[抜書き]『望郷の歌』


『望郷の歌』 石光真清の手記
石光真清・中公文庫
一九九一年五月一五日7版
    目次
    泥濘の道
    親友の死
    老大尉の自殺
    黄塵の下に
    文豪と軍神
    失意の道
    海賊会社創立記
    二つの遺骨と女の意地
    海賊稼業見習記
    望郷の歌
    家族


    一、故石光真清が秘かに綴り遺した手記は、明治元年に始まり、大正、昭和の三代に亘る広汎な実録である。 これを公刊するに当って年代順に整理編集し、『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』の四著に分類した。
    (《望郷の歌 》P.6)


    四、『曠野の花』の大半は昭和十七年刊の『諜報記』が根幹になっているが、当時の社会情勢から発表を憚られた部分と脱落していた部分を新たに追補して、全面的に再整理したものである。 これによって手記本来の姿に立ち還ったので敢えて改題した。
    (《望郷の歌 》P.6)


    泥濘の道

     上陸してからは疾風のように進撃した。 日清戦争の時に進軍した思い出の十三里台を経て金州城外の南山に至るまでは、ほとんど戦いらしい敵の抵抗はなかった。 南山は大連旅順に至る途上の最大拠点であった。 見渡したところ、なだらかな丘陵であるが、山麓には幾重にも厳重な鉄条網が張りめぐらされ、中腹には強固な保塁が二十数カ所も見られる。 しかも山頂は要塞化されて、砲七十余門がわれわれに砲口を向けていた。十分に砲撃を加えてからでなければ到底手をつけられないと思われたが、わが軍には敵を沈黙させ進撃路をひらき得るほどの砲兵隊もなかったし、それほどの砲弾もなかった。 私がハルピンで菊地写真館を経営していたころ、陸軍大臣クロパトキン将軍が幕僚多数を引きつれて、満州の軍事施設の建設情況を視察したうえで日本を訪問したことがある。 この時に私は撮影の御用を承って館員と共に一行に随行し、この保塁を見廻ったことがあるが、その時はまだ半ばも完成しておらず、その後の施設内容については全く知識がなかった。 幾たびか慎重に作戦が練られ、偵察が試みられたが、強行突破のほか方法がなかった。
    (《望郷の歌 泥濘の道》P.15)


     五月二十六日の払暁、大雷雨のなかで部隊はそれぞれ進撃の位置についた。 司令部は肖金山に設けられたが、ここからは南山が一望のもとに見渡せた。 降りやまぬ大雨の簾(すだれ)を通して私の双眼鏡に入って来る情景は、眼を閉じたくなるほど凄惨きわまりないものであった。 掩護砲撃のもとに突撃を敢行する決死隊は、次から次に敵の機関銃の掃射になぎたおされて、行くもの行くもの、仆(たお)れて再び起きあがるものがなかったわが軍が機関銃という新兵器を体験したのはこれが初めてである。 その間、司令部は張りつめた弓のように緊張して戦線を見守り、地図を按じ、指令を飛ばせた。 だが午後四時になっても戦線は全く進展を見ず、南山の斜面には将兵の屍が積み重なり血潮が流れた
    (《望郷の歌 泥濘の道》P.15〜16)


     奥司令官はいよいよ言葉少なくなり、前線からの報告は絶望に近いものになった。突撃を続行せよ−−の指令が繰返され、そして、やがて伝えられてくる報告は何々部隊全滅の悲報だけであった。
    (《望郷の歌 泥濘の道》P.16)


     私は呼び出され、第一師団司令部への口達命令を受けた。
     「全滅を期して攻撃を実行せよ
     ただこれだけの命令であった。
    (《望郷の歌 泥濘の道》P.16)


     そこから大連に至るまで、ロシア軍が撤退して行った道や橋は破壊されていると思っていたら、意外にも何の被害もなかった。 それよりもっと驚いたことは、用心しながら密かに侵入した大連市街が、戦前の姿をそのままに石造の欧州風の街並を整然と私の眼の前に並べたことであった。 ただ人間だけが一人の姿もなく消え失せていた。 私は多少の不安を感じながら、石畳の街路を馬の蹄の音を高く響かせながら駈けめぐった。 どこにもロシア兵の姿もなく、破壊の跡もなかった。 私にとっては懐しい街である。 勝手知った街角を幾曲りかして、かつてのわが諜報機関の出張所であった田中写真館の前に馬をとめた。 ロシアにとっては敵産であるこの写真館も、破壊されていなかった。フォトグラフィア・タナカの看板もそのままに、硝子(ガラス)窓一枚の破損もなく。私たちが立退いた日をそのままに建っていた。 私は馬を街路につないで、戸口のハンドルに手をかけた。 何のこともなく玄関が開かれた。 私は埃くさい薄暗い部屋を一つ一つ用心しながら開けていった。 居間もアトリエも物置も、引揚げの日をそのままに、写真機は黒いヴェールを被って隅の方に埃を浴びていた。 戸棚を開けて見た。 寝具も小道具も格納されたままで、荒された痕跡はなかった。
    (《望郷の歌 泥濘の道》P.19〜21)


    親友の死

     悲報は相ついだ。
     内地の留守第三師団から補充隊三百名が到着したのは、遼陽を目指して死闘を繰返してした八月三十日であった。 引率者は東京帝国大学を卒業したばかりの一年志願兵歩兵少尉市川紀元二少尉であった。 到着すると直ちに第一線にある第三師団に合流するよう命じられた。 この頃の戦闘の激しさは、日清戦争の古強者さえ驚いたほどであるから、初めて戦場を踏む市川少尉等の一隊を、どんなに驚かしたことであろう。雨季明けの戦場は炎天に焼けて、炸裂する砲弾に掘り返され、累々たる屍体の血肉を吸っていた。 死傷者の収容も手が廻らず、歩ける者は軍刀に縋(すが)り、銃を杖にして後方の仮繃帯所に辿りついた。 動けない者は屍体と共に炎天に横たわって死に絶えた。 仮繃帯所までの道にも、途中で気力絶えて仆れた血塗(まみ)れの勇士たちが、点々と横たわっていたが、彼等を助けるに手間取ってはならないと訓示されていた。
     「今日は別である。戦友が倒れても留まるな。 彼を踏み越えて進め。少尉が倒れたら曹長が指揮をとれ、曹長が倒れたら軍曹が指揮をとれ、軍曹が倒れたら上等兵が指揮をとれ。 一歩も譲ってはならぬ。踏みとどまってはならぬ
    (《望郷の歌 親友の死》P.41)


    文豪と軍神

     いよいよ翌日は慰霊祭という日になっても祭文は出来なかった。 懊悩失望の果てに、私はふと思いついて、恥をしのんで第二軍軍医部長、森林太郎(鴎外)博士を訪ねて苦衷を訴え、祭文の執筆を依頼した。
     鴎外博士は私の話を聞いて、笑いながら「そのように親しい間柄では無理ですよ。 祭文などというものは、冷やかな傍観者でなければ、書けるものではありません。 よろしい、私が間に合せてあげます」と言った。
    (《望郷の歌 文豪と軍神》P.73)


     約束の午後八時になった。 もし出来ていなかったら、徹夜で居催促するつもりで訪ねると。祭文は立派に出来上っていた。 文学者というものは、催促に催促を重ねなければ原稿はもらえぬものと決めていたから、私は拍子抜けして、ただただ感謝するばかりであった。
    (《望郷の歌 文豪と軍神》P.73)


    失意の道

     歩き疲れて弟の官舎に帰りついたのは、夕暮も近い時刻であった。 弟はまだ帰っていなかった。 広い部屋に一人転がって、気を静めることに努力した。 過ぎて来たことが、またも私の意識を捉えてしまう。 軍を退く少し前に、参謀本部の町田経宇少佐(後の大将)から受けとった秘密文書が断片的に思い出された。
     「……石光君ハ将来ハ現役ヲ離レラルコト万全ノ策ト思フ。 然シテ御家族ヲモ二年ノ後ニハ同地ニ御招寄(おめしよ)セ相成ルコト露国人其他ニ対シテモ信用ヲ得ルノ一手段。 又家族ニ対スルノ義務ナルベシ。 兎角(とにかく)大丈夫ノ士苟(いやしく)モ一大抱負ヲ以テ国家ニ尽サントイルモノハ現役士官トシテ数本ノ線ヲフヤシ佐官トナリ将官トナルモ又民間ニ一大事業ヲ成功シテ国家ノ常設機関トナリ大ニ献呈スル処アルモ帰スル処ハ一ナリ。 小生ハ寧ロ後者ヲ石光君ニススムル者ナリ
     ハルピンに建設する菊地写真館に資金を本部から支出するという秘密文書の末尾には、右のような一文があった。 私はこれを名誉と考え、喜んで潔(いさぎ)よく軍界を去った。ここで兵古垂(へこた)れてはどうする。 決して負けないぞ、妻子よ、しばらく辛抱してくれと心の中で祈って眼を閉じた。
    (《望郷の歌 失意の道》P.91〜92)


     「満蒙の天地なんて、つまらない所じゃないか、帰ろう、帰ろう
     吉永留吉もようやく諦めて、泣いてばかりいる榮太郎を励ましながら、 ここまで辿り着いたとう次第である。
     「そうだよ、つまらない所だよ
    と私も相槌を打って笑った。
     働き盛りの男二人、なんとか食う道をつけてやらなければならない。 私自身も困っていたが、きょうの飯(めし)に困る程度ではなかった。 そこで思い出したのは旅順の阿部野利恭から聞いた話である。南満の沼沢にはスッポンが沢山いるが、清国人は忘人(ワンパ)と呼び不吉なものとして食べない。 日本では上等な料理で中々高価であるから、これをうまく長崎まで運べればしめたものである。 ところが今日まで成功した者がない。 大きなタンクを使えばよいかも知れないが、それでは算盤(そろばん)に乗らない。 箱に詰めて送ると、糞と小便にまみれて発酵して死んでしまうのである。 冬眠期なら安全だが、その時期には穴の奥に潜んでしまって捕まらない。 こんなわけで成功した者がなかった
    (《望郷の歌 失意の道》P.104〜105)


    海賊会社創立記

     「高景賢さん。 貴方と会うのも十五年ぶりだ。 あの当時を思い出すと、ひどく元気がないではないか。 本間君、君も意気地がないな
     「はあ、お恥ずかしいこです。 守田利遠少将の配下にいた頃は、満州を狭いほどに思っていましたのに……私たちがあれほど望んでいた勝利と平和というものが、こんなに情けないものとは思いませんでした。 戦争に勝つと同時に私は何もかも失ってしまったのです……
     「戦争に備えて準備するものと、戦争するものと、戦争後の建設事業をするものと、も一つ、平和を楽しむものと、どうも考えてみると、それぞれ専門があるようだね
    と私は笑ったが、彼等二人は神妙な顔をしていて笑わなかった。 本間徳次の態度は初対面の時より一層丁寧になり、控え目になった。
    (《望郷の歌 海賊会社創立記》P.122)


    二つの遺骨と女の意地

     これが縁となって水野福子という婦人と知合いになり、お互いに雑談に日を過すことになった。 そのうちにぽつりぽつりと身の上話を語りはじめた。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.137)


     「私は群馬県高崎市の在に住む農家のもので、水野福子と申します。 主人は水野八次郎といって、明治二十九年の徴兵で高崎連隊に入り、三十二年に除隊しました。 除隊後に親から田畑を分けてもらって分家し、私と結婚したのです。 愛情も深く野良仕事にも熱心で、これといって不幸はなかったのですが子供が出来ません。 これがただ一つの不足でした。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.137)


     ところが大きな不幸というものは突然来るものですね。明治三十七年の二月に第一師団に動員令が下って村から二人召集されましたが、その年の八月にも歩兵第十五連隊に召集されました。 前の晩には村の衆が集まって大変な歓送会でした。 宴が終ってから主人は私に、こんどの戦争は新聞でも判るように大変な戦争のようだ。 下手をすれば日本の国が亡びてしまう。 露助の奴が国に暴れこんで来るかも知れないんだ。 俺も生きて帰ることは出来ないだろう。 戦死と聞いても取りみだしてはならんぞ、いいかこれが二人の持って生れた運命だ。 俺は今日までお前に何一つ不平がなかった。 ありがとうよ。 ただ気の毒でならないのは、子供がないことだ。 俺の戦死した後、お前は一人で暮さなければならないねえ……と言って涙ぐみました。 私も主人に縋りついて泣き明しました。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.137〜138)


     明治三十八年の三月、奉天会戦大勝利が村に伝わったのが十日でした。 村の衆は鎮守様に集まってお礼参りをし、万歳の声が夜半まで続きました。片輪でもよいから帰って来てもらいたい……神様、それが、かないませんなら腕一本でも……と心を籠めて祈りましたのに、三月の二十五日に戦死の公報が村役場から届きました。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.138)


     私は幾度か死のうと思いました。 父や母や兄弟から慰められて、毎日仏壇の前に坐りこんでおりました。 遺骨が白木の箱に納められ、白布に包まれて帰って来たのは五月でした。 村長を始め村の代表が大勢集まってお葬式を出してくれました。 ところが、どうしたことでしょう、それから一ヵ月後に、また主人の遺骨が帰って来たのです
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.138)


     私の欲しいのは生きている主人です。遺骨を幾箱貰ったって何になりましょう。 それにしても、何というひどいことをするんでしょうねえ。 私はその日から礼拝も焼香も止めました。 得体の知れない骨灰など要りません。 私は二つの遺骨の箱をまとめて風呂敷包みにして、自分で役場に返しに行きました。 役場では村長を始め皆の衆が大変同情してくれましたが、どうしても遺骨を引取ってくれないのです。二つのうちの、どちらかが間違いであろうから、問合せの返事のあるまで、大切に祭ってもらいたいと言うのです。 私はまた遺骨の箱を二つ提げて帰宅しました。 押入れの奥に納めて、もうお祀りをする気にもなれません。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.138)


     それからまた一ヵ月後のことです。 役場から取調書が届けられました。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.139)


     −−水野八次郎君の遺骨につき取調べ候所、其当時の取扱者判明せず、正確な事は申上兼ね候も、火葬後、灰骨を袋に収めたる際、水野君に付しありし表標を除去せざりしため、また採取せざるものと誤認し、他の取扱者が残骨を採取したるものと思われ候。 両方共に水野君の遺骨たることは確実と思われ候に付、左様御取扱い下され度候−−。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.139)


     なんという馬鹿な、情けないことでしょう。 私はくやしくて、くやしくて、泣きました。私の主人は一兵卒です。 ですがお国のために死んだことは、偉い将校さんたちと同じではありませんか。 そうでしょう。 将校さんは奥さんにとって大切な御主人でしょうが、一兵卒でも私にとっては大事な夫です。 それなのに、私の主人は犬や猫の死体と同じように始末されたのです。 くやしくて、くやしくて……ようし、そんなことをするんなら、もう私はお国のお世話にはならない。 お父っつぁんやおっ母さんには済まないけど、家と田畑は姑に返して、家財は全部売り払って満州に飛び出して来たのです。 探し出せるものでないかも知れませんが、主人の埋っているこの満州に私の骨を埋めることが出来れば満足です。 私はもう郷(くに)には帰りません。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.139)


     奉天に来てから、すぐ戦死地を探しました。 公報に三十八年三月八日李官堡附近の戦闘で戦死と書いてありましたから、支那人の案内人を雇って李官堡という所に行ってみました。 行ってみたところが、二、三軒の百姓家と畑があるだけで、戦いの跡など何もないのです。 いたって平和な農村で、髪を振り分けて編んだ小さい女の子が、綿入りの綿服を着ぶくれて、不思議そうに私を眺めているだけです。 この農村をひと巡りしましたが、墓標らしい一本の記念物も見つけ出せずに帰ってきました。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.139〜140)


     これでは駄目だと思いましたので、当てにしていませんでしたが、領事館を訪ねて満州に来た目的を話して授けを請いました。 ところがどうでしょう、役人がにやにや笑って相手にもならないのです。 私はかっとなって、机の上にあった茶碗を投げつけて帰りました。 辺りにいた男たちの笑い声がまだ耳についています。 くやしくて堪りません。私は気違いでしょうか。 それとも、あの男たちが気違いなのでしょうか。 宿に帰ってからも口惜(くや)しさがこみ上げて来て、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.140)


     最後の手段として、この地の守備隊長に会って相談してみようと訪ねてゆくと、快く会ってくれました。
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.140)


     『御心中はお察しします。ですが奥さん、戦争というものは、奥さんのお考えになっているようなものではないのですよ。 そんなことを遺族の方々にお話しするには忍びないのですが、戦争というものは残酷な、無惨なものです。お互いに恨みも憎みもない者同士が、殺すか殺されるか、そんなことすら考える暇もなく、敵も味方も折り重なって死んでしまうのです。 砕け散って肉片になっているもの、黒焦げのもの、腐って発見されるもの、敵中に飛びこんで、敵の手で埋葬される者、発見されずに支那住民の手で始末さりる者、それはそれは千差万別で、実のところ、氏名が確認された者は幸福者ですよ。 それに、ご主人の亡くなられた奉天前面の戦いは十日間も各所で続けられたので、戦場の整理に手間取り、確認出来ない者が大変多かったのです。 人の霊魂ととうものは、なにも遺骨につきまとっているものではないでしょう。 あなたの心の中に生きておられると思います。そう信じて冥福を祈ってあげて下さい。 御主人の霊魂はあなたの行く末を案じていますよ。 早く郷へお帰りなさい。奉天には人間に化けた狼どもが、うろうろしています。 早くお帰りなさい』
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.140〜141)


     こう諭(さと)されて私は泣きました。 戦争というものは、そんなにひどいものでしょうか。そんなにひどいものだと知ると、その中で無惨に死んで行ったあの主人(ひと)が、いたわしくて、いとしくてなりません。 この年になって、娘のようなことを言うのは恥ずかしいと思いますが、私の気持は今でも変りございません。ひょっとしたら……生き残っていて、この辺りの街角でばったり会わないでもないと、夢のようなことを考えて、あてもなく歩くこともあります。 時々、ふと冷静になって、悪女の深情け、女の執念などという厭な言葉が冷たく背筋を走ることもありますが……本当にそうかも知れません
    (《望郷の歌 二つの遺骨と女の意地》P.141)


    海賊稼業見習記

     この根拠地の所在は秘密であって、貨物船を近づかせない。 獲物の船はまず無人の島陰に強制的に停止させ、そこで談判が始まる。貨物を全部渡すか、それとも保険料を払うかである。 出航前に漉局(ルーチー)に従価制で払えば安いのだが、このように漉局を無視して出航して捕えられた場合は、従価三割を貰うのが常例である。 貨物船の船員を殺すことは滅多にない。 反抗すれば別だが、雇いの兵士たちも殆んど抵抗しないそうである。数珠繋ぎにして根拠地から遠い海岸に揚げて釈放するのである。 このように殺す習慣がないから、海賊に襲われたら静かにして要求に応じさえすれば、生命が助かるという認識が一般化されているから、海賊船犠牲者を出さずに楽に仕事が出来るというわけである。 この場合に支払う金が準備されていないと貨物を没収して、これを荷揚げして売捌かなければならない。 これには手間と時間がかかり、危険も伴うので、従価三割程度の罰金を払わした方が望ましいわけである。
    (《望郷の歌 海賊稼業見習記》P.170)


    望郷の歌

     失意の身一つ、ほかには子供に持ち帰るべき土産物とてなく、日暮れて小鳥がねぐらに帰るように日本へ手ぶらで戻って来た。 母からの借金も使い果して返すあてもなかったので、母の家の敷居は高かった。 東京の赤坂青山北町六丁目四十二番の留守宅には、妻のほか一男三女が待っていた。 妻の顔を見るのがまぶしかったが、母も妻も私が無事であったことを悦び、弁解を聞き流してうなずくだけであった。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.182)


     家族にかこまれて数日を過すうちに私の気持も落着き、周囲の事情に調子を合せることが出来るようになった。もう動くまい。もう満州に渡るまいと決心して、子供の小さい手をひいて親戚を訪ねたり近所を散歩したり、上野、浅草の盛り場を楽しみ暮した。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.182)


     それから一カ月後のことである、奉天十間房鉄工所を経営している岡村鋭介という人が、これを資本金五十万円の株式会社に改組するため、松平容大子爵を委員長にして麹町区富士見町五丁目二十番地の自宅に創立事務所をおいた。 私は当時休養を楽しんでいたので気がすすまなかったが、是非参加してくれと頼まれて委員の一人になった。どうせ遊んでいるのだからと、軽い手伝いのつもりで毎日事務所に通い出した。 形だけの通勤だが、何かしら救われたような気持で通った。 暫く努めていたが、どうも様子がおかしい。 一向に仕事が進まないのである。 そのうち委員の一人である松尾平次郎という人が、ある日私の傍らに寄って来て小声で囁いた。
     「だめですよ、この会社は。どうも松平子爵の財産だけが頼りらしい。 私はご免蒙ります。 出資はお断りします
    と言った。 そして翌日から姿を見せなくなった。 当時は日本の経済界は、戦争による通貨の膨脹に悩み徹底的な金融引締めをとっていたから、資金の募集が困難だったのである。 こんなことがあってから私の足も自然と遠ざかって、時々のぞいてみる程度になり、その年の十一月には解散してしまった。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.182〜183)


     その頃また新しい話が持ちあがった。 創立された南満州鉄道株式会社の関連事業として、東洋運輸貿易株式会社を作ろうというのである。 発起人は、津久井平右衛門(横浜の羽二重輸出商)、安部林右衛門(日本塩業株式会社取締役)、鈴木久次郎(千葉県選出代議士)などで、私の叔父の男爵野田豁通(ひろみち)(当時貴族院議員)を創立委員長に祭りあげた。 叔父も初めのうちは気がすすまなかったが、満鉄総裁に就任した後藤新平(後の内務大臣、東京市長)が、かつては自分の家に斎藤実(後の海軍大将、総理大臣)と一緒に寄食していた関係もあって、直接後藤新平に意見を質(ただ)した。後藤新平は、満鉄にも日本の国鉄と同様に早晩そのような運輸会社が出来なければならないのだから、今から着手した方がよいだろうとのことだった。 そこで叔父も本気で乗出し、私を呼び出してお前も参加しろと言った。 私には自信がなかったし、満州と聞いただけでもう沢山であった。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.183〜184)


     「四十にして惑わずと言う不惑の歳になって、毎日ぶらぶらしとるのはだらしがない。三度や四度、失敗したからといって、そんなに臆病になるお前ではなかったはずだ。 しっかりせい
     「……………
     「満鉄も出来(でけ)たし付属地の統治方針も決った。 満州に太い柱が立ったようなものだ。 今まで後楯もなく掩護射撃もなしに、お前個人の力だけで苦労しとったのは気の毒だった。 わしは戦争前にお前が軍を退くと聞いた時、随分と迷った。あの時は国が生きるか死ぬかの瀬戸際だったから、わしも田村怡与造(大佐)に、承諾の返事をした。この戦さに勝ちさえすれば、お前の将来はどうにでもなると思ったからだ。 ところが勝ってみると世の中が、がらりと変ってしもうた。 軍も官も規則だ法律だと、えらいやかましいことを言って、お前を受け入れる余地がない。規則や法律で勝ったわけでもあるまいになあ……だが、ええさ、日本もイギリスやフランスと肩を並べる国になったんだからな。 お前も身分を義性にしたが、以て瞑すべしさ。 なあ、そうだろう
     「はい
     「ところで……どうする。 今は子供たちも小さいからええが、将来のためにそろそろ考えずばなるまい。 お前の年輩と経歴では内地の就職はむつかしい。 言いにくいことだから誰も言わんだろうが、正直に言えば、その通りなんだ。 どうだ、いま一度満州でやってみんかな
     「はい
     「お前はハルピンの支店長になれ。 ハルビンはお前にとって第二の故郷だ。 いやな土地ではあるまい。 落着いたら家族も呼寄せたらよい。 留守ばかりさせては気の毒だからな。 姉さん(私の母)には、わしから話す。 お前からは言いにくいだろうからな
     叔父はこう言って半ば強制的に引張りこんだ。 半ば……と言ったのは、私に全然意志がなかったわけではないからである。 日露戦争が終ってから間もなく、参謀本部の田中義一大佐に呼ばれて、満鉄ができたらそこで後半生をおくるように言われたことがある。そうなれば結構だと思っていたが、妙な行きがかりから横道にそれて、海賊の端くれにまでなり下ってしまった。 あれ以来、田中義一大佐にも義理が悪く、訪ねることも稀れになった。 叔父の運輸会社が出来れば、満鉄の傍系会社でもあるから最初の出発点に戻るわけである。満鉄を親柱としての事業なら将来性もあるだろうと考えて、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.184〜185)


     けれども金融界の引締め政策はその後も変わらなかった。 当初五百万円にした資本金を二百万円に減らしたが、それでも成立の見込が立たなかった。 二百万円を百万円に減らしたがまだ駄目で、発起人は一人去り二人去り、ついに叔父の野田豁通とその懐中刀(ふところがたな)の予備二等主計正石井要中村耕平と私のたった四人になってしまった。 ここに来るまでに叔父と石井要は私財を相当使っていたし借財もしていたので、解散も出来なかった。 私は無一文だからどうでもよかったが、叔父が抜き差しならずに困っているのを知って逃げ出すわけにいかなかった。
     叔父は石井要と相談の結果、更に資本金を半分の五十万円、つまり最初の計画の十分の一にして、ともかく出発することになった。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.185)


     次いで満鉄の嶋村調査役から、満鉄沿線の精密な地図が欲しいので手に入れてくれという密談があった。満鉄はロシアから日本に譲渡されたが、満鉄付属地と清国領との境界が不明瞭のままであった。ロシア側が精密な地図を日本に渡さないのである。調査費買収費も相当出すからという話であった。 例によって東清鉄道の庶務部長アブラミースキーに相談すると、すぐ保管場所や保管責任者が判明したから、報酬や受渡し方法などについて数回打合せをやった。 満鉄からは三千円ほどの運動費を支給された。 ところがその地図は大変に多量のもので、そう簡単に持ち出せるものでなかった。 あれこれするうち三月になった。 すると、日清通商公司の満州総支配人つまり私の上役の石井要専務から、
     「運動費ばかりとって地図引取りを実現しないのはけしからん。 満鉄に対するわが社の信用にかかわる。 即刻中止されたい。 満鉄の嶋村調査役にも話して諒解済みである
    と言って来た。 あとひと息というところだったから、私はすぐ大連に駈けつけて石井要に事情を説明したが、どうしても承知しない。 いろいろ聞いてみると、石井要が満鉄の注文で納めた防寒毛布一万着が不合格になって、莫大な損害になろうとしていたのである。 不合格の責任は明らかに当方にあった。山羊毛皮の注文であったのに、手に入り易い綿羊毛皮をごまかして混ぜたのである。会社の命取りになるというので、社長野田豁通男爵から直接、満鉄総裁後藤新平寛大な措置を依頼したが、担当の職員は解約を主張して譲らなかった。 解決できないままにこれが会社の致命傷になったのである。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.188〜189)


     どうしてこんな馬鹿なことをやったかというと、後藤新平が若い頃野田豁通の家に寄食していた関係があり、野田の発言があれば少しぐらいの問題は簡単に片付くものと、たかをくくっていたのである。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.189)


     ところがそうはいかなかった。当時満州には、有象無象の得体の知れない野心家や食いつめた浪人や内地を追われた敗残者がうようよしていたから、甘い顔をしていたら国策会社として初めて国外に踏み出した満鉄は食潰されてしまったであろう。 後藤新平と一緒に野田家に寄食していた斎藤実は、海軍大臣になってからも野田の前に出るとまるで書生のような態度で礼を尽していたが、これにひきかえ後藤新平は、全く対等の立場で友達づきあいであった。 山羊毛布の納入についても通りいっぺんの連絡を事務当局にしただけで、事件の渦中に入らなかった。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.189)


     一文なしになって国に帰るのはこれで幾たび目であろうか。 ハルビンの元菊地写真館には当時の支配人山本逸馬がいて商館を経営して成功していたが、彼の前に落魄の身を現わす勇気がなかった。 夜に入ってから一人秘かに街角に立って眺めると、写真館の大看板が取外されているほかは戦前のままであった。 燈火のついた窓に人の影が映っては消えた。 あの窓辺で二葉亭四迷沖偵介田中義一等と国の将来を憂えて語り合ったのは、つい先だってのことのように偲ばれて胸は塞がり、咽喉がつまった。 さようならハルビン。 私の前半生にも別れを告げる時が来た。 もう再びこの土地を踏むことはないであろう。愛琿の馬賊の女房お花と一緒に暮した粗末な洗濯屋は壊されて、その跡に新しい大きな建物が建っていた。 苦しくはあったが、その頃はよい時代だった。 国へ送り返したお花は約束を守って便りをよこさないが、必ずよい暮しをしているものと思う。
    (《望郷の歌 望郷の歌》P.196)






























    継続中