。 皆、頭の毛が空へのぼるほど、ぎょっとした。 それが、何だと言われずとも、すべての心が、一度に了解していた。 言い難い恐怖にかみずった女たちは、誰一人声を出す者も居なかった。

    (かみずった:うわずった。)
    (《折口信夫 死者の書》P.272)


    身狭(むさの)乳母は、今の今まで、姫の側に寄って、後から姫を抱(かかえ)えていたのである。 皆の人のけはいで、覚め難い夢から覚めたように、目をみひらくと、ああ、いつの間にか、姫は嫗の両腕両膝(もろうでもろひざ)の間には、居させられぬ。 一時に、慟哭(どうこく)するような感激(かんげき)が来た。 だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。 凛として、反り返るような力が、湧き上った。
      誰(た)ぞ、弓を−−。鳴弦(つるうち)じゃ。
    人を待つ間もなかった。 彼女(かのじょ)自身、壁代(かべしろ)に寄せかけて置いた白木の檀弓(まゆみ)をとり上げていた。

    (《折口信夫 死者の書》P.272)


      それ皆の衆−−。 反閇(あしぶみ)ぞ。 もっと声高(こわだか)に−−。 いっし、あっし、それ、あっしあっし……。
    若人たちも、一人一人の心は、とくに飛んで行ってしまっていた。 ただ一つの声で、警●“馬畢”けいひつ)を発し、反閇(へんぱい)した。

    (反閇(あしぶみ):足踏みをして邪気を払う呪法。へんぱい。
    警●(けいひつ):警蹕とも、
    貴人の出入りや神事の際に先ばらいをする声。)
    (《折口信夫 死者の書》P.272〜273)


      あっし あっし。 あっし あっし あっし。
    狭い廬の中を踏んで廻った。 脇目からは、遶道(にょうどう)する群れのように。

    (遶道(にょうどう):法会の際に読経しながら仏堂の周囲を右まわりにまわること。)
    (《折口信夫 死者の書》P.273)


      郎女様は、こちらにござりますか。
    万法蔵院の婢女(めやっこ)が、息をきらして走って来て、いつもなら、許されていぬ無作法で、近々と、廬の(みぎり)に立って叫んだ。
      なに−−。
    皆の口が、一つであった。
      郎女様か、と思われるあて人が−−、み寺の門(かど)に立っていさっせるのを見たで、知らせにまいりました。
    (《折口信夫 死者の書》P.273)


    廬堂の中は、前よりは更に狭くなっていた。 郎女が、奈良の御館からとり寄せた高機(たかはた)を、設(た)てたからである。 機織りに長けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。 この女らの動かして見せる(おさ)や(ひ)の扱い方を、姫はすぐに会得(えとく)した。 機に上って日ねもす、時には終夜(よもすがら)織ってみるけれど、蓮の糸は、すぐに円(つぶ)になったり、断(き)れたりした。 それでも、倦ますにさえ織っていれば、いつか織りあがるもの、と信じているように、脇目からは見えた。
    (《折口信夫 死者の書》P.277)


    乳母は、人に見せたことのない憂わしげな顔を、この頃よくしている。
      何しろ、唐土(もろこし)でも、天竺から渡った物より手に入らぬ、という藕糸織(はすいとお)りを遊ばそう、と言うのじゃもののう。
    話相手にもしなかった若い者たちに、時々うっかりと、こんな事を、言うようになった。
      こう糸が無駄になっては。
      今の間にどしどし(う)んでおかいでは−−。
    乳母(ちおも)の語に、若人たちはまた、広々とした野や田の面におり立つことを思うて、心がさわだった。

    (《折口信夫 死者の書》P.248)


    あて人に仕えていても、女はうっかりすると、人の評判に時を移した。
      やめい、やめい。 お耳ざわりぞ。
    しまいには、乳母が叱りに出た。 だが、身狭刀自(むさのとじ)自身のうちにも、もだもだと咽喉(のど)につまった物のある感じが、残らずにはいなかった。 そうして、そんなことにかまけることなく、何の訣(わけ)やら知れぬが、一心に糸を績み、機を織っている育ての姫が、いとおしくてたまらぬのであった。

    (《折口信夫 死者の書》P.279)


    郎女は、断(き)れては織り、織っては断れ、手がだるくなっても、まだ梭(ひ)を放そうともせぬ。
    (《折口信夫 死者の書》P.279)


    だが、この頃の姫の心は、満ち足ろうていた。 あれほど、夜々(よるよる)見ていた俤人(おもかげびと)の姿も見ずに、安らかな気持ちが続いているのである。
    この機を織りあげて、はようあの素肌のお身を、掩うてあげたい。

    (《折口信夫 死者の書》P.279)


    そればかり考えている。世の中になし遂げられぬもののあるということを、あて人は知らぬのであった。
      ちょう ちょう はた はた。
      はた はた ちょう……。
    筬を流れるように、手もとにくり寄せられる糸が、動かなくなった。 引いても扱(こ)いても通らぬ。 筬の歯が幾枚も毀(こぼ)れて、糸筋の上にかかっているのが見える。

    (《折口信夫 死者の書》P.280)


    姫ははじめて、顔へ偏(かたよ)ってかかって来る髪のうるささを感じた。筬の櫛目(くしめ)を覗いてみた。梭もはたいてみた。
      ああ、いつになったら、したてた衣(ころも)を、お肌へふくよかにお貸し申すことが出来よう。
    (《折口信夫 死者の書》P.280)


    もう外の叢で鳴き出した、蟋蟀の声を、瞬間思い浮かべていた。
      どれ、およこし遊ばされ。 こう直せば、動かぬこともおざるまい−−。
    どうやら聞いた気のする声が、機の外にした。

    (《折口信夫 死者の書》P.280〜281)


    あて人の姫は、どこから来た人とも疑わなかった。 ただ、そうした好意ある人を、予想していた時なので、
      見てたもれ。
    機をおりた。
    女は尼であった。 髪を切って尼そぎにした女は、それも二三度は見かけたことはあったが、剃髪(ていはつ)にした尼には会うたことのない姫であった。

    (《折口信夫 死者の書》P.281)


      はた はた ちょう ちょう。
    元の通りの音が、整って出て来た。

    (《折口信夫 死者の書》P.281)


      蓮の糸は、こういう風では、織れるものではおざりませぬ。 もっと寄ってごろうじ−−。 これこう−−おわかりかえ。
    当麻語部姥(かたりの)の声である。 だが、そんなことは、郎女の心には、問題でもなかった。
      おわかりなさるかえ。 これこう−−。
    姫の心は〔こだま〕のごとく聡くなっていた。 この才伎(てわざ)の経緯(ゆきたて)は、すぐ呑み込まれた。
      織ってごろうじませ。
    姫が、高機に代って入ると、尼は機陰に身を倚せて立つ。
      はた はた ゆら ゆら。
    音までが、変って澄み上った。

    (《折口信夫 死者の書》P.281〜282)


      女鳥(めとり)の わがおおきみの織(おろ)す機。 誰(た)が為(た)ねろかも−−、ご存じ及びでおざりましょうのう。 昔、こう、機殿(はたどの)の●“片窓”(まど)からのぞきこうで、問われたお方様がおざりましたっけ。 −−その時、その貴い女性(にしょう)がの、
      たか行くや、隼別(はやぶさわけ)の御被服料(みおすいがね)−−そうお答えなされたとのう。
      この中(じゅう)申し上げた滋賀津彦(しがつひこ)は、やはり隼別でもおざりました。天若日子(あめわかひこ)でもおざりました。天の日(ひ)に矢を射かける−−。 しかし、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。
      截(き)りはたり、ちょうちょう。 それ−−、早く織らねば、やがて、岩牀の凍る冷い冬がまいりますがよ−−。
    (《折口信夫 死者の書》P.282)


    郎女は、ふっと覚めた。 あぐね果てて、機の上にとろとろとした間の夢だったのである。 だが、梭をとり直して見ると、
      はた はた ゆら ゆら はたた。
    美しい織物が、筬の目から迸る。
      はた はた ゆら ゆら。
    思いつめてまどろんでいる中に、郎女の智慧が、一つ閾を越えたのである。

    (《折口信夫 死者の書》P.282〜283)


    (もち)の夜の月が冴(さ)えていた。 若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反(ひとむら)の上帛(はた)を、夜の更けるのも忘れて、見讃(みはや)していた。
      この月の光りを受けた美しさ。
      ●(糸兼)(かとり)のようで、韓織(からおり)のようで、−−やっぱり、これより外にはない、清らかな上帛(はた)じゃ。

    乳母も、遠くなった眼をすがめながら、譬(たと)えようのない美しさと、ずっしりとした手あたりを、若い者のように楽しんでは、撫(な)でまわしていた。

    上帛(はた):上等の白い絹布
    ●(かとり、“糸兼”で1文字):固織(かたおり)。細かく固く織った絹布。

    (《折口信夫 死者の書》P.283)


    二度目の機は、初めの日数の半(なから)であがった。三反(みむら)の上帛(はた)を織りあげて、姫の心には、新しい不安が頭をあげてきた。五反(いつむら)目を織りきると、機に上ることをやめた。 そうして、日も夜も、針を動した。
    (《折口信夫 死者の書》P.283〜284)


    長月の空は、三日の月のほのめき出したのさえ、寒く眺められる。 この夜寒に、俤人の肩の白さを思うだけでも、堪(た)えられなかった。
    (《折口信夫 死者の書》P.284)


    裁ち縫うわざは、あて人の子のする事ではなかった。ただ、他人(ひと)の手に触れさせたくない。 こう思う心から、解いては縫い、縫うてはほどきした。現(うつ)し世(よ)の幾人にも当る大きなお身に合う衣を、縫うすべを知らなかった。 せっかく織り上げた上帛(はた)を、裁ったり戴ったり、だんだん布は狭くなって行く。
    (《折口信夫 死者の書》P.284)


    女たちも、ただ姫の手わざを見ているほかはなくなった。何を縫うものとも考え当らぬ囁(ささや)きに、日を暮すばかりである。
    (《折口信夫 死者の書》P.284)


    その上、日に増し、外は冷えて来る。 人々は一日も早く、奈良の御館に帰ることを願うばかりになった。 郎女は、暖かい昼、薄暗い廬の中で、うっとりとしていた。 その時、語部(かたり)の尼が歩み寄って来るのを、またまざまざと見たのである。
    (《折口信夫 死者の書》P.284)


      何を思案遊ばす壁代(かべしろ)のように縦横に裁ちついで、そのまま身に纏うようになさる外はおざらぬ。 それ、ここに紐(ひも)をつけて、肩の上でくくりあわせれば、昼は衣になりましょう。 紐を解き敷いて、折り返し被(かぶ)れば、やがて夜の衾(ふすま)にもなりまする。 天竺の行人(ぎょうにん)たちの着る僧伽梨(そうぎやり)というのが、それでおざりまする。早くお縫いあそばされ
    (《折口信夫 死者の書》P.284〜285)


    だが、気がつくと、やはり昼の夢を見ていたのだ。 裁ちきった布を綴(つづ)り合せて縫い初めると、二日もたたぬ間に、大きな一面の綴りの上帛(はた)が出来あがった。
    (《折口信夫 死者の書》P.285)


      郎女様は、月ごろかかって、ただの壁代をお織りなされた。
      あったら、惜しやの。
    〔はり〕が抜けたように、若人(わこうど)たちが声を落して言うている時、姫は悲しみながら、次の営みを考えていた。
      これでは、あまり寒々としている。 殯(もがり)の庭の棺(ひつぎ)にかける〔ひしきもの〕−喪氈−、とやらいうものと、見た目にかわりはあるまい
    (《折口信夫 死者の書》P.285)


    もう、世の人の心は賢しくなり過ぎていた。 独り語りの物語りなどに、信(しん)をうちこんで聴く者のあるはずはなかった。 聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言う者がある、と思うて近づくと、それが、語部の家の者だったなどと言う話が、どの村でも、笑い咄のように言われるような世の中になっていた。 当麻語部(たぎののかたりべ)の嫗なども、都の上臈(じょうろう)の、もの疑いせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。 だが、たちまち違った氏の語部なるが故に、追い退(の)けられたのであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.285〜286)


    そういう聴きてを見あてた刹那に、持った執心の深さ。 その後、自身の家の中でも、また廬堂(いおりどう)に近い木立ちの陰でも、あるいはそこを見おろす山の上からでも、郎女に向ってする、ひとり語りは続けられていた。
    (《折口信夫 死者の書》P.286)


    今年八月、当麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされたあの時こそ、再己(ふたたびおの)が世が来た、と〔ほくそ笑み〕をした−−が、氏の神祭りにも、語部を請(しょう)じて、神語りを語らそうともせられなかった。 ひきついであった、勅使の参向の節にも、呼び出されて、当麻氏の古物語を奏上せい、と仰せられるか、と思うていた予期(あらまし)も、空頼(からだの)みになった。
    (《折口信夫 死者の書》P.286)


    これはもう、自身や、自身の祖(おや)たちが、長く覚え伝え、語りついで来た間、こうした事に行き逢おうとは、考えもつかなかった時代(ときよ)が来たのだ、と思うた瞬間、何もかも、見知らぬ世界に追放(やら)われている気がして、ただ驚くばかりであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.286〜287)


    (たの)しみを失いきった語部(かたりべ)の古婆は、もう飯を喰(た)べても、味は失うてしまった。 水を飲んでも、口をついて、独り語りが囈語(うわごと)のように出るばかりになった。
    (《折口信夫 死者の書》P.287)


    秋深くなるにつれて、衰えの、目立って来た姥は、知る限りの物語りを、喋りつづけて死のう、という腹をきめた。 そうして、郎女の耳に近い処を〔ところ〕をと覓(もと)めて、さまよい歩くようになった。
    (《折口信夫 死者の書》P.287)


    郎女は、奈良の家に送られたことのある、大唐の彩色(えのぐ)の数々を思い出した。 それを思いついたのは、夜であった。今から、横佩墻内へ馳せつけて、彩色を持って還れ、と命ぜられたのは、女の中に、ただ一人残っていた長老(おとな)である。ついしか、こんな言いつけをしたことのない郎女の、性急な命令に驚いて、女たちはまた、何か事の起るのではないか、とおどおどしていた。 だが、身狭乳母(むさのちおも)の計いで、長老(おとな)は渋々、夜道を、奈良へ向って急いだ。
    ついしか:いまだかつて
    (《折口信夫 死者の書》P.287)


    あくる日、絵具(えのぐ)の届けられた時、姫の声ははなやいで、興奮(はや)りかに響いた。
    (《折口信夫 死者の書》P.288)


    女たちの噂した所の、袈裟(けさ)で謂えば、五十条の大衣(だいえ)とも言うべき、藕糸(ぐうし)の上帛の上に、郎女の目はじっとすわっていた。 やがて筆は、愉(たの)しげにとり上げられた。線描(すみが)なしに、うちつけに絵具(えのぐ)を塗り進めた。 美しい彩画(たみえ)は、七色八色の虹(にじ)のように、郎女の目の前に、輝き増して行く。
    (《折口信夫 死者の書》P.288)


    姫は、緑青(ろくしょう)を盛(も)って、層々うち重る楼閣伽藍の屋根を表した。 数多い柱や、廊の立ち続く姿が、目赫(めかがや)くばかり、朱で彩(た)みあげられた。 むらむらと靉(たなび)くものは、紺青(こんじょう)の雲である。 紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の上から、画(か)きおろされた。 雲の上には金泥(こんでい)の光り輝く靄(もや)が、漂いはじめた。 姫の命を搾(しぼ)るまでの念力が、筆のままに動いている。 やがて金色(こんじき)の雲気(うんき)は、次第に凝(こ)り成して、照り充ちた色身(しきしん)−−現し世の人とも見えぬ尊い姿が顕れた。
    (《折口信夫 死者の書》P.288)


    郎女はただ、先の日見た、万法蔵院の夕(ゆうべ)の幻(まぼろし)を、筆に追うているばかりである。
    (《折口信夫 死者の書》P.288)


    堂・塔・伽藍すべては、当麻のみ寺のありの姿であった。 だが、彩画(たみえ)の上に湧き上った宮殿(くうでん)楼蘭は、兜率天宮(とそつてんぐう)のただずまいさながらであった。 しかも、その四十九重(しじゅうくじゅう)の宝宮の内院に現れた尊者の相好は、あの夕、近々と目に見た俤びとの姿を、心に覓(と)めて描き顕したばかりであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.288〜289)


    刀自・若人たちは、一刻一刻、時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞(かすみ)に、ただ見呆(ほう)けているばかりであった。
    (《折口信夫 死者の書》P.289)


    郎女が、筆をおいて、にこやかな笑(えま)いを、円(まろ)く跪坐(ついい)るこの人々の背におとしながら、のどかにしかし、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。 まして、戸口に消える際に、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、ある訣(わけ)はなかった。
    (《折口信夫 死者の書》P.289)


    姫の俤びとに貸すための衣に描いた絵様(えよう)は、そのまま曼陀羅(まんだら)の相(すがた)を具(そな)えていたにしても、姫はその中に、ただ一人の色身(しきしん)の幻を描いたに過ぎなかった。 しかし、残された刀自・若人たちの、うち瞻(まも)る画面には、見る見る、数千地涌(すせんじゆ)の菩薩(ぼさつ)の姿が、浮き出て来たそれは、幾人の人々が、同時に見た、白日夢(はくじつむ)のたぐいかも知れぬ。
    (昭和十四年一−三月)
    (《折口信夫 死者の書》P.289)


    実川延若讃

    この優の面貌をご案内すれば、真砂坐(まさござ)にいる璃宗を〔上味醂で、煮上げた〕と見て可ならん」とは、好評を彼に与えた朝日新聞東帰坊(とうきぼう)の劇評(続々歌舞伎年代記所引)の中の漫言(まんげん)である。 三度目の七月は、団七九郎兵衛石井常右衛門を出し物にしている。 八月は、「塩原(しおばら)」「妹背山(いもせやま)」で、延二郎多助お三輪(みわ)である。 九月「源太勘当(げんたかんどう)」の平次景高(かげたか)、「三勝半七(さんかつはんしち)」のお園(その)早替り代官十内(じゅうない)、「五十三次」の怪猫(かいびょう)・猟人繁蔵(りょうじんはんぞう)といった風の役割であった。 うっかりすれば、悪達者と言う評判の立ちそうな働きぶりである。 同じ頃、後年延若との適当な提携者(ていけいしゃ)であり、また深い融け合わぬものを持っていた中村成太郎(魁車)が、東上して、明治座に入った。 その九月興行に、後の(いおり)の待遇(たいぐう)を受けて、侍女(じじょ)早咲おとり矜羯羅童子(こんがらどうじ)・夏目半楽盛岡屋(もりおかや)おなるの役割を得た。
    (《折口信夫 実川延若讃》P.306)


    魁車は、この後数年東京にいるのだが、東上の理由には、直接には幼い恋愛(れんあい)問題と、中村政治郎(後福助三代目梅玉(ばいぎょく))に対する位置問題とがあったのだというが、その決心を促(うなが)した動機には、延二郎東京上りの刺激(しげき)があったに違いない。 そうしてやがて、政治郎も、父福助(二代目梅玉)に伴(ともな)われて上京することになるのである。 三人三様の東京入り、考えてみると、偶然(ぐうぜん)と必然と、三人の若い役者に纏綿(てんめん)する、緒手巻(おだまき)の糸のような物があってこの後四十年に亘(わた)って、解けつもつれつする様が、思い起されるのである。 東京座の連続興行は、翌年まで打ち続いて、三十三年の正月芝居には、寿美蔵(すみぞう)・猿之助(えんのすけ)(段四郎)・染五郎(そめごろう)(幸四郎)・九女八(くめはち)などの加入がある。 中で、延二郎は「陣屋(じんや)」の義経(よしつね)、「松竹梅(しょうちくばい)」のお杉(すぎ)という軽い役に廻(まわ)っているが、評判はだんだんによくなって来ている。
    (《折口信夫 実川延若讃》P.306〜307)


    日本文章の発想法の起り

      一

    古代の文章の特徴(とくちょう)と云(い)うと、誰(だれ)しも対句(ついく)・畳句(じょうく)・枕詞(まくらことば)。譬喩(ひゆ)などを挙げる。 私はこういう順序で話して行きたい。

      対句──畳句
      ↓
      譬喩─→枕詞←─序歌
          ↑
          └─────────┐
      嘱目発想───待想独白───象徴
      (しょくもく)

      畳句:同一の句を重ねて用いたもの。
      嘱目:目を向けること。(目へんに、属の旧字?)

    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.332)


    畳句は不整頓(ふせいとん)な対句であって、対句は鮮(あざ)やかに相等を感ぜざせる畳句である。その起りは神憑(かみつ)きの狂乱時(きょうらんじ)の言語にあることは、他に言うた。 気分において、ほぼ思考の向きは知れていても、発想するまでに熟せない時に、何がなしに語をつけるという律文の根本出発点からして、この句法を用いることが、やはり便利に感ぜられて来る。対照して言う中に、だんだん考えの中核(ちゅうかく)に入り込(こ)んで行くからである。 元々、その意識なしに行いながら、自然あちら側こちら側という風に、言いかえてみる訣(わけ)になるのであるから。同義語を盛(さか)んに用いる必要のある処(ところ)から、言語の微細(びさい)な区別を考えることに進んで来た。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.332〜333)


    また、どうすればある語に対偶(たいぐう)が出来るかと言う簡単な努力が外界の物の似よりけじめを明らかに考えさせて行く。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.333)


    しかし、古代には、これらの努力が意識せられた技巧(ぎこう)でなく、無意識に口から出任せに出て来たのである。 それは、狂(くる)いの力が、技巧を超越(ちょうえつ)するからである。 第三段になって、意識的に対句を据(す)えることになっても、後世の人のように苦心をせない。似より・似よらずにかかわらず、見た目・言う語で、対象に立てて行くのだから、比較(ひかく)を失したものは差別の対象となり、比較の叶(かの)うものは同等の比較となる。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.333〜334)


    対句は内容の対偶を出発点として、だんだん形式一遍(いっぺん)に流れて、無理にも対立形式を整えることになる。 畢竟(ひっきょう)、狂いの時の心の〔くどく〕て周到(しゅうとう)に働く心持ちが、(く)り返しをして、もしあるかも知れぬ不足を補おうとするのである。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.334)


      丹比野(ただひの)に 寝むと知りせば、堅薦(たつごも)持ちて来ましもの。 寝むと知りせば (履中記(りちゅうき))
    これなどは、二句を五句でうち返す形の中の殊(こと)に〔くどい〕ものである。声楽の必要は、二の次であったからである。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.334)


      浅小竹原(あさしぬはら)(こし)なづむ。 空は行かず。 足よ行くな (景行記(けいこうき))
    三・四の句は、内面には対句となっている。 外側は、一・二句と三・四句とが対句の形をとっている。 こうした二つの部分に分れる形が、両方片手に延びて、頭勝ち尻太(しりぶと)になって、不整頓なものになる。 しかし部分部分に対句を求めようとする心は見える。



      をとめの 床(とこ)の辺(べ)に、わがおきし剣(つるぎ)の大刀。 その大刀はや (景行記)
    第五句は、上四句に対しての対句なのである。対句が意識せられて来ると、だんだん(はや)し詞(ことば)に近づく。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.335)


      尾張(をはり)に直(ただ)に向へる、尾津(をつ)の崎(さき)なる一つ松(まつ)、あせを。 ひとつ松 人にありせば、大刀佩(は)けましを。 衣(きぬ)着せましを。 一つ松、あせを (景行記)
    この形が、深く頭に入って、
      やすみしゝわが大君の、朝戸にはいより立たし、夕戸にはいよりたゝす 脇(わき)づぎが下の板にもが。 あせを (雄略記)
    というようなものになって、対句としての意味なく、単なる囃し詞になった。 この歌などは、対句としても長くなって来たもので、朝夕の違(ちが)いだけで対句としての位置を音脚(おんきゃく)に占(し)めるので、畳句と言うてもよいのだ。

    あせを:「吾兄を」の意。あご(吾子)よ、と同じく、男子に呼びかけるはやしことば。
    脇(わき)づぎが下の板にもが:ひじをもたせる脇息の下の板になりたい。

    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.335)


      道にあふや、尾代(をしろ)の子。 天にこそ聞えずからめ。 国には聞こえてな (雄略記)
    前のは一句で対句を作っているのに対して、これは二句で形式の整うた対句を拵(こしら)えている
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.335〜336)


      もゝしきの大宮人は、鶉(うづら)とり領巾(ひれ)とりかけて、まなばしらをゆきあへ、には雀(すずめ)うずゝまりゐて、今日(けふ)もかもさかみづくらし。 高光る日の宮人。 ことのかたりごとも、 こをば (雄略記)
    ここになると、内容の対句は形式の対句になって来る。 こうなるのには、寿詞(よごと)の方から出た理由があるのである。

    領巾(ひれ):女性が首から胸にかけてたらした白い布。
    まなばしらをゆきあへ:セキレイのように裳裾を交錯させて行ったりきたりして。
    かもさかみづくらし:酒宴を催しているらしい。
    寿詞(よごと):天皇の治世の長久、繁栄を祈ることば。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.336)


      二

     枕詞から序歌が出来たと考える人が多い。しかし、一考を要する単純から複雑になるのではなくて、世界の理法では、複雑が単純化せられて行くのが、ほんとうであるわりに自由な、かなりの長さの序歌から整うて来たのが、枕詞なのだ。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.338)


      ……さ寝むとは われは思へど、汝が著(け)せる おすひの裾(すそ)に つきたちにけり (景行記)

    おすひ:襲。衣裳の上に着る上着の一種。
    つきたちにけり:新月が現れる(月経の血がついているのをたとえていった)。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.338)


      こもりくの泊瀬(はつせ)の川ゆ 流れ来る竹の いくみ竹 よ竹、本べをば箏に造り、末べをば笛(ふえ)に造り、吹(ふ)き鳴(な)す御諸(みもろ)が上に 登り立ちわが見せば、つぬさはふ磐余(いはれ)の池の みなしたふ 魚も 上に出て歎(なげ)く (継体記(けいたいき))

    こもりく:両側から山がせまっているところから地名「泊瀬」にかかる枕詞。
    つぬさはふ:ツタが多く這う、の意(枕詞)。石(イワ)にかかる。つのさはふ。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.338)


      やすみしゝわが大君の、帯(お)ばせる さゝらのみ帯の 結び垂れ 誰やし人も 上に出て歎く (同)

    さゝらの:細かい模様の。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.338)


    大部分が事柄(ことがら)と謡(うた)との二部に分かれた譬喩を持った短い本文に続くために使われ、急に考えが纏(まとま)ってしまう。 結果から見れば、予定あってした修辞法に見えるが、元々、出任せに詞を聯(つら)ねて行くのである。 だから、中には紀行物づくしのような物が出来て来る。 これが進むと、並べて行く無意味な詞の部分部分に考えを結びつけて、終末に近づいてから思想を一貫させるという風になる。日本の道行きぶり物尽(ものづく)の起源は、そもそも、ここに発している
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.338〜339)


    的確な考えを捉えないで、しかもくどい物狂いの詞が、内容乏(とぼ)しく、呆(ほう)けた眼(め)に映じ、心に動く事物の介添(かいぞ)えで、言い方は早いが思想はのろく移って行く。 象徴的ではあっても、要領を得ない文句である。 神話の口頭文章に発した修飾法(しゅうしょくほう)が、そういう発生点を忘れても、こうした発想法を守っていたのは、やはり、考えは詞を述べる中に纏って来るからである三題噺(ばなし)その他の話術家の心持ちは、ここにあるのだ。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.339)


    嘱目の事は、外景を叙(じょ)して行く中に、だんだん考えの焦点(しょうてん)に入って来る。 気分は描写(びょうしゃ)に転じて来たのだ。 だから、一本の木の下枝・中枝・末枝という風に述べて行く。 どこを船で通り、次には、どこの村が見え、そのまた次には、どこにつき、その先のどこへ行ったという風に叙述している中に、描写性が語から促(うなが)されて出て来る。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.339〜340)


    枕詞の使用久しく、それをうける語との結合が密接になりきってしまうと、枕詞が実質の内容を持つことは、万葉あたりにも見える。 たらちねあおによしひさかたなどは、それである。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.342)


    枕詞は、同音異議を区別するために出来たと言う説をなりたたすためには、あまりに痕跡(こんせき)もない。 だから極めて古い時代に、その実施に行われた期間を考え据えなければならない。枕詞はだんだん内容の方に進んで行って、ひさかたのと言えば、天に属する物には自由につくようになり、ぬばたまのは黒色の聯想が、夜に及(およ)ぶことになった
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.342)


    枕詞が日常対話に用いられたことは、考えられない。託宣(たくせん)の詞に限ってあることであった。 それが、叙事詩寿詞に結びついて伝誦(でんしょう)せられ、民謡(みんよう)・創作詩の時代になっても、修辞部分として重んぜられていた。 創作詩の時代に、枕詞の新作せられたものもあるが、記紀などに見えるのは、多く固定した死語として物語の中に伝わったものである。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.343)


    社会局の谷口政秀(まさひで)氏は、枕詞はたくさんある物語の心おぼえで、何々枕言葉の最初にある物語という風にしていたのだろうと言われた。 これもおもしろい考えではある。 自然そうした為事(しごと)も出て来たにしても、起りは、それでは説明が出来ないようである。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.343)


     譬喩表現をとり入れてからは、枕詞や序歌は非常に変化してしもうたが、元は単純な尻取り文句のようなものであったのである。 それが内容と関聯するようになると、譬喩に一歩踏(ふ)み入る事になる。 たちまち対句の方で発達した譬喩表現に圧倒(あっとう)せられて、姿は易ってしもうたが、でも、玉桙(たまぼこ)・玉梓(たまずさ)と言えば、使を聯想したのは、譬喩にばかりもなりきらなかったのである。 駆使(はせつかい)に役せられた杖部(はせつかいべ)の民の持ったしるしの杖(つえ)を棒(ほこ)と言い、棒の木地から梓(あずさ)と言うたのである。 こうしたものは、だんだんなくなって、純粋(じゅんすい)譬喩に傾(かたむ)いたのが、主として人麻呂(ひとまろ)のした為事であった。死んだ一様式を文の上に活(いか)して来たわけである。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.343〜344)


      秋葱(き)の甚重(いやふた)ごもり 愛(を)しと思ふ (仁賢紀(にんけんき))
      山川に鴛鴦(をし)二つ居て、並(たぐ)ひよく並(たぐ)へる妹(いも)を。 誰か率(ゐ)にけむ (孝徳紀)
    これらは単に譬喩であって、古い意味の枕詞ではなかったであろう。 それが、藤原(ふじわら)・奈良(なら)になると、両方から歩みよってしもうたのである。
    (《折口信夫 日本文章の発想法の起り》P.344)














    継続中