[抜書き]『義に生きるか裏切るか』


『義に生きるか裏切るか』−名将がいて、愚者がいた−
中村彰彦・講談社文庫
2012年12月14日 第1刷発行
    目次
    第一部 戦国を生きた男と女
     知られざる勇将・松野主馬
      伯父は信長に殉ず   「楯裏の裏切り」は不義なり   「主馬さま」と呼ぶ子孫たち
     細川ガラシャを見捨てた家臣
      稲富流砲術開祖の人となり   押し寄せた石田勢に寝返って   忠興の立てた大蝋燭
     八丈流人・宇喜多秀家の現地妻
      八丈島に残る口伝   アイの本名は沢橋〔さし〕   二百六十四年後の赦免状
     沢橋兵太夫は何処へ
      加賀百万石につかえた孤児   十五年間も母恋か   乱心した二代目兵太夫
    第二部 かくて江戸は過ぎゆく
     徳川家康に狙われた姫君
      「甲州の女狩り」   ふたりの側室   穴山信邦の献上妻
     保科正之の母の面影
      徳川秀忠の見初めた女性   お静の安産祈願   信州高遠に死す
     ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景
      阿部重次と堀田正盛の場合   『詩経』の詩をヒントに   非情を排する武家諸法度改定
     空に挑んだカラクリ師たち
      飛行は墜落におわる   南蛮又九郎と表具師幸吉   五十メートル以上の大滑空
     望月鴻助の奔走
      伊豆韮山の代官所   連続二十八年以上の大赤字   「君が筏をやる川となる」
     松平容保の妻はなぜ嘆いたか
      照姫と敏姫   残された哀しみの歌   種痘をしなかったために
    第三部 幕末の波乱の陰に
     薩摩藩士・海江田信義の仮病
      島津久光と「鵺卿」のコンビ   江戸城に侵入した一団   生麦事件への道
     新選組・松山幾之介の行方
      足利三代木造梟首事件から   新選組隊士を派遣した理由   めぐる因果
     池田屋事変余波
      加賀百万石の若殿の登場   強気と弱気が交錯して   白手拭いで涙を押さえ
     最後の将軍・徳川慶喜の出処進退
      恭順・謹慎の評価をめぐって   「総司令官の敵前逃亡」は銃殺の刑    停戦命令を出せた立場
     白虎隊を襲った盗賊
      生き返った飯沼貞吉   「甚シキ悪漢」の出現   三日三晩介抱した父娘
     幕末無名戦士たちの肖像
      佐々木源四郎の力戦の跡   永倉新八の剣友・芳賀宜道   正体不明の大島誠夫
    第四部 秘められた戊辰戦争
     上総義軍と怨霊騒動
      脱藩した青年藩主   「史蹟真武根陣屋遺址碑」   降って湧いた怨霊騒ぎ
     証言から見た近藤勇の就縛前後
      貴重な体験談の宝庫『史談会速記録』   大の字に斃れていた男   大久保大和の正体は
     名槍流転−−宗近の大槍先について
      素槍に三種あり   禁門の変の二番槍   久吉・武馬を経て鶴ヶ城へ
     戊辰寒河江戦争−−東軍の死者について
      戦死者は桑名藩士十九人   凄絶なまでの抵抗   出土した骨は語る
     凌霜隊の脱落者
      会津援軍のすさまじい斬り合い   逃亡者白岩源助と山片俊三   結論は「勤王派のスパイ」
     桑名藩家老・酒井孫八郎のストレス
      藩主はおらず兵もなし   国許は恭順、殿様は抗戦   榎本武揚・土方歳三との交渉の果てに
     軍艦「甲鉄」とふたりの美男
      横浜にきた「ストンウォール」   伊庭八郎は「俳優ノ如キ好男子」   土方歳三の挑戦
     奇兵隊は近代的軍隊の原点か
      「順逆史観」の悪影響   奇兵隊は腐敗していた   脱走・武装蜂起・海賊化
    第五部 明治の伝統
     会津藩士と「緋色」の記憶
      リンゴ第一号の品種名は「緋の衣」   屈辱と哀しみの「泣血氈」   甦った喜びの「緋色」
     西南戦争と名刀伝説
      斬られた当人が気づかない   鬼官兵衛。試斬の刀   正宗VS.波平行安
     海軍の「単縦陣戦法」由来
      横隊戦術と縦隊・散兵戦術   海軍の定説は横陣有利   薩英戦争と黄海海戦を較べてみると
     最後の将軍の婿殿、神隠しに遭う
      大奥に消えた大名   延岡藩主は帰らなかったか   慶喜晩年の心配事
     軍神・杉野兵曹長は戦死したか
      小野田少尉はミンドロ島に?   杉野兵曹長は生きていた?!   「満州で饅頭屋をしていました」
    第六部 明治を駆け抜けた女たち
     悲しき毒婦・高橋お伝
      吉蔵殺し   逮捕のてんまつ   男から男への人生   貧困にまみれて   ふたたび仇討を主張して   判決は「斬罪申付ル」   からだと髑髏の行方
     女優第一号は芸者出身・川上貞奴
      自由童子・川上音二郎   芳町の売れっ子芸者   マダム貞奴誕生す   パリのサダヤッコ・ブーム   晩年は桃介と共に
     明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子
      結婚式に遅刻した新郎   姑との対立・夫の芸者買い   「乃木式」への変身   三典同葬の悲願   明治天皇と乃木希典   静子の書いた「母の訓」   懐剣と軍刀
    あとがき


    第一部 戦国を生きた男と女

     細川ガラシャを見捨てた家臣

     稲富流砲術開祖の人となり

     (まったく許しがたい男だな。 お前のことなど絶対に小説に書いてやらないからな
     と史料にむかって宣言したくなる厭(いや)なタイプの日本人にも、時に出会ってしまうことがある。 今回紹介する稲富祐直(いなどめすけなお)は、その代表のような人物である。
     「いなどめすけなお 稲富(留)祐直 一五五二〜一六一一(天文(てんぶん)二十一〜慶長(けいちょう)十六)(松寿丸・弥四郎・直家・伊賀守・一夢)丹後(たんご)国田辺(たなべ)の砲術家で一色満信(いっしきみつのぶ)の臣。 直秀(なおひで)の男。 祖父直時(なおとき)に砲術を学ぶ。 主家の滅亡後、細川忠興(ほそかわただおき)に仕え師範となる。 慶長二年(一五九七)の朝鮮の役には蔚山(うるさん)籠城(ろうじょう)で活躍(以下略)」(『戦国人名辞典』)
    (《義に生きるか裏切るか 細川ガラシャを見捨てた家臣》P.19〜20)


     細川忠興といえば長岡藤孝(ながおかふじたか)(幽斎)の長男として生まれ、当時は太閤秀吉に属して丹後宮津(みやづ)十二万石を領有していた大名である。
    (《義に生きるか裏切るか 細川ガラシャを見捨てた家臣》P.20)


     一説に二千石で細川家に召しかかえられた稲富は、「鉄砲の上手」(『細川家紀』)で秀吉にも射撃術を伝授したほどだが、生まれつき力が強く、具足(ぐそく)二領を重ね着して飛びまわることもできたので「二領具足」と渾名(あだな)されていた。 諸大名家から入門を求める者は引きもきらなかったというから、この稲富流砲術の開祖は当時のスターのひとりだったようだ。
    (《義に生きるか裏切るか 細川ガラシャを見捨てた家臣》P.20)


     八丈流人・宇喜多秀家の現地妻

     二百六十四年後の赦免状

     「加賀藩の八丈宇喜多氏への見継(貢)物は明治御一新浮田一類の御赦免(しゃめん)に到るまでつづいた。 時代が経つにつれて一類の人数もしだいにふえ、本流、庶流合して当時は二十家となり全島に亘(わた)って住居していた。 ここで念のために記しておくが、八丈では本家筋を宇喜多と記し庶流を浮田と記したという」(大隈三好『明治時代流人史』)
    (《義に生きるか裏切るか 八丈流人・宇喜多秀家の現地妻》P.33〜34)


     「朝政御一新ニ付浮田一類のもの家族一同御赦被仰付候……」  韮山(にらやま)県令江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)が、赦免状を出したのは明治二年二月のこと。 八丈島に届いたのは四月二十六日のことであったが、一族二十戸のうち十三戸は残留、七戸だけが八丈島を去って明治三年八月十六日に東京の鉄砲洲(てっぽうず)へ上陸を果たした、と同書にある。実に秀家の八丈送りから、二百六十四年を閲(けみ)していた。
    (《義に生きるか裏切るか 八丈流人・宇喜多秀家の現地妻》P.34)


    第二部 かくて江戸は過ぎゆく

     保科正之の母の面影

     お静の安産祈願

     そこでお静はひそかに竹村へ帰り、おなかの子を水子として流してしまった。 すると秀忠から、また呼び出しがくる。 やむなく大奥にもどったお静は、ふたたび懐妊。お江与の方の目を恐れるあまり、再度竹村へ逃れた。
    (《義に生きるか裏切るか 保科正之の母の面影》P.56)


     神尾一族の親族会議は、またしても人口流産をよしとする説に傾きかけた。 しかしこの時、お静の弟才兵衛が主張した。
     「正(まさ)しく天下、将軍様の御子を、両度まで水と成し奉り候儀天罰恐しき義と」(『家世実紀』巻之一、読み下し筆者)
    (《義に生きるか裏切るか 保科正之の母の面影》P.56)


     ここに至ってお静も出産を決意したが、お江与の方に知られるとなるとなにをされるかわからない。 そこでお静は、おそらく大奥づとめのうちに顔見知りになっていただろう、江戸城北の丸の田安門(たやすもんむ)内、その名も比丘尼(びくに)屋敷と呼ばれる屋敷におこないすましていた見性院(けんしょういん)(穴山梅雪未亡人、武田信玄の次女)に相談。 その妹信松院の助けを得て、見性院の知行地のある武州足立(あだち)郡大牧(おおまき)(今日のさいたま市郊外)にひそむことになった。
    (《義に生きるか裏切るか 保科正之の母の面影》P.56)


     これが慶長十五年(一六一〇)後半ないし十六年初めのことと推定できるのは、「慶長十六年二月」と記されたお静自筆の安産祈願の文章が、さいたま市大宮区の氷川神社に今日も伝えられているからである。 「敬つて申す祈願の事」と題されたその祈願文に、お静は書いている。
     「ここにそれがし卑(いや)しき身として、大守(将軍)の御思ひ者となり、御胤(おたね)を宿して、当四、五月の頃臨月なり。しかれども御台(みだい)(お江与の方)嫉妬の御心深く、営中(江戸城内)に居る事を得ず。 今、信松禅尼(信松院)のいたはりによつて、身をこのほとりに忍ぶ。……
    (《義に生きるか裏切るか 保科正之の母の面影》P.56〜57)


     お静が祈願し、寄進をつづけた先は、荏原(えばら)郡目黒(めぐろ)の里の成就院(じょうじゅいん)。蛸薬師(たこやくし)の別名を持つこの寺は今日も東京都目黒区のうちにあり、お静が寄進したことから「お静地蔵」と総称される観音像、地蔵各三体をなおも門内に飾っている。
    (《義に生きるか裏切るか 保科正之の母の面影》P.58)


     当時の高遠藩保科家は、わずか二万五千石の小大名だった。 正之養育料として五千石加増されはしたが、お静・正之母子の実収入は、年貢高を四公六民とすれば二千石。 これで家来十人以上を養わねばならなかったから、とても贅沢(ぜいたく)はできなかったろう。
     それでもお静は、成就院への喜捨をつづけた。 やがてその切なる気持が、正之の異母兄家光に伝わる時がきた。
    (《義に生きるか裏切るか 保科正之の母の面影》P.58)


     ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景

     阿部重次と堀田正盛の場合

     昔読んだ本を十年ぶり、あるいは二十年ぶりにひらき、書きこみや朱線があるのに気づいて、
     「はて、どうしてぼくはこの部分に注目したのだったか
     と考え込んでしまう。 そういう経験を持つひとは、少なくないだろう。
    (《義に生きるか裏切るか ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景》P.61)


     近ごろ私がびっくりしたのは、架蔵の岩波古典文学大系本『日本書紀』巻六、垂仁(すいにん)天皇二十八年十一月二日の条に、自分の文字で「殉死の例」と記入してあるのを発見したことだった。
    (《義に生きるか裏切るか ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景》P.61)


     これは弟倭彦命(やまとひこのみこと)を身狭(むさ)の(つきさか)」に葬ったという記事で、殉葬者の傷ましい姿が描かれている。
     「是(ここ)に、近習者を集(つど)へて、悉(ことごとく)生けながらにして陵(みささぎ)の域(めぐり)に埋(うず)みて立つ。 日を数(へ)て死なずして、昼に夜に泣(いさ)ち吟(のどよ)ふ。 遂に死(まか)りて爛(く)ち●(くさ)りぬ。 犬鳥聚(あつま)り鳥●(は)む
     垂仁天皇死にきれずに「泣ち吟ふ」声を聞いて殉死の不可なるを悟り、以後は殉葬者の代わりに埴輪(はにわ)を埋めることにしたのだという。
    ●:“自”と“死”を縦に一字。
    ●:口ヘンに“敢”。“口敢”

    (《義に生きるか裏切るか ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景》P.61〜62)


     さて、幕府が殉死を禁じたのは寛文三年(一六六三)五月二十三日。 時の将軍は四代家綱二十三歳であったが、幕政は将軍輔弼(ほひつ)役として江戸に滞在しつづける初代会津藩主保科正之と、老中たちとからなる幕閣の合議制によって運営されていた。
    (《義に生きるか裏切るか ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景》P.62)


     『詩経』の詩をヒントに

     ここで結論の一端を明かすならば、保科正之が会津藩のうちに「殉死御禁制の儀これを仰せ出され」たのは寛文元年(一六六一)閏(うるう)八月六日のことだった(『家世実紀』第一巻)。 阿部重次・堀田正盛の死から十年の歳月が過ぎていたものの、幕府が殉死を禁じるよりも二年も早い。
     「正之久しく殉死の非なるを悼(いた)み、先(まずママ)をのが領知に令してこれを禁ず。 今やほやけにて禁を設けられしも、正之が賛成せしによれり」(『寛政重修諸家譜』
     という記述を考えあわせれば、殉死の禁を幕法に反映させた陰の立役者も正之だったことが知れる。
    (《義に生きるか裏切るか ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景》P.63〜64)


     『千載之松(ちとせのまつ)』という史料によれば、「万治(まんじ)(一六五六−六一)のはじめ」のこと。 正之は詩経風黄鳥(こうちょう)の篇、並(ならび)に朱子殉葬の論聞召(きこしめ)し、殉死はもと戎狄(じゅうてき)の弊俗に出たること」を知って殉死の非を悟ったのである。 「殉死はもと戎狄の弊俗」という表現をもう少し敷衍(ふえん)するならば、つぎのようになろうか。
     「殉死とは、もともと西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)など化外(けがい)の民の間におこなわれていた悪習である。 漢民族が、このような蛮風を真似(まね)する必要はない
    (《義に生きるか裏切るか ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景》P.64)


     つづけて、「詩経風黄鳥の篇」ということばを説明する。
     中国最古の詩集『詩経』風・雅・頌の三部にわかれ、風(国風)の部はまた十五にわかれる。 これはその「秦風」のうちにある、「黄鳥(うぐいす)」と題された詩のことである。
    (《義に生きるか裏切るか ふたたび保科正之−−殉死を禁じた背景》P.65)


     空に挑んだカラクリ師たち

     飛行は墜落におわる

     子供のころ、よく空を飛んだ。
     むろん夢の中での話ながら、ある時はスーパーマンさながらのポーズで颯爽(さっそう)と、ある時は鳥のように羽ばたいて墜落しそうになり、慌(あわ)てて両手をバタバタと動かした記憶がある。
    (《義に生きるか裏切るか 空に挑んだカラクリ師たち》P.59)


     高所恐怖商の私においてすらそうなのだから、空を飛ぶ夢をいかに実現するか、という大テーマに挑んだ人間はライト兄弟以前にも少なくなかった。 「福本イズム」の福本和夫といえば、戦前の日本左翼運動の理論的指導者、かつ獄中十四年の闘士として有名だが、かれはこの方面の大研究者でもある。 まずは、その成果『カラクリ技術史話』(フジ出版社、一九八二)の紹介から始めよう。
    (《義に生きるか裏切るか 空に挑んだカラクリ師たち》P.69)


     「中国で人間が空を飛んだ最初の記録は王莽(おうもう)の時代(西暦八〜二三 筆者注)であつた。 前漢の末葉で(略)、匈奴(きょうど)との戦(いくさ)に、偵察のためといふ軍事上の必要が、飛行考案の直接の動機であつた。 すなはち、本物の大鳥の羽をそのまま両翼として、人間が飛行する仕掛けで、頭とからだに鳥の毛を被(かぶ)り、環に紐(ひも)を通して、両翼をあふつて飛んだが、数百歩飛んで墜落してしまつたといふ。 恐らく世界でも、是れが人間の空を飛んだ最初の記録であらう
    (《義に生きるか裏切るか 空に挑んだカラクリ師たち》P.69〜70)


     さらに同書「日本における飛行思想、飛行カラクリ技術年表」の項には、僧春澄(しゅんちょう)著『賢問子(けんもんし)行状記』、一名『博多由来記』という書名が見える。 内容は、以下のごとし。
    (《義に生きるか裏切るか 空に挑んだカラクリ師たち》P.70)


     「斉明天皇の御代に、奈良の仏師大江藤好(おおえとうこう)の子、賢問子(けんもんし)は渡唐して技を磨かばやと思ひ、十九歳の折、遣唐使橘重量に従つて渡唐した。 いくばくもなくして業成つて皈(帰)朝(きちょう)せんと欲したが、其の妙技をいたく惜(おし)まれて皈朝を許されないので、一計を案出し、すなはち木製の鳥を作つて其の腹中に入り、両翼を操縦して飛行し、唐から日本へ飛んで皈(かえ)ることにした。 そして今し九州の一角に近づかうとした刹那(せつな)、左の翼が折れて墜落してしまつた。 乃(すなわ)ち片翼の落ちた所を人呼んで羽片(はかた)といつた。これがのちの博多(という地名)の由来だといふ物語である
    (《義に生きるか裏切るか 空に挑んだカラクリ師たち》P.70)


     同書は江戸時代に成立したものかと思われるが、調べてみると「橘重量」なる遣唐使は実在しない。 そこから類推しても、この「物語」はまったくのフィクションに違いない。
    (《義に生きるか裏切るか 空に挑んだカラクリ師たち》P.70〜71)


     南蛮又九郎と表具師幸吉

     つぎに引くのは「上から下へ」飛んでみせたケースで、これは実際にあった話である。
     「備前岡山(の)表具師幸吉(こうきち)といふもの、一鳩(いっきゅう)をとらへて其身(そのみ)の軽量、羽翼の長短を計り、我身のおもさをかけくらべて自(みずから)羽翼(つばさ)を製し、機(からくり)を設けて胸前にて揉(あやつ)り摶(うち)て飛行(ひぎょう)す。 地より直(すぐ)に“風易”(あが)ることあたはず、屋上よりうちていづ。 ある夜郊外(まちはずれ)をかけり廻(まわ)りて一所(ひとところ)夜宴するを下し視(み)て、もししれる人にやと近(ちか)よりて見んとするに、地を(に)近づけば風力(ふうりき)よわくなりて思わず落(おち)たりければ、その男女おどろきさけびて遁(のが)れはしりけるあとに酒肴(さけさかな)さわに(たっぷりと)残りたるを、幸吉あくまで飲(のみ)くひして、また飛(とび)さらんとするに、地よりはたち“風易”りがたきゆゑ、羽翼をおさめて帰りける。 (略)珍ら(ママ)しき事なればしるす。 寛政(かんせい)(一七八九−一八〇一)の前の事なり」(菅茶山(かんさざん)「機巧(からくり)」=『筆のすさび』所収、句読点筆者)
    (《義に生きるか裏切るか 空に挑んだカラクリ師たち》P.72)


     五十メートル以上の大滑空

     しかし岡山の表具師幸吉の面白いところは、飽(あ)くことなく飛行実験をくりかえしたことだ。
     「夜ひそかに伎(技)を旭水橋上に試み、誤りて人群の中に堕(お)つ」(『拙斎詩稿』)
     右は、失敗してしまったケース。
    「旭水」とは岡山最大の河川、旭川(あさひがわ)を差している。
     岡山城南、その旭川に架かる大橋の欄干(らんかん)から飛んだ時には、ついに大成功を収めた。
     「欄に上りて翼を張る。 儼然(げんぜん)として一大鳥なり……しばらくして、大鳥翼を皷(こ)して南に向つて飛び去り、三十余歩を翔ける」(『寓居雑記』)
     一歩(いちぶ)を一・七五メートルと控えめに換算しても、「三十余歩」なら五十二・五メートル以上! こうなるともう、大滑空といっていいではないか。
    (《義に生きるか裏切るか 空に挑んだカラクリ師たち》P.75〜76)


     望月鴻助の奔走

     連続二十八年以上の大赤字

     安藤礼右衛門鴻助に返書を与えたのはちょうど一ヵ月後のことだったが、そこには、
     「勝手向至(むきいたつ)て六ヶ敷(むつかしく)、既に家中(かちゅう)之者一統(の)手当も相減(へらし)、(すべ)て諸役所向入用も悉(ことごとく)相省(はぶ)き、至て厳重之時節に付(つき)、……
     と、謝絶のことばばかりがならんでいた。
    (《義に生きるか裏切るか 望月鴻助の奔走》P.82)


     「君が筏をやる川となる」

     ここから江戸の鴻助韮山の英毅は、早く動いた。 鴻助から英毅にこの答えが報じられたのは同月二十四日。
     「(ねがい)通り(の)金高拝借不相成共(あいならずとも)、御都合出来得る丈小分にても
     と再願するように、と英毅からの依頼状がきたのは二十七日のこと。 二十九日朝、鴻助は早くも安藤礼右衛門の屋敷を訪ねた。
    (《義に生きるか裏切るか 望月鴻助の奔走》P.82)


     しかし、礼右衛門は藩邸へ出かけてしまっていた。 これは居留守を使ったのかも知れないが、鴻助はこのようなつれない扱いを受けることは覚悟の上だったようだ。
    (《義に生きるか裏切るか 望月鴻助の奔走》P.82〜83)


     鴻助は、その玄関において切腹して死んだ。 享年五十二。 「紀伊様御役中」宛の遺書があり、
     「太郎左衛門此(この)節の危難御救被下置(おすくいくだしおかれ)候様偏(ひとえに)奉願候
     と江川家存続をひたむきに願う彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の文章の最後に、こんな追申が添えられていた。 ここは、読み下しでゆきたい。
     「私死骸の儀は、御内々(江川家の)同役どもほお引き渡し下され候とも、お取り捨て下され候とも、成(な)し下され候よう願い奉り候。 公辺(公儀へ)お届け等成し下され候いては、太郎左衛門身分難儀にも相成るべく存じ候につき、この段願い奉り候、以上
    (《義に生きるか裏切るか 望月鴻助の奔走》P.83)


     その二十九日早朝、鴻助は江戸屋敷出発前に江川家から拝領した紋羽織を上座に飾り、これに再拝することをもって英毅への挨拶としてから出かけたことも後日あきらかになった。 また門番には同僚三人、妻おまつ、長男貫兵衛、長女お梅夫妻、次女おいく夫妻、末女おたつ宛(あて)の遺書も托(たく)されていた。 おまつへの別れのことばとして、
     「そもじ事、長々病気にて我等始終見届けも致すべきのところ、かえって先立ち候事、気の毒に候えども何事も前世の約束と思い賜りたく候
     とあるのを読むと、私はそぞろ哀れを催さずにはいられない。
    (《義に生きるか裏切るか 望月鴻助の奔走》P.83〜84)


     鴻助の遺体は竹駕籠(たけかご)に収容されてひそかに江川家へ引き取られたが、その忠節はいつか和歌山十代藩主徳川治宝(はるとみ)の耳にも入っていた。
     治宝は同年九月、江川家に一千両を貸し与えた上に、返済は五年後からの二十年賦との好条件を提示。 文化(ぶんか)六年(一八〇九)には一千両全額の返納免除を通達し、証文をも江川英竜に返してしまう、という鷹揚(おうよう)なところを見せて鴻助の忠義に報いた。
    (《義に生きるか裏切るか 望月鴻助の奔走》P.84)


     望月鴻助の辞世としては、つぎの一首が伝わっている。

     此の世をば露と消(きえ)ても行末は君が筏(いかだ)をやる川となる

     英竜の代となってからの江川家の隆盛を思えば、鴻助は死してその願いを叶(かな)えることに成功したといえようか。
    (《義に生きるか裏切るか 望月鴻助の奔走》P.84)


    第三部 幕末の波乱の陰に

     薩摩藩士・海江田信義の仮病

     江戸城に侵入した一団

     一方、久光の供として芝新馬場(しばしんばば)の薩摩藩上屋敷へ入った藩士たちのなかには、「誠(精)忠組」といわれる尊攘激派も混じっていた。西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)らとともにひそかに倒幕の機をうかがいはじめていたその同志のひとりに、海江田信義(かえだのぶよし)(のち子爵)がいる。
    (《義に生きるか裏切るか 薩摩藩士・海江田信義の仮病》P.98)


     海江田は二年前の安政七年(一八六〇、三月十八日万延(まんえん)改元)三月三日の桜田門外(さくらだもんがい)の変に参加して井伊直弼の首級(しるし)を挙げた有村次左衛門(ありむらじざえもん)の兄で、示現流(じげんりゅう)の達人。木強漢(ぼっけもん)ぞろいの薩摩藩士のなかでも、ひときわ血の気の多い男である。
    (《義に生きるか裏切るか 薩摩藩士・海江田信義の仮病》P.98)


     役人は困ってしまい、徒目付(かちめつけ)に聞いてくる、と言い置いて去っていった。 やがて徒目付の姿が見えた時、海江田は一芝居打つことにした。
     「海江田忽(たちま)ち腹痛と称して地上に倒れ、所持の両天傘(日傘兼用の雨傘)を窄(すぼ)めて之に枕し、故(ことさ)らに横臥(おうが)して苦悶(くもん)の状を為(な)す」(同)
     ちゃっかり傘を枕代わりにしたのは、髷(まげ)が汚れないようにと計算したためか。 そこまでは気づかず役人が狼狽(ろうばい)すると、海江田はなおも仮病をつかいながら告げた。
     「余平生多病にして、時時激痛を感ずることあり、姑(しば)らく神気を安んぜば則(すなわ)ち癒へ(ママ)なん」(同)
     今日の感覚からすれば、奇怪なデモンストレーションをしたものだという一言で片づけたくなるところだが、そうではない。
    (《義に生きるか裏切るか 薩摩藩士・海江田信義の仮病》P.99〜100)


     最後の将軍・徳川慶喜の出処進退

     「総司令官の敵前逃亡」は銃殺の刑

     慶應四年(九月八日明治改元)一月三日に始まった鳥羽伏見戦争は、緒戦から新政府軍が優位に立った。 しかし、
     「慶喜公四日の朝を以(もっ)て大坂の薩邸を討伐すべきを命ず」(『会津戊辰戦争史』
     と明記する史料があることから見ても、「四日の朝」の時点で慶喜に恭順・謹慎の気持はまだめばえていなかった。
     五日もその気配は変わらず、慶喜は時刻不明ながら大坂城の一室に会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)および旧幕府諸将をまねいて叱咤激励している。 いわく、
     「事已(すで)に此(ここ)に至る縦令(たとえ)千騎戦歿(せんぼつ)して一騎と為(な)ると雖(いえど)も退くべからず、汝等宜(なんじらよろ)しく奮発して力を尽すべし、若(も)し此(こ)の地敗るゝとも関東あり、関東敗るゝとも水戸あり、決して中途に已(や)まざるべし」(同)
     さらに六日、諸有司、隊長たちが慶喜自身の出馬のもとに大坂攻に出ることを願うと、かれは大広間に出座して答えた。
     「よし是(これ)より直(ただち)に出馬せん、皆々用意せよ」(『徳川慶喜公伝』
     諸有司、隊長たちは躍り上がって持ち場へ散っていった。
     慶喜が豹変するのは、その夜のこと。 四つ刻(十時)に松平容保定敬、老中酒井忠惇(さかいただとし)(姫路藩主)、おなじく板倉勝静(いたくらかつきよ)(備中松山藩主)らを集めた慶喜は、一同が庭でも散歩するのかと思ってちり紙ももたずに従うと、羽織袴のままひそかに後門から忍び出た。 衛兵に誰何(すいか)されると、慶喜自身が答えた。
     「御小性(姓)の交替なり」(同)
     こうしてまんまと大坂城から敵前逃亡したかれは、八軒家から小舟を天保山(てんぽうざん)沖へ漕(こ)ぎ出したものの暗い海に迷ってアメリカの軍艦に一拍。七日にようやく旧幕府海軍旗艦開陽丸(かいようまる)に乗りうつり、江戸城をめざしたのである(十一日、品川沖着)。
    (《義に生きるか裏切るか 最後の将軍・徳川慶喜の出処進退》P.122〜123)


     白虎隊を襲った盗賊

     生き返った飯沼貞吉

     貞吉は十七人で飯盛山へ逃れてきた、とも証言している。まず十七人が一斉(いっせい)に自刃(貞吉のみ蘇生)、遅れてやってきた三人が同じところで切腹したため、「白虎隊十九士」といわれるようになったのである。
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.129)


     さて筆者は、先年来十七人の一斉自刃について飯沼貞吉証言とは微妙に異なる史料があることに気づき、奇妙に思っていた。
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.129)


     それは二瓶(にへい)由民という人の書いた「白虎隊勇士列伝」(明治二十三年刊)という記録で、白虎隊士の伝記としてはもっとも早く出版されたものである。 同書によれば、十七人は一斉に自刃したのではなく、西川勝太郎(にしかわしょうたろう)は最後まで残って死に切れずにいる者の介錯役を引き受けていた
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.129)


     それもおわり、西川がいよいよ自分の番だと思って何気なく左右を眺めると、山下を過ぎる農民がいた。何者かと問うと「滝沢ノ者」と答えた、として「白虎隊勇士列伝」はこうつづけている。
     「勝太郎之(コレ)ヲ招キ、嘱シテ曰ク、我輩ノ死骸深ク山中ニ埋メ、敵ニ首級ヲ得セシムルコト勿(ナカ)レ、幸(サイワイ)ニ我輩皆金銀若干アリ、汝(ナン)チ大小刀ト併(アワ)セテ之ヲ取レ、是レ報酬ナリ
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.129〜130)


     「甚シキ悪漢」の出現

     こうして西川勝太郎も自殺したが、この農民は「甚(ハナハダ)シキ悪漢」であった。かれは「各士ノ金嚢(財布)及ヒ大小刀、上着等ヲ掠奪シ、而(シコウ)シテ屍(カバネ)ヲ棄テテ埋メス」に立ち去った、というのである。
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.130)


     勝太郎の愛刀は、翌年夏に「若松某ノ骨董店」に売られていたところを母に発見され、買いもどされたこれは「初メ滝沢ノ悪漢ノ掠奪セシモノ」だ、とも同書は書いている。
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.130)


     「たしかに、飯盛山の自刃の地から発見されたのは石田和助(いしだわすけ)の短刀のみでした
     というのが早川氏の答えであった。
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.130)


     帰京後、筆者はこの早川氏宮崎長八の共著『写真で見る会津戦争』宗川虎次『補修会津白虎隊十九士伝』を読み返し、津川喜代美(つがわきよみ)と西川勝太郎の短刀も遺族たちによって発見されていることを知った。会津史学会顧問の宮崎十三八氏からは、発見されたあと寺社に奉納された刀剣もあるようだ、との御教示もいただいた。 いずれにせよ、自刃の地から回収された十九士の遺品があまりに少ない、という事実は動かない。 すると、宮崎十三八氏は、
     「気を失っている飯沼貞吉から刀を取り上げようとした者がいた、という記録がありすます
     といって、秋月一江「飯沼貞吉救助の実証を追って」『会津史談』第五〇号)というレポートのコピーを送って下さった。
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.131)


     渡部佐平とは佐伊記氏の曾祖父で、戊辰戦争当時五十八歳。 戦火に追われ、長男の嫁〔おむめ〕とともに慶山村から二キロ北東、飯盛山からは八ヶ森をはさんでさらに南にある袋山へ避難していた。印出はつ〕も同じ場所に避難していた。 この記録は、その〔おむめ〕が五十九歳になった明治三十三年三月九日、当時のことを回想して飯盛正信に書き取らせたものなのである。
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.132)


     三日三晩介抱した父娘

     同記録によれば渡部佐平袋山の岩屋に隠れていたが、八月二十三日午後、(まき)と茸(きのこ)を採るため八ヶ森へ近づいて飯沼貞吉の声を耳にした。 岩屋へもどってそう告げると、印出はつ〕が立ち上がった。 〔はつ〕の息子も出撃してまだ帰らなかったため、〔はつ〕はもしやわが子では、と思ったのである
    (《義に生きるか裏切るか 白虎隊を襲った盗賊》P.132)


     幕末無名戦士たちの肖像

     佐々木源四郎の力戦の跡

     清河八郎(きよかわはちろう)と阪本龍馬を暗殺した男といえば、京都見廻組与頭佐々木只三郎(みまわりぐみよがしらささきたださぶろう)のことである。
     その基本資料『佐々木只三郎伝』によると、只三郎は会津藩士佐々木源八(げんちぱち)の三男で、その下に源四郎(げんしろう)という四男がいた。
    (《義に生きるか裏切るか 幕末無名戦士たちの肖像》P.134)


     ところが慶応四年(一八六八)五月十五日、上野の山にこもった彰義隊(しょうぎたい)が一日にして壊滅すると、官軍はその直後から落武者狩りを開始。 うち十数名が、源四郎の家を襲った。 源四郎と彰義隊との関係は不明ながら、
     「彼は刀を以て渡り合ひその数人を傷つけた。 敵はかなはずと思ひ、遂(つい)に銃火を以てこれを包撃して漸(ようや)く斃(たお)した。 この時、未亡人は押入の中に隠れて、その状を実見してゐたが、あとで邸内を掃除したところ、斬指が夥(おびただ)しく発見されたといふ」(同)
     室内に落ちていた、「斬指」の多くは、官軍兵士のものであったろう。 もって官軍に土足で踏みこまれた、佐幕派剣士の最後の力戦の様子が偲(しの)ばれる。
    (《義に生きるか裏切るか 幕末無名戦士たちの肖像》P.136)


    第四部 秘められた戊辰戦争

     上総義軍と怨霊騒動

     脱藩した青年藩主

     その隊長は心形刀流の名剣士伊庭八郎(いばはちろう)二十六歳と、二条城詰め御家人のせがれ人見勝太郎(ひとみかつたろう)おなじく二十六歳。 これら佐幕派屈指の剣士たちが上総をめざしたのは、この地方には譜代の小藩が多く、兵を募りやすいと考えたためだった。
    (《義に生きるか裏切るか 上総義軍と怨霊騒動》P.146)


     はたして木更津の浜辺に上陸し、望陀郡請西(もうだごおりじょうざい)(今日の木更津市請西)にある請西(じょうざい)一万石の真武根(まぶね)陣屋を訪ねると、二十一歳の若き藩主林昌之助忠崇(はやししょうのすけただたか)は挙藩参加することを快諾してくれた。 なんと昌之助は、藩士約七十名をひきいてみずから脱藩。真武根陣屋に火をかけて二度と還らぬ誓いとし、遊撃隊三隊長のひとりとなって封土をあとにしたのである。
    (《義に生きるか裏切るか 上総義軍と怨霊騒動》P.146)


     付近の諸藩からも次々に参加者があり、遊撃隊の人数は館山(たてやま)到着までには二百人規模にふくれ上がった。 そのため今も千葉県人たちは、
     「上総義軍
     とこれを呼び、その壮挙を偲(しの)びつづけているのである。
    (《義に生きるか裏切るか 上総義軍と怨霊騒動》P.146)


     証言から見た近藤勇の就縛前後

     大の字に斃れていた男

     小山正武は、服部武雄がなぜそこまで敢闘できたのかを調べてみた。
     「服部の羽織は(くさり)に厚く真綿を被(かぶ)せられたる胴服にて、其真綿を叮寧(ていねい)に差し縫ひたる者なりき、故(ゆえ)に同氏が此(この)胴服に被(こう)むりたる刀創の痕跡(こんせき)ハ多く身体にハ透(とお)らざる者なりき、然(しか)れども其頭、面頬(めなぼお)より左右の腕並(ならび)に肩等及び股部脚部等に被りたる刀鎗(とうそう)の創痕は大小軽重合(あわ)せて廿余ケ処に下らず」(同)
     回想録や目撃談は小説家の頭のなかからとてもひねり出せない迫真力に富むことが、よくおわかりいただけるであろう。 近藤勇に焦点を合せていうならば、高台寺党にこのような血の抗争を仕掛けたことが結果として命取りになった、ということができる。
    (《義に生きるか裏切るか 証言から見た近藤勇の就縛前後》P.157)


     名槍流転−−宗近の大槍先について

     禁門の変の二番槍

     蒲生家が氏郷から数えて四代目の忠知(ただとも)の代に伊予松山へ転封(てんぽう)されると、町野家は会津に土着。 寛永二十年(一六四三)、保科正之の会津入りにともなって町野伊左衛門重成(いざえもんしげなり)が禄三百五十石で召し出され、この家系は幕末維新までつづいていった。
    (《義に生きるか裏切るか 名槍流転−−宗近の大槍先について》P.164)


     久吉・武馬を経て鶴ヶ城へ

     主水は槍を構えて鴨居(かもい)から垂らした紙を突けば、紙本体を少しも揺らすことなくこれを貫くことができた。 対して、久吉の技量を伝える小出島の古老たちの回想もある。
     「(久吉は)大量に積みかさねられた五斗(と)入りの米俵を槍の穂先で自由自在にあしらい、その穂先を以て、軽々と後方につき飛ばしながらそのまま整然ともとの形に積みかさねたことがあるが、それも一再ではなかった」(松尾荒七『戊辰戦側面史考』)
    (《義に生きるか裏切るか 名槍流転−−宗近の大槍先について》P.166)


     町野兄弟の小出島入りは、前述したように鳥羽伏見戦争終了後のことである。 四月十一日、江戸を無血開城させることに成功した薩長勢主体の明治新政府軍の一部は、仇敵会津藩を追討すべく上州から三国(みくに)峠を北に越えて小出島をめざした。
    (《義に生きるか裏切るか 名槍流転−−宗近の大槍先について》P.166)


     これを三国峠に迎撃した会津側の主将が主水だったが、血気に逸(はや)った久吉は、家宝の大身槍をたずさえて新政府軍千二百の中へ突入した。
    (《義に生きるか裏切るか 名槍流転−−宗近の大槍先について》P.166)


     かくて久吉は不帰の客となり、町野家伝来の名槍も行方(ゆくえ)知れずとなる運命をたどった。 主水自身は苦難の戊辰戦争にからくも生き残り、白虎隊の少年たちその他会津藩戦死者の埋葬と会津の復興に全力を注ぐ後半生を選び取る。
    (《義に生きるか裏切るか 名槍流転−−宗近の大槍先について》P.167)


     すると、これまた年月日の特定できないのは残念ながら、長州出身の品川弥二郎(しながわやじろう)が会津へ来て、主水に面会を申し入れた。久吉の槍が今どこにあるか知っているから、町野家へ返却する仲介の労をとってもいい、という用件だという。
     これを主水は、言下に断ってしまった。 明治八年(一八七五)生まれのそのせがれの武馬の聞いたところでは、理由はたった一言だった。 いわく、
     「戦場で失ったものを畳の上で受取る事は相ならぬ」(荒木武行編『会津士魂風雲録』)
    (《義に生きるか裏切るか 名槍流転−−宗近の大槍先について》P.167)


     主水はいつしか「最後の会津武士」と呼ばれるようになっていたが、維新後「賊徒」「朝敵」とレッテルを貼られていた会津人の中には、このせりふに快哉(かいさい)を叫んだ者も少なくなかった。
    (《義に生きるか裏切るか 名槍流転−−宗近の大槍先について》P.167)


     奇兵隊は近代的軍隊の原点か

     奇兵隊は腐敗していた

     しかしその腐敗は、戊辰戦争継続中からすでに始まっていた。 当時奇兵隊に属していた三浦梧楼(みうらごろう)の有名な回想がある。
     「隊長の我輩も、兵卒も、一ケ月の手当が国札(藩札=筆者注)三十匁(もんめ)であった。 即(すなわ)ち五十銭に当るのである。 然(しか)るに我輩が或(ある)時、公用を以て、山口に出張すると、会計係より旅費だと云うて、五百匁を渡して呉(く)れた。 即ち八両とイクラである。 月手当三十匁のものに、五百匁の旅費とは、過分も過分も、非常の過分である。
     『これはドウしたことか。
     と問へば、
     『本陣の衆はチヨツと山口へ来れば、皆旅費として五百匁づゝ渡すことになって居る。 請求があれば、又渡す。
     との答へである。(略)必ず何か私があるに相違ないと、此時始めて気が付いたのである
    」(『観樹将軍回顧録』)
    (《義に生きるか裏切るか 奇兵隊は近代的軍隊の原点か》P.206)


     のちに三浦が調査したところ、奇兵隊士の月俸は実は六十匁だった。ちょうど半額、幹部たちがピンハネしていたのだ。
    (《義に生きるか裏切るか 奇兵隊は近代的軍隊の原点か》P.206)


     しかも、帰国した諸隊に対する長州藩庁の対応は、血も涙もないものだった。諸隊を常備軍へ改編すると称し、その多くを強引に放逐(ほうちく)したのである。
    (《義に生きるか裏切るか 奇兵隊は近代的軍隊の原点か》P.207)


     脱走・武装蜂起・海賊化

     愕然(がくぜん)として長州藩庁は、脱走諸隊追討を宣言、おって斬首八十四人、切腹九人をふくむ二百二十一人を処罰した『高杉晋作と奇兵隊』にあるが、その判決文には、
     「上を恐れぬ悪逆無道、重科遁(のが)れがたく候、之によりて誅戮梟首(ちゅうりくきょうしゅ)仰せつけられ候事
     といった無慈悲な文字がならんでいる。 士分ならざる者が多かったからこそ、長州藩庁は戊辰戦争での武勲などいっさい無視し、つぎつぎに死刑を執行したのである。
     「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)(に)らる
     とはこのことではないか。 しかも、なおも追討軍から逃れた脱走諸隊の残党は、瀬戸内海の海賊と化して明治四年まで暴れまわった。私はこういう末路を眺めると、とても奇兵隊を賛美する気にはなれない
    (《義に生きるか裏切るか 奇兵隊は近代的軍隊の原点か》P.208〜209)


     ちなみに『角川新版日本史辞典』奇兵隊」の項は、その成立過程と特徴とを過不足なく押さえながらも、
     「しかし隊中では、出身身分によって袖印が区別され、武士出身者が優遇されたため、入隊時に武士の養子となる手続きをとる者もいた
     と封建的側面が残存していたことにも言及し、脱退騒動にもきちんと触れている。
    (《義に生きるか裏切るか 奇兵隊は近代的軍隊の原点か》P.209)


    第五部 明治の伝統

     会津藩士と「緋色」の記憶

     屈辱と哀しみの「泣血氈」

     鶴ヶ城北出丸の北追手前にしつらえられた式場は、周囲に幔幕(まんまく)を張りめぐらされ、その内側には十五尺(四・五メートル)四方の緋毛氈(ひもうせん)が敷きつめられていて、かつて会津藩士たちの誇りであり、容保の誠忠の象徴でもあった「緋色は、城下の盟を結ばざるを得ないという武門最大の屈辱を示す色彩へと一気に塗り替えられてしまったのである。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.217)


     会津藩代表のひとりとしてこの式場に入った秋月悌次郎(のち胤永(かずひさ))は、後日こう回想している。
     「式事了(おわ)りて皆謂(い)う 今日の辛苦、蓋(けだし)、戦場啻(ただ)ならず 畢生(ひっせい)、忘るる能(あた)わざるなり。 乃(すなわ)ちこの氈を切り、同苦者相分ち以(もっ)て、微拠とす」(相田泰三『松平容保公伝』
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.217)


     秋月悌次郎は、初め「四尺(一・二メートル)四方」(同)に切り分けられたその断片を、その名も「泣血氈(きゅうけつせん)」と名づけた。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.217)


     今や亡国の臣となり果てた会津人は、賊徒、朝敵と蔑視されつつ明治の世を迎えねばならない。 泣血氈を見るたびにこの屈辱を思い出し、それをバネとして逆風の時代を生きぬいていってほしい−−この行為には、はからずも会津滅藩に立ち会った秋月たちの哀切な願いがこめられていた。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.217)


     甦った喜びの「緋色」

     いったん減藩処分となった会津藩二十八万石は、明治三年五月、斗南(となみ)藩三万石として再興することを許された。 斗南藩領と指定されたのは、陸奥国二戸(にのへ)郡のうちの十二村、三戸(さんのへ)郡のうちの十二村、その北に七戸(しちのへ)藩領をはさみ、本州最北端の北部(下北半島)のうちの四十六村、および北海道の胆振(いぶり)国山越(やまこし)郡、後志(しりべし)国瀬棚(せたな)、太櫓(ふとろ)、歌棄(うたすつ)の四郡であった。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.218)


     だが公称三万石とは新政府の真赤な嘘で、斗南藩領は実質七千五百石程度、しかも雑穀しか採れない不毛の大地でしかなかった。 斗南移住は、実質は挙藩流罪にほかならなかったのである。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.218)


     ところが斗南藩誕生以前に、旧会津藩士の身分のまま流罪という形で小樽へ送られた「百七十五戸、約七百人」がいた中沢剛『明治五年 余市会津人の生活』)。開拓使の意向により余市入植を決定されたかれらが実際に余市へ移住したのは明治四年になってからのこと。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.218)


     そのころ開拓使次官黒田清隆(くろだきよたか)は、アメリカの農務局長ホーレス・ケプロン開拓使顧問として来日させることに成功していた。 ケプロンはリンゴナシサクランボなどの果樹の苗木の無償配布を推進したため、ここに余市入植の旧会津藩士たちは初めて西洋リンゴと巡り合うことになる。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.218〜219)


     「その過程を知りたいのですが、史料を拝見させてもらえませんか」  別の用事で畑敬之助会長に電話した際、私は臆面(おくめん)もなくこんなおねだりをした。 その直後、これもまた別の用事で会津若松市へゆき、さるパーティに出席すると、畑会長も招かれていて史料をたくさん手わたして下さった。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.219)


     そのひとつ、余市豆本の会主宰・前田克己氏の一文「余市入植旧会津藩士物語」(「福島民報」平成元年十一月十二日付)には、入植会津藩士川俣友次郎(かわまたともじろう)の養子兵司の著した『藩士ニ因(ヨ)ル林檎栽培業績』から次のようなくだりが引用されていた。
     「明治八年、五百本ノ苗木ヲ各戸ニ交付サレ、続イテ九年ニモ交付ヲ受ク然(シカ)シテ斯業発達ヲ奨励セラレタルモ中ニハ笑ニ付シ顧(カエリ)ミザル人多ク、只畑隅又ハ庭先ニ植エ殆(ホト)ンド放擲(ホウテキ)スルノ状態タリ(ソレ)ヨリ幾星霜ヲ過(スギ)偶々(タマタマ)山田村赤羽源八氏ノ庭先ニアリシ十九号、金子安蔵氏ノ畑隅ニアリシ四十九号ニヤサシキ花ガ咲キシニ之ヲ見タル人々ハ何ヲ成ルカト話シ合イタリト時ニ明治十二年ノ事ナリト
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.218)


     つづけて前田氏は書いている。
     「花が散った後に実はなったが、小指ほどの大きさになると、次々と落ちて期待は薄れていった
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.218)


     なお「明治五年 余市会津人の生活」によれば、明治三十九年に余市に設立された〔日〕本〔果〕実酒会社こそ、今日のニッカウヰスキー株式会社の起源だという。 してみると現代の日本人は、果実好きも酒好きも、旧会津藩士たちの努力の恩恵に浴していることになる。
    (《義に生きるか裏切るか 会津藩士と「緋色」の記憶》P.220)


     最後の将軍の婿殿、神隠しに遭う

     大奥に消えた大名

     一番目は明暦三年(一六五七)一月に発生した明暦の大火振袖火事)により、江戸城の本丸や二の丸も消失した時に起ったといわれる谷村(やむら)藩主秋元富朝(あきもととみとも)の神隠し
     「チト話は古いが、甲斐国谷村城主一万八千石秋元越中守(えっちゅうのかみ)富朝が、明暦三年御本丸の焼けた時に、大奥へ飛び込んだ儘(まま)、紛失してしまった。 焼死なら屍(しかばね)が出るはずだのに、それもなかった」(「嫁ぐ御殿女中」『三田村鳶魚全集』第三巻)
     鳶魚翁は、女性たちを避難させるべく大奥へ走った四十八歳の富朝が性的欲求不満に陥っていた者たちの犠牲になった、という大変な「伝説」のあることに言及し、その遺体の運ばれた場所まで推定している。 その場所とは、大奥の(かわや)の塹坑(ざんこう)。
     「将軍家や御台所の便所はいうまでもない、大諸侯までも便所は一代に一つである。 糞浚(さら)いということは貴人にない(略)、それほど糞地は深く深く大きく穿(うが)たれてある。 この暗い深い塹坑の底へ投入されたら、屍の出る気支(きづか)いは決してない」(同)
    (《義に生きるか裏切るか 最後の将軍の婿殿、神隠しに遭う》P.239〜240)


    第六部 明治を駆け抜けた女たち

     悲しき毒婦・高橋お伝

     逮捕のてんまつ

     この時お伝と同棲していたのは、小川市太郎という男(後出)。 一説によるとお伝は、浅草の小料理屋で当時はやりの牛鍋をさかなにこの情夫と一杯やっていたところを急襲されてつかまったという。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.261)


     ところがのんきなことに、新聞はこの時点になってもまだ吉蔵殺しを一切報道していなかった。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.261)


     前年には福岡・島根などで農民騒擾(そうじょう)約十五件が発生。 新政府内にあっても、島津久光左大臣や板垣退助(いたがきたいすけ)参議などが、政府の方針に不満を唱えて下野するなど多事多難な年であったが、ひきつづいてこの明治九年にも、地租や地価の改定をめぐって和歌山・鳥取・長野などで農民一揆約二十六件が発生。不平士族たちも神風連(じんぷうれん)の乱(十月二十四日)、秋月(あきづき)の乱(同二十七日)、(はぎ)の乱(同二十八日)、そしてあくる年の二月に勃発する西南戦争へと向けて動きはじめていた時期である。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.261〜262)


     そうではあるが、右のような激動の政治情勢を追うのに急なあまり、各紙とも吉蔵殺しを見過ごした、という訳ではない。 事態はその反対で、このような猟奇的犯罪ほど当時の新聞が好んだテーマはなかったのである。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.262)


      その証拠に、九月十二日付『読売新聞』が第一報を伝えるや、各紙こぞってこの事件を報道。『書置』に重点を置いて仇討(あだうち)説を紹介したため、一時お伝は、悪女どころか貞婦の鑑(かがみ)として下町の人気を集めたほどだった。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.262)


     ちなみに、仇討禁止令が出たのはこの事件発生に先立つ明治六年(一八七三)二月のこと。 しかし、数百年に及ぶ封建時代の間一貫して最高の美徳の一つとされて来た行為が、一片の政令をもってとどめられるはずもない。 明治初年から禁止令発布までの間に八件、発布後明治末年までの間に四件、大正になってからも一件の仇討事件が発生した(『高橋お伝』=『海音寺潮五郎全集』第十八巻)。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.262)


     ふたたび仇討を主張して

     ふたたび東京に出たお伝は、今度は麹町の小川市之助方に止宿した。 腕に職もないので、房州出身の石井甚三郎という男に借金を申し込むと、
     「日本橋檜物町に住む古着屋の後藤という者に頼めば融通してくれるだろう
     という答え。 早速添書をもらい、後藤に面会すると、これが以外にも仙之助だった。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.274〜275)


     しかも部屋を見回すと、机の上にお金が所持していた脇差の小柄(こづか)がある。なぜそれかここにあるのか、と問い詰めても、仙之助こと後藤吉蔵は曖昧(あいまい)なことを言うばかり。 日も暮れかかったので、明日出直して事情を聞く、と決めつけると、吉蔵は、明日は取り込みがあるので呉服町の旅館「稲田屋」で待っていてくれ、と注文をつけた。 これが明治九年八月二十四日のことだった。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.275)


     判決は「斬罪申付ル」

     斬罪執行場所の市ヶ谷監獄は、伝馬(てんま)町にあった江戸時代の牢屋敷を移したもので、その裏手が五十坪ほどの刑場となっていた。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.279)


     人呼んで「地獄の辻」。 鬱蒼(うっそう)たる杉林の中に絞首台が立ち、その下に土壇場がしつらえている。 土壇のすぐ前には、広さ畳(たたみ)一枚分、深さ一尺の穴(血溜り)が掘られている。 漆喰(しっくい)で固められ、周囲には木材の框(かまち)がはめられているが、首斬り役人の刀がおろされる部分のみ、木が三日月形に削れているのが生々しかった。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.279)


     二月一日に斬首されたのは、浅子なか安川巳之助(みのすけ)、そして最後に高橋お伝の三人であった。なかと巳之助は、密通・共謀してなかの夫を毒殺した者どもである。 なお、絞首台もあるのは、この時代の死刑には「(こう)」と「(ざん)」の二種があるためである。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.279)


     形の執行者は、八代目山田浅右衛門(やまだあさえもん)(通称首斬り浅右衛門吉亮(よしふさ)と、その門人浜田某
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.279)


     まずなかが、巳之助に、
     「では一歩お先に
     と胆(きも)の据わった挨拶をして、浜田に斬られた。 次は巳之助だが、彼はからだが恐怖のあまりブルブルと震えて止まらなくなっている。 吉亮の回顧談によると、その時お伝は、
     「お前さんも臆病(おくびょう)だね、男の癖にサ、妾(わたくし)を御覧よ、女じゃアないか
     と笑って励ますほど平然としていた(篠田鉱造『明治百話』)。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.279〜280)


     そのお伝が、白木綿の面紙(つらがみ)で目隠しされて土壇場に座らされる時が来た。 獄卒(ごくそつ)二人がそのからだを押さえ(押さえ役)、もう一人が背後に回って正座したお伝の両足の拇指(おやゆび)を握った。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.280)


     この拇指をグイと引けば、自然お伝のからだは前にのめって首を突き出す。 そこを吉亮が、首の皮一枚を残して斬首するといういつもの手筈(てはず)である。 首の皮一枚を残すのが斬首ないし介錯の際の最良の作法とされたのは、完全に切断してしまうと首がおびただしく血を吹き出しながらあらぬ方に飛んで、一帯を血で汚すからである。 皮一枚を残しておけば、あとは獄卒が前のめりに倒れた死体の背中を揉(も)み上げ、血をすべて血溜りの中に流し込むことができる……。
    (《義に生きるか裏切るか 悲しき毒婦・高橋お伝》P.280)


     女優第一号は芸者出身・川上貞奴

     自由童子・川上音二郎

     しかしその演劇のレベルは、この頃はまだ、
     「科(しぐさ)といい、白(せりふ)といい、ほとんど滑稽に近く、全然一見の価なきものなりき」(福田英子『妾の半生涯』)
     と酷評される程度のしろものでしかなかった。 なのになぜこの一座に人気が集まったかといえば、それはひとえに、幕間に音二郎が歌う「オッペケ節」が爆発的に流行したからである。
     「〜\権利幸福嫌いな人に、自由湯をば飲ませたい。 オッペケペー、オッペケペッポーペッポッポー。
     〜\マンテル・ズボンに人力車、粋な束髪ボンネット。 貴女(きじょ)に紳士のいでたちで、上辺の飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。 天地の真理が解(わか)らない。 心に自由の種をまけ。 オッペケペ、オッペケペッポーペッポッポー。
     〜\不景気極(きわま)る今日に、細民困窮かえりみず、目深(まぶか)にかぶった高帽子、金の指輪に金時計。 権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金をまき、内には蔵に米を積み、同報兄弟見殺しか。 いくら慈悲なき欲心も、あまり非道な薄情な。 ただし冥途(めいど)のおみやげか、地獄で閻魔(えんま)に面会し、賄賂を使って極楽へ、ゆけるかえ行けないよ。 オッペケペ、オッペケペッポーペッポッポー……。」(明治二十四年文英堂版『新作オッペケペーぶし』より表記を改める)
    (《義に生きるか裏切るか 女優第一号は芸者出身・川上貞奴》P.287〜288)


     マダム貞奴誕生す

     ニューヨークでは、イギリスの世界的名優サー・ヘンリー・アービングの十八番『ベニスの商人』を実見する幸運に恵まれ、図々しくも彼にロンドンへの紹介状を書いてもらうことに成功した。
    (《義に生きるか裏切るか 女優第一号は芸者出身・川上貞奴》P.299〜300)


     こうなると、気転のきくプロデューサーとしての素質がむくむくと頭をもたげる。 アービングが去った後、ところもおなじ「ボストン座」に出演した川上一座は、臆面(おくめん)もなく『ベニスの商人』の翻案劇を舞台にかけた。 題して『日本趣向の人肉質入裁判』。 シャイロックは才六、ポーシャはお袖と改めたものの、演技は徹頭徹尾アービング一座のそれを模倣(もほう)し、科白(せりふ)は日本語なら何を言ってもわかるまいと口から出まかせをしゃべり合った。
    (《義に生きるか裏切るか 女優第一号は芸者出身・川上貞奴》P.300)


     音二郎が一晩で書き上げたこの芝居が、またしても大ヒットする。才六が矢立から筆を取り出し、安藤仁三郎(アントニオ)の胸に三寸四方の線を引くところが、アービング一座よりも名趣向だと地元紙にベタ褒(ほ)めされてしまったのである。
    (《義に生きるか裏切るか 女優第一号は芸者出身・川上貞奴》P.300)


     パリのサダヤッコ・ブーム

     幕末におけるもっとも酸鼻な大量切腹事件といえば、慶応四年(一八六八)二月十五日に起った「(さかい)事件」にとどめを刺す。 この事件にはフランス人も大いに関与していたので、フランス人はサムライのハラキリに強い関心を寄せていた。 フラーの要求は、そのことを計算してのことであったろう。
    (《義に生きるか裏切るか 女優第一号は芸者出身・川上貞奴》P.302)


     「堺事件」とは、前述の日にフランス軍艦「デュプレー号」からバッテーラで堺に無断上陸した同艦の水兵十一人が、土佐藩警備兵と衝突して射殺された事件である。 駐日公使ロッシュの強硬な抗議にあい、土佐藩士二十人に切腹が申しつけられることになるのだが、その最期のさまが凄まじかった。
     「箕浦(みのうら)(猪之吉。土佐藩歩兵第六番隊長は衣服をくつろげ、短刀を逆手(さかて)に取つて、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。 刀が深く入つたので、創口は広く開いた。 箕浦は短刀を棄てゝ、右手(めて)を創に挿(さ)し込んで、大綱(腸間膜)を掴(つか)んで引き出しつゝ、フランス人を睨(にら)みつけた
     馬場(介錯人)が刀を抜いて項(うなじ)を一刀切つたが、浅かつた。
     『馬場君。 どうした。静かに遣(や)れ』と實浦が叫んだ。
     馬場の二の太刀は頚椎(けいつい)を断つて、かつと音がした。
     實浦は又大声を放つて、
     『まだ死なんぞ、もつと切れ』と叫んだ。 此声は今までより大きく、三丁位響いたのである
    」(森鴎外『堺事件』)
    (《義に生きるか裏切るか 女優第一号は芸者出身・川上貞奴》P.302〜303)


     實浦を初めとして切腹が十一人まで終った時、ロッシュ公使は顔面蒼白、地に足のつかぬ風情になり、残る九人の切腹を中止させてあたふたとその場から退席した−−。
    (《義に生きるか裏切るか 女優第一号は芸者出身・川上貞奴》P.303)


     明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子

     結婚式に遅刻した新郎

     希典が帰宅した時は、すでに黄昏(たそがれ)時となっていた。 馬を馬丁に渡し、革長靴を脱いで上がって来たその顔を見ると、散髪もしていないし髭(ひげ)もあたっていない。 希典は野津少将以下に手短に挨拶すると、そのままの姿で三三九度を挙げた−−。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.316)


     こうして公の式がおわった時である。 人払いしてお七と二人だけになるや、希典は藪(やぶ)から棒に切り出した。
     「御身(おんみ)は鹿児島に生まれた薩摩藩士の子にして、我は豊浦藩士の子である。 されば人情、風俗を異にし、家庭の状態もおのずから相異するところが多いであろう。ことに乃木家には、やかましい母と心の曲つた妹がいる。 それでも御身は辛抱できるか。 できぬと思うなら、まだ二人きりの誓いの盃(さかずき)を交さぬうちに、婚姻の儀は取り止めてもよい
     のちにお七は、この時の気持を「初めて来(きた)れる当夜のことにて少なからず返答に困じたりき」と述懐しているが、表面上は落着いて答えた。
     「私も薩摩の武士の娘です。 いかような困難がありましても、必ず辛抱するでありましょう
     この答を聞くと希典は、おなじ席で始まった同僚たちとの宴席で深更まで酒を呷(あお)りつづけ、軍服のまま前後不覚に眠りこんでしまった。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.316〜317)


     三典同葬の悲願

     静子の哀しみをよそに、六月一日宇品を出帆した希典と第三軍司令部は、六日、第二軍の占領下にある金州湾に上陸。 この日希典は、智将・児玉源太郎(こだまげんたろう)と共に陸軍大将に任じられた。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.332)


     希典は、予定の陣地に行く前に勝典戦死の地である金州城周辺の新戦場を視察した。 次の七言絶句は、この時賦(ふ)されたものである。
      山川草木転(うたた)荒涼 十里風腥(なまぐさし)新戦場
      征馬不(すすまず)人不(かたらず) 金州城外立(ツ)斜陽(ニ)
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.332)


     泣き崩れて息子の死を悲しむ母と、七言絶句に万感の思いをこめる父−−感情表現の方法に隔たりこそあれ、子を悼(いた)む思いに径庭(けいてい)はなかった。 しかし、乃木夫妻の舐(な)めるべき辛酸はこれだけではまだおわらない。 行く手を阻む旅順のロシア軍大要塞により、乃木第三軍は日本の戦史上空前の戦死者を出すことになった。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.332)


     懐剣と軍刀

     明治四十五年(一九一二)七月三十日。 午前零時四十三分に明治天皇が崩御した。 参内は、ずっと廊下に待機していた希典は、一人特に許されて臨終直後の天皇を排することができた。
     「乃木よ、奉公はまだおわっていない
     戦場から死を決して帰って来た希典に、天皇はまだ死んではならぬ、と言ったのであった。 しかし、奉公すべき方は亡くなられた。 今や奉公をおわるべき時であり、死んでよい時が来たのである。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.344〜345)


     九月十三日の大葬の儀典までの間、希典は身辺整理に多忙だった。さり気なく門柱から表札を外し、二階自室にこもって書類の整理を行なう。 なぜそのようなことを、と静子に尋ねられると、諒闇(りょうあん)中は何もすることがないから整理しておくのだよ、と希典は答えるのだった。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.345)


     自分の彫像を造らせ、乃木家の系図を筆写した。 両典のすでに亡い今、乃木家は自分の死をもって断絶しすべきである、と希典は考えている。かつて乃木という一族が存在したことを伝えるために、正確な系図を残しておきたかった。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.345)


     そのような希典の覚悟にまだ気づかず、静子はこの頃跡目問題について夫に相談を持ちかけている。
     「天子様ですら御定命には勝てないのですから、あなたにもしものことがあれば私が困ります
     希典は笑って答える。
     「何も困ることはないよ。 もし困ると思うなら、お前もわしが死ぬ時に一緒に死ねばよいではないか
     すると静子は、「いやでございますよ」と大きな声で言った。
     「私はこれからたんと長生きして、お芝居を見たりおいしいものを食べたりして楽しみたいと思っているのですから
     「そうか、そうか。 その通りだ−−
     希典は、ふたたび笑顔で答えた。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.345〜346)


     九月十一日。 希典は十二歳の裕仁親王に拝謁(はいえつ)し、山鹿素行『中朝事実』をみずから筆写したものを献上した。遺書を書いたのは、翌十二日の深夜である。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.346)


     夫妻の死は世界中に打電され、国外には中世的感動を、国内には賛否両論を巻き起した。 当時の新聞を見ても、自殺を認めぬクリスチャンであるはずの新渡戸稲造(にとべいなぞう)が深い共感のコメントを述べたのをはじめ、さまざまな意見を出している。 希典と共に日露戦争に従軍した森鴎外は衝撃のあまり一夜にして『興津弥五右衛門の遺書』を執筆し、志賀直哉はその日記に、
     「馬鹿な奴だ』といふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた
     と書いた(九月十五日)
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.351)


     しかし、夏目漱石『こゝろ』の登場人物「先生」に語らせている次のくだりが、もっとも当時の雰囲気を代表しているように思われる。
     「……夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。 其(その)時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。 最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。 (略)御大葬の夜私は何時もの通り書斎に坐(すわ)って、相図の号砲を聞きました。 私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました
     確かに、乃木夫妻は明治と共に「永久に去つた」。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.351〜352)


     陸軍大将・乃木希典伯爵六十四歳。 同妻静子五十四歳
     近代を孕み、近代を生み、近代を育て、そして近代の矛盾を露呈しつづけた明治時代は、それぞれの内に育てた近代を捨てて、あえて反近代的行為を選び取った乃木夫妻の死をもって幕を閉じたのであった。
    (《義に生きるか裏切るか 明治と夫に殉じた大将夫人・乃木静子》P.)352