[抜書き]『会津藩始末記−敗者の明治維新』


『会津藩始末記−敗者の明治維新』
永岡慶之助・中央文庫
1998年11月18日 発行
    目次
    まえがき
    運命の章
      京都守護職  台命下る
      守護職就任  吾れより望みしにあらず
      京への道  動の予感
      天法輪家訪問  蔭の人・三条実実
      暗黒の京  禁裏のハプニング
      言路洞開  浪士対戦闘部隊
      守護職激怒す  武装集団出動
      陰謀の人々  攘夷−党派的用語
      波紋起る  越前侯春嶽逃げる
    激動の章
      謀略の天才たち  偽勅乱発さる
      明暗の岐路  真勅秘勅
      黒い嵐  天誅組横行す
      八・一八クーデター  逆転の論理
      蛤御門ノ変  運命の禁門
      新選組登場  幕末機動隊
      池田屋事変後  長州藩巻返し作戦
      黒印の軍令状  禁裏に神鈴鳴る
      黒幕  岩倉具視の行動
      薩御用党  西郷吉之助の挑発
      鳥羽伏見の戦  御香宮攻防戦
    悲憤の章
      将軍江戸へ帰る  会議は踊る
      会津藩江戸屋敷解散  使い捨てにされた兄弟
      奥羽鎮撫軍北行  招かざる客・世良修蔵
      世良参謀の密書  動乱の引き鉄
      奥羽列藩同盟  諸藩の思惑
      奥羽同盟軍壊滅  二本松少年隊帰らず
      藩境突破  白虎隊出陣
      戸ノ口原彷徨  政府軍乱入す
      落城降伏式  終戦秘話
      漂泊の遺臣たち  敗者は無慙なりき
     会津藩年表
     会津藩の行政機構
     解説 木村久邇典


    運命の章

     守護職就任 吾れより望みしにあらず

     いずれにせよ、白羽の矢を立てられた容保と、その藩臣こそ災難である。 いかに固辞してもうれつけられず、危険と知れている袋小路へ、一歩、一歩、しだいに追いつめられていくようなものであった。 この場合、春嶽の手紙の中にかかれていた。
     「土津公以来の御家柄
     という一語は、春嶽が計算した以上に容保の胸にさざなみを立て、その守護職辞退の決意を動揺させたのである。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.34〜35)


     ところが、父の家康とは対照的なまでに、生涯一人の側室もおかずにしまったほど、律儀で大の恐妻家であった秀忠は、正夫人の嫉妬をおそれるあまり、一生一度の恋人をさえ市井へ遠ざけてしまった。 彼女が市井で生んだ男の子は、幸松丸と名づけられ、老中土居利勝のはからいで、ひそかに信州高遠三万石の保科家にあずけられ、城主正光の子として成長した。 これがほかならぬ保科正之である。『徳川十五代史』慶長十六年五月七日の項にも、
     「将軍の庶子幸松丸生まる。 後に保科正之是也。 此の月将軍土居利勝の邸に臨む
     とあるが、恐らく秀忠は、この場合も他事にかこつけて土居邸を訪れ、ひそかに愛の結晶の将来を相談したものと思われる。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.35〜36)


     京への道 動の予感

     むろん、刀槍・銃砲等の武具は、よしんば練兵に練兵をかさねた精兵であり、実戦には断じてひけをとらぬという自信をもっているにせよ、京都守護職の権威にかけても、諸藩士や浪士を威圧するほどのものでなければならぬ上、その他、藩兵の支度金、家族への臨時手当から目にみえない出銭−−いわゆる「チリ銭」など、おびただしい金額の金が消費され、会津一藩の致命傷ともなりかねないほどであった。幕府より貸与された三万両など、あっという間に消えさったことである。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.49〜50)


     折もおり、いまだ出発の準備ならぬうちに、はやくも、容保主従の前途を暗示するような事変が突発した。
     「生麦事件」の名で知られる、異人殺傷事件であった。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.50)


     サトウは、外国人とはいえ、西郷隆盛木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文井上馨らと親交し、風雲急な幕末日本の国内を、身の危険もかえりみず縦横にかけめぐり、西郷や木戸に代表される薩長勢力が、明治維新を達成する陰の力となって活躍した異色の人物であった。 たとえば彼は、兵庫港で西郷と最初に出会ったときの印象を、
     「数日して、この汽船(薩摩藩船)が再び戻って来たとき、私はまた出かけて行って、もっとおもしろい人物と知りあった。 小さいが炯々とした黒い目玉の、たくましい大男が寝台の上に横になっていた。この男の名前は島津左仲というのだと、おしえられた。 私は、その男の片腕に刀傷があるのに気がついた。 それから歳月もたってから、私は再びこの男に会ったが、その時には本名の西郷吉之助を名のっていた
     と書いている。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.51〜52)


     このように、彼の回想録は、幕末史の側面をつたえて貴重だが、第二次大戦が終息する昭和二十年までは、一種タブーの書として公刊されずにきた。 理由はほかでもない。 彼が外国人の立場から、誰への遠慮も会釈もなく、自分の出会った人物評価を、おのれの感じたまま自由に書いているからであった。 このことは、幕末期に活躍し、のちに明治の元勲顕官と称されるまでになった連中(好い評価を受けたものは別として)にとって、はなはだ具合が悪かったであろうし、たとえ当人が死んでも、終戦まで強固に残っていた藩閥関係者は、この書の公刊をよろこばず、圧力をかけたであろうことは容易に想像できる。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.52)


     サトウの名が出たついでに、もう少々書いておく。 彼は西郷や木戸ら薩長両藩士と親交があったと前記したが、じつは野口富蔵なる若い会津藩士を従者とし、会津藩家老の梶原平馬とも会っているのであった。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.52)


     野口は英語をまなぶため、はじめ函館の英国領事ヴァイスに仕えたが、のちサトウと同居するようになり、ついで英国艦隊の旗艦指令アレキサンダー・ブラー付きの船室給仕となって、英本国へ渡航することになっていたのである。 結局、彼はサトウについて渡英するのだが、サトウは野口を、「あくまで正直で、誠実な男だった」と回想している。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.52〜53)


     また、一方の梶原については、
     「野口は京都にある戦闘部隊中で最も精鋭な部隊を出している会津藩の人間だった。 私は野口を、会津藩の人々に会わせるため京都へ出張させたが、彼は帰ってきて数名の会津藩士が訪問にやってくると話した。 十七日の晩おそく、梶原平馬(家老)、倉沢右兵衛山田貞介河原善左衛門の四名がたずねてきた。……私たちはお返しの品物を持ち合わせがなかたので、できるだけのもてなしをした。 梶原は、シャンペン、ウィスキー、シェリー、ラム、ジン、水で割ったジンなどを、またたきもせず、尻ごみをせずに飲みほし、飲みっぷりにかけては、他の人々をはるかしのいた。 彼は色の白い、顔だちの格別立派な青年で、行儀作法も申し分がなかった。……これが機縁となって、私は会津藩の人々とも親密な間柄になったが、こうした友誼は、革命戦争によって日本国内の政治問題に関する彼我の意見が、全く反するに至ったあとまでもつづいたのである
     と書きのこしているほどであった。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.53)


    「神奈川と川崎の間」の生麦村で、英人リチャードソンらを無礼討ちに斬ってすてたのは、薩摩藩士のなかでも攘夷熱の高かった奈良原喜左衛門有村武次らであった。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.53〜54)


     有村武次は、のちの明治天皇の侍従、子爵海江田信義だが、彼はまた、「桜田門外ノ変」において、水戸浪士にまじっていたただ一人の薩摩藩士有村次左衛門の長兄でもある。 大老井伊直弼の首をあげた次左衛門は、竜の口の幕府若年寄遠藤但馬守屋敷の辻番所の前で切腹自刃した。 この暗殺には直接くわわらなかったものの、一味の首謀者金子孫二郎と行を共にした次兄の雄助も、上洛の途中、自藩の追手にとらえられ、一挙から五十日にして切腹したが、その介錯をしてやったのが奈良原喜八郎なのである。有村三兄弟、そろってボルテージが高かったとみえる。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.54)


     暗黒の京 禁裏のハプニング

     宮廷での主導権をめぐって、薩長両藩が暗闘している時、当の宮廷内でも、上級公卿と下級公卿が権謀をこらしていたわけであり、守護職容保をとりまく状況は、まさに黒い花火の炸裂する寸前の様相をしめしていたといってよい。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.74)


     事実、情勢は、まるで容保の守護職着任をまちうけてでもいたように、いちだんと混迷の度を濃くしていた。 誰しもが、いつ、どのような変事がおきるかわからぬ、という不安定な予感を胸にいだいていた。 その予感にこたえるように、正月十七日、長州藩主毛利慶親参議に任ぜられ、世人をはっとさせた。
     一瞬人々が感じたのは、この参議昇任のかげに、薩長両藩のすさまじい暗闘があったであろうということだ。 これは先にものべたことだが、公卿の実権者である関白近衛忠熙の夫人が、薩摩の前藩主島津斉彬の養女という関係から、これまで、つねに薩藩の意見が採用されていたが、その薩藩の主張が公武合体にかたむきがちなので、三条らがそれを阻止するためにうった布石なのである。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.74)


     陰謀、謀略が宮廷人の御家芸であること、古今東西の宮廷史が証明するところだ。 じつは三条らは、はじめ毛利慶親を中納言にのぼらせ、参議の島津をおさえつけようとはかった。 ところが中川宮をはじめ、右大臣二条斉敬、内大臣徳大寺公純、左大臣近衛忠房らによって、参議をとびこしての昇任は、異例にすぎると強硬に反対されたため、止むなく一階級すすめた参議に落ち着いた、というのが実情なのである。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.75)


     このような、三条らの強引な策謀がまかりとおるところに、時代の末期的な病状をみるおもいをさせられるが、彼ら一部の急進過激派の公卿は、洛中にたむろする尊攘過激派の浪士と手をむすぶことによって、急速にその勢力を増幅させていき、ついに近衛忠熙は、薩長両藩の暗闘にはじきとばされるように、関白の職を投げだしてしまった。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.75)


     これで容保は、宮廷における貴重な味方を失ったことになる。容保に好意的で、なにかと頼みになると信じられていた、この老関白の突然の辞職は、守護職の職務を遂行するうえでも、手痛い損失となった。 しかもこの事件は氷山の一角といってよく、宮廷における大藩、公卿いりみだれての暗闘は、主導権をめぐって、しだいに露骨に、臆面もなくおこなわれるようになったが、それは当然、尊攘浪士たちの行動にも影響し、ちまたには血腥い事件が続出した。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.75)


     ちょっと当時の世相に目をむけてみよう。 まず慶応義塾の創立者である福沢諭吉は、その『福翁自伝』に、
       浪人と名(なづ)くる者が盛に出て来て、何処に居て何をしているのかわからない。 丁度今の壮士というようなもので、ヒョロヒョロ妙な処から出てくる。外国の貿易をする商人さえ店を仕舞うというのであるから、況(ま)して外国の書を読んで欧羅(ヨーロッパ)の制度文物を夫(そ)れ是(こ)れと論ずるような者は、どうも彼輩(あいつ)は不埒(ふらち)な奴じゃ畢竟彼奴等は虚言を吐て世の中を瞞着(まんちゃく)する売国奴だというような評判がソロソロ行われてきて、ソレから浪士の鉾先が洋学者の方に向いてきた。……既に私共と同様幕府に雇われている翻訳方の中に手塚律蔵という人があって、其男が長州の屋敷に行って何か外国の話をしたら、屋敷麻若者が斬って仕舞うというので、手塚はどんどん駈け出す、若者等は刀を抜いて追蒐(おっかけ)る……。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.76)


     次は、れいの旧桑名藩の江間正発が、『昔夢会筆記』に、
       あの当時、攘夷ということが流行しましたが、攘夷は夷を攘(ほう)るということで、何でも眼色の変わった奴は、片端から斬殺してしまうというのが攘夷の原則で、攘夷を大別しますと、水戸の攘夷長州の攘夷、それから天子様の攘夷と、こう三つと見まして、水戸の攘夷などというものは、私どもが考える本当の攘夷ではない、ためにするところがあっての攘夷、あなた(東久世通禧)はどうお考えなさるかと申し試みましたところが、長州の攘夷もそうだよ、何も攘夷をしたというわけではない……してみると攘夷ということは、今日から忌憚なく申すと、反対党を叩き潰す看板である、そう言ってよろしい。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.76)


     言路洞開 浪士対戦闘部隊

     それにしても、日増しにエスカレートする浪士らの挑戦行為にたいして、なぜ守護職は動こうとしないのだろうか−−この疑問は当然といってよいが、じつは容保は、浪士らが、かように凶暴な行動にはしるのも、元はといえば、言路がふさがれ、下情が上に達しないところに原因するのだから、ただちに、「言路洞開」の策をとり、彼らのいらだちを除去すべきである、という見解だったのである。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.82)


     言路洞開」これこそ、騒擾を鎮静する最上の策とした容保は、現実に、それを一橋慶喜にはかっている。 浪士に自由に意見をのべさせる、「百花斉放」といったおもむきの、このような政策を実施するためには、すくなくとも将軍後見職の了解をとりつけねばならないのだ。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.82)


     公(慶喜) 私の考えといっては別になかった。 会津の方へ任して、会津が主として総括して、それがよかろうというだけの考えで、それより上の深い考えはまずなかったのだ。(『昔夢会筆記』
     慶喜は、将軍後見職という最高の責任職にありながら、容保のみの「言路洞開」としてしりぞけており、また右の問答のなかでも、「私の考えといって別になかった」と答えていることでも知れるように、ひどくなげやりな態度をとった。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.83)


     そんな慶喜の態度を、山川浩『京都守護職始末』は、
     貴意(言路洞開策)ははなはだけっこうではあるが、浮浪の徒がこれに乗じて、むらがり来って、轟々(ごうごう)と私見を主張するに至れば、その煩雑さには耐えられない、と言って、受けつけようとしない。 わが公(容保)が再三これをうながすと、後見職(慶喜)は、この多忙の際にこれ以上煩雑を加えるのは迷惑至極、ただし、貴方一人でおやりになって他に累を及ぼさないのならば御勝手、という返事であった。
     と、いかりをふくんだ筆で、その非協力ぶりを批判している。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.83〜84)


     要するに慶喜は、面倒くさがったのだ。うろんな浪人者などに会って、いちいちいいぶんなどきいておれるか、といったところであろう。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.84)


     恐らく彼は、「言路洞開」の策をとなえる容保の、愚直なまでの真面目さにへきえきし、内心には「この男、そんなことができると、本気に思いこんでいるのか」と呆れるおもいでいたかも知れない。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.84)


     それはともかく、慶喜の了解をとりつけた容保は、所司代の牧野忠恭にそのむねを告げて、言路洞開の布告を市中に発令させようとした。 ところが牧野は尻込みして命に従おうとしない。そんな無茶な布告は、老中の命令がなければなしがたい、というのである。 牧野にしてみれば、うかつに布告などした結果、あとで責任をとわれたりしてはかなわないというところであろうか。老中に相談したうえで、などといっていては、時機を失すると判断した容保は、ただちに町奉行の永井尚志に命じ、なかば強制的に布告させた。
       今日攘夷と事が決まり、旧弊を一新し、人心が協和すべきはずの時に輦穀(れんこく)の下で勝手に人を殺害するものがあるのは、言語壅蔽(ようへい)の致すところである。 以後あらためて、国事の得失に関することは、内外大小を問わず、はばかることなく有志について進言すべし、もしはばかるところがある場合は、緘封して呈供すべし。 事柄によっては、直接守護職に会って陳述することも許す。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.84〜85)


     この布告は、画期的なものであった。事柄によっては、容保自身が会ってもよい、とまでいっているのだ。 会津二十三万石の大守であり、また幕府最高の警察機関ともいうべき守護職が、みずから会って話をきこう、というのである。 幕府治世においては、なにか一つの訴願をする場合でも、まず町内役人の連署をもらいうけ、その草案を町奉行配下の与力同心にみせ、添削をうけてから、はじめて願いでるという、えらく厄介な手続きをふまなければならなかった。 それを容保は、途中の手続きをいっきょにとりはらってしまったのだから、所司代の牧野が、それは無茶だ、老中に相談したうえでなければ、と尻込みしたのも無理ないかも知れない。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.85)


     このように、容保は、安政ノ大獄の二の舞いをせぬよう、浪士対策には慎重な態度でのぞんだ。 浪士の凶暴行為に激怒した慶喜が、洛中に巣くう浮浪の徒を、いっせいに逮捕し、厳刑に処すべきであるといった際も、さいごまで守護職としての行動をおこさずにすませ、つとめて浪士たちの心情と、その行動を理解しようとした。
    (《会津藩始末記 運命の章》P.85〜86)


     容保は、心底から、
     「浪士は弾圧する代わりに、これを理解し、善導することを念願した
     のである。
     だから、維新史において、会津藩主松平肥後守容保が、京都守護職に着任した瞬間から、血の弾圧者として浪士にのぞんだごとくみなすのは、事実を知らぬためか、もしくは意図するところであって、故意に歴史をまげるものといわざるをえない
    (《会津藩始末記 運命の章》P.86〜87)


    激動の章

     謀略の天才たち 偽勅乱発さる

     容保嫌気をおぼえたのだから、弱冠十九歳の将軍が、謀略の都と化した京都から、逃げだしたくなったとしても不思議はないかも知れない。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.123〜124)


    いずれにしても容保は、将軍が京を去ったことで、急進過激な攘夷派の独擅場と化した京都で、完全に孤立してしまった。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.125)


     これを好機到来としたのは、長州が攘夷決行したことで、意気大いにあがった三条実美ら急進過激派の公卿たちであった。 すでに目星い合武合体論が京から姿を消し、ついに将軍までが江戸へ逃げ帰った以上、のこるは守護職松平容保一人のみである。この容保をさえ追放してしまえば、もはや、朝廷を独占しえたも同然であり、日本の政治を意のままに操縦しうることになるとし、彼らは、ただちに、容保の京都追い出しを画策し、
       大樹(将軍)の帰東(江戸へ帰った)以後、関東の形勢いかがかと、御不安におぼしめされ候間、事情を熟察して言上あるべく、かつ攘夷の儀、叡慮の貫徹を周旋いたすべく御沙汰候事。
     という、お得意の「偽勅」を容保に下した。 これは、筑後浪士の真木和泉が考えだした、巧妙きわまる謀略であった。 つまり真木は、先に二条城に滞留していた将軍家茂が、この六月九日、にわかに江戸へ帰ってしまったのは、朝廷をないがしろにした不臣行為であるときめつけ、そのことを容保に訊問させるという名目でもって、とりあえず守護職を江戸へ追いやっておき、追いかけて解職の勅命を下そうという魂胆なのだ。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.125〜126)


     明暗の岐路 真勅秘勅

     ことわざに、「綸言汗ノ如シ」、という。
     これは、天子の言葉は、ひとたび発せられた以上、変更することのかなわぬ意であるが、では、すでに勅旨が発せられてしまい、慣例上、変更不可能となった今、どうすれば容保を引きとめうるか−−苦慮された帝は、ついに、自筆の手紙を、直接容保に送るという、古来ためしのない手段をおもいつかれた。 この一事によっても、いかにおもいあまられたか、想像つこうというものだが、ことは、ただちに実行にうつされた。伝奏飛鳥井中納言野宮宰相に、宸翰を手渡された帝は、この書状の写しをつくって、容保に帝の真意をつたえるようにと命ぜられた。 飛鳥井、野宮の両伝奏は、秘勅の文面をよんで仰天した。
       今日その方(松平容保)を召しおき候は、関東の事情の検知、並びに大樹(将軍)の処置の感咎との両端にてその方を便とし、下向申しつくる由にて候。 もっとも攘夷の次第の尋問はさもあるべき儀には候えども、このごろ、守護職のその方を使として下向の義は、朕においては、好まず候えども、当時の役人並びに堂上の風として、申し条を言い張り候次第、とても愚昧の朕、申し出で候ともせんなき事ゆえ、各々の申す通りに相成る次第に候間、ただ今もかくのごとく厳重之沙汰のようながら、〔実勅ではこれなく〕候間、さよう承知し、その方の職掌の可否は、存分に任せて返答すべく、決して下向を強いて申しわたす所存はこれなく候事。
       ただし、かようの義を申し候と存じ知り候わば、各々はまた蜂起し候わん間、中庸の商量、嘉祥たるべく候事。
        六月秘々
    (《会津藩始末記 激動の章》P.131〜132)


     また同時に、近衛忠熙にも、つぎのような宸翰をたまわった。
       イマ会津ヲ東下セシムル者ハ、過グル日申セシ如ク、勇威ノ藩ナルニ因ッテ、ココ(京)ニ居レバ奸人ノ計策行ワレ難キガ故ニ、コレヲ他ニ移シ、事ニ托シテ守護職ヲ免ゼントスルナリ。 関白モマタ、コレヲ疑エリ、コレ則チ、朕ガ尤モ会津ヲ頼ミトシ、遣ワスヲ欲セザルトコロニシテ、事アルニ臨ミテ、ソノ力ヲ得ントスルナリ。 今偽勅甚ダ行ウワルルガ故ニ、コノ後何等ノ暴動ノ下ルモ測リガタシ。 真疑ノ間、会津ヨリ察議スルヲ要ス。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.132)


     池田屋事変後 長州藩巻返し作戦

     蛤御門には、林権助一瀬伝五郎らの会津藩兵が守衛しており、御所内突入をはかる来島らの長州兵と激突した。強行突破しようとする長州兵と、そうはさせじとする会津藩兵は、鉄砲によるすさまじい攻防戦を開始したが、ついに、刀槍による白兵戦となり、敵味方入りみだれての大乱戦となった。 このとき長州兵は、白刃をふるいながら、口ぐちに、
     「われらの恨みは会津にある。 これを晴らすは、この一戦にあり」と叫んだといわれるが、時代の流れがつくった両藩の遺恨は、こうして重層的にふかい傷をきざんでいくのであった。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.179〜180)


     そのころ−−下立売門にむかった児玉小民部らの長州兵は、八条邸の堀をやぶり、宮門内に突入した。 ここの守衛にあたっていたのは、伊勢・津藩の兵であったが、小民部が津藩士に、「われらは、会津中将容保に恨みをもつものであり、他藩へはなんら他意はない。 ねがわくば傍観して欲しい」と申しいれたところ、まったく考えられぬ事態がおきた。 驚くべきことに津藩兵は、「われらは、禁裏の守護にあたるものであって、会津中将の護衛をしているわけではない。 どうぞ御随意にお通りあれ」とこたえ、守衛地を放棄して、難を避けてしまったのである。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.180)


     まことに、理解にくるしむ、というほかない。 しかも、このとき、このような態度をとった津藩兵は、のちの鳥羽伏見の戦いには、突然寝返って味方を撃つのだから、その信義を無視した行為には眉をひそめずにいられない。それもこれも、藤堂家の家風だといわれても仕方があるまい。 ともあれ、こうして難なく、御所内突入に成功した児玉ら長州兵は、蛤御門にたたかう会津兵の背後にでて、挟みうちの形成となった。 さらにそこに、中立売御門の筑前兵を撃破した国司信濃らが、側面から攻撃をかけてくるにおよび、三面に敵をむかえた会津藩兵は、ついに蛤御門をすてて退いた。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.180)


     黒印の軍令状 禁裏に神鈴鳴る

     しかも、容保には、帝にたいして、果しのこしたことがあったのだ。 というのは、二年前の文久四年二月八日(二十日より元治と改元)の夜もふけてから、突然、伝奏の野宮定功が、黒谷の会津藩本陣におとずれたかとおもうと、
     「帝より容保へ、御製数首をみせよ、との御内旨があった
     といい、持参の文筥を差出した。
     それで衣服をあらためた上、謹んで文筥をひらいた容保は、とたんにあっと顔色をかえた。宸翰だったのだ。 少々長文でありまた、いささか分りにくい文章ではあるが、この宸翰こそ、容保への帝の信頼がいかに深かったか、いいかえていうならば、後日、容保が、会津藩が、「朝敵」とされていたことが、いかに不当、不条理であるかの証しとなるものとして、あえて全文をかかげておくことにする。願くば読者よ、心あらば一読しておいていただきたい。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.194〜195)


       極密々書状遣わし候、昨年来滞京、万々精忠、ふかく感悦の至りに候、じつに容易ならざる時勢について、 その方の忠勤ふかく悦服候については、深瀬の存念もぞんじよらざる儀ながら、別紙ごく密々したためて、 披見入れふかく依頼候。 まことに容易ならざる時節柄につき、従来ふかく独り苦心の儀に候、この儀ひとしおふかき苦心に候えども、 とても申出でて、存分貫徹はこれなき事、鏡に向うて見るごとく候えば、衆評にかけず候、 何分廻策なくては、とても出来ず候、前文のごとく、その方の精忠に候えば、密事たりとも、朕がのぞむ儀、貫徹いたしくれ候わんやと相察し、その上、何分多人を承知せしむる儀兵権になくしてはと、ふかく存じ候えば、その方へ依頼候、かねて朕は万事内密の儀、腹心になりくれ候おば、爾来(じらい)のところも、ふかく満足のことに候。 依って別紙にしたため候儀、ふかく推察、ひと周旋これありたく候、事なにぶん密話の儀むつかしく候えども、密々面会もなりがたく候えば、よって急速たがいに会得も出来がたきゆえ、たびたび往返いたしたく候、ふかく聞きこみ、つまり成功候わば、この上なき満足に候事、ここに申し、別紙にもしたため候通り、この儀、漏脱候ては、じつに望みを失い候間、堂上参与の中なりとも、ひしと洩れなく、十分勘考し策略附し出来の上、朕も申し開け、指図候まで秘めおき貰いたく、なおたびだひの往返申し合せたき事、なおよろしくふかく依頼候事、くれぐれも存じよらざる儀とは存じ候わん、ひとえに審議候也、よろしく頼みおき候也。
      文久四年甲子二月
          松平肥後守え
               極密々禁他聞(ごくみつみたぶんをきんず)

    (《会津藩始末記 激動の章》P.195〜196)


       「別紙」
       元来その方事、今日にいたり精忠の段、心骨に徹し、感悦ななめならず候、すでに昨年暴論のため、守護職をやめ東下または帰国にも相なるべきところ、じつに精忠疑いなき段、深察情念やみがたく、なにとぞ在役滞京の段、断然申し出ずる所存のところ、何分暴論朕の所存を矯(た)め、我意の振舞いのみ行い、当職も失権両役の誣(し)いられ候て、朕へ勤仕は名ばかり、かえって暴人へ諂(へつら)うのみ、とても朕の所存貫徹せず候間、内密に尹宮(中川宮)、前関白(近衛忠熙)をもって極密に書状を差しつかわし候。 ほどよく聞きとりくれ、万々手続きをととのえ、只今にいたり守護職精忠ふかく安慮喜悦のいたりに候、去る十八日の奮発(八月十八日のクーデター)、朕においては、なかんずく悦心、すなわち国事にしたがって朝廷の幸い、重畳の悦びこれに過ぎず候、かくのごとき忠厚思慮宏遠、もって国家の枢機を任ずるにたる人と、ふかく愛臣のことに候、これによって極密他聞を秘して、依頼の事これあり候を、なにとぞ機密の計密をもって、朕の心底貫徹いたしくれ候事なるまじや、この儀ふかく呑みこみ、周旋成功のときは、朕の憂憤を散霽(さんせい)し、じつにもって感悦候、しかし事をつつみ、ただ依頼とばかりにては、可否の答も出来がたしと存じ候えども、ふかき在意これあり、関白以下にも一言も申さず、ただちにその方へ候も、一了簡これあり候事、まず契約いたし候間、領掌可否、答書もらいたく候、右いよいよ承知これあるときは、深密の書状つかよすべく候、そのときは開見にて、意外の事と存じ候わんやながら、じつにふかく存じこみ候儀ゆえ、とくと文意会得にて、不審議の周旋頼みいり候、ただしこの儀、評議のようなることにては、とても成就せず候、同単相語らい突っ掛け候、奮発の計略所望に候、事一度の書通にては、とても弁解しがたしと存じ候えば、目立たず箋返なりとも尋ねくれ候よう、存分したため見せ候間、くれぐれ成功頼み入り候也。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.196〜198)


     正直いって、なんとも意味不明な文章で、恐らく容保にも、帝が心中に、どんなことを決行しようとしていられたのか、正確にはつかみえなかったこととおもう。 しかし、帝が容保を信頼され、つよい期待をかけておられたことだけは、全文にきざみつけられており、胸痛むばかりである。いったい帝は、「なにを頼みたい」といわれたかったのか、かなしいかな、容保には、ついにわからずじまいに終ったのだ。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.198)


     黒幕 岩倉具視の行動

     開幕は、その秋、突然そして異常な急激さでなされた。 先帝によって、朝敵と断ぜられた長州藩の罪がとかれると同時に、大納言正親町三条実愛から、薩摩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保市蔵(利通)ならびに長州の広沢兵助(真臣)の四人にたいし、倒幕の密勅が下されるという事態まで、逆転劇はいっきょに進行したのである。
       詔(みことのり)す。 源慶喜、累世の威を藉り、闔(こう)族の強を恃(たの)み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)し顧みず、罪悪の至るところ、神州まさに傾覆せんとす。 朕、今民の父母として、この賊にして討たずんば、何をもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや。 これ、朕の憂憤のあるところ、諒闇も顧みざるは、万止むべからざるなり。 汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮し、もって速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安きに惜くべし、この朕の願い、敢えて懈(おこた)ることあることなかれ。
                       正二代 藤原忠能
       慶応三年十月十三日奉      正二位 藤原実愛
                      権中納言 藤原経之

    (《会津藩始末記 激動の章》P.201〜202)


     ところが、この倒幕の勅書が、ひどく怪しげなしろものであったのだ。 明治になってからだが、勅書に連署した正親町三条実愛じしんが、旧館林藩士岡谷繁実の質問をうけて、つぎのように答えているのである。
     問「倒幕の勅書を薩長二藩にたまわったのは、いかなる次第でしょうか。
     答「余と中御門(経之)の取りはからいだ。
     問「中山公(忠能)の署名もありますが、これはいかなる次第でしょうか。
     答「中山故一位は、名ばかりの加名である。それは岩倉(具視)の骨折りだ
     問「勅旨と称するものと、綸旨(りんし)との違いはどうですか。
     答「薩長にたまわったものは綸旨というべきであろう。
     問「筆者は何人(なにびと)の起草に係ったものですか。
     答「玉松操というものの文章だ。 玉松はいたって奇人であった。
     問「筆者は何人ですか。
     答「薩州にたまわったのは余が書いた。 長州にたまわったのは中御門が書いた
     問「右のことは二条摂政(斉敬)や親王方と御協議のあったことですか。
     答「右のことは二条にも親王方にもすこしも漏らさず、ごく内々のことで、自分ら三人と岩倉のほか、誰も知るものはない
    (《会津藩始末記 激動の章》P.202〜203)


     奇怪きまわる話ではないか、三条実愛は、摂政関白にも親王にもはからず、中御門と玉松操と岩倉のほか、勅書について知る者はいないといっているのである。 これは要するに、岩倉を主謀とする四人が、幼帝を無視し、勝手に作成、発令した偽勅ということではないか。 なお、このとき右の倒幕の密勅とともに、つぎのような会津・桑名両藩の討伐令が下さる手筈となっていた。

     松平肥後守容保・松平越中守定敬討戮の宣旨
                        会津宰相
                        桑名中将
     右二人久しく輦下に滞在し、幕府の暴を助く、其の罪軽からず候。
    之によってすみやかに誅戮を加うべき旨仰せ下され候事。
                        忠能
                        実愛
                        経之
      長門宰相殿
      同 少将殿
      薩摩中将殿
      同 少将殿

     まさに、逆転、の一語につきる。 孝明帝より「その方精忠」との御宸翰までたまわった容保が、一転してこんどは、かつての逆賊から誅戮される立場に追いこまれるのだ。 岩倉らのどすぐろい情念の結晶−−偽勅によっても、なお、天下は動かしうる。 密勅をうけた薩長両藩は、十月十四日を期して、倒幕の狼火をあげ、いっきょに歴史のながれをかえようとはかった。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.204〜205)


     ところが−−決行寸前に、意外な事態が展開した。 すなわち、前日の十三日、新将軍慶喜の決断によって大政奉還と決し、十四日、そのむねを朝廷に申し出たのだ。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.205)


     慶喜が政権を返上したので、武力倒幕の名目はうしなわれ、自然、密勅のことは計画中止のかたちとなった。薩長両藩の先手をうって、慶喜に大政奉還の建白書を提出したのは、土佐の山内容堂であるが、これは坂本龍馬後藤象二郎を通じて容堂に入策したものであり、原案者は龍馬である。
    (《会津藩始末記 激動の章》P.205)


     だから、慶喜の大政奉還の決断は、ひとくちに、後藤象二郎の説得によるものといわれているが、当人はこれを否定する打明けばなしをのこしている。
       先年、僕(伊藤痴遊)が後藤伯に付いて地方を歩いた時に、慶喜公に将軍をお廃めなさるように説いたその時のことを問うた。 すると伯が
       「馬鹿いえ、議論なんか出来るものか。 陪臣の身の上で初めて将軍に拝謁したので、嬉しいのと恐ろしいのとで、なかなか口を利くどころでなかった。小松帯刀と並んでお前へ出たのだが、横目で見ると、小松の肩先が震えているのだ。 薩摩第一の器量人と呼ばれた小松も、意気地がないなと思ったが、自分も両脇へ手を当てると、冷汗をかいている。 だからやはり肩衣が震えているくらいのことはあったかも知れない。 将軍が、「お前方の考えはどうじゃ」とおっしゃったので、小松が、天下の大勢に鑑みて、政権を返上なさるよう申し上げた。 すると将軍から、「己れが止めたら、その後はどうする」と凛とした声で押し返された。 二人ともに考えはない。 ただ、「恐れ入りました」といって引き下った。 二人が、廻り廊下を下って来ると、そこへ慶喜公が、もう平服に着換えて出て来られた。 二人が左右に分れて辞儀をすると、「この上ともに、何分頼む」と申された。 事の意外に涙が出て、何とも言葉がなかった。 そういう後藤伯の話であった。 なるほど当時の将軍の威勢は、そうしたものでありましたろう。

      (伊藤痴遊『江戸城明渡しに就いて』)」
    (《会津藩始末記 激動の章》P.205〜206)


















    継続中