[抜書き]『勝海舟と明治維新の舞台裏』


『勝海舟と明治維新の舞台裏』
星亮一・静山社文庫
2011年9月5日 第1刷発行
    目次
    まえがき
    第一章 成り上がり者
      曾祖父は越後の人   父は名うての暴れ者   勝家に養子に入る   「おれの真似はするな」   海舟を溺愛(できあい)   江戸城本丸に上がる   ひどく貧乏   剣術と蘭学を学ぶ   アヘン戦争の外圧   ごろり二分(にぶ)

    第二章 長崎海軍伝習所を牛耳る
      阿部正弘(あべまさひろ)の功績   日本海軍の創設   諸藩から伝習生が集まる   偏(かたよ)った幕府防衛論   勝手気ままな伝習生   国家とは何か   年下のエリート監督   役人への反発心   長崎のお久さん

    第三章 船酔い“艦長”
      名君・島津斉彬(しまづなりあきら)の激励   訪米大使節団   海舟、また憤慨(ふんがい)   咸臨丸の出航   船酔いでダウン   ブルック大尉の航海日記   「おれは帰る」   大歓迎の日本人   大老暗殺   天敵、福沢諭吉   遊女屋の茶椀   ドル紙幣が散乱   死ぬときは死ぬ

    第四章 江戸幕府の混乱
      国際社会にデビュー   海舟の大出世   木村摂津守の夢物語   日本国海軍構想   龍馬に出会う   日本一の大先生   姉小路公知(あねがこうじきんとも)を説得   家茂の支え   神戸海軍操練所建設に奔走   姉小路暗殺される   まさに連合艦隊   海舟、軍監奉行に昇進   蛤御門(はまぐりごもん)の変   慶喜、指揮を執る   長州征伐へ   日本の植民地危機説   海舟、御役御免

    第五章 大二次長州戦争の舞台裏
      クーデターと薩長同盟   「勝は薩摩のまわし者」   突然の登城命令   幕藩体制の瓦解(がかい)   松平容保の苦悩   会津も犠牲者   倒幕に傾く薩摩   四境(しきょう)戦争   戦闘意欲なし   将軍家茂の死   最悪の事態   「慶喜に任せよ」   幕府は馬鹿者揃い   安芸の宮島   談判の裏事情

    第六章 正体不明の最後の将軍
      慶喜(よしのぶ)の人間不信   外国事情の研究   雲の上の人   松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が中に入る   複雑な血筋   小栗忠順(おぐりただまさ)とは犬猿の仲   不可解な死   孝明天皇の毒殺説   下手人は誰なのか   黒幕は岩倉具視

    第七章 薩摩の江戸放火作戦
      龍馬奔走   へそまがり慶喜の過信   大政奉還で江戸騒然   小栗が噛みつく   「幼い天子とは何事ぞ」   怯(おび)える慶喜   官兵衛怒る   「慶喜の命運は尽きた」   異様な武装集団   江戸に火を放つ   いざ鳥羽伏見へ   薩摩の砲隊、火を噴く   逃げ惑う幕府兵   新選組苦戦

    第八章 無血開城の秘策
      憐(あわ)れな将軍   陸海軍のトップになる   海舟の両面作戦   海軍が戦の切り札   山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の登場   西郷とトップ会談   会津を追放   慶喜謹慎   海舟と西郷の両雄会見   海舟の嘆願書   密室会談の真相

    第九章 切り捨てられた会津・奥羽越
      歩兵奉行・大鳥圭介(おおとりけいすけ)   裸の王様   終戦交渉を進める   彰義隊(しょうぎたい)を利用する   井の中の蛙(かわず)   たった一日で壊滅   海舟、襲われる   会津には冷淡   晩年の海舟   朝敵の汚名をそそぐ

    あとがき
    参考文献


    第一章 成り上がり者

     勝家に養子に入る

     小吉は七歳のとき、勝家に養子に入った。 勝家は禄高(ろくだか)わずかに四十一石、小普請組(こぶしんぐみ)の無役(むやく)だった。 江戸時代、俗に旗本八万騎といわれていたが、実際は五千二百人前後、御家人が一万七千人ほどだった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第一章 成り上がり者》P.22)


     旗本御家人の身分の差は、将軍に直接謁見(えっけん)できる御目見(おめみえ)以上が旗本、それ以下が御家人とされる。 禄高もかなり違う。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第一章 成り上がり者》P.22)


     当主・勝元良は旗本に属し、先祖が岡崎で家康の配下だったので、旗本のなかでも同心というワンランク上の階級だった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第一章 成り上がり者》P.22)


     しかし無役なので、これといった仕事はない小普請組という名称は、役をつとめさせないでただ禄を与えているのは困るから、お城の屋根瓦とか塀の崩れたのをなおす小さな普請を手伝わせるところから生れた役職だった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第一章 成り上がり者》P.22)


     海舟を溺愛(できあい)

     文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町の男谷の家で、小吉に長男が生れた。
     それが海舟である。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第一章 成り上がり者》P.25)


     この頃、小吉は男谷家に同居していた。 このとき、小吉二十二歳妻のぶ二十歳だった。
     子吉は相変わらずこれといった仕事がなかったので、何でもやった。
     傘張り提灯(ちょうちん)張り下駄の鼻緒しめ折箱づくり風船張り(うなぎ)の串削り、実に幅が広い。 相談事も大得意、ずいぶん人の世話もした。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第一章 成り上がり者》P.25)


     子育ては女房まかせだったが、海舟が稽古(けいこ)に通う途中、犬に金玉(きんたま)を噛(か)まれたときは、毎晩金毘羅(こんぴら)様に願を掛け、裸参りをして水を浴びて祈った
     それだけではなく、夜も昼も抱いて寝た
     幸運にも七十日で治ったが、小吉の看病ぶりは近所でも評判だった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第一章 成り上がり者》P.25)


     アヘン戦争の外圧

     海防を強化するには、どうしても蘭学の知識を必要とする。 こういう意味で、海舟の学問は時代にマッチしていた。
     「これからは鉄砲を自前で造らねばならぬ
     海舟は洋式銃の製造も始めた。
     これが伝わって、諸藩から野戦砲まで頼まれたため、野戦砲は川口の鋳物師に造らせることにした。
     鋳物は材料を手加減し、うまくごまかすことができた。 銅の代わりに真鍮(しんちゅう)を使うと安く仕上げることができたが、たちまち欠陥が露呈(ろてい)し、破裂した。
     あるとき、川口の鋳物師が来て、ごまかしを見抜いた海舟に対して御神酒(おみき)と称して五百両を差し出した。
     「なんだいこれは、俺の目は節穴じゃるえぞ。 お前さんに騙(だま)されはせんよ
     と突き返した。
     小吉だったら、さっさともらっていたが、海舟は厳しかった。
     これが幕府の海防掛目付・大久保忠寛(おおくぼただひろ)の耳に入り、海舟は幕府から注目される存在になった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第一章 成り上がり者》P.32)


    第二章 長崎海軍伝習所を牛耳る

     偏(かたよ)った幕府防衛論

     長崎海軍伝習所は全国から伝習生が集まり、順調な出だしだったが、たちまち幕府の悪い癖が出た。
     「諸藩の書生は教えぬ方がよい。 いつ我々に歯向かってくるやもしれぬ
     という偏(かたよ)った幕府防衛論が台頭し、諸藩からの入校は取りやめになり、翌年の二期生は幕臣の指定のみ十二人の採用となった。
     「馬鹿なことだ
     海舟は幕府閣僚の了見の狭さをせせら笑った。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第二章 長崎海軍伝習所を牛耳る》P.43〜44)


     国家とは何か

     「じゃ聞くが、江戸に六十万人のサムライがいるというが、話によると老幼まぜこぜで、そこには何らの統制はなく、これではいったん緩急の場合、国を防衛することは夢のような話と思える。 国家には敵が侵入したとき、力を合せて戦うという義務がある。 ところが、日本にはそうした観念はなさそうだ
     と言った。
     「えっ
     と海舟は言葉に詰まった。
     「なねるほど、まったくその通りだ。 今の日本は、外国にいつ占領されてもおかしくない。 防備など何もないからだ
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第二章 長崎海軍伝習所を牛耳る》P.50)


     海舟は愕然(がくぜん)とした。 中尉の捉え方は実にするどかった。
     「日本を攻めようとすれば、いかなる作戦をとるか
     と聞いてみた。 すると中尉は言った。
     「もし長崎を攻めようとした場合、一名の士官と四十五人の陸戦隊があれば、十分だ。 役人がすぐに降伏し、町の人々は素知らぬ顔で見過ごすだろう
     「まさか
     と思ったが、ここには幕府の軍隊はいない。 九州の諸藩に頼むしかないが、彼らが戦ってくれるかどうかの保証はない。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第二章 長崎海軍伝習所を牛耳る》P.50〜51)


     年下のエリート監督

     榎本はこのほかにも海舟に弱みを握(にぎ)られていたようで、以後、海舟の言うことはなんでも「ハイ、ハイ」と聞かざるをえなかった。
     戊辰戦争のときである。
     榎本は旧幕府艦隊を率いて、会津、仙台の応援に向おうとした。
     「行ってはならぬ。 お前は俺の傍におれ
     と、海舟に品川の海にととめ置かれ、向かったときは、すでに会津は敵に取り囲まれ手遅れだった。
     海舟は会津に冷たかった。 この理由はあとで考察する。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第二章 長崎海軍伝習所を牛耳る》P.52)


    第三章 船酔い“艦長”

     海舟、また憤慨(ふんがい)

     この人選が公表されたとき、
     「なんで木村が提督なんだ
     と、海舟は大いに憤慨(ふんがい)した。 軍監頭取の上に木村摂津守(せっつのかみ)がいたからである。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第三章 船酔い“艦長”》P.65)


     乗組員はおおむね順当だった。 欠けている人物がいたとすれば、榎本武揚(えのもとたけあき)と中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)だった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第三章 船酔い“艦長”》P.65)


     榎本長崎海軍伝習所与力蒸気機関学を学んでいた。 のちに幕府海軍副総裁蝦夷(えぞ)島政府総裁を務める大物である。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第三章 船酔い“艦長”》P.65)


     中島浦賀奉行所与力、長崎海軍伝習所の一期生で、榎本と同じ蒸気機関学を専攻していた。 のちに榎本に従って箱館に渡り、戦死する。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第三章 船酔い“艦長”》P.65)


     二人が外れた理由については諸説ある。
     一つは万が一遭難した場合、幕府海軍は壊滅的な打撃を受ける。 そうした配慮から二人は外された。 もう一つは二人とも海舟とどこかそりが合わなかったという説である。
     私は温存説をとりたい。 榎本はのちオランダに留学している。エースを一人残したということだろう。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第三章 船酔い“艦長”》P.65)


    第四章 江戸幕府の混乱

     神戸海軍操練所建設に奔走

     人間は然るべき後ろ楯(だて)を得ると、鬼に金棒である。家茂の支援があるので、もはや老中たちも文句は言えない。 自信を持ってなんでもやれた。
     この時期、海舟が接触したのは姉小路公知だけではない。 長州の井上馨(いのうえかおる)や木戸孝允(きどたかよし)らにも会い、
     「海軍興起こそ護国の大急務
     と説いた。
     龍馬が越前に出かけ、春嶽から海軍塾に五千両を出してもらった。 大金である。
     家茂も春嶽も、大胆に海舟を支えた。海舟が将軍家家茂をバックに日本海軍の建設に乗り出したことで、攘夷派も息をのんだ。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.101)


     操練所を開く神戸は兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた国内有数の港である。 庄屋を生島四郎太夫といい、気風(きっぷ)のいい男で、なんでも海舟に協力してくれた。
     「この土地は今はつまらない百姓家ばかりだけれど、早晩必ず繁華の場所になるから、地所をしっかり買っておけ
     と海舟が言った。 生島も半信半疑ながら土地を買ったが、果たして維新後、ここは大きく値上がりして、生島は大儲けしている。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.101〜102)


     海舟は各藩の要人と頻繁(ひんぱん)に会った。『幕末日記』にこうある。
      文久三年
      三月二十八日
      長藩志道聞多(しじもんた)(井上馨)、山県荘蔵(しょうぞう)来る
      同二十九日
      長藩山県半蔵(はんぞう)、桂小五郎木戸孝允)来る
      四月二十七日
      桂小五郎、対馬藩大島友之允同道にて来る

     山型荘蔵山型半蔵は長州藩士・宍戸●(ししどたまき)である。 江戸や京都で尊王攘夷論を展開、長州戦争のときは長州藩家老・宍戸備後助(びんごのすけ)を名乗り、幕府との交渉にも当たっている。
     ほかに土佐の吉村虎太郎会津小野権之丞(おのごんのじょう)、野村左兵衛松坂三内中沢帯刀らの名前がみえる。
    宍戸●(ししどたまき)、●は“王幾”で1文字。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.102)


     姉小路暗殺される

     海軍操練所を発足させるにあたり、海舟の気がかりは京都の騒乱だった。
     原因は孝明天皇の外国嫌いにあった。
    海防には理解を示されたが、それは外国人が嫌いなためだった。
     神戸に海軍操練所を開くのはいいが、外国人を日本に入れてはならない。 諸外国と結んだ友好条約を撤廃し、もう一度鎖国に戻せと、天皇は周辺に命じていた。
     これは無茶苦茶な話であった。
     「そんなことはできません
     と言えばいいのだが、将軍後見職の徳川慶喜がはっきりしない。 天皇の前に出ると、
     「いずれ異国人を追い払う
     などといい加減なことを言うので、混乱は深まるばかりだった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.102〜103)


     五月二十日の夜には、姉小路公知が暗殺されてしまった。 夜、御所を出たところで突然、襲われ斬られてしまったのだ。
     現場に残された刀から、薩摩の田中新兵衛が検挙されたが、取り調べ中に自殺したため、迷宮入りとなった。
     「なんたることだ
     海舟は愕然(がくぜん)とした。日本人はおかしい。 大いにおかしい。 海舟は涙にくれた。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.103)


     海舟、御役御免

     江戸へ帰った海舟は、御役御免となった。
     役高二千石も取り上げられ、元氷川の屋敷に逼塞(ひっそく)しなければならなかった。 まかり間違えば切腹ものだった。
     結局、幕府は言いがかりをつけて、海舟が考えた諸藩も含めた日本国海軍の建設構想をぶち壊したのだった。
     海舟は四十二歳になっていた。自分自身の運命の切り替えはもう無理である。 新しい日本国の建設を龍馬と西郷に託すことにした。
     自分の次の出番が来るまで、じっと世の中の動きを見守るしかなかった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.115)


     この時期、海舟は幕府上層部とともに京都守護職の会津藩にも批判的な態度をとっていた。
       会藩は、上に人物なく、下士激烈(かしげきれつ)、着落(ちゃくらく)なし、その規模殊(こと)に狭小(きょうしょう)、必ずや労して天下の大害を生ぜんまた憐(あわれ)むべし
     と『幕末日記』にあった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.115)


     情報が少なく、人物がいないと批判した。 そういう海舟を会津藩の首脳部は嫌った。
     「当事者には当事者の苦労がある。 海舟に何がわかるか
     と会津藩首脳は反発した。
     すべてがギスキズした関係になった
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.115〜116)


     会津の人々は、職務に精励だった。長州との争いは孝明天皇の命令である
     会津藩はその命令に従って行動した。 しかし、天下の情勢はますます複雑になり、見通しがつかなかった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.116)


     会津藩外交方これ以上、長州との摩擦は避けるべきだとして、
     「ここはいったん会津に引き上げるべし
     と、京都守護職の辞任を再三、幕府に求めた。
     「ならぬ
     いつも却下するのは慶喜だった
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.116)


     会津は最後の最後まで幕府に引きずられ、ついには少年や婦人までが武器を取って戦う悲惨な戦争に追い込まれていく。
     幕末の混迷の最大の犠牲者が会津だった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第四章 江戸幕府の混乱》P.116)


    第五章 大二次長州戦争の舞台裏

     幕藩体制の瓦解(がかい)

     「江戸の情勢はどうか
     と板倉が聞くので、海舟は、
     「幕府だけではこの国は成り立たない。 幕府も藩もやめて郡県制度に変えねばならない
     と力説した。
     幕藩体制の解体である。
     板倉は海舟の激論を聞いて当惑し、
     「郡県の議は急務にあらず
     と話題を変え、
     「実は薩摩は長州再征を拒んでいる。 会津は薩摩も撃てと騒いでいる。 これでは薩摩と会津の戦争になる。 双方の間に入って調停をはかってくれ
     と言った。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.124〜125)


     慶応二年一月、慶喜容保(かたもり)、京都所司代の松平定敬(まつだいらさだあき)、それに板倉との間で長州処分を協議し、十万石を削り毛利父子を蟄居(ちっきょ)させることを決めた。 勅命も得ていた。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.125)


     このとき、京都では孝明(こうめい)天皇の威光を背景に慶喜、容保、定敬のいわゆる一会桑(いちんいそう)政権が権力を掌握(しょうあく)していた。 一は一橋家の慶喜、会は会津、桑は桑名である。慶喜は腰抜けだが、会津と桑名は強硬である。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.125)


     だが、一会桑政権の言うことを聞く藩がなくなった。
     老中・小笠原長行(おがさわらながみち)が広島に向かい、長府(ちょうふ)、清末(きよすえ)、徳山岩国の四支藩の藩主、家老に伝えようとした。 ところが全員、病気と称して出てこない。
     ひとり長州藩の使者、宍戸●(たまき)が姿を見せただけだった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.125〜126)


     もはや幕府の権威はどこにもない。薩摩はむろんのこと、尾張越前広島阿波熊本などの諸藩も長州攻めには難色を示している。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.126)


     「長州再征はよくない。 いま国内で戦争をしている場合にあらず
     海舟が言うと、
     「会津がそんな話をきくはずがない
     と板倉は会津のせいにした
     「ともあれ、会津と薩摩に出かけてくる
     と言って、海舟はまず京都守護職屋敷に会津藩主・松平容保を訪ねた。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.126)


     会津も犠牲者

     人間は感情の生き物である。 純粋であればあるほど相手を憎悪する。
     長州もどこか似ていた。 まっすぐに突き進む藩同士が激突したのだ。 それを避けるのは京都を離れることだった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.128)


     海舟は自分の意見を書いて会津藩の外交方である公用人に手渡した。
     『会津家は誠実であるが、鎖国の旧弊(きゅうへい)に固執し、当今国内に形勢を察することが少ない。 幕府の処置にこだわり、時勢の変化に応ずるにうとい。 薩摩を疑って憎んではならない。 このままでは天下に一大紛争を来す恐れがある。 幕府としての職分と徳川一家のことは区別して対処すべきである
     としたためた警告書だった。 これについての返答はなかった。 会津藩も時代に翻弄(ほんろう)された犠牲者だった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.128)


     次いで薩摩の重臣に会った。大久保は姿をくらませ出てこない
     応接に当たった家老の岩下佐次右衛門は、
     「あなたが来れば、それでいいから
     と出兵拒否の書きつけを預けてくれた。
     これで自分の仕事は終ったと、海舟は大阪に帰った。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.128)


     安芸の宮島

     「長州に行ってくれぬか
     と慶喜が言った。困ったときの海舟頼みである。
     「子供の使いじゃございません。 全権委任でなければ、出かけません
     海舟が言うと、慶喜はしぶしぶ承知した。
     それではと、海舟は旅支度を整え、長州側と交渉しに広島へ向かった。
     海舟は誰も連れず一人で兵庫を出帆、八月二十一日に広島に入った。 会談場所の安芸の宮島である。 長州勢よりも早く宮島に渡り、旅館に入った。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.137〜138)


     三十日、広島藩家老の辻将曹(つじしょうそう)が宮島にやってきた。
     「連れはないのですか
     辻が聞いた。
     「連れておらぬ
     「それはいくらなんでもあんまりでござろう
     と辻は役人を二人つけてくれた。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.138)


     宮島には長州の兵隊や探偵が旅館の周囲をうろついていた。 遠くから旅館に向かって発砲する者もいた。
     婦人などは皆逃げてしまったが、海舟の泊っている旅館には老婆が一人残っていた。
     海舟は老婆に頼んで襦袢(じゅばん)をたくさんこしらえさせ、代わる代わる着替えた
     髪も毎日結い直させた
     「どうしてでございますか
     老婆がわけをたずねるので、
     「おれの首は、いつ斬られるかもしれないから、死に恥(はじ)をかかないためだ
     と言うと、老婆は「ひええ」と怖がった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.138)


     会談の場所は大願寺というので早めに行き、寺の大広間に端座していると、かれこれするうちに、長州から広沢兵助に八人の者が使者としてやってきた。井上聞多(もんた)(馨)、その頃は春木強太郎と名乗っていたが、長松幹(ながまつみき)もこのなかに加わっていた。 長松は記録掛、右筆(ゆうひつ)である。
     長州の方からは、大勢で堂々とやってきたのに、こっちは木綿羽織に小倉袴の小男の軍艦奉行が、たった一人控えているだけだった。
     長州勢は拍子抜けの表情だった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.138〜139)


     談判の裏事情

     海舟の『氷川清話』によると、談判は冒頭からきわめてなごやかなものだった。
     さすがは広沢である。 少しも傲慢(ごうまん)の風がなく、一同縁側に座って恭(うやうや)しく一礼した。
     「いやそこではお話ができませんから、どうぞこちらへお通りなさい
     と海舟が挨拶(あいさつ)した。 すると、広沢は頭をもたげて、
     「ご同席はいかにも恐れ入る
     と辞退した。
     「おれは全体ひょうきん者だから、かように隔(へだ)たっていてはおはなしが出来ぬ、貴殿がおいやとあれば、拙者がそこへ参りましょう
     と、海舟はいきなり向こうが座っている間へ割り込んでいった。
     すると皆、大笑いになった。
     「それでは御免をこうむります
     と広沢が応じ、一同広間に入って談判となった。
     本当にそうなのだろうか、だれしもが疑問に思うに違いない。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.139〜140)


     この談判、世間話で済むはずがなかった。 この場合、相手が勝者である。海舟から相当のものをもぎ取らなければ、長州に帰れないはずだった。
     海舟は幕府の惨敗を認めた
     「それならばよい
     と広沢らは笑みを浮かべた。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.142)


     しかし慶喜が、いかにもずる賢い策をあみ出した。 朝廷に頼み込み、将軍死去につき「暫時兵事見合」の勅旨を発してもらうことだった。
     これがあれば、天皇の命令による休戦である。 慶喜はこれを安芸藩に手渡し、長州に伝達せんとした。
     長州は拒否した。
     あとでこれを知った海舟は絶望した。
     慶喜は海舟を一時しのぎで利用したにすぎなかった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第五章 大二次長州戦争の舞台裏》P.142)


    第六章 正体不明の最後の将軍

     慶喜(よしのぶ)の人間不信

     海舟は九月二日夜、厳島を出帆し、翌日、広島に到着。 明石(あかし)から馬を借りて大坂に帰着、九月十日、上洛して二条城で慶喜に会おうとしたが一日中待たされ、翌日も御用繁多の理由で面会できなかった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.145)


     このとき、はじめて海舟は慶喜の裏切りを知る。
     慶喜もともと海舟を全面的に信頼はしていない。 海舟を薩長のまわし者と見ている。
     そこで慶喜は考えた。 もともとひらめきのある人物である。
     孝明(こうめい)天皇を利用して、長州を撤退させる策をあみ出したのは、誰の入れ知恵なのか、あるいは本人のひらめきかは分らないが、確かにしてやったりであろう。
     海舟は使い捨てだった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.145)


     外国事情の研究

     この頃、慶喜はオランダ留学から帰国したばかりの津田真道(まみち)、西周(にしあまね)などの国際法学者を傍(そば)において、外国事情を研究していた。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.145〜146)


     幕藩体制から郡県制度への大転換である。 それは新しい日本国の創生だった。
     ただし、それは海舟の考える日本国とは、まったく異なっていた。海舟の考える日本国では、薩摩も長州も含めた日本国のことである。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.146)


     慶喜の考えは、長州を含まない日本国だった。軍備を増強して長州は叩(たた)き潰(つぶ)す。 そうしておいて新生日本を創生する
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.146)


     本格的な内戦が起これば日本はどうなるのか。イギリスは薩長を支援している慶喜はフランスに頼っている。 その結果、日本は両国の植民地になるのではないか。 それでいいのか。 それが海舟の主張であり、危惧(きぐ)であった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.146)


     殖民他は考えすぎだが、蝦夷地(えぞち)あたりを失うことはありうる
     海舟は日本の前途を危ぶんだ。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.146)


     雲の上の人

     慶喜は生まれも育ちも雲の上の人だった。世界は自分を中心に動いていると錯覚していた。 下を思いやる気持ちなど、まるでない。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.146)


     それが結局は命取りになるのだが、海舟が慶喜に会えたのは三日目の十二日である。
     双方に心が通い合うものがなくなっていた。
     「安房(あわ)、大儀(たいぎ)
     慶喜はそれだけ言って、すぐに姿を消した。
     お前は首だという意思表示である。 海舟は茫然(ぼうぜん)とした。
     「馬鹿にしやがって
     海舟は軍艦奉行の辞表を書いた。 慶喜の心が読めたからである。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.146〜147)


     不可解な死

     慶応二年(一八六六)十二月十一日、内侍所御神楽(おかぐら)の挙行があった。
     孝明天皇は風邪気味だったが、無理して出席されたところ翌日十二日から発熱し、その後、高熱が続いた。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.153)


     二、三日、熱があって十七日になって痘瘡(とうそう)であることが分かった。 経過は順調で、二十四日にはかさぶたができ、「御機嫌よくならせられた」と発表があった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.153)


     二十七日には全快を祝う儀式酒湯(ささゆ)が予定されていた。
     ところが二十四日夜からにわかに容態が変化し、二十五日にはいよいよ悪化、同日夜には重態に陥(おちい)った。全身に黒い斑点(はんてん)が現れ、奇(き)っ怪(かい)の様相となった。
     懸命の治療の甲斐(かい)もなく、苦悶の表情で重態に陥った。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.153)


     僧侶も集められ必死に祈祷(きとう)を行った。 しかし意識は戻らず、孝明天皇はついに息を引き取ってしまった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.153〜154)


     「これはどうしたことだ
     容保も言葉を失った。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.154)


     突如病状が急変したことから、没後ただちに怪死の噂が流れた。毒殺されたというのである。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.154)


     歴史学者の石井孝(いしいたかし)は毒殺説を主張した。
     正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)は十二月二十六日の日記に天皇の死を伝え、翌二十七日の条に、
     「今度御悩中、御看養・御治療等の儀に付き、世上すでに唱(とな)うる所これあり、中外遺恨の儀これあり、定めてこの説生ずべきか
     と記し、治療、看護に手落ちがあったと世間は見ていると指摘した。
     これは暗に、毒殺説を遠廻しに表現したものだった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.154)


     またイギリスの外交官アーネスト・サトウは、天皇の没後数年、裏面の消息に通じているある日本人から、天皇は毒殺されたのだと聞いたと書いている。
     「これらは、明治初期に天皇の毒殺が公然の秘密として語られていたことの証拠だ
     と石井は強調した。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.154)


     戦前、孝明天皇の毒殺疑惑はタブーであったが、石井は一貫して孝明天皇毒殺説を唱え、これを曲げることはなかった。 これを扱った作品が、『幕末悲運の人びと』(有隣堂)である。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.154)


     孝明天皇の毒殺説

     孝明天皇の死に積極的に取り組んだ歴史学者に、ねずまさしもいる。
     ねずは「孝明天皇は病死か毒殺か」(『歴史学研究』一七三号、一九五四年七月)で見解を披瀝(ひれき)した。 それは次のような内容だった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.155)


     孝明天皇の痘瘡は順調に回復しつつあった。 ところが十二月二十四日夜より下痢(げり)状態となり、(は)き気が強く、二十五日午前10時頃から容態が悪化した。
     睦仁(むつひと)親王が正午前、見舞いに参内した。 その後、
     「御九穴より御脱血、実に以て恐れ入り候御容体
     という病状になった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.155)


     医師たちは手を尽したが、回復の兆しがなく、加持祈祷(かじきとう)に頼るほかはなく、護浄院(ごじょういん)の湛海(たんかい)権僧正が参内し加持に当たったが、その効なく、ついに天皇は不帰の客となた。顔はむごたらしい死相であったというものである。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.155)


     ねずが用いた史料は、『中山忠能(ただやす)日記』湛海権僧正の日記など、いずれも信憑性(しんぴょうせい)の高いものであった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.155)


     その後、典医の一人である伊良子光順(いらこみつおさ)の曾孫の光孝が、曾祖父のしたためた記録の所在を名乗り出た。 そこにも毒殺を匂わせる表現があった。
     天皇は七転八倒、ひどく苦しまれ、腸管からの「脱血」があった。 医師の誰もが直感したのは急性毒物中毒症状である。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.155)


     それは石見銀山(砒素系劇薬)を飲んで死ぬ症状とまったく同じだった。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.156)


     下手人は誰なのか

     具体的に下手人の名前が出たのは、昭和十五年(一九四〇)七月、大阪で開催された日本医史学会関西支部例会だった。 医史学者の佐伯理一郎が、
     「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視(いわくらともみ)が、女官に出ている姪をして、天皇に服、毒を盛らしたのである
     とし、さらに、
     「自分はある事情で、洛東鹿ケ谷(ししがたに)の霊鑑寺(れいがんじ)の尼僧となった当の女性から直接その真相を聞いたから、間違いない
     と断言した。
    (《勝海舟と明治維新の舞台裏 第六章 正体不明の最後の将軍》P.)






















    継続中