[抜書き]『地の果ての獄(下)』


『地の果ての獄(下)』
山田風太郎・ちくま文庫
山田風太郎明治小説集六
一九九七年七月二十四日 第一刷発行
    目次
    地の果ての獄 下
      空知集治監
      義経、弁慶を追う
      コタンの出撃
      大奇蹟

    斬奸状は馬車に乗って
    東京南町奉行
    首の座
    切腹禁止令
    おれは不知火

     関連年表
     解説−−縄田一男


    地の果ての獄 下

     空知集治監

     「このごろ、カラフト・コタンの鴉仙(あせん)和尚のところへ来ておったようだな。 ふうん、犬〔ぞり〕を習って、その帰りか
     「鴉仙?
     「その昔、仙台藩の侍で、戊辰(ぼしん)のいくさのとき、百姓やばくち打ちだけ集めて、からす組という部隊を作り、侍よりも官軍を悩ました前名細谷(ほそや)十太夫という人さ
     その話は、休庵からもちょっと聞いた。
     「いまは坊主になって、鴉仙和尚と称しておる。 なるほど、知り合えば、あの休庵先生とウマが合うだろう。 おれもね、その昔、官軍とやり合った朝敵長岡藩の人間だから、あの和尚は好きだよ。−−いや、御両所には失礼
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.11)


     「それで、ここの囚人は大部分政治犯にごわすか
     「まさか、懲役十一年以上もの政治犯が二千人もおるわけはない。 それは百人足らず−−あとは一般の凶悪犯だが、まあ内地の政治犯の重いやつは、たいていここに送られて来とることは事実だ
     高野は答えて、
     「おう、いつか月形へ連れていった自由党の連中な、あれはいまここにおるはずだ。−−という意味はきょうは炭鉱にやられておらんということだが−−そっちへいって見るか
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.13)


     高野看守長は、彼らについて、もう一度説明した。
     加波山事件とは、福島事件河野広中以下福島自由党を一掃した福島県令三島通庸への復讐を志し、その後栃木県令になった三島を栃木県庁もろとも爆殺しようと計り、近くの加波山に集結した自由党員らが、襲って来た警官隊とちょっとした戦争をやった事件で、河野広躰(ひろみ)や横川省三玉水嘉一などがその一味であった。 河野広躰は河野広中の甥(おい)であった。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.15〜16)


     静岡事件とは、この加波山一挙と相呼応しようとした、いわゆる岳南自由党が、箱根離宮の落成式に参集する大臣たちをみな殺しにしようとし、その準備として爆弾などを作っているうちに一斉につかまった事件で、鈴木音高(おとたか)や中野次郎三郎鯉沼九八郎などがその一味であった。 鈴木音高はもと山岡という旗本の家柄であった。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.16)


     「お前たち、あの秩父の連中をえらく見下しているようだが、同じ自由党じゃないか
     と、高野は、さっき追い払われた男の混っていた、ずっと向うのグループに視線をやった。
     「いや、あいつらが自由党面(づら)をするのが気にくわんのです
     と、横川がいい、
     「なあに、たかが秩父の百姓一揆の連中が!
     と、鈴木が吐き出すようにそっぽを向いた。
     −−なに、秩父の百姓一揆?
     ふっと、四郎助の頭に何かひっかかった。
     高野看守長が歩き出したので、彼もあとを追った。
     「あの自由党の若い衆、おれは志士と認めて、そのようにつき合っておる。 それにね、樺戸でも同じだろうが、囚人仲間でいろんな種類の組が出来る。 それを統率するのに、あの連中がいちばん役に立つ。 若いが、みんな人間がしっかりしとるから、泥棒や強姦組はみんな尊敬するのだな
     囚人の作業をしている間を歩きながら、高野はひとりごとのようにいう。
     「いいことばかりはないもので、それが悪い目に出る面もあるようだ。 あの連中を少し天狗にならせたよ
     「秩父の百姓一揆とは……あの秩父事件の事(こつ)ごわすか?
     と四郎助は訊いた。
     「その通り、君、知っとるのか
     「いえ、それほど詳しく知りもさんが。……
     「明治十七年秋のことだ。 重税と高利貸にいためつけられた秩父の農民が、竹槍や猟銃で蜂起した。 その数は五千とも八千とも一万ともいわれる。 これが警官はおろか軍隊とも戦ってついに鎮圧され、四千人が裁判にかけられた。 その結果三百人が重罪者となり、死刑を宣告された者が七人ある。 もっともその中の二人は逃亡して、実際に死刑を執行された者は五人だったと聞いておるが。−−
     と、高野は話した。
     「その重罪者の中で空知へ送られて来たのが、あの連中だよ
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.16〜18)


     高野看守長と自由党の若者たちとの開放的な雰囲気も樺戸では見られないものであったし、渡辺典獄も−−これはむろん当時の四郎助の知らない書物だが、「東陲(とうすい)民権史」という本に、河野広躰らがここへ送られて来たとき、「全身疲瘠(ひそう)、ほとんど骨と皮を存するに至る」状態であったが、「空知典獄渡辺維精の恩眷(おんけん)を受け」健康を回復した、と書かれたような慈愛の性格であった。 それは何となく四郎助にも感じられたし、だいいちあの原胤昭がここにも聖書をばらまいていったらしいが、それを多くの囚人が公然と読んでいるのでも、典獄の寛大さが察しられた。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.20)


     監獄は、明治以来の「空知郡」にあるにちがいないので「空知集治監」と名づけられたが、町の名自体は「市来知(いちきしり)」といった。イチキシリとは「熊の足跡の多いところ」というアイヌ語から来ている。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.20)


     東西に流れる幾春別(いくしゅんべつ)川の作る、わりに広い谷の中央にあり、主として川の北岸に広がっている。 囚人の数はもとより、監獄職員も、看守以上の者でさえ四百人に近く、それ以下の身分の獄丁及びその家族を加えれば、月形よりはるかに多い。
     「あの山が、三笠山
     と、高野は集治監の北方のコンモリした低い山を指さしていった。
     「渡辺典獄が、奈良の三笠山に似ている、といってつけられたものなんだ
     −−そのために、市来知はやがて三笠山村という名に変り、さらに三笠町、そして三笠市と改められることになる。 これは後の話。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.21)


     「それも仙台じゃない。 あれは江戸人だ
     「ほう?
     「あの古着屋の亭主−−西野孫六という男だが、商売上、警察とは縁が深い。 泥棒が盗品を売り込みに来たり、身なりを変えるために古着を買いにいったりするからね。 市来知でただ一軒の古着屋さ。 それでよく集治監にも出入するんだが、あれもひょっとしたら、もとは侍−−侍の家の出じゃないかとおれは見ている
     「へぇ?
     「当人に訊いたら、へへ、とんでもない、と手をふったがね。……何しろ、出来てから五年になるやならずの町だから、町じゅうの人間が素姓不明といっていい。 きりがないから、監獄の外の人間はいちいち詮索はせんことにしとるがね
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.23〜24)


     幌内は、幾春別川を隔てて、すぐ南方にあった。−−むしろ、幌内の谷口に市来知の町があるといったほうが正しいだろう。 市来知は、幌内炭鉱があればこそ出来た町だからた。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.24)


     幌内に石炭が出る、ということは、明治初年から知られていたが、明治五年、ときの開拓使榎本武揚によって確認された。 政府が招聘(しょうへい)したアメリカ人技師ライマンによって、その埋蔵量は一億トンに及ぶ大炭鉱であるという報告を受けとると、以後、大鳥圭介黒田清隆伊藤博文山県有朋ら、当時の大官らが相ついで視察に赴き、明治九年にはこれを官営で大々的に開発することが決定された。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.25)


     そして、その石炭を輸送するために、幌内から小樽まで鉄道が作られることになり、それは明治十四年に開通した。 実に、東京−横浜、大阪−神戸につづいて、日本で三番目につけられた鉄道である。 明治の指導者たちは、いみじくもこの北海道の炭鉱が新しい日本の一大エネルギー源であることを見ぬいたのである。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.25)


     そしてこの開発に当る労働力として囚人を使用することも決定され、そのために空知集治監が設けられることになったのである。−−空知集治監はただ囚人を収容するための監獄ではなく、実は幌内炭鉱の労働力の供給地として作られたものなのであった。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.25)


     とうぜんそれは、石炭資源のための人的資源ということになる。−−
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.25)


     この明治二十年から六年後の明治二十六年夏にここを視察した刑法の岡田朝太郎博士がその実情を述べているが、それを要約すると次のような光景だ。
     「……ここに入らんと欲すれば、外套を着し、手燭を携えざるべからず。 構内闇黒にして、夏といえども寒気不時に襲来すればなり。……進んで幾千尺に達すれば、腰を屈してわずかに歩行すべし。 横抗に入れば業に就く囚徒また匍匐(ほふく)横臥、岩を砕くの音丁々(ちょうちょう)たりといえども燈火明暗面(おもて)を弁ずるに能わず
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.25)


     「……囚徒の使役は一日を二分し、十二時間を就業時間とす。 一を夜間の就役に充(あ)つ。坑内に昼夜なければなり
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.26)


     「……囚徒は喫飯に定時なく、随時随意に飲食す。 飲料は河水なり。 腐敗して飲料にたえず。 この事情は、炭坑の囚徒に消化器病、下痢病を多からしむるに至る。 便所と食堂の区別なく、炭粉、炭坑ガス相合して浮動し、悪臭塵埃(じんあい)こもごも鼻口に入り、ついに囚人に一種の肺病−−塵肺労を誘起せしむ。 空中に飛散する炭粉の量の多きは、衣服の色に微して大体を察するに足る。柿色の獄衣、一週間前後にして鼠色となり、月を閲(けみ)すれば闇黒色に変ず
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.26)


     「……廃疾者の合計二百六人、あるいは、一手なきものあるいは一足なきもの、空知分監内を徘徊(はいかい)し、五十以上の盲目者一所に整坐し、軽役として綿の塵埃をえり分けつつあるを見、ほとんど、いうところを知らざりき。 空知にあるの囚徒もとより兇奸無頼の輩多し。 しかれども、薄暮、手を失いしもの教導となり、盲者背後より前者の帯にすがりて、相連なりて監房に帰るの状を見るもの、だれかよく酸鼻の情にたえんや。 かくて有害なる坑内に入るは、好んで死地に進むものと思わざるべからず
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.26)


     空知集治監典獄渡辺維精は、ただ寛大慈愛の人ではなかった。ここに集治監を置かれたのはこの炭坑のためである、という政府の目的をよく認識し、かつその使命を遂行し得ると上から見込みをつけられた人であった。
     −−これは後日譚だが、渡辺典獄がのちに三池集治監に転任されたとき、その赴任に際し、三池炭坑の責任者、三井鉱山部長団琢磨(たくま)−−作曲家団伊玖磨(いくま)氏の祖父−−以下が、はなばなしく大牟田駅に出迎えたのを無視して、わざと三池に直行したといわれる。 これだけの剛毅な一面を持っている人物であったのだ。 この渡辺維精の孫娘が、やがて、大正、昭和の社会主義の学問的指導者大内兵衛(ひょうえ)氏の夫人となる。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.27〜28)


     「ところがね、一方じゃ囚人には、ここへ来て働かされることをむしろ希望している連中もあるんだ
     「え、どけんしてでごわす?
     「それはな、あの穴のはいってこそ、きゃつらの自由が生まれるからだよ
     「穴の中の自由?
     「うん、坑道は樹の枝のような支道を加えると、いまのところ十三里もある。 その中にも五十人内外の看守にカンテラを持ってあちこちに立たせているが、たとえ平均に立たせても、八、九町に一個のカンテラということになる。 いわんや、危険なところには看守がゆかないにおいてをやた。 きゃつらは、何でも出来る
     「……
     「第一に、いや酒瓶を持ってはいる、などということは金輪際出来ないはずなんだが、なんときゃつらは、握り飯の残りを岩の穴にいれ、藺草(いぐさ)という草を持ち込んで、発酵させて酒を作るらしい
     「……
     「第二に煙草がのめる。 こいつは外からごまかして何とか持ち込める。−−きゃつらだけが知っている廃坑の中には、酒、煙草はおろか卵やら干魚(ひざかな)やら、結構御馳走といえるものが一通り貯えてあるというが、こっちにはつきとめることが出来ん
     「……
     「第三に、ばくちが出来る。 第四に……男色が出来る
     「……
     「第五に、逃亡の機会をつかみ得る。 少くとも、つかみ得ると、きゃつらは考える。 穴を掘ってゆく尖端には、看守もついておらんことが多いからな。 よく地形を勘定にいれれば、看守の見えないところに穴を掘って、地底から地上に出られると思う。 また、実際にそれをやったやつが少くない。 何でも、地中にくいこんだ木の根を見たら、怖ろしい誘惑にかられるそうだ。根っこを上に辿れば地面があるにきまってるからね
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.28〜29)


     このときまだ何のことかわからず、まったく変な漁師もあったものだ、と四郎助はもういちどふり返った。 朝霧の向うへ、梅谷十次郎が、のっしのっしと遠ざかってゆくのが見えた。
     −−はるか後年、昭和三年、有馬四郎助が豊多摩刑務所所長であったころ、「新選組始末記」という作品で登場した作家の祖父が、梅谷十次郎という幕府御家人で、彰義隊士であった梅谷は、敗れて仙台に走り、榎本武揚らと北海道へ走り、五稜郭で敗れて、ついに厚田の漁師になったという経歴を感慨ぶかく読んだ。 すなわち作家子母沢(しもざわ)の祖父である。
    (《地の果ての獄(下) 空知集治監》P.54)


     義経、弁慶を追う

     「原先生? そりゃだれかね?
     「キリスト教の教誨師です。 たしか去年秋、こちらに来られたはずで。……
     と、書生がいった。
     「ああ、あの人か。 あの人はもうおらんが……あんたがた、どなたか
     「これは東京から来られた男爵(ちょうだんしゃく)の御令嬢です
     姓はよく聞きとれなかったが、男爵という言葉はわかった。 門番は、それが三年ほど前に作られた新しい貴族の名称だということを知っていた。 それで、いよいよ肝をつぶして、
     「しばらく、お待ちを
     と、態度まで変って、駈け出していった。
     すぐに庁舎のほうから、高野看守長と有馬四郎助(しろのすけ)が出て来たが、これも毛色の変った三人の来訪者に眼をまろくした。
     書生がもういちど女性の身分を名乗ると、
     「ああ、石川県長家(ちょうけ)のかたか
     と、高野はうなずいた。 同じ北陸出身なので、その日本には珍しい姓に知識があったと見える。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.56)


     のちに四郎助は教えられたが、(ちょう)とは、その昔長谷部(はせべ)といっていたものを省略するようになったもので、鎌倉時代から能登(のと)の豪族の姓であった。 のちに前田家に、別格の家老として臣属したが、その禄三万三千石という、大名並の名家だ。 −−そんな家柄だから、さきに施行された華族令で男爵とされたのだろう。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.56)


     「あの……私が武家育ち?
     亭主は眼をまるくし、それからゲタゲタ笑い出した。
     「これは驚いた。 どうしてそんな途方もないことをおっしゃいますんで?
     「いや、ただそんな気がするからさ
     「旦那、ちがいますよ、滅相もない。 かりにもお侍の家に生まれた人間が、北海道へ来て古着屋なんかやりますか
     「だって、例の厚田の漁師は、徳川(とくせん)の直参だった人だよ。元江戸の与力(よりき)職で、耶蘇の教誨師をやってる人もある。 フ、フ、監獄で看守をやってるおれだって、これでももとは越後長岡藩百二十石、槍術師範の家柄の人間さね
     「旦那、買いかぶって下さるのはありがたいが、私しゃそんな大それた生まれじゃありませんよ
     「じゃなんだ
     「へへ、天下を狙う大伴(おおとも)の黒主(くろぬし)。……
     古着屋の亭主西野孫六はそり返って見せた。
     高野は苦笑した。
     「なに、この町に出没する連中の身許(みもと)をいちいち洗ったって始まらない。 いいたくなかったら、いわんでいい。 おれも監獄の外の人間の素姓はほじくる気はないから、安心しろ
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.66〜67)


     カラフト・コタンは、幌内から幾春別川に沿って、さらに一里近く東へはいった山峡にあった。 雪は、月形より少いということだが、それでも一メートル前後つもっている。 細い雪道はつけてあった。
     そこを歩きながら、高野は、カラフト・コタンについて説明した。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.67〜68)


     コタン部落を意味するアイヌ語だとはもう四郎助も知っている。 月形の町の近くにもコタンはあるし、町の中をアイヌ人は歩いている。 しかしそれはもともと北海道原住のアイヌだが、これからゆくのはカラフトから移住して来たアイヌという。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.68)


     明治八年、ロシアとの間にカラフト・千島交換条約が結ばれたとき、カラフト・アイヌは、日本、ロシアいずれの国民になろうと自由意志にまかせるということになったが、このとき細谷十太夫はカラフトに渡り、説得して、八百五十人ほどのカラフト・アイヌを宗谷に連れて来た
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.68)


     ところが、翌年、北海道開拓長官黒田清隆は、これを実験的に幌内炭坑の坑夫に使役しようと思いつき、大砲を積んだ船を宗谷にまわして、強制的にこの空知へ連行した。−−
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.68)


     「そのとき細谷」さんは宗谷を留守にしていたんだが、このことを聞いて人道に反すると激怒して空知に駈けつけ、相当な騒ぎがあったらしい。 とどのつまりカラフト・アイヌは坑夫になることは免(まぬが)れ、大部分は宗谷に帰ったのだが、一部分だけ残って、以来、細谷さんも彼らといっしょに住んでいるのさ
     と、高野は話した。
     「そういうことがあったあと、お上のほうでは、それじゃ囚人を使おうということになり、集治監が設置されることになったのだよ
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.68)


     壁も天井も(かや)で出来た家の中は、ただ四角な一つの大広間になっていて、床(ゆか)には葦のすだれが敷きつめてある。 そのまんなかに切られた大きな囲炉裏(いろり)には、自在鉤(じざいかぎ)に鍋がかけられて、火が赤あかと燃えていた。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.74)


     四郎助は、アイヌの部落(コタン)にはいったのははじめてであった。 その家の中はなおさらである。
     (かや)の壁に作られた棚にならべられた、(あし)つきの漆塗りの行器(ほかい)や、たらい(ざる)、片口(かたくち)など、野趣がありながら妙に古雅な諸道具など、本来なら、好奇に満ちて観察するところであった。 また、いっしょに家の中に戻って、料理や濁酒(どぶろく)を黙々と、しかしおだやかな愛嬌とともに用意してくれたアイヌの人々は、いよいよ強く印象に残るはずであった。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.74)


     やがて濁酒を飲みながらの雑談となり、高野看守長が、十太夫の肩にとまったままの鴉を見ながら、その昔のからす組の勇戦をたたえ、それが侍でない人間たちの部隊であったことに感嘆すると、
     「いや、ありゃ、やくざ百姓どもだから強かったのよ
     と、こともなげに十太夫はいった。
     「西南戦争でも、官軍が勝ったじゃないか。その官軍というのは、大部分が百姓上りの兵隊ですが、こいつが天下無敵とうぬぼれていた薩摩侍をぶちのめしたんだ
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.75)


     「そういえば、うちの囚人の中にも例の秩父事件で送られてきた連中−−みんな農夫猟師ですが、炭鉱の苦役に黙々と耐える根性、監獄内でのつつしみぶかさ、見ていると、なまじな侍崩れや、大言壮語する自由党の若いやつらより、人間として好ましい連中が多いようですな
     と、高野はいい、さらに、獄内で自由党の若者たちが威張っていて、秩父組を見下すこと甚だしいものがある実状を話した。
     「なまじ秩父組が、自由をさけんで政府に叛乱を起したという点で同様なのが気にさわって、ことさら差別をつけようとしている傾向があるようです
     「おい、休庵先生、秩父騒動のことを知っているかね?
     と、十太夫は独休庵のほうを見た。
     「いや、知らんな、樺戸のほうにゃ、そっちの関係者がおらんしな
     と、休庵が首をふると、
     「それじゃ、聞きなさい。 特に、そこの華族御令嬢、いや、あんたが鹿鳴館にうつつをぬかしておる軽薄貴族の枠(わく)からはずれた人じゃということはわかったが、それでも、よく耳をあけて聞いてもらいたい
     と、十太夫はいって、濁酒をグイグイ飲みながら、秩父事件の話をはじめた。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.75〜76)


     秩父事件の話を、改めて、さらに詳しく四郎助は聞いた。
     明治十七年、重税と高利貸に苦しんだ秩父の農民はついに起ちあがった。 当時の松方(まつかた)財政による増税や、道をつけるにも役場や学校を建てるにもただで人民を働かせ、労役に出られない者は金銭を代納させられるという苦しみは、全国どこも同様であったが、とくに山だらけの秩父は、養蚕(ようさん)で生計をたてていて、高利貸から金を借りて(まゆ)や織機(おりき)など仕入れた家が多かったので、政府のデフレ政策で、絶体絶命の窮乏におちいったのである。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.76)


     で、十月末、農民はむろん、土地の猟師木挽(こびき)、職人土方から行商人ばくち打ちまで、八千人から一万人といわれる人数が、猟銃や刀、竹槍をとって蜂起し、一帯の高利貸を焼打ちし、いっときは大宮まで進軍して、郡役所や警察、裁判所まで占拠した。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.76)


     秩父の山や谷にこだました彼らの歌声にいう。
     「昔思えばアメリカの
      独立したのもむしろ旗
      ここらで血の雨あらせねば
      自由の土台がかたまらぬ

    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.76〜77)


     また、その首謀者たちは、「革命本部」と称し、この明治十七年を「自由自治元年」と号し、「ワレラスデニ朝敵ナリ、恐レ乍(ナガ)ラ天朝サマニ敵対セヨ」と指令したという。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.77)


     しかし、三日間に及ぶ巡査隊、憲兵隊、さらには高崎から出勤した鎮台兵との交戦ののち、彼らは敗れ、その残党七十数人は信州八ヶ岳をのぞむ馬流(まながし)の村まで逃れ、追いつめられ、十一月九日の戦闘で十三人戦死し、残り六十数人は逮捕されて、ここに潰滅した。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.77)


     「そいつらは、秩父困民(こんみん)と称したそうだよ
     と、十太夫はいった。 その眼に涙さえ浮んでいた。
     「政府の獄卒の一匹たる高野なんぞはどう思うか知らんが、おれの眼から見ると、ひたすら哀れで、かつあっぱれなものだ
     高野看守長は、苦笑もしなかった。
     「福島事件とか加波山(かばさん)事件とかをひき起こした自由党なんぞより、貧乏人の死物狂いの叛乱という点で、こっちのほうがほんものだ。板垣退助何者ぞ、河野広中何者ぞ、おれの見るところでは、彼らは権力欲の変形物に過ぎん。自由党のいわゆる壮士何者ぞ、きゃつらもまた、薩長の藩閥から落ちこぼれた出世欲の餓鬼どもの悪あがきに過ぎん
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.77)


     十太夫の顔が燃えあがるように見えたのは、ただ濁酒や炉の火のせいばかりではなかった。
     「それなのに、いまの高野の話によれば、ただの個人的復讐に逆上して三島県令を殺そうとした加波山事件の連中が、自由民権の本家面(づら)をして威張って、秩父の囚人たちを見下しておるという、本末転倒も甚だしい。 高野、監獄に帰ったら、加波山の若僧どもに秩父事件の話をして、秩父組の爪のアカでも煎じて飲めといってやれ
     「はっ
     と、高野看守長は、渡辺典獄に対したときよりも神妙にうなずいた。 彼は、いつか四郎助に語ったくらいだから、秩父事件のことは一応も二応も知っているはずだが、改めて感動した顔であった。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.77〜78)


     「ところでその秩父の叛乱の首謀者と目された七人は死刑ということになったのだが、そのうち二人はつかまらず、欠席裁判のまま死刑の宣告を受けた
     と、十太夫はつづけた。
     「存じております
     と、高野はいった。
     「事件後逃亡したっきりになったその死刑囚の名を知っておる
     「たしか手配書が空知集治監にも来たので見た記憶がありますが、いまちょっと名前は忘れましたな
     「菊池貫平井上伝蔵というのだそうだ
     「ああ、そうでしたか
     「菊池は代言人で困民党の参謀長、井上は生糸商人で会計長だったそうだ。 実際に、そういう役名(やくめい)をつけていた。−−なにしろ大将の侠客田代栄助は総理と称していたというんだから、さっきいった革命本部とか自由元年とかと同様、決して困民党を馬鹿にしちゃいけない
     さすがに十太夫も、髯の中でちょっと笑ったようだ。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.78〜79)


     橋本左五郎は、後年北海道酪農の開拓者となり北海道煉乳会社を設立した人だが、彼について、東京大学予備門予科で同窓であった夏目漱石が書いている。 この物語とは関係のないことだが、当時の学生の生活がよくうかがわれるので、ついでだから紹介しておく。
     「橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水(みず)の傍で御寺の二階を借りて一所(いっしょ)に自炊をしていた事がある。 其(その)時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、夫(それ)で月々二円で済んだ。 尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯拵(こしら)えて、其(その)中に浮かして食った。 十銭の牛(ぎゅう)を七人で食うのだから、斯(こ)うしなければ食い様(よう)がなかったのである。 飯は釜から杓(しゃく)って食った。 高い二階へ大きな釜を揚げるのは難儀であった。 余は此処(ここ)で橋本と一所に予備門へ這入(はい)る準備をした。 橋本は余よりも英語や数学に於て先輩であった。 入学試験のとき代数が六(む)ずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰(もら)って、其(その)御蔭(おかげ)でやっと入学した。 所が教えた方の橋本は見事に落第した
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.82)


     「試験の成績が出ると、一人では恐(こわ)いからみんなを駆り催(もよお)して揃って見に行(い)った。 すると悉(ことごと)く六十代で際(きわ)どく引っ掛っている。 橋本は威勢のいい男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。平仄(ひょうそく)もない長い詩であったが、其中(そのうち)に、何ぞ憂えん席序下算(せきじょかさん)の便と云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。 段々聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から勘定しないで、下から計算する方が早分りだという意味であった。 丸(まる)で御籤(おみくじ)見た様(よう)な文句である
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.82)


     「その後(のち)左五は−−当時余等は橋本を呼(よん)で、左五左五と云っていた。 左五は其後追試験に及第したにはしたが、するかと思うと又落第した。何だ下らないと云って北海道へ行って農学校に這入(はい)って仕舞(しま)った
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.82〜83)


     「札幌警察の安藤署長ではござりませんか
     安藤署長と呼ばれた官服の男は、そばの大官風の人物に眼をやって、
     「石川県令岩村高俊閣下である
     と、いった。
     「なに、岩村−−高俊−−閣下?
     高野看守長は文字通り一尺も飛び上がった。−−彼が驚いた理由はまたべつにあったのだが、それは知らず、四郎助も驚いた。
     「承知しておると思うが、北海道長官岩村通俊閣下の弟君(ぎみ)にあたられる。 今回、来道され、空知集治監視察においでになられたのだが、急なことで、集治監のほうへ連絡するひまがなかった
     安藤署長はいった。
     「これは空知集治監の看守長であります。 名は何といったかな?
     「高野襄であります
     と、答えたが、彼は穴のあくほど岩村県令を眺めていて、敬礼するのも忘れたようだ。
     岩村高俊はちらっと不機嫌な顔をしたが、
     「これはいったい何事か
     と、縛られたままのおびただしい看守群を見まわし、またそばにとまったままの二台の機関車を見やった。 年は四十二、三だろうか、あごに美髯(びぜん)を生やした、堂々たる容貌と恰幅(かっぷく)であった。
     そのとき、うしろで声がした。
     「こら、来ちゃいかん! 来ちゃいかんといっとるのに、わからんか、帰れっ
     なお、線路の上を近づいて来る、ステッキをついた山高帽に洋服の男を、県令一行に随行した巡査が追い払おうとしたのだが、その巡査も、次に聞えた高野の言葉に耳を奪われたようだ。
     「これは、集治監からの脱走囚で、それをただいま追跡して来て逮捕したところであります
     「何じゃと?
     岩村県令も、安藤署長も眼をむいた。 安藤がいった。
     「みな、看守ではないか
     「看守姿に化けて破獄したもので、秩父事件加波山事件の囚徒であります
     「ほ。−−これが?
     と、岩村県令が、すぐそばの横川省三をしげしげとのぞきこんだとたん、縛られたままの横川が、いきなり、かあっ、ぺっ、と唾を吐きかけた。
     「何をするか?
     安藤署長が躍りかかって、横川の顔を殴りつけた。
     「県令閣下に何たる無礼を!
     「石川県の岩村県令といえば、栃木県の三島県令とならんで、東西鬼県令の大関だと県令評判鑑(かがみ)にある。 こちらははじめてお目にかかるが、三島の代りだと思ってくれ
     殴られても、平気な顔で横川はうそぶいた。
     「きさま、何者だ?
     「三島をやりそこねた加波山事件の志士横川省三だよ
     「射殺せよ! 看守長、即刻射殺せよ!
     発狂したような声で、安藤署長ははけんだ。
     高野看守長は、棒のようにつっ立ったきり、動かなかった。
     「なぜ命令に従わんか。 大官に対して、かかる暴行を働いた脱獄囚を。−−
     「高野さん
     と、横川が笑いながら呼びかけた。
     「やってください。 何にしてもわれわれは無事にゃすまない。 それなら、いま、あなたの手で処刑されたほうがありがたい
     「ただし、脱獄の発起者はわれわれ二人だけです。 秩父組はわれわれがだまして連れ出したんです。 あの連中に罪はありません
     と、鈴木もささやくようにいった。
     「実はわれわれは、こういう場合のために脱獄したんで。……ちょっと離れます。 逃げるのじゃないから、あわてないで下さい。 位置をとるためで
     そして二人は、あとずさりして、十メートルばかり離れた線路の上にならんで立った。
     「さあ、撃って下さい!
     「看守長、やれ
     と、頬をハンケチでぬぐいながら、岩村高俊がいった。 冷たく見えるほどの美丈夫だが、凶相といっていい表情になっていた。
     「脱獄囚は射殺してよいと監獄則にもあるではないか!
     「監獄則の第何条にそんなことがありますか
     突然、うしろから錆(さび)のある声でいった者があった。
     みなふりむいて、そこに、さっき巡査に追い払われたはずの男が立っているのを見た。 山高帽にステッキをついている。 四十半ばの、大きな口髭を生やした、みるからに高潔な容貌の紳士であった。
     「監獄則にあろうとなかろうと、監獄の目的は懲罰にあり、その人員を減少するは、かえって国家のためになるとの内務卿の通達がある
     と、岩村高俊はひたいに筋を浮かべてうめいた。
     「獄卒、銃を貸せ、おれが処刑してやる
     「石川県令のあなたが、何の法律的権限があって北海道空知集治監の囚人を射殺なさるのですか
     と、紳士は静かにいった。
     「きさま、何者だ!
     と、岩村はさけんだ。 紳士は帽子をとって一礼した。
     「私、京都の同志社大学の校長新島襄(にいじまじょう)と申す者で、こんど旧知に招かれて札幌に来たついでに、空知集治監へ参観にゆこうとしているところであります
     「なに、新島先生。−−
     石川県令だけに、すぐ近い京都の−−いや、日本じゅうに大教育者として知られたその名を知らないはずはない。 さしも剛腹に見えた岩村高俊も、それっきり絶句した。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.93〜97)


     −−大正七年七月、有馬四郎助は小菅監獄の典獄になっていたが、東京朝日新聞で、北海道北見国常呂(きたみのくにところ)郡野付牛(のつけうし)村の伊藤房次郎という農夫が、六月二十三日死床にあって、妻子にはじめて、自分が秩父事件で死刑を宣告され、以来三十五年間潜伏しつづけた井上伝蔵であるという驚くべき告白をしたという記事を読んだとき、あっという歎声をもらすとともにまず眼に浮んだのは、この明治二十年早春、雪の空知で別れた井上伝像の妹の哀切な残像と黒い聖書であった。 そして四郎助は、井上伝蔵がついに逃げ切ったこと、その後妻子を持ったこと、そして彼の死をこれで知ったが、お篠のゆくえはついにつきとめることが出来なかった。
    (《地の果ての獄(下) 義経、弁慶を追う》P.104〜105)


     コタンの出撃

     新島襄(じょう)は、この年はじめて北海道に来たのではなかった。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.106)


     二十三年前−−彼がまだ二十二歳のとき、いちど来たことがある。 それは彼にとって運命の旅立ちの土地であった。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.106)


     元治元年四月、安中(あんなか)藩士であった新島は、備中松山藩の藩船に便乗して函館に来、たまたまその六月、函館を出港したアメリカ船に身を投じて、ひそかに渡米したのである。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.106)


     むろん彼に、以前から熱烈な海外渡航の志があったからだが、当時なおきわめて危険であった海外への脱出が成功したのは、偶然の幸運と、この決死の行為を助けてくれた、二、三の人々があったからであった。 その中に、函館イギリス商館の書記をしていた福士成豊(ふくしなりとよ)という人がいた。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.106)


     「おれも年のせいでおとなしくなった。岩村高俊はおれの敵だからな
     「和尚の敵?
     「あいつは戊辰(ぼしん)のとき、奥州へ攻めて来た官軍の軍監だったんだ。 もっとも、そんなことをいってりゃ、日本じゅう敵だらけになる。−−お前さんにゃ相すまんが、西郷さんにはかたき討ちをしてやったが−−まあ軍監というものの、当時は廿歳(はたち)過ぎの若僧だったから、頭から湯気をたてるのも馬鹿馬鹿しい。 知らぬ顔してあしらってやろう
     肩の鴉(からす)に餌をやりながらいう。
     「とはいえ、当時官軍の一隊長に過ぎなかった岩村高俊ってえ名を、なぜおれが知ってるかというとね。 べつにからす組とやり合ったからじゃあなく、長岡藩の傑物河井継之助を殺した張本人だからさ。……おい、高野が何かいわなかったかえ?
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.111)


     「河井継之助という人はね、どうやら幕末維新にかけて、幕府方、新政方を問わず、えらい人物を十人あげろといわれたら充分はいる人だったらしい。 事実当時からその名声は、西郷さんとならんで仙台にまで聞こえておったよ。 その河井さんが、小千谷(おぢや)までいって、越後口から会津へ攻め入ろうとする官軍に、会津を説得するからしばらく待ってくれと談判した。……
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.111〜112)


     四郎助の耳に、いつか聞いたこれと同じ話がよみがえった。−−そうだ、あれは小樽からの汽車で原胤昭幸田成行という青年の会話であった!
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.112)


     「ちょうど江戸開城のときの勝さんと同じ立場さ。 河井はそのとき四十一、二と聞く。 ところがこれと応対したのが西郷じゃなくって、越後口官軍軍監という地位にあるものの、わずか二十三の土佐人岩村精一廊すなわち高俊だった。 これが河井の理をつくしての嘆願をケンもホロロにはねつけ、河井、帰っていくさの用意をしろ、戦場で逢おう、と、わめいて追出した。 それでも河井は、官軍の本陣の門に、二度、三度、ひき返して再考を願ったという。 岩村はとり合わなかった。 これで長岡藩は官軍に敵対せざるを得ない運命におちいった
     「……」
     「もしこのとき河井の相手に西郷か、せめて山県でもいてくれたら、河井の死のみならず、あの奥羽戦争もなかったのではないか、といわれる。 ただ虎の威をかる若僧の無思慮な鼻息が、あと敵味方何千かの生命を奪い、ひいてはその後の奥羽人の悲惨な運命を呼んだ。……
     「……」
     「と、いっていいかも知れん。 いや、なに、その長岡藩出の高野がだ、胸撫でさすって岩村の案内をしようってんだから、おれがへそを曲げてぶちこわしにしちゃ申しわけなかろう。 心配するな、おとなしく迎えてやるよ
     と、細谷十太夫は、からからと笑った。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.112)


     四郎助は高野が、岩村県令を呼び捨てにしているのに気がついた。 岩村の命令を聞かなかったことを思い出した。
     「看守長、岩村県令は、昔、看守長のお国の長岡藩を。……
     「ああ、あのいくさで、おれの祖父(じい)さんは七十七で戦死し、親父も負傷したよ。……しかし、いまとなっちゃ、それは私事(わたくしごと)だ
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.118)


     幌内炭鉱に近い幌内橋のところにとまると、高野看守長だけが下りて炭鉱に駈けていった。 しばらくすると彼は、二人の看守をつれて駈け戻って来た。 途中休庵から智慧を授けられた通り、官服を着ているが、まさに加波山事件の囚徒横川省三鈴木音高であった。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.139)


     高野看守長は何か憑(つ)きものがしたような顔で、突然何思ったか、厳然としてこんな訓示をやり出した。
     「……空知集治監の光栄はこの一挙にあり。 本壮挙に参加し、無実の義人を救わんとす、空知囚徒としての本懐、何ものかこれに過ぎるものあらん、天佑神助われにあり、各員一層奮励努力せよ!
     各員、といったって二人しかいない。 四郎助たちをいれたって、五人だ。
     しかし二人の若い囚徒は、ほんものの看守みたいに挙手の敬礼をして、犬〔ぞり〕に飛び乗った。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.139)


     −−高野譲(ゆずる)は、実に後年の連合艦隊司令長官山本五十六(いそろく)の実兄である。 十五歳にして長岡藩破滅の悲運あい、いま空知集治監の看守長となっている譲より三十二年下の弟、高野五十六は、このとしまだ満三歳、成長後大正四年、元長岡藩家老山本家に養子にゆき、山本五十六となるのである。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.139)


     そして、高野からこの命令を受けた、元旗本の子で、岳南自由党の壮士鈴木音高は、満期出獄後アメリカのシアトルに渡り、旧姓山岡に戻って貿易商となった。 太平洋戦争後、極東裁判東郷外相の特別弁護人となったジョージ山岡は、この「明治の叛臣」の遺児である。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.139〜140)


     さらにまた、もう一人の「叛臣」横川省三は、のち日露戦争に際し大陸に渡り、軍事探偵として鉄橋爆破の特別任務を受け、ロシア軍の背後に潜入したが、目的達成寸前に捕らえられ、同志の沖禎介(おきていすけ)とともに、明治三十七年四月、ハルピン郊外、なお雪に覆われた曠野で銃殺刑に処せられた。
    (《地の果ての獄(下) コタンの出撃》P.140)


     大奇蹟

     ……虫の知らせか、寝苦しさに、石川県令岩村高俊はふと目ざめた。
     ひるま、小生意気(こなまいき)な耶蘇の教誨師を罠(わな)にかけるためにちと手荒(てあら)なことをやってのけ、夜が明ければ強引に始末してしまうつもりだが、彼の経歴中、これと大同小異の行為は無数にある。いまさら、そんなことが気になるはずはないが。−−
     −−何時(なんじ)か?
     枕頭の金の懐中時計をとろうとしたついでに、そこに置いてあったステッキの頭が眼にはいった。 ひるま、あの教誨師のために折られたのだが、握りが象牙製で精巧な土佐犬の頭の彫刻になっているので、部下が捨てかねてそこに置いたものらしい。
     時計は、二時半であった。
     その時計もステッキも、吉田健三という横浜の貿易商から贈られたものであった。 高俊の従兄(いとこ)に竹内綱という政客があって、その子のが吉田家に養子にもらわれているという縁で、金沢から上京した高俊のところへ、このお正月その子を連れてきた吉田健三がお土産にくれたのだが、健三は福井県出身の男だから、土佐犬の彫刻のステッキは、高俊のためにわざわざ作らせたものであることは明らかで、それを棒っ切れみたいにへし折ったあの教誨師は、いよいよ捨ておきがたいと思う。
     −−後年の宰相吉田茂は、このとし横浜にいて九歳であった
    (《地の果ての獄(下) 大奇蹟》P.174〜175)


     「岩村、おれを知らんのかね?
     一人が顔をつき出した。 片頬に赤い蜘蛛(くも)みたいなやけただれの痕(あと)のある男であった。
     「おりゃ赤蜘蛛の市松ってえ男だがね
     「おれはどうだ、マラキリの角助ってんだが。−−
     髪の毛はおろか、眉も髯もない、頭部に毛というものが一本もない顔が出てきた。
     「舶来(はくらい)軍治といってもわかるめえなあ
     白瓜(しろうり)を水にふやかしたような男だ。
     「血なめの茂(しげ)
     舌を出すと、紫色の舌がダラリとあごの下までとどいた。
     「お化けの又九郎
     これは、お化けとしか形容のしようがない。
     悪寒(おかん)の風に吹かれつつ、岩村はわめいた。
     「馬鹿っ、知らんっ、北海道の囚人などに知り合いはないっ
     「いや、知るめえなあ、十三年前のことを思い出させたって、知るめえなあ。……
     と、赤蜘蛛がいった。
     「十三年前?
     「明治七年二月。−−
     「なに?
     「横浜から出た船の甲板の上で、てめえは同船している佐賀の島義勇先生一行を横目で見つつ、酒を飲みながら、わざと聞こえるように、さんざん佐賀人の悪口をいった。 佐賀のやつらは、鳴声だけやかましい鴉(からす)みたいなものだ、とか、葉隠れどころか、おれが一鞭あててやれば尻隠れして消えてしまうだろう、とか、ぬかしやがったな。−−
     「………
     「そのときたまりかねて、島の一行から飛び出して、おめえたちに殴りかかった若えのがあったろう。 そのころはこんなやけどの痕(あと)なんかねえ、もう少しいい男だったはずだが。−−
     「……あっ?
     と岩村は叫んだ。
    (《地の果ての獄(下) 大奇蹟》P.177〜179)


     「おれもそのときそこにいたんだ
     「おれもいっしょだ
     と、舶来軍治と血なめの茂がいった。
     「それからなあ。……いくさに負けて捕縛された江藤さんや島さんが、四月になって佐賀の臨時裁判所で、武士にもあるまじき梟首(きょうしゅ)獄門という非道無惨な判決を申し渡されたとき、てめえ、さも心地よさそうに裁判官席に坐ってたろう
     「こちとらは懲役三年の組だったが、その判決のむちゃさに法廷であばれ出した。 その騒ぎを、てめえ笑って見てたなあ、忘れたかえ?
     と、マラキリの角助とお化けの又九郎がいった。
     「……おう!
     と岩村はまたうめいた。
    (《地の果ての獄(下) 大奇蹟》P.179)


     「うぬら、佐賀の賊の残党か?
     赤蜘蛛とマラキリの口が裂けた。
     「賊?
     「賊にしたのはてめえだ!
     血なめの茂とお化けの又九郎が、恨めしそうに、陰々といった。
     「島先生はなあ、北海道開拓首席判官をやめられたあと、宮中で天皇陛下の撃剣のお相手をやっていなすった。 明治七年、佐賀の士族が不穏だという情報で西下されるとき、当時天皇さまは宮城の火事のため赤坂御所にお住まいだったが、夜明け前、この御門の前にいって、島先生以下われわれは土下座して御挨拶して、それから横浜にいった。−−謀叛なぞ、企むはずがねえ
     と、舶来軍治がいった。
    (《地の果ての獄(下) 大奇蹟》P.180)


     有馬四郎助年譜
     元治元年。 鹿児島に、薩藩士班益満喜藤太の四男として生まれる。
     明治二年。 有馬家の養子となる。
     明治十二年。 満十四歳にして鹿児島県の小学校訓導となる。 明治の小学校の面白さ。
     明治十九年。 北海道集治監看守となる。
     以後、北海道集治監を歴任するが、このころまで四郎助は勇猛な武断の行刑吏としての印象をとどめている。 しかし、人の魂の旅は幾山河、明治二十年代の終りごろから、彼はしきりに聖書をひもとくようになる。
     明治二十八年。 内地に赴任、浦和監獄典獄となる。
     明治三十一年。 麻布霊南坂教会において、牧師留岡幸助より洗礼を受け、留岡とは終生の友となる。
     明治三十二年。 横浜監獄典獄となる。
     このころ、十七歳にして放火殺人の罪を犯して無期徒刑となり、いちどは脱獄したことのある一凶悪囚が、その後獄中で回心し、模範囚となり、二十三年ぶりに仮出獄を許されたとき、早朝裏門を出ると、そこに有馬典獄が立っていて、
     「今日は私は典獄ではない。君の友達だ
     といって、官舎に連れてゆき、大切な賓客のように待遇したという挿話がある。
     明治三十七年。 小田原にて少年囚釈放者保護事業を始める。
     大正四年。 小菅監獄典獄となる。
     大正十二年。 九月の関東大震災に際し、小菅刑務所に軍隊が出動して、銃剣をもって囚人の逃走を警戒しようとしたとき、有馬刑務所長は、せっかくですが、ここにはその必要はありません、と謝絶した。 一人も逃走しない囚人を眺めつつ、有馬の眼から滂沱(ぼうだ)として涙が流れつづけていたといわれる。 のちにアメリカのウイスコンシン大学社会学のギリン博士が来日した際、大震災に小菅から一人の逃亡者も出なかった原因について質問したのに対し、有馬は答えている。
     「あなたは多分、私がクリスチャンであることを御存知でしょう。 私は彼らを囚人としてでなく、人間として処遇します。 私はキリスト教について説教はいたしません。 ただ私は彼らと友人になろうと努力します
     昭和二年。 豊多摩刑務所所長となる。
     昭和九年。 死去。満六十九歳。
     免囚保護の父といわれる原胤昭とならんで、有馬は後まで「愛の典獄」と呼ばれる。
    (《地の果ての獄(下) 大奇蹟》P.193〜195)


    斬奸状は馬車に乗って

     「さ、ゆきましょう、お嬢さま、さっきから言ってる通り、何もあたしが煮て食おうってんじゃない。 芸者屋へおつれするだけのことで。−−
     彼は別人のように猫撫で声で寄って来た。
     「そこへゆきゃ、何で今までこんな暮しをしていたのか、自分が馬鹿らしくなることは太鼓判を押します。 いや、お嬢さまの御器量じゃあ、長谷川へいったら下にもおかない−−ひいてはお父様も左団扇(ひだりうちわ)におなりなさることになる。−−
     お秋の手をつかもうとして、高利貸の手代はもういちど外をふりむいて、わっとさけんだ。
     「出て来い、高利貸(アイス
     と、広谷錠四郎がさけんだ。 彼は路地に仁王立ちになっていた。
     それが、小倉の袴のももだちをとって、腰に朱鞘の大刀をぶち込んでいる。 いま駈け出していったのは、下宿先からそれを取って来るためだったにちがいない。 頭髪がザンギリでさえなかったら、幕末のころの若い志士とほとんど変わらぬ姿であり、構えであり、殺気であった。
     「け、警察へ−−
     手代はのどがひきつったような声でいった。
     「心配するな、きさまを叩っ斬ってからそこへゆく
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.203〜204)


     青年のこぶしが柄(つか)に音をたてた。決して脅しではない、たしかに斬る−−少なくとも何をやるか、すでにおのれを失った血相を見て、手代はうしろへ飛びのいた。 いちど尻餅をついたが、そのまま座敷へ土足のまま駈け上がり、裏の、例の井戸のある庭へ飛び出してゆき、そこでばりばりと竹垣を倒す音が聞えた。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.204)


     錠四郎は断わることが出来なかった。それでなくてもこういう依頼を断われない性格である上に、彼にはこの友人たちに対して一種のひけめがあった。 「福島事件」関係者としてである。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.208)


     福島事件とは、おととしの秋、時の福島県令三島通庸(みちつね)の猛烈な弾圧政治に抗し、県の民権主義者農民たちが痛憤のあまり一大抵抗運動を起そうとした事件で、これはほとんど未然に鎮圧され、その指導者と目された元三春藩士、自由党の壮士河野広中(ひろなか)は国事犯としていまもなお獄中にある。−−この事件に際し、三春の青年たちも郷党の先輩河野に共鳴して参加し、中には同様に逮捕された者も少なくないが、とくに十人あまりの若者が、事件後、悪辣(あくらつ)苛烈な政府官僚の典型ともいうべき三島県令を暗殺しようという計画をたてた。 その中にこの三人も広谷錠四郎もいたのである。 しかし早くも政府の密偵目をつけられ、手も足も出ないうちに、三島県令は栃木県令をも兼任することになり、そちらに移ってしまった。 それを追ってか、あるいは密偵の眼から逃れようとしてか、この三人の同志は三春から姿を消してしまった。 そのあたりの消息を、実は錠四郎はよく知らない。 というのはその前に、愛児の暴走を怖れる父母の涙の檻の中に彼は閉じこめられてしまっていたからだ。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.209)


     「世話をしたのは、高利貸の馬町竜算じゃ。 こっちははじめから算盤ずくだろう。 いったん芸者屋を通したのは、まさか司法次官が高利貸の世話で妾を手に入れたという噂を怖れたからだろうが、馬町竜算ははじめから、漁色家で名高い燈篭大尽の好みを知って、そのうちにとその娘に眼をつけ、ついにまんまと目的を達したというわけじゃ
     「いや、その目的は、いわすとも知れておるだろう。……政府大官への阿諛(あゆ)じゃ!
     「実のところ、娘を抵当にとったのが高利貸馬町竜算と聞いて、忙しい中をこれだけ調べあげる気になったのだが。−−
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.214)


     このころから三人の若者の口調は悲憤といえるまで激越になった。
     「いや、調べれば調べるほど、金や権力を持っておるやつらの行状たるや傍若無人
     「民は町も野も収奪に苦しんでおるというのに、大臣大官は料亭で酒池肉林、その別室には富豪連が負けじと狎妓(こうぎ)を侍らし、裏口には女衒(ぜげん)高利貸のたぐいが織るがごとく出入りしておるというありさまじゃ
     「そんなことは百も承知、それゆえ蹶起の志を立てたのだが、現実に見て、よもや実態があれほど堕落の極をつくしておるとは思わなんだ!
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.214)


     彼らが昂奮して口々に語ったそれらの光景の断片をその通りに紹介するよりも、当時栄華を極めた芸者の一人から聞き書きした篠田鉱造「幕末明治女百話」の一節をもって物語らせよう。 これは「明治の初年といっても、二十二、三年頃というものは」ということだが、それは十六、七年ごろでも同様の光景であったにちがいない。 曰く。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.214)


     「世並がいいと申しますか、そのころ大臣というものはゆったりしていましたね。 コセコセしていません。 何でもノベツ遊興して、今日は新橋、明日は横浜といった風に、アレで政治なんかできるのかしらと、女ながら思ったくらい。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.215)


     ことに伊藤博文さんなんかは、アノ時分湯屋の柘榴(ざくろ)口に描いてあった絵を、背中に描いている人力車の合乗りで雛妓(おしゃく)を乗せて、場所もあろうに銀座のまんなかを平気で駈けらかしていられたんですが、今から思うと不思議といいたいくらいなんです。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.215)


     花月のお客は、維新の元勲といった方々の御酒をあがるところ、盛んなもんなんでした。大臣という大臣が遊興三昧なんですから大広間が大臣のお遊び場中広間が秘書官の金子堅太郎さんや伊東巳代治さんのお遊び場下の小座敷が護衛の巡査(おまわり)さんのお遊び場
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.215)


     あの時分の芸者というものが、またお金の有難味を知らないのか、お金は天下の涌きものと心得ていたのか、平気で高利貸から借りたもんです。 銀行が鞄を持って歩いて来るようなものなんですから借り易い。『今日は切替えで判が要りますから』『ア、判は抽出(ひきだし)にあるから押してって下さい』命とつりかえの判が転がっているんで、高利貸が白紙へ押してゆくんですから」云々。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.215)


     「その高利貸の馬町竜算というやつだがな
     と、堀小弥太がいう。
     「あれが貸金を罠にして秩父一帯の山を手に入れつつあることは知っておるだろう。 一方で、政府の役人にも妾を献じて、その方にも手を打っておる。……竜算は越後から江戸に出て来て、 両替屋をゃったり鉄砲店をひらいたり、あげくの果ては高利貸をやりはじめたということだが、どうやらそのやりくちを岩崎弥太郎などから学んだな。やがては三菱にでもなろうという大望を起したと見える
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.215〜216)


     「そやつの汚なさ悪辣さはもともとが高利貸ゆえ今さら驚くほどのことではないが、憎んでも余りあるのは司法次官の小松寿盛(ひさもり)じゃ。 世を裁くべき厳粛な地位にある人間が、柳暗花明の巷で燈篭大臣の名をほしいままにすることすら天下の怪事であるのに、なんと高利貸から妾を贈られしゃあしゃあとしておるとは!
     今江斉助がこぶしをつかんでうめけば、栗屋寛之もさけぶ。
     「司法の大官と高利貸の野合これぞいまの政府と富豪の癒着ぶりを象徴する最も悪質の例じゃ。 おれたちの見解と行動は間違っておらなんだ!
     「君たちは何をやろうとしているのだ?
     それまで、茫然と聴いていた錠四郎が、しゃがれ声で聞いた。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.216)


     秩父地方に大騒動が起ったのは、十月二十一日のことであった。  秩父小鹿野村の博徒田代栄助加藤織平なる者たちを首謀者とし、その下に集まった農民猟師木樵(きこり)らは二千とも三千ともいわれ、これが鋤鍬(すきくわ)刀槍はもとより五百挺の猟銃に鉛玉を用意していっせいに蜂起したのである。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.234)


     そのむしろ旗にかかれた蹶起の目的に、「税金の免除」「徴兵令の寛免」はいいとして、「小学校の閉鎖」とあるのはいかにも明治十七年ごろの話らしいが、とにかく当時国民の三大義務と強制されたことがいかに貧民に負担であったかが思いやられる。 そしてもう一つ、それに加えて「貸借関係の取消」とあったのがいたましい。 彼らは「秩父借金党」とも「秩父困民(こんみん)」とも称した。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.234)


     彼らは国神(くにがみ)村とか下吉田村など近郊の村々の高利貸の出張所を襲って手代たちを殺害し、火を放ち、十一月二日には大宮町へ殺到して、郡役所裁判所警察署などを焼き払い、掠奪をほしいままにした。 そのあと残された紙片には、
     「一金○○円也
      右軍用金として預り置くべきものなり。
      自由(じゆう)元年十一月二日  革命党本部

     などとあり、それに三寸四分角の大印章が押されてあったという。 こういうところに博徒や農民ばかりではない新鮮で若々しい意志がべつに加わっていることが感じられるが、いかんながら一方で、婦女子の強姦などの乱暴もあったことはむろんである。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.234)


     東京ではあわてて陸軍憲兵隊を派遣したが、いったん退いた暴徒たちは勝手知った秩父山地を利用して猛烈なゲリラ戦を打って屈せず、群馬山梨にもまた不穏の雲が現れた。 かくてついに高崎連隊が出動してこれをようやく鎮圧したのは十一月十二日のことである。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.234〜235)


     そしてこのとき、首魁たる田代栄助加藤織平、煽動者たる福島県士族堀小弥太今江斉助らを捕縛したのは東京から派遣された警視庁刑事小国幹丈というものであったと伝えられた。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.235)


     新聞の報道によると、おりから降りしきる雪の中を、高手籠手(たかてこて)に縛られて裸足(はだし)で護送される道々、その堀と今江という青年はのども裂けるほど歌いつづけていたという。
      「むかし思えばアメリカの
       独立したのもむしろ旗
       ここらで血の雨ふらせねば
       自由の土台がかたまらぬ
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.235)


     「ば、ばかな! 高利貸がただでそれほど金を貸すと思うか
     「ただではない。 抵当がある。−−かつて後藤象二郎閣下と三菱が尾去沢(おさりざわ)銅山の開発に失敗し、何くわぬ顔で紀州の名家浜口家と契約書を交し、その尻ぬぐいをさせようと計ったことがある。 それを知った小松氏が当時まだ非役であったが、その奸策を見るに見かねて浜口家に忠告し、自分の責任で契約書を寸裂し、間一髪のところで浜口家を破滅から救ったのじゃ。 そこで浜口家ではこれを深く恩義とし、小松氏に対し、後来小松氏の借財がいかほどになろうと浜口家で負担しようと誓った。 そのことが高利貸の抵当となっておる。 ただし次官は、その誓約書に頼られたこともなければ、その意志もない。 ただ借金の証文のみを積まれておるばかりじゃ。−−いずれにしても、法律的には次官に現在何の汚点もない
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.244)


     明治十八年二月二十日、秩父事件の首謀者田代栄助、加藤織平、堀小弥太、今井斉助ら六人に絞首刑が宣告された。
     しかも、それが執行される前に、彼らが熊ヶ谷監獄で破獄を企てて失敗して、みな斬首された−−ということになったが、この破獄云々は一大疑問だ、という噂が流れている春の日、日比谷を目ざして駈けてゆく、一台の馬車があった。
    (《地の果ての獄(下) 斬奸状は馬車に乗って》P.248)


    東京南町奉行

     「慶喜公にお伝えあれ。 徳川家を滅ぼしたお方として、拙者は軽蔑を禁じ得ぬと。……
     そして、唖然(あぜん)として口をあけている家令をあとに、老人はまたトボトボと歩き出した。 家令はこのとき、老人が腰に大小とともに錆(さ)びた十手をさしているのにはじめて気がついた。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.254)


     瓦解のあと、慶喜はこの静岡に隠遁した。 それとともに幕臣たちも江戸からここへ移って来た。
     そのころはむろん駿府(すんぷ)といった。 駿府とは元来駿河(するが)の府中という意味だ。 が、府中は天朝への不忠に通じるというので、町の北方にある岡、賎機(しずはた)山にちなんで静岡と改名したのである。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.254〜255)


     それほど彼らは世を憚(はば)っていたのだ。 元将軍とともに移住した幕臣とその家族は五千家八万人に及んだといわれる。 それは落魄(らくはく)敗残の一大集落であった。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.255)


     最初の内ここで聞かれた悲憤や慷慨(こうがい)は、明治も二年、三年と経過するにつれて、さすがに絶えた。 そのうちに江戸恋しさに−−いや、いまは東京と名も変わったが−−あるいは、その東京で何とか一旗あげようとして静岡を引揚げる者も多く、そのために櫛(くし)の歯のこぼれたように、あとに残った人々の生活はいよいよわびしいものになった。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.255)


     まあ生活無能力者といっていい人々ばかり残ったわけだが、それでも人間は生きてゆかなければならない。 かつて江戸城で綺羅(きら)を飾り、中間(ちゅうげん)に馬をひかせた人々が、茶を摘んだり糸ぐるまをまわしたり人形を作ったり竹細工をしたり、甚だしきは下駄作りに夜も昼もなく追われた。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.255)


     そこを、突然忙がしく歩きまわる人物が現われた。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.255)


     この年になって、西国からやって来た老人である。 かんかん照りの日盛(ひざか)りの道を、あっちこっちの家を訪ねてまわるのだが、はじめて訪ねられ、その名を聞いたとき、或る年齢以上の人々はみな恐怖の表情になった。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.255〜256)


     その或る年齢以上の男たちをつかまえて、老人はかんかんがくがくと論じる。
     「いったいこのざまは何じゃ、貴公らは侍か。 いや男か。 かかる素町人のなりわい−−賎業によって口に糊(のり)して、これが生きているといえるか
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.256)


     「旗本八万騎が八万騎として、ほとんどまともないくさもせずに胡散霧消してしまったと、四国で聞いて信じられぬ思いがしておったが、いま当地に参(まい)ってこの唾棄(だき)すべき無気力ぶりを見て、はじめてその謎がとけた
     「意地というものはないのか、誇りというものはないのか。−−
     こういう意味のことを、七十七歳らしい不明瞭な発音で、しつこく繰り返す。 いつまでも繰り返す。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.256)


     「こういう運命にはならなんだ。 最期まで抵抗するはおろか、あのような最期をもたらしはせなんだ。 そういうていたらくにならぬように、わしは死力をつくしたのじゃ。国の危(あやう)さは、土民の放逸(ほういつ)と儒弱(だじゃく)による。 そして危い兆候がからわれたら、いっそうその放逸と儒弱を容認してはならぬ。 それについての尤(もっと)もらしい論議に耳をかしてはならぬ。土民に対する媚(こ)び、甘やかしこそ国の破滅への大道となる。 それは〔あしかび〕のごとき兆候のうちに徹底的に絞めあげ、叩きつぶさねばならぬ。たとえその当座、何千何万かの首が飛ぼうと、一殺多生、未来の大過をふせぐために、一国の政治をあずかる者はあえて眼をつぶらねばならぬ。……三十年前、わしのやったことは、神も御照覧、断じて誤ってはおらなんだ!
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.257)


     「あなたはそのように御自分の功を誇られるが、あなたの名を聞いただけでも愉快に思わぬ者が、この徳川の残党の中にも少なからずおります。 また、あなたがここにおられるだけで、上様のおん身にも何かよからぬことが起るのではないかと不安がっておる者もある
     居合わせた者は、みな同感のうなずきを見せた。
     「得(う)べくんば、あなたの名をこの世から消していただけぬか、別の名を名乗ってお暮しなされては下されぬか
     こうまでいわれたことはただ一度しかなかったが、しかし老人はよほどショックを受けたらしい。 珍らしく言い返さないで、黙りこんだ。
     それから間もなく彼は「林頑固斎(がんこさい)」と名乗るようになった。
     とはもともと彼が生まれた家の姓だが、頑固斎とは−−「それでも、自分でわかっていると見える」と、聞いた人々はみな苦笑した。
    (《地の果ての獄(下) 東京南町奉行》P.258)






















    継続中