[恵比壽塵報]73号
(背景:下郷町大松川 お不動様の桂(かつら)の木)
特集:春の「会津学」めぐり

恵比壽塵報(略称/恵比塵☆YEBIJIN)
YEBIsu Journal Ironical News columns : Japan Intelligence Network

[恵比壽塵報]73号 −− 目 次 −−

 【恵比塵73_000】 春の「会津学」めぐり
 【恵比塵73_001】 《5月2日朝》−クマ出現防災無線放送−
 【恵比塵73_002】 《5月2日朝》−来らっちぇ、よかったなぁ−
 【恵比塵73_003】 《5月2日朝》−ライターは、いんねか−
 【恵比塵73_004】 《5月2日朝》−ヒロアキさんからだよ−
 【恵比塵73_005】 《車中》−三階山から新鳥居峠へ抜ける−
 【恵比塵73_006】 《車中》−大芦の人々の話−五十嵐初喜氏のこと 
 【恵比塵73_007】 《車中》−大芦の人々の話−皆川伝三郎氏のこと 
 【恵比塵73_008】 《車中回想》−IQ82−
 【恵比塵73_009】 《車中》−縄文土器の話とアバランチシュート地形−
 【恵比塵73_010】 《車中》−南郷へ−
 【恵比塵73_011】 《車中》−月田農園へ−
 【恵比塵73_012】 《月田農園》−球塊の越冬と馴化(じゅんか)−
 【恵比塵73_013】 《月田農園》−上のはたけと下のはたけ−
 【恵比塵73_014】 《月田農園》−いないはずの猪(いのしし)−
 【恵比塵73_015】 《駒止隧道》−雑稿:閉鎖空間のこと−
 【恵比塵73_016】 《駒止隧道》−Il Nome della Giglio (百合の名前)−
 【恵比塵73_017】 《南山御蔵入田島宿》−湯田さんイルカナ−
 【恵比塵73_018】 《南山御蔵入田島宿》−人もツバメも集まる作業所−
 【恵比塵73_019】 《南山御蔵入田島宿》−祇園会館−
 【恵比塵73_020】 《南山御蔵入田島宿》−舟鼻・地名に残される記憶−
 【恵比塵73_021】 《会津西街道》−会津西街道(あたり)を行く−
 【恵比塵73_022】 《会津西街道》−お不動さま直売所へ−
 【恵比塵73_023】 《会津西街道》−お不動さま直売所−
 【恵比塵73_024】 《会津西街道》−見慣れた風景とは−
 【恵比塵73_025】 《峠にて》−奥会津への回廊−
 【恵比塵73_026】 《峠にて》−新・峠の茶屋物語−
 【恵比塵73_027】 《峠にて》−会津と奥会津の縁(ふち)−
 【恵比塵73_028】 《只見川ライン》−奥会津を照らす−
 【恵比塵73_029】 《只見川ライン》−ライン(Line)とライン(Rhein)−
 【恵比塵73_030】 《只見川ライン》−西の方に光あれ−
 【恵比塵73_031】 《只見川ライン》−奥会津書房のハナ−
 【恵比塵73_032】 《只見川ライン》−宮下あたり−
 【恵比塵73_033】 《渓谷へ》−水辺の集落−
 【恵比塵73_034】 《渓谷へ》−自然の躙口(にじりぐち)−
 【恵比塵73_035】 《渓谷へ》−松山−
 【恵比塵73_036】 《野尻川》−遡上した先人−
 【恵比塵73_037】 《野尻川》−野尻−
 【恵比塵73_038】 《野尻川》−野尻、中向、下中津川へ−
 【恵比塵73_039】 《おわりに》−地域に暮らすこととは−

[09/06/08]〜[09/09/25]
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■[恵比壽塵報]73号:特集春の「会津学」めぐり
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 【恵比塵73_000】春の「会津学」めぐり
 

 それは、こうして始まった。

 09年5月1日のこと、伯父貴の葬儀の会場となる会津柳津町の斎場で、そ の人に再会した。その人は、一週間ほど前に、東京駅前の丸ビルでギターを弾 いてフォークを唄っていた。

 その人は昭和村から柳津町までいらっしゃっていた。斎場に入ると待合室の ところで姿を見かけた。挨拶しながら近づくと、知人とご一緒の様子。わたし が知っている知人もいらっしゃるが、その奥には初めてお会いする人がいらっ しゃる。初めてお会いするが、雰囲気でわたしは察知した。
 おそるおそる声を掛けてみる。
 「こちらは、佐藤孝雄さんですか」
 「はい」
 当たった。
 佐藤孝雄さんは、その人と一緒にフォークソングのデュオ「なかよしバンド」 のメンバーである。

 その人は丸ビルでは、たった一人で「なかよしバンド」の持ち唄ともなって いるフォークソングを3曲唄った。ギター1本である。曲の合間の区切りに一 歩下がると間奏が入る。その人はなんとなく横を向いたような気がした。
 「いつもはこっからベースが入ってくる、」、隣にベース奏者の佐藤孝雄(敬称略) が居ないことは知っているのだが、無意識にそうなるのである。物理的には 一人でも、心は「なかよしバンド」。デュオで演奏して唄っているのである。
 その人が唄っているその頃、佐藤孝雄氏はといえば、昭和村でさかんに鼻を かみながら、くしゃみを連発していた。花粉症のせいだけではあるまい。羨ま しいのである。いかん、筆者は自分の書いている文章で酔ってしまった。
(一時間・休憩)

 そんななかでのその人との立ち話、

 「小中津川の気多神社(けたじんじゃ)にも柵があったらしいのですが、知 っていますか?」
 「え?」

 わたし(筆者)は、知見ゼロの何の役にも立たない文章を、気多神社を語呂 合わせのネタにしただけで、掲載しているのであった。
 気多神社「にも」ということは、わたしが、「館(たて)」とか「柵(さく)」 とか「根小屋(ねごや)」とか、野尻の牛首城とか書き散らしたことを、その 人はご存知なのである。それを踏まえた「にも」なのである。これらの言葉は つい1年ほど前に知ったことを書き並べたのである。一晩掛けて文章にするこ とは出来なくも無いが、これらをその場で語れるほどの知識は無いのである。

 「小中津川の気多神社(けたじんじゃ)にも柵があったらしいのです」
 「え?、知りません。わたし(五十嵐)は連休は昭和(村)にいます、時間 がありましたら教えてください」
 多忙な人である。神出鬼没の人である。筆者は、昨年の秋に神田神保町の古 本まつりのイベントで花を売っているところで初めてお会いして、一週間ほど 前には、東京は丸の内、丸ビルでお会いしたのである。

 その人はこう言った。
 「明日にでも、連絡します」

 わたしはこう答えた。
 「是非!来てください」

 こうして、2009年5月2日のモノガタリは始まった。





 【恵比塵73_001】《5月2日朝》−クマ出現防災無線放送−
 

 朝、散歩、田の口沢の橋のところまで行って戻って、役場の前まで行って戻 ってくる。
 ところどころの畑や庭で人を見かけるが、顔がわからないので声は掛けにく い。連休の為か車の通行は多い。村外の通行車も多いのだろうが、軽トラック で走っている車は村内の人には間違いない。お互いに知っていればクラクショ ンを鳴らしたり、手を上げたり、徐行して声をかけたりしながら走るのであろ う。遠目には、わたしは「ここらでは見かけないよそ者」と判断されてしまっ ているのである。ましてや、家屋の並びが途切れる集落と集落の間を、徒歩で 通行する村人などは、ほとんどいないのである。
 滞在中は、
 「松山で2頭のクマが出没しています」
 「野尻でもクマが国道から見られました」
とか
 「村内各地でクマの発見情報があります」
 などとの防災無線放送を何度も聞いたのである。放送の中には、村民だけが 判断できるキーワードなどもあっても不思議はない。実はわたしの散歩も「ク マ出現情報」にまぎれて、情報の正しい聴取者にしかわからない放送もあるか もしれない。

 「エー、0645、体長1.6m、オスグマ徘徊中」
 などという放送は「警戒情報、よそ者人体(にんてい)不明者、現在折橋 (おりはし)近傍を北上中。戸締り用心」などという意味かも知れないのだ。





 【恵比塵73_002】《5月2日朝》−来らっちぇ、よかったなぁ−
 

 朝の散歩の途中である。
 役場の前までの行きしなに、前方から夫婦らしい二人が歩いてくる。男性の ほうは、杖をついている。少し足元も危なげである。「おはようございます」 と挨拶をしてすれ違うところで、お互いの顔があった。
 「だんじゃ(誰か)と思ったらば、」
 わたしを知っているわたしよりも一回り以上ご年配のご夫妻である。まった く失礼なことではあるが、お名前が出てこないのである。

 「来(き)らっちぇ、よかったなぁ。

 来ることが出来てよかったことです。という程の意味である。わたしも、知 ってる人に遭遇して安心した。「知ってる人に、会わっちぇ、よがっだぁ」。 しばらく立ち話をする。どうしても共通話題は天気の話と、まめでいるか(元 気にしてるか)と、お互いの家族のこととかになる。

 おそらくこの邂逅場面で、防災無線放送の、警戒情報は解除されたらしい。

 橋の傍の、去年は残っていた寄宿舎の建物が解体されて、見晴らしが良くな っている。山側に新しい建物が増えたような気がする。後でわかったことだが、 そのあたりが村営住宅の建物群らしい。

 帰りしなもほぼ同じコースである。警戒度数は低くなったかもしれないが、 田圃のあぜ道に寄り道して迂回などは出来ないのである。すみれ荘近くから束 原宗三郎商店のあたりまでは一直線に見通しのきく道路となる。小中津川では たった一軒となってしまった、お店やさん、束原商店の店の前に、二人の人が いるのが見える。立ち話をしている様子であるが、時々わたしの歩いている方 向を振り返っている。どうやらわたしは捕捉(ロックオン)されたのである。 かといって、急に逆向きに歩き出すわけにもいかない。道路は真っ直ぐで見通 しがきく。ましてや、わき道に逸れようにも道路の傍は田圃である。歩行スピ ードを変えることも出来ないまま、きょろきょろと視線を左右に振ることも出 来ないまま、わたしは少しずつ大きくなる二人の姿の方向に歩いていくしかな いのだ。顔が見える距離にまで近づくと、お一人は顔なじみの束原商店のおば ちゃんである。

 「休みで戻ってきてたのか、
 来らっちぇ、よかったなぁ。
 いつから来てただ?」

 「ゆんべ(昨晩)から、柳津で葬式に出て(参列して)から、、、」
 「大変だったべな、それは、それは」という声と、
 「やっぱり、にっしゃだと思ったわい。」 という一緒にいた男の人の声が一 緒である。
 「えーと、」
 その男性がどなたかわからないが、その男性はわたしを知っているのである。
 「きんな(昨日)も見かけてそうだと思ってただが、分かんねか?」
 「えーと、」
 「大芦のコウサクあんにゃだべした」
 「えーーーっ!」。
 大芦とはわたしの生まれた集落である。小学校までの通学路(といっても普 通の村内の生活道路)の途中に「山田屋商店」という店があった。その店の店 主である。とたんに、記憶が蘇った。確かにコウサクあんにゃである。しかし、 同氏はわたしが小学生の頃には既に大人であった。確か、足が悪くて杖をつい ていたような。そんなことで、もっともっとおじいさんになっていらっしゃる と勝手に思い込んでしまっていた。

 この店には、よく学校の帰りなどに寄った。いなかの商店はほとんどはよろ ず屋である。駄菓子類は勿論であるが、竹製の釣り竿、テグス、釣り針、補虫 網、タモ網、ゴム動力の模型飛行機製作キットなどなど。





 【恵比塵73_003】《5月2日朝》−ライターは、いんねか−
 

 軽トラックの運転席に戻ったコウサクさんを見送り、
 「お茶でも飲んでけー」と誘われるが、「そろそろ朝食なので」と遠慮して、 セブンスターを1カートン買う。この店の前には、タバコの自動販売機はある のであるが、わたしはどこかが儲かっただけのタスポとかいうカードを持って いないのである。店の売り台の奥には、タバコの銘柄と数を書いた手書きの大 きな字の換算表が貼ってある。1カートンは10箱で1箱300円なので、換 算表を見なくともおばちゃんも計算出来るが、念の為わたしの方から「300 円のを10箱」と指差ししてお金を払う。

 「ライターは、いんねか(いらないか)?」

 と訊いてくる。

 これはついでに売ろうという商売でのお奨めではないのである。心遣いなの である。隣の集落から買いに来たとか、ついつい忘れてしまったりすると、大 変な二度手間になるのである。次の店で買うといっても、次の店はタバコ屋で は無いだろうし、よろず屋といえども、扱っているとも限らないのである。マ ッチの時代はマッチはタバコへの着火機能以外の生活必需品であったが、ライ ターの時代となってからは、マッチそのものもライターも必需品ではなくなっ たのである。
 ライターとガスの残量を見て、「あっから(あるから)いいわ」と答える。
 「そんじゃ、ひとつ貰うか」と答えると、おばちゃんはおまけのライターを タダでくださる可能性があるのである。



 【恵比塵73_004】《5月2日朝》−ヒロアキさんからだよ−
 

 朝の食事を済ませて、さて、何をしようかと、福島民報新聞を開いて見てい ると、電話が鳴った。

 「ヒロアキさんからだよ」

 と、ばあちゃんの声。

 来ました。待ってました。その人からの電話である。
 その人は多忙の人である。小中津川を通過するついでに散歩でもしながら気 多神社(けたじんじゃ)の回りの話をしてくれるのかな程度にしか思っていな かったのである。

 それが、
 車で迎えに行くので、出ることは出来ますか。ほぼ一日のコースになるかも しれないが、他に予定があったりしませんか。大丈夫ですか。
 との電話の声である。わたしは、まったく問題なし!大丈夫である。

 昭和館の先代、束原宗司(そうし)氏は気多神社の神社総代、世話役なども していた。ばあちゃんにその事を話して、知っていることを聞いてみた。
     曰(いわ)く
  • 幣束(へいそく)がおりた。という話は聞いたことがある。
  • 旧神社はもっと山の奥にあったことも伝えられている。
    (このことは、縁起にも載っている)
  • 回りに柵はあったかもしれない。
  • 小中津川住民は、気多神社本社を尋ねた。
    その時には、「気多神社の孫が来た」と喜ばれた。
  • 平山郁夫氏の教室が気多神社曼陀羅図を描いた。
    越の国の港(船)から気多神社までの縁起曼陀羅である。
    平山郁夫氏が幾日も宿泊した。
    絵に描かれている白い山は、二階の部屋から見たはげ山であるという。
    そのうちの一本の松の木は平山氏が直接描いた。
    曼陀羅図は奉納されている。写真は額にして氏子全員に配布した。
    それ以前には、子供たちの遊び場にもなっていたので、絵馬があったが壊 してしまった。
  • 現在の神社総代と世話役の方のお名前など。

 まったくにわか仕立ての予備知識である。

 そうこうしているうちに、その人が車で走行していらっしゃった。
 いつまで、「その人」で通すのだろうか。
 筆者は、改めて筆記するタイミングを失っているのだろうか。
 「その人」とは、はい、菅家博昭(かんけひろあき)氏である。
同氏の表記 は、これ以降時々変わるが、誤表記ではなく筆者の意図したその場その場の雰 囲気(行き当たりばったりかい!)での表記である。


    福島県内二大新聞、恵比壽塵報も愛読中(^^;
    福島民報社
    http://www.fukushima−minpo.co.jp/news/
    福島民友新聞社
    http://www.minyu−net.com/



 【恵比塵73_005】《車中》−三階山から新鳥居峠へ抜ける−
 

 「では、車で行きましょう。気多神社の前に、月田農園に行きましょうか」

 とカンケ氏がおっしゃる。
 うわわ、いきなり同氏が会津学第4号に執筆した『月田農園物語』の世界で ある。筆者は、カンケ氏がこの原稿作成中から同氏のブログを参照していて、 自分の雑文にも一部引用させていただいたりしている。ただその内容はという と、『月田農園物語』とは直接の関係はあまりない内容であったのである。ほ とんど架空話に近いのである。その実在する月田農園なのである。思っただけ で緊張してしまう。
 これは、、ひょっとして、筆者があまりにもテキトーな会津話を書いている ので、首根っこを捕まえて現地フィールドワークでの強制学習の強行ではない だろうか。不安がよぎる、、、。んなことはありませんが(笑)

 「大芦から新鳥居(峠)を抜けて南郷に入りましょう」

 と、昭和館から佐倉の「からむし織の里」を左に見て、郵便局を越えてすぐ に、右に折れ野尻川に掛かる橋を通って、山あいの沢に沿った坂道に入り込む。 仙石沢という。これは、その沢の名前であろう。ほぼ一車線の道である。それ でも国道である。
 この道は、中学生時代に自転車で村内にひとつの中学校のある下中津川まで 通った道である。その頃は舗装もしていない砂利道であった。自転車は今のよ うな変速ギアなどというのも付いていない。この坂道は、自転車に乗ったまま で走れる傾斜ではないのである。帰りは、ここから「昭和の森キャンプ場」 (その頃は公園と呼んでいた)のあたりまでは徒歩で自転車を押して行くので ある。その地点(公園)は、佐倉、喰丸、両原にもつながる道の分岐点でもあ る。見晴らしのよい要衝の地である。追分(おいわけ)の地である。昭和30 年代には、馬頭観音と彫られた大きな石や石碑などが立てられていた記憶があ る。少し隔てた茅場に隠れるように小さなイチゴの畑があった気がする。すっ ぱい思い出。

 大芦から下中津川の昭和中学校までは、およそ6キロの道のりと覚えている。 うろ覚えである。舗装はされているが、道筋は変わっていない。目をつむって も、辿り着ける。筆者は助手席に乗っているのである(笑)。
     公園について
     この地については、以下のサイトにも思い入れの文章があるので、 掲載者に了解を得て転載しておきます。上の本文と差換えたいほどでもある(笑)。

    佐倉から仙石沢を抜けて大芦へ行く道がある。国道401号線である。
    右手に石取山を見ながら(見えるのか?)登りきったところが、奥会津昭和 の森キャンプ場である。昔は「公園」と呼んでいたと思う。

    馬頭観音や何かの顕彰碑が建っていた記憶があるが、さてどうだろう。歩い て通ったのは40年ほど前のことである。

    公園の近くから、喰丸に抜ける道と、両原に抜ける道もあったはず。 勿論車で通れるような道ではない。杣道(そまみち)とでも表現するのか。現 在であれば、マウンテンバイクの上級コースにでもなるような道(通路)であ る。登りの坂道は自転車を手で押して登る。両原からの道は藤吉あんにゃが自 転車バイクでよくきいきい(来い来い)した。
    ここからは大芦集落へ一気に下り坂。
    夕方になると大芦から昭和中学校に通っている生徒の公園から下り降りる自転車 がキイキイした。この「キイキイ」は自転車のブレーキ音である。

    坂を降りたところが、クヌギ(橡)下である。今でもここには石灯 篭がある。石灯篭の上に立って屋根の部分にぶら下がって遊んだ覚えもある。 今にして思えばよくも石が倒れたりして事故が起きなかったものだ。 筆者の記憶の範囲ではここに灯りがともっていた記憶は無い。

    漆黒の夜、杉の林が周りをより暗くしている道で、ほのかにともる灯篭の火 を見つけることは山界から人界にたどり着いた事を知らせる大きな安堵に繋が ったことであろう。

    集落の結界のような位置である。旅人の為のものだったのか、それとも、外 に出掛けた人が戻ってくる日(夜)に「お帰り!」の挨拶の為に火を入れたの か。

    クヌギ下は住所、地名ではないのである。地域の俗称であり、ク ヌギの木の下の家を指している。
    奥会津昭和館/昭和村のあいうえお/【く】くぬぎした(初出:07/11/22)より(一部改訂)
    http://www.asahi−net.or.jp/ ̄KD5J−IGRS/showa_aiueo/index.htm#ku_01
    「(来い来い)した」の段は、《雑誌:会津学研究会》か《カンケブロ グ》のどちらかで、(文言を失念しましたが)たしか「言葉を重ねる特有表現」 といった項目で書かれていた文章を読んで想起(Inspire)した文章でした。


    奥会津昭和村『からむし織の里』
    http://www.vill.showa.fukushima.jp/sato.stm

    会津学関係
    聞き書きによる地域文化の掘り起こしと継承(ブログ)
      雑誌:会津学研究会
       http://aizugaku.blogspot.com/
    会津学研究会事務局、雑誌『会津学』出版元
      奥会津書房
       http://www.kyoritsu.co.jp/Okuaizu−syobou/index.html



 【恵比塵73_006】《車中》−大芦の人々の話−五十嵐初喜氏のこと
 

 大芦を通る道すがら、昨日バスの中で五十嵐義信氏から聞いたばかりの、大 芦の話などをする。大芦には3人の五十嵐が新潟から野尻川を遡って大芦に辿 り着いたこと。などなど。
 ここ(車中)では、カンケさんの問わず語りを聞くことにしよう。
 昨日葬儀のあった、五十嵐初喜氏が、その妻スイ子あねと民映研(姫田忠義 所長)の記録映画「からむしと麻」に出演するきっかけを作った人(カンケさ ん)の話である。筆者にとっては「はつきあんにゃ」であるが、「初喜氏」表 記とさせていただく。

 「カラムシだけは無くすなよ」と聞かされた話をしたのは、五十嵐初喜氏で あったこと。初喜氏は開明的であり合理主義者でもあったこと。その一例とし て、こんな話を聞いた。

 カラムシの加工作業に「カラムシ引き(苧引き)」という工程がある。この 工程は、カラムシが糸となる直前の工程で、昔ながらには引き台の上にカラム シの茎を一本置いて、ヘラのような道具で繊維を取り出す大変な作業である。 これは女性が倦むことなく続けた作業でもあり、引き方には技量と経験が如実 に顕れ、カラムシの「キラ」と呼ばれる風合いが出るかどうかにも関わる大変 重要な工程である。また、「苧引き」は「機織(はたおり)」「糸紡ぎ(苧績 み、撚りかけ)」と並んで絵(画像記録)になるシーンでもある。
 ところが、初喜氏は栃木県鹿沼市の方で麻の「苧引き」に使われている、機 械を試しに持ち込んだりしている。この機械は、回転する機構に細工があり、 カラムシの茎をその機械に投入すると繊維が出てくるというものである。苧引 き、紡ぎ、機織、いずれも女性が大変な時間と手間とを掛けてする作業である。 その工程の一つを合理化してしまおうというのである。これには、記録映画撮 影の監督、姫田忠義氏も困ってしまったらしい。

 この話を聞いて、わたしは思った。どうやら初喜氏は、既に先細りしてしま ったカラムシではあるが、文化としてのカラムシの保存を考えていらっしゃっ たのではなく、産業としてのカラムシを考えていたふしがあるのである。
 このことに気が付いたときに、わたしは、五十嵐初喜氏宅にあった、開明的 なハードウェアと、利用技術に思い当たることがあった。それらは、初喜氏宅 では牛を飼っていた。いや昔は農耕用としてどこでも飼っていたかもしれない が、乳牛を飼っていて、牛乳を生産販売していたのである。村内では他にあっ たろうか。桃の木の栽培をして生産販売もしていた。家の中にある牛小屋側の 二階(天井裏)には、縄撚(なわよ)り機械があった、そのころ珍しいマヨネ ーズ、ソース、練った蕎麦(うどん?)を棒状に捻り出す手回し式の機械も覚 えている。鶏卵も販売していた。これは昭和30年代のことである。

     エピソードについて
     このエピソード(苧引きの機械化)については、菅家博昭氏の名著『カラム シとアサ』(博士山に暮らす人びとに学ぶ)にも書かれなかったことである。 本号では、五十嵐初喜氏の人となりの説明として、あへて伝聞として残すもの である。(伝聞執筆責:恵比壽塵報)


    博士山に暮らす人びとに学ぶ(菅家博昭氏)
      博士山に暮らす人びとに学ぶ
        http://kanke.cocolog−nifty.com/hakase1/
      20カラムシとアサ
        http://kanke.cocolog−nifty.com/hakase1/2005/01/20_.html
    奥会津昭和村HP
      奥会津昭和村
        http://www.vill.showa.fukushima.jp/
      からむし織について
        http://www.vill.showa.fukushima.jp/making.stm
      からむし工芸博物館
        http://www.vill.showa.fukushima.jp/kogeikan/welcome.stm
      博物館だより
        http://www.vill.showa.fukushima.jp/hakubutsukan.stm



 【恵比塵73_007】《車中》−大芦の人々の話−皆川伝三郎氏のこと
 

 カンケさんが、大芦でめぐり合った人々は沢山いらっしゃるが、もう一人、 ご紹介しよう。畑小屋を越えて、卵池を通って三階山(さんがいざん)あたり まで何度もドライブした人がいらっしゃるのである。菅家博昭氏の文章の中に 出てくる紹介の表現では、農民絵師皆川伝三郎氏である。

 1982年のことです。カンケさんは、一時期大芦に通い詰めた。カラムシ 栽培に関する民具を消えてしまう前に収集してリストアップして保存する作業 のためである。この作業の実際は、皆川伝三郎氏が村の教育委員会に強くもの 申して実現した事でもある。いまの『からむし織の里』の存在には、このよう な経緯がきっかけとなっているのである。

 そんな中でのエピソードである。皆川伝三郎氏には、その日の気分による気 まぐれのドライブで、大芦から三階山あたりまでの地勢、風物、鳥類の事々な どを教わる。事前に行先が決まっているわけではない、伝三郎氏宅を訪問して から、伝三郎氏は季節や天候の具合で、「今日は、何処どこ(どこどこ)へで も行ってみっか」ということで車で出掛けたというのです。

    ■おまけ
     短いが、この話は次編へつづく。
    その前に、飽きっぽい読者の方にも、最適環境で本紙をご観賞いただくため と、継続していただくために恵比壽塵報は、読者にも押付けることがあるので す。それには、副読本(こら!)として、以下のページは是非とも予習として お読みいただきたいのであります。

     博士山に暮らす人びとに学ぶ/20カラムシとアサ(菅家博昭)
      http://kanke.cocolog−nifty.com/hakase1/2005/01/20_.html
     < カラムシとアサ >
     私のトショバア(年寄り婆さん、曽祖母)は名をトメ
     といい、カラムシの本場である大芦から十五、六のと
     きに大岐に嫁いできた。・・・・

     と、始まる菅家博昭氏の至高の名文であります。
    恵比塵本編の内容について、その経緯の詳細が真摯な文章で淡々とそして簡 潔に記述されています。これを読んでいただければ【恵比塵73_007】は欠番で よーし(((^^;


    [恵比壽塵報]73号は、09年6月4日(日)のカンケブログ(記憶の森をあ るく)で、リンクにて紹介されました。
    ■記憶の森をあるく
    http://kanke.cocolog−nifty.com/
     >>花の聖地 森の農園 →→→ 月田農園に行くエビスさん

    [恵比壽塵報]73号は、地域ミニコミ紙『じねんと』に連載されることになりました。
    (247号(09/07/07)より)
    奥会津昭和村大芦発
    佐藤孝雄のじねんと録
    http://zinento.exblog.jp



 【恵比塵73_008】《車中回想》−IQ82−
 

 これから記述することごとは、カンケさんが車中で話されたわけではない。
 カンケさんが語られたことごとに、わたしが知っている皆川伝三郎氏を重ね 合わせると、こうなってしまった、という近過去(1Q82)の物語である。

 「今日は、何処どこ(どこどこ)へ」ということは、事前に資料を準備して 予習をしておいて、ということは出来ないのである。経験と博識伝三郎氏と、 そこから見聞される事々を吸収しようという学徒(丁稚)としての探求と博昭 カンケ氏に対するテストでもあったかもしれないと想像するのです。時代と時 代との交流であり、智と智の対話編と呼んでも過言ではないであろう。

 わたし(筆者)は小学生時代には伝三郎氏のご子息の一人が同級生だったの で、よく遊びに行っていた。室内には大きな鳥篭に沢山のウグイスやカナリヤ を飼っておられた。代々続く風流人の家系なのかしらん。
 茫洋としてはいるが、ご愛嬌もある伝三郎翁である。わたし達に話かけられ る、といった覚えは無いのであるが、そのように思った印象が残っている。た だし、その頃から「茫洋」などという言葉は知るはずも無いので、後年になっ て言語化された印象ではある。

 茫洋としてはいるが、ご愛嬌もある伝三郎翁である。
 お二人の車中での会話か、車を止めておやつ代わりの笹巻きを食べて、お茶 を飲んで、用足しをしながら会話問答をしている姿が浮かぶのである。用足し とは、はい。たちしょんべんです。

    「あれが、渡り鳥の道標ともいうべきヤドリギですね」

    「木は土地につく、ヤドリギは木につく、渡り鳥はヤドリギに気付く」

    「師、人々がその土地に繋がって生活するのはなぜでしょう」

    「カンケくん、それが、まつりごとということじゃ」

    「まつりごととは、、政(まつりごと)でしょうか、祭事(まつりごと)で しょうか」

    「それでもよいが、祀りごとでも奉りごとでも纏りごとでもよい。つまりま つりごととはつまるところに発生する」

    「そんな、、」

    「つまるところとは、詰る処、つまり土地のことになる。つまる場所にたて まつった象徴(シンボル)が神社となる。これはハレの場所としてその土地全 体にリズムをつくることになる」

    「そんな、、あ、いや、なるほど、、、」

    「ところで、いまの世の政(まつりごと)は、間違っておる。カンケくん、 どうしてか、わかるか」

    「政治が悪くなったということでしょうか、何故かはよく説明できません」

    「いまの政治は詰る処(土地)を正視しないで、ツマラナイところに拘泥し すぎているという事だ。がはは。」

    「なるほ、、、へっ、あ、駄洒落ですか、、、(でも深い話かも、、、)」

 よくわからない会話であるが、ちょうど用足しも終った。

     (よくわからない会話は、筆者の作り話です。カンケさん、笑って許してく ださい。記録としての皆川伝三郎氏のことは、カラムシ栽培に関する民具をリ ストアップする作業にご尽力されたことが、『博士山に暮らす人びとに学ぶ』 (菅家博昭)にカンケさんが執筆されています。)



 【恵比塵73_009】《車中》−縄文土器の話とアバランチシュート地形−
 

 アバランチシュート(Avalanche Shoot)、雪崩(なだれ)が山肌を削り取 って出きる急峻な地形のことである。こんな言葉を以前から知っていたわけで はない。『会津学』を読んで知った事である。ついつい知っている言葉は、使 いたくなる。三階山から新鳥居峠を通過中の頃である。

 「このあたりもアバランチシュートというような地形なのでしょうね」
 「殆どの峠あたりはアバランチシュートでしょう」

 山の木々は半年の間は雪の重みに耐えて育つ。若木の間は上方からの雪の重 みを受けて、一旦下方に倒れた形でその雪の滑りを受け流している。そして、 成木となるに従って、上へと幹を伸ばしていく。殆どが曲がり木の形状である。 曲がり木は強度がある。その曲がり木は家屋の天井の梁などにそのままの形状 で使われる。神社などの「てりむくり」の形状も曲がり木を使用している。

 昔、中学生の頃か、先生がこんな事を言って村の人に挨拶をしたのを聞いた ことを思い出した。

 「昭和村に来るまでの山はとんがっている山が多いが、村の中に入ると、と たんに山が丸いような気がして落ち着きますね」

 単なる社交辞令ではなかったのだ。

 雪崩による山肌の削り取りとは異なるが、扇状地という地形は緩やかなアバ ランチシュートといっても良いのだろうか。

 車の前方の道路を横切る鳥がいると「あれはカケスです、カラスの仲間なの にきれいな色をしている。鳴き声が騒々しいのですぐにわかる。」 などと話な がら、カンケさんの話は続いていく。

 六千年前の奥会津、いや会津全体といっても良い、いや東北地方全体といっ ても良い、縄文時代の地形の話である。
 その頃は、現在の平地は殆どが湿地帯であったのである。その為、縄文人は 扇状地の上方に暮らしていた。つまり現在の居住圏よりも標高の高い台地に暮 らしていたのだという。その湿地帯がどんどんと排水されて、ちょうど良い時 代になって初めて稲作や農耕が始まるのである。縄文土器はそういった台地部 分からよく出土する。また、昔からの墓の上の丘からはよく遺跡がでる。この ことは同じ理由である。

 峠の谷沿いの傾斜の上の木には、時々遠目には円形状にこんもりした枝の塊 がある。これがヤドリギである。それをヤドリギという事は知っていた。よく 見かけた。「宿り木」である。大きな木の枝の股あたりから、別の木がこじん まりと何故か丸く生えるのである。他の木に宿るのである。宿られる木は幸い なるかな。ヒトもそうありたい。

 風が運んだのか?
 そうではない。鳥が植えたのである。鳥が植えたということは、鳥が果実を 食べて木の上で休み、結果としてその場所で生理的現象をもよおし糞の中に混 じっていた果実の種が蒔かれる事になるのである。つまり、ヤドリギのある場 所というのは峠を越えて渡りをする鳥のコース上ということになるのである。

 鳥は風を見ている。谷へ吹き下る風に向かって羽根を傾ければ、上方へと舞 い上がる。すると、ちょうど風の弱くなる場所がある。その場所の木にひょい と降りて羽根を休めるのである。そして、そこで重量を少しだけ軽量化して、 また次の場所へと飛んでいく。などと考えると、「風の谷(のナウシカ)」 という言葉が浮かんでくるのである。

 風が運んだのか?
 鳥が風に運ばれたのである。風はどこから?地球の自転とその地形と、一帯 に生える植物や木々が大地に蓄えていた水分の蒸散活動である。つまり植物相 と動物相と粘菌相が絶妙なバランスの上に立っていて初めてヤドリギという事 象が発生するのである。昔々は『風の谷』はどこにでもあったのではなかろう か。そして、ヤドリギは自然保護の標識である。と、わたしの思考がどんどん アバランチシュート(雪崩現象)している(笑)。

 前段(−大芦の人々の話−皆川伝三郎氏のこと)で、カンケさんの架空会話 として、

 「あれが、渡り鳥の道標ともいうべきヤドリギですね」

 と書いたのは、こんなことを思ったからであった。


    「be green」
    カンケさんの会話部分の色は、ForestGreen(#228B22)です(^^;



 【恵比塵73_010】《車中》−南郷へ−
 

 まだ薄みどりのブナの木の山の峠を曲がりおりると、一面に田圃(たんぼ) の風景が広がる。風景そのものに安堵感がある。村里に辿り着いたという安堵 感であろうか。まだ徒歩か牛馬の時代に、峠を越えてこの風景を見た人は、現 代人が感じる安堵感以上の安らぎを覚えたのではないだろうか。

 前段(−縄文土器の話とアバランチシュート地形−)で、中学校の先生が言 った話に少しだけ手を加えてみる。

 「南郷に来るまでの山はとんがっている山が多いが、村の中に入ると、とた んに山が丸いような気がして落ち着きますね」

 単なる社交辞令ではないのだ。南郷の村里も、落ち着いた風景である。「村」 と書いたが現在は「南郷村」はないのである。南会津町なのである。

 「そういう山のことを『里山』というんだよ」 という声も聞こえる(笑)

 国道401号から国道289号に入る。道路も真っ直ぐである。

 とある場所で車から降りる。ここは南会津町山口である。目の前に少し大き い家がある。道路に面して、軒下に薪(たきぎ)が積んである。ここまでは、 少し前の奥会津のどこにでもあった造作である。が、そのタキギの意匠を見て みたまえ。

 「あ、こんなところにあったのですね」

 「こんなところ」とは感嘆の意の表現である。実は写真では見ていた景色な のである。蔵の屋号や、塗り壁のデザインなど、恒久(ある程度の長期)建造 物であれば、意匠を凝らすことはあるだろうが、一年で使いきる材料(予想) に意匠を凝らす遊び心に感心するのである。これ以上は、見てのお楽しみ!と いう事で説明はしないことにしよう。

    参考【里山】
    後日のカンケブログに、昭和村大岐地区の説明に【里山】に言及した説明が載 っていましたので転載します。
    標高730mの集落の周囲は人々が千年利用し続けてきたコナラ、ミズナラの 萌芽更新林で、いわゆる里山と呼ぶが、この地域での古称にはそういう言葉は 無い。「里(さと)」というのは「会津盆地」を意味する言葉だ。ここはそれ 自体が「やま」である。


    画像をクリックすると拡大します(撮影:佐藤孝雄さん)

    南会津町
    http://www.minamiaizu.org/



 【恵比塵73_011】《車中》−月田農園へ−
 

 カンケさんはアポ(イントメント)を取っているのだろうか?ちょっと見て きます、といってその家に入る。わたしはポケットにカメラを入れておいたの にやっと気付いて、軒下に積んである薪の景色を撮影してみる。軒下に積んで ある薪、この構造物のことを呼ぶ言葉があったような気がするが、思い出せな い。生活に関わる構造物だったのである。それをいつも「軒下に積んである薪」 という言い方はしていないはずである。

 どうやら月田禮次郎さんは、農園にいらっしゃるらしいとのこと、農園に行 ってみましょうと車に乗る。近所かと思いきや、そうではない。田圃(たんぼ) のそばの杉林の手前に墓が並んでいる。車を降りる。ここかと思うとそうでは ない。カンケさんはすたすたと墓場に向かって歩いていく。この集落のお墓で、 月田家の墓もある。そこにお参りをするのである。月田家や星家の墓が多い。 わざわざ寄り道をしたのは、現当主月田氏の父上の墓の墓碑銘が昔ながらの近 隣の墓碑銘とはまったく違うからであった。ひとりヒメサユリ(オトメユリ) と向き合って台地を開拓し続けた信念や人となりがうかがえる墓碑銘なのであ る。墓のはずれには、墓の掃除か、老人の方がいらっしゃる。わたしたちはよ そ者である。よそものが、他人の家の墓をじろじろ見ていて怪しまれないか。 と、ちょうど心配してしまうようなタイミングで、カンケさんはその方に「こ んにちはー」と挨拶の声をかける。絶妙なのである。
(この条、農園が先だったか墓が先だったか、順序を失念しています。順序に は意味があったかもしれないのにだ。)

 とある沢から山道に入り込む。すぐに舗装はなくなり砂利道である。壁土の ようでもある。沢の途中には祠があったり、朽ちた木が苔むして沢に横たわっ ていたりする。水辺の森の風景である。しばらく行くと私有地内であることを 示す看板がある。こんな道に入り込んでいいのかと思う。鶏糞の匂いがたって くる。もうすぐだという。最後は車でも登れるかという急坂を四駆がぐいんと 登りつめると、広い畑とロッジ風の建物が見えた。


    【積んである薪のこと】
    「きんにゅう」という。



 【恵比塵73_012】《月田農園》−球塊の越冬と馴化(じゅんか)−
 

 女性の方が一輪車でなにやら運んでいる。それが何なのかはわからない。月 田氏に挨拶をして紹介していただいた。広い屋根付きの作業場には、球根の箱 が出ている。これがヒメサユリの球根かと想像したが、間違っていた。後日に カンケ氏のブログを拝見すると、

 >>カラーの越冬球塊を土室から出し定植前の馴化作業をされていた。

 とあった。土室とは斜面に横穴を掘った、土で囲まれた室(むろ)である。 冬期間はその中で保管して、凍結しない状態でかつ発芽しない状態を保つので ある。つまり電気仕掛けの温度調整や乾燥除湿を行なわずに畑にあった状態と ほぼ近似した環境で冬を過ごさせるのである。ひんやりした室の中でお二人が 話をしているのを覗き込んで聞いていたが、そのすばらしさをあまり理解した 訳ではなかった。
 「畑にあった状態と同じ環境」とはわたしが勝手に想像しただけなのである が、それならば「畑にそのまま置いて置けばいいのではないか」と訝(いぶか) る読者がいらっしゃるかもしれない。そうではないのだ。ここは職業としてカ ラーを栽培して販売するのである。市場に出回る季節や量も見込んだ上での開 花時期の調整も必要(必須)となるのである。
 理由はそれだけではない。「畑にそのまま置いておけば」、冬の間に野生動 物の食物になってしまうのである。

 月田農園の畑のそばの「土で囲まれた室(むろ)」は、山の傾斜を利用して、 設計施工された、動物の侵入を防ぐチルド保冷庫ということだろう。景観への 配慮もあるのかもしれない。

 動物の侵入を防ぐチルド保冷庫は、昔は居住地域であれば、ほぼどこにでも あった。それは、倉、土蔵である。土蔵は、動物の侵入どころか人の侵入をも 防ぐ装置を備えている。その装置は錠前という。土蔵は、任意想定空間を、土 (と藁)で囲んで施工されるのである。
 その土蔵の入口あたりの地面に莚(むしろ)が敷かれて、そこにはジャガイ モの種芋、その他色々の球根が転がされてあるのは見たことがあった。色々の 球根の名前は知らなかった。忘れたのではなく、それらを活用して作業を経験 することは無かったからである。ジャガイモの種芋しかモノの名前が出てこな いのに、こんなエラソウに書いても良いのだろうか。

 ところで、筆者の地の文章では「球根」と表記しているが、題名と引用部分 では「球塊」と別表記をしているのにお気づきか。ひとつひとつ大事に扱って いると「球塊」となるのである。それに、こころが込められると「球魂」にま で昇華する。一球入魂!(嘘です)



 【恵比塵73_013】《月田農園》−上のはたけと下のはたけ−
 

 カンケさんに連れられて、上の畑へ行く。わだちの付いた道には、小さな名 もない草が生えている。いや、名前はあるのだ、わたしがわからないだけなの だ。そうである。名前のない草があったら、それは大発見ということになって しまうではないか。
  「これはなんとか、これはかんとか」 と話ながら歩いていく。
 わたしは踏んづけてきてしまったのではないかと思う。ふきの葉とか、びっ きっ葉とかはわかる。なんとかとかんとかは何だったのか、忘れてしまった。

 木の葉とどんぐりの実を踏みしめて、上の畑を見る。きれいに整地されてい る。ここにオトメユリが一面に咲いていたであろう風景を想像する。丘のよう な山頂から、ざわわざわわと風が吹いて、オトメユリが一斉に揺れる風景であ る。しかし、同じ種類の花、植物を同じ場所に毎年毎年栽培する事は出来ない のである。連作障害というのだそうだ。その為、この広い場所は、今度は蕎麦 畑になるのだという。

 下りは、見通しの良い雑木林の中にある緩やかな道を通る。雑木林の中はふ かふかするほどの木の葉が落ちている。その木の葉は道の一帯にも吹き込んで きている。よくみると、道の上の木の葉は所々でまとまっている。風が作った 吹き溜りではない、箒かフォークか熊手かで緩やかにかき集めてあるのだ。カ ンケブログのどこかで、「見えない仕事」と書かれていたその所作の気色(け しき)である。

 月田農園のことについては、『月田農園物語』(会津学4号)をはじめ、複 数の方が訪問記として書かれている。いろいろな物語が書かれている。有名な 「八五年八月清掃 茂七十二歳」と刻まれたホオノキ。先代の月田茂さんが、 ホオノキの幹に開墾した記念に鉈(なた)で、銘を刻んだのである。勿論写真 でしか見ていなかった。その今でも成長しているホオノキが目の前にある。い ろいろな人が書いたことであろうが、語り尽くされたわけではない。

 わたしの観察眼はどうみたか。
 おそらく刻まれた時には、殆ど楔(くさび)形の文字であったろうと思われ る。円筒状の樹木の非定型曲面を鉈で削るのであるから、一部は太く深く一部 はカナ釘文字のような形であったろうと思う。これは、月田茂氏の鉈の技量の ことを意味するわけではない。
 その茂氏の楔形文字を、年月とホオノキの生長が四半世紀がかりで少しずつ 変形させていった。変形して読めなくなったのではない。四半世紀というとき が、カナ釘文字からゴシック体そして見事な明朝体へと字体をメタモルフォー ズさせたのである。まさに、時代が字体を変えていった、、、、駄洒落にする つもりはなかったのですが、ついつい、、、すみません。

 古木の桜のそばに葡萄棚らしき影の下に大きな池がある。清冽な水が流れ込 んでいて、池の中にはイワナ?が群れて泳いでいる。そのほとりには木製のベ ンチ。
 二段式の水槽には清水の引き水が流れている。水辺には小さな水芭蕉。ワン カップのガラスの容器がおいてある。受けてその水を飲む。少し離れてお二人 はなにやら技術的なことや花卉業界内のディープな話をしている。いや、内容 がわからなかったのでディープな話なのだろうと思っただけである。

 月田さんは、池のそばの枯れた巨木の下にしゃがみこみ、小さな葉の付いた 草を指差す。

 「こういうのは、博士(山)あたりにはあるのかな」。

 指で葉を下から少し持ち上げる。葉っぱの形はわたしも知っている形である。 その葉っぱ形の植物は沢山あるので名前はわからない。その植物の名前はわか らないが、「葵(あおい)のご紋」の形である。
 わからなかったら尋ねればよい!のであるが、わたしの場合、この草花の名 前だけがわからないのではなく殆どの草花の名前がわからないのである。本当 に知りたい!という欲求があれば、尋ねる前に草花図鑑とか他の手段で基本的 な名前の素養をつけておくべきである。その上で、おや?この花は?という事 であれば相手は尋ねなくとも自ずから教えてくれるであろう。
 月田さんとカンケさんの間では、このことと全く同じ関係が出来上がってい るのである。

 「おや?これは?」

 「コシノカンアオイというんだが、」、

 という具合に二人の会話は途切れなく続いていくのである。シャクナゲの地 域による植生の違いとか、そういった話や、希少種の話などをしているようで ある。わたしは二人からは見えない位置でノートに『コシノカンアオイ』とメ モした。まさか、花卉業界の人が知ったら重要企業機密事項、などということ はありませんように。


    【風よ魚沼へ 】すずきのユリさんの《月田農園》訪問記
    恵比塵完全脱帽、栽培(生産)者ならではの視点と表現にあふれています。
    森のカラー
      http://blog.goo.ne.jp/suzuki_no_yuri/e/36ad09d3731581822a47acb12dca2763
    森が育てる花を訪ねて
      http://blog.goo.ne.jp/suzuki_no_yuri/e/ea7a519337ace1ac1ee3a9cb8448d4c3

    【福島民友社】特集《ふくしま里山物語》
    【 12 】ヒメサユリ/半世紀かけ栽培法確立(月田農園記事)
      http://www.minyu−net.com/flower/satoyama/090625/satoyama.html



 【恵比塵73_014】《月田農園》−いないはずの猪(いのしし)−
 

 帰り間際になってから、月田さんが「このあたりにはいない筈の猪(いのし し)」にユリの根を掘り起こされて食べられる被害が出ているという話。足跡 や荒らし方や残留物(食い残しとか)で判断されるのであろうが、いない筈の 動物(この場合には北限か)がいるということは、環境が変わっていることを 意味するのである。
 貴重な月田農園のユリの根を守ることも勿論であるが、その事(野生猪によ る被害事由であること)をきちんと説明(証明)するには、わなを仕掛けると か落とし穴を作ってみるとかで捕獲する必要がある。といった話である。もっ と複雑な話だったかも知れない。
 ついつい、「落とし穴を覗いてみたら、人が入っていた(盗掘だ)などとい うことは無いでしょうね」などと場違いな冗談を言ってしまう。すみません。

 一度、昭和村の地図を眺めていて、昭和村に入り込んでいる川(沢)は存在 しない、つまり、昭和村は分水嶺の地である、などと考えたことがある。机上 での調査(大げさな)でしかないので、本当かと聞き返されると断言できる程 の自信はない。が、これを敷衍(ふえん)すると、南郷と昭和村には水流の行 き来は無い、つまり、南郷と昭和村の間にまたがる山も分水嶺ということにな る。

 昭和村の天水は野尻川に流れ込み、南郷の天水は伊南川に流れ込むのである。 陸封された川魚の移動は水中をもっぱらとする。時々空中では水面上30セン チ程飛び上がるが、仮にその分を水平に移動したとしても、よもや隣の沢に入 り込む(移住する)ことは無い。こうして、沢(川)毎に固有種となる。野尻 川水系(支流)の××沢のイワナが、伊南川水系の××沢でも釣れた!などと いうことがあるらしいが、それは釣り人が意図して峠を越えて運び込んだのだ ろう。
 いないはずのサカナがいたら、それはたいていヒトの仕業である。魚類であ ればこの様に説明がつくが、動物の場合はどうであろうか。家畜化した動物や ペットが逃げ出して繁殖したというのはよく聞くことでもある。これも、ヒト の仕業といっていいであろう。いないはずの野生動物がいるのは、環境が変わ っているのであるが、環境が変わりつつあるその原因は、やはりヒトの仕業で あろう。
 いないはずのモノが見つかるのは、目立つのでわかり易いのであるが、その 事実を認識せざるを得ない事態にまで来てしまっているということで、後戻り できない事態となっているということである。
 いたはずのモノが見つからなくなってしまう事態は、目立たないので気付き にくいのである。気付きたくない、というヒトの本性もあるかもしれない。自 然と向きあう人々の営みから生まれる敏感な感性に、人工物の中で暮らしてい る人々はもっともっと気付くべきなのであろう。

    《お断り》「昭和村の天水は野尻川に流れ込み、」について。
    話の都合で、この様に記載していますが、「昭和村の天水は野尻川または滝 谷川に流れ込み」ます。表現上で、対句形式にしたかっただけです。

    ここで、水系のことを書いて、どうもどこかで読んだような気がして仕方が なくなってしまった。探してみた。やはり、、、『月田農園物語』の中で、昭 和村では見かけない形の香箱の文化について言及した条にこのようにありまし た。
      月田さんの暮らす南郷村と昭和村は尾根ひとつの違いしかない。
      水系がひとつ違うだけでこれだけ暮らしを支える文化が異なる

    筆者(恵比塵)は、これらの文章に無意識に触発されて執筆している事は間違 いありません。改めて、その元となった文章を転載して、お礼と致します。
    他にも、雑誌『会津学』の掲載内容に触発されている箇所は随所に発見出来る ことと思いますが、それらは本特集号発表の経緯(いきさつ)自体が「触発」 によることにあります。但し、正しく触発されているとは限らないのが難点で す(笑)
    (追記:09/06/25)



 【恵比塵73_015】《駒止隧道》−雑稿:閉鎖空間のこと−
 

 「駒止トンネルを抜けて行きましょう」

 次は、何が出てくるのだ。わたしはまだカンケさんの本日のこの後の行動予 定についてお聞きしていないのである。駒止トンネルを抜ければ、田島である。  田島といえば南山御蔵入田島宿、田島宿と会津学といえば、雑誌『会津学』 に載っている、あの花職人Aizuグループの花生産農家であり、土っ子味噌 の生産販売をしている湯田夫妻、湯田浩仁さんと湯田江美さんのところではな いか。(語りはたぶんにフィクションですが、固有名詞は事実に即しています)

 わたしはこれからお会いするであろう湯田夫妻について知っている事を想起 しようとしていた。

 クルマは、森の道から、いつのまにかトンネルに入っている。

 トンネル内は大抵は単調空間である。会話は、その環境にも左右される。ま た、お互いの共通話題のありどころにも左右されるのも当然のことである。ク ルマの中というのは見方によれば、それは閉鎖空間である。緑のパステル風景 を走れば、開放空間にもなる。トンネルというのは、単調空間のうえに閉鎖空 間でもあるので、クルマの閉鎖空間が強調されることになる。
 閉鎖空間の典型は、エレベーターである。商業施設のエレベーターは大抵は 多数の人が一緒に昇降するので、都会人はエレベーターもエスカレーターも、 歩く道路も感覚の違いが無くなってしまっている。行動の違いは、じっとして 移動するか、Uターンはしない(一方通行)か、立ち止まったり戻ってもよい かといった座標系の感覚でしか捉えられなくなっている。(#1)
 居住用建造物などのエレベーターでは、ひとりだけでの昇降の場面が多い。 そこに、たまたま知人(顔だけ知っている)が乗ってきたりすると、微妙な閉 鎖空間が出来てしまうことがある。3人以上であれば、感覚は(#1)の状態 に漸近してくる。
 その、閉鎖空間(エレベーター)に乗り合わせた人との会話は、こんな風に なってしまうことがある。

 「こんにちは」
 「、、、」声に出さずに、会釈だけする。
 ・・何か言わなくちゃ・・
 「梅雨に入りましたねー」
 「そうみたいですね」
 ・・・シーン

 真っ直ぐなトンネルなのに、話が曲がってしまった。話の出口も間違えた。 やり直しである。



 【恵比塵73_016】《駒止隧道》−Il Nome della Giglio (百合の名前)−
 

 「駒止トンネルを抜けて行きましょう」

 クルマは、森の道から、ひゅいんとトンネルに入った。

 閉鎖空間はヒトを内省的思考に向わせる。
 南郷に入ってから、わたしはモノの名前について無頓着であることに気付い たのである。モノの名前は単なる記号か実在かという形而上的思考のトンネル に入ったのである。
 副題として『百合の名前』としてみたのは、ウンベルト・エーコの『薔薇の 名前』(原題:Il Nome della Rosa)を気取って(パクって)みただけである。

 「クルマは、」「カンケさんの四駆は、」「藍色の乗用車は、」
 わたしは、クルマを運転しないので、車種や諸元やメーカー名やそのクルマ の一般名称がわからないのである。強いて覚える訓練も勉強もしてこなかった。 興味が無かったからである。
 コンピュータプログラムの中では、モノの名前(識別子や変数名)というの は、記号でしかないので「藍色の乗用車」の事は、「A」という名前でも「B」 という名前でも一向に差し支えないのである。算数の記号数式などもこれにあ たる。「藍色の乗用車の事を(仮に)Aと定義する」という方式である。
 しかし、現実界では「A」や「B」では通じない場面の方が多くなる。「仮 に定義」した記号を押付けることになるからである。それはコミュニケーショ ンから円滑性を無くしてしまうことになるのである。

 そしてその名前を付けられたモノには、その名前だからこそ、名が体を表し、 その名前そのものが実在であることがあるのである。

 小難しい偏屈話はここまで。

 聞いて驚くな!いや、恵比壽塵報は音声サービスをしていない。
 読者諸兄姉諸君、刮目(かつもく)して読まれよ!

 藍色の四駆のオートロックの会津ナンバーのカンケさんの分身ともいうべき 相棒ともいうべき移動装置かつ応接空間ともいうべき愛用のクルマの名前は、

 『スバル・フォレスター』である。

 何故にスバルか?
 辞書を牽いてみるとよい。おうし座にある散開星団プレアデスの和名とある。 それは置いといて、その次の説明を見よ。「農耕の星でもある」とも説明して いるであろう。吃驚(びっくり)するのはまだまだである。
 フォレスター、、、
 フォレスターとは、森(フォレスト:Forest)の「er形」です。
 《森人(もりんちゅ):Forester》です。
 スバルはすばる(昴)である。谷村新司の唄う♪我は行く、のあの昴(すば る)である。これらの事ごとに思い至った時に、「クルマ」で済まされるか。

 ちなみに、er形とは以下のような事例で了解されよ。
《Farmer:畑人》《Mountaineer:山人》《Villager:村人》《Townee:町人》 《Urbanite:都会人》などなど。本当かい?と疑われるように書いてみたので、 興味のある方は辞書にあたられよ。森人(もりんちゅ)とは載っていません(笑)

 思考はそのまま直進する。
 月田農場には、円形屋根の車庫に大きな水色のトラクタが鎮座している。こ のメーカー名は、恐らく会津地方には見かけないであろう「フォード」社製の トラクタである。トラクタどころか乗用車でもフォード社製は走っていないの ではないか。
 何故ヤンマー農機具ではなく、「フォード」のトラクタなのかと考えたのに も、こんなことから想起したことであった。トラクタの前面の「FORD」の 文字自体が、「月田農園のあのトラクタ!」という意味を持って、自立してい るのである。
 これらの事は、後節にも説明されることになろう、、、今となっては、、、 その形状を、ユリの名前から、俤(おもかげ)を観察、想像するしかなくなっ てしまった、、えーと、その、百合の名前、、乙女、えーと、オトメユリ、、 の事も、、、

 ・ ・ブイーン・ ・

 「ジンさん、ジンさん!」
 「はっ、」

 「湯田さんは田部のハウスにいると思います」

 駒止トンネルは抜けた、
 スバル・フォレスターは、再び森の中を走りつづける。



    せつめい:
    【恵比塵73_017】編の題名、《御蔵入り(おくらいり)》とは、計画が頓挫した事ではありません。
    恵比塵の没原稿の使いまわしということではなく、《御蔵入り》とは江戸時代の 幕府の天領地、直轄地、つまり蔵入地(くらいりち)をさします。

    南山》とはほぼ現在の奥会津地方と栃木県北部を指します。奥会津は紆余 曲折があり会津藩の領地となりました。奥会津の奥深さはこのあたりにもある といえましょう。

    では、【恵比塵73_017】本編です。

 【恵比塵73_017】《南山御蔵入田島宿》−湯田さんイルカナ−
 

 森を抜けると、山はどんどん遠ざかり平地が広くなってくる。
 川のそばに、大きなビニールハウスが幾棟も並んでいる。道路からそのビニー ルハウス群の中にある通路に入っていく。突き当たれば川の堤の道路につなが る。その途中にトラックが止まっている。荷台には色々な仕事道具が積まれて いる。このトラックもあまり見かけない形と色をしている。スバルでもフォー ドでもなかったが、おそらく所有者のこだわりのクルマ(トラック)なのであ る。話の都合で勝手に、「ドルフィン号」と名づけておこう。運転席の前方が ロングノーズ型ではないので、そんな気がしないか。運転席と前面がほぼ垂直 に真っ直ぐなトラックは多いが、イルカのおでこのように少しだけノーズが出 ているのである。クルマには(も)全く無知なのでお許しいただきたい。
 このドルフィン号がいる場所には、そこに所有者がいらっしゃるのである。 このドルフィン号が田島の町中を走っていれば、「湯田さんちのクルマだ」と わかるのである。

 湯田浩仁さんは、なにやら道具を出して作業中らしいところである。
 湯田浩仁さんとは、神田の自然志向のマザーズという店のMPSフェアとい うイベントでお会いしていた。店頭で生産者が直接利用者(エンドユーザー) に花の説明をして販売するイベントである。その時に会った人はカンケさん、 湯田さん、山内さん、手代木明美さん等の方々である。皆さん全員の方とのお 話(挨拶)は出来なかったが、湯田さんはとても人なつこい印象を受けた。
 神田のすずらん通り商店街を散歩してしばらく観察していると、染め色カス ミが急に売れ出して直ぐにも完売となる勢いなので、慌てて手代木さんにみつ くろっていただいてカスミ草を買った。その時、湯田さんはいたずらっぽい笑 顔で「持ってけ、持ってけ!」といって、染め色カスミ草の説明カードとフラ ワーフード(花持ち剤)の袋を沢山(ごそっと)下さったのである。
 そんな事での再開である。

 ハウスの中を見せていただく。乾いた土の畝に、藤の花を逆さにしたような 花がずらりと咲いている。花は全長の下3分の2あたりの位置から、満開、す こし満開、半開、すこし半開、つぼみ、すこしつぼみ、完全つぼみ、これから つぼみの発生予定、といった具合に細長い三角錐の形状である。

 この花の名前は、デルフィニウムという。
 土は乾いている。色々の理由で、ずっと水遣りをしないのだそうである。ま だ育成技術が確立しているわけではないらしい。色々の理由とは、花持ちとか、 開花調整とか、茎の強度とか。
 茎の中心部は空洞になっているそうである。その事で茎は強度を増し、折れ 難くなる。取扱いも容易となるのかも知れない。中を空洞にする事で強度を増 しているのは、花の茎に限らない。コンクリート製の電柱などもそうである。 例が悪ければ、空洞である事の強靭さは、竹の木がまさにそうであろう。もっ と似たところでは、からむしの茎などもその類(たぐい)であろう。

 下部に生えている葉は、様子をみて抜いていく。葉をとる(落とす)のは、 植物にとっては優先度をつけたサバイバルでもある。葉に栄養を取られてしま わないように、きれいに見てもらう花にだけ集中したりまた開花期間をできる だけ延長させたりするのである。きれいに見てもらう対象は、昆虫であったり、 鳥であったり、そしてヒトであったりする。これらのうちでは、ヒトが一番わ がままなな要求をするのではないだろうか。

 草花(植物)は、根や球根や地下茎で増えるものもあるが、花を咲かせる根 本は世代を繋ぐ活動と生存の為の移動である。この「生存の為の移動」とは、 植物は自ずから連作障害というリスクを回避する手段を持っていたということ の証左ではなかろうか。ついつい深いところに考えが及んでしまったのには、 勿論訳がある。

 草花(植物)の受粉機能とその移動(繁殖)形態の種類として、「虫媒花」 「風媒花」「鳥媒花」などの種類がある。こうした事ごとは花の進化の途上で 形成されてきた仕組みである。そして、もうひとつ、ハナは「購買花」という 新しい戦略を打ち立ててきているのである。ちゃんちゃん。←アホ。

 この花の名前は、デルフィニウムという。

 「この花の名前は、花の形状から来ているのですよ」
 湯田さんと生産技術的な話や、月田農園の球根の出来具合の話の途中に、わ たしにも聞いて分かる話を説明してくださる。
 「デルフィニウム(Delphinium)とは、この花の形がイルカに似ているから なんです」
 「イルカ、つまりドルフィン(Dolphin)、デルフォン(Delphinus)です」
 西洋人はこの花をドルフィンに見立てて命名したというのです。
 確かにそう言われれば、近寄って花の一つをみれば、イルカに見えなくもな い。トリビアである。

 「和名では、ヒエンソウといいます。飛ぶツバメの草、飛燕草です」

 花をプレゼントされる時に、プレゼントする時に、こんな由来を説明できた らステキですね。


    花職人Aizu
    トルコギキョウを主とした会津の切花生産グループのブログです。
      http://kiribana.exblog.jp/



 【恵比塵73_018】《南山御蔵入田島宿》−人もツバメも集まる作業所−
 

 ハウスから移動して、堤の道を通り、町中の湯田さんの家の母屋の隣の作業 所に移動する。
 作業室の中では、女性が2名、デルフィニウムの花の出荷準備中である。お ひとりはこの作業室の主(ぬし?)湯田江美さんである。とても気さくなお美 しい方である。花と江美さんとどちらが美しいかなどとは、聞かないで欲しい。 この時には、後日に東京で再開するとは夢にも思っていなかったことである。

 壁際2面に、テーブル状の長い台が設置されている。台は水平ではない。手 前に少し低くなっている。その台に花を置く、取りまとめる。まとめた花を持 ち上げる。こういった作業に合致したよく考えられたデザインだと思う。ただ、 他の花卉業界の設備を観察したことが無いので、この作業室特有の設備かどう かはわからないが、既製のテーブルではなく内装工作である。それだけではな い。その台には、手前から奥に向って横線が何本も引かれている。つまり、花 の長さを測るメジャーとなっているのである。部屋の中央近くでは、下葉を取 り去ったりの作業なのであろう。すると、この2面の台が手前に傾いているこ とにより、部屋の中央でしゃがんで作業をしていても、台上の花の量と、メジ ャーで長さごとに取りまとめられたほぼサイズ毎に、現在の加工量が一目瞭然 なのである。すばらしい工夫だと思う。ベルトコンベアや作業分担による流れ 作業ではない。誰でも負荷(滞留)のある工程を手伝う事が出来るのである。

 新しい作業所の建物である。まだ建てて間もないらしい。作業室の奥には、 保冷用ケース(冷蔵庫)、この中にはやはり大事な大事な越冬球根が入ってい るのだろう。作業所といっても、機能一点張りの部屋だけではない。他にも部 屋がある。ワイワイと人が集まれる部屋も作られたという。なんとそこはバラ の模様の壁紙である。どなたのご趣味かは聞きそびれた(笑)。部屋には大き なテーブルがある。そのテーブルには、真中に大きな凹部の囲炉裏状に加工さ れている。自作だという。手をかざして温まりながら、ゴヘイ餅の串や五徳の 網の上でぷっくりと餅の焼ける風景が見えるようである。

 作業所の前は広い。トラックが作業所に横付けすれば雨が当たらないように、 また荷運び中にも日陰になるように高い屋根の設備である。
 その屋根裏(天井部分)は、新しいので、ツバメが巣づくりの標的にしてい るらしい。これは少し対処を考え中らしい。

 人もツバメも集まる明るい作業所である。


    土っ子田島味噌通信
    ブログ:湯田さんちの味噌です。
      http://tuttkomiso.exblog.jp/



 【恵比塵73_019】《南山御蔵入田島宿》−祇園会館−
 

 お昼でも、ということで、湯田さんに紹介されて『祇園会館』へ。連休のせ いだろう、県外ナンバーが多いようだ。昼時の祇園会館では長い行列までは作 らないが、少し待ってから席(テーブル)に案内される。広い食堂である。地 産品だけの料理のバイキングをいただく。湯田さんが通れば店の皆さんも挨拶 される。

 食後に、黒豆のスイーツ。プルンプルンと、水羊羹のような風情である。甘 いものは苦手であるが、これは黒豆だけの甘さだろう。旨い!のである。上に 載せた小さな緑の葉っぱはアクセントでもあり、ほんのりした香味がある。こ れも、地場産のクレソン?らしい。
 3人で話をしながらも、カンケさんはいつのまにかにその黒豆のスイーツの 写真を撮っていた。その場では気付かなかったが、後日の同氏のブログにしっ かりとその写真が掲載されていたのである。わたしは唸ってしまった。

 話の中では、わざと方言をいれて、「むくっちぇ」などという会津弁で話題 を和ませる。
 「ははは、『むくっちゃ』か、昭和(村)でもゆうだな」などと。
 ちなみに、「むくっちゃ」とは、良かれと思うことが通らずに腹を立てて 「きめっこ」することである。決して「プッツン」ではない。
 「きめっこ」とは、良かれと思うことが通らずに「むくっちゃ」ままになる ことである。決して「プッツン」ではない。
 周りの人は、その本人の性格や心の持ち様などをよく知っているので、この 状態というのは割と緩やかに評価され、そのことが後を引いたりはしない一過 性の状態である。少し子供っぽかったり、愛嬌も含まれる怒りの状態でもあっ たりする。

 誰の何の話題で「むくっちゃ」話になったかは、それは読者の想像におまか せとする。それを書いてしまうと、

 「ははは、カンケさんが、むくっちゃ」、になっちま。


    会津田島祇園会館
      http://gionkaikan.biz−web.jp/



 【恵比塵73_020】《南山御蔵入田島宿》−舟鼻・地名に残される記憶−
 

 田島から北西方向を眺めると、山頂がずっと横に平(たいら)に、立ちはだ かっている。横に平にとは、普通に想像する山の形ではなく、とんがった主峰 (山頂)がわからないのである。台形の形状である。初めて位置を確認したが、 そのあたりが昭和村とつながる舟鼻峠と呼ばれる山の形である。あの山(峠) の向こうが大芦村であり小野川村であり両原村であった。

 その地を舟鼻(ふねはな)と呼んでいるが、地名の由来は分からない。「× ×のハナ」というと「デルフィニウムのハナ」とか思い付いてしまうが、これ は地名の事ではない。「××のハナ」というと「天狗の鼻」とか、なんとなく 形状由来ではないかと考えたくなる。「舟の鼻」とは舟のどのあたり指すのだ ろうかと考える。それとも、「鼻」ではなく「端(はな)」と考えると、「と っつき」とか「せんたん」とか「へさき」とか「縁(ふち)とか淵(ふち)」 とかそういった連想も考えられる。事実、鼻と端は元々をたどれば同源なので ある。しかし、実際の山塊の形状はどのようであるか。遠望するに、台形つま り跳び箱の一番上の段の形状なのである。

 どなたかの説があるのかもしれないが、カンケさんは 「『舟の鼻(はな)』 ではなく『舟の腹(はら)』」 とつぶやくのである。

 確かに、舟をひっくり返した形、つまり舟の腹が上部にある状態。つまり、 転覆した形である。うなづけなくもない。何故に、「舟」が地名に採用された のかと考えてみた。

 海にははるかに遠いが、現在の田園風景がまだ湖沼地の頃や、流れの緩やか な「川」のある地域には勿論小さな舟はあったであろう。ただ、それ(舟)は 地域住民の共有する言葉として地名にまで採用される程のインパクトはあった のだろうか。舟の意味はなにか。地名の一部としてでも残しておきたい、共有 体験や記憶があるとしたら、、、

 舟の腹が鮮烈な記憶に残っている人々といえば、渡海人とまでは言わなくと も、平家の落人の方々ではないか。と、この様に考えると、田島を中心とした 奥会津(特に南会津)には平家伝説が多く残る地域なのである。

 そのように考えて、地図をもう一度みると、舟鼻の南西側には「荒海山」で す。このあたりには、海の記憶を持つ人々が移動して来ているのである。それ も、船の転覆するほどの荒れた海の記憶。壇ノ浦ではないか。と書いて気付い たが、舟鼻峠の地形の輪郭は、あの壇ノ浦の輪郭図にそっくりではないでしょ うか。
 そして、奥会津の荒海(あらかい)から見たときには舟鼻峠は北東に位置す る。北東とは、丑寅(うしとら)、艮(うしとら)の方角、つまり鬼門(きも ん)にあたるのである。

 全くの半可通の、思い付きでございます。読んで笑っていただくしかありま せんね。



 【恵比塵73_021】《会津西街道》−会津西街道(あたり)を行く−
 

 田島と南郷、昭和を隔てる山塊が聳え立っている。この山塊は、前段で書い た舟鼻(ふねはな)のことである。
 この山塊は、田島と昭和村の水系を分ける分水嶺ともなっている。駒止峠に よって南郷との水系も分けられている。
 昭和村の天水は野尻川に流れ込み、田島の天水は阿賀川に流れ込むのである。

 『わたしの月田農園物語』の筆者(菅家博昭氏)は、このように表現してい る。昭和村では見かけない形の香箱の文化について言及した条(くだり)であ る。

    月田さんの暮らす南郷村と昭和村は尾根ひとつの違いしかない。
    水系がひとつ違うだけでこれだけ暮らしを支える文化が異なる。

 『恵比塵』の筆者は、「××水系のイワナ」とサカナの話としてしまったが、 水系による文化伝承の相違については、とうに菅家博昭氏によって論考されて いたことであった。ここで紐解くことはしないが『会津学』の他の同人の文章 に、植生の話として、「奥会津(アバランチチュートシュート)地形の興味深い奥深い モザイク模様の話」が載っていたと記憶している。これは(論文)でした。本 紙記者のような単なる触発話ではないのである。

 水系の話を続ける。
 南郷の天水は伊南川に集められ、只見川に注がれる。(A地点)
 昭和村の天水は一部は野尻川に集められ、只見川に注がれる。この位置はA 地点よりも下流である。(B地点)
 昭和村の天水(主に博士山水系)は滝谷川に集められ、只見川に注がれる。 この地点はB地点よりも下流である。
 そして、田島の天水は荒海山を源流とする大川に集められ、阿賀川となり、 会津若松を北西に漸進して只見川と合流して、日本海の阿賀野川への大河の流 れとなるのである。
 (奥)会津は、越の国に川の流れで天と地と山のめぐみを振り注ぎ、越の国 では、これらのめぐみに育まれた人が、川を遡って上流(奥会津)へと海の贈 り物を届けたのである。これは、「天地人」の物語よりもずっと昔の事じゃっ たぁ、である。壮大な歴史浪漫の源流ではないか。

 この大川、阿賀川の流れに沿った街道がある。その名前は、「会津西街道」 と呼ばれる。江戸からは日光街道を抜けて、それにつながる会津西街道を行け ば、道に迷う事なく会津若松まで辿り着くのである。

 「こっちからの道は初めて通るのですが」
 とカンケさんは、GPSをセットする。スバル・フォレスターが踏破してい ない未知の道があるのか?最近新しい道が出来ているのである。

 こうして、『会津西街道あたりを行く』ことになる。

 向かう先は、会津西街道で有名な大内宿ではない。

 「こっちからの道は初めて通るのですが、下郷町の大松川に行きましょう」
 そこは、新しく出来た道のそばに、大松川の地元の人々が集まり、誰にこび ることもなしに自然に発生した小さな直売所があるのである。

 「お不動さま直売所」という。


    《追補:会津西街道について(会津五街道)》
    「位置的に会津南街道ではないのか」とのご指摘がありましたので追補してお きます。
      【会津五街道】
      いずれも若松城下の大町札の辻を起点とし、栃木県今市へと向かう下野街 道、白河へと向かう白河街道、隣藩の二本松城下へと向かう二 本松街道、山形県米沢へ向かう米沢街道、新潟県新発田へ向かう 越後街道のことである。
      (『トランヴェール(2009.5.MAY)』より転記しました)


    このなかの、下野(しもつけ)街道のことを、会津西街道、ま たは南山(みなみやま)通り と称されると記載されています。

    この『トランヴェール』はJR東日本の新幹線車内の無料配布誌です。
    4月30日に乗った時の、5月号の特集は『人が語る、歴史が語る 会津若松 と五つの古道をめぐる物語』という特集でした。気になったので持ち帰りました。
    後日に菅家博昭氏にお会いした時に、同氏もこの冊子を見ていて、調査内容の 濃さと写真の着眼点などについて絶賛されていました。
    筆者は1冊だけ持ち帰りましたが、菅家博昭氏は「まわりの席の5、6冊を もらってきた(笑)」と言ってました。まさにパワーの格段の違いを見せ つけられた次第でした。
    (追補:09/07/04)



 【恵比塵73_022】《会津西街道》−お不動さま直売所へ−
 

 町内を抜けて、郊外の大通りを通ると、わき道から入ってこようと待ってい る車が目に付く。信号などは無い。わたしは運転をしないのであるが、助手席 に乗ってみていると、「前方左側道より合流気配の直進車あり!」などと心配 して声を掛けたくなってしまう。

 「お不動さま直売所」に着くまでに、地域で自立する経済活動とは、過疎地 (すみません田島は過疎地ではありません)と都会との交流とは、殆どはマニ ュアル通りになどはいかない、ということの近傍事例の予習をしておこう。

 湯田江美さんは、隣村の昭和村の地元の活性化の為の勉強会の講師などもさ れたらしい。また、湯田さんご夫妻の地道な活動の戦略についての話などをお 聞きした。この戦略はやはりご夫妻ならではの、あったかさを感じてしまう戦 略なのである。どういう戦略かは秘密というほどではないが、恐らく余人には 具体的に説明(マニュアル化)しても継続出来ないのではないかと思うので、 勿体つけてここでは説明しない。

 以前は、切花等の花卉栽培農家は千葉県にしか存在しなかった
 存在はしていたのであるが、一般購入者から見ると存在しないと同じ事であ ったのである。それは何故か、媒体(新聞雑誌園芸ガーディニング生活スタイ ル誌等々)が、首都圏からの日帰りで取材できる近郊にしか赴かなかったから である。また、花(花卉)の媒体記事はその種類と生育方法のマニュアルと新 種(流行り)の説明があれば殆ど事足りたことにもある。それで、取材地とし ての紹介も千葉県××生産農家の○○さんとなってしまった。以前は、花は花 そのものが主であり、生産者の情報は記事の筆者が実際に現地で取材をしたぞ という付帯証拠のようなものであった。らしいのである。聞いた話を思い切り 極端な解釈をしてしまったが、つまりはそういう事である。JAの共撰出荷の 仕組みなども同様であろう。

 それが、食品の安全性の問題、産地擬装などの不祥事などの事件も要因の一 つとなっているが、「生産者の顔の見える商品」に世の中は少しずつシフトし てきている。
 それでも、媒体の取材が首都圏からの日帰りコースを実施している限りは、 埼玉県△△生産農家の◎◎さん一家あたりまでしか届かないのである。

 ところが近年は、首都圏からの一泊コースででも、媒体の取材が田島町まで 頻繁に訪問するようになったのである。
 こうして、切花等の花卉栽培農家は福島県会津田島にも存在することになっ たのである。つまり、媒体(新聞雑誌園芸ガーディニング生活スタイル誌等々) にもどんどんと掲載されることになって、一般購入者も田島という地名と湯田 夫妻という存在を知ることになったのである。

 業界記者は勿論一般紙記者でさえも仕事であってでも、そこに行ってみたく なる、湯田マジック!湯田さん夫妻ならではの手間隙を厭わない工夫とその継 続なのである。

 話に誇張の部分があれば、それは、マツダスバル・フォレスターの操縦者の誇張で はなく、筆者の聞取り能力の減衰と吹聴能力の発露の為です。
(聞書責:恵比塵)



 【恵比塵73_023】《会津西街道》−お不動さま直売所−
 

 それは08年のこと、新しい街道沿いの道の脇に、いつのまにか数本の「直 売所」だったか「販売中」だったかの幟(のぼり)が立った。殆ど目立つ事は 無い。そのそばには、簡易テントとテーブルを置いて、大松川の桂不動の近所 の人たちが、大松川で採れた(採取及び育成した)産品を並べて当番で店番を しながら販売していた。
 カンケさんは、その開設時からたまたま発見して、強く感銘することがあっ た。それから「お不動さま直売所」の皆さんの取材をされている。定点観察調 査である。

 地域の結びつきとはなにか、自然発生する経済活動とはどのような遷移をす るのか、などの観点から恐らく『会津学』の次号(第5号)に掲載されること であろう。

 そのポリシーとは、
 自分たちの作ったものしか販売しない。運営はみんなで当番制。
 儲かってもヨソから仕入れてまで販売はしない。頑固なポリシーである。
 「大内宿は中華街になっちまったー」とは、何度か大内宿を尋ねたある方の ことばである。
 みやげ物や、どの観光地にでもある商品まで揃えすぎていることを嘆いてい るのである。その上、どの観光地にでもある商品は殆どが、Made in Chinaで ある事を指摘しているのである。

 はたして、「お不動さま直売所」はどのように変遷していくのか、事象の発 生の兆しを発見して、その事象の発展成長、盛衰までをも見とどけようという 視点である。

 カンケさんが、「こんちわー」と挨拶しながら近づいていくと、店番の方々 は手を振らんばかりの歓迎である。笑顔満面である。一緒に訪ねる筆者もおか げて不審者とはならなかった。

 「お不動さまの清水で入れたお茶です。どうぞ」
 (このフレーズはカンケブログより転載させていただきました)

 お茶をいただいてから、この「お不動さま直売所」の名前の由縁ともなる 「お不動さま」まで歩いてみる。桂不動というらしい。桂の大木とそのそばに 湧き出る清水に挟まれたお不動様の社(やしろ)がある。

 戻ってきてから、コーヒーまでいただいて、椅子に坐って茶飲み話。カンケ さんに話したいことは沢山あるらしい。尋ねなくとも、こんなことがあった、 いついつは誰々さんが来た、などなど。カンケさんは取材者ではあるが、取材 として尋ねた言葉はあったろうかと思えるほどである。信頼されきっている。 全くカンケマジック!である。

 ここの「お店番」の人と、田島の湯田氏との偶然のつながり話など、興味深 い話を聞いた。

 筆者には、概要もまとめきれない。
 論点があっちゃこっちゃではないか。これでは「食い散らかし」だな、と書 きあぐんでいたら、「食い散ら書き」という言葉を造語してしまった。これは 我(恵比塵)ながら感心した。
 「食い散ら書き」、どこかで読んだ言葉ではありませんように。初出宣言を しておきたい。恵比壽塵報73号のサブタイトルに採用したいほどである。
 その上、『会津学』次号(第5号)の前に、仄(ほの)かな直売所の「いい とこ取り」はこれ以上してはいけない(笑)

 この地に着くまでの車中では、周辺を含めたこの地域の有名な一揆の話(史 実)や、処刑跡地、墓跡などの話を聞いた。聞いたことのある史実もあるが、 殆どは筆者にとっては初めての話である。だいぶ聞き落としているのである。
 筆者はこの「お不動さま直売所」の場所の位置も、実は全然分からなかった。 テントのそばの看板の案内地図を見たら、星亮一氏の小説を思い出した。やっ と位置がおぼろげに判った次第である。

 「お不動さま直売所」の皆様!お元気で!





 【恵比塵73_024】《会津西街道》−見慣れた風景とは−
 

 筆者は、高校生時代の3年間を会津若松市で過している。会津若松市に限ら なければ、18年間を会津で暮らした。にもかかわらず、地理がわからない。 理科系だったからということではなく、歩いていないのである。その上、運転 をしないというハンディキャップがある。実は、道路がよくわからないのであ る。道路勘が無い。会津川口から会津若松までの一般道は、何度も通っている のでさすがに判るが、それ以外の会津路は疎いのである。
 お不動様の直売所を出てからの、移動は「あ、上三寄(かみみより)だな」 「このあたりは本郷だな」くらいで、あとはわかっていない。

 どのコースを通ったか、
 「楢原→大戸町→上三寄→会津本郷」と通過したのである。
 何故判るかというと、後日のカンケブログにそのように掲載されていたので ある。後で地図を見て、このあたり、あのあたりとあたりをつけて反芻したの です。
 会津本郷と書いたが、本郷町、高田町、新鶴村という由緒のある町村名は今 は合併してしまって、会津美里町という名前になってしまっている。

 会津本郷あたりまでは、ほぼ会津西街道近く、そこから左に折れて、北会津、 会津坂下(ばんげ)町と進んでいく。一大会津平(あいづたいら)の地である。

 遠くの山が屏風のように迫っている。残雪が残り白っぽい藍色の大壁面に見 える。飯豊連峰である。あの山々を越えれば、山形県であり新潟県である。

 ここまでくるうちに、大事な山を見逃していないか。はい、本郷あたりから は右前方に会津磐梯山が見えていたはずである。あまりのさわやかな風景の中 のドライブだったので寝ていた、というわけではありません。起きてましたよ。 つまり、見慣れた風景というのは改めて記憶に残らないということかも知れな い。自分の観察力と注意力散漫については棚に置いておくとして、このこと、 つまり

 「見慣れたものは見えなくなる」

 という命題として考えると、なんだか深い意味と示唆するものがあるのでは ないだろうか。

 「見慣れたものから新たな発見!」観光立地のブランディングなどの手法の 一つのように思えてきたぞ。


    会津美里町
    http://www.town.aizumisato.fukushima.jp/



 【恵比塵73_025】《峠にて》−奥会津への回廊−
 

 会津坂下(ばんげ)町あたりは、奥会津とは言わない。「ばか言ってんでね、 このあたりは本会津(ほんあいづ)だ!」と言われるかもしれないので、旅行者は注意された し。「本会津」は筆者が特別に本編のために作った造語なので、坂下の人が実 際にそのように言うかどうかはわからない。言わないのであれば、これを機会 に坂下のマチおこしと地域活性化の為に使っていただいて構いません。実際に、 会津の本源地は会津若松ではなく、坂下町にある地名に由来するという説(真 面目な説です)があるらしいのです。

 会津坂下を通過して、塔寺あたりまで進むと、会津平(あいづたいら)では なくなってくる。山になるのである。このあたりからは、そろそろと奥会津と 名乗ってもよさそうである。

 塔寺を越えると、かつて大きな峠があった。七折峠という。道が七折してや っと頂上に至る道である。殆ど列車のスイッチバックの線路のような道である。 冬場は、車であっても交通の難所であったが、現在はトンネルですいっと抜け てしまう。
 本当に七折かどうかは確かめてはいない。日本列島は総体として山地である。 列島各地には、「つづらおり」とか「つづらさか」という地名がある。これは、 漢字では、「葛折・九十九折・九折」といった表記をする。これは、実際に9 9回折れているとか9回折れているということではなく、とにかく沢山という 意味での「九十九(つづら・つくも)」であり、1桁の最大数で代表して「九 折」なのである。他の事例では、日光には「いろは坂」というぐにゃぐにゃと うねる坂がある。これは、走っていると、ひらがなの文字を「いろはにほへと」 となぞるようにぐにゃぐにゃしていることと、もう数えらんない!ひらがなの 数くらいのカーブがあんでねーかい?、ということからきている。

 それにひきかえ、、、

 会津と奥会津を繋ぐ峠の名前は、「七折(ななおり)峠」と控えめである。 とにかく沢山!とか、凄いんだから!とか、言わないのである。この慎ましや かさと、誠実さとに気付く旅人は幸いである。この地名一つでも「奥会津に来 たかな・・・」とじわっと感じるのである。


    《休憩欄》
    本会津のこと
    坂下町あたりでは、『本会津』ではなく、『坂下の馬鹿三里』といわれてい るそうです。
    周りの市町(会津若松市、喜多方市、会津高田町、柳津町)までいずれも3里 (12Km)であることが謂(いわ)れだそうです。このことは、町のHPに 明記してあります(笑)
    便利で交通の要所の地であることを謙遜した言い方だったのでしょう。
    現在は市町村合併で相対位置もずれてきたことと思います。
    「町長、ここはひとつ『本会津』でブランデングをどうでしょう!」
    「馬鹿も休み休み言え!」 と言われそうなので、休憩欄にして書いてみました(笑)
    (恵比壽塵報:編集長より)




 【恵比塵73_026】《峠にて》−新・峠の茶屋物語−
 

 この七折峠のあたりは坂本(さかもと)という地名である。
 所々に、遠くから見えるように屋根そのものを看板にした食堂や、街道沿い によくあるラーメン店などがある。どこでも広い駐車場付である。

 そんななかに、外見は倉庫、工場(こうば)の半分を改造したようなお店が ある。  『ラマ』という店である。不思議そうな店である。ラマとは、ネパール のラマ僧からきているのか。

 スバル・フォレスターを駐車場側にぐるりと廻してから、少し様子を見てい る。

 「お茶を飲んで行きましょう」

 お客は、カウンターにひとり、である。
 カウンターの奥に店主がいる。佐藤衆氏である。初めてお会いする。

 店内は、ネパールの繊維らしき布飾りの意匠である。テーブル、椅子のクッ ションも、これらは恐らくネパールマインドなのであろう。統一の色風として は、小豆(あずき)色か、褐色か、柿色のような風合いである。
 自作の、ネパールをイメージしたポスター風の絵や、不思議な置物や、会津 関係の書籍をまとめたコーナーなどもある。
 テーブルの上には灰皿がおいてあり、その中にはマッチ箱が入っている。マ ッチ箱を置いてある店というのも最近は見ないのではないか。少し薄暗い部屋 のテーブルの上に、灰皿とマッチ箱の構図、そこにカーテンが揺れて木洩れ日 のように外光がさす。写真にでもありそうな、なんだか懐かしい景色ではない か。

 そのマッチ箱自体も『ラマ』で統一されたデザインである。
 「」の字や「」 「」 「¬」 「§」 「」 「」 というようなマークに似た描線の仏像の顔のある、薄皮饅 頭を重ねたようなネパール特有の寺院のデザインを模している。
 ここに画像を一つ表示すれば了解する図像であるが、ここはネパールマイン ドの『ラマ』である。筆者もラマ僧のストイックにあやかり、あへて難行苦行 で文章表記で説明してみた。恵比壽塵報は読者にも想像力の喚起を強いるので ある。これにて了解されよ。マッチ箱は記念にもらって帰ることにする。

 店主の佐藤衆氏は、おそらく「地球の歩き方」とか「バックパッカー」とか 「深夜特急」とかいったニュアンスの放浪経験のある方のような気がする。勝 手な想像で、文字を埋めて申し訳ない。
 物静かな感じの方である。が、こういう店を営むということは、どこかに強 烈な個性と意志と頑固さとかをお持ちであろう。
 絵を描いている、時々は「なかよしバンド」と合流して演奏をされる、生活 音楽家でもある。

 名前を失念したが、「××茶」というのがおそらく店主のお奨めなのであろ う。カンケさんはそれを注文した。わたしは、飲み物に好き嫌いがあるわけで はないが、なんとなく、「コーヒー」を頼んでしまう。殆ど毎日コーヒーを飲 んでいる。それが、丸々一日以上飲んでいなかったので、ついつい習慣でコー ヒーにしてしまった。せっかくのチャンスを少しだけ逃してしまったかも知れ ないですね。

 少し前に、「スバル・フォレスターを駐車場側にぐるりと廻してから、少し 様子を見ている。」と書いたが、これには勿論理由がある。実は、駐車場の車 の台数で、混み具合が分かるのである。この店に徒歩で来る人はいない、殆ど 車で移動して来店するのである。静かなにゆっくりしたい時には、駐車場の台 数で判断して、入るかどうかを決定するのだそうだ。

 また誰が来ているかも殆ど分かる。
 「誰々さんがいるようだから寄ってみるか(または寄らないか(笑))」
 を判断する方もいるだろう。

    フォレスターが停まってっから、カンケさん来てるな」とか。
    「あれは違う人の車だべ」
    「どこのナンバーだ?会津ナンバーだったらば、、」
    ほれした(フォレスター)!やっぱカンケさん居たベした」
    ちゃんちゃん♪。

 お客としては、すいているほうが嬉しいが、生業(なりわい)としてはどう だろうか。

 峠の茶屋の主人、佐藤衆氏はそんなことにはどこ吹く風、マレビトのオトヅ レをじっと待つのである。



 【恵比塵73_027】《峠にて》−会津と奥会津の縁(ふち)−
 

 『ラマ』の店主の佐藤衆さん、テーブルに水を運んでこられたときに、ぼそ っと「載ってましたよ」(想像)と一言いって、朝日新聞を置いていかれた。

 昨日(5月1日)の朝日新聞の福島県版に、岡村健さんという方のコラムが 掲載されているのである。「奥会津はどこだ、、、論争こえる文化の胎動」と いう見出しのコラムである。コラムそのものは知らなかったが「奥会津」の呼 称はどの地域を指しているのかという話(論争)である。この岡村健さんにつ いては、カンケブログでも紹介されていた覚えがある。
 岡村健さんは南会津町(田島)の方とのこと、田島といえば南山御蔵入の首 都ともいうべき地であったことなどから、ほぼ南山御蔵入が奥会津に重なるこ となどを書いている。

 (少しうろ覚えの上、記事現物が手元に無い状態で書いているが)、
 その記事の中に、I氏とY氏という論争の登場人物がいらっしゃる。
 I氏は只見町の方である。Y氏は田島の方である。奥会津地域はほぼ南山御 蔵入なり、ということになると、実は只見町は南山御蔵入の地のはずれになっ てしまうのである。南山御蔵入は栃木県北の地にまで及ぶのである。只見町か らみれば、田島は南会津でいいではないか、「こちらが奥会津の本家、元祖、」 と知的歴史的論争が発生しているというのである。そして、そのI氏とY氏は 会津学にも執筆されていらっしゃる御仁で、両氏ともよくご存知(仲間)なの だそうである。

 カンケさんは、昭和村の人である。
 菅家博昭氏としては、歴史的事実と調査結果を旨とするので、学究的発言は 厳密であり、安易なことは言わない。

 が、ヒロアキさんモードだったら
 「まーまー、喧嘩しないで、それでは仲(中)を取って、昭和村が奥会津の 本拠地ってことでなじょだべ。」などと言わないだろうか。
(恵比塵モードの間違いではないのか?(笑))

 佐藤衆さんは、本会津の縁(ふち)に棲むマージナルマンである。
 とりたてて、奥会津にこだわるいわれもないので眺めている。
 時たまふらりといらっしゃる客人の為には、会津関係の書籍を準備しておい て、論争を聞いて楽しんでいるのではないだろうか。そんなことを思った。


 以前わたしは、田圃(たんぼ)の収穫高を表す、「××刈(苅)」という地 名について、書いたことがある。「二百苅」とか「三百苅」という地名のこと である。ちょうど良い機会なので、妄説を開陳してみた。

 ある地図サイトから福島県内の「××刈(苅)」という地名を拾ってみたの です。ずっと眺めていると、「××刈」と「××苅」という「かり」の字が地 域によって偏っていることに気付いたのです。
 そして、「苅」の付く地名は南山御蔵入の地域と一致しているのではないか という仮説をたててみたことを話してみた。

 「あるかもしれませんね」
 菅家博昭氏モードは、一笑にふすことはせずに、肯定とも否定とも断定発言 はさけられた(笑)。ほんの少しだけ肯定に近いかもと、わたしは勝手に判断 して安心するのでした。

 この峠の茶屋、『ラマ』では、草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)や甘酒は売 っていないが、沢山のハナシを売っているのではないかと思う。

    《参照》
    奥会津昭和館/昭和村のあいうえお/【に】(初出:07/12/21)より((「刈」と「苅」)の条)
    http://www.asahi−net.or.jp/ ̄KD5J−IGRS/showa_aiueo/index.htm#ni_01



 【恵比塵73_028】《只見川ライン》−奥会津を照らす−
 

 都内では、ゴーギャン展があるらしい。
 ゴーギャンが日本に紹介されたのは、大正時代のことだといいます。

 ゴーギャンを象徴する代表作の絵に
 『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行く のか』という題名の絵があります。
 調べれば原題も直ぐに分かることでしょうが、絵の話では無いのでおいて置 く。

 この言葉を取り込んで、歌(短歌)を作った昭和村出身の方がいらっしゃい ます。昭和6年生まれの栗城永好(くりきながよし)さんです。平成19年に 亡くなられました。「ナガヨシ先生(せんしぇ)」と呼ばれて敬われておりま した。ナガヨシ先生は、

 ♪博士山 遥(はる)かに仰ぎ 学舎(まなびや)は

 とはじまる、昭和中学校の校歌の作詞者でもあります。

 同氏が亡くなられてから後から調べて知ったことでしたが、ナガヨシ先生は 「短歌の結社『沃野』に所属」していました。「ゴーギャン」「栗城永好」 「沃野」「ランプ」などで検索すればヒットします。

 「昭和村のあいうえお」というHPの追補ページには、以下のような記述も あります。

    栗城永好さん。
    1931(昭和6)年生まれ、結社「沃野」に所属。
    2007(平成19)年12月ご逝去。
    昭和中学校校歌、松長小学校(会津若松)校歌を作詞。
    朝日新聞朝刊に連載されていた「折々のうた」には、06年7 月14日に同氏の短歌が採取されている。

    IT革命そんな革命あったのか知らず今日まで寝て過ごしたり

 わたしは、この短歌をリアルタイムで朝日新聞朝刊で見たときに、作者名か ら、あの方に違いないと確信したのでした。その年の法事だったかで、栗城好 次(こうじ)さんにお会いしたときにその話をしたのです。
 「『折々のうた』に載ってましたよ!」というと、
 「それは、あんにゃのほうだ」とおっしゃるのです。
筆者は、好次(こうじ)さんのことを、栗城永好(ながよし)さんと勘違いし ていたのです。ご兄弟です。どちらも先生でした。似てもいらっしゃるのです。

 話を元に戻しましょう。
 ゴーギャンの絵の題名をたくみに取り入れた歌というのは、こういう歌です。

   われわれはどこからきたか われわれは
     どこへゆくのか ランプをかざす
     (栗城永好)

 見事な本歌取りとでもいうのでしょうね、題名の文字数を短くして五七五七 に並べて、最後の七に『ランプをかざす』という言葉をつけられたのです。

 短歌の正しい観賞作法というものは知らないが、歌(文章も)は、作者の意 図通りに観賞されるとは限らない。意図通りよりも読み手の感性(観賞の仕方) の方が、勝っている場合もあるかもしれないのだ。これは決して読み手として の恵比塵記者のことではないが、作品というのは読み手の数だけ新たな作品と しての数を増してしまうものなのである。

 本編筆者は、言訳じみた文章の時には節が長くなる傾向があるが(笑)この 『ランプをかざす』という言葉から、つなげて想起することがあったのである。

 奥会津書房の設立趣意宣言詞である。無断で引用させていただく。

    本当のものが見えにくくなった今
    何を私たちは為すべきだろうか
    調和の中にあった幼き魂は
    どこへ行こうとしているのか
    まだ、きっと間に合う
    失った時の彼方に
    子どもたちが歩く遠い未来に
    変わらぬ確かなあかりがあると信じる
    たくさんの願いと、たくさんの力強い手で
    切り立つ崖を歩こうとする子どもたちの
    その足元を照らそう

    奥会津書房

 「奥会津昭和館」という個人ページのリンク集に奥会津書房を載せさせても らおうと思った時に、「その足元を照らそう」と栗城永好先生の「ランプ」と がつながってしまったのである。そして、こんなフレーズを考えて掲載したの である。

    《リンクフレーズ》
    奥会津書房
    日本の原風景、確かな奥会津を照らすランプ
    会津学研究会事務局、雑誌『会津学』出版元。

 パクリ?いや、そうではない。本歌取りと思われたいように、38行ほど前 に説明を書いているではないか。それも二段階本歌取りでっせ。観賞してもら いたい。素直に誤解してでも了解していただきたいのである。

 奥会津書房編集長の遠藤由美子さんに恐る恐るリンクさせていただいたこと をメールでお知らせした。『ランプ』に思い入れをこめて。そして遠藤編集長 が、栗城永好さんをご存知ない筈がないという、勝手な思い込みもいれて、恐 る恐るとメールしたのである。08年9月9日の事である。まだ菅家博昭氏に もお会いしていない頃の事である。ずっと昔のような気もするが、まだ1年も 経っていないのです。感慨深いものを感じてしまいます。

 その顛末は、
 どうやらメールの自動振分け機能が、迷惑(SPAM)メールと判断したか、 お読みいただけなかったのであった。


   われわれはどこからきたか われわれは
     どこへゆくのか ランプをかざす     (栗城永好)

 我々は『ラマ』を出でて フォレスターは 西方(にしかた)へ向かう


    奥会津書房
    http://www.kyoritsu.co.jp/Okuaizu−syobou/index.html
    日本の原風景、確かな奥会津を照らすランプ。
    会津学研究会事務局、雑誌『会津学』出版元。



 【恵比塵73_029】《只見川ライン》−ライン(Line)とライン(Rhein)−
 

 会津本郷近くで大川(阿賀川)沿いの道から離れて、坂下あたりの会津平を 横切って、七折トンネルを抜けた。

 柳津に入る手前に杉林があります。ここは、中学生時代の修学旅行の時に、 バスが止まり、生徒は杉木立に入っておしっこをした場所である。

 このあたりから、青緑色の只見川が見えてくる。道路は只見川沿いに右に左 に走るのである。会津只見線の線路もほぼ只見川沿いに走っている。

 この只見川に沿った地域は、別名『只見川ライン』という。ラインは「線」 のことではない、ヨーロッパのライン(Rhein)川にあやかっているのである。 と、思うのだが確かめていない。ただ会津の有名な道路では、「磐梯吾妻スカ イライン」という名前もあって、これもRheinか?とただされると「線(Line) の方ですね、、、」としか答えられなくなってくるが、、

 新緑のフォレスト(森)のなかを道と只見川がワルツのように、右に左にと フォレスターが滑るように走るのである。ワルツなどとしゃれた事を書くわけ は、翌日に帰省した義弟夫婦は、まさに「BGMでウインナーワルツを流して ずっと運転して来た」というのです。これはやっぱりライン(Rhein)でしょう。 言葉のダブルスタンダードは、どこにでもあることである。ここは穿鑿せずに さらりと流すことにしましょう。川だけに。

 空の青と白、山の薄黄緑、川の青緑、ところどころに山桜のほのかなピンク。
 堪能できます。まさに、風景見物、サイトシーイング(Sightseeing)の直 訳状態です。この川と森の風景はそのまま只見町まで続いていきます。

 国道252号線をそのまま行けば只見町からその先まで続いていくが、フォ レスターは柳津から、橋を渡って狭い崖の道に入る。


    スローライフの旅 奥会津でねぇと
    http://www.kyoritsu.co.jp/Okuaizu−syobou/index.html
      只見町、金山町、三島町、柳津町、昭和村
      只見川ライン商工会広域連携協議会が運営しています。
    福島県柳津町
    http://www.town.yanaizu.fukushima.jp/



 【恵比塵73_030】《只見川ライン》−西の方に光あれ−
 

 柳津から昭和村に抜ける県道がある。柳沢線という。この道もまだ通ったこ とが無い。

 フォレスターは柳津から、橋を渡って狭い崖の道に入ったのである。とは前 段で書いた。さては、これが柳沢線かと思ったが、さにあらず。

 前段で、この様に書いた。
 >>国道252号線をそのまま行けば只見町からその先まで続いて
 >>いくが、フォレスターは柳津から、橋を渡って狭い崖の道に入
 >>る。

 間違いである。訂正します。

 「柳津町から三島町、麻生の橋を渡り裏側から西方集落に入ります。」
 「次は、西方集落から西隆寺へ、奥会津書房編集長遠藤由美子女史の生家ま でまいります。途中揺れますのでお気をつけ下さい。」

 最近のナビゲーションの音声案内は格段の進歩である。ただし、この音声は、 カンケさんの地声である。


 西方に向かっているのである。西方のお寺があるのである。西の方というの は、たいていは聖地となる。ここには西隆寺という古刹がある。

 広い芝生の庭に、住職が設計されたというモニュメントのような仏像のよう な彫刻物などが按配されている。さては、木喰上人の末裔か。

 寺の中では、明日から始まる鬼子母神祭の準備か、檀家の方々であろう人々 がいらっしゃるのが見える。
 寺につながった社務所らしき建物の、目の前の窓が突然開いた。そこに、カ ンケさんと携帯で通話をしている遠藤さんがいらっしゃった。

 本堂脇の玄関から入ると、広い天井の高い板敷きの部屋である。壁際には本 棚が林立している。窓の下の腰板の高さにも低い本棚がずらりと並んでいる。 壁面の高いところには、絵画や梵字を意匠としたような図像などが掛けてある。
 部屋の中央には、大きな一枚板のテーブル卓。10人ほども坐れるくらいの 大きさである。
 奥の部屋だろうか、それとも外か、子供たちのにぎやかな声も聞こえる。鬼 子母神祭には、近所の子供たちも屋台(模擬店)を出すので、その飾りの準備 だという。

 遠藤編集長と菅家博昭氏は、最近会津若松市が出版したという歴史資料の本 の話や、イベントの話など。

 どうやら「会津学」の編集会議の様相である。

 「カンケさん、オゲンコ(原稿)はどこまで出来てますか。」

 そんな話はしていない。大きなテーブルに向かい合って対峙しつつも、ゆっ たりとニコニコとお互いにうなづきながら対話をしている。

 廻光返照して奥会津文化の矜持を保ち続け、そして奥会津に希望と光とを遍 照する両翼巨頭の会合現場に邂逅しているのである。立ち会っているのである。

 わたしは、いただいたカップのアイスクリームを舐めながら、きょろきょろ しながらお二人の会話を見ていた。ところどころには聞こえる部分もある。 「会津学」で読み齧った覚えのあるような固有名詞や単語などのところである。  こんな視聴態度でいいのか。はい、お二人の会話の邪魔にはならなかったと 思います(笑)。

 帰りがけに庭の桜を見ていると、ヨソの場所でしていたライトアップを企画 実施していた人が、今度は明日からは西隆寺の庭の桜にライトアップをしよう と持ちかけてきているという。押掛けライトアップイベントである。
 こんな話を聞いていると、人が集まる、みんなで盛り上げる、西の方の西隆 寺から照らされるほのかなランプの光が奥会津を包み込むように燈されている ことに、気付くのでありました。

(恵比塵編集長:作文をまとめようとし過ぎていないか(笑))


    聞き書きによる地域文化の掘り起こしと継承(ブログ)
      雑誌:会津学研究会
       http://aizugaku.blogspot.com/



 【恵比塵73_031】《只見川ライン》−奥会津書房のハナ−
 

 西隆寺は、通りから少し奥まったところにある。
通りの裏には白茶色の土壁 の倉などが建っている。倉といっても、農作業に関わる収納と道具などの倉庫 であろう。中には藁や萱なども積まれていたであろう。土壁が長年の風雨に晒 されて、一部の壁は欠落して中の煤けた心棒が覗いている。朽ちかけた風景で ある。
 かつては正しく機能していたモノたちの滅びようとしている風景である。今 はただ晒されているだけかもしれないのに、郷愁を誘うのは何故だろう。人生 を重ね合わせてしまうからか。

 西隆寺から宮下の奥会津書房の事務所を訪ねる。
事務所は、こちらも大通り からは離れた位置にある。使用しなくなった教育宿泊施設の建物を活用してい る。もったいない精神を実践している、廊下の歩いてはいけない部分に張り紙 がしてあるのも愛嬌である。

 編集部の部屋にお邪魔する。机とパソコンが並んでいる。並んでいるとはい え、編集室である、整然と並んでいるわけではない。机上にはその他書籍、資 料、紙類など。編集員の女性の方がひとり、パソコンに向かってなにやら作業 中である。挨拶だけして入口から見学する。

 入口脇には、編み組細工で作られた猫の家がある。
その家の前の敷物の上に は、有名な猫のハナが丸くなっている。ハナの名前の由来は、花ちゃんにあら ず、鼻の位置の模様からきているという。奥会津書房のはなは、そのほかにも 数名いらっしゃるらしいが、筆者にはこれ以上の判断材料がない。

 ハナはむっくりと起き上がることもせず、そのまま寝ているのである。編集 室の門番と見張りではなかったのか。部外者が一名(筆者)侵入してきたとい うのに、不審人物に対してハナにも掛けないのである。

 菅家博昭氏と一緒に入ったので安心しきっているのである。猫は正直者。


    会津学研究会事務局、雑誌『会津学』出版元
      奥会津書房
       http://www.kyoritsu.co.jp/Okuaizu−syobou/index.html



 【恵比塵73_032】《只見川ライン》−宮下あたり−
 

 宮下の町内の道路に戻る。宮下は見慣れた風景である。

 ひとり、過去の自分との聞き書きをしてみる。

 大学時代の夏休みと冬休みは、何度か滞在して親戚の店の手伝いもしたこと がある。ある冬の雪の日には、お歳暮用か一升瓶を2本をまとめて風呂敷で包 んで宮下駅まで運んだことがある。ところが、まとめる結わえ方がヘタだった のか、駅の受付けの窓の台に置いたとたん、片方の一升瓶が割れてしまった。 駅の中は日本酒の匂いで充満した。そんな事を覚えている。

 只見川に注ぐ支流の川がある。夏には涼みがてらに、渓流の川原にハガキと 絵の具を持参して、ヘタな水彩画を描いて、「只見川暮色」などと気取って書 いてトモダチに投函したこともあった。

 夏休みのある時には、その店に家族連れお客が食事と昼寝に来ていた。後姿 がどうも見たことのある姿である。少し猫背(いかり肩というのか)でのっし りのっしりと歩くのである。「馬場先生!」中学時代の先生である。ご出身は 桧原なので、ご一家の夏休みに「ちょっと町(宮下)に出て旨いものでも食う か」といったところだったのでしょう。
 現在、馬場先生の奥様は、三島町生活工芸館だったかで、編み組細工のご指 導をしていらっしゃる事を仄聞した覚えがある。

     [子恵比壽塵報]73号:特集:宮下めぐり
     

     中学生時代、1年か2年だったか忘れてしまったが、夏休みの前のころであ ろうか、学校は休みの日のことである。どうしてそんな計画をしたのかも忘れ てしまったが、本名K吉と栗城T洋と一緒に自転車で奥会津ツアーをしたこと がある。わたしは早朝に大芦から自転車に乗って、中学校で待ち合わせたのか 合流して、川口方面に向かったのだ。コースも行程予定(タイムチャート)も 決めてはいない。とりあえず行けるところまでと思って、川口方面に向かった のだろうと思う。
     春ではなかったと思うが、朝の空気は冷たいのである。綱木(つなぎ)を越 えると、昭和村と金山町の境界標識がある。誰でもがするように、その中間に 立って写真を撮った。中間とはいえ、道路上に境界線が引かれているわけでは ない。ついでにズボン(その頃はジャージではなく白ズボン)に手を入れて暖 めた。ポケットではなく、臍下三寸に手を入れるのである。

     川口駅まで着いた。右に行こうか左に行こうかと迷って、本名発電所まで行 った。何故本名発電所だったのかわからない。しいて言えば、「ケンボ(K吉) と同じ苗字があっから本名まで行ってみっか」くらいの理由だったのだろう。 確かここでも写真を撮った。そして川口駅まで戻ってきた。

     まだ日は高い、昭和村に戻るかどうするか。迷ったときにわたしが言い出し たに違いない。

     「宮下には、おらの親戚の家があるはずだ、行ってみっか」。

     親戚とは金子さんの家だった。ただ、親同士は親戚であるが、子供のわたしはあの 人が金子さんだと顔は知っているが話したことなどは無かったのではないかと 思う。つまり、町(宮下)に知合いがいるという事を子供ながらに自慢したか ったのではないかと思う。

     只見川沿いに、えっちらおっちらと、変速機無しの自転車で宮下に 向かったのである。誰も途中で帰ろうかとも言わなかったのだろうか。宮下に 着いて、道沿いにその金子さんの家を探したのである。確か看板は「金子電気 店」だったか。見つけた。「ここだ、ここだ、ほら。」と、二人に紹介した。 がしかし、ひとみしりも加えて気後れしたのか、「はいっとう!」と店の中に 声を掛けられないのである。後ろから「せっかく来たのに、なじょしんの!」 とか責められたと思う。
     結局、店には入らずに、その店の前から宮下駅までたどり着いて、写真を撮 った。そろそろ、帰りの行程を心配したか、先には行かずに引き返した。引き 返して、会津川口に戻り、川口からの急坂を自転車を押して這い登り、下中津 川の中学校まで戻ってきた。おそらく暗くなってきていたと思う。

     中学校には、 休みなのに長谷川先生がいらっしゃった、宿直当番ででもあったのだろうか。 担任の先生である。

     「本名発電所と宮下まで、自転車で行ってきたぞ」 ためぐちである。

     息せき切って、自慢げに話したのであろう。
     先生は、

     「大芦から、そこまで行ってけって(帰って)くっと(くると)、100キ ロはあんべな」

     とおっしゃった。100キロ、100キロ、距離を目標にしていたわけでは ないが、区切りがいいのでなんだか達成したような気がして嬉しかった。
     ただし、大芦からのコースで100キロである。ケンボー(K吉)の家は、 下中津川新田である。

     「ちっと足んにぇがも、知んねーな」
     と先生が言ったのだと思う。
     「校庭をあと、××回くれ(くらい)、まあれば(廻れば)いいがもな。」

     ケンボーは、その後中学校の校庭を自転車で××周した筈である。
     そしてわたしは、暗くなった仙石沢を自転車を押して、ひとりで大芦まで、 6キロの道のりを帰った。

 宮下は見慣れた風景である。

 こんな事々を思い出したのは、フォレスターが宮下町内のはずれにさしかか るあたりで、「民宿かねこ」「かねこ写真館」の看板のある家を右に見ながら 通過したからであった。
 この家のイシヨ姉(あね)には、昨日、40年振りくらいでお会いした。式 の前の待合室で、わたしの母と同じテーブルに坐られたので、名前とお顔が一 致したのである。フラッシュバックのような、おもひでである。


    桐の里会津三島町
    http://www.town.mishima.fukushima.jp/



 【恵比塵73_033】《渓谷へ》−水辺の集落−
 

 フォレスターは、宮下の橋を渡り、断崖の道を通りここからしばらくは只見 川を左に見る。宮下ダム、早戸、水沼までは左となる。

 最近、早戸の温泉「つるの湯」では、屋形船を仕立てた『只見川山峡下り (深山幽谷・屋形船遊覧)』という新しい観光コースも新設したらしい。この 地域も「只見川ライン」の地区であるが、「つるの湯」のパンフレットでは、 この名称(只見川ライン)を使用していない。

 「只見川渓谷」「秘境只見川大渓谷」「只見川山峡」という表現をしている。

 これは一つの見識である。
 ドライブで道を通過しても風光明媚には違いないのだが、ここでは道ではな くその地点の川そのものと、川(または温泉)からの絶景を謳っているからで ある。旅行者(観光客)を通過させない工夫である。滞在型を指向しているの である。「つるの湯」のパンフレットには、鄙(ひな)にはまれな(誉め言葉 です)ホームページのアドレスもある。
ただ、そのアドレスの文字が一カ所間違っているのである。少し残念である。 次版では訂正されていると良いが。

 会津水沼駅のところで、橋を渡り只見川は右になる。大きく蛇行する只見川 を会津中川、会津川口と走る。

 会津中川は、日本を代表する大新聞社が、「『にほんの里』100選」に選 定したという。これについては、恵比壽塵報は第47号で、『新聞社は地方文 化を唾付けで囲い込むな!』という記事を上梓している。是非とも読んでいた だきたいので、自己宣伝ではあるが、URLを明示する。

 [恵比壽塵報]47号:新聞社は地方文化を唾付けで囲い込むな!
  http://www.kkjin.co.jp/yebi_jin/index047.htm

 会津川口、この地名は、昭和村から流れてきて只見川に合流する野尻川の川 の口である。フォレスターは、野尻川の入口に辿り着いたのである。

 ダムの無かった時代には、越の海に回遊した鮭が阿賀野川から遡上して、は るかな旅を続け、そしてこの川口から野尻川へと分け入ったのである。

 そして、往古(いにしえ)の人々も、この川口から野尻川の源流へと入って いった。そして定住した。独自の生活文化を作り上げた。

 その往古人(いにしえびと)に思いをはせて、フォレスターは野尻川の源流 (昭和村)へと、南南東に進路をとるのでした。





 【恵比塵73_034】《渓谷へ》−自然の躙口(にじりぐち)−
 

 川口駅のあたりは、野尻川の辿り着く只見川の水辺である。このあたりは、 下町という、そこから急な坂道を登ると上町である。丘のような小山を一つ分 登ることになる。そこからは殆ど標高差はない道がつづく。野尻川は道からは だいぶ下に見える。しばらく行くと、下村、スキー場へとつづく道がある。そ して次は上村。下町上町下村上村、判りやすい地名である。
 小栗山は数年前に、杉林ごと山が崩れて国道に迫り、通行止めとなったとこ ろである。冬の間の唯一の生活道路である。
 八町、玉梨とこのあたりは昔からの温泉がある。今はあるかどうか、川の底 からも自然の温泉が湧き出していたのである。野尻川の改修工事でなくなって しまったかもしれない。

 茶色(土の色)と、薄緑のパステルカラーの中に、突然の蛍光色の黄色の畑 が見える。これは、スイセンの花である。

 一躍有名となった、玉梨の豆腐屋を過ぎるあたりから、スノーシェードの道 が目立ってくる。そろそろ町と村の境界に近づく。境界に近づくと、野尻川は 山峡の渓谷の様相を見せてくる。その境界線の近くが綱木(つなぎ)である。

 ここを越えれば、昭和村へと入る。
 すこし時代がごっちゃになっているが、昭和村には村外につながる多くの峠 がある。名称の列挙は殆ど読み飛ばされると思うが、昭和村出身の読者の方も いらっしゃるので、望郷誘発のサプリメントとして、地図で拾った主な峠を並 べてみる。大辺峠、喰丸峠、駒止峠、小峠、転石峠、新鳥居峠、鳥居峠、原入 峠、博士峠、美女峠、舟ヶ鼻峠、見沢峠、柳沢峠、吉尾峠などなど。今では地 名としてしか残っていない道もあるかもしれない。四通八達の峠ともいえる。 しかし、峠は冬は積雪の為に阻まれる。

 ところが、この綱木(つなぎ)は峠ではないのである。村外につながる唯一 の「峠ではない」通路なのである。勿論積雪の為に阻まれることや雪崩に阻ま れることもあったろうが、冬期間にも通行可能な山峡の道であったのである。 野尻川の流れが案内をして造られた山に挟まれた通路だったのである。

 綱木は、自然が作った躙口(にじりぐち)ともいえる。ここをくぐれば、昭 和村というおもてなしの茶室に入ることになるのである。

 くぐりを抜けると、見通しのきく平地のつながる、山里が広がるのである。  その地が、奥会津では、ふたつしか残っていない「村」のひとつである。
ひとつは「檜枝岐村(南会津郡)」、そしてもうひとつが「昭和村(大沼郡)」 である。

    《参照》
    奥会津昭和館/昭和村のあいうえお/【つ】(初出:07/12/14)より((「綱木」の条)
    http://www.asahi−net.or.jp/ ̄KD5J−IGRS/showa_aiueo/index.htm#tsu_01



 【恵比塵73_035】《渓谷へ》−松山−
 

 松山集落に入る前に、右手に急な山がある。傾斜が急すぎるためか、大きな 木は生えていない。その中腹に洞があった。昔の鉱山の試掘跡らしい。隣が金 山町(むかしは金山谷)というくらいであるから、鉱石の試掘などでいろいろ な山師も入り込んだのだろうか。この辺りでは、黄鉄鉱とか黄銅鉱とかそうい う金色に結晶化した鉱物を含む石がごろごろ出た。拾ったこともある。
 その中腹にある洞まで登ったことがある。急斜面なのである。洞の入口には 柵のようなものがあったと思う。その洞の前をトラバース(横に移動)しよう として、上体を山壁側に保てなくなり、危うく転落しそうになって肝を冷やし たことがある。

 松山の最初の一軒目の家が見える手前は、野尻川は自然の堰状態となって、 緩やかな流れで道路からは川の少し上流まで見通せる場所がある。昔は、子供 の水浴び場でもあっただろう。穏やかな安心できるほっとする風景である。
 恵比壽塵報が、『野尻川百景』を選定するとしたら、『野尻川に掛かる橋 (川口)』『断崖の地蔵(玉梨温泉)』『綱木渓谷』と続いて、ここは下流か ら第四番目の景として、『里山の流れ(松山)』となる。

 山には緑とうす緑の層がある。そのグラデーションは、山の高さによるブナ の木の種類の植相の違いであること、ブナの木の種類も聞いたのだが、失念し てしまった。これでは、話甲斐のない同乗者である。
(ブナの木ではなく、ナラとコナラだったかもしれません)

 小学生の頃は、大芦の川で石拾いをよくした。珍しそうな石を見つけると持 ち帰るのである。ある日、木の化石を見つけた。拾って持ち帰った。父に尋ね ると、「これはシオジの木だな」といった。聞いたことのない木の名前である。 それで、シオジの木について調べたかというと、調べた記憶がないし、今でも シオジの木がどんな木なのかわからない。ただ、「シオジ」という名前だけは 覚えている。筆者の実際の木についての知識はこの程度なのである。

 一見ではわからない、原生林と天然(自然)林の違いの判定は、どのように なされるか。それは目通しより少し上の幹の形状に表れている。何故表れるか には、きちんと歴史的史実を含めた理由(事象)がそこにあることなど、菅家 博昭氏の知識はジャンルを越えたところでも、きちんと一つにつながっている のである。



 【恵比塵73_036】《野尻川》−遡上した先人−
 

 確実に野尻川を遡(さかのぼ)り、昭和村(大芦)に辿り着いて、その地を 代々の生活の拠点として、文化を守りつづけた人々がいるのです。

 前日(5月1日)に、柳津から大芦まで行くバスに乗った時のことです。
 前の席に坐っていた、五十嵐善信さんがユキタカさんにしていた話に、つい つい引き込まれました。

 五十嵐善信さんが話されました。
 「過去に、三人の五十嵐が新潟から野尻川を遡って大芦に辿り着いた。」と いうのです。そして、それらの家系も当代まで判明しているのだそうです。
 その三人とは、ひとりは「五十嵐ジエモン」という人です。あとの二人は、 善信さんもお酒が入っていたので、すぐに名前は出ませんでした(笑)。その 他にも、色々の御説をお聞きしました。善信さん!あとで、大芦の事ごとにつ いて、聞かせてください。

 越の国、南蒲原の下田村(現新潟県三条市下田)というところに、五十嵐神 社があります。五十嵐姓のルーツとなった神社といわれています。「全国五十 嵐会」という団体まであるそうです。近くには、五十嵐川という川も流れてい ます。ものの本によると、山形県と福島県の五十嵐は、「越後五十嵐から起こ る古代豪族坂上(さかのうえ)氏の末流五十嵐家」から普及した名字(みょう じ)と書かれています。昭和村の五十嵐家は、特に大芦集落にごっそりと集ま っています。
(ものの本:「名字と日本人 先祖からのメッセージ」武光誠著(文春新書) によりました。P.106、P.108)


 「会津学」には、ヒメサユリ(オトメユリ)についての論考があり、ごく限 られた地域の自生分布のことと、この花は地域のアイディンティティ・フラワ ーともなるべきものとして、会津各地の自治体も本腰を上げ、保護条例を制定 したり地域活性化のツールとしても活用しようと動いていることが書かれてい る。

 ヒメサユリは、昭和村の花でもあったはずです。最近のHPでは、サユリと だけ表現しているようです。

 さて、そのヒメサユリの自生分布については、同誌には以下の記述がある。

     オトメユリはピンクの花色をした可憐なユリである。このユリ の自生分布は、東北南部の山形、新潟、福島三県に接する地帯、 つまり北から朝日山群、飯豊山群、吾妻山群、守門浅草岳にしか 分布が見られないユリで、世界に誇れる特産種である。

 そして、福島県以外の自生地での保護活動状況についてもふれています。

    また自生地である山形県戸沢村、新潟県下田村(現・三条市)、 上川村、関川村でも同じように自治体がヒメサユリを地域を象 徴する花に制定し、花祭りを行っている。宮城県七ヶ宿町も町 の花は乙女百合。

 「五十嵐」と「ヒメサユリ」を並べた理由はお気づきであろう。五十嵐の分 布とヒメサユリの分布とはほぼ重なるのではないかということです。また、五 十嵐のルーツ(といわれている)南蒲原の下田村と、ヒメサユリの自生地でも ある新潟県下田村の一致です。

    《参照》五十嵐神社関係
    五十嵐神社
    http://www2s.biglobe.ne.jp/ ̄L−Wood/ikarashi.htm
    五十嵐神社(三条市飯田)
    http://www.niigata−u.com/files/ngt2004d/041107a1.html



 【恵比塵73_037】《野尻川》−野尻−
 

 野尻、牛首城はわたしの想像の反対位置であった。
 わたしは、牛首城の位置を、橋を越えた、中向よりの方向を想像していたの である。なんとなく、美女峠とか、中向の神社の裏山の方角を想像していたの である。牛首城跡といわれる、写真や地図を見ていたにも関わらず、なのであ る。全く方向音痴か!

 野尻は殆ど通過する地点でしかなかった。野尻に用事があるのは、野尻医者 に行ったときしか記憶に無いのである。

 野尻に入るとフォレスターは本道から、田圃の中の農道に入り込んだ。

 「右前方にみえるあの山が、牛首城です」。

 「山からずっと扇状地地形が見えます。そのあたりからが、居住地域だった のでしょう」。(すこしうろ覚え)
 「本丸、丸の内とつづいて、このあたりが大堀です」。(だいぶうろ覚え)

 そして、現在の居住地となっている野尻あたりは、殆ど沼地だったので山裾 がもともとの居住地(家並)だったらしいのです。

 わたしはこれを聞いて、棚田や段々畑というのは、天(山頂)に向かって伸 展するのではなく、上の田圃(畑)から造られていって、最後に川(沼)の水 辺(一番低い場所)に至るのではないかと思い付きを述べてみた。勿論極論で あるが、その伸展過程が粘土のアニメーションやパラパラめくりのように、視 覚的に想像が出来てしまったのです。

 「段々畑はありえないでしょうが、田圃はそういうのもあるかもしれません」
 慎重な評価である。

 野尻のはずれ近くは、野尻川は、大きく野尻を迂回するように蛇行して流れ ている。かつ、その蛇行する場所に橋がかかっている。この橋の位置は、周り の地形から見ても不自然に高い丘のような堤防になっているのである。この場 所は、人工的に蛇行させた昔の一大土木工事なのではないか。直進してきた水 流がぶつかるあたりに、経験知による意図した強度計算と加工がされているら しい。「坂の上の橋」はその当時に流入してきた人々が持っていた、最新技術 を駆使したのであろう。

 野尻は、この様にして一帯の沼地と氾濫する野尻川を手なずけて、現在の位 置にマチを創り出したのである。

 本当でしょうか、、、。
 (博昭さん、こんなうろ覚えで、だいたいあっているでしょうか(笑))



 【恵比塵73_038】《野尻川》−野尻、中向、下中津川へ−
 

 野尻を過ぎると、中向の集落。昔は軒と軒に挟まれたような狭い道をバスが 通っていた。左前方の山裾に濃い緑色の三角屋根の建物。『ペンション・ファ ミリーイン美女峠』である。ここの主人は筆者と同級生、小林政一君である。
 『美女峠』とは、アキバ系などの趣味ではなく、中向から間方、宮下へとつ ながる峠の名前で、さるお姫様(美女)が通られたという伝説(史実かも)の ある由緒ある名前なのである。中学1年の時の遠足は、美女峠であった。峠の 天辺あたりでは夏スキーでも出来そうなほどの雪渓があったのを覚えている。
 その峠につながる道の入口あたりということで、主人のこだわりの命名なの であろう。この政一君は、昔話の採集者としても一部で有名、『ふるさと通信』 という新聞を発行している。多芸多才である。古民家の解体と古木や古布、古 道具などを扱う『会津古木屋』という屋号も持つ。太さは分らないが、都会の 文化趣味人グループや近傍業界とはディープなつながりを持っている。『ペン ション美女峠』も、地元で解体した古民家の柱梁などを使用しているという。 そのほか色々手がけているらしい。時々朝日新聞の投稿欄で見かけたりする。 ライフスタイルそのものが、売り(生業)になっているのである。昔から変人 であったが、首尾一貫して変人である。愛すべき頑固人である。現在は、村会 議員様でもある。

 中向から坂を上り、時計回りの円弧カーブを抜けると、昭和村で唯一の温泉 がある。左前方にクリーム色の大きな三角屋根の建物。『しらかば荘』である。 温泉施設と宿泊施設と宴会場等イベント施設を持つ。この温泉は、黒鉱の試掘 をしていたら、たまたまお湯が出てきてしまったそうである。
 温泉についての由緒、曰(いわ)く因縁はこれしかないが、もう少し進んで いくと、由緒のある地名がある。「気多淵(けたぶち)」という地名がある。「気多淵」と は、小中津川に気多神社を勧請するときに、《其ノ沢ヲ越エシ時》に神幣を落 としたので、その地を気多淵と名付けたという由緒のある地なのである。
 しかし、越の国から進出してきた神様を祀るほどの強力な勢力と権威を保持 する人々が、本当にそんな自分たちの失敗をわざわざ地名として残したのだろ うか。と思うと、昔々の人々のたくらみが見えるような気がする。それは何か、 漁労地域である川の一部に、禁忌地域をつくることである。神幣が沈んでいる かもしれない、という畏れ多いサンクチュアリー領域をつくったのではないか と想像するのである。カミサマをだしにして(カミサマ様ごめんなさい)、禁 猟地域を設定することで、地域住民や後から伸展してきた新参者集団が川の魚 を取り尽してしまったりしないように、川から贈り物を保護するために伝え続 けようとした、生活の知恵ではなかったのだろうか。

《後記》
【恵比塵73_038】本文の 『漁労地域である川の一部に、禁忌地域をつくることである』と いう説は、野本寛一氏の説によります
    おことわり(09/08/16)
     民俗学関係の方々にはあまりにも既知の説なのかもしれません。
     なんと筆者はすばらしい考えを!と思ったのです。これは「会津学」を読んだ賜物か!とも。
    だがしかし、「淵は・・生態的には水の生きものが種を守る聖域となっていたのである。」 「淵は・・かつては渓流魚の種の保存にかかわる禁忌伝承をまとっていた。」という説は、 筆者の独想ではなく、野本寛一氏が「神と自然の景観論」(講談社学術文庫)で説明している ことでした。
     たまたま同じ発想をすることは世の中にはあるでしょうが、筆者はこの本を 09年3月16日に読了していたという状況証拠から、同書の内容がうろ覚え のまま頭に入ってしまっていたとしか説明のしようがありません。
     「神と自然の景観論」の折り込んだページを再読していて気付きました。そ の、78ページには、「淵の伝説」という章立てがありました。その中で、も ちろん気多淵のこととしては記述していませんし、気多淵が実際に禁忌の地で あったかどうかは筆者も判りません。が、同工の説を執筆されています。
     読者からの指摘はいただいていませんが、 【恵比塵73_038】本文の 『漁労地域である川の一部に、禁忌地域をつくることである』と いう説は、野本寛一氏の説によりますと、明示しておきます。 野本先生、次版では奥会津昭和村の「気多淵」の例もどうぞお載せいただけます ようお願いいたします(((^^;。
     以下にその原文を引用させていただきます。

     「神と自然の景観論」野本寛一(講談社学術文庫)より
     淵の伝説
     深山幽谷の淵を覗(のぞ)くとき、人は身を硬直させるほどの戦 慄を覚える。そして、淵が神の座であり、淵を核とした一帯が聖な る空間であることを身をもって悟るのである。静岡県榛原(はいば ら)郡本川根町長島(現川根本町)の大石為一さん(明治三十六年 生まれ)は、次のような伝説を語ってくれた。
     −−昔、犬間(本川根町)のある男が、樫代峠を越えて大井川の 枝の枝にあたる栗代川へ魚をとりに出かけた。リュウゴンという大 きな淵で釣りをしていたところ、驚くほどの大アマゴが釣れた。男 は大よろこびでそのアマゴを背負って山道を帰った。しばらくする と、どこからともなく、「お前はなぜそんなかっこうでつれて行か れるのだ? 早く逃げて来い」という声が聞こえてきた。すると背 中のアマゴが、「逃げて行きたいが、この男は九寸五分の短刀を持 っているので危くて逃げられない」と答えた。するとまた不思議な 声が、「その九寸五分の短刀には一ヵ所刃こぼれしたところがある から、そこから逃げて来い」と語った。男が自分の短刀を確かめて みると、たしかに一ヵ所刃こぼれがあった。犬間の男は気味悪くな り、大アマゴをリュウゴンの淵に返して夢中で走った。途中、「魚 も淵に返したし、やれうれしいことだ」とつぶやいて一休みした。 そこを今でも「ウレシヤスンド」と呼んでいる。−−
     リュウゴンの淵は水神の座である。この伝説は、淵が水神の座で あるという内容を語るにとどまらず、淵がアマゴという魚の種の保 存にとって重要な場であったことを物語っている。この伝説は、リ ュウゴンの淵の魚をとることの禁忌を伝説という口頭伝承の形で地 域の人々に周知徹底させ、山の人々の重要な蛋白源の一つであるア マゴの種を守り、資源の保全を図っているのである。長野県下伊那 郡上(かみ)村(現飯田市)には天竜川の支流遠山川のそのまた支 流の本谷川が流れている。本谷川の奥には「仏淵」「武明淵」「義 次郎淵」など人の死を伝える淵が点在する。これらの淵も、かつて は渓流魚の種の保全にかかわる禁忌伝承をまとっていた。淵は山川 の生きものや霊の集まる場所であり、生態的には水の生きものが種 を守る聖域となっていたのである。
    「神と自然の景観論」野本寛一(講談社学術文庫)
    (《第二章 地形と信仰の生成》淵の伝説、P.78〜P.79)



 【恵比塵73_039】《おわりに》−地域に暮らすこととは−
 

 おなじ地域に暮らしていると、なかなか地域の人のよさというのは分らない と思います。

 宮本常一氏の著作に『民俗学の旅』(講談社学術文庫)という本があります。
 以下に記述されていることは、地方がどのようにして力をつけていけばよい かを示した指針ともいうべき同氏の文章の抄録です。もっともこの記述は終戦 直後のことを述べているのですが、現在時点でも全く同じことが言えるのでは ないでしょうか。

     人びとはそれぞれの土地ですぐれた生き方をしているが、もっと かしこくなるには、横へひろがることにより、比較と選択の技術を 持つことである。
     かしこくなるということは物を考える力を持つことである。まず 自分の周囲をどのようにするかをお互いに考えるようにして、自分 の住む社会の中にリーダーを見出していくことである。
     どのような 村にもかならずすぐれた人がいるのである。しかし 自分たちの周囲にいる者に対してはそのすぐれた点よりも若干の欠 点のほうが目についてその人を尊重しないことが多い。だがそのよ うな人を大切にしてこそ地域の開発はすすめられてゆき、またお互 いの知識も充実していくのです。
    (抄録責:恵比塵)(『民俗学の旅』P.147〜P.149より)

 恵比壽塵報執筆者は、この土地に時々立寄りますが、その場所で生活をする ことがないので、いわば地域外のヨソモンであり宙ぶらりんな異邦人でありま す。
 が、今回の「[恵比壽塵報]73号:特集春の「会津学」めぐり」は、昭和 村で生活し、リゾート法の狂乱にも負けず、職を失っても、転籍しても負けず 変わらないスタンスで村内はもとより日本中に発言を発信し続ける人との出会 いから始まったのです。「日本中」と書きましたが「世界中」としてもさほど 大げさではありません。

 どうして恵比壽塵報執筆者は、これだけ書き続けられたのでしょうか。それ は、視座を他所(よそ)からの位置に置くことができたからにほかなりません。
『若干の欠点』が目につかないので、すばらしい昭和村のすぐれた人びとに 遭遇できた」のです(^^;

 おりしも、「[恵比壽塵報]73号:特集春の『会津学』めぐり」は、執筆 途中で紙媒体の月刊紙『じねんと』に連載掲載していただくという僥倖(ぎょ うこう)もありました。
『じねんと』編集者も、73号がまさかこんなに枝番を伸ばすとは予想されな かったと思います(^^;

 お読みいただきありがとうございました。また、勝手に登場人物にされてし まった皆々様、笑ってお許しいただき、ありがとうございました。

 恵比塵73号:特集「春の『会津学』めぐり」、これにて一旦、了とします。



2009年9月25日
恵比壽塵報




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