復刻版 16/08/17
旧同窓会サイト(www.ocj−ob.com)に掲載していたページを覆刻しました。

一部にリンク切れがあるかも知れません。
また、お問合せ先住所・メールアドレス表記等は当時(2006年)のままとしてあります。
(16/08/17 /五十嵐)




 日本オリベッティ同窓会/アルハデフさんの思い出

平成18年10月28日、サンスターグループ主催によるカルロ・アルハデフ氏の「お別 れ会」&「偲ぶ会」が、『京都ホテルオークラ 翠雲の間』にて開催されました。
オリベッティのOBの方への招待もあり15名が参加しました。

また、平成18年11月17日、東京南青山『カ・アンジェリ』にて有志による偲ぶ会が 開催(31名参加)されました。
それらのスナップ写真と、寄稿していただいた「アルハデフさんの思い出」をまとめた冊 子が完成しました。

冊子は寄稿された方々と『カ・アンジェリ』の偲ぶ会に参加された方々へは、郵送されま した。
ご希望の方には、実費(千円)にて送付します。お問合せ及び郵送先は以下の宛先にお送 り下さい。
    〒103-0025
    東京都中央区日本橋茅場町3−2−2 EKKビル6F
      株式会社 アイタックシステムズ
      池田 裕
      h.ikeda@itacsystems.co.jp
       メールアドレスは、倍角表示してあります。半角にして送付して下さい。


目 次 
 青嵜 仁 献杯の挨拶
 井上 清 心豊かな人間の追求を伝承していきたい
 清水 素郎 アルハデフさんを偲ぶ
 寺師 宗隆 あの日のこと
 高岡 晴朗 アルハデフさんの思い出
 佐久間 満 日本オリベッティ創業者 カルロ・アルハデフ社長の思いで
 石原 憲一 アルハデフさんのお使い
 木下 三郎 アルハデフ氏の思い出
 森 茂男 私が教育をやるようになったのはアルハデフさんの任命だった
 小串 澄子 アルハデフ初代社長の思い出
 中村 恒夫 思い出深いアルハデフ社長からの電話
 成本 一郎 アルハデフさんの迅速な決断があったからこそ
 上田 登穂 アルハデフさんの思い出
 池田 裕 心に残る奥深い言葉




『献杯の挨拶』 ・ ・ ・ 青嵜 仁
     献杯に際し、故アルハデフさんの思い出について、一言述べることをお許し願いたい と存じます。6月のはじめに井上 清さんから電話があり、{私たちにとってかけがえの ない方がなくなりました}、とアルハデフさんご逝去の第一報が入りました。9月のオリ ベッテイ同窓会で久しぶりにお会いできるものと信じ、かつ大きな期待をもっていたのに、 その突然の訃報に、驚きのあまり、二の句を継ぐことができませんでした。

    10月の末、京都でサンスター主催のアルハデフさんとのお分れの会と偲ぶ会が催されまし た。オリベッテイ社創業のころ、特に故人と親しく交流があり、その影響を強く受けてい るオリベッテイの元社員も招待され、都合のつくもの13名が出席しました。一方、主催 者のサンスター社からは幹部の方々80名がお見えになりました。その会では、元オリベ ッテイを代表して、井上 清さんと中村 恒夫さんから、それぞれ立派な挨拶をしていた だきました。

    アルハデフさんがサンスター社の社外重役として、10数年の長きにわたり、ヨーロッパ市 場への導入、発展に尽力されて、サンスターの金田会長をはじめ大勢の幹部の皆様へ大き な影響を遺しておられ、そして一様に慕われておられたことを、私はこの会に出席して初 めて理解しました。

    日本において、アルハデフさんに接し、その薫陶を受けたのは、日本オリベッテイの我々 だけだと思い込んでいて、だからこそ、かけがえのない人であったのですが、同じように サンスターの方々もアルハデフさんと親しくお付合いをされ、かけがえのない指導者と評 価しておられたのですね。オリベッテイのわれわれだけの偉大な指導者と信じ、敬慕の念 を抱きつづけていたのに、我々よりかなりの長い年数、サンスターの方々はアルハデフさ んとビジネス上の、或いは人間同士としての交流があったわけです。このことを知ったと き、実は軽い嫉妬に似た思いが心をよぎったことを白状しなければなりません。

    さて、偲ぶ会ではサンスター社の主だった方々の挨拶があり、そのなかで、ひとりの方が、 アルハデフさんは原理原則を大事にされていましたと話されました。その瞬間、私は、45 年昔のある光景を思い起こしました。

    昭和37年の春の頃だったと思いますが、その頃は社長室の隣りの控えに秘書、輸入担当の 針生さん、渉外担当の伊藤 哲郎さん、それに人事の私の4人が詰めていました。

    その頃、東京オリンピックの組織委員会から、ローマオリンピックの前例に倣いプレスセ ンターの設営とその運用をすべてオリベッテイで遂行するよう委嘱を受けていました。

    会社では、日本青年館の1階大ホールにプレスセンターを設けるためのデザイや、関係方 面との折衝など着々と準備を進めていました。その担当が伊藤さんでした。

    ある日、オリンピック組織委員会に呼び出された伊藤さんは頭を抱えて帰ってきました。 理由を聞くと、プレスセンターの一切をオリベッテイ一社にお願いしていたが、いろいろ 内外の意見もあり、IBMとOLIVETTIの二社でプレスセンターを設営、運用して  欲しいとの提案があったとのことでした。そして、今から、この事をアルハデスさんに報 告し、承認してもらわねばならないと、重い足を引きずって社長室に入ってゆきました。

    間もなく、出てきた伊藤さんの顔は一層、悄然とした面持ちでした。

    伊藤さんが言うには、今からオリンピック組織委員会へ、プレスセンターの仕事は全て返 上する、オリベッテイとしては手を引くと告げに行かねばならない。折角、日本の社会で オリベッテイの知名度を高める機会にもなり、何よりも社員に、わが社は国際的に高く認 められているのだと認識してもらえるよいチャンスと期待していたのに、それがすべて消 えてしまう、というのです。そして、アルハデフさんの考え方を手短かに説明してくれま した。それによると、社長の見解は極めて簡単、明瞭、立派に筋の通ったものでした。

    すなわち、プレスセンターの件はこちらからお願いしたものではない。組織委員会から是 非ともすべてをお任せするからと、お願いされたものです。それではと、引きうけて立派 な仕事をしようと、努力をしているところです。

    ここに来て、協力は50%でよいとの申し出は、全然筋が通りません。すぐ、断って来な さいとの指示であったのです。先に、サンスターの方が挨拶でのべられたこと、まさに原 理原則を大事にするアルハデフさんの真骨頂でした。

    伊藤さんは半ば、あきらめの風情で組織委員会へ出向きました。 ところで、戻ってきた伊藤さんの顔は出て行くときと、打って変わって、喜色満面、小躍 りして部屋に飛び込んできました。組織委員会は自分たちが悪かった、申し訳け無かった、 プレスセンターはオリベッテイで全面的に設営、運用をして下さい、改めてお願いされた とのことでありました。

    昭和39年の東京オリンピックのプレスセンターはかくして、オリベッテイによって立派に 準備され、運用されとことは、皆さんご存じのとおりです。プレスセンターの開所式のお り、私の隣にいた中野 弘さんがオリンピックという大きな国際行事の一翼をオリベッテ イが担っていることを社員が知って自信をもっでしょうね、と語りかけたときの事を今も はっきりと記憶しています。

    献杯の挨拶が長くなりましたが、アルハデフさんはこのような形で、当時の我々、若き社 員に感化を与えてくれました。

    それでは、わがアルハデフさんのご冥福をお祈りして献杯を致しましょう。 

         以上

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『心豊かな人間の追求を伝承していきたい』 ・ ・ ・ 井上 清
    まずアルハデフさんについて語る前に、アルハデフさんと共に日本オリベッティの創業に 携わり、その基礎づくりに努力、貢献された0期生に改めて感謝申し上げたいと思います。 特に、アルハデフさんの片腕として創業時に渉外面を担当した伊藤(哲郎)さん、人事、 採用面を担当した青さき(庄村)さん、代理店との営業面を担当した清水さんや寺師さん、 今回は残念ながら出席できませんでした女房役の木本さん、そして堪能なイタリア語を駆 使して本部体制の基礎作りをされたいまは亡き戸村さんや加瀬林さん。この0期生の苦労 と貢献があってこそ、その後の日本オリベッティの発展があったことを我々は忘れるわけ に行きません。また私にとっては、よき同僚、よきライバルであった故鈴木義治さんや故 山口進さんを抜きにしてアルハデフさん時代を思い出さずにはいられません。
    アルハデフさんとの思い出をお話しする前に、まずは、0期生の方々に感謝の意を表した いと思います。
    では、つぎにアルハデフさんとの数多くの思い出の中から、特に印象深い出来事をお話さ せていただきます。
    (1) アルハデフさんとの最初の出会い
      アルハデフさんとの出会いは強烈なものでした。就職先もすでに内定していた1961年 の秋口のことでした。仲間と麻雀するために大学構内を出ようとしたところでなぜかアル ハデフさんとバッタリとお会いしました。そのとき、アルハデフさんは一生懸命、オリベッテ ィの設立やオリベッティそのものについてプレゼンし、その挙句、帝国ホテルでもっと詳 しくお話したいと熱っぽく誘われました。結局、麻雀を断り、話を聞きに行きました。とは いえ、英語の読み書きはともかく、話せない私には会話が成り立たず、筆談でのやり取り による対話。ところが、アルハデフさんの筆跡は秘書の方でさえ難儀された芸術的(?) 代物、理解するのにとても苦労したのを覚えています。
      英語が不得手なのにこのオリベッティ社ではどの程度の英語力が必要かとたずねたところ、 「英会話は一切関係なく、私が日本語を勉強して日本語を話すのがこれからのグローバル 会社だ」との答えに感動しました。当時、そのような会社は皆無でした。で、即、入社を 決めました。すぐに内定先にお断りした後、3月のオリベッティ入社を前に猛烈にオリベ ッティ商品の勉強をしたのを、今でもよく覚えています。
    (2) アルハデフさんの人間性
      入社以来、アルハデフさんとの長いお付き合いが続きましたが、アルハデフさんからは 多くの財産を得ることができました。私はいま、アイタックシステムズという会社の代表取 締役会長をやっていますが、この会社の経営理念は「自利利他」(自利とは利他をい う)を掲げています。つまり、相手に満足いただくことが自分の喜びというアルハデフ さんの教えを基本としています。
      我々社員一人一人に対して、社員が満足して楽しく仕事がやれるには何が必要かを考 え、個々の社員の成長を何よりの自分の喜びとされていました。常日頃、社員全員、特 に第一線の人たちには自分から温かく語りかけていました。年に一、二度しか会わない ような社員の名前もよく覚えていて、直接に社員に向かって話しかける。なかなか普通で はできないことを彼は実践し社員の感動を得ていました。その反面、マネージャー・クラ スには大変に厳しい方でした。とにかくコミュニケーションという点では、天才だったと思 います。言葉や文化の違う環境にありながら常に相手の視点に立ってコミュニケーション を交わそうとする姿勢は、まさに感服そのものでした。
      このように私は、アルハデフさんの日本滞在約6年の間に非常に多くのことを彼から学び 取りました。
    (3) アルハデフさんの喜び
      アルハデフさんに喜んでもらったことが二つありました。私がグループリーダーになった 時、毎朝、「何か問題はないか?」と聞かれ、日本人の口癖で、「何も問題なく、がん ばっています」と答えていたものの、あまりにもしつっこいので「課題がひとつ」と口に した途端彼の眼が輝きました。一人ひとりが自らの力で課題をキャッチし、その解決に向 けた行動を起こす人をアルハデフさんは何よりも望んでいました。
      二つ目の喜びは、赤字部下が自分の努力により課題を解決し、見事黒字になったことを報 告したときです。アルハデフさんは眼を輝かせ心から喜んでくれました。
    (4) アルハデフさんのコーチング手法
      上司が部下に対して指導する際に、アルハデフさんから教わった大切なことがあります。
      それは、問題の有無、結果の是非、条件を問わず部下の一人ひとりが課題を見つけて 自ら解決する心構えと意気込みを習慣づけることが大切なのだと教わりました。さらに、 個ではなく、チーム全員が目標を達成してはじめて真の上司としての評価を得られるのだ、 ということを強く学びました。赤字人間を黒字人間にコーチングしていくのがアルハデフ さんのやり方で、それがマネジメントにとっていかに重要であるかを教わりました。その マネジメント手法は、いまでも私の財産として守り続けています。
    (5) 最後に
      我々一人ひとりがアルハデフさんから頂戴した多くのかけがえのない財産を今後は、後 輩たちに継承し、また、金銭的に貧しくても心の貧しい人間にだけはならないように、心 豊かな人間の追及を伝承していきたいと思っています。


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『アルハデフさんを偲ぶ』 ・ ・ ・ 清水 素郎
       私は昭和37年4月に入社し、代理店部に配属されました。社内での講習が終わり、 私の担当する地域は四国と決まりました。代理店部長のシモーネさんから四国4県にある 代理店にゆき販売援助をする様に言われました。其の当時直販はやっと販売体制が整つた ばかりで、代理店の売り上げが会社にとって重要になるからとの事でした。高松、松山、 高知、徳島、に一週間ずつ滞在して代理店の販売援助をするのが大きな目的で各代理店か ら注文を取り本社に連絡するよういわれました。そして、アルハデフ社長からも励まされ、 勇躍出発しました。一ヶ月、二ヶ月と廻り、少し状況も分かり、代理店の社長、営業マン とも親しくなりました。然し一ヶ月の内四週間は四国にいて、やっと本社に帰ると又、直 ぐ四国に飛び出さねばなりません。妻帯者で子供のいる私は、家族と過ごせるのは二、三 日だけで、四国で社用の為拘束されていました。之は大変な会社に来てしまったと思いま したが、会社は発足したばかりで、こんな不満は口にする時間もありませんでした。人事 部はありましたが、社員の採用ばかりやっており、社員の福祉などは考えていない様でし た.勿論之は労働基準法違反です。こんな仕事を二年近くやりました。遂に小さな子供か ら忘れられ、おじさんと呼ばれた時には愕然としました。然し仕事は私に合ったのか、面 白くなり夢中で働きました。
    従って、厳しい、そして人使いの荒い社長、というのが私の最初の印象でした。
    何時の事でしたか、アルハデフ社長が地方の代理店を一度訪問したいので、同行する様言 われました。早速計画をたて三日間位で、静岡。山梨、長野、の代理店に行くことにしま した。三県の中に7軒の代理店がありました。いざ代理店を訪問すると、社長はどの店か らも歓迎を受けました。それは社長の人柄からくるものと私は感じました。田舎の代理店 の社長と直ぐ打ち解けて、にこやか話す態度が好感を持たれたのです。実はこれから私が 述べるのは仕事のことではありません。代理店を辞して、旅館に着いてからのことです。 当時、これ等の地域にはホテルがなく、宿泊は全て日本式の旅館を利用せざるを得ません でした。食事も、寝室も、寝具も、全て日本のスタイルです。旅館に着いて、浴衣に着替 えると入浴をしたいと言うので、私は家族風呂に案内しました。こちらの方が洋式に近い と思ったからです。然し、暫くすると帰ってきて、ここには大きな風呂あると聞いたので、 そちらに行きたいと私に言うのです。ところが大きな風呂場には他の宿泊客も入っており、 私も一寸困りましたが、社長命ですのでそこえ連れて行き、二人は裸になり浴場に入りま した。すると他の客は、いきなり180センチの外国人が入ってきたので驚いて、風呂場か ら出てしまいました。私の予想どうりでした。其の為、私達は二人だけで入浴することに なりました。然し、社長は初めてこんな風呂に入るらしく、私の方を見て、私の所作を真 似します。止むを得ず、私は上がり湯の前に座り、石鹸で体を洗い、お湯でキレイに流し てから湯舟につかりました。社長も私のした通り体を洗ってから湯舟に入り、私に言いま した。 Very good system こうして湯舟に入れば、お湯が汚れないか ら良いと言うのです。私も笑いながら社長の言葉に肯いていました。然し、このお風呂事 件については続きがありました。
      一週間位後で、社長は今度は東北地方へ出かけました。同行者は戸村さんでした。同 じ様に旅館に泊まり、二人で大きな風呂に入ったそうです。ところが戸村さんはお湯を一 杯か二杯体にかけると、ザブンと湯舟に飛び込みました。すると社長から叱声のイタリヤ 語が飛んできました。どうして貴方は体を洗ってから湯舟に入らないのですかと。帰京後、 戸村さんがボヤク事、ボヤク事、清水さん社長に何を教えたのですかと。
      こんな事を重ねながら私達は代理店廻りをやり、すっかり社長と意気投合し、何でも 隠さず話し合える人間関係を築く事が出来ました。そして前に書いた私の不満もいつの間 にか霧消してしまいました。楽しい、懐かしい、思い出として残っています。

                                                        清水素郎

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『あの日のこと』 ・ ・ ・ 寺師 宗隆
    昨年の秋、故アルハデフさんが日本で最初に訪れた東京青山のイタリアンレストランで開 かれた「故アルハデフさんを偲ぶ会」の席で、技術の上田さんがアルハデフさんと取り交 わした雇用契約書を披露してくれた。上田さんのアルハデフさんとオリベッティへの熱い 想いが強烈に伝わってきた。と、同時に上田さんの今日までの人生の一端を垣間見たよう な錯覚に囚われた。
    そういう私もアルハデフさんと取り交わした雇用契約書を大事に保管している。日付19 61.9.28住所.帝国ホテル315室。当時私はチェイス・マンハッタン銀行に勤務 していた。人を介してアルハデフさんに会い入社を薦められ、5回ほど彼と面接の機会を もった。最終日いよいよ雇用契約書に署名する段になって、契約書に記されている初任給 の額が面接時に知らされた初任給の額よりも¥6,000低くなっているのに気づいた。 即座に署名を拒否して席を立とうとしたら、アルハデフさんが“誰がその金額を貴方にい いましたか?”と聞いてきた。過去5回の面接にはシモネさんとも2回会っていた。しか し私は”オリベッティです“と答えた。すると即座に彼は契約書を自分の方に手繰り寄せ て、面接時に知らされた金額に訂正した。その決断の速さに私は多少驚きながら、彼の手 先を見つめていた。0の左上にボールペンが髭のような線を引いて0が6の数字に変わっ た。そしてその時私はオリベッティの何かに惹かれていた。

      (1) 入社して2年後の1963年の2月大阪支社の会計機グループ・スーパーバイザーに 任命された。それまではシモネさんと全国をまわって代理店探しをしたり、大阪支社開設 の準備のためアルハデフさん直属のもと北沢、星野、細川、和賀氏等となんでも屋的なこ とをやっていた。そしていよいよ腰を据えて仕事をするにあたって、スーパーバイザーの 辞令を社長室に呼ばれて手渡された。その時のアルハデフさんの言った言葉は今なお心に 残っている。「今日から貴方は墨汁をたっぷり含んだ筆となって和紙に墨をたっぷりと染 み込ませて下さい。私が貴方に染み込ませたように。」なんとモティベーションを高める 言葉であり、責任の重さを重々感じさせる言葉であったろうと、今でも思う。日本人の心 に響く、強い説得力のあるメッセージだった。

      (2) 東京オリンピックの年に私の長男が誕生した。産まれてきた時腎臓の働きが鈍く、 ひどい黄疸症が出て集中室に移された。そのことが東京の留守宅から伝えられたのが、ち ょうど月末の締め日であった。仕事に集中しようとしても、どうしても注意力が散漫にな りがちだった。その時アルハデフさんから電話が入った。電話口に出るといきなり厳しい 口調で「直ちに東京に帰って来なさい。妻、子供が苦しんでいる時にお前は一体なにをし ている!!」そう言って電話は切れた。恐らく私に秘書が見かねて本社の社長秘書木本さ んに事情を伝えたのだろうと思ったが、秘書には問い質さなかった。その日の午後板付飛 行場から羽田へと向かった。羽田に着いてみると、なんと社長の運転手菊池さんが私を迎 えに来ていて、社長命令だといって私を羽田から直接妻と長男が居る病院へと直行してく れた。家庭と仕事、この二つを束ねた人生に向かう姿勢を問い質された思いで、それまで とは違う感覚が体に広がった。そして目の前に新しい視野が広がっていくのを感じつつ、 充実した思いに満たされていた。

      (3) 福岡勤務中のある年に特約店からの100万円の手形が不渡りになった。それこ そ所員一同が一丸となって商品の確保など対策に走り回った。無事在庫品は押さえたもの の、その後半年に及ぶ回収努力も空しく代金は回収できなかった。その結果についてはこ とあるごとにアルハデフさんに追求された。回収できないものはできないとして答えよう がなく、ただただ自分でも分けの分からないことをぼそぼそと言うだけであった。それが ビジネスでは一番いけないことであることと分かっていても、どうすることもできなかっ た。ますますアルハデフさんの追求は厳しさを増し、あたかも傷口を塩を擦り込まれてい るようで、我慢の限界を越えて爆発しそうになったこともあった。ちょうどその頃福岡信 用金庫で預金窓口処理に会計機を5台検討していた。新品を売るには予算が半分しかなく、 中古品の売込みをもちかけたところ意外と話が進み、5台総計125万円で商談が成立し た。納品も終わり講習も終わって代金125万円も入り一応セールスは終了した。その頃 またアルハデフさんから不渡りについての経過報告を求められた。塩が擦り込まれる痛さ を跳ね返すように、少々開き直った気持で、損失の百万円は、信金に中古のAUDIT413 を5台売ってその代金でカバーしたつもりです。と答えた。会計処理としては中古品の販 売は営業所の売上には計上されず、本社の中古品部に計上するシステムとなっていたので ある。だからこそ少々力みながらアルハデフさんに損失は補填しました。と言えたのであ る。それを聞いてアルハデフさんは、その件については話を打ち切った。その日の夕方ホ テルへの帰り際に明朝ホテルで朝食を一緒にとるから来るようにと言われてその夜は別れ た。翌日はホテルで朝食をしながら、珍しくもほんとに珍しく仕事の話は一切なく、当時 の日本の政局について質問されたように記憶している。食事をすませて飛行場へと向かっ た。途中で封をしていない封書を手渡されて本社の故加瀬林さんに送るようにと言われた。 今から本社に帰るのにおかしなことをするなあーと思いながら、問い質すこともせずにそ の封書を営業所に持ち帰った。封もしてない、わざわざ私に手渡す、どうも気になりなが ら封書の中の手紙を取り出して読んでみた。なんと、故加瀬林さんへ福岡の中古機械販売 を福岡営業所の売上に計上するようにとの指示の手紙であった。特別の計らいである。こ うなると一つ一つの仕事の、それがどんなに小さなことであっても、本流から離れた仕事 であっても会社にとっては価値があることを教えられた思いであった。人間の本質に潜む 救い難いエゴ、欲望を一掃するような迫力を感じさせた一通のメモだった。

    こうして書いていると次から次といろいろな事が思い出されてくる。全ての思い出が人生 の本質に直面させられ、考えさせられたことであることに気づく。そういうこともあって か、アルハデフさんは私の人生の師であり且つビジネスの師でもあったという思いが強い。 こういった感情は私一人が感じているに過ぎず、独りよがりの自己満足、自己陶酔かもし れないと思うこともあった。しかし、それが昨年の秋、そうでないことを確信するに至っ た。帝国ホテルで開催されたオリベッティ同窓会には600名に迫る旧友が集い、その後 開催された名古屋、仙台での会も盛大だった。皆がオリベッティが好きなのである。学校 を卒業して初めての社会生活をオリベッティでスタートし若き血をたぎらせてすごした青 春時代、その時の様々の経験が彼等のその後の人生における大きな原動力となっている。 そのことを彼らが一番良く知っている。だからかくも多くの人が集まってくるのである。 それほどアルハデフ イズムが組織全体に浸透していたのである。そしてまた同じく昨年 の秋、日本にアルハデフさんを深く尊敬している会社が日本オリベッティの他にもあった ことを知った。そして私の思いが自己満足でも自己陶酔でもないことを再度確信するにい たった。ご存じない方もいらっしゃると思いますが、アルハデフさんはオリベッティを辞 められてからサンスターの海外進出担当役員として20年余り世界各地で活躍されていた。 そういう関係もあってサンスターの会長がアルハデフさんの家族をイタリアから招いて、 昨年11月京都のホテルオークラで盛大な「故アルハデフさんを偲ぶ会」を行った。オリ ベッティからも招待され青崎さん、井上さん、中村さん等15名が出席し会場は150名 余りの人々でいっぱいだった。会場の人々を眺めながら、この日本でオリベッティの人間 が知らないところでアルハデフさんを愛し、尊敬している多くの人がいることを知って驚 き、瞬間嫉妬に似た感情が心を掠め、俺たちの方がもっとアルハデフさんのことは知って いるのだと自尊心を傷つけられたような錯覚を心の隅で瞬時感じていた。だが直ぐに、人 生のある時期をそういう人物とともに過ごせたことに今迄以上の誇りを覚え、その幸運を ひしひしと感じていた。

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『アルハデフさんの思い出』 ・ ・ ・ 高岡 晴朗
    セールス・トレーニング・スクール(大森、新宿、目黒)のインストラクターをしていた 或る時期、私はアルハデフさんに直接レポートをしていました。
    まだ目黒の社屋に、スクールと技術しか入っていなかった頃、アルハデフさんは新宿から、 時折、監督・視察に来られました。インストラクターの部屋に入ってこられ、キャビネッ トの上を指でなで、ほこりがたまっていると、叱られました。また、ある時、メモ紙を望 まれて、ちょうど切らしていて、A4の白紙を差し出したら、もったいないと、返されま した。
    当時、インストラクターは、スクールがないとき、人事選考をヘルプすることになってい ました。最終面接に、アルハデフさんやマルケロさんが、お出になった時期がありました。 ある応募者に対して、アルハデフさんが、「君は、日本オリベッティで、将来なにになり たいかね」とたずねられ、その学生が「金持ちになりたいです」と答えると、アルハデフ さんは、机をたたいて、「我々もみなそう思っている」と言われました。私はそのとき、 気持ちが、すごーく開放されるのを、覚えました。
    1962年5月、日本オリベッティ最初の社員旅行が、箱根小涌園で行われました。大広 間での宴会に先立って、アルハデフさんがスピーチをされました。私が、吹き替えを、命 ぜられました。
    目黒の社屋に全機能が移ってからのことですが、残業をしている私のところに、妻が長女 を連れてきたことがありましたが、アルハデフさんが退社されるとき、娘に気づかれ、 「ちょっと待ってなさい」と、社長室にもどられ、キャンディやクッキーをたくさん持っ て来られ、娘に下さいました。そして私に、小声で、「私が子供のとき、父の会社に遊び にいったとき、こうやってお菓子をもらうのが、楽しみだった」と言われました。こんな ことが、2、3回あったように記憶しています。
    私と妻のミツ子は、社内結婚の第1号でした。結婚披露宴には、アルハデフさん、奥様の ノラさん、他に、イノチェンティさん、マルケロさん、グエリーニさんらにも、ご出席い ただきました。ノラさんが、花嫁姿のミツ子を、好奇心とやさしさのこもった眼で、見つ めておられました。
    アルハデフさんは、私にとって、一言でいいますと、慈父です。

    高岡 晴朗

    2006年11月28日


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『日本オリベッティ創業者 カルロ・アルハデフ社長の思いで』 ・ ・ ・ 佐久間 満
    企業は人なり
    アルハデフさんは“企業は人なり”を信条として経営された方であったと思います。
    あるとき、人事のプロモーション(スーパーバイザーへの昇格人事)について私の考えを 聞かれました。単純な私はスーパーバイザーになる人は営業の場合は営業成績が抜きん出 ている人、技術は技能に優れ、顧客からの信頼度が高い人であるべきだと答えました。
    管理者の人選はそれだけで決めてはいけませんと、ヤンワリ否定されてしまいました。
    プロモーションの対象者は担当する仕事を良く知る必要はあるけれども、その人の現在の 業績で評価するのではなく、部下たちの能力と業績を伸ばす資質を備えていて、人格的に 信頼のおける人であるべきだとおっしゃいました。
    管理者にはリーダーシップと人格を求めるというものでした。
    以降、私も人選するときの基本にさせていただきました。

    気配り
    驚くほどの“気配り”をされ、されたほうは一挙に尊敬してしまう本当にカリスマ性の高 い人でした。
    私が入社したのは設立からまだ日の浅い昭和37年1月1日です。
    翌38年1月には技術研修第一期生(4人)としてイタリアへ派遣されました。当時は海 外渡航する人はごく限られていて、私たちの研修派遣が新聞(英字新聞)に載りました。 1ドル360円の時代で、持ち出せる外貨は最大300ドルでした。
    我々の飛行機にはドネッティ氏(京都大学を出て日本オリベッティに入社したイタリア人) と結婚するために渡伊する北畑さん(大阪の北畑さんのお姉さん)も同乗していました。
    初めての海外渡航で不安を覚えていた私達や北畑さんにアルハデフさんは自分の社用日程 を合わせていただいたのです。南回りの長い長い飛行時間でしたが、途中何度も声をかけ に来ていただき、コックピットの中まで連れて行ってくれました。(貴重な写真が残って います)
    社長のイタリア滞在期間は数日であったにもかかわらず、不案内な私達を気遣って何度も 食事に付き合っていただきました。


    三成金属の渡辺社長の思い出
    [三成金属(株)渡辺社長によるエピソードです]

    (1)アルハデフ社長とベルトリーノ部長は生涯の恩人
    創業当時、私は金属製のデスクとか台などを作る中小企業で働いていました。
    日本オリベッティが創立されてすぐに彼の恩師のバジョーさん(サレジオ学園の先生)に 連れられて日本オリベッティの事務所を訪ね、アルハデフさんとベルトリーノさんにお会 いしました。
    会計機や計算機用のペデスタルをオリベッティに供給できるかどうかを尋ねられ、所属し ている会社として喜んで請けたいと言ったところ、オリベッティが全面的に支援するから 貴方自身で製作企業を立ち上げなさいと言われました。
    同席していたバジョウさんにも薦められましたが、会社を設立するための資金を全く持っ ていません。 資金がないので会社を興すことは出来ませんと申し上げたところ、資金は オリベッティが貸しましょうと言って飯郷さんと山口さん(当時の総務部長と経理課長) をオフィスに呼び、その場で小切手を切っていただいたのです。
    当時の金額で6百数十万円(今の価値に換算すれば7千万円くらいの大金)でした。
    当然、担保なしです。本当にビックリしました。神様のような方々だと思いました。
    このとき、この方々の信頼を絶対に損なわない仕事をしようと私は心に誓いました。
    以後、主に会計機や計算機のペデスタル関連の仕事をさせてもらって、3年で返済するこ とが出来、今日まで事業を続けさせていただいています。日本オリベッティ、アルハデフ 社長とベルトリーノ部長は私の生涯の恩人です。

    (2)新潟代理店と佐渡訪問旅行
    日本オリベッティが設立されてから間もない時期でした。アルハデフ社長、ベルトリーノ 部長、バジョウさんと渡辺の4人で新潟、長岡の代理店を訪問し、佐渡を旅行したことが あります。 
    代理店訪問後、私の故郷である佐渡に渡りました。佐渡を旅行した理由は相川というと ころに“社員のための保養地を探すことが目的だ”と聞きました。相川は大変美しいと ころだとアルハデフさんはどなたからか聞いているようでした。
    創業間もないあのような時期に社員用の保養地を探しているとは、思いもよりませんで した。当時の世相からすれば自分たちの常識をはるかに超えた会社であり、社長さんだ と感じ入りました。
    佐渡ではいろいろな所を回りましたが、小木(オギ)という港では、たらい舟に挑戦し ました。
    アルハデフさんはたらいには乗りましたが、ふらついて落ちそうになり、怖がってすぐ に上がってしまいました。一方、ベルトリーノさんは漁師から海ヤスを借りて、大きな タイを2匹も獲って大喜びでした。
    この旅行の費用は私(渡辺)が立て替えていたのですが、旅の終わりに、かかった費用 の額をアルハデフさんに聞かれました。 金額を申し上げたところ、アルハデフさんは 小切手を取り出し、スラスラと数字を書き入れて手渡してくれました。何と、かかった 費用の倍の金額が記入されていました。 私はこんなに費用を使っていませんと言いま した。すると、渡辺さんだけではなく、“島では渡辺さんの親戚や知り合いの方々にも 大変お世話になったので貴方からお礼を言ってください”とおっしゃいました。 何と 気配りをする方だろうと思いました。 こんな人が世の中にいる現実が信じられないく らい感激しました。 しかも小切手はアルハデフさんのポケットマネーだったと後でバ ジョーさんから聞かされ、さらに驚きました。(このあたりのことは木本さんが良く知 っているそうです)


                       平成18年12月
     佐久間 満


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『アルハデフさんのお使い』 ・ ・ ・ 石原 憲一
    私は1962年に新卒一期生として入社しました。 その時の面接は大学ではCarlo  Bertolino氏とT.伊藤さん、帝国ホテルではMr.Alhadeffでした。面接ではたいし た話もなかったのですが、私が"I like Italy very much, because I am a great admirer of Arturo Toscanini"と言ったところ、すぐ入社契約にサインしろとのこと でした。マスコミ志望で、NHK、フジテレ、それとコネでTBSを受けたのですが、合格 できなくて、がっかりしていたところでしたので、即サインをしました。その後合格 していた某旅行社からの誘いも大きかったのですが、イタリアに憧れていたこともあ り、Olivettiに決めました。

    その年は3月入社と4月入社の二組に分かれたのですが、躊躇なく3月入社を選び1 981年10月に子会社TCECを去るまでほぼ20年間Happyな時を送らせていただき ました。

    世界最大の加算機メーカー、ヨーロッパ最大の計算機メーカー(当時の売り言葉)に 入社しながら、会計機という世界でどんな位置になるのか分からない部門に参加し、 Mr.Fioreが常に間に立っていたので、Mr.Alhadeffとの直接の思い出は余りありま せん。最初の思い出は、入社した年の11月に結婚したのですが、その時Mr.Alhadeff から直接お祝いを戴きました。カワセ・ビルの6階の社長室です。(それにしてもあ の部屋は暗かった!)

    彼は私に何歳になるか聞きましたので、「23歳です」と答えたところ、「23歳は スタートによい年だ。私も23歳で結婚した」と言って喜ばせてくれました。

    これは新宿会で申し上げたことですが、Mr.Alhadeffとは、会議などでの通訳は何 度もしましたが、どちらかと言うと通訳しやすい人ではありませんでした。その点 Mr.Cohenはとても通訳しやすい人でした。

    Mr.Alhadeffの在任中はビジネス上のことはMr.Fiore経由でしたので、あまり直 接のコンタクトはありませんでした。焼津市農協が昭和39年だか40年に日本で農 協として初めてコンピュータ・システムを導入した時も、Mr.AlhadeffはMr.Fiore任 せでした。

    Mr.Alhadeffと直接のコンタクトがあったのはむしろ彼が離日してからのことです。

    彼がイギリスの社長であった時、たまたまItalyへの出張がありました。 上部から の命令(?)でLondon経由で行けとのことです。理由はMr.Alhadeffにカメラを二 台届けることなのでした。1台は普通の35mmのNikon, もう1台は当時としては 大変珍しいNikonの水中カメラでした。

    この頃の日本を代表する工業製品であったカメラは外国人には垂涎の的だったので す。

    Londonの税関で大変な問題になりました。カメラ一台ならともかく二台とは何事だ! というわけです。私は用意していた答えを流暢な(?)英語で、"Oh, this one is for black and white films and the other is for color films"と述べたところま では良かったのです。まるで犯罪者(実際に密輸犯ですが)のようにじろじろと私を ねめまわすように見ていた税関の担当者は想定外の質問をしてきました:「で、この 水中カメラにはどうやってフィルムを装填するのだ?」。

    カメラは渡されただけで、取説など見ていなかった私は返答に窮し、カメラをガチャ ガチャいじくりまわしましたが、一向に裏蓋が開きません。税関の係員は、まるで鬼 のような形相になり、「おまえちょっと、こっちへ来い」と私の腕を抱えて取調室へ 引っ張っていきました。

    取調室は2時間ドラマで見る取調室と同じですが、ただ一つ違うのは、窓が高いとこ ろにあり、鉄格子がはまっていて、そこからは蜘蛛男でも逃走は不可能なことです。

    このまま異国の牢獄で臭い飯を食うことになるのかとドギマギしましたが、とにか く、イギリスを出国する時には持って出るからの一点張りで、あとは質問された英語 の内容が分からない振りをして虎口を逃れました。釈放(?)の条件として出国の際 にはかならずカメラ二台を持ち出すことと言うことで、出国便まで調べられました。

    そのことをBarclay Squareにあったイギリス・Olivettiの社長室でMr.Alhadeffに 言ったところ、「わかった、それじゃ二台ともイタリアへ持って行け、あとはなんと でもなるから」とのことでした。イギリスでのMr.Alhadeffとの思い出はこの程度で す。ただ彼の秘書の、当時流行り始めたウルトラ・ミニ・スカートのことの方が凄 かったかもしれません。

    次にイタリアのDEOSA(Direzione Estremo Oriente e Sud Africa 極東及び南ア本 部)の長になったMr.Alhadeffの依頼は、当時日本で完成し商品化された携帯テレ ビを持っていくことでした。Milanoの当時の通関は日本人に対しては結構うるさいも のがありました。1968年に故安藤君や金田君と一緒に行ったときも、安藤君のか ばんが調べられ、中から規定以上のタバコが出てきて、税関を口説くのに苦労した覚 えがあったから、なお更恐ろしいことでした。しかし、Mr.Cohenから「何も心配す ることはないから」と言われ、ドキドキしながら、Paris経由でMilanoのLinate空港 に着きました。Linateは当時ボーディング・ブリッジがなくて、飛行機から入国審査 場まではバスです。バスの中に税関の制服を着た人が乗り込んできました。「ヤバ イッ! こんなところで検査されたら豚箱行きだ」との思いが浮かびました。

    この職員、私に近づいたと思ったら"Signor Ishihara?"と聞くのです。"Si'"と答え ると「君の持っている荷物を預かるから」と言ってこの携帯テレビを持っていってし まいました。

    まわりの乗客からはジロジロ見られましたが、一安心の入国でした。まわりには「こ いつ税関とグルの密輸犯だ」と思われたことでしょう。

    これはMr.Alhadeffとは関係ありませんが、一度Torinoの空港からParisに向かって 出発するため搭乗待合室で空港の風景をハーフ・サイズのミニ・キャノンで写真を 取っていたところ、税関の制服を着た人物が近寄ってきました。どこでもパスポート ・コントロールのところは写真撮影禁止ですが、待合室にそんな規則があるとも思え ません。

    「お前、イタリア語ができるか?」ということから会話が始まりました。
    Certamente!(あったりめぇよ)と答えると、「そのカメラいくらくらいするんだ、 日本では?」と聞いてきます。 正直に大体の値段を答えると、「今度それを5−6 台持ってTorinoへ来い。俺の名前はXXだが、そのカメラを税関の誰にでもよいから預 ければよい。前もって知らせてくれればカネを持たせておく。」

    「お前マジかよぉ?」と言いたくなるようなことですが、こういうところがイタリア の裏経済を支えているのだと痛感しました。今はどうか分かりませんが、当時イギリ スよりイタリアのほうがGNPはずっと高かったのです。

    そんなわけで、Mr.Alhadeffとの思い出は仕事では余りありませんでしたが、余人 を以って替え難い経験をさせていただいたことには、皮肉でも冗談でもなく、感謝し ています。

    Mr.Alhadeffなかりせば、このようなスリルは味わえなかったでしょう。

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『アルハデフ氏の思い出』 ・ ・ ・ 木下 三郎
    伝統のある大企業の例を除いて、各地の「OCJ・OB会」の存在そのものを日本では 稀有なものと感じていました。有志の世話人の方々のご努力により、全国的な規模での 「OCJ同窓会」が思い出の帝国ホテルで開催されたことは極めて嬉しい出来事でした。
    参加されたOB諸君の殆どがビジネスの世界でリーダーシップを発揮し、頑張っておられ るので、アルハデフ氏が如何に有能な人材を見極め、集められたかを痛感しました。
    私が初めてアルハデフ氏をお見かけしたのは、慶應義塾大学の三田キャンパスで行われた オリベッティの会社説明会の時でした。当時、私は決まっていたスイスへの留学を断念す る事情に遭遇し、時期遅れの就職を検討する為に学生部就職へ相談に行ったところ外資で も良いのであれば今日の午後から説明会を行う会社があると紹介され、参考にしようと参 加しました。
    一通りの説明が終わり、質問を受け付けることになり、質問をしたところ、帝国ホテルに ある会社設立準備事務所を訪ねるように誘われました。
    帝国ホテルに訪ねると、丁度、上智大学からの面接日でした。時間の余裕はあるかと尋ね られ、当日は台風の余波で休講でしたので、十分ありますと言ったところ、スイートルー ムに通され、面接の合間を縫って、彼と断続的に話をしたことを思い出します。
    彼は、英語とフランス語のどちらが良いかを尋ね、結果として、二ヶ国語で話をしてくれ ました。日本の市場性とO社の日本における今後の展開計画を説明し、私の質問に詳しく 答えてくれました。夕方になって、興味をもってくれたのであれば、O社を受験するよう に薦められ、タイプライターをお借りして英文の履歴書を作成し、改めて面接試験となっ た。一転して、アルハデフ氏の質問は、中々厳しいもので、彼の考え方やビジネスに対す る姿勢を十分に理解でき、信頼できるものでした。
    結果として、正に、私の人生における進路を定める一日となった。
    後年、彼は、私の結婚式の証人を務めて頂いたこともあり、昨年、他界されて、お目にか かれなかったことは、極めて残念に思っています。
    2007年1月14日
            木 下 三 郎
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『私が教育をやるようになったのはアルハデフさんの任命だった』 ・ ・ ・ 森 茂男
    アルハデフさんがOCJの社長であった期間はたしか創立年の1961年から68年と記憶 しています。P101が日本に上陸したのが67年(?)で、私はイタリア本社から来日 したオルメザーノ氏からP101を教わりました。本社(碑文谷)の社長室の隣りにある ボードルーム(こう呼んでいたかどうかはわかりませんが、大事な会議はここでやってい たようです。)で2週間にわたる研修でした。メンバーはタスクフォースとして全国から 選ばれた15名ほどのセールスマンでした。私はマーケティング部(部長はカルロ・フィ オーレ氏)に属していましたのでいわばスタッフとして参加しました。白金の迎賓館に宿 泊しながらの豪勢な研修でしたのでよく覚えています。この研修の後、全国のマネージャ ーたちを相手にP101研修のインストラクターを命じられました。たしか、井上清さん、 山口進さん、鈴木義さん、塚本さん、松野さんなどそうそうたるメンバーが受講者だった と記憶しています。なにせ二次方程式の根を求めたり、X!がでてきたりでいままでの計算 機や会計機にはない数学を解くような問題ばかりでした。

    この研修が終了した日の夕刻に、社長室に呼ばれました。STC(Sales Training Center)へ の拝命です。この研修がインストラクターとしての試験台だったと思いました。これを機 会にSTCは人事部からマーケティング部に属するようになったのです。私の長いインスト ラクター生活のスタートでした。現在もこの仕事を続けていることを考えると、まさに自 分の運命を左右する出来事だったわけです。
              平成18年11月26日
              森 茂男


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『アルハデフ初代社長の思い出』 ・ ・ ・ 小串 澄子
    初代社長から直接薫陶を受けられ、オリベッテイを出られても様々な企業のトップとして 広く活躍されている個性あふれる方々の存在が何よりもアルハデフ氏の影響力の大きさを 語っています。
    私自身は当時札幌支店にいて間接的ながら多大な影響を受けた一人だったと思います。
    オリベッテイがどんな会社かも分からずに、友人の紹介で札幌支社で働くことになった私 にとって、出張でお見えになったアルハデフ社長との出会いは新鮮でした。
    とても厳しい方だと伺っていましたが、暖い人柄、ユーモアとウイットに溢れ何より自由 な精神の持ち主だと感じました。
    東京を多分朝6時にはたってこられるのか、9時には札幌のオフィスに着かれて、緊張する 私とは対照的にリラックスされて、すぐにアタッシュケースを開けて、当時の支社長、井 上清さんと、てきぱきと仕事を始められる姿はエネルギーに溢れていました。
    社員の誰にでも声をかけて下さる気さくで暖かな一面も感じました。
    行動に無駄がなく、不必要な勿体をつけません。 それまで外資系企業と言う以外、オリ ベッテイについて何の知識もなかった私ですが、アルハデフ社長の登場で会社のイメージ が、にわかにグレードアップして感じられたものでした。

    数年後に私が東京の技術本部に転向したときには残念ながら既に日本を去っておられ、ア メリカオリベッテイの社長をされていたと思います。 

    そして1974年にオリベッテイ・グループを去られて独立されたとき、日本オリベッテイの 社員へ英文のメッセージを託されました。
    忘れがたい文章だったので今でも残しています。 そのメッセージの中で、氏はオリベッテイを離れても、度々の日本訪問は日本オリベッテ イの人々に対する私の義務でありまた喜びである、と言うより「里帰り」であるとまで書か れています。
    例え仕事であっても、そこに喜びがなければ、なんの価値があるだろうかと。
    アルハデフさんにとっても日本での公私にわたる交流は心楽しく忘れ難いものだったに違 いありません。
    また、メッセージの中で、我々はこれからも、手の届き難い星(unattainable star)めざ して最善を尽くして行こう、星に届くことはないかもしれない、しかしその試みをあきら めてしまうようなことがあったなら、その時こそは深刻な危機である、と。

    更にメッセージの締めくくりに、美しい詩を引用されています。
        This above all: to thine own self be true,
        And it must follow, as the night the day,
        Thou canst not then be false to any man.
        それゆえに、まずあなた自身に対して真実でありなさい
        そうすれば、夜が昼に続くごとく
        他の誰にたいしても不実ではいられない。

    このメッセージの全文2ページは、1974年9/26 日付きです。

    たぐいまれな指導者でもあったアルハデフ氏にお目にかかれた幸運を感謝し、ご冥福をお 祈りしたいと思います。

    小串澄子
    2006/12/13


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『思い出深いアルハデフ社長からの電話』 ・ ・ ・ 中村 恒夫
    1.社長からの電話 −その1
    入社3年目で代理店部のスーパーバイザーとして北海道を担当していた時でした。当時、 「産振法」と称する商業高校向けのタイプライター導入に対する大型予算が北海道市場に も適用されました。それまでは商業高校にはまったく実績のなかったOLIVETTIに とっては、この予算獲得は願ってもないビジネス・チャンスでした。ある日、アルハデフ 社長から塚本産業教育部長と一緒に呼び出され、各支庁ごとの販売対策や見積もり作成に ついて相談があり指示がありました。努力の甲斐があって、大半の支庁でOLIVETT Iが選ばれ、大きな実績を作り上げました。この成果を知った直後、アルハデフ社長から 直接電話が入り、心温まるねぎらいの言葉とすばらしいご褒美を頂戴しました。そのご褒 美とは、「今回の仕事で休みもなかっただろうから、明日一日ゆっくりと北海道で遊んで らっしゃい。そして、明後日の朝一番に私のところに顔を出してください。その日はイタ リアへ行く予定でしたが、あなたに会うために会社に出てきます。」というお話。社員一 人のためになんときめ細やかで大胆な心遣いなんだろうと感激と同時に一種の驚きを感じ ました。
    2.社長からの電話 −その2
    私たちの結婚式に主賓としてお招きしたアルハデフ社長からある一つの贈り物をいただき ました。それは何と“桂離宮への招待”だったのです。丁度、九州への新婚旅行中のこと でした。突然、アルハデフ社長から電話があり、一瞬、“何か仕事上のトラブルでも?” と驚いたのですが、その内容は「二人のために桂離宮に一日リザーブしてやろうと思うが、 旅行の予定変更はできるか?」というものでした。もちろん喜んで受けて桂離宮へ向かい ました。驚いたことに出迎えてくれたのが、あの「京」映画を監督した市川昆さんでした。 ほかの誰にも邪魔されることなく、ゆっくりと書院や庭の隅々を見学できました。これは 2度と経験できないすばらしいプレゼントでした。
    3.社長からのアドバイス
    間接販売しか経験のなかった私が所長になったとき、社長から頂戴したアドバイスは“部 下の一人ひとりをよく観てください。そして、大切に育ててください。”という言葉でし た。不思議と売り上げについては、何も云われませんでした。普段、とても厳しい社長で したが、発せられるアドバイスはいつも驚くほど的確でした。こんな社長から願わくばも っともっと長いこと教えを受けたかったものです。
    以上



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『アルハデフさんの迅速な決断があったからこそ』 ・ ・ ・ 成本 一郎
    出張旅行中の列車の中での出来事でした。突如、アルハデフさんが「ところで、日本人の 男性は、女性をどうやって口説くの?」と尋ねてきました。自分には、そんな難しい(?) 質問に的確に答えられるほどのイタリア語の語学力は持ち合わせていませんでした。とっ さに思いついたのが19世紀イタリアの劇作家であるピランデルロの言葉でした。
    “ciascuno ha suo modo” (各人各様なものよ)
    こう答えたものの、なぜそんなことを僕に聞いてきたのか未だに理解に苦しんでいます。 でも、その場面は今でも強烈に私の記憶に残っています。アルハデフさんには、これ以外 に幾度となくイタリア人らしからぬビジネスマンだな、と感じさせられる場面に遭遇しま した。その代表例が、オリベッティ創業間もない代理店との取引条件の交渉時でした。当 時は、文祥堂から業務を引き継いだばかりで、業界慣習としては、外国製品の代理店卸は 20%引きが通例でした。ところが、なんとオリベッティはその慣習を打ち破り25%引 き、さらに90日の手形取引を受け入れました。オリベッティ製品は、すでに業界から高 い評価を得ていましたものの、まだ直販体制が整備されておらずまだまだ代理店に頼らざ るを得ない状況でした。そうした事情もあって、オリベッティが選んだ戦略は当時の日本 の常識では考えられない1県当たり3〜4件の代理店と取引開始することでした。ところ がイタリアらしいといえばそれまでだが、それぞれの代理店の実情も把握せずに契約書に 月ごと、機種ごとの契約台数を約束させて、一方的に出荷する始末。あちこちの代理店が 機械の山積み状態。そこで、わたしはアルハデフさんに「このままでは大変なことになる」 と報告しました。それを聞いたアルハデフさんは即刻行動を起こしました。シモーネ部長 を連れ立って土浦の「日商事務機」を訪ねました。先方の横山社長からその事実を知らさ れ、アルハデフさんはすぐさま横山社長に対して、不良在庫商品を直ちに返品して欲しい と申し入れました。と同時に全国のすべての代理店に対して同様の通達を出しました。こ のアルハデフさんの迅速な決断がなかったら、恐らく日本オリベッティの日本市場参入は 不成功に終わっていたものと思われます。
    以上


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『アルハデフさんの思い出』 ・ ・ ・ 上田 登穂
    私は、アルハデフさんのエピソードと云うよりは感謝の念と思い出を述べさせていただき ます。
    1961年10月帝国ホテルでお目にかかった私の印象はきわめて強烈で忘れられないも のとなりました。必ず500人以上の会社にしてみせると熱弁をふるわれた様子は今でも 鮮明に覚えております。
    そのときの契約書にはあの独特なアルハデフさんのサインがあり今でも大切に保管してお ります。 
    後に会社が大きくなったとき先見の明と実行力に改めて尊敬しました。私は営業系の方々 と異なり厳しくされたことはありませんでしたが、名古屋時代マネージメントについては 初歩から指導されたことが私の今日があると思っております。また、日本オリベッティに とって初めてのEDPであったCBS120を焼津市農協に納品し、SEの方々の支援を得な がら無事カットオーバー出来たとき過分な評価を頂いたことも忘れられない思い出です。 初対面のお客様或いは社員の名前お聞きになり顔と一致させて一瞬のうちに記憶されるこ とは特技でしたね。名前で呼ばれたお客様は感激でしたよ。

    2006年9月16日オリベッテイ同窓会に再会出来なかったのは誠に残念でした。
    今は、心からご冥福をお祈りしております。

    上田 登穂


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『心に残る奥深い言葉』 ・ ・ ・ 池田 裕
    アルハデフさんとの一番印象的な思い出は、1973年にイブレア本社に出張したときで す。すべてのスケジュールを終えた帰国前日のことです。DEOSAディレクターであったア ルハデフさんに帰国の挨拶をしに彼の部屋を訪れました。何のお話をどの位したのかは覚 えていませんが、最後のお別れの瞬間、アルハデフさんが突然私に向かって「ところで、 池田さん、あなたは“RELUX”という言葉を知っていますか?」と尋ねてきました。 あまりにも唐突な質問に一瞬戸惑いながら「いや、“RELUX”という言葉は知っています が・・・・・」と、その後の言葉に詰まっているとアルハデフさんが即座に、こう言われ ました。「池田さん、あなたはこれから一生、真の意味の“RELUX”を勉強してく ださい。」と告げられました。わたしは、神から与えられた言葉のような感覚でその瞬間 受け止めました。アルハデフさんと別れた後、自分は冷静に考えました。アルハデフさん は私の大きな欠点を見抜いておられたんだな、と。そして、それ以来ずっーと、この “RELUX”という言葉を大切に心にとどめて自分を見つめ、自己改革の原点にして います。
    わたしは、この出来事以来、自分の究極的な人生目標として掲げていることがあります。 それは、誰しもが長い人生の間に多くの方との別れの場面があります。そのとき、アルハ デフさんのようにお別れの相手に向かって、“心に残る奥深い言葉”をパっとひ らめき、伝えられるような心の大きい奥深い人間になりたいものだ、と。
    以上


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関連リンク
■追悼■アルハデフさん