[抜書き]『うるしの話』


『うるしの話』
松田権六・岩波文庫
2001年4月16日 第1刷発行
    目次
    第一部 漆と漆芸
     一 日本の漆芸の伝統
      日本では石器時代から  中国の漆芸は?  玉虫厨子と正倉院の漆絵  日本独特の蒔絵  蒔絵の大成と唐物(中世)  高台寺蒔絵  常憲院時代もの  琳派の活躍
     二 漆−−そのふしぎな樹液
     (1)漆の木とその栽培
      東洋の特産  漆の木の栽培  増殖するには  漆の木のお国柄
     (2)漆液の採集
      漆液の採集時期  漆を採る道具と順序  採集のコツ  殺し掻きと養成掻き
     (3)塗料になるまで
      「クロメ」と「ナヤシ」  漆の色と色漆  黒漆  朱漆  漆の七色
     (4)漆のいろいろな特性
      漆の正体  漆の妙な乾き方  乾燥を自由に調節できる  漆の乾燥を調節する良法  敏感な生の漆  乾いた漆はじつに強い  漆のかぶれ  漆の効用
     三 漆器の材料と塗り方
      素地のいろいろ  漆をじかに塗る場合  下地塗の三つの方法  「瘠せ」と「涸らし」  紛下地  塗立と蝋色磨き
     四 蒔絵を語る−−漆器の装飾(一)
     (1)蒔絵手法のいろいろ
      漆器の装飾  蒔絵の起りと名称  研出蒔絵  平蒔絵  高蒔絵  肉合(菱合)蒔絵  平塵(塵地)  沃懸地  平目地  梨子地  引掻絵  蒔放し  錆上蒔絵  友治蒔絵  木地蒔絵  研切り蒔絵  蒔朱絵  黒蒔絵  色紛蒔絵
     (2)蒔絵法によらない装飾
      漆絵  密陀絵  油色  金銀泥絵  箔絵  錆絵  鞘絵  白檀塗
     (3)蒔絵を仕上げるまで
      特異な蒔絵法  平蒔絵の場合  研出蒔絵の場合  「箆づけ八年」  下地調合のコツ  大小の金粉の使い分け  むずかしい漆の乾燥調節
     (4)蒔絵の道具
      筆と毛棒  刷毛  粉筒  犬牙と鯛牙  箆
     五 螺鈿・平文・彫漆−−漆器の装飾(二)
     (1)螺鈿と平文
      螺鈿  琳派系の螺鈿  螺鈿用の貝  琉球の螺鈿(ソマタ)  平脱と平文
     (2)彫漆のいろいろ
      堆朱  紅華緑葉  日本の彫漆  沈金  蒟醤  存清
     六 日本各地の漆芸
      東京が中心  春慶塗  根来塗  輪島塗  津軽塗  若狭塗  会津・黒江・静岡の金蒔絵  金剛塗(静岡)  藍胎漆器  象谷塗  秀衡塗  南部塗  正法寺塗と浄法寺塗  一閑張  鎌倉掘  八雲塗  吉野椀  山中塗  桑名盆  城端蒔絵  勇助塗  嵯峨蒔絵  琉球漆器
    第二部 漆とともに六十年
     一 私の修業時代
      加賀の出身  七歳から修業  上京して美校へ  漆技方面では  卒業制作  学校は出たけれど……  最初の名誉大賞
     二 楽浪漆器修理の経験
      発見の由来  修理を依頼される  全部が実用品  装飾法について  楽浪漆器と日本上代の漆器
     三 蒔絵万年筆の創始とその影響
      初の就職  万年筆に漆を  他の近代的製品に  ダンヒル・パイプの漆塗
     四 現代建築の漆芸装飾
      邸宅  議事堂  宮殿
     五 船内塗装の経験
      新しい試みへの意欲  会社側のいい分  私の弁駁  「穴に入りたい」  漆芸を西欧に  その後の発展
     六 今日の漆芸
      西欧化と漆芸  技術軽視の昭和時代  古典研究の不足  「民芸」的な漆器  時代椀の再生  輸出漆器について
    新書版あとがき
    解説
     松田権六先生の思い出 大場松魚
    参考資料


    第一部 漆と漆芸

    一 日本の漆芸の伝統

     日本独特の蒔絵

     正倉院の漆芸中、前記の末金鏤(まっきんる)は中国ふうの名称であるが、唐から伝来したものではなく、おそらく日本で考案されたと思われる。 この方法が進んで蒔絵になった。 これまで末金鏤は蒔絵ではないという説があったが誤りで、やはり初期の蒔絵である。 蒔絵はかんたんにいえば、漆地の上に漆のみで文様を描き、その上に金粉や銀粉を蒔きつけて、金銀の文様をあらわす装飾法である。 そして、その上に漆を何度もあつく塗り、その表面を平らに滑らかにするために考えられたのが研出(とぎだし)蒔絵で、平安時代の初めごろには完成していて、流行した。 つぎにその研ぎ出す面倒を省くために、その金粉をうすく漆で固めて、磨き上げる(ひら)蒔絵が考案されて、これと並行した。 さらに鎌倉時代にはいると、平安の優雅さよりもいっそう豪華さを強調するため、金一色にして、平蒔絵の下層を厚く地塗りする高(たか)蒔絵の手法が発達し出した。それでも満足せず、室町になるとさらに高低や濃淡をつけて立体感や写実味をつよくしようと、肉合(ししあい)(菱合)蒔絵までが発達した。
    (《うるしの話 1−1 日本の漆芸の伝統》P.21〜22)


     蒔絵の大成と唐物(中世)

     鎌倉蒔絵の代表作をあげると、はでで重厚な畠山記念館蔵の「蝶牡丹唐草蒔絵の手箱」があるし、形に張りがあって大和絵ふうの「籬(まがき)と菊蒔絵硯箱(すずりばこ)」が鶴岡八幡宮の宝物のなかにある。 また出雲大社蔵の「秋草蒔絵の手箱」がある。 室町では、有名な文化財保護委員会の「塩山蒔絵(しおのやままきえ)硯箱」そのほか、そうとう残っている。 また、後に漆芸界の二大流派になった幸阿弥(こうあみ)五十嵐(いがらし)のそれぞれ初代の幸阿弥道長(どうちょう)、五十嵐信斎(しんさい)が名工として活躍したのも、美術工芸の大パトロンとなった足利義政の東山時代であった。流派ができてくるとということは平安いらいの蒔絵の伝統が、このころになって充分に根を張った証拠であるが、同時にそろそろマンネリズムの兆候を示しだしたともいえよう
    (《うるしの話 1−1 日本の漆芸の伝統》P.28)


     高台寺蒔絵

     こうした権力者の御用仕事を務めたのは、家柄の作家たちで、 室町いらい行き詰まってきた伝統派からも、幸阿弥長晏(ちょうあん)とか五十嵐道甫(どうほ)のような名工があらわれて、 家運を挽回した。 がんらい、この両派は初期時代はいずれも大和絵調を特色とし、しいて区別すれば、 前者は公家貴族を、後者は武家や庶民を相手にしていた。
    (《うるしの話 1−1 日本の漆芸の伝統》P.32)


     常憲院時代もの

     ところがこの伝統派の人々は、泰平の江戸時代になると、それに応じてたんに技巧を凝らし、あらゆる手法を使って細密な仕事ぶりを競う方向に向かった。・・・
    しかもこの技巧万能の傾向は江戸中期にはいるとますますはげしくなり、その絶頂は元禄を中心とする五代将軍綱吉の時代であった。・・・
    大局から見て当時の技術派は、瑣末主義(トリビアリズム)に落ち込んでしまった。
    (《うるしの話 1−1 日本の漆芸の伝統》P.33)


     工芸は昔から意匠が生命とされた。 その意匠には色調技術と資材の駆使の三つに現れるが、その意匠力が鈍ってくると、この三つの働きが沈滞して作品は瑣末的な技術だけがめだつようになり、生命力がなくなるわけである
    (《うるしの話 1−1 日本の漆芸の伝統》P.33)


    二 漆−−そのふしぎな樹液

    (1)漆の木とその栽培

     東洋の特産

     という文字は中国で「うるし」を意味する文字をそのまま日本の「うるし」にあてたのであるが、この「うるし」という言葉の起りについては、ある人は「うるわし」からきたといい、ある人は「うるおす」の転訛した言葉だなどともいい、結局、確実なことはわからない。 しかし、この木が「うるし」と呼ばれていたかどうかもわからないような遠い石器時代から、その滲みだす特殊な液汁によって、日本人の生活と交渉があったことだけは確かである
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.39)


     漆の木の栽培

     漆の木はもとは野生の樹木であったが、需要量が多くなるにつれ、人工的にさかんに栽培されるようになり、日本ではかなり昔からほとんど栽培の漆である。 というのは、奈良時代から漆液は米と同じように年貢として徴収されていたし、封建時代には何千本植えたら扶持(ふち)を与えるとか、大小の帯刀を差許すとかいって、いろいろと 奨励策が領主大名によって講じられたくらいだからである。 また貢物の中身に漆がひじょうに多かった時代もながくつづいたようである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.39)


     漆を栽培するには、空気が温潤であること、太陽光線がよくあたること、土地が肥えて風当たりがよいこと、この三つの条件がいる。 山ならば日当りのよい中腹以下ということになる。中腹以上は肥料気が少ないが、以下だと主として落葉が肥料になっているし、谷間に水がしじゅう流れて、湿度も高いからである
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.40)


     したがって、漆の木の栽培には大量に密生させた林を作るのはよくない。 枝と枝とすり合うほどの密生になるとどちらかが枯れてしまう。 はじめから杉のように木と木の間隔が近すぎるような植林はできない。適当に間隔をあける必要がある。 しかし、林そのものとしては、ある程度一ヵ所地方にまとまっていないと、漆液の採集のうえでは能率が上がらないから、林はだいたいみな互いに近距離のところに植林されるのが普通である。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.40)


     増殖するには

     漆の木を増殖するには二つの方法がある。 一つは根分け法で、いま一つは実生(みしょう)から漆木を栽培する法である。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.40)


     漆の木はいっぺん植えると、四方にはびこった根からそれぞれ、また、芽をふく。 漆液を採りきって役に立たなくなった木の場合でも、根元から切っておけば、翌春は残された根から何本も芽をふく。 がんらい、漆の木の根は杉や松のように地下に垂直に入らないで、横根で浅くはびこる。 だから少し掘るとすぐに根が現われる。 その根を五十センチメートルくらいの長さに切って根だけ土中に生けておくと、その根から芽が出て成長するのである。 これを根分け法といって、いちばん確実な増殖の方法である。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.40〜41)


     いま一つの実生から苗木を作る場合には、雌木のほうが多く植えられる。 前述のように漆には雌雄あるが、雌木はその表皮がなめらかで、液を採取する場合にも好都合だが、雄木の表皮はざらざらして粗く、採取のとき漆に無駄が出やすい。 木肌からも苗木のうちから雌雄の判別がつくのである。 しかし、雌雄の風媒花であるから、雌木だけでは実ができない。 したがって、実生から苗木を作る場合には雄木をも適当に混植する必要がある。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.41)


     この実生から、増殖する方法は、根分け法よりも苗木を育てる時間がかかる欠点はあるが、根分け法よりも植林後の木の寿命がいくらか長いといわれている。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.41)


    (2)漆液の採集

     漆液の採集時期

     漆の木は日本では、成年十二年ごろから漆の液を採るのに採算があうようになるが、老木になればなるほど樹液の産出量が多くなるのである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.44)


     漆は落葉樹だから毎年六月ごろになると、葉がぜんぶ茂り、新芽も枝になって成長する。葉が出きったころから漆液の採集にかかる。 採集の期間はこの六月ころから十一月ごろまでである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.44〜45)


     六月から七月のはじめごろまでに採れる漆は水分が最も多く「初鎌(はつがま)」という。 七月中旬から八月いっぱいくせいまでに最も良質の漆が採れる。 この最良質の漆を「盛り物」「夏物」といって、上塗(うわぬり)用の黒漆にも透明漆にも適している。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.45)


     九月に入ると「あと鎌」といって、水分もしだいに少なくなり、この期間に採れる漆は主として下地塗(したじぬり)(八一頁参照)専用で、上塗りや、色漆(五五頁参照)を作るには適さない。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.45)


     十月ごろからの採集を「止掻(とめがき)」(最後の〔とどめ〕をさす意)といって、漆液の水分がなくなるせいもあるが、漆自体も濃度を増してきて、粘っこいどろんとした状態になる。 そういう漆でも、漆には違いなく固まれば非常に堅くなるから、その方面の用途に適しているけれども、サラサラしないから、そういう漆で絵を描くには向かないし、色も悪い。 たとえば同じ赤い粉を入れても、発色の度合が「夏物」の場合よりも非常に悪い。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.45〜46)


     採集のコツ

     漆の液は漆の木の皮と木質のあいだに最も多く蓄積されている。 だから、これを採るときには、皮だけ破って、奥の木質を傷つけないようにすることが肝腎である。 あまり深い傷をつけると、かえって汁が木の中に吸い込まれて、噴き出さなくなる。皮の上から傷をつけて、皮下の漆層が破れたという程度のとき、いちばんよく漆が噴き出るわけである。最初から大きな孔をあけたら、たくさん出るというわけにはゆかない。 とりあえず傷をつけて、その傷の周囲にストックされている樹液を採集して、そのあと木自身に天然の絆創膏(ばんそうこう)を貼らせ、「腐りどめ」を行おうというのがコツである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.48)


     いったい漆の木は人間のためにああいうふしぎな汁を持ち合わせているわけではない。 なにかの拍子に幹や枝に傷がついたとき、樹みずから樹液を噴き出して自然治癒の絆創膏の役をさせるのである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.49)


     しかし、それと同時に、木自身も吹き出ただけの液の不足分を補給しなければならない。 最初にあちこちに傷をつけても、木はとりあえず現在の持高(もちだか)しか噴き出す能力がないから、それを噴き出してしまうと、木自身すぐつぎの補給にかかるわけであるが、その補給にかかると、これは前に持ち合わせた分量以上の生産に入るわけである。 だから第二番目り三日目につける傷は、最初の傷の倍くらいの大きさにするわけである。 そうするとそれまで製造していたやつをどんどん噴き出すわけである。 しかし、同時にこの補給作用のために、漆の樹自身は成長作用をやめて、漆液の製造工場に転換することになる。 平和産業が軍事産業に変ると同じようなものである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.49〜50)


     そういうことで七月から八月いっぱいは、日光の照りよりもよし、温度もよし、同化作用、呼吸作用ともに、漆を生産するのに都合のいい季節になる。 それを見はからって傷をしだいに大きくし、最大の傷にまでして、採集量を最大限にまでたかめるわけである。いっそ搾油機にかけてしぼったらというのはまったくの素人考えで、漆の木が現在持っている液量は微々たるものなのである。 それを生産工場に転換させるようになってくると、非常にたくさんの漆が木の内部で製造されることになるから、たくさん量が採れるわけである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.50)


     殺し掻きと養成掻き

     さて、漆を採る方法に二種類ある。 今年一年間で木が枯れるまでに採れるだけ採るのを「殺し掻き」という。 気長に木を養成しながら毎年採るのを「養成掻き」という。 養成掻きは大きな傷をつけていっぺんに採るということはしない。 少しずつ木を成長させながら汁を採るのである。 毎年採るということは、何年間かにわたって採るのであるから、結局、量的にはそのほうが多い。 殺し掻きは、一年でもって枯れることを承知のうえで採れるだけ採る。 もっとも、殺し掻きの場合でも、樹を立ち枯れにさせないで、幹の根元を鋸(のこぎり)で切っておくと、翌年はそちこちの根から何本も新しい芽が勢いよく噴き出してきて、成長率も二割方迅速に十年のものなら八年くらいで成木となる。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.50〜51)


    (3)塗料になるまで

     「クロメ」と「ナヤシ」

     精製漆業者は以上の原則にもとづいて精製し、いろいろ営業上の名称をつけて市販しているわけである。 昔から漆に混入する油としては、植物性の乾燥油が用いられている。 たとえば荏(え)の油(あぶら)荏胡麻(えごま)の実から採った油)、 または桐油(とうゆ)(アブラギリの実から採った油)が最良とされたが、 近来価格の低廉を目的に雑多な乾燥性油を増量その他の目的で混入するようになったので漆器の声価・信用が低落したのはまことに遺憾至極である。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.55)


     漆の色と色漆

     漆の色は前に述べたとおり採集した当初は乳白色の油状態だが、「クロメ法」(透化法)によって水分を除去すると黄味をおびた茶褐色の半透明なものとなる。 これに、いろいろな鉱物性の絵具を混ぜて各種の色の漆が作られるわけである。 昔は七色くらい作られたようである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.55)


    (4)漆のいろいろな特性

     漆の効用

     漆はもっぱら東洋独特の塗料接着剤として利用されているわけである。 これら以外にも漆の用途はいろいろあるが、あんがい知られていない。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.72〜73)


     まず、漆は薬用に使われる。 漆はがんらい東洋独特の産物で、その研究も技術的な処理の方法も東洋で発達した。 西洋医学のなかには漆かぶれの治療法も、漆そのものの利用法もない。 しかし、漢方医薬のなかには、漆による治療法も利用法もたくさん出ている。 たとえば胃酸過多には茶碗一杯の水に純粋の生漆を一滴たらして飲めばすぐになおる。 それから強精剤にもなる。 漆にかぶれる人でも、口に入れるとふしぎにかぶれない。 寒中に手足にできるアカギレなども、前の晩、楊子(ようじ)のさきに漆をつけて、そのアカギレのなかに入れ、上等の和紙にご飯粒をつけてペタッと張っておくと、人間の体温と湿度と蛋白質によって漆の乾燥が促進され、あしたの朝までには漆も乾き、アカギレもなおってしまう
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.73)


     また漆の芽や実が食用になることもあまり知られていない。 漆の木は五月ごろになると発芽の成長が十センチぐらいの大きさになるから天麩羅にしたり、酢あえにして食べると風味もあっておいしい。昔の茶人は珍味にしたらしく、同時に強壮にも効用があると考えられていた。 また、漆の実は表皮をとりさって核だけを適当に煎って、細かい粉状にしたものをコーヒーのように飲用することもできる。 あるとき、私の家で漆の実を煎りだすと、座敷にいた客がその香ばしい匂いにおどろいたことがある。 鼻のわるい人でも香気を感じるくらいなのである。 また終戦直後、私が新橋辺のある珈琲店の前を通ると、ただよってくる香気で漆だと直感した。 なかをのぞくと結構繁昌していたことを記憶する。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.73〜74)


     軍馬の採用地で有名な南部地方では、馬の採用日が通告されると、村人はこの核を毎日少量ずつ馬に喰わせたものである。毛並みがめだってよくなり、馬に元気が出てくるそうである。 漆の実の皮から工作機械用の良質な蝋がとれる。 また、蝋燭(ろうそく)を作れば蝋涙(ろうるい)(蝋の垂れ)もおちないから専門に作っている店もあるくらいである。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.74)


     漆は接着剤としてもひじょうにすぐれた効用がある。陶磁器その他の割れをつぐのにしばしば用いられる。 漆でついだだけではみば〕がよくないから、たいていその上に金や銀を塗って、金継ぎ銀継ぎ、といっている。 焼物には磁器と陶器と二種類あるが、陶器の場合には、メリケン粉と下地漆とをいっしょに練っていわゆる麦漆を作り、それでくっつける。 磁器の場合は陶器にくらべて欠け口が緻密であるから漆のなかに少量の膠(にかわ)を入れて使用する。 これを膠漆(にかわうるし)という。 しかし金とかガラスとかいうような浸透性のないものはやはり漆も喰いつく力が弱いから、接着剤としても程度の差ができることになる。漆でいちばん丈夫に接着させようとする場合には、優良な漆で「クロメ」と「ナヤシ」のかかった乾燥力の早いものを選んで、接着すべき両面に塗り、完全乾燥の一歩手前というところで両面を接着させる。 これが、もっとも効果的な接着法であろう。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.74〜75)


     このほかに、あまり知られていないが、染織方面でも漆が利用される。 小紋や浴衣を染めるには型紙が必要であるが、その型紙を作るときに文型(もんがた)を細い糸で丈夫につなぐのは漆である。織物にも漆糸を織り込んだり、金銀箔を接着するにも漆を用いている。 また紡績用の木管は漆で固めている。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.75)


     金工方面では、茶の湯の釜をつぐのは漆である。 また、その釜の湯がたぎるときに松風(まつかぜ)その他の音色を出すのも、鉄片が熱湯のなかで漆によって接着されているからである。 それから刀剣の仕上げ磨きをする砥石(といし)は、漆で接着したものを使っている。
    (《うるしの話 1−2 漆−−そのふしぎな樹液》P.75)


    三 漆器の材料と塗り方

     素地のいろいろ

     漆は要するに塗料であるから、それ自身だけでは形にならない。 器胎との関係で役立つものである。 これはには木材を器胎とする漆器がいちばん古いし、ひろく普及しているが、そのほかに金属を器胎にする金胎漆器を器胎とする●(土塞)(そく)または夾●(きょうちょ)と呼ばれた乾漆を器胎にした籠胎(ろうたい)(籃胎(らんたい))、焼物を器胎にする陶胎を器胎にする漆皮(しっぴ)、を器胎にする一閑張(いっかんばり)ともいわれる紙胎(したい)などがある。紙胎、乾漆、籠胎などはすでに二千年以前から行われていて、実物がたくさん残っている
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.76)


     下地塗の三つの方法

     器胎にじかに漆を塗らない場合には、まず、下地をほどこすのであるが、この下地を大きく分けると本堅地(ほんかたじ)と本地(ほんじ)と蒔地(まきじ)の三種類になる。
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.81)


     本堅地というのは堅地のなかでもいちばん強度が弱いが、現在ではいちばん上等の堅い下地とされるようになった。 いまの漆工が「堅く、丈夫に塗りました」といえば、多くは本堅地のことを意味する。 その塗り方は砥粉(とのこ)なり地粉(じのこ)なり、そういう粉末を最初に水と練り合わせ、粘土のような状態にしたものに生漆を加えて、いっしをに混ぜ合わせてしまう。 そしてそれを塗るか、粉末の分子の粗いものをいちばん先に塗り、乾かしてからそのうえに順を追って分子の細かいものを塗りかさねてゆく。 下地の回数をかさねるほど、上等の本堅地といわれるのである。家屋の壁と同様で、粗い分子のものからだんだん細かい分子のものを使う。 それと同じように塗物のほうでも昔からやってきた。 これが本堅地のやり方である。 いずれにしても毎回水が加わるということになる。
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.81)


     本地というのは、全然水を入れない。 下地用の粉末が粗ければ粗いなりに漆と混ぜて塗る。 乾いたらそのつぎにしだいに分子の細かいものと漆を混ぜて塗りかさねてゆく、全然水を入れないやり方である。
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.81)


     蒔地というのは、漆を薄く塗って乾かないうちに前記下地用の粉末を蒔きつけて乾かす。 最初いちばん粗いのを蒔いて乾かす。 つぎに二番目の粗い粉末を蒔く。 だんだん細かいのを上から上へと、漆を塗っては蒔きかさねる方法を蒔地という。 これにも水は全然入れない
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.81〜82)


     「瘠せ」と「涸らし」

     堅い下地を塗りかさねるということはどういう意味かといえば、前記のように器胎の大部分は木材が使われるが、いったい、天然木材の年輪には堅いところと柔らかいところがある。 年輪と年輪のあいだは、どんな木でも皆柔らかく、松や杉などの針葉樹はことにそれが甚だしく極端な差がある。 そこで漆を塗ると年輪の堅い部分よりも柔らかい部分のほうが漆下地の乾燥するにしたがってだんだん締めつけられて、漆が乾いた後にも、長い年月のあいだにへこんでくる。 一、二回下地を塗った程度では、年輪の目が完成後の光沢のうえに影をさしたようにあらわれて見える。 茶人、観賞家、専門家のあいだでは、これを「瘠せ」といって賞美するが塗面に光沢があるほど瘠せがめだつものである。 そこでこの瘠目(やせめ)が見えないように、どうしたらいいかということを昔の漆芸家たちがいろいろ研究史経験した結果、結局、下地の回数を多くすれば、瘠目があらわれなくなると考えるにいたった。 三十回も塗りかさねたものすらあるが、瘠目がほとんど出なくなっている。一日一回塗って、一カ月かかればいいということになる。 ふつうに乾かすだけでなく、下地中に配合されている水分を自然に蒸発させながら下地を塗りかさねるほうが瘠目防止にいっそう効果がある。 壁でも粗壁(あらかべ)を塗ってから時間をおいて中壁にかかったほうがいい。 上塗りは二年、三年先になっても、あとほどいいといわれるのと同じである。 下地も、漆が乾いたとなると、含んでいる水分の蒸発には時間がかかる。 同時に木目の柔らかい部分がだんだん締めつけられて、ひっこんでいくのである。 そのへんのことを考えると、毎回やつぎばやに塗ってゆくよりも−−もちろん乾いたら塗れることは塗れるけれど−−時間をおいて水分の蒸発を待って、つぎの下地を行うというふうにすれば、なお効果的なわけである。 だから下地が仕上がった後に一年も棚に上げて、充分に水分の蒸発を待つ。 このことを「涸らす」という。 涸らしておけば、その間に瘠せるべきものは充分に瘠せ込んでしまう。 そこで表面を平らに研いで、その上に漆だけを下塗り、中塗り、上塗りと、ふつう三回塗りかさねて仕上げる。 このようにして仕上げたものが上等の本堅地といわれている。
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.83〜84)


     紛下地

     製産費を安く工期も短縮する目的で、下地には漆をいっさい使わずに柿渋(にかわ)や米糊などを代用して作る下地をさして紛下地(まがいしたじ)といっているたとえば会津塗では柿渋砥粉をまぜ油煙を入れて漆を入れたように見せかける黒江漆柿渋も使わず、砥粉米糊を入れて下地として使う。そして、そのうえに一、二回ほんとの漆を塗り、安手の金蒔絵をほどこす。 素人目ではピカピカした金蒔絵に幻惑されて、その下にかくされた下地の正体はわからないという寸法である。 この方法は金蒔絵を安くみせて大衆に買わせようという不真面目な下地塗の行程であるが、これがそうとう行われて堅牢なるべき漆器の真価を傷つける主因の一つになっている。
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.84〜85)


     塗立と蝋色磨き

     上塗りして仕上げをする場合に二つのやり方がある。 一つは透漆でも黒漆でもあるいは色漆でも、これを塗放しにして上塗り仕上げをする方法で、これを塗立(ぬりたて)と呼んでいる。 そして、すべて塗立用の漆には、少量の油が混入されているのが特徴である。
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.85)


     これに反して、油が混入されない漆で上塗りしてこれを磨き仕上げにしたものを臘色(ろいろ)磨きという。 ふつう一般の塗物はこの塗立臘色磨きかの二者のうちのいずれかである。
    (《うるしの話 1−3 漆器の材料と塗り方》P.85)


    四 蒔絵を語る−−漆器の装飾(一)

    (1)蒔絵手法のいろいろ

     蒔放し

     漆で描いた文様に、金粉、銀紛を蒔いて、蒔放(まきっぱな)しにして、固めたり磨いたりしないやり方をいう。 この手法はまた桃山時代の代表的な漆芸の一手法でもあった。 その例としては琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)の都久夫須麻(つくぶすま)神社にみられる。 あの本殿は伏見桃山城内から聚楽第(じゅらくだい)の一部を、移築改修した建物で、豪華な桃山建物の遺構として有名であるが、あの社殿内陣の長押(なげし)その他をみると、いま述べた引掻きと蒔放しの自由奔放な筆勢が構図を生かし、手法にマッチしている。
    (《うるしの話 1−4 蒔絵を語る》P.103)


     この引掻き蒔放しは、作者の気分ののったときに一気呵成にやれば、たちまちでき上がる手法だから、桃山人の気性にすこぶる適したわけだったのであろう。 そのかわり、やり損ねたら始めからやりなおすほかないのである。 ちょうど唐紙に墨絵を一気呵成に描く場合と同様かき損じの修正がきかない手法である。 したがって、この手法を生かして芸術的な作とするには、よほど高度の技術がいるわけである。 桃山時代のような手腕があって奔放な作家のいた時代にはりっぱな芸術品もできたが、その後この手法の速成的な一面だけが安物の漆器に応用されて今日にいたった。 それが消蒔絵(けしまきえ)といっている。
    (《うるしの話 1−4 蒔絵を語る》P.103)


     会津塗のような安物の漆器は多くこの消蒔絵の手法で製造されているが、じつはこの引掻き法や蒔放し法は桃山時代の漆芸の一大特色だったし、時代をへるにしたがい雅味をます手法だが、会津消蒔絵は実用にたえないで文様が消滅してしまう
    (《うるしの話 1−4 蒔絵を語る》P.104)


    (2)蒔絵法によらない装飾

     油色

     これは、漆で下地をつくり、そのうえに漆を塗らずにふつう日本画用の絵具で膠(にかわ)をきかせて絵なり文様なりを描く。 さらにその表面に透明な(え)の油(あぶら)を全面にうすく塗るものである。 特徴は、彩色の鮮度を保持しながら水分と汚れを排除し、わずかな艶を画面にもたらすことで効果的にみえるという方法である。 古くは正倉院にはじまり、各時代に行われている。
    (《うるしの話 1−4 蒔絵を語る》P.111〜112)


    (3)蒔絵を仕上げるまで

     「箆づけ八年」

     ところで、秘伝秘訣はどの世界にもあるが、漆器制作にも角丸(かどまる)という秘伝がある。 器物の角々に適当な丸みをもたせることを角丸めといい、七・五・三の比例で角を丸める。 この七・五・三の七は、いちばん多く丸める意味で、五はその次、三は丸め方をいちばん少なくする意味である。器物の角を幾何学的に直角に作ることはべつに能力者でなくともできるが、適当に丸めるという、この「適当」ということがむずかしい。 工芸には用途、目的、機能、材質、デザイン、様式などいろいろ多角的な要素のうえにたって技術が生かされなければならぬ。 角のある形態は、その角を丸める程度如何によって形が生きたり死んだりする。真・行・草の三様もこれを七・五・三の角丸めを無視すると形態がみられなくなる。 七・五・三の法は私の調べている範囲では、だいたい室町時代からいわれていた。 いわゆる(とこ)飾り座敷飾りなどという形式が整えられたころだと思う。 棚や大きなものになってくると、七・五・三の原理がいたるところに出てくる。 私など師匠から、おまえそこは七じゃないよ、五だよというふうに厳密に教わったものだ。 一応棚が塗れるようになったら、七・五・三の角丸めを卒業するといわれた。 その棚も、厨子棚黒棚書棚三棚をはじめ、香棚茶棚、などとあった。 正統派の塗り方では角丸めの秘法を小さな工芸品にいたるまでやかまくしくいわれる。 この三棚と附属品は、古くから大名のお手元はもちろんのこと、その息女などが嫁入りするときはかならず持参したようである。 ただし秘法はすべて活用すべきでこだわるべきではない。 平らなところを平らに塗るのはばかでもできる。 この七・五・三の秘法大工指物のほうでも通ずるように思われる。 言葉や理屈ではかんたんだが、七・五・三の妙用を発揮することはかならずしもかんたんではない。 私どもが昔の名工の作といわれる物を見るとき、作者が理屈を知ってか知らないでか、ちゃんと七・五・三の公式にかなっているので頭が下がる。 見た目もよく使い心地もよいということになる。莨入(たばこい)香盒(こうごう)、(なつめ)などの小さなものでも筋の通った名作にはこれが行われている。
    (《うるしの話 1−4 蒔絵を語る》P.125〜126)


    (4)蒔絵の道具

     筆と毛棒

     細い線を長く引く場合などには、鼠の毛でつくった筆がもっとも適しているが、その毛は鼠のどの毛でも使えるのではなくて、背中の大骨の部分に、縦に大骨の方向に生えている毛、背中を走っているから「走り毛」というが、その走り毛がもっぱら使われている。 そして、水毛の長いほどよい。 昔は木造船の中に住んでいる鼠の走り毛が最適といわれたが、最近は鉄船に変ったために、鼠の水毛がいい加減にすり減っているので、いい毛が入手できない土蔵作りの米倉の中で玄米を食った鼠の水毛もいいといわれるが、その倉もこのごろはコンクリート化して水毛は同様の結果になっている。水毛は半透明で柔らかく、すりきれやすいのである。 毛の採集時期は、材木の伐採と同じように十二月から三月の半ばごろまでが、いちばいいいといわれる。 この時期は動物の毛並がいちばんよく、毛としても養分をたっぷり持っている。そういう点でとかというものはいいが、なんか家庭に住んでいるのは、このごろは電気・ガスになったからいいけれども、寒がりだから囲炉裏にあたったりしていると、水毛がみなちぢれてしまって、いくら猫の毛でも使いものにならない。 猫の毛で作った筆を「猫筆」といっている。 たまには犬の毛も使う。狐の毛はもっといい。狐の襟巻が北海道あたりでさかんに製造されているが、あの襟巻の中に特別長い毛がある。 それをピンセットで丹念に抜きとる。少々抜かれても襟巻として販売価格はあまり違わないらしいが、気をつけないと、その特別長いいちばんいい毛をいちおう抜かれているものがある。
    (《うるしの話 1−4 蒔絵を語る》P.136〜137)


     つぎに筆の毛先だけでなく毛身にも注意がいる。 毛身にはいろいろと〔くせ〕があって、つぎのような毛身は使えないことになっている。 反っている毛は薙刀(なぎなた)といって廃物になる。 螺旋(らせん)状にねじれた毛もいけない。 まん中に筋が縦についた溝毛(みぞげ)もいけない。 股になっている股毛(またげ)や、ぶつぶつの筋のある節毛(ふしげ)、どれも不適当で十何種類かの採用できない毛が、みんな省かれ、これらの欠点のない素直な毛が選ばれる。 しかも、そのなかで水毛のもっとも長いのが選ばれて筆になるわけだから毛の一本一本が吟味されるのである。
    (《うるしの話 1−4 蒔絵を語る》P.137)


    五 螺鈿・平文・彫漆−−漆器の装飾(二)

    (1)螺鈿と平文

     螺鈿

     螺鈿(らでん)というのは一般に夜行貝蝶貝あわび貝、そのほか貝類を嵌(は)め込(こ)んだものを意味するが、専門的にいうと、貝ばかりでなく牙角類鼈甲(べっこう)、金属水晶琥珀(こはく)、そのほか宝石のようなものを、装飾としてちりばめる場合のことをいう。 しかし、金や銀の板金を文様に切り透かしたものを漆の中へいっしょに嵌め込む、そういうようなものは螺鈿とはいわない。 これは平文(ひょうもん)または平脱(へいだつ)という名称で昔から扱っている。
    (《うるしの話 1−5 螺鈿・平文・彫漆》P.148)


    (2)彫漆のいろいろ

     漆を何回も塗り重ねておいて、これに文様を彫刻し漆の断層を美しくみせる方法を総称して彫漆(ちょうしつ)という。
    (《うるしの話 1−5 螺鈿・平文・彫漆》P.165)


     堆朱

     彫漆を漆の色の点から分けて、堆朱(ついしゅ)・堆黒堆黄堆青などという。という字は積み重ねるという意味で、堆朱(中国では剔紅(てっこう)という)は朱漆を何回も塗り重ねて、積み重ねたものを彫ったもの。 同様に、朱のかわりに黒い漆だけを積み重ねて彫ったものを堆黒(中国では堆烏(ついう)という)、黄色の場合には堆黄、青漆の場合は堆青という。
    (《うるしの話 1−5 螺鈿・平文・彫漆》P.165〜166)


     彫漆はがんらい中国に起り、中世日本に伝えられ、日本でもさかんになった技法である。 中国では各地において作られた時代もあるが、今は福建省でもっとも多く作られている。 宋時代にはすでに立派な彫漆が作られ、元、明、清と時代の特色を発揮しながら多種多様に変化したものが作られたのである。 素地は木製ばかりでなく、錫(すず)製のものを「銀胎」といい、真鍮(しんちゅう)製のものを「金胎」といっている。 漆のなかに桐油または(え)の油(あぶら)などを混入すると一回の塗厚が厚く塗られるようになることと、彫刻する場合に軟らかくて彫りやすい特点があるので、中国彫漆ははやくから油を混入する習慣があった。 しかし油の入った漆は年月を経るにしたがい断文(だんもん)(亀裂)が生ずることと、油が多くなるほど塗り重ねた回数の断層が不鮮明になり、光沢が失われるなどの欠点がある。 明代以降の彫漆はこの意味でまったく観賞的には無価値なものとなってしまったといえる。 また彫漆には、彫漆特有な地文の彫られた克明なものがよくあるが、彫漆の初期時代のものにはまったく地文がなくて、時代がくだるにしたがって地文があるようになってくる。私にいわせると、この地文があるようになってきた作品は芸術的には見るべきものが少ないと思われる。 地文をべったり彫るようになったのは明代以後である。
    (《うるしの話 1−5 螺鈿・平文・彫漆》P.166)


    六 日本各地の漆芸

    会津・黒江・静岡の金蒔絵

     この三地方の漆器に共通する点は、江戸中期ころまでは相当いいものを作ったが明治以後は、外見(そとみ)がよくて値段は安いが、質が悪くて、実用性がないということである。 沿革のはじめはけっしてそうではなかった。 たとえば会津などは、近世の初め、蒲生氏郷(がもううじさと)の領主時代、南部椀(二〇四頁参照)を手本にやらせたのがはじまりと伝えるし、今でも実用に耐える良質のものが作れないわけではないが、近来は材料を落し、手をぬき、体裁だけ本物らしい安物の蒔絵漆器産地となってしまった。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.192)


     塗物は完成すると外見だけでは下地の内容はわからない。 いかに本堅地をやっても使ってみないかぎり下地の堅牢度はわからない。 そこに目をつけて考え出されたのが紛下地(まがいしたじ)である。 紛下地というのは漆を使わずに柿渋(にかわ)や米糊などを代用する下地の上に漆を上塗りする方法である。 たとえば柿渋を砥粉(とのこ)とまぜて塗ったり、あるいは柿渋を塗って炭粉を蒔いたり、膠や米糊に砥粉を入れて塗るなどまことに下地法はかんたんで費用も安くつく。 表面には、一、二回の漆を塗り、これに金蒔絵する。 その金粉も粗ければ高くつくが、ごく細かいものを蒔放(まきはな)しで、手間のかかることはしない金が派手に光ってさえすればそれでいいとするのである。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.193〜194)


     金泥(きんでい)の粉ではまだ粗すぎるというので、それ以上の細紛にすることが工夫された。会津消粉(けしふん)「カサアリ」がそれである。 これを「会津消蒔絵」という。 江戸時代の文化年間に考え出されたといい、今日まで伝わっている。 この消粉は金泥の三倍ぐらいの分量がある。 同じ一匁(もんめ)で同値の金泥でも、消粉にするとずっと嵩(かさ)があるから「カサアリ」の名称が起った。 金にまちがいないが、金泥として使っても光らないほどの微紛である。 蒔絵に使われている金粉のなかでいちばん細かな微粉といえばこの「カサアリ」であろう。 現在使われている金粉のいちばん粗い粉に比較すれば約五百倍の面積に蒔きひろげることができるほどの微紛である。 しかも粗荒な金粉になればなるほど蒔いた後の仕上げ作業がたいへん手間どるが、「カサアリ」ともなれば、ほとんど蒔いたままで仕上りも同然なほど、手間のかからぬものである。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.194)


     この三産地とも、柿渋のほかにもっと安い米糊や膠を使って、そのなかへ砥粉をいっぱい入れ下地として塗る。 表面の仕上げも原料粗悪な漆で根来(ねごろ)塗放(ぬりはな)したり、あるいは高級品のごとくに蝋色(ろいろ)磨きに仕上げることもある。 紛下地で、かつては米糊や膠、柿渋を使ったが、最近になって合成樹脂系のものを使うようになってきたことは、いくらかましである表面だけ素人眼には立派な高級品にみえて、値段は安いという印象を与えるように研究工夫されている。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.194〜195)


     このように会津も黒江も静岡も、紛下地によって外見だけを立派な漆器に見せかけているわけであるが、いずれにしても、従来のこの紛下地の漆器は使うと否とにかかわらず、気候の変化や温湿度の状態で自然に故障するように作られているものすらある。 何かの原因で一部分が剥げると、そこから湯水が浸透しだし、紛下地のぼろ隠しをしていた上塗漆や金蒔絵の体裁も全部かんたんに剥げおちてしまう。 これが紛下地の正体であり、一般需要者に塗物は剥げるものという強い印象と観念をうえつけてしまったわけである。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.195)


     むかしの製造業者は堅地をほどこすだけの予算がない場合素地に良い漆をじかに吸い込ませ、全然下地もせず布も張らずに塗り上げていた。 私が調べたかぎりでは奈良時代から江戸時代の初めころまでのながい間、大衆向きの椀にはこの方法が用いられ、しかも、それらはながい実用に耐え、摩滅した部分はあっても少しも剥げずに椀の役を果している。実用という点からみればむしろ堅地施工よりもこのほうが丈夫であることを証明している下地をする以上はまじめに堅地をほどこすべきである。 今日、会津、黒江、静岡といえば紛下地の安物漆器の産地とみられている。何とかしてこの汚名を一日もはやく返上して明治以前のまじめな状態に戻らせたいものである。 これは明治以来自由主義経済になって販売競争が始まると、漆器の使命と、需要者の立場を無視して、ただ生産者だけがさしあてり儲(もう)かればよいという、きわめて利己的で近視眼的な考えからこんな状態になったとしか思われない。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.195〜196)


    金剛塗(静岡)

     前述のように会津・黒江・静岡は明治いらい紛下地(まがいしたじ)による安物漆器の多量生産によって、一時は年産額も増したが、結局は内外需要者の信用を失って年産額も減退の一路をたどり出し、最近はどこも転廃業が続出する。 とくに静岡では、たった一軒、金剛塗(こんごうぬり)(金剛石目塗)だけが残った。 創始者の鳥羽清一硬忍)は数年前に亡くなって、その遺志をついて鳥羽鐐一が経営している。この鳥羽老は日本きっての安物の大産地のまん中に、日本一堅牢な金剛塗り作りつづけた。 金剛塗は前に述べた堅地三種類のなかのいちばん堅いとされる薪地法による塗物である。 いかに立派な建築でも見えない土台が大切なことは常識であるのに、塗物の土台であるべき下地をどうでもいいというような紛下地の当節では、堅地を誇った輪島塗でさえ、充分な堅地はできないくらいになったが、この鳥羽一軒だけが、日本一の堅い薪地塗をやっているわけである。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.196〜197)


    一閑張

     一閑張(いっかんばり)は江戸時代に日本に亡命してきた中国人飛来一閑(ひらいいっかん)(一五七八−一六五七)からその名をつけられたというが、明らかではない。 京都でも代々業をついでいる飛来家があるが、名古屋が主たる産地になっている。 一閑張は紙が器胎で、これに漆を塗ったものである。 軽くて変形せず紙胎(したい)の味が保有されることが特徴である。 したがって昔から下地をほどこさず漆を塗りかさねた程度のものに名品が多い。日本紙の丈夫な紙を張りかさねたものを胎として、紙の味を生かすように、漆塗を重ねるのが本来である。 棗(なつめ)(茶入)・香盒(こうごう)のような小形の器物には紙胎でよいが、大きな箱物になると、古くは芯を木製・竹製・桐製・金属製などにして、これに紙を張りかさね漆している。 小器物の場合は型を作って、この型によって紙を張りかさね、後で型からはずして仕上げる(張抜(はりぬ))。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.205〜206)


     一閑張の手法は古くから行われている。 遺品では、唐招提寺にある天平時代の鑑真和上(がんじんわじょう)の像が一閑張の手法である。 その当時一閑張といわないで、夾●像(きょうちょぞう)といった。 夾●は乾漆のことであり、乾漆の一種の張抜きである。
    夾●:●は“貯”の字の“貝”の偏が“糸”。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.206)


    八雲塗

     八雲塗(やくもぬり)は出雲(いずも)で起り、古くは赤、青、黄など総じて渋い色漆で明朝風の絵模様を描いたが、明治末期から漆の描絵にでこぼこの肉(タッチ)をつけ、ここは厚く、ここは薄くというふうにわざわざ肉をつけながら色漆で文様を描くわけである。 それを、いったん乾かして、これに透明な漆を全面にかけて木炭で平らに研ぎ出す。 肉厚の高い部分の色漆は最初に研ぎ出されてくる。 平らに研ぎ出す際に、低い部分の文様は透漆(すきうるし)の中にもぐり複雑な深みのある色に透けてみえる。 したがってでこぼこに描かれた色漆が透漆のため立体的に見える。 金粉を使わずに色漆のみの文様であるから、かえってリアルな表現となる。 この技法は陰影や色の濃淡が計画どおりに成功すれば、油絵に似てしかも油絵ではできない特色を発揮する。 おそらく江戸中期ごろから始まった手法ではないかと思われる。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.210)


    吉野椀

     ついでにいうと、昔の椀類は形がみな大様でゆったりしている高台(こうだい)(椀の底の円形部)の直径は椀の直径に比べて大きい。 高台の高い低いはべつとして、高台の小さいのは、古い器には少ないようだ。 高台の直径が大きいということは、粗相してもよほどでないかぎりひっくり返らない、つまり安定性があるというわけだ。 安定した実用性を見ても美の調和を考えた作り方なのである。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.211)


    山中塗

     石川県山中温泉郷に起り、ながい歴史をもっている。 今でもそうとうさかんだが、昔から挽物(ひきもの)類が上手な所だから茶托、椀、盆、飯器などの産地として有名である。 特色は挽物素地と塗立(ぬりたて)が得意である。 山中という所は腕の優れた人もいるので、かなり高級なもののできる産地でもあるが、また反対にきわめて安物のできる有名な所でもある。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.211)


    琉球漆器

     琉球には日本の内地に見られない独特の漆器がある。 その特色は「素地」と「下地」と「装飾法」の三つである。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.214)


     第一の特色は、漆器に使われる材木に梯梧(でいご)という内地でみられない木を使用していることである。 梯梧という木は、土地の人の話では、成長が早く、四、五年で大木になる。 植林するときは、腕ぐらい太い枝を切ってその木口に少し角度をつけてとがらし、これを土中に七十センチほどさしこんでおくだけで根が出て成長するといわれている。 花盛りにみると、南国的なじつに美しい真紅の花をみせている。 梯梧材の特色は、軟らかくて、軽く、ほとんど年輪がめだたない、きわめて多孔質の材木である。 轆轤(ろくろ)にかけたり、鉋(かんな)や刃物で削ると、表面は決して滑面にはならず、かならず穴だらけの粗面になるほどの多孔質であるから、気候の変化や湿度の変化にも歪まず、狂いのない器具器物を作るに適しているのである。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.214)


     琉球漆器の第二の特色は、下地に豚血(とんけつ)を利用することである。 すなわち豚血の凝固する性質を利用する方法である。 豚血を地粉(じのこ)と練って下地とする。 つぎに豚血と砥粉を練ってつける。 漆のかわりにどこまでも豚血を使う。 これを豚血下地といって他はない方法である。 梯梧材の挽物(ひきもの)盆の肌は粗面であるが、この下地をこってりつけると多孔面に喰い込み密着する。 豚血が乾くと水には溶けなくて上塗漆とし喰いつきがきわめて良好であるから、内地の漆下地による堅地のごとく堅牢で、剥げないのが特色となる。 したがって変形しない器物としてアメリカその他の乾燥地帯国への輸出条件に合格するわけだ。 豚血下地は堅地からみれば一種の紛下地(まがいしたじ)となるわけだが、この下地は剥げないから奨励すべきものと思われる。 内地の気候風土には不可能な技法である。 中国の福建省から、ずっと南の暖かい国にかけてこの下地が昔から行われている。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.216)


     この豚血下地と梯梧材の利用は、かつて琉球を支配した(しょう)のさかんなころに創案され、殖産として奨励されたものの一つであった。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.216)


     琉球漆器の第三の特色は、上塗りの色が鮮明で堆錦(ついきん)という特別な加飾法があることである。 色には、赤、黒、青、黄の色漆が使用されているが、いずれも内地品に比べて発色度が鮮明であるのはおそらく風土の関係であろう。 琉球漆器の文様は、琉球の染物であった紅型(びんがた)と同じように、ユニークな立派な文様である。 とくに堆錦の手法は、純粋の漆に多量の絵具を混入して、これを金槌でたたきながらよく練り合わせた団子を作る。 この色漆の堅練り団子を、のし餅を作る要領のごとく丸い棒で延ばして官製はがき四、五枚を合わせたくらいの薄板にする。 これを柔らかなうちに刃物で文様に切り透かし、そのまま器物に貼りつけて軽く押えれば密着する。 なお漆の乾かないうちに適当な線彫りをしたり、箆押えなどして渇かす。 この技法を推錦といって今も行われててる。 この推錦技法を内地ではただ一人秋田在住の生駒弘が自宅で倅(親雄)とともに作っている。
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.216〜217)


     琉球には別記のごとく、杣田(そまた)という世にもすばらしい螺鈿(らでん)細工が、尚家時代さかんなりしころのながい伝統であったが、今は見る影もない状態になってしまった。(一五六頁参照)
    (《うるしの話 1−6 日本各地の漆芸》P.217)


    第二部 漆とともに六十年

    一 私の修業時代

     加賀の出身

     さて、これらの加賀文化のなかで蒔絵方面についていうと、 前述のようにこれももちろん中央の京都から技術の移植で加賀蒔絵として発達した。 当時、京都の蒔絵界には幸阿弥(こうあみ)五十嵐(いがらし)の二つの大きな流派があった。 幸阿弥派は代々主として朝廷をはじめ、 公卿や諸侯などの御用をつとめた大きな流派であり、五十嵐派は主として一般階級を対象にして制作していた加賀藩に招聘されたのはこの五十嵐派で、その直系が金沢に技術を移植することになり、 その結果、金沢には五十嵐派を主流とする高級な漆芸技術が伝承されるにいたったわけである。 明治時代になってからも、蒔絵の巨匠をはじめ塗師の名人も多く輩出して、漆芸王国を形作ったし、箔打(はくうち)業(金銀箔の製造)などでも有力な大産地となった。
    (《うるしの話 2−1 私の修業時代》P.223)


    四 現代建築の漆芸装飾

     議事堂

     昭和六年(一九三一)に国会議事堂内の便殿(べんでん)と皇族室の漆芸装飾を東京美術学校が依嘱され、助教授だった私はとうぜんその計画や施工を担当することになった。 このほうも乾漆にして螺鈿金銀蒔絵の装飾を使って仕上げた。 しかし、この機会に国民全体に漆芸にたいする認識を深めてもらいたいと考えたから、関係者一同とはかり、衆参両院の議席の内壁面一万二千坪をそれぞれ漆塗にすることを提議した。 当時、議事堂建築の総責任者は工学博士の大熊喜那(よしくに)(大蔵省営繕管財工務部長)だったが、大熊さんに掛け合うと、今からそんな話は遅すぎて間にあわぬ。 ずっと前からラック仕上げにすることに決まっているし、請負師にたいする現場説明をして入札を決定するのもあと数日に迫っているから駄目だという。 そして漆は良いがなにしろ価格が高くてネ、というので、しからばラック塗の予算で漆に替えたらどうかと要望した。 ともかく、至急、漆の見本を幾種類か試作することになり、現場説明の時間にやっと間にあわせ、その他いっさいの現場説明の資料もいちおう整えた。
    (《うるしの話 2−4 現代建築の漆芸装飾》P.260〜161)


     その結果、議席の全壁が一変して純日本産の摺漆(すりうるし)塗で包まれたのである。 当時、私の心境は、漆芸の価値はすでに世界的だから、この議席の中身たる議員諸公の吐く議論も世界的であるよう念じていた。
    (《うるしの話 2−4 現代建築の漆芸装飾》P.261)


     いよいよ完成したときには、余計ながら個人名で当時の議員あてに説明文を送った。貴方は、国民の総意を代表して新しい議事堂の議席につかれる、おめでたいことだが、その議席は「ジャパン」とよばれる世界的な漆で包まれた。諸公はその漆(ジャパン)にふさわしい世界性のある高い見識を大いに吐いていただきたい、という意味であった。
    (《うるしの話 2−4 現代建築の漆芸装飾》P.261〜262)


     しかし、残念なことに第二次大戦は、あの議席から勃発したように思う。 ついでにいえば、日本の降伏条件を決定したポツダム宣言の行われたポツダム宮殿内のいちばん立派な部屋は家具調度一切が漆塗金蒔絵の豪華な装飾に包まれている。 おそらくは、中国の漆芸だろう。 私は昭和十二年に渡欧したとき一見したが、もし、宣言がある漆の間で行われたとしたら、たいへん皮肉な話だとひそかに思っている。
    (《うるしの話 2−4 現代建築の漆芸装飾》P.262)


    解説

    松田権六先生の思い出   大場松魚

     それから図案集を取り出してこられて、毎日、一案は図案を描きとめるようにと言われました。それをずっと続けることで、「出し癖」をつける。 出し癖ができると、ちょっとした物を見ればぱっと図案がひらめくようになる。これは頭の体操なのだ。 一人前の蒔絵作家になるには、図案がうまいかまずいかで勝負が決まる
    (《うるしの話 解説》P.297)


     そのためにも、毎日一案は図案を描く。 そうするとひと月に三十案、一年で三六五案だから、七百、千案ぐらいはわけないことだ。 いかに頭の弱い人でも、千案のあいだに五つから十はすばらしい案があるに決まっている。 それを蒔絵にすればいい。毎日書いていればそれができる、やるかやらぬかで人生が決まる。一日一案を実行しなさい。
    (《うるしの話 解説》P.297)


     これは工芸家には大事なことで、たとえばお盆の注文を受けたとき、形はこうでしょうか、木地はこれでどうでしょう、塗りはこんな感じで、図案はこうしましょうか、といちいち伺って、注文主のところとを往復しているようではいけない。その場で図を描いて、全部説明ができて、これでどうかと提案してすっかり決めてしまう。 そういう商売ができなくてはだめなんだ、と言われました。
    (《うるしの話 解説》P.297)


     わたしは一度、一日に百案描いてやれ、と思って実際描いてみたことがあります。 そうしたら、数の問題じゃあないんだ、こつこつ努力した一案が大切なのだと、ひどく叱られました。
    (《うるしの話 解説》P.297〜298)