[抜書き]『カミと神』


『カミと神』アミニズム宇宙の旅
岩田慶治・講談社学術文庫
1998年6月22日 第9刷発行
    目次
    『学術文庫』版まえがき
    一 カミをたずねる旅−−序にかえて
      1 旅立ち
      2 旅の心得帳
      3 眼の高さについて
      4 山のぼりの比喩
      5 身体と宇宙
      6 新アニミズムの立場
      7 境界のない世界
    二 菩提樹のもとで
      1 共生の世界像
        スリランカの菩提樹     聖なる動物たち     アジアの宇宙観
      2 川の声・水の言葉
        川の思想     人間これを水とみる     死をめぐる想像力
      3 音・時・言葉
        音以前のところ     ほんとうの時間     禅と詩と言葉
      4 アニミズムとシャーマニズム
        アニミズムと一神教     シャーマニズムを見なおす
      5 宇宙人間の誕生
        宇宙人間と機械人間     自分マンダラ     宇宙船地球号と地球マンダラ     空海の宇宙
    三 空からの眺め
      1 空中思考
      2 無色と雑色
      3 原風景の構図
      4 知の原型
      5 知の折りかえし地点
      6 ギブ・アンド・テイクの向こう側
      7 偶然と必然−−時間・その柄と地−−
      8 神を映す三つの鏡
      9 ほんとうの空間
    四 神々の地平
      1 魂と他界
        鎮魂の場     魂とは何か     他界とは何か     参与するということ
      2 カミと神
        民族のカミ観念     カミ、その発端     私という時・空の構図     文化のなかの神
    五 神のトポロジー−−カミ以前・カミ・神・神以後−−
      1 カミと神を結ぶ座標
      2 神以後・カミ以前
      3 カミと神の空間構造
    六 地球マンダラを目ざして
      1 全体直感
      2 「入れ子」構造の本質
      3 宇宙人間の構図
      4 地上にマンダラを描く
    七 見えない椅子−−あとがきにかえて−−
    解説 山折哲雄
    初出一覧


    一 カミをたずねる旅−−序にかえて

     2 旅の心得帳

     (1) 「千里をゆく者は、三月糧(さんげつかて)をあつむ」、つまり千里の遠方まで旅をしようとする者は、三ヵ月かかって食料をあつめるということ。 この『荘子(そうじ)の文章を、わが芭蕉(ばしょう)はこう読みかえた。 「千里に旅立(たびだち)て、路粮(みちかて)をつゝまず」と。 いうまでもなく、これは『野ざらし紀行』冒頭の文章であるが、ここに芭蕉の並々ならぬ覚悟がこめられているように思われる。 かれは、「腰間(えうかん)に寸鉄を不レ帯(おびす)、襟(えり)に一嚢(いちなう)を懸(かけ)て、手に十八の珠(たま)(じゅず)を携(たづさ)ふ。 僧に似て塵(ちり)あり、俗に似て髪なし」、という尋常ならぬ出でたちで出発したのである。 万事万縁を投げ捨てて旅に出たのである。捨てるということが、旅のはじめに越えなければならない最初のハードルだったのである。
    (《カミと神 カミをたずねる旅−−序にかえて》P.16)


     今日の状況を見ていると、人間の知というものに方向性がある。 かならずしも幸福とはいえない方向への傾向性があるように思われて仕方がないのである。
    (《カミと神 カミをたずねる旅−−序にかえて》P.28)


     (6) 記録する、記述する、あるいは描写するさいの「単位」について考えておきたい。 風景にたとえると、どういう図柄、どういう構図をえらぶかということである。 もちろん、描写の「単位」にきまりがあるわけではない。一本の樹を描かなくても、枝一つ、幹四、五本、あるいは根だけを描く。 一つの山、孤立峰を描かなくたって、ならび立つ山を描き、山なみを描いてもよいことはいうまでもない。 折れた枝だって、崩れた山だって、そこに美の全容が露呈していることに変わりはない。 画家は、そういうばあいにも、常にある姿の全体を感じとっていめのであろう。
    (《カミと神 カミをたずねる旅−−序にかえて》P.28〜29)


     6 新アニミズムの立場

     ここでもう一度、備忘(びぼう)のためにカミと呼ぶものの本質について復習しておきたい。
     かつて『草木虫魚の人類学』(昭和四十八年、淡交社)を書いたときに、新アニミズムの立場として述べたことを要約したい。
    (《カミと神 カミをたずねる旅−−序にかえて》P.46)


     一般に、アニミズムAnimism)と呼ばれている宗教の形は、あらゆる宗教の基盤によこたわっている、もっとも原初的なカミ観念にもとづくものだとされている。シャーマニズムも、多神教も、一神教も、この宗教的な土壌のうえに成長したものと考えられている。 しかし逆にいえば、それらはもっとも萌芽(ほうが)的な、未開な、あるいは野蛮なものの見方で、その後の文化の発達にともなって克服されてしまったカミ観念とも見なされている。 そういうアニミズムを再検討し、再評価し、そのなかにもっとも大切な意味を発見しようというのが、当時の私の意図であった。 アニミズムの再興を企てたわけである。
    (《カミと神 カミをたずねる旅−−序にかえて》P.46)


     ラオスの地方にいくと、住民は仏教信仰とならんでアニミズムのカミ観念を根づよくもち伝えている。ラオ語で精霊をピーphi)というが、かれらは、巨石にも、大樹にも、川にも、虎にも、ヘビにも、水牛にも、その他もろもろの生物、無生物にピーが宿っていると考えている。 すべての生物、無生物に宿っているわけではないが、あやしく、力強く、不思議なものはすべてピーを宿していると考えているのである。
    (《カミと神 カミをたずねる旅−−序にかえて》P.46〜47)


    二 菩提樹のもとで

     1 共生の世界像

     聖なる動物たち

     かつては人間と動物のあいだに通じあうこころがあり、共存する世界がひらかれていた。 今日では自然を守れ、生態系を破壊するなという声はあるが、それらの目ざすものはあくまでも人間中心の秩序なのである。すべての生きものを家畜化しようとする思想なのである。 そこには宗教心の発露(はつろ)にもとづく、想像力の自由なひろがりは、まったく見られない。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.61)


     2 川の声・水の言葉

     死をめぐる想像力

     マレー半島中部に住むスムライ族の他界は、西方はるかかなたに位置するスルガという名の山である。 もちろん、この山を現世から見ることはできない。 歩いてたどり着くこともできない。 しかし、死者がそこへゆくことは確かである。 その証拠に、死者をおさめた棺のそばに、ひと包みのランプを置いておくのである。死者は、やがてみずから立ちあがり、米をもちランプをさげて、スルガに向かって旅立っていく。 そのために、死者はその足をスルガの方向に向けて埋葬しなければならないという。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.78〜79)


     昨年(昭和五十七年)の夏、スリランカ高地の町ヌワラエリアにある植物園をたずねた。 そこで三代つづいて働いているという老園丁(えんてい)が親切に案内してくれたのであるが、かれの案内はいっぷう変わったものであった。
     「この花の名前は」、「あの木の原産地は」といったありきたりのものではなくて、木の葉、草の葉をちぎっては手のひらの上でもみほぐして、その匂いをかがせてくれるのである。これがセージ、これがミンツ、この茶の匂いは、この草の香りはどうですか、といった具合に、名も知らぬ草木の匂いをかいでまわった。
     その木、その葉、その花の形を見わけ、その名前を覚えようとしていたのでは、表と裏が、光と影が、形あるものと形なきものが、どうしても一つにならない。 しかし、かれの手のひらに顔を近づけて、もみほぐされた草葉の深い匂いをかいでいると、そこから不思議な世界がひらけてくるように思われた。 あの世でもない一つの世界。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.79)


     3 音・時・言葉

     音以前のところ

     朝ごとにつく臼の音が、そのあたり一面にこだまする。 その音を聞いて働く女性たちがたのしくなり、村びとがたのしくなる。 それだけではない。 この心地よい音は、もともとは、屋根裏部屋の大籠のなかにいる稲魂(いなだま)、つまり稲の神を喜ばせるためだったのである。 眼には見えない神をよろこばせる。 そのためには心地よい音が、音楽が必要だったのである。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.81)


     マレー半島の中部、ベラ湖のほとりにスムライ族という民族が住んでいる。 私はかつてこの民族をたずねて、プバリンという名の奇妙な道具を見た。 それは一言でいえば二枚羽根のプロペラで、その両端に竹笛がついていた。 羽根の長さはそれぞれ約一メートル、プロペラは支架によって支えられ、風に向かって自由に向きを変えるように工夫されていた。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.81)


     村びとの話によると、村のなかでもっとも高い木の梢にプバリンをとりつけると、風とともにブーン、ブーンと音を立てる。 この音によって、遠方の森のなかにいる狩人が自分の村の所在を知る、ということであった。音の灯台ということであろうか。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.81)


     村びとの説明はそうなのであるが、私としては若干疑いを残している。 いくら森のなかとはいえ、先祖代々同じ土地に住んでいる人間が、道に迷うなどということがあるだろうか。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.81)


     そうなってくると、プバリンの音は何を意味するのだろうか。 ひょっとすると、それは他界への信号であり、また、他界からの呼びかけなのではなかろうか。 いずれにしろ、この奇妙な道具であると同時に楽器であるものの発する音、そのうなりのなかに、もっともっと近づき、耳をすませてみたいのである。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.81〜82)


     われわれは日ごろ、言葉という眼にも見えない網目、言葉というクモの巣のとりこになって、局限された、不自由な生活を強いられているのであるが、実は、言葉の向こうに声があり、声の向こうに音があり、さらにその向こう側に、音以前の世界があったのではないか。 その音以前の世界から、音が生まれ、音が誕生し、言葉がよみがえってくるのではなかったろうか。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.82〜83)


     ほんとうの時間

     こういう時をまえにして、時、あるいは時間について考えることは意味のあることではなかろうか。 時を、また時間を、時計とカレンダーだけにまかせておくわけにはいかない。 われわれの生活をめぐって、いくつもの時があり、時間についての考え方の型がある。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.83)


     その一つは、区切りとしての時間である。 旧年を送り、新年を迎える。 その区切りの日が大みそかであり、元日である。正月もともと稲作のリズムに由来するもので、稲作作業の休止期間、つまり農閑期のほぼまんなかにあたっていたものであろう。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.83〜84)


     東南アジア稲作民族のあいだでは四月が旧正月にあたるが、この時期がまさに農閑期なのである。 正月だけでなく、年二回の祭りも、冠婚葬祭の日どりさえも、その多くが稲作のリズムに対応していたのである。 当時は、稲が、そして自然の運行が、時計だったのである。 もっとも、同じ稲作民族でも、山住みの焼畑(やきはた)栽培民になると正月という区切りをもたないところがあるから、そこでは時が違ったふうに流れていたことになる。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.84)


     一日という区切りにしても、今日では一日は二十四時間として疑う人はいないが、かつては昼と夜を別々に数えていた。 マレーシアのある種族は、今日でも、一日(サトゥ・ハリ)、一夜(サトゥ・マラム)と別に数えているし、わが国の古い習俗も同様だったことが知られている。 「かがなべて夜には九夜、日には十日を」(『古事記』)という数え方が、つまり、それなのである。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.84)


     その二は、一方向に、矢のように飛び去っていく時間と、円環状に、繰りかえしあらわれる時間である。 生年月日を登録し、建国の歴史を記録して年号をつける。 こういう時間は旅ゆく人の時間に似ている。 時間というレールのうえを歩むのである。 これに対して繰りかえす時間はブランコのように往きもどりし、季節の交代のように反復してあらわれてくる。人間の生と死が交代しながら連続し、この世とあの世を往来しながら生きつづけるというのも、この種の時間のうえのできごとである。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.84〜85)


     同じ直線としての時間にしても、民族によって重点の置き方に違いがある。 東南アジアの山地に住む少数民族は、山の背にとりついて村をつくり、焼畑耕地をつくって陸稲(おかぼ)を栽培しているが、数年ごとに新しい土地を求めて移動しなければならないというきびしい生活を強いられている。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.85)


     4 アニミズムとシャーマニズム

     アニミズムと一神教

     アニミズムと呼ばれている宗教がある。
     この耳慣れない言葉を理解するには、日本古代の神々について述べた『古事記』の文章が参考になる。 つまり、その当時は「草や木がそれぞれに言葉をしゃべり、国土のそこここで岩や、石や、木や、草の葉がたがいに語りあい、夜は鬼火のようなあやしい火が燃え、昼は群がる昆虫の羽音のように、いたるところでにぎやかな声がした」というのである。 人間生活をとりまくすべて、生物も無生物も、それぞれに魂をもち、言葉をかわしていたというのである。 こういう自然と神のとらえ方、それを一般にアニミズム、つまり精霊信仰と呼んでいる。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.92)


     東南アジアの国々、たとえばラオスの地方にいくと、今日でも村人はこれに似た考え方をしている。 山には山のカミがいる。 石にも、木にも、水にも、洞窟にも、また、ヘビやトカゲ、虎や水牛にも、舟にも家屋にも、それぞれにカミが宿っている。村人はこれらのカミの動きを見守り、その怒りを招かないように用心ぶかく行動し、ときには供え物をそなえてご機嫌をうかがっている。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.92)


     シャーマニズムを見なおす

     なんとなく、しかし、ひしひしと感じられる現代文明への不安といらだたしさ、閉ざされた未来に対するやり場のない焦燥感、それらが他方において超能力へのあこがれを生み、オカルト・ブームを招き、ひいてはシャーマニズムへの関心を呼びおこしているのかもしれない。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.97)


     シャーマンというのは、長年の苦労と修行のすえに忘我(ぼうが)、脱魂(だつこん)の技術を身につけた人をいう。 魂を神の住む天上世界に飛翔(ひしょう)させたり、神を身体にとりこんでみずから入神したりすることによって、運勢を占い、予言し、託宣し、悪霊を払い、病気治療をする。 そういう能力を身につけた人である。
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.97)


     ところで神は「この世」に住んでいるのではなくて「あの世」にいるのだから、シャーマンは「この世」と「あの世」のあいだを自由に往来することのできる人といってもよい。 シャーマンは、したがって「この世」と「あの世」の境界に立つ人でもある。 あられもない姿、狂乱したふるまい、異常な言葉は「この世」のなかにあって「あの世」を演出し、演技しているのである。演技といっていけなければ、それがいわゆる神がかりの本質なのである
    (《カミと神 二 菩提樹のもとで》P.97)






















    継続中