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 農業全書 004  最新版へ
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001 第一期分
002 第二期分
003 第三期分




蕃藷(あかいも)
 
                 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21
麻(あさ)
           
粟(アワ/あは)
                   10
石馬糞(いしまぐそ)
蝗(いなご)
イネ



解説(2)
 
       
解説(3)
   
解説(4)
(P.10) (P.10) (P.10) (P.11) (P.11)
解説(5)
       4、5  
嫁菓(かくわ)
カッツア(中耕鍬)
かぶ蒔
木綿(きわた)
             7、8    10  11  12  13  14  15,16  17  18  19  20  21  22  23  24
木綿の四早
木綿の四病



山椒(さんせう)
 
   
水畜(すいちく)
 1、2                10  11  12  13  14  15  16
席草(せきさう)
蚕豆(そらまめ)
       補筆



陶朱公



中蒔
ナリキイジメ
成り木責め
農業全書敍
 1〜5  6〜10  11〜15  16〜20  21〜25  26〜30  31〜35  36〜40  41〜45  46〜50  51〜53



馬耳鏃(はにぞく)
腹肥(はらごえ)
蕃藷(ばんしょ)21
風信雲書1〜9
風信雲書10〜16
風信雲書17〜21



麻苧(まを)
 
                 10  11
松(まつ)
 1〜5      
宮本常一と農業全書
麥(むぎ)
 1、2                10  11  12  13  14  15  16  17  18
麦の中うち
むぎやす
雌木雄木(めぎおぎ)






リーフレタス
琉球藺(りうきうい)
蕃藷(りうきういも)21






【別冊恵比塵】
農業全書・図

























(目次抜粋)
苧麻と
奥会津関係




麻(あさ)
           
石馬糞(いしまぐそ)


カッツア(中耕鍬)
木綿(きわた)1


山椒(さんせう)2






馬耳鏃(はにぞく)


麻苧(まを)
                   10  11
宮本常一と農業全書
雌木雄木(めぎおぎ)









[抜書き]

「神と自然の景観論」 野本寛一・講談社学術文庫

『名君の碑(いしぶみ)』中村彰彦・文春文庫

『日本人はなにを食べてきたか?』 原田信夫・角川ソフィア文庫

『日本中世の百姓と職能民』 網野善彦・平凡社ライブラリー

『ふるさとの生活』 宮本常一・講談社学術文庫

『生きていく民俗 生業の推移』 (宮本常一)

『日本文化の形成 中』 宮本常一・ちくま学芸文庫

『赤い人』 吉村昭・講談社文庫

『庶民の発見』 (宮本常一)

『民間暦』 宮本常一・講談社学術文庫

『歴史・祝祭・神話』 (山口昌男)
『日本の歴史 3奈良の都』 (青木和夫)

『日本人はどこから来たか』 斎藤忠・講談社学術文庫

『日本数寄』 (松岡正剛)

『民俗のふるさと』 宮本常一・河出文庫

『日本の神話と十大昔話』 楠山正雄・講談社学術文庫
『文化と両義性』 (山口昌男・岩波現代文庫)

『現代語訳 日本書紀』 福永武彦・河出文庫

『うるしの話』 松田権六・岩波文庫

『魚影の群れ』 吉村昭・ちくま文庫

『虹の翼』 吉村昭・文春文庫

『城下の人』 石光真清・中公文庫

『増補 幕末百話』 篠田鉱造・岩波文庫

『日本の米 環境と文化はかく作られた』 富山和子・中公新書


【粟(あは/アワ) 第六 7節】
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【麻苧(まを) 第二 10節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 3節】
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【イネ】
    150819_イネ
    (↑クリックすると、下記キャプションの画像を表示します)。
    家庭菜園でも、木枠にビニールを利用して栽培ができます。 イネの栽培には、保水が不可欠、深さ30cmの穴を掘ります。 泥ができたら、水深3cmになるように水を足します。 暖かくなると、水が蒸発します、水深5cmになるよう水を足します。 草丈が50cmに伸びたら、大きく育てるために欠かせない作業があります。 「中干し」と呼ばれる水を抜く作業。 水を抜くことで、根は水を求めて伸び、丈夫に育ちます。 5日ほどすると、土の表面が、ひび割れてきます。 再び、水深5cmになるように水を入れます。 穂はスズメの大好物、鳥除けネットで守ります。 10日ほど干すと、乾燥することで米の味が良くなります。 1粒の種モミから400粒もの米ができます。

    イネは『農業全書巻之二 五穀(こく)之類(るい) 稲(いね) 第一』(P.87)
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【麥(むぎ) 第三 8節】
    麥(むぎ) 第三 8節

     麦の中うち
     同じく中うちの事、一二寸針生ひの時、早かるき鍬にて浅く一遍うつべし。 これを
    馬耳鏃(はにぞく)と云ふ。 苗のわづかに生ひ出づる時、ちいさき矢の根のごとくなる鍬、又は熊手の類にてうつによりてかくは云ふなり。の字は矢じりとよむ、細き鍬の類と見えたり。

     麦の中うちのことです。 針のような芽が1、2寸出てきたときに先ずは軽い鍬(くわ)で浅く軽く一度中うちをします。 これを、馬耳鏃(はにぞく)と言います。 苗の芽が少しだけ出始めたときに、鏃(ヤジリ)のような形の小さい刃の付いた鍬(馬耳鏃)か熊手のようなもので中うちをするのでこの様にいいます。

    いか様おもき鍬にて、苗のいまだちいさき時あらくはうつべからず。 然るゆへに中うちに段々の次第あり。先初一番はかるくさら/\とうちて、草の已にめ立たむとする時、 削り殺しをき二番をばいかにも深く三番よりは又少しづゝ浅く春になりてはなをかるくうつべし。

    苗が小さいうちは、重い鍬で粗く打ってはいけないのです。 だから、中打ちには各々の段階によって仕方が変るのです。
    一番目は、軽くサラサラと打って、雑草がまさに生えてきそうな時に、それを削り取る感じです。
    二番目は、深く中うちします。
    三番目からは、少しずつ浅く中うちをします。 春になってきたら、もっと軽く中うちをします。


    二番めふかくうつ事は麥の根いまだわきにさかへずして立根ばかりの時なればふかくしても麥痛まず。 其上底の塊もくだけ、上のかはきたる細土は底に入りて陽氣内にこもれば、麥の根是にあひて其氣さかんになり、よくさかへはびこるべ し。 ましてうへ物の根の下やはらぎくつろぎあれば、土中の氣もよくめぐる故、盛長する事うたがひなし。

    二番目に深く打つ理由について説明します。 それは麦の根がまだ地下で横には伸びていないので、立根だけなのです。 だから深くしても、麦は傷つかないのです。 それに根の下の土くれも砕く事が出来て、表面の乾いた細かい土が下に入るので陽の気を内側に込めることが出来るので、成長していくのです。

    又三番めより浅くうつ事は、麥ふとりさかゆるに随ひて根はびこり、うき上るゆへ、深くあらくうてば、 かならず痛むものなり。 春になりては猶かるくうつべし。

    三番目に、また浅く打つことにも理由があります。 麦が段々と太く成長するに従って根が広がって延びていき、浮きあがってきているのです。 この状態で深く粗く打つと、麦は傷んでしまうのです。 春になっても、また軽く打つのです。
    はびこるとはまさに、蔓延(はびこ)ということ!


    秋冬より度度中うちし芸ぎり培ふ事、凡三度するは大抵なり。 大溝のかはきたる土をさらへ、かくるまでは先四度と心得べし。

    秋冬の間から度々中うちをして草切り、培う(根もとに土をかぶせる)ことは、3回はするのが普通です。 畝の低い所の乾いた土を浚(さら)って根元に掛けることは、まずは4回ほど、と心得ておきましょう。

    人手間あらば幾度にはかぎるべからず。中うちを十遍すれば八米を得るといへり。

    手間を掛ける時間が取れるのであれば、回数は何回とは決っていません。中うち十回で八米とれる という詞もあります。

    古昔ある福農人のいへるは、黄金が多く望みならば秋より麥の中うちを細々せよとをしへたりとなり。 さもあるべき事なり。

    昔の篤農の人は、沢山金が欲しければ、秋からこまめに麦の中うち!と教えたそうですよ。 さもあらんことですね。
      ♪麦の黄金(こがね)を つくるには
          秋時からは 麦のつちかい♪

      とか、なんだか佐瀬与次右衛門さんの『会津農書・歌農書』を妄想しております(笑)

    麥と云ふ物は、手入糞養によりて一段半段の内にても、過分の取實かはる物なり。

    麦は世話の仕方と肥やしの養いの違いで、一反半反の畑でも、収穫量が全然違うのです。

    畿内の老農のいへるは、大形の土地にても糞し手入を思ひのまゝにして、 年なみも大かたなれば、畿内はいふに及ばす、近方の國々も凡一段にむぎやす四五石はある物也。 其次といへども、三石なきは稀なり。 然れども大麥は取分けやしなひ手入にあらざれば、思ひの外に實りなし。 秋蒔きて冬の雪霜をへて生長するゆへ、やしなひ疎略なれば手を空しくする物なり。 極めて作り立てがたき物なるゆへ、 手入れ糞し等のいとなみ、其身にあてゝたしかになるべき程を能くはかりて、 分際に過ぎては必ず多く作るべからずとなり。


    これは、近畿地方の宿老の農人から聞き書きしたことです。
    広い畑であっても、肥やしと手入れを丹念に心がけて、天候が例年通りであれば、ここらあたり(畿内)だけでなく、 そのまわりの地方でも大体一反で麦は4、5石の出来高はあります。 少し不順だったとしても3石にもならないなどということは滅多にありません。 ただ、大麦については特に肥やし養生と世話(手入れ)をしないと、想像以上に実らないものです。 秋に蒔いて冬の雪や霜に耐えて寒さの中で成長するので、培いを疎かにすると空しい結果になってしまいます。 とても世話のかかるものなのです。 手入れや施肥作業など、自分で確実に出来る程度を知らないといけないのです。 力量以上の分限を超えてまで多くは出来ないことなのです。


    『麥(むぎ) 第三 8節』(P.100〜101)
    麥(むぎ)9節 へ

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【麥(むぎ) 第三 6節】
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【むぎやす】
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【馬耳鏃(はにぞく)】
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【麥(むぎ) 第三 9節】
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【麥(むぎ) 第三 3節】
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【麥(むぎ) 第三 4節】
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【麥(むぎ) 第三 10節】
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【麥(むぎ) 第三 5節】
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【麥(むぎ) 第三 11節】
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【麥(むぎ) 第三 12節】
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【麥(むぎ) 第三 13節】
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【麥(むぎ) 第三 7節】
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【麥(むぎ) 第三 14節】
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【麥(むぎ) 第三 15節】
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【麥(むぎ) 第三 16節】
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【麥(むぎ) 第三 1、2節】
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【麥(むぎ) 第三 17節】
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【麥(むぎ) 第三 18節】
    五穀之類 麥(むぎ) 第三 18節

     倒伏を防ぐ
     又麥のでき過ぎて穂に出でゝ後、たをれんと思ふには、山近き村は木の枝を多く筋の間に指して助とするあり。 又力ある作人はくいを打ち小縄を張るもあり。 其縄を納め置き、年々用ゆるとかや。
    但上方其外上手の作人は皆麥を長すぢに作り、其すぢをひろくまき、筋の間を廣くして春の半にかゝり、 兩方より高く土をかひてたをれぬやうにするなり。

     麦が出来すぎて穂が出てから倒れそうになることがあります。 山村では木の枝を多く筋の間に挿して倒れないようにしている所があります。 力のある人は、杭を打って縄を張る所もあります。その縄はしまって置いて、毎年使うそうです。
    上方(かみがた)地方などの手馴れた農家では、麦は筋を長く作り、その筋に広く蒔いて、筋と筋の間は広くしています。 春の半ばになったら、南側から高く土を掻いて倒れないようにしているのです。


    『五穀之類 麥(むぎ) 第三 18節』(P.104)了
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【農業全書敍(じょ) 1〜5節】














    矣。
聖人之政在教養二者而已矣。 而論其序則養為先教為後。 是令富而後之也。 何則食惟民之天。 農為政之本民之為道也無恒産者無恒心

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書


聖人の政(まつりごと)は、教えと養いにあり、まさにこのことなのです。

聖人天下を治め給へるに先ず民をめぐみ、五穀種藝の術を教へ給へり。
農業全書巻之十一 附録 1節













    後。
聖人之政在教養二者而已矣。
而論其序則養為先教為後。 是令富而後之也。 何則食惟民之天。 農為政之本民之為道也無恒産者無恒心

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書


そして、その論に述べてあることは、すなわち、先ず民を養い(めぐみ)、その後に教へを説くのです。

夫五穀は人間の世を助くる生養の本なれば、聖人天下を治め給へるに先ず民をめぐみ、五穀種藝の術を教へ給へり。聖人天下を治め給へるに先ず民をめぐみ、五穀種藝の術を教へ給へり。
農業全書巻之十一 附録 1節








    也。
聖人之政在教養二者而已矣。 而論其序則養為先教為後。
是令富而後之也。 何則食惟民之天。 農為政之本民之為道也無恒産者無恒心

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書











    天。
聖人之政在教養二者而已矣。 而論其序則養為先教為後。 是令富而後之也。
何則食惟民之天。 農為政之本民之為道也無恒産者無恒心

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書










    本。

聖人之政在教養二者而已矣。 而論其序則養為先教為後。 是令富而後之也。 何則食惟民之天。
農為政之本 民之為道也無恒産者無恒心

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書


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【農業全書敍(じょ) 6〜10】
















    心。

民之為道也無恒産者無恒心 故衣食足而後禮義可興教化可行。 是故古昔明君以民産先務。 制民産之道在稼穡而已。 舜以棄為后稷民稼穡藝五穀。 五穀熟而民人育。

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書




















    行。
民之為道也無恒産者無恒心
故衣食足而後禮義可興教化可行。 是故古昔明君以民産先務。 制民産之道在稼穡而已。 舜以棄為后稷民稼穡藝五穀。 五穀熟而民人育。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書



















    務。

民之為道也無恒産者無恒心。 故衣食足而後禮義可興教化可行。
是故古昔明君以民産先務民産之道在稼穡而已。 舜以棄為后稷民稼穡藝五穀。 五穀熟而民人育。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書


















    已。
民之為道也無恒産者無恒心。 故衣食足而後禮義可興教化可行。 是故古昔明君以民産先務
民産之道在稼穡而已。 舜以棄為后稷民稼穡藝五穀。 五穀熟而民人育。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書






















    穀。

民之為道也無恒産者無恒心。 故衣食足而後禮義可興教化可行。 是故古昔明君以民産先務。 制民産之道在稼穡而已。
舜以棄為后稷民稼穡藝五穀。 五穀熟而民人育。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





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【農業全書敍 11〜15】







    育。
五穀熟而民人育。 然後以契為司徒。 敬敷五教。 五教行而人倫之道明。 是聖人為政之序也。 欽亮天功之道於是乎備矣。

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書













    徒。

五穀熟而民人育。
然後以契為司徒。 敬敷五教。 五教行而人倫之道明。 是聖人為政之序也。 欽亮天功之道於是乎備矣。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書









    教。

五穀熟而民人育。 然後以契為司徒。
敬敷五教。 五教行而人倫之道明。 是聖人為政之序也。 欽亮天功之道於是乎備矣。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書













    明。
五穀熟而民人育。 然後以契為司徒。 敬敷五教。
五教行而人倫之道明。 是聖人為政之序也。 欽亮天功之道於是乎備矣。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書













    也。
五穀熟而民人育。 然後以契為司徒。 敬敷五教。 五教行而人倫之道明。
是聖人為政之序也。 欽亮天功之道於是乎備矣。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





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【農業全書敍 16〜20】














    矣。
欽亮天功之道於是乎備矣。 夫人倫之教載在六經語孟炳如日星。 况後世賢哲代起而更有明之乎。 如稼穡之法。 中華之載籍固多而傅在 本邦以為農家之教

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書






















    星。

欽亮天功之道於是乎備矣。
夫人倫之教載在六經語孟炳如日星 况後世賢哲代起而更有明之乎。 如稼穡之法。 中華之載籍固多而傅在 本邦以為農家之教


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





















    乎。
欽亮天功之道於是乎備矣。 夫人倫之教載在六經語孟炳如日星
况後世賢哲代起而更有明之乎。稼穡之法。 中華之載籍固多而傅在 本邦以為農家之教


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書










    法。

欽亮天功之道於是乎備矣。 夫人倫之教載在六經語孟炳如日星。 况後世賢哲代起而更有明之乎。
稼穡之法 中華之載籍固多而傅在 本邦以為農家之教


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書
















     



欽亮天功之道於是乎備矣。 夫人倫之教載在六經語孟炳如日星。 况後世賢哲代起而更有明之乎。 如稼穡之法
中華之載籍固多而傅在 本邦 以為農家之教


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





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【農業全書敍 21〜25】









    教。

以為農家之教 然凡民不之而解其説。 是以農家毎昧于種植之術。 終身由之而不其道。 識者以為恨焉。 識者以為恨焉。

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書



















    説。

以為農家之教
然凡民不之而解其説 是以農家毎昧于種植之術。 終身由之而不其道。 識者以為恨焉。 識者以為恨焉。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書
















    術。

以為農家之教。 然凡民不之而解其説
是以農家毎昧于種植之術。身由之而不其道。 識者以為恨焉。 識者以為恨焉。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書

















    道。

以為農家之教。 然凡民不之而解其説。 是以農家毎昧于種植之術。
身由之而不其道 識者以為恨焉。 識者以為恨焉。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書











    焉。
以為農家之教。 然凡民不之而解其説。 是以農家毎昧于種植之術。 終身由之而不其道
識者以為恨焉。 識者以為恨焉。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





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【農業全書敍 26〜30】














    上。
余嘗欲下以國字輯中録之上。 然庸劣之資治經而力常不足。 況及其他乎。 是以既廃稿矣。 本州之士宮崎安貞。 村居四十年。

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書


















    足。
余嘗欲下以國字輯中録之上。
然庸劣之資治經而力常不足。 況及其他乎。 是以既廃稿矣。 本州之士宮崎安貞。 村居四十年。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書











    乎。
余嘗欲下以國字輯中録之上。 然庸劣之資治經而力常不足。
況及其他乎。 是以既廃稿矣。 本州之士宮崎安貞。 村居四十年。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書










    稿
    矣。
余嘗欲下以國字輯中録之上。 然庸劣之資治經而力常不足。 況及其他乎。
是以既廃稿矣。 本州之士宮崎安貞。 村居四十年。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書













余嘗欲下以國字輯中録之上。 然庸劣之資治經而力常不足。 況及其他乎。 是以既廃稿矣。
本州之士宮崎安貞。 村居四十年。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





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【農業全書敍 31〜35】





    年。
村居四十年。 常以種植楽。 其用心也尚矣。 其執術也熟矣。 且遊観于畿内曁諸州旁爰詢謀于老農

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書















    楽。
村居四十年。
常以種植楽。 其用心也尚矣。 其執術也熟矣。 且遊観于畿内曁諸州旁爰詢謀于老農


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書











    矣。
村居四十年。 常以種植楽。
其用心也尚矣。 其執術也熟矣。 且遊観于畿内曁諸州旁爰詢謀于老農


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書











    矣。
村居四十年。 常以種植楽。 其用心也尚矣。
其執術也熟矣。 且遊観于畿内曁諸州旁爰詢謀于老農


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書














    州。

村居四十年。 常以種植楽。 其用心也尚矣。 其執術也熟矣。
且遊観于畿内曁諸州 旁爰詢謀于老農


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





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【農業全書敍 36〜40】








    農。

旁爰詢謀于老農於中華之農書於 本邦之土宣書以諭一レ農。 起稿十巻。 命名為農業全書。 但恐踈謬孟浪之患而不上レ書。 茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書

















     















    農。
旁爰詢謀于老農
於中華之農書於 本邦之土宣書以諭一レ農。稿十巻。 命名為農業全書。 但恐踈謬孟浪之患而不上レ書。 茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書







    稿

    巻。
旁爰詢謀于老農。 考於中華之農書於 本邦之土宣書以諭一レ農。
稿十巻。名為農業全書。 但恐踈謬孟浪之患而不上レ書。 茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書















旁爰詢謀于老農。 考於中華之農書於 本邦之土宣書以諭一レ農。 起稿十巻。
名為農業全書 但恐踈謬孟浪之患而不上レ書。 茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書

























    書。
旁爰詢謀于老農。 考於中華之農書於 本邦之土宣書以諭一レ農。 起稿十巻。 命名為農業全書
但恐踈謬孟浪之患而不上レ書。 茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





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【農業全書敍 41〜45】




















    輟。
茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。 樂軒亦年既高邁難不任其勞。 然平生利人濟物之志至老益厚不于古人。 故不固辭修飾數囘於是易稿而成編。 竊謂此書之於 本邦也。 古來絶無而初有者也。

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書


















    勞。

茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。
樂軒亦年既高邁難不任其勞 然平生利人濟物之志至老益厚不于古人。 故不固辭修飾數囘於是易稿而成編。 竊謂此書之於 本邦也。 古來絶無而初有者也。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書



























    人。

茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。 樂軒亦年既高邁難不任其勞
然平生利人濟物之志至老益厚不于古人 故不固辭修飾數囘於是易稿而成編。 竊謂此書之於 本邦也。 古來絶無而初有者也。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書






















    稿



    編。
茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。 樂軒亦年既高邁難不任其勞。 然平生利人濟物之志至老益厚不于古人
故不固辭修飾數囘於是易稿而成編。 竊謂此書之於 本邦也。 古來絶無而初有者也。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書












     



    也。
茲請予之家兄樂軒翁之是正而不輟。 樂軒亦年既高邁難不任其勞。 然平生利人濟物之志至老益厚不于古人。 故不固辭修飾數囘於是易稿而成編。
竊謂此書之於 本邦也。 古來絶無而初有者也。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書





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【農業全書敍 46〜50】









    也。
古來絶無而初有者也。 若後有継作者此為 本邦農書之権輿。 然則於訓農之方豈謂補乎。 今将梓以廣其傅。 請序於予安貞今玄七十有五歳。

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書




















     






    輿。

古來絶無而初有者也。
若後有継作者此為 本邦農書之権輿 然則於訓農之方豈謂補乎。 今将梓以廣其傅。 請序於予安貞今玄七十有五歳。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書




















    乎。
古來絶無而初有者也。 若後有継作者此為 本邦農書之権輿
然則於訓農之方豈謂補乎。 今将梓以廣其傅。 請序於予安貞今玄七十有五歳。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書















    傅。

古來絶無而初有者也。 若後有継作者此為 本邦農書之権輿。 然則於訓農之方豈謂補乎。
今将梓以廣其傅序於予安貞今玄七十有五歳。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書


 文字代替







古來絶無而初有者也。 若後有継作者此為 本邦農書之権輿。 然則於訓農之方豈謂補乎。 今将梓以廣其傅
序於予 安貞今玄七十有五歳。


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書

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【農業全書敍 51〜53】









    歳。
安貞今茲七十有五歳。 余感其為志老而益壮。 於是述此書之所以作而為之敍

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書













    壮。

安貞今玄七十有五歳。余感其為志老而益壮。 於是述此書之所以作而為之敍

 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書






















    敍。

安貞今玄七十有五歳。 余感其為志老而益壮
是述此書之所以作而為之敍


 元禄丙子中和節
           筑前州後學 貝原篤信書




     元禄丙子中和節
            筑前州後學 貝原篤信

    『農業全書敍 51〜53』(P.30)了
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【木綿(きわた) 第一 10節】
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【木綿(きわた) 第一 7、8節】
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【水畜(すいちく) 1、2節】
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【農業全書 解説 (四)−5 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (四)−1 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (四)−4 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (四)−2 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (四)−3 土屋喬雄】
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【粟(あは/アワ) 第六 1節】
    粟(あは) 第六 1節

    160310_農業全書・粟黍蕎麦
     あはに大小あり。 夏秋早晩段々あり。 其種子數かぎりなく多き物なり。 又粘るをば●(もちあは)と云ふなり。 稲に次ぎ、麥にをとらず、上品にて古より貴き穀とするなり。 大(ふと)きは狐の尾のごとく、小きは鼬の尾のごとし。

     粟(アワ)には大小があります。 また蒔き時にも、夏秋と、早蒔き遅蒔きといろいろ。 種はとても小さくて数え切れないほど多くの粒になります。 粘り気の強い粟は、糯粟(もちあわ)といいます。 五穀の中では、稲に次いで麦にも引けを取らないもので、上品でいにしえの時代から貴い穀とされてきました。 穂は太いものは狐(きつね)の尻尾のようになり、小さいのは鼬(いたち)の尻尾のようです。
      もちあはの元の1文字表記が表示できない。 簡便辞書で調べると、もちあわで糯粟とある。 粟の品種で穀粒の粘りけの強いもの。餅、だんご、水飴、酒(泡盛)などに用いる。とある。 なんと、アワモリ(泡盛)の原料は粟ではないか!と気づいて泡盛も引いてみると、本来は粟を原料にしたが、のちには米を使う とあるのですね。つまりは、原材料として米を使うようになってからは、粟の字を泡に変えて表記するようになった、ということですね。 知ってましたか?(笑)


    『粟(あは) 第六 1節』(P.107)
    粟(アワ/あは)2節 へ
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【粟(あは/アワ) 第六 2節】
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【粟(あは/アワ) 第六 3節】
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【粟(あは/アワ) 第六 4節】
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【粟(あは/アワ) 第六 5節】
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【粟(あは/アワ) 第六 6節】
    五穀之類 粟(あは) 第六 6節

    農業全書/粟
     中うちをば必ずあらけなくすべからず
    かるき鍬にて懇に草を削りをけば、その後芸り間引くに手間入らざる物なり。

     中うちは荒っぽく粗雑にしてはいけません
    軽い鍬で丁寧に草を削っておけば、その後の草ぎりや間引くのに手間がかからないものです。
      あらけなくすべからず
      この文章の意味がわからない。 二重否定の文なのです。 結果として「きめ細かにすべし」なのか「そんなに細かにしなくてよい」なのか、、、


      と悩んでいたら、 【荒気ない】あらけないという意味は、これで、ひどく荒い感じである。荒々しい。粗暴である(簡便辞書より)。という意味なのですね。 つまり、荒気なくは、否定の意味ではなくて、荒々しいという意味だったのです、了解!(笑)。

    『五穀之類 粟(あは) 第六 6節』(P.109)
    粟(あは)7節 へ
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【粟(あは/アワ) 第六 8節】
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【粟(あは/アワ) 第六 9節】
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【粟(あは/アワ) 第六 10節】
    五穀之類 粟(あは) 第六 10節

     苗が失せたら植え接ぐ
     又苗の小き時きえたる所に念を入れ、うへつぎたるよし。 或は雨の中にへらにて和かにほり取り、根のそこねぬやうにうゆれば、痛まずして其まゝ生ひ付く物也。

     苗が小さい時に、失せてしまった箇所は、丁寧に植え接ぐとよいです。 または、雨もよいの中で、箆(へら)でそっと掘り取って、根が痛まないように移植すると、傷まずにそのまま根付いて育ちます。

    これも、ウセクチと呼んでいいかしらん。


    『五穀之類 粟(あは) 第六 10節』(P.109)了
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【蕃藷(あかいも/ばんしょ/りうきういも) 8節】
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【蕃藷(あかいも/ばんしょ/りうきういも) 9節】
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【蕃藷(あかいも/ばんしょ/りうきういも) 1節】
    巻之五 山野菜之類 蕃藷 第十七 1節

    −160129_あかいも−
     此藷に二種あり。 一種を蕃藷と云ふ。 一種は山藷と云ふ。 蕃藷は其形丸く長し。 山芋の形に似たり。 味勝れてよし。 今長崎に多く作るは此蕃藷なり。 山藷は其形芋がしらのごとくにして味劣れり。

     このいもには、2種類あります。 蕃藷(あかいも)という種類と、山藷という種類です。 蕃藷は、形が丸く長くてヤマイモの形にも似ています。とても美味しいものです。 現在(元禄時代)長崎で盛んに作られているのは、この蕃藷の方です。 山藷は、里芋(サトイモ)の親芋(いもがしら、芋頭)のような形で、味は劣ります。
      どうやら、蕃藷は、サツマイモのことではないだろうか。 サツマイモといえば、甘藷先生と呼ばれた、青木昆陽が救荒作物として広く普及につとめたイモのことである。 『農業全書』の発刊は元禄元録一〇(1697)年。 (ここから簡便辞書を参考にして一部を抜粋引写し)。 青木昆陽はその翌(1698)年に生まれている。 そして、享保二〇(1735)年に青木昆陽38歳、サツマイモの研究書『蕃薯考(ばんしょこう)』が公刊する。 『蕃薯考』とは救荒作物としてのさつまいもの性質・種類・栽培法・貯蔵法などを記した本。と簡便辞書にあり。 その間には、享保の大飢饉もありました。
      さてもう一つの山藷のことです。 “山藷”の読み方が分からない、蕃藷がバンショの伝ならば、サンショであるがそうではあるまいと想像がつく。 とすると、ヤマイモであるが、山芋は蕃藷の形状説明にも使っているし、『薯蕷(やまのいも/やまいも) 第十六』と別の項立てもあるのです。 さて、山藷は? それは、ヤム芋ではないかと、想像しました。

    『蕃藷(あかいも/ばんしょ/りうきういも)第十七 1節』(P.201) 
    蕃藷(あかいも/ばんしょ/りうきういも)2節 へ
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【蕃藷(あかいも/ばんしょ/りうきういも) 2節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 10節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 4節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 11節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 12節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 13節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 14節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 15節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 5節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 16節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 6節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 17節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 18節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 19節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 7節】
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【蕃藷(あかいも/ばんしょ) 第十七 21節】
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【蕃藷(あかいも) 第十七 20節】
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【農業全書 解説 (三)−1 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (三)−2 土屋喬雄】
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【松(まつ) 第一 1〜5節】
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【松(まつ) 第一 7節】
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【松(まつ) 第一 6節】
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【松(まつ) 第一 8節】
    諸木之類 松(まつ) 第一 8節

     塩焼(塩竃)には松葉
     又松をさし木にすると農書に見えたり。 唐には性の違ひたる松ありと見えたり。
    惣じて松は地をきらはずよく生長し、大小材木に用ひて世の助けとなる良木なり。 餘地ある所、海邊又は田畠の障りとならぬ所にはいか程も多くうゆべし。 鹽を焼く薪に松の枝葉にこゆる物なし。

     唐の農書に、松を挿し木にすることが載っている。 唐には、日本の松とは違う松があるのかしらん。
    松は土地を嫌わずよく成長します。 大きいのも小さいのも、材木として利用できて、世の中に有用な良い木です。 余地がある場所、海辺や田畑の邪魔にならない場所には、出来るだけ植える事です。 製塩の塩焼きの焚き木には松の枝葉が最適です、塩焼きでこれを超える薪材はありません。


    田畑の傍に松は植えるな
    されども田畠の邊りに強ひてうゆる事なかれ。 落葉田畠に入り、松の雫落ちかゝれば、土地たちまち瘠する物なり。 殊に水少き山などに松を植へ立つれば、水をすひ上げ、土地かはき、水あしよはく次第に瘠地となるべし。 田に水を取る山にて水多からぬ所ならば、必ず松を植ゆべからず。

    しかし、松は田畑の辺りには無理には植えない事です。 落ち葉が田畑に入り、松の雫が落ちかかると、土地がとたんに痩せてしまうのです。 特に水の少ない山などに松を植えると、水を吸い上げられてしまい、土地が乾いて、水足が弱くなり、次第に痩せ地になってしまいます。 田の水源としての水を取る山などで水の多くない場所であれば、松は植えてはいけません。

    『諸木之類 松(まつ) 第一 8節』(P.289〜290)了
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【ナリキイジメ 成り木責め】
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【リーフレタス】
    150821_リーフレタス  (←クリックで、下記キャプションの画像を表示します)。
    発芽しやすいようにコーティングされたペレット種子。 支柱を使って溝をつくり、種をまきます。 土をかけて軽く押さえます。 土が乾いたら、そのつど水を与えます、不織布をかぶせることで保温ができます。 地中海沿岸から西アジアが原産地といわれるレタス、古代エジプトでも栽培されていました。 葉と葉が重ならないほどに株を抜きます。 抜いた葉はとても柔らかく、家庭菜園ならではの味わいです。 葉の成長を促すため、2週間に1度、肥料をまきます。 肥料は土に混ぜ込みながら、根元に寄せます。 株が重なり合ってきたら抜き取ります、最後は株と株の間隔が30cmになるまで。 株が直径30cmほどにもなったら収穫です。 株を傾けて根元からナイフを入れます。 日本では「乳草(チシャ)」と呼ばれています。

    簡便辞書で、乳草(チシャ)を引くと、ちぐさちちぐさとあるが、それらは、ががいも野漆(のうるし)の異名とある。 そのことではないらしいが、チシャを引いてみると萵苣(ちしゃ、ちさ)が出てきた。 萵苣(ちさ)なら、「農業全書巻之四 菜の類 萵苣(ちさ) 第九」(P.168)に載っている。
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【石馬糞(いしまぐそ)】
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【席草(せきさう/りうきうい)】
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【木綿(きわた) 第一 15、16節】
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【木綿(きわた) 第一 2節】
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【木綿(きわた) 第一 1節】
    農業全書巻之六 三草之類 木綿(きわた) 第一 1節

    151107_木綿
     木綿(きわた)と草綿
     木綿(きわた)は古は唐にもなかりしを、近古宋朝の時分、南蛮より種子を取來りて後、 もろこしにひろまり、本朝にも百年以前其たねを傅え來りて今普く廣まれり。

     木綿(きわた)は元々唐にもありませんでした。 宋朝の時代に南蛮から種を持ち込んでから、唐土に広まって、日本でも百年ほども前にその種が伝来して、現在は日本国中に広まるようになりました。
      宋朝:西暦960年からおよそ320年。
      南蛮より:簡便辞書を引くと、木綿は〔インドから台湾にかけての熱帯地方の原産〕とあるので、ここではインドあたりを指しているのでしょう。
      百年以前:『農業全書』の刊行が元禄十(1697)年、ちなみに『会津農書』は貞享元(1684)年。 百年以前ということは、1597(慶長二)年以前、蒲生氏郷(がもううじさと)の没年(文禄四(1595)年)あたりの時代ですね。

    南北東西いづれの地にも宜しからずと云ふ事なし。 其中に付て河内、和泉、摂津、播磨、備後、凡土地肥饒なる所、是をうへて甚だ利潤あり。 故に五穀をさしをきても是を多く作る所あり。

    日本国中どんな土地でも育たないということはありませんが、河内、和泉、摂津、播磨、備後などが特に有名です。 肥沃な土地のある所で生産すれば換金作物として大変利益のでるものです。 それなので、穀物を生産しないで、綿を多く作る地方があります。

    唐には木と草との二種あり。 木は大きさ一かいばかりもありて其枝は桐に似て葉のなりは胡桃のごとし。 秋花をひらき、實を結び、大きさ拳のごとしと記せり。
    今作るは草なれども、此ゆへに木綿と云ふなるか。 されども木は其功劣ると見えて、をしなべて草綿を作る事也。

    唐には、の二種類があります。 木は大きさが一抱えほどもある太さで、枝は桐の木に似ていて、葉の形や付き方は胡桃(クルミ)のようです。 秋に開花して結実し、その大きさは拳ぐらいの大きさがあると書いてあります。
    現在(元禄時代)の日本で生産しているのは、草(草綿/アオイ科ワタ属)ですが、元々は木の方の木綿(パンヤ科の落葉高木)が由来しているので、“木綿(もめん)”と言うのでしょう。 木綿よりも草綿の方が良かったらしく、日本国内ではもっぱら“草”の方の綿をを栽培しています。
      大きさ一かいばかり:“一抱えほど”と解釈してみました。 木綿は〔高さ約三〇メートルに達する〕とありました(簡便辞書より)ので、太さを想像しました(^^;。
      日本では、元禄時代の百年以前ということで、前項で蒲生氏郷を対照させましたが、それは簡便時書にも、 漢名は草綿、〔日本には平安初期に伝わったことがあるがすぐ絶え、戦国時代から江戸時代に一般に栽培されるようになった。〕とあるのです。 大体合ってますよね。有用な換金作物でもあります、とすると、会津に持ち込まれたのは、そのころに蒲生氏郷が近江の国から!ということはなかろうかと、妄想。


    木綿以前の事
    百穀に次いでは衣服のそなへなくてかなはぬ事なれば、先これを専ら作るべし。 古木綿未だわたらざる時は、庶民は云ふに及ばす、貧士も絹をきる事ならざる者はたゞ麻布を以て服とし、 冬の寒氣ふせぎがたくして、緒人困苦にたへず、

    主食となり住材ともなる穀物類に次いで、衣も充実しなければなりませぬ!(意訳し過ぎ)。 古(いにしえ)のころ、もめん(木綿)がまだ日本になかった時代は、平民はもとより下級役人などは身分によって絹布を着る事が許されなかったのです。 麻布が着物だったのです。 庶民や下級官吏どもは、冬は寒さに打ち震えて、大変な苦労をしたのです。
      庶民:庶民がここに出てきました。

    上に仁君あれども、漸く五十以上の者のみ帛(きぬ)をきる政ありて、 それより下の年比にてはいまだきぬ綿をきる事あたはず。 ことに近來は人民多く成り、蠶をかひたるばかりにては、末々まで行きわたるべからず。

    ある時代には心ある仁政をしいて国の法制を改めた藩主もおりました。 それでもやっと50歳以上の国民(住民)だけは絹(きぬ)の着用が許されましたが、50歳以下の人は今だに絹綿(きぬわた)を着用することはご法度です。 それにつけても、近世(元禄時代から見た近世)は国民人口も増大しました。 それで蠶(蚕/かいこ)を飼うだけでは、国内の隅々にまでは到底行き渡らないことになります。
      上に仁君あれども:この仁政の人は、おそらく保科正之のことではないかと妄想。 『農業全書』の著者、宮崎安貞と貝原益軒と貝原楽軒(益軒の兄)は、ほぼ保科正之と同時代で重なるのですネ。

    幸にして此物いでき、賤山がつの肌までをおほふ事、誠に天恩のなす所にして、 是れ則ち天下の霊財と云ひつべし。 しかれば綿を作り出す法を委しくしりて、民用ともしからざる様にすべき事、 是又上に立てる人の天意にうけ順ひ、民を憐む仁政の一端にして、國家の急務なるべし。

    (そんな時代に)幸いにして、木綿(もめん)が移入され栽培されたのです。 それで日本国中に広まり山中生活者「やまがつ(山賤)」までもが着られるようになるほど、まさに天の菜配ともいえるでしょう。 そんな木綿の栽培方法を委細に知り、民用としてもどしどし活用させるようにすべき事なのです。 人民の上に立とうという為政者は、これを「天の声」と受け止めなければなりません。 それが人民を慈しむ徳政の一つであり、国家の喫緊たる(為政者としての)義務であり、急務なのです。 (TPPじゃねぞ!このやろ!)とは書いてありませんがついつい。
      賤山がつ:「山賤」と書いてやまがつと読みます。
      南蛮より:簡便辞書を引くと、木綿は〔インドから台湾にかけての熱帯地方の原産〕とあるので、ここではインドあたりを指しているのでしょう。
      百年以前:『農業全書』の刊行が元禄十(1697)年、ちなみに『会津農書』は貞享元(1684)年。 百年以前ということは、1597(慶長二)年以前、蒲生氏郷(がもううじさと)の没年(文禄四(1595)年)あたりの時代ですね。
      ちなみに会津には「会津木綿」という名産品がありました。 これは、蒲生氏郷の時代からほぼ二百年後の寛政時代(1789−1801)のこと、 会津の家老・田中三郎兵衛玄宰(さぶろべえはるなか)が創り上げたらしいです。 素材としての原料ではなく、染と模様と織物、布としての地産製品「会津木綿」としての流通市場を創ったのでした。 そして、平成の現代に「会津木綿」は、再び見直されているそうです。
      (以下はカンケブログより引用)
      311後に会津若松に避難された大熊町 の人たちが小物加工されたり、南会津の小さな手仕事のグループがボタンやクリップを製作されています。

    しかりといへども、畿内近方は其術を得て多く作り出せども、 遠國の末々は今も其作りやうおろそかにて、事たるほど作り出す事なく、 科(とが)を土地と風氣におほわせてやみぬる事是多し。
    取分き木綿は作る法委しからざれば、實りあしき物なるゆへ、 其事詳に何れの農書にもしるしをけり。

    そうはいっても、畿内地方近辺では木綿栽培技術が行き渡っているので大量生産が出来ていますが、 地方では現在も栽培方法に疎くて、利潤が出るところまでの技術に至っていません。 それで、やってはみたものの、上手くいかない理由を「土地の風土や気候のせい」にして止めてしまう事例が多いのです。 木綿は特に栽培の仕方によって、収穫に大きな差がでるのです。 このことは、どの農書を見ても詳らかに書いてあります。

    『農業全書巻之六 三草之類 木綿(きわた) 第一 1節』(P.209〜210)
    木綿(きわた)2節

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【木綿(きわた) 第一 17節】
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【木綿(きわた) 第一 18節】
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【木綿(きわた) 第一 9節】
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【木綿(きわた) 第一 3節】
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【木綿(きわた) 第一 19節】
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【木綿(きわた) 第一 4節】
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【木綿(きわた) 第一 5節】
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【木綿(きわた) 第一 11節】
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【木綿(きわた) 第一 12節】
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【木綿(きわた) 第一 13節】
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【木綿(きわた) 第一 21節】
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【木綿(きわた) 第一 20節】
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【木綿(きわた) 第一 22節】
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【木綿(きわた) 第一 23節】
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【木綿(きわた) 第一 6節】
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【木綿(きわた) 第一 14節】
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【木綿(きわた) 第一 24節】
    三草之類 木綿(きわた) 第一 24節

     畿内の人、木綿を作る法の大概を口づから人にをしゆるはたねをゑらぶ事委しく、 うゆる時分、四月の節の前後、一日も早く二葉よりも糞を入れ、心葉を見ると草かじめし、 中うちさい/\懇にし、 間を遠く間引立て仕舞糞し、培ひて猶草あらば取去り、 畦中をきれいに掃除して綿の初ぶきを見ると梢留めて桃數おほくなり付きて、 風雨の難もなき年は富を得ることうたがひなし

     畿内地方の人が、木綿の作り方の概略を口伝で教えるときにはこんな風に言ってます。
    種子は詳しく選別します。
    種子蒔きは4月の節の前後です。
    1日も早く、二葉の時からコヤシを入れます。
    芯葉が見えたら草かじめと中うちは何度も丁寧にします。
    間隔をあけて間引きをして、仕上げの施肥をします。
    培う時に草があったら取り去ります。
    畦の中はいつもきれいに掃除をします。
    綿の始めの花が咲いたら梢(こずえ)を留めると、花の数が多くつくようになります。
    雨風の被害が無い年は、これで成功間違い無しです


    『三草之類 木綿(きわた) 第一 24節』(P.217)了
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【水畜(すいちく) 3節】
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【水畜(すいちく) 4節】
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【水畜(すいちく) 5節】
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【水畜(すいちく) 6節】
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【水畜(すいちく) 7節】
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【水畜(すいちく) 8節】
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【水畜(すいちく) 9節】
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【水畜(すいちく) 10節】
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【水畜(すいちく) 11節】
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【水畜(すいちく) 12節】
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【水畜(すいちく) 13節】
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【水畜(すいちく) 14節】
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【水畜(すいちく) 15節】
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【水畜(すいちく) 16節】
    生類養法 水畜(すいちく) 第四 16節

     魚の虱(しらみ)
     又小池の魚に虱の付く事あり。 松葉を多く池の中に入るべし。たちまち蟲除く物なりとしるし置けり。

     小池の魚に虱(シラミ)が付く事があります。 そのときには、松葉を沢山池の中に入れます。 忽ちにして虫は居なくなる、と書いてあります。

    『生類養法 水畜(すいちく) 第四 16節』(P.331)了

      『偽歌農書』

      ♪池にシラミが 涌いたなら
         松葉を池に 投げ入れよ
         虫は残らず 消ゆるものなり


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【農業全書 解説 (五)−1 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (五)−2 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (五)−3 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (五)−4、5 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (五)−6 土屋喬雄】
     宮崎翁の遺跡をたづね、墓に詣うで、頌徳碑を仰いだ後に、今私が岩波書店の需に應じて、 本書を校訂して文庫本として翻刻するのは、私の最も尊敬する古人の一人たる宮崎翁の功績を、 村人や郷土人のみならず、あまねく我國人と共に想起せんとの微意に出づるにほかならないのである。

    (昭和十年七月二十三日、宮崎翁逝きてより二百三十七年の忌日において記す。)


    農業全書 解説 土屋喬雄
    (P.15)了
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【風信雲書 佐々宗淳 1〜9節】
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【風信雲書 佐々宗淳 10〜16節】
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【風信雲書 佐々宗淳 17〜21節】
    風信雲書 17〜21節

    叔世弊風可勝悲哉。
    由是観之。
    之稱歎不亦宜乎。
    山川脩阻會面何日。
    臨書悵然。

       丁丑十月二十一日  佐々宗淳拝
    損軒貝原大兄足下

    『風信雲書 10〜16節』(P.19)了
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【麻苧(まを) 第二 /1節】
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【麻苧(まを) 第二 /3節】 16/07/09 リンクミス訂正
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【麻苧(まを) 第二 /2節】 16/07/09追記
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【麻苧(まを) 第二 /4節】
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【麻苧(まを) 第二 5節】
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【麻苧(まを) 第二 6節】
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【麻苧(まを) 第二 7節】
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【麻苧(まを) 第二 8節】
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【麻苧(まを) 第二 9節】
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【麻苧(まを) 第二 11節】
    三草之類 麻苧(まを) 第二 11節

     カラムシの薬効
     又此葉をもみ、或は根をくだきすりて癰疽にぬれば、膿きえ去りて、よくいゆる名譽の藥と記し置けり。

     この葉を揉んで、または根を砕いて摺って、デキモノ(癰疽、ようそ、はれもの、ふきでもの)に塗ると膿が消えて無くなり、良く効く優れた薬です、と書いてあります。

    『三草之類 麻苧(まを) 第二 11節』(P.221)了
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【雌木雄木(めぎ・おぎ)】
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【麻(あさ) 第三 1節】
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【麻(あさ) 第三 2節】
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【麻(あさ) 第三 3節】
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【麻(あさ) 第三 4節】
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【麻(あさ) 第三 5節】
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【麻(あさ) 第三 6節】
    三草之類 麻(あさ) 第三 6節

     麻の実の採取
     實りて切取る事は霜の下るを見て甚だふとくば鋸を以て引切るべし。 枝を落し干乾し蕎麥や胡麻をうつごとくしてこなすべし。

     麻(油麻)が実ってから切り取る時期は、霜が下りる頃を見計らいます。 幹(茎)がとても太いときには、ノコギリで挽き切ります。 枝を落して、乾燥させて、蕎麦や胡麻の実を取る時の要領で叩いて取ります。

    又小豆の跡にうゆれば、よくさかへ取り實多き物なり。
    夏至(五月の中なり)の前十日にうゆるともあり。

    麻は小豆(あずき)の跡に植えると、よく繁茂して実の取り分も多いです。
    麻は夏至の10日前に植えるとも書いてある。


    山付の土地の深きをよく耕し廣く作るべし。 鹿鳥も付かず、作りよきものなり。

    山裾の深土の場所を良く耕して、広く作ると良いでしょう。 鹿や鳥の害にも遭わないので、栽培し易いです。

    『三草之類 麻(あさ) 第三 6節』(P.223〜224)了
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【山椒(さんせう) 第十七 2節】
    菓木之類 山椒(さんせう) 第十七 2節

    140810_山椒
     植え方
     うゆる法、よく熟し自(おのづか)ら口をひらきたる実を取置きて、二三月の間肥地を畦作りし、 細かにこなし水をそゝぎてひいらせ置き、種子を麻の蒔足(まきあし)ほどにちらしまき、土を覆ふ事厚さ一寸ばかり、又其上より熟糞をふるひかけ、少したゝき付置き、旱せば水をそゝぎ、常に畦の中をかはかすべからず。

     植える方法です。 良く熟して自然と口の開いた実を取っておきます。 2、3月頃に肥地を耕して、細かにこなしてから水を潅いで、日に当てて(すこし乾かして)おきます。 種子は、麻の種子の蒔き方のように散らし蒔きします。 土を1寸ほど覆います。 その上から濃肥を掛けて、少し叩き付けておきます。 土が乾いたら潅水をして、いつも畦の中は乾かないようにします。蒔き足(まきあし)ことは、→蒔足(まきあし)

    手風に触れるな
    生へ出でて高さ四五寸の時、雨を得て移しうゆべし。 尤根に土をよく付け、細根のきれざる様に掘り取るべし。 たねの時も生へ出でて木と成りても手を觸るゝ事を忌む物なり。 つねに用ゆるにも手風を觸るれば必ず味も香も変ずる物なり。 壷箱などに入れをきて、さい/\手をふるべからず。

    生えてから4、5寸ほどの高さになったら、雨時を見計らって移植します。 根の土は付けたままで、細根が切れないように掘り取ります。 山椒は種の時も木になってからも人の手で触らないようにします。 常用で使う山椒も手で触ると味も香りも変わってしまいます。 壷箱などに入れて、むやみに手で触らないことです。

    移植時の養生について
    又大(ふと)き木をうゆるは春掘り取りて水うへにする事つねのごとし。 此木取分き寒氣をおそるゝゆへ、枯草わらなどを以ておほひ包みをくべし。 但日のあたらぬ所にある木は包まずしても痛まず。 常に冷(すず)しき事になれたる故なり。 然ば草木さへ此のごとくなれば、人の少(をさ)なき時よりの教へならはしは誠に大切の事なりと云へり。

    太くなった木を移植するには春に掘り出して水植えにします。 この頃の山椒の木は特に寒さに弱いので、枯草や藁(わら)などで包んで保護します。 ただし、元々日の当らない場所にあった木は、包まなくてもかまいません。 既に冷気に慣れてしまっているからです。 こほん、しからば、草木でさえこういうわけであるので、ましてや人においては、幼少の頃からの教えや習慣、躾は全くもって大切なことなのです

    教育の大事さについて一席ぶつ
    抑かゝるかりそめの事につきても、心あらん人は、貴きも賤しきも、 子ををしへそだつる道に専ら心を用ゆべきものなり。 國天下はさらなり、四民の小人にいたるまで家を興し家を亡ぼす事、 皆其子の善惡賢愚によらずといふ事なし。 よく考へ心を用ゆべし。

    かくの如くに些細な事についてでも、貴賎を問わず心ある人は、子供を教え育てる事にはこのような心配りをすべきなのです。 天下国家の事はもとより一般国民に至るまで家を興すも亡ぼすも、すべて次世代の善悪や賢さ愚かさに起因することでもあるのです。 教育とはそういう心配りが大事なのです。

    漬け山椒の作り方
    さて漬けざんせうは、子のいまだ堅からざる時、五月の比取りて水に一夜漬けをき、苦みを出し、其後鹽水に漬くべし。 半黄の梅と同じく漬けてはなほ宜し。

    さて、漬け山椒の作り方ですが、実がまだ堅くなりきらないうちに五月頃に採取して、水に一晩つけて苦みを出してから、その後で塩水に漬けます。 黄色い梅の実と一緒に漬け込むのはもっと良いです。

    『菓木之類 山椒(さんせう) 第十七 2節』(P.286〜287)
    山椒(さんせう)3節 へ

    山椒。奥会津の家のそばには殆んどどこにでも山椒の木はある。

    山椒2015年5月5日。
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【山椒(さんせう) 第十七 3節】
    菓木之類 山椒(さんせう) 第十七 2節

     干しサンショと皮サンショ
     干山椒は七月あかくよく色付きて後、天氣のよき時とりて薄く攤げ、干晒し、 一日の中に干て口をひらき、しめり氣なくよくかはきたるを即ち收めをくべし。 湿氣にあはすべからず。
    又花ばかり咲きて實らざる木あり。 是は春皮を剥ぎ取り、から皮となし、灰汁にてざつと煮てあら皮を去り、浄く洗ひ、鹽醤(しほみそ)に漬け置きて用ゆべし
    (山椒を蔵めをく事は、少しならばよくもつ徳利に入れ、ふだん火を焼くほとりにをくべし。 又紙袋に入れ、早田(わせ)わらに包み、火たく上につりをきたるよし。 多きはよくもつ壷につめをきたるよしといふ)

     干山椒は、7月に赤くよく色付いてから、天気の良い日に取って、薄く広げで晒し干しをします。 一日で乾いて口が開きます。 湿り気が無くなり良く乾いたら保管します。 くれぐれも湿気に注意。
    また花だけ咲いて実らない木があります(雌雄異株)。 これは春に皮を剥ぎ取って、辛皮(からかわ)にして、灰汁(あく)でざっと煮沸して粗皮を除去し、きれいに洗って、塩醤油に漬けて保存します。
    山椒を保存しておくには、少量であれば徳利に入れて、普段に火を使う場所のそば(囲炉裏など)に置きます。 または、紙袋に入れて、早稲藁(わせわら)で包んで、火を焚く上(囲炉裏の上)に置く。 大量であれば、壷に詰めて保管すると良いといいます。
      辛皮(からかわ)とは、山椒の若い小枝の樹皮。 それを塩漬けにしたものが、辛皮漬で、塩出しして醤油で煮付けて酒の肴になる。
      よくもつ徳利よくもつとは?
      保存用容器としての徳利と壷の両方に、よくもつとわざわざ明記しているので、これは何かと考えた。 どうやらこれは、水の漏れないとか、素焼きの器ではなく、湿気を通さない器という事ではないかと思い至りました。

    『菓木之類 山椒(さんせう) 第十七 2節』(P.287〜289)了
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【山椒(さんせう) 第十七 1節】
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【蚕豆(そらまめ) 1節】
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【蚕豆(そらまめ) 2節】
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【蚕豆(そらまめ) 3節】
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【蚕豆(そらまめ) 補筆】
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【農業全書 解説 (二)−1 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (二)−2 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (二)−3 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (二)−4 土屋喬雄】
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【農業全書 解説 (二)−5 土屋喬雄】
     かくて本書は、上述の如き意味においては我國最初の農書であり、しかも大いに時代の要求に適せるために、忽ち廣く流布し、農書の代表となり、當時農業が主要産業であつて、人口の少くとも八割以上が農民であつたことを思へば、その影響の大なる測るべからざるものがあらう。

    農業全書 解説 土屋喬雄
    (P.8)了
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